Quantcast
Channel: 阪急沿線文学散歩
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2518

戦時中の神戸の外国人たち(『ある愛の旅路』)

$
0
0
ポーラ・ネニスキス『ある愛の旅路』に神戸に住む外国人たちの戦時中の生活が述べられています。<開戦と同時に、神戸在住のアメリカ人やイギリス人、オーストラリア人など、日本と敵国の国籍を持つ外国人は、いっせいに、神戸のあちらこちらに設けられたキャンプに強制収容された。もちろん、わたしたちには、そのキャンプがどこにあるのか知らされていなかったけれど、六甲の山の中だとか、神戸市内のビルだとか、そんな噂が社交クラブや配給センターで会う友人たちからも伝わってもきた。> 一方、敵国人でない外国人はそのまま滞留が許されていました。<日本の敵でも味方でもない中間国の外国人は、ひとつところにまとめられるようなことはなかった。白系ロシア、リトアニア、ユダヤ人たちは中間国人と見なされ、ユダヤ人の社交クラブは戦時中も、つぶされずにあった。> 上の写真のドイツ人倶楽部のコンコルディアは当然存続していましたし、すぐ近くにユダヤ人クラブ(ユダヤ人協会)があり、日本ではユダヤ人もドイツ人も違いなく接していたそうです。上の図は山本通東公園の小磯良平邸跡の掲示ですが、ドイツ人クラブ・コンコルディアは小磯邸の西側、ユダヤ人協会は小磯邸の東側にありました。 上田浩二・新井訓『戦時下日本のドイツ人たち』にはクラブ・コンコルディアでナチ党主催の感謝祭の集いが開催されていたことが記されています。アーリア人種ではない日本人がナチスの人種イデオロギーにくみしなかったのは当然のようにも思われますが、日本でもナチ党が結成されていました。 また神戸の町には、日本への忠誠を探るような「踏み旗」があったそうです。<町で、踏み絵ならぬ、“踏み旗”がはじまったのに唖然としてしまった。外国の商館や船員クラブのある元町通りと、配給センターに近い加納町の通りだけしか見られなかった光景だが、アスファルトの通りに、ご丁寧にも色チョークで、星条旗と大英帝国旗が大きく描かれている。わたしは買い出しに行く途中、偶然目にしたのだが、チョークの国旗をよけて歩く日本人がいると、どこに隠れていたのか、日本の憲兵がばらばらとあらわれてひっ捕らえ、まとめてトラックに乗せ、どこかへ運んで行ってしまった。> 当時東遊園地の管理棟付近にあった神戸レガッタ・アンド・アスレチック・クラブは戦時中も開かれていたようです。<神戸にはKRAC(コウベ・リガッタ・アスレチック・クラブ)という外国人ばかりのスポーツ同好クラブがあった。このクラブのシャワーは、給水制限がはじまったというのに、いつでも不思議にお湯がたっぷり出る、と、友人たちから聞いていた。シャワーの好きな夫と私は、お湯を浴びたさに、さっそく入会する。>明治3年に発足し、日本の近代スポーツ発祥とされるKR&ACは1962年からは磯上公園に拠点を移し、現在まで存続しています。ポーラはKR&ACの女性会員からミスター・Kというドイツ人を紹介されますが、彼が実はゲシュタポだったのです。そしてそれが悲劇の始まりとなります。それは次回に。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 2518

Latest Images

Trending Articles