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Channel: 阪急沿線文学散歩
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岩谷時子さんも須賀敦子さんも感傷深く語る「ティペラリィ」の歌

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 岩谷時子さんは『愛と哀しみのルフラン』の「お金はないけど愛があった」というエッセイで、父上の思い出を語り、「チッペラリー」の歌について述べられています。  岩谷さんが西宮に住んでおられた頃の話です。<父は運の悪い人だった。時勢にのりおくれ、人に騙され、仕事も転々と変わった。世の中も不景気だった。私たちは決して豊かではなかったが、家の中はいつも平和だった。> 岩谷さんの大好きな父親は童話の代わりに怪談を聞かせたそうですが、歌についても<童謡の代わりに歌ってくれたのは「チッペラリー」という歌で、他にはイギリスやフランスの国家、そして浅草オペラの歌かと思われる「おてくさん」「ベアトリネエチャン」などだった。前の三曲は原語で毎日聞かされたので、何語ともわからないメチャクチャ語だが、今でも歌詞を覚えている。> 「チッペラリー」「おてくさん」「ベアトリネエチャン」が収められたCDがコロムビアミュージックショップで販売されていました。    岩谷さんは神戸女学院を卒業し、宝塚へ引っ越されます。その家で父親が亡くなり、遺骨を父親の生まれた島根県の祖父母が眠る墓地に埋葬し、宝塚に帰ります。 <父がいなくなった宝塚の家へたどり着いた私は、ひとりで二階へ上がり、屠られたけもののように畳に横たわり、声をころして泣いた。郷里にとどまって結婚することを、私は恩ある人にすすめられながら、帰ってきてしまっていた。父が歌ったチッペラリーへの道が、どんなに孤独で遠いものかも知らないで….。>と最後の文章は「チッぺラリー」で結ばれています。    この曲は須賀敦子さんにとっても印象深い歌であったことが『夜半の歌声』で述べられています。母親が麻布の家で、はしかで熱のある小さな弟を抱いて「ティッペラリィ」をくちずさんでいた様子です。 <母が弟を抱いて歌うと、ならんで敷いたふとんのなかから、私と妹も声をあわせて歌った。英語の歌だから母も私たちも、歌詞の意味がぜんぜんわかっていないし、だいいち、ちゃんと歌詞がうたえているのかどうかも、まったくおぼつかない。………イッツァロングウェイ、トゥティッペラリィティッペラリィイッツァロングウェイ、トゥゴォ> <本来は行進曲ふうの歌なのだろうが、母がうたうと、軽いリズムが風に舞う花びらのようだった。弟が重いので、母はときどき、ヨイショとか、ホイサッというかけ声のようなのを歌詞の間にはさんで、私たちを笑わせた。 それ、いったいなんの歌なの?とたずねても、返事はいつも、パパに教えてもらったの、イギリスの古い歌ですって、欧州大戦のときの、と言うだけだった。アイルランドのティッペラリィという都会に連隊があったという話を聞いたのはずっとあとのこことで、これとドイツの映画で評判だった「会議は踊る」の主題歌と、もう一つはシューベルトの子守歌。この三つが、私たちにとっての、母の歌だった。> 「ティペラリーの歌」は第一次大戦時に英軍でよくうたわれた愛唱歌で、1912年につくられた望郷の歌とのこと。 世代の違う岩谷さんと須賀さんが、このように語られるティッペラリィの歌、戦前の日本でよほど流行ったのでしょう。   It's a long way to Tipperary,It's a long way to go.It's a long way to TipperaryTo the sweetest girl I know.Goodbye Piccadilly,Farewell Leicester Square,It's a long long way to Tipperary,But my heart lies there. 遥かなティペラリーよ、そなたへの道程は遠い。遥かなティペラリーよ、そこなる愛しき娘子よ。ピカデリー街がなんだ、レスター広場よさようなら。ティペラリーへの道は長くとも、思いはいつも かしこにぞある。

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