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Channel: 阪急沿線文学散歩
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玉岡かおるさんの寄宿舎生活(『恋をするには遅すぎない』より)

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 玉岡かおるさんは『恋をするには遅すぎない』で神戸女学院大学時代に学内にあった寄宿舎生活について述べられています。 第一章「走れ、恋人」の「門限までを駆け抜けろ」からです。 <私が大学生だった頃、プロテスタント系の女子大の、学内にある寄宿舎に住んでいたことがある。原則として下宿は禁止、自宅もしくは親戚宅から通学する、というのが入学の規定で、それが不可能な地方からの入学者は、全員寄宿舎のに入ることが申し渡されていたから、当然、そこには厳しい門限がさだめられていた。今言うとみんな「うそぉ、信じられなーい」と驚きの声を上げるのだが、なんと午後六時というのがそれだった。>  ヴォーリズの設計した平面図を見ると、菱形の寄宿舎は、キャンパスの北端にありました。 そこでは友達同士のかばいあいなどで門限のやりくりをしていたそうです。最終の門限だけは、みんな必死で帰ってきたものの、それでも遅れて帰る学生がいたそうです。<なんといっても十時のチャイムが鳴ると同時に班毎に点検があり、皆がそろっているのを確認してお祈りをあげて就寝、ということになるので、その時間に帰っていないと、文字通り門に錠がおろされて、ロックアウトということになってしまう。若い女の子ばかりの住まいなので、とりわけその点には厳しかったのだ。> 寄宿舎では部屋に複数の学生が擬似家族のように暮らし、お互いの呼び方も独特でした。<寄宿舎は大学の勉強だけではできない生活面での教育をする場所、という考え方だったから、部屋はそれぞれ複数の学生が暮らす共同生活だった。その一例として、ここには伝統的な、素朴ながらも面倒な、人間関係が受け継がれていて、部屋の中の一番年上の者を「親さま」と位置づけ、年少者を「お子さま」、中間の者を「姉さま」と呼ぶことになっていた。>そういえば、時代はかなり古くなりますが「花子とアン」でも、同じプロテスタント系の女学校、修和女学校(東洋英和)では上級生は「大きい方」、下級生は「小さい人」と呼ばれる習わしがあったとか。カトリック系の女学校ほどでなくとも、やはり躾には厳しかったようです。 余談ですが、修和女学校のロケ地は明治村の北里研究所本館・医学館でした。    玉岡かおるさんが暮らされたヴォーリズ建築の寄宿舎は阪神淡路大震災で倒壊し、今は残っていませんが、吉永小百合さんの主演映画『あすの花嫁』に建物の映像が残っていました。   <それにしても、懐かしい寄宿舎も、阪神淡路大震災で全壊し、今はあとかたもない。更地に再建されたのは、時代の趨勢に応じて不自由な規則を取り払った、個人部屋のワンルームマンション式の寮だった。 遅く帰る友人を玄関でそろって待つという風習などはもうないだろうし、…….そしてセキュリティだけが迅速に働いて、誰をわずらわせることなくすべて解決するのだろう。 いつまでも、同じものはありえない。日本人がこだわってきた、無常観というのは、おそらくこのことを言っている。>  神戸女学院ホームページによると現在の学生寮は1997年3月に再建されたもので、明治末期より40余年にわたり宣教師として神戸女学院の発展に尽力されたストウ姉妹に因んで『メアリー・アンド・グレイス・ストウ学生寮』と命名されているそうです。 渡り廊下は、昔の雰囲気を残したものなのでしょうか。    玉岡かおるさん最後を次のように結び、素敵な文章で現在を懸命に生きる大切さを述べていました。<そして、ここで自分が誰かを好きになったり、いらいらしたり騒いだことも、どんどん変わる時代の波に、いつか押し流されて記憶の淵から消えていく。 ならばなおのこと、今を、懸命に走ってみるしかないだろう。門限つきのこの時を。>  

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