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Channel: 阪急沿線文学散歩
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戦時中神戸に住んでいた外国人の記録『ある愛の旅路』

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神戸の外国人倶楽部の歴史などを調べるうちに、戦時中の外国人の暮らしはどんなだったろうと興味を持ち始めました。「これは、神戸に住む異邦人のわたしが歩んだ人生の偽りない記録である。第二次大戦中の神戸で、わが家を襲った悪夢のようなできごとをはさみ、わたしはここにしるしたままの日々を送ってきた」と述べられている、ポーラ・ネニスキス著『ある愛の旅路』はロシア人女性の数奇な運命の記録でした。  著者の父ウラディミールは全ロシアの砂糖を一手に扱う大製糖会社を経営、母マリアは開業の歯科医でしたが、ロシア革命のすぐあと、ハルピンに居を構えていました。 著者のポーラはハルピンのカレッジでリトアニアの名門の出のジョーと出会い、上海で暮らすようになりますが、新婚旅行とポーラの母親の転地療養を兼ねて神戸に滞在します。<船は三日後、八月三日の早朝、神戸に入港する。港からの眺めはすばらしかった。目の前には、みずみずしい緑の山が、うしろにはおだやかな海が広がっている。ハルピンも上海も、まわりには緑が少なかったから、あたり一面をおおおう緑の豊かさには、母も私たちも声を飲んだ。港には、父の仕事の、取引相手のミスター・ハミルトンが迎えに来ていた。神戸でのはじめての夜は、港のすぐそばのオリエンタル・ホテルに泊まる。>当時のオリエンタル・ホテルはまだ海岸通6番にありました。そのパンフレットです。 戦前の港からの風景は、パンフレットに描かれたそのままだったようです。 その後夫妻と母親は、ハミルトンさんが準備していてくれた山本通の純日本風の家を借りてメイドも雇いしばらく暮らすことになります。 ところで著者は執筆していた昭和53年当時もオリエンタル・ホテルに住んでいました。海岸通りにあったオリエンタル・ホテルは神戸大空襲で半壊し、残念ながら取り壊されます。京町筋に移転したのは昭和39年のこと、当時としてはモダンな外観でした。<私はもう何年も、メリケン波止場に近いオリエンタル・ホテルの一室に住んでいる。日本人はもちろん、ヨーロッパ人やアメリカ人も、ホテル住まい、と知ると、ずいぶん、金持ちなんだなあ、といった顔をして私を見るけれど、ほんとうのところはその逆。日曜祭日も返上して、私はこのホテルで日本人たちに英会話を教えている。> シングルの部屋に長いこと暮らしていると息が詰まりそうになるとも述べていますが、ホテルの安全性を買ったようです。<なにより安全なのがいい。たとえ病気になっても、大勢の人が働いているから、だれかが気付いてドクターを呼んでくれるだろうし、闖入者もレセプションで防いでくれる。私はこの安全を買ったわけだが、ソロバンをはじいてみても、アパートメントで生活するより安い。しかも、このホテルは神戸の中心、三宮や元町から歩いて十分そこそこの便利な場所にあり、ホテルまで英会話のレッスンに通ってくる生徒たちには好都合だし、ホテルに住んでいると、日本人はどういうものか、私を信用してくれる。> ところで、昭和39年、京町筋に開業したオリエンタル・ホテルの屋上には日本で初めてとなるホテルの敷地内の灯台が設置されていました。その燈台は現在神戸メリケンパークオリエンタルホテルに引き継がれて使われています。 さて、興味深かったポーラさんの戦時中の話は次回に。

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