三田文学夏季号2020に掲載された遠藤周作の未発表原稿『影に対して』では、自身の母がいかに深く遠藤に影響を及ぼしたか描かれた作品でした。その中で母の教師時代の様子を教え子から聞く場面があるのですが、教え方が厳しかったことが印象に残る表現でした。 しかし、さらに遠藤郁の小林聖心女子学院での様子を、「ホトトギス」名誉主宰の稲畑汀子さんが『舞ひやまざるは』で率直に述べられていました。「感激家であたたかい心の持主であった」そうです。<そのころ聖心の音楽の教諭に遠藤郁先生という個性の強い先生がおられた。少々早とちりで、かんしゃく持ちであったが、感激家であたたかい心の持主であった。あだ名はグリンピース。我々が上手に歌えない時はピアノのキイをはげしくたたき感情をあからさまにあらわし、出方が少しでもそろわないと何度も何度もやりなおしにする。><そしてついにピアノのふたをばんと閉め、楽譜を小わきにかかえて「あなたたち、やる気がないのね」とぷんぷんと部屋を出て行ってしまわれる。そんな時は腹立ちまぎれにその辺のものを小わきにかかえるので、うっかりとピアノのカバーまでかかえて出ようとして引きずって行かれたこともあったと、他のクラスの人たちから聞いたことがある。うっかり笑うわけにゆかず笑いをこらえるのに困ったとのことであった。> 稲畑汀子さんのクラスは郁先生にかわいがられていたそうで、その後、遠藤郁先生が口ぐせのように言われていた「うちの周ちゃん」に小林聖心女子学院のために劇の脚本をかいてもらうことになるのです。
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感激家であたたかい心の持主遠藤郁先生(稲畑汀子『舞ひやまざるは』)
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遠藤周作の初戯曲『サウロ』を演じた稲畑汀子
加藤宗哉『遠藤周作』によると昭和23年小林聖心女子学院のシスター三好切子からの依頼で、遠藤周作は初戯曲『サウロ』を書き、同女学院の卒業生によって演じられました。それを演じたのが高浜虚子のお孫さんで、小林聖心女子学院に通われていた稲畑汀子さんでした。 稲畑汀子『舞ひやまざるは』からです。 稲畑さんは女学校五年生のときに監督岡田利兵衛先生で「細川ガラシャ夫人」をやり、その練習を見ていた遠藤郁先生が感激して最後のタブローの場面でアベマリアを高らかに歌われたそうです。それが縁となって遠藤郁先生が口ぐせのように言われていた「うちの周ちゃん」に劇の台本を書いていただき、学制が変った高三のときに上演されたとのこと。<遠藤周ちゃん書き下ろしの舞台劇「サウロ」は、青年コルネリオとドロテアの悲恋物語であり、キリスト教迫害時代の宗教劇であった。劇を監督される岡田利兵衛先生は、ちょうど胃潰瘍を悪くされていて講堂の舞台の前に火鉢を置き、指導して下さった。>当時、遠藤周作は慶應義塾大学仏文科を卒業したばかりの25歳でした。<周ちゃんも時々やって来ては腕組みをして恥ずかしそうに、うら若き女子学生が自分の書き下ろしの劇を一生懸命稽古するのに見とれていた。私は青年コルネリオになり、ドロテアに恋を打ち明けるのであるが、別れの場面の悲しみの表情が歯を出すと笑って見えると岡田先生に注意されたことを思い出す。>遠藤周作の演劇への関心はこの頃から芽生えていたのでしょう。後に全員素人という劇団「樹座」を創っています。没後、小林聖心女子学院で発見された処女戯曲「サウロ」は遠藤周作文学全集 第十四巻に収録されています。
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朝日新聞が秘封した「御影の令嬢」へのレクイエム『最後の社主』
8月4日付の朝日新聞朝刊に、「故・村山美知子本社社主9月1日にお別れの会」との記事が掲載されていました。さすが最後の社主とのお別れの会、朝日新聞社と香雪美術館の実行員会が主催し、リーガロイヤルホテルの直径18mの多面形ドーム状シャンデリアが輝くという「ロイヤルホール」で行われるそうです。 「御影の令嬢」はニューヨークの音楽プロモーターから「ヨーロッパのフェスティバルを日本でやってみては」と勧められたことがきっかけとなり、ザルツブルクやエディンバラの音楽祭や芸術祭を視察。1958年、大阪・中之島のフェスティバルホールの完成に合わせて、ニューヨーク・シティ・バレエ団やレニングラード・フィルハーモニー交響楽団を招いて、第1回大阪国際芸術祭を開催します。ネットで調べると「ナカオ書店」より、1958年度 大阪国際芸術祭記念プログラム : SOUVENIR PROGRAM Osaka International Festival 1958/村山未知編/大阪国際芸術祭協会が販売されていました。写真は建て替え前のフェスティバルホールがあった新朝日ビル。その芸術祭の後、村山家は財団法人大阪国際フェスティバル協会を設立し、「御影の令嬢」が協会の専務理事として企画・運営の全責任を負い、1959年から大阪国際フェスティバルを開催したのです。写真は1959年の第2回、ストラヴィンスキー指揮NHK交響楽団(大阪国際フェスティバルホームページより) 戦後立ち上げられた、世界に誇れる水準のフェスティバルですから、観客も当時はハイソサイエティの芸術に理解のある家族やご令嬢が多かったのでしょう。そのお一人で、子供時代からお母様と大阪国際フェスティバルに行かれていた方から、フェスティバルのみならず、阪神間の懐かしいお話が記された、樋田毅『最後の社主』という本が講談社より発刊されたとお聞きし、色々興味津々で、早速購入しました。著者の樋田毅氏は1978年、朝日新聞社に入社。西宮の朝日新聞襲撃事件取材班キャップを務めたこともあり、’12年から’17年まで村山美知子氏の秘書役を務め、同年12月退社された方。 本の帯には、<創業者・龍平翁の孫として生まれ、116万もの朝日新聞株を保有した3代目社主・村山美知子。その晩年、秘書役となった元事件記者が目の当たりにした、創業家と経営陣の「暗闘」とは。>と刺激的な言葉が並びます。その内容は後ほど。
