島田荘司『ロシア幽霊軍艦事件』から続けます。
御手洗らは箱根登山鉄道で宮ノ下駅を降り、徒歩で箱根富士屋ホテルに到着しました。<蝉の声がしきりに降る中、緑の中央に口を開けたようにしてある石段を登る。すると赤い欄干の小さな日本橋があって、これを渡るとまた石段がある。木洩れ日がちらちらとさし、涼風が渡ってくる。>
正面玄関へと続く石段です。
<玄関を入って進むと、また赤い手摺の和風趣味の階段があり、ここをあがっていくとサンルームで、その先にフロントがあった。チェックインをすませて尋ねると、ここは本館で、われわれのために用意された花御殿は別棟だから、廊下を通ってかなりの距離を歩くらしい。確かに規模が大きい。>
明るいサンルームは「オーキッドラウンジ」と名付けられており、ここでゆっくり寛ぐことができました。
けやきの一枚板に源頼朝の「富士の巻狩」が彫り上げられ旧フロントカウンターが、今も残されていました。
フロントでチェックインを済ませると、私も今回は昭和11年に建てられた花御殿での宿泊です。
<ホテルマンに示された方向に歩くと、赤い絨毯の敷かれた細い廊下に出る。左方向に進むと、途中の壁に美智子皇后が、若い頃にご両親と三人でこのホテルに滞在された際の記念写真とか、明治、大正、昭和期の富士屋ホテルを訪れたVIPの写真が、たくさん額に入ってかかっている。なるほどこれなら、大正期の不思議な写真がどこかにあっても不思議はない。>
小説に書かれている通りの赤い絨毯の廊下です。
昭和33年11月3日の御写真ですが、ご成婚は翌年4月でしたので、その時はご家族水入らずでどのようなお話をされていたのでしょう。
小説では創設者山口仙之助は関内の居留地九番にあった洋食レストラン『ナンバー・ナイン』の息子とされ、、岩倉使節団が横浜を発つ直前に、ナンバー・ナインが火事になったことから、使節団に入れてもらいます。
<「それで仙之助には家がなくなってしまって、店に時々食事に見えていた岩倉さんを頼って従者にしてもらって、使節団に無理に加えてもらたということのようでした」御手洗は驚いている。「明治四年でしたね。大変なメンバーだったようです。岩倉具視。木戸孝充、大久保利通、伊藤博文、団琢磨なんて人もいましたね」>と書かれています。仙之助が岩倉使節団に入っていたことは知っていましたが、こんな経緯だったとは。
岩倉使節団には津田梅子、大山捨松ら女性陣も加わっておりました。
<「はい、しかし山口仙之助は、これは頼み込んで連れて行ってもらった口で、ただの平民です。一人だけ官費留学ではありません。ほかはみんな武家、士族の出ですね。だからサンフランシスコにあがって、みなさんアメリカ各地のホームステイ先に散っていくんですが、仙之助はお金がないので働かなくちゃなりませんで、ずっとサンフランシスコに留まって、皿洗いから始めて、レストランやホテルで働くんです」>とかなり苦労されたようです。
写真はホテルの裏庭にある山口仙之助の胸像です。
仙之助についてWikipediaで調べますと、<漢方医を家業とする大浪昌随の五男として武蔵国橘樹郡大根村(現神奈川県横浜市神奈川区青木町)に生まれる。外国人向け遊廓「神風楼」の経営者・山口粂蔵の養子となり、江戸・浅草の小幡漢学塾で学んだ後、維新の際に横浜に出て商業を研究。>となっています。
山口由美著『箱根富士屋ホテル物語』でも、<「神風桜」-その名前は富士屋にとって、決して人に語ってはならないタブーとして存在していた。世界の賓客が泊まる名門ホテルが遊郭の出身だなんてことは、抹殺し、闇に葬り去りたい事実だと考えられていたからだ。しかい、横浜で居留地の外人を相手に商売をしていたからこそ、一平民である仙之助の目が大きく外に開かれたのだろうし、そこで得た富があったからこそ、その野望は現実のものとなった。>と書かれていました。
しかし岩倉使節団とともに渡米したのは間違いありません。仙之助が帰国後、箱根富士屋ホテルを開業したのは明治11年、27歳の時でした。
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