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Channel: 阪急沿線文学散歩
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戦前、戦中のユダヤ人協会の様子(『ある愛の旅路』)

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白系ロシア人のポーラ・ネニキスは昭和15年、新婚旅行と母の療養を兼ね、神戸・山本通りの借家に長期滞在します。 昭和15年といえば、既に国際連盟を脱退し日中戦争が始まっていましたが、太平洋戦争突入前の年です。神戸では米やパンが配給制になっていたそうで、町には神戸に住んでいる外国人のための配給センターがあり、野菜やくだものはここで入手し、パンは外国人用のクーポンを発行してもらい、町で買ったそうです。 ある朝のこと、ポーラが配給センターに行くと、ユダヤ人らしい女性から、ユダヤ人ばかりで作っている社交クラブへ来ないかと声をかけられます。カトリック教徒だったポーラの一家は断られるのでは心配しましたが、快く受け入れてもらいます。ポーラさんの家と配給センター、ユダヤ人クラブ(ユダヤ人協会)の地図が掲載されていました。<社交クラブは、うちから坂道を下ってすぐのところにあった。二階建てのごくありふれた洋館で、玄関を入ると、三十人ばかりが坐れる天井の高い広間があり、そこがみんなの集会場になっていた。コックもいて、コーヒー、紅茶、サンドイッチのサービスにあたっている。すでに二十人近くの会員が、あちこちのテーブルを囲み、チェスだのポーカーだのを楽しんでいた。言葉は英語だったが、メンバーの中にはロシア人もいて、大歓迎されたものだから、トランプの好きな母と私は大喜び。賭け事の苦手な夫までもが、女性ばかりのテーブルを選んでいそいそとポーカーをはじめたので、おかしくなってしまった。>この頃ユダヤ人協会はユダヤ人の社交クラブとして使われていました。 ポーラさんとご主人のジョーとポーラさんの母親の三人は、昼のうち中山手三丁目から市電で神戸探訪、夜になると社交クラブへ通ったそうです。 その後しばらくして、一家は満州国ハルピンに帰国しようとしますが、母親のビザ申請がうまくいかず、しばらく日本に滞在することになり、覚悟を決め、同じ山本通の二階建ての洋館で部屋数の多い借家に引っ越します。 昭和16年の秋、ドイツやポーランドからアメリカに亡命する数百人にのぼるユダヤ人を乗せた船が神戸に入港し、アメリカ行きの船が出るまで、神戸に滞在することになります。その時神戸にそれだけ受け入れる施設もなく、ポーラさんも自分の家に11人ものユダヤ人を受け入れたそうです。そして、その年の12月8日に日米開戦となるのです。 さてこのユダヤ人協会は『アドルフに告ぐ』にも登場します。手塚治虫のことですから、ユダヤ人協会の写真をもとに、絵を描いているのかもしれません。どこにあったのか調べてみると、山本通一丁目の一宮神社北側の路地にあったそうですが、戦前の面影は残念ながらまったく残っていませんでした。黄色の丸印のあたりです。次回は太平洋戦争が始まってからのポーラのお話を続けます。

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