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樋田毅『最後の社主』御影の村山邸
最後の社主・村山美知子さんは朝日新聞社を創業した村山龍平氏の孫。その邸宅の敷地の中に香雪美術館があります。<二〇〇七年三月八日午後、私は朝日新聞大阪本社代表の池内文雄氏に付き添われ、神戸・御影の村山邸をはじめて訪ねた。庭園と合わせて約六〇〇〇坪の広壮な邸宅。一〇〇〇本を超える木立に囲まれ、そびえ立つ洋館は、西洋貴族の屋敷のごとき偉容を誇っている。もう一棟は六〇畳敷の大広間と高楼を併せもった日本館で、その規模の大きさと豪華さに、度肝を抜かれた。通路には無造作に美術品が置かれ、壁には名画が飾られていた。>阪急御影駅を南側に出て、しばらく東に歩くと、石塀と鬱蒼とした樹木に囲われた村山邸があります。さすが約6000坪の邸宅。こちらが正門と思われますが、「西洋貴族の屋敷のごとき偉容を誇っている洋館」が見えます。よくわかりませんが、洋館の左隣にわずかに見える屋根の部分が、「六〇畳敷の大広間と高楼を併せもった日本館」なのでしょう。<一九二〇年(大正九年)、この村山邸の北辺を阪急電鉄の神戸線が通る。村山邸の付近で蛇行しており、地元ではいまも「村山カーブ」と呼ばれている。阪急電鉄創業者の小林一三は後年、著書『逸翁自伝』で、村山邸の敷地を買収できなかったことについて「まことになんという意気地がなかったであらうと、愚痴らざるを得ない」と述懐している。>この「村山カーブ」のお話、阪急神戸線は昔から乗っていましたが、初めて知りました。航空写真で見ると、大阪方面から来た線路が、確かに村山邸のところで避けるようにカーブしています。 村山邸の左隣にあるのが、近年羽生結弦選手の活躍で有名になった結弦羽神社です。航空写真で見ると、神社の森よりはるかに大きいのが村山邸の森。結弦羽神社の杜と村山邸とは上の写真のように道一本隔ててあります。結弦羽神社の歴史を調べると、やはり六甲にまつわる神功皇后伝説がもとになっており、「8世紀末に、この弓弦羽ノ森を神領地と定め、嘉祥2年(西暦849年)神祠を造営して改めて熊野大神をお祀りいたしました」と書かれていました。そうすると、村山邸の敷地は明治以前までは弓弦羽ノ森の一部だったのかもしれません。
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村山騒動の背景にあった香雪記念病院(樋田毅『最後の社主』)
朝日新聞社の二代目社長となったのは村山龍平の一人娘、於藤の婿養子の長挙でした(敬称略)。そして、長挙・於藤夫妻の二人の娘が美知子(最後の社主)と富美子です。 樋田毅『最後の社主』に「村山問題発生の背景」が時系列で紹介されていますが、その2番目に挙げられているのが「香雪記念病院」に関したものでした。<昭和38年1月、村山良介(村山富美子の夫)が永井大三常務取締役に会い、朝日ホスピテルへの協力を求めたが、永井は反対した。良助は「オープンシステムの病院で、授権資本20億円、大阪・東京の各財界から出資はそれぞれ6億円」と説明。種々議論を重ねた後、同年11月29日の役員会で、村山長挙社長は「朝日ホスピテルに朝日新聞社からの出資は仰がない」と表明した。>とあります。 この朝日ホスピテル株式会社が昭和42年に西宮市鷲林寺に開院したのがオープンシステムの「香雪記念病院」でした。オープンシステムとは、入院した患者が自分の主治医を連れてきて治療を受けることができ、主治医がいない間は病院の医師が主治医の指示に従って治療を継続してくれるというもの。<「村山良介」とあるのは美知子さんの妹、富美子さんの夫で、医師だった。冨美子さんが米国のボストン大へ留学中、同じ大学に留学していた良介さんと恋仲になり、帰国後の昭和33年に結婚していた。良介さんは京都大学医学部麻酔学科に勤務していたが、その傍ら、病院と治療チームを分離する米国流の新しい病院経営のあり方を模索していた。それが朝日ホスピテルであり、後の香雪記念病院である。>しかし、病院設立には村山富美子さんの強い意志と力があったようです。Medicina1967年10月号に「山の上にあるホスピテル—香雪記念病院」と題した木島昻氏のルポルタージュがありました。<事業の背景は、朝日新聞創立者・村山龍平翁の没後30年を記念して計画された病院事業で「香雪」は翁の雅号である。建坪2,200坪、病床111床のオープンシステムに作りあげた朝日ホスピテルKK(村山藤子社長)としては第1号のホスピテルである。建物の工費だけで約7億円、土地を含めて全13億円。> ほとんどが個室で、食事は自分の好みに合わせて2ー3種類の中から選ぶことができ、事前にスタッフが要望を聞きにやってくる、というホテル以上の豪華さだったようです。また、病院の最上階にはとても見晴らしの良いレストランがあり、一流ホテルで技を磨いた料理人が料理を作っていたとのこと。 村山美知子・富美子姉妹の父、長挙氏も最後は香雪記念病院に入院されていたそうです。『最後の社主』からです。<村山美知子さんの父、長挙さんは昭和39年に社長の座を追われた後、徐々に体調を崩した。昭和46年2月に倒れ、東京の虎の門病院に入院した。脳軟化症との診断だった。次女の富美子さんが、朝日新聞社への対応問題を機に両親との関係を断絶した一年後のことである。その後、長挙さんは神戸の自宅に移り、自宅や最寄りの病院などでリハビリに専念する日々が続いた。>そしてオープンシステムだった香雪記念病院に入院することになります。<昭和52年の年明け、長挙さんの病状が悪化し、兵庫県西宮市の香雪記念病院に入院すると、夫で医師の良介さんも頻繫に病院に通うようになった。香雪記念病院は村山家の肝いりでつくられ、朝日新聞社に出資を求めたことが「村山騒動」の一因にもなった。外部の医師を受け入れる体制がとられていたため、良介さんは勤務先の京都大学病院から部下の若い医師たちに声をかけて医療チームを編成し、そのチームで長挙さんの最後を看取ったという。>香雪記念病院は開院の翌年の昭和43年に、山崎豊子さんが『花紋』の盗用騒動で一時入院していた病院でもありますが、平成14年(2002年)には「西宮協立リハビリテーション病院」に生まれ変わっています。 昨年文芸評論家の河内厚郎氏が倒れてこの病院で世話になっていたとき、お見舞いに行き、最上階の食堂でお話を伺いました。香雪記念病院時代は、一流ホテルで技を磨いた料理人が料理をふるまっていたという場所ですが、今でもベランダからの眺めは大阪湾を遠望する素晴らしいものでした。眼下に見える池は、昔、夫婦池と呼ばれていたような記憶です。 また香雪記念病院開院時には、すぐ北側の西宮市鷲林寺町2にトラピスチヌ修道院がありましたが、開発が進み、昭和44年には約1.5km北側の現在の場所に変わっています。(昔の修道院の写真はにしのみやデジタルアーカイブより)地図の黄色の丸印が昔の修道院の場所、赤丸印が現在の場所です。昔はこのあたり、山の中のイメージでしたが、現在は住宅がぎっしりです。
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お屋敷街の子供たちが通った甲南小学校(樋田毅『最後の社主』)
日本一の長者村と言われた住吉村(現在のJR住吉、阪急御影あたり)の子女が通ったのが平生釟三郎らが創立した甲南学園。当然、御影の令嬢、村山美知子さんも通われていました。樋田毅『最後の社主』からです。<時計の針を1926年(昭和元年)に戻す。この年、美知子さんは数え歳で7歳になり、自宅近くの住吉川沿いにある私立甲南幼稚園に入園。翌年同八歳で私立甲南小学校に入学した。>早速JR住吉駅からお屋敷街を歩いてみました。甲南小学校の北東角に、目立たないですが「細雪」の碑をみつけました。(地図の黄色の丸印)後ろの塀との隙間がわずかだったので、カメラを差し入れて碑文を読んでみました。谷崎潤一郎の生誕100年を記念して建てられたもので、谷崎の書と小磯良平作の雪模様とのこと。そういえば、中央公論社から昭和24年に出版された『細雪』の装丁・口絵は小磯良平でした。 谷崎潤一郎『細雪』の中巻でのクライマックスシーンは昭和13年の阪神大水害で、その様子が克明に描かれています。谷崎松子さんの娘、恵美子さんがモデルとなった悦子が通っていた小学校は芦屋川沿いという設定ですが、その小学校も甲南小学校がモデルと思われます。谷崎松子さんの『倚松庵の夢』によると、<六甲の山津波に遇ったのは、住吉の反高林に居を遷してからで、此の日は朝からの豪雨で悦子の恵美子は学校を休ます方がいいよ、との貞之助の意見で行かせなかったが、悦子の通学している甲南小学校は数名の犠牲者も出、泥水を呑まぬ生徒はなかった。こう云う時の直感とか判断は実に正確な人であったと思う。>と書かれており、甲南小学校も相当な被害だったようですが、恵美子さんは無事難を逃れていました。『細雪』では住吉村の美しい風景とともに住吉川周辺の洪水の様子が描かれています。<いったいこの辺りは、六甲山の裾が大阪湾の方へゆるやかな勾配を以って降りつつある南向きの斜面に、田園があり、松林があり、小川があり、その間に古風な農家や赤い屋根の洋館が点綴していると云った風な所で、彼の持論に従えば、阪神間でも高燥な、景色の明るい、散歩に快適な地域なのであるが、それがちょうど揚子江や黄河の大洪水を想像される風貌に変わってしまっている。そして普通の洪水と違うのは、六甲の山奥から溢れ出した山津波なので、真っ白な波頭を立てた怒涛が飛沫を上げながら後から後からと押し寄せて来つつあって、恰も全体が沸々と煮えくり返る湯のように見える。>このあたり、昔はもっと牧歌的な景色が広がっていたのでしょう。『最後の社主』に戻ります。<甲南小学校は、東京海上専務、川崎造船社長などを務めた故・平生釟三郎氏が中心となって創立され、個性を尊重した自由な校風で知られている。甲南幼稚園、甲南小学校、甲南中学校、甲南高等女学校、甲南高校は同じグループであった。当時、甲南小学校は各学年とも男女あわせて30人ずつ。美知子さんの学年は男子16人、女子14人だった。少人数の家庭的な雰囲気の学び舎で、当時は主に近所のお屋敷街の子どもたちが通っていた。>平生釟三郎邸跡にも行ってみました。「最後の社主」村山邸を少し南に下がった、山手幹線沿いにあり、立派なお屋敷だったようですが、現在は甲南学園平生記念館となっています。 甲南幼稚園が開園したのは明治43年、翌々年に甲南尋常小学校が開校、土地は住吉村から反高林の3千坪あまりが無償で提供されたそうです。なるほど、私立幼稚園、小学校としては他に類のない広さ、当時の住吉村の裕福さがわかります。写真は甲南小学校玄関と敷地をぐるりと囲む石垣。 ところが入学児童が少なくすぐに運営につまずき、一時は廃校も考えたそうですが、財政難で投げ出す訳にはいかないと釟三郎が経営を引き受け、学校の川向かい、現在のオーキッドコート一帯に大邸宅を構えていた鉱山王・久原房之助の援助を仰いで窮地を脱し、やがて運営も軌道に乗っていったそうです。校庭の西側には、住吉川をはさんで、オーキッドコートが聳え立っています。昭和7年の地図を見ると鉱山王・久原房之助邸の広大さがよくわかります。(黄線で囲んだ所)ここへ来るたびに、跡地に立ち並ぶ高級マンション・オーキッドコートにも目を見張らされます。この後、昔のお屋敷跡は今どうなっているか、一巡りして来ようと思います。
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湊かなえさんの西宮を舞台とした小説『絶唱』は私小説?
湊かなえさんは、ミステリー小説『告白』で本屋大賞を受賞、映画化されるなど一躍売れっ子作家となりましたが、武庫川女子大出身。 そうであれば、西宮を舞台とした作品があってもいいのにと思っていましたら、見つかりました。『絶唱』。 彼女の青年海外協力隊員として2年間トンガで暮らした体験、武庫川女子大4年生の時に阪神淡路大震災に遭遇した体験に基づいた、湊かなえさんの小説では珍しい、私小説的な作品です。 湊かなえさんの経歴と『絶唱』の主人公・土井千春の経歴を比較してみましょう。 湊さんは瀬戸内海に浮かぶ広島県因島のみかん農家に生まれ、広島県立因島高等学校から武庫川女子大学家政学部被服学科へ進学します。 大学ではユースサイクリング同好会に所属、家庭科の教職課程や繊維製品品質管理士などの資格も取得。卒業3か月前、阪神甲子園球場に近いぼろアパートで阪神淡路大震災に遭遇。無傷で助かったものの、サークルの仲間を数人失います。 卒業後は一旦、アパレルメーカーに就職。しかし、卒業前に、一つ上の学年の同じ学科(家政学部被服科)の人が、卒業すると同時に青年海外協力隊員として海外に出かけているのを、卒業生進路先一覧表で知り、心に残っていました。私も学生時代大好きだった森村桂さんの「天国に一番近い島」を、湊さんは小学5年生の時に読み、南の島にあこがれ、会社を1年半勤めたところで、青年海外協力隊に応募し、2年間トンガで過ごします。帰国後は淡路島の高校の家庭科の講師となり、結婚。2007年に「聖職者」で第29回小説推理新人賞を受賞し小説家デビューします。(出典;日経WOMAN×日経ARIA妹達へ 、毎日新聞「嗜好と文化」湊かなえインタビュー記事など) さて一方、『絶唱』の主人公・土居千春の経歴は、岡山出身、兵庫県西宮市の大学で家政学部被服学科を専攻、阪神武庫川駅から川沿いに徒歩15分の木造2階建てのアパートに住みます。大学ではミュージカル同好会に所属し、立花静香と増田泰代と親友になります。大学4年生の時、同じアパートの友人の卒論作成を手伝っていたときに、阪神淡路大震災に遭遇、大阪に避難しますが、後に立花静香の死を知ります。卒業後は丸福デパート大阪店に勤務。進路相談室に張り出されていた就職内定者一覧表に載っていた、家政学部食物学科の松本理恵子さんの名前と国際ボランティア隊という職業が頭の中で結びついて小さな種となり、1年後に会社をやめ、ボランティア隊員としてトンガに赴任。帰国後、二、三の職業を経て推理小説新人大賞を受賞し、小説家となります。このように、湊さんご自身の経歴と主人公を比較すると、ほとんど私小説ではないかと思えてくるのです。どこまでが創作で、どこまでが実体験だったのでしょう。千春はこう語ります。<わたしは出身大学を訊かれるのが嫌いです。わたしが兵庫県の大学に通っていたことを知ると、逆算して、震災のときはどこにいたのかと十中八九訊かれるからです。>悲しい震災の記憶の小説ですが、次回は内容を少しご紹介します。
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武庫川女子大での震災体験を基にした湊かなえ『絶唱』
湊かなえさんの『絶唱』は、「楽園」(初出;「小説新潮」2010年5月号)「約束」(初出;「小説新潮」2011年5月号「大陽」(初出;「小説新潮」2012年5月号)「絶唱」(初出;「小説新潮」2014年5月号)の四つの連作短編集です。 いずれも、阪神淡路大震災を体験した登場人物がトンガという楽園で様々な人と出会い、心の傷を癒し、再生するという物語。帯には、<死は悲しむべきものじゃないー 南の島のその人は言った。心を取り戻すために、約束を果たすために、逃げ出すために。「死」に打ちのめされた彼女たちが秘密をかかえたまま辿りついた場所は、太平洋に浮かぶ島―。今も思い出す。あの太陽を。あの家を。あの人を。かけがえのない、あの日々を。> 湊さんは震災後15年経って、ようやくその悲しい体験をもとにした小説を書くことができるようになったのでしょう。そして、最後の文章にあるように、青年海外協力隊員としてトンガで2年間暮らしたことが、湊さんの心を癒してくれたのでしょう。小説に登場するトンガの人々には、それぞれモデルがいるようです。 2014年に「小説新潮」に発表された最終章『絶唱』は、震災後19年を経て、遂にご本人がカミングアウトして、武庫川女子大時代の震災体験を綴った私小説のように感じられました。『絶唱』からです。<阪神淡路大震災が起きたのは1995年の1月17日。当時わたしは兵庫県西宮市にある大学の四年生。部屋の窓から武庫川の河川敷を望むことができる、古いアパートの一階の部屋に住んでいました。大学では家政学部被服学科に所属し、世間では、バブルがはじけ就職氷河期を迎えたと言われていましたが、運よく関西地区をメインに展開する丸福デパートに内定を得ることができました。>西宮市の大学とは、湊かなえさんが卒業された武庫川女子大。文学部ではなく家政学部だったのが驚きです。そして湊さんが卒業後就職されたのはアパレルメーカーでした。 武庫川沿いのアパートで被災した主人公・土居千春は震災の翌日、早くも阪神電車の甲子園~梅田間が復旧したことから、大阪の知人を頼って避難します。しかし、ミュージカル同好会で知り合い親友となった立花静香は、阪神西宮駅近くのワンルームマンションで被災し亡くなっていたのです。後に同じ同好会のもう一人の親友、増田泰代から静香の死を知らされ、探しに来なかったことを責められます。<「じゃあ、なんであんな大変なことになっているのに、助けに来てくれなかったの?なんでわたしたちを置いて、自分だけ安全なところに避難できたの?わたし、揺れが収まったあと、すぐに静香のところに行ったよ」それは家が近いから。喉元まで出かかり、飲み込みました。距離ではない。人間性の問題だ。>千春は被害の大きかった地域と小さかった地域の境界線上にいたのです。 実際に湊さんの住んでいた場所も武庫川の近く、所属していたユースサイクリング同好会の友人も亡くなるという体験をされています。『絶唱』からです。<わたしは出身大学を訊かれるのが嫌いです。わたしが兵庫県の大学に通っていたことを知ると、逆算して、震災のときはどこにいたのかと十中八九訊かれるからです。西宮市にいたけれど、翌日には電車が復旧したようなところなので、無事に避難できました。これ以上のことは絶対に口にしませんでした。> しかし、そのような主人公千春が小説家となり、震災のことを書くきっかけとなったのは、トンガでお世話になった尚美さんのトンガからの5年前のメールでした。<「安定してベストセラーを出せるようになりましたね。ずっと提案したかったことがあります。震災のことを書いてみたらどうかしら。今ならもう、ベストセラーを出すために震災をネタにするなんて、と自己嫌悪に陥ることもないんじゃない?もし、その気があれば、ご連絡ください。千春ちゃんに紹介したい人たちがいます」そうして、わたしはマリエちゃん、理恵子さん、杏子さん・花恋ちゃん親子のモデルになった人たちにお会いすることができました。それぞれの物語を書かせてもらえることになりました。>このような形で終わる最終章、どこまでが創作で、どこまでが実体験だったのでしょう。特に最終章『絶唱』はミステリー要素はなく、私小説的な小説でしたが、心を打つ作品でした。
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村上春樹は震災の時どこにいて何を考えたか(After the Quake)
村上春樹の阪神淡路大震災を題材にした『神の子どもたちはみな踊る』(英語版『After the Quake』)は、「新潮」に1999年8月から12月まで『連作 地震のあとで』と副題を付けて発表された5作品と、2000年の単行本化にあわせて書き下ろされた「蜜蜂パイ」の6作品からなる短編集です。 「蜜蜂パイ」は、本人をモデルにしたと思われる淳平と、早稲田大学で親しくなり交際を続けた高槻と小夜子との3人の複雑な愛情物語ですが、そこに阪神淡路大震災の影響が描かれています。 村上春樹は中学生時代、西宮市川添町にすんでいましたが、淳平のプロフィールは次のように書かれています。(写真はあしはら橋。この橋を渡って精道中学校に通っていました)<淳平は36歳、兵庫県の西宮市に生まれそこで育った。夙川の静かな住宅地だ。父親は時計宝飾店を経営し、大阪と神戸に一軒ずつ店舗を出していた。6歳離れた妹がいる。神戸の私立進学校から早稲田大学に進んだ。商学部と文学部の両方に合格し、迷わず文学部を選んだが、両親には商学部に入ったと嘘の報告をしておいた。>遠藤周作が、父親に慶應の医学部に合格したと思わせていたのと同じようなシチュエーションです。<大学を卒業して、彼が商学部ではなく文学部に通っていたことが露見して、淳平と両親の仲は険悪になった。父親は彼が関西に戻って家業を継ぐことを求めたが、淳平にはそのつもりがなかった。東京で小説を書きつづけたいと彼は言った。両者の間に歩み寄りの余地はなかったし、結局激しい口論になった。口にするべきではない言葉がいくつか口にされた。それ以来一度も顔を合わせてはいない。>村上春樹の他の短編にも、主人公と父親との確執がいくつか描かれており、設定は異なっても、親子の関係はほぼ事実に近かったと思われます。淳平の小説家としての経歴も短編の名手と呼ばれて村上春樹と同じような設定になっています。<淳平は地道に短編小説を書き続け、35歳のときに四作目の短編集『沈黙する月』を出版し、それが中堅作家のための文学賞を受けた。表題作は映画化されることになった。>村上春樹が最初の短編集『中国行きのスロウ・ボート』を出版したのは34歳の時でした。<彼は自分の文体を持っていたし、音の深い響きや光の微妙な色合いを、簡潔で説得力のある文章に置き換えることができた。読者も固定し、収入もそれなりに安定し、彼は少しずつ確実に作家としての地歩を固めっていった。>このあたりはほとんどご自身の文体について語っています。そして地震がやってきます。(写真;神戸市提供)<地震が起こったとき、淳平はスペインにいた。航空会社の機内誌のためにバルセロナの取材をしていたのだ。夕方ホテルに戻ってテレビのニュースをつけると、崩壊した市街地と立ちのぼる黒煙が映し出されていた。まるで爆撃のあとのようだ。アナウンスはスペイン語だったから、どこの都市なのかしばらく淳平にはわからなかった。しかしどうみても神戸だ。見覚えのある風景がいくつも目についた。芦屋のあたりで高速道路が崩れ落ちていた、>村上春樹は震災の時、タフツ大学の客員研究員としてマサチューセッツ州に住み、TVニュースで震災を知ったようです。<でも彼は実家に電話をかけなかった。両親と淳平のあいだの確執はあまりにも深く、長く続いていたので、そこにはもう回復の可能性は見あたらなくなっていた。淳平は飛行機に乗って東京に戻り、そのまま平常の生活に戻った。>震災の時、村上春樹の実家は芦屋市にあり、ご両親は住めなくなった家をあとにして、京都に移られています。村上春樹は3月に一時帰国していますので、実際にはご両親の面倒をみられたのではないでしょうか。 長い間、疎遠になってしまった親子が顔を合わせて話をしたのは、父が90歳で亡くなる少し前、村上春樹がもう60歳近くになってのことでした。父について語った『猫を棄てる』を読むとほっとします。遠く離れた地で故郷が壊された様を見た村上春樹ですが、小説では次のように語ります。<大学を出て以来その街に足を踏み入れたことすらない。にも拘わらず、画面に映し出された荒廃の風景は、彼の内奥に隠されていた傷あとを生々しく露呈させた。その巨大で致死的な災害は、彼の生活の様相を静かに、しかし足もとから変化させてしまったようだった。>「故郷について書くのはとてもむずかしい。傷を負った故郷について書くのはもっとむずかしい」と語る村上春樹が、震災の二年後どのような変貌を遂げたのか、自分の目で見届けるために西宮から神戸まで歩き、文章にしたのが『辺境・近境』に収録された「神戸まで歩く」でした。
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村上春樹「神戸まで歩く」
村上春樹は阪神淡路大震災の時、アメリカのタフツ大学に招聘されマサチューセッツ州に住んでおり、そこで震災の映像を見ることになります。震災により芦屋の実家は居住不可能となり、ご両親は京都に移られています。父親との確執があったとはいえ、やはり心配だったのでしょう。村上春樹はその年の3月に一時帰国し、地下鉄サリン事件は日本で知ることになります。 更にその年の5月には日本に帰国し、9月には神戸と芦屋でチャリティの「朗読会」を開催しています。朗読に選ばれたのは「めくらやなぎと眠る女」で、香櫨園にある回生病院と思われる病院が登場する短編でした。 そして1997年5月に一人で時間をかけて西宮から神戸まで歩き、自分の目で見届けた震災後の爪痕と変貌の様子を書いたのが、『辺境・近境』に収められた「神戸まで歩く」です。<僕は戸籍上は京都生まれだが、すぐに兵庫県西宮市の夙川というところに移り、まもなくとなりの芦屋市に引っ越し、十代の大半をここで送った。高校は神戸の山の手にあったので、したがって遊びにいくのは当然神戸のダウンタウン、三宮あたりということになる。そのようにしてひとりの典型的な「阪神間少年」ができあがる。当時の阪神間は━もちろん今でもそうなのかもしれないけれど━少年期から青年期を送るには、なかなか気持ちの良い場所だった。>村上春樹が少年時代を過ごした「気持ちの良い場所」阪神間の風土と原体験が作家としての原風景となったのでしょう。しかし、その風景はことごとく破壊され、<僕と阪神間とを結びつける具体的な絆は、今では━記憶の集積(僕の重要な資産)の他には━もはや存在しない。>とその喪失感を語り、だからこそ、その後の変貌を見届けるため、自分の足で一歩ずつ丁寧に歩いてみたかったと述べています。 阪神西宮駅で降り、小学生の頃、自転車でよく買い物に来た商店街が見分けがつかないくらい様変わりした様子を見ながら、戎神社に向かいます。<商店街を抜けて通りを渡ると、そこには西宮の戎神社がある。とても大きな神社だ。境内には深い森がある。まだ小さな子どもだった頃には、僕らの仲間にとってここは素晴らしい遊び場所だった。しかしその傷跡は見るからに痛々しい。>えびすの森は今も健在です。<子供の頃よく小海老釣りをした池の古い石橋は(紐をつけた空き瓶にうどん粉の餌を入れて水の中に落としておきと、小海老が入ってくる。適当にそれを引き上げる。簡単だ)、崩れ落ちたまま放置されている。>この橋は新たに架けられたもののようです。<激しい破壊のあとがいたるところに生々しく残り、あたり一帯はなにかの遺跡のようにさえ見える。ただ境内の深い森だけが、僕の記憶にある昔の姿と変わることなく、時間を超えてひっそりと暗く、そこにある。僕は神社の境内に腰を下ろし、初夏の太陽の下でもう一度あたりを見まわし、そこにある風景に自分を馴染ませる。>多感な時期を過ごした自己形成空間の喪失。すぐには受け入れることができなかったのでしょう。その風景を自分の中に自然に受け入れようとしますが、いうまでもなく長い時間がかかると心境を述べていました。
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CNNのハリケーン情報で紹介されたFujiwhara Effect
CNNスチューデントニュースによると、現在二つのハリケーン、MARCOとLAURAがメキシコ湾を通ってアメリカ本土に上陸するとの予報が出されています。 メキシコ湾に二つのハリケーンが同時に存在するのは非常にまれなことで、ハリケーンに名前をつけるようになってからは、1933年と1959年の2度だけ。 二つのハリケーンが接近して超巨大ハリケーンに発達するのではという危惧に対して、気象予報士が分かりやすい図までつけて、そのようなことは起こらないという説明に使ったのがFujiwhara Effectでした。(FujiwaraではなくてFujiwharaとなっているのがいいところで、正式な学術用語です)1920年代初頭に発見された藤原効果と前置きし、説明が始まりました。二つのハリケーンが接近すると互いに円を描くように回転します。そしてもし二つのハリケーンがどんどん接近すれば強い方が弱い方の勢力を弱め、大きい方に吸収され、勢力が同じ場合二つとも弱くなるというものです。ということでメガハリケーンの発生は絶対あり得ませんと説明しているのです。 気象庁では「藤原の効果」を、「2つ以上の台風が接近して存在する場合に、台風がそれらの中間のある点のまわりで相対的に低気圧性の回転運動をすること」と定義し、具体的には、接近しあったり、逆に離れていったり、1つの台風に追従していったり、と複雑な動きを見せると説明しています。 日本の台風観測では二つの台風が接近し迷走することはよくあり、説明もされますが、CNNのような明快な解説は初めてで、藤原氏の名前も私は初めて知りました。 いくら昔のことでも、初めて発見し理論付けた研究者をリスペクトするアメリカの姿勢は大いに見習うべきところです。 因みに藤原効果で世界中に知られている日本の偉大なる気象学者、藤原咲平氏とは、検索すると、https://shisokuyubi.com/bousai-kakugen/index-468藤原咲平(ふじわら さくへい)は、日本気象学の草分けとして知られる地球物理学者の一人で「お天気博士」として親しまれた人物。2つの台風が接近し相互作用する「藤原の効果」を提唱したり、気象学・地震学分野の「渦動論」で世界的に知られている。長野県上諏訪町(現諏訪市)生まれ。明治42(1909)年、東京帝国大学理科大学理論物理学科を卒業し、明治44(1911)年、中央気象台(現気象庁)に入り天気予報の研究などを行う。大正10(1921)年、気象台初の留学生として渡欧、ノルウェーの気象学者ヴィルヘルム・ビヤークネス(Vilhelm Friman Koren Bjerknes / 1862〜1951)教授に師事、前線論的新天気予報術を学び、帰国後の大正11(1922)年、中央気象台測侯技術官養成所(現気象大学校)主事、神戸海洋気象台技師に任命された。昭和元(1926)年、東京大学地震研究所員、翌(1927)年、寺田寅彦の後任として東京大学理学部教授兼任。昭和16(1941)年、岡田武松(1874〜1956)の後を受け第5代中央気象台長。戦時中は軍の嘱託で風船爆弾の研究にも携わり、敗戦後の昭和22(1947)年に公職追放された。以後は著述に専念し「日本気象学史」「改暦問題」「御神渡」「渦巻の実験」「日本気象史」など著した。昭和25(1950)年9月22日、65歳で没。作家・新田次郎(本名・藤原寛人)は甥、数学者の藤原正彦は大甥に当たる。新田次郎氏と藤原正彦氏の親戚だったとは。そして風船爆弾で公職追放とは。
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昨日のCNNで羽衣チョークが話題に!
昨日のCNNスチューデントニュースの10秒トリビアで羽衣チョークが話題になっていました。 以前廃業のニュースを見た覚えがありますが、こんなにアメリカの数学者達から評価されていたとは!この時代になっても多くの教授がチョークを使うばかりか、お気に入りの種類にこだわっているとのこと。このチョークで間違った定理を書くことは不可能という伝説があります。一流校の数学者たちが愛用しています。あこがれの的です、チョークは数学会で最もよく守られてきた秘密のひとつです。チョークのロールスロイスです。羽衣は日本のチョークのブランドです。滑らかな書き心地は言葉では言い尽くせません。手に入りにくく日本でしか入手できないので日本人に買ってきてもらうしかありません。そして多くの数学者たちの賞賛が述べられます。東京大学を訪れた時、日本にはアメリカより優れたチョーがあると言われました。そんなはずはない、チョークはどれも同じだろうと言ったのですが、試してみると彼の言った通りなので、驚きました。試したら驚異的だと思いました。一番濃く書けて綺麗に消せて清潔で、素晴らしい線が引けます。粗悪なチョークでは思いっきり力を込めないと見やすい濃さで書けませんが、羽衣なら力むことなく書けます。教えてるときエネルギーや自身に満ち溢れるのはチョークのおかげです。徐々に数学会がこれに気付いてちょっとした流行になりました。4年位前に製造メーカーが廃業するとの情報がありました。冗談半分にチョーク会の大惨事だと言ったんですが、すぐにできるだけ多く買いだめしました。オリジナルの羽衣チョークはゆっくりと姿を消しつつあります。数年前に韓国の会社が製法を購入し韓国で忠実に再生産しました。多くの意味で数学者は職人のようなもの、ある意味芸術家のようなもの、科学のようなものですが、黒板を使って素晴らしい講義をするのは高度な職人わざです。数学者は互いに敬意を払い、最高のツールを使います。調べてみるとこのGreat Big Storyは昨年のものらしく、それをトリビアとして取り上げたようです。Wikipediaによると、2015年(平成27年)6月 - 「HAGOROMO」をはじめとするブランド、大半の製造設備、材料調合、製造技術指導など含めすべてを、羽衣チョークの愛用者であり韓国に個人輸入販売をしていた辛亨錫(シン・ヒョンソク)が立ち上げた会社で、韓国・京畿道抱川にあるセジョンモール社に譲渡。全設備の搬出を終え、現在は同社で「羽衣チョーク」等の生産・販売が行われている。とのこと。チョークの将来の需要を考えると羽衣文具の社長の決断は正しかったと思いますが、日本で立派に確立された世界に通用する技術が、日本から消えて行ってしまうのは寂しい限りです。
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阪急神戸線御影のSカーブ、対案は地下鉄(『逸翁自叙伝』)
樋田毅『最後の社主』を読んでいると、阪急神戸線が御影駅付近で朝日新聞創業者の村山邸を避けて蛇行している「村山カーブ」についての説明がありました。更に、<阪急電鉄創業者の小林一三は後年、著書『逸翁自伝』で、村山邸の敷地を買収できなかったことについて「まことになんという意気地がなかったであらうと、愚痴らざるを得ない」と述懐している。>という記述があり、早速『逸翁自叙伝』を読んでみました。「村山カーブ」については本編ではなく、参照「住友家と私」の項で、「鈴木総理とS曲線」と題して記述されていました。小林一三がまだ45歳の頃の話です。<それは阪神急行電鉄と改名しない前の話である。神戸ゆき急行電鉄の計画は住吉川西堤から一直線に観音林を貫通し、村山邸北庭を横断して現在の御影停車場に至る区間に対し、村山龍平氏から大反対を受けて、此区間を地下道式に変更してほしいという申し出があった。> 最初はそんな計画は、箕面電車の空威張りで実現するわけがないと踏んでいたのが、着々と工事が進行するのをみて、村山翁は隣邸の鈴木馬左也翁と観音林の武藤山治氏(当時は鐘紡社長)を勧誘し、小林一三に会談を申し入れます。ある日、三大人と平賀社長、小林一三が出席し、大阪倶楽部で三時間余りの交渉が始まります。(写真は現在も維持されている大阪倶楽部)<静閑なる住吉の別天地に、電鉄をひくことすら我々は大反対である。住吉駅から山の手一帯は、阪神間唯一の明媚閑雅なる住宅地として保護すべき仙境である。其中央を横貫して雑騒の俗天地たらしむるより、地下鉄に変更するとせば、どれだけか其住民は喜ぶことであろう。然も地下鉄に変更するとせば、どれだけか其住民は喜ぶことであろう。然も地下鉄に変更する為めに要する建設費の増加の中へ、我々は百万円を寄付せんとするのであるから是非快諾せよ」>なかなかの名演説。当時の住吉村は仙境と言ってもいいほどの閑静なお屋敷街。この演説をしたのは、第三代住友総理事の鈴木馬左也翁でした。上の昭和7年の地図の黄線で囲ったところが村山邸、赤線で囲ったあたりが武藤山治邸、鈴木馬左也邸は御影群家とありますから、村山邸の南側だったのかもしれません。<「小林君、既に平賀社長は承知して居るのである。君が頑張る理由はないではないか」「そんなに叱らないで下さい。私は住友の奉公人ではありませんから」>と平静を装って答えたようですが、声は震えていました。 最後に「大問題ですから重役会議を開いてきめましょう。然し私は反対であることをハッキリ申上げて置きます」と言い放って席を立ちます。 小林一三は観音林一帯が巨岩磊々の難工事になること、工事のため開通が遅れることが会社の致命傷になることを恐れて、解決策を探ります。結論はSカーブ。<さりとて阪神間における巨頭三大人がこれほど辞を厚うしての申入れに対し、余りに冷淡に看過しては申訳がないと思って現在御覧の如く村山邸の北隣を通過するために、観音林からSカーブの悪線に余儀なく変更したことは、今になって考えるとまことに何というう意気地がなかったであろうと、愚痴ざるを得ないのである。>航空写真を見ると、大阪側から来た阪急神戸線が村山邸の森のところを迂回して、カーブしているのがよくわかります。御影といえど現在は緑があまり残っていませんが、神戸線開業当時はまだ「阪神間唯一の明媚閑雅なる住宅地」で緑も多かったもでしょう。有馬道踏切でSカーブの写真を撮影してきました。Wikipediaによると、この区間では長らく65 km/hに制限され減速を強いられてきたが、線形改良(緩和曲線延長・ロングレール化・カント修正)により1993年7月に70 km/hに、2006年10月に90 km/hに向上したそうです。若き小林一三が立ち向かったのは当時の相当な実力者3巨頭。Sカーブにしても実現するには相当困難な交渉だったことでしょう。
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『ダウントン・アビー』最終回は信じられないほどのハッピーエンド
NHK―BSプレミアムで再放送されていた『ダウントン・アビー 華麗なる英国貴族の館』の最終回が終わりました。 このシリーズ途中から見出したのですが、20世紀初頭のイギリス田園地帯にある大邸宅 “ダウントン・アビー”で、貴族や使用人たちの間で繰り広げられる愛憎劇。毎回、そこで暮らす特権階級の貴族のみならず、使用人たち一人一人のドラマが描かれ、ハラハラ、ドキドキ、思わず引き込まれてしまいました。ダウントン・アビーはジュリアン・フェロウズの脚本で、2010年からイギリスで放送が開始されたTVドラマですが、明らかにカズオ・イシグロの『日の名残り』にヒントを得たものと思われます。1989年英国最高の文学賞、ブッカー賞受賞作となった『日の名残り』は失われつつある伝統的な英国を描いた作品で、1993年にはアンソニー・ホプキンス主演で映画化されています。 品格ある執事の道を追求し続けてきたスティーブンスは、新しい主人ファラディ氏の勧めで、イギリス西岸のクリーヴトンへと小旅行に出かけ、美しい田園風景の道すがら、長年仕えたダーリントン卿への敬慕や執事の鑑だった亡父、女中頭への淡い想いが描かれています。「品格」という言葉がこの小説の一つの柱になっているように思え、原書を読んでみました。一つは”Dignity”、更に“Quality”も品格と翻訳され、こちらの「品格」はおそらく「偉大さ」“Greatness”という言葉で表現するのが最も適切でしょう。と翻訳されていました。 これらの言葉が、きっとイギリスの精神のバックボーンにあるのでしