久坂葉子(本名川崎澄子)は、昭和6年、川崎造船創立者の川崎正蔵の曾孫として神戸に生まれました。久坂葉子の『落ちてゆく世界』は没落過程にある名門男爵家に生きる息苦しさを綴った作品ですが、その中で父川崎芳熊が生まれた川崎正蔵邸について次のように述べています。<何しろ私たちが生まれる頃はやや降り坂だったしく、その豪華版を私は知りませんでしたけれど、父の生まれた所など通りすがりに眺めるたびに茫然とするのでした。>しかし、その川崎正蔵邸も昭和13年の阪神大水害で全崩壊してしまいます。<その屋敷は戦前人手に渡り水害のため全滅し、又空襲でわずかにのこった門番小屋や大門も焼けてしまっておりました。園遊会の写真などを土蔵の隅にみつけ出したりする時に、こんな生活を羨ましがったり、或いは祖先がそういう生活をしたと得意がる以上に、明日知れぬ運命をおそろしくさえ思うことが度々ありました。> 川崎正蔵邸は新神戸駅のあたりにあったと記されていますが、昭和7年の地図にその位置がはっきり記されていました。 現在の新神戸駅の山側にある丸山や徳光院はもちろん川崎家が所有していたようですが、地図を見ると、豪壮な川崎邸は、現在のANAクラウンプラザホテルの位置にあったことがわかりました。 ところで、大水害で無くなった川崎邸跡地を布引公園にしようという計画が立ち上がっていました。昭和15年1月8日の大阪朝日新聞“待望の布引公園”からです。<すぐる大水害に一瞬にして消え去った神戸布引川崎邸はその名も懐しい“布引公園”として二ヶ年後には明朗、健康の地帯に更生する鍬入れの日も近い—これぞという公園に恵まれなかった港都神戸にとって“布引公園”の出現こそはまさに渇望を満たすものといってよい、いまその全貌をのぞいて見ると—公園敷地は旧川崎邸三万九千二百十三坪三合二勺のほか(中略)まず下段の平坦地は一律に緑の芝生を布きつめたカーペットとなり点々と配植される数百種の花木はモザイクとなり縦横に走る曲線の逍遥路は大柄の縞模様となる、大芝生西南の一角約三百坪の箇所はこどもたちのため児童遊園として開放される、美術館、茶室も公開されるのでその道の人達によって趣味の催や集いに間断なく利用されることだろう>新聞の計画図を見ると、旧生田川歩道と市電の走る道路が書き込まれており、隣は北野浄水場となっておりますので、昭和7年の地図に書かれている川崎邸跡地を布引公園にする計画であったことは間違いありません。 川崎邸のお隣にあった北野浄水場は既に役目を終え、遊歩道には北野浄水構場の石碑が立っています。そして北野遊歩道の上の高台は北野クラブソラという結婚式場に変わっていました。昭和15年の川崎邸跡地の布引公園計画は、その後戦争に突入し幻となってしまったのではないでしょうか。
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