久坂葉子の眠る徳光禅院について調べているうちに、川崎正蔵の養子・川崎芳太郎と息子の川崎武之助により東京から神戸の布引丸山に移築された旧岩倉具視旧居が、西宮神社に移築されていたことを知りました。写真は久坂葉子が眠る川崎家の墓所。 川崎造船所創設者の川崎正蔵は布引山一帯の土地を購入し、明治18年に現在の新神戸駅からANAクラウンプラザホテルにあるあたりに、豪壮な邸宅を建設します。そして自邸の裏山である丸山(布引山)北麓に川崎家の菩提寺を創開しました。写真の地形図の中心部が布引山(丸山)です。 川崎芳太郎は旧岩倉具視邸を布引山(丸山)に移設し公開する構想を立てていました。「神戸新聞」(大正7年12月2日号)には「布引山を公開する 川崎家の新しい計画 山上に生田神社と維新の五元勲を祀り 美術館を此処に移し建て 市民の娯楽場に充てたいという」という記事が掲載されています。 その後芳太郎が急逝したため、息子の川崎武之助が岩倉具視旧居を布引山に移築し「六英堂」と命名し、入牌式が大正10年に挙行されています。「六英堂」は、ここで明治新政府の主要な人物、岩倉具視、三條実美、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文の六人(六英傑)が度々会合を重ねたということからその名が付けられたそうです。しかし、昭和13年の阪神大水害で布引山麓にあった川崎邸は崩壊、川崎邸跡は布引公園として生まれ変わるはずでしたが、昭和16年に太平洋戦争に突入、終戦後の昭和21年に川崎武之助も死去し、財閥解体となり川崎家は六英堂がある布引山も手放さざるをえなくなります。 この頃、川崎家では財産税支払い能力がないため、書画骨董を売却してますが、その様子が久坂葉子の『落ちていく世界』『灰色の記憶』などに描かれているのです。 当時、布引山を購入したのは大和観光株式会社社長のY氏であり、山頂にあった六英堂を後世に残すため、生田神社に相談し、生田神社から西宮神社の吉井宮司に打診します。その結果、大和観光から西宮神社に寄進する形で、昭和51年に西宮神社に移築されたのです。早速西宮神社を訪ねてみました。配置図の赤丸で囲ったところが六英堂です。 西宮神社の表門から入ると、毎年福男目指して走る一番目のコーナーがあり、六英堂はその左手にあります。一般公開はされていませんが、祝宴や会合に貸し出されています。六英堂の門です。横に「明治天皇御聖蹟」という石碑が立っています。この石碑も布引丸山から移設したものでしょう。明治16年、明治天皇は胃がんのために病臥していた岩倉具視を自宅にお見舞いになりました。その光景が描かれた聖徳記念絵画館壁画「岩倉邸行幸」の絵です。旧岩倉邸の外観だけ見てまいりました。それにしても何度も西宮神社を訪れながら、旧岩倉具視邸があったなんて、初めて知りました。
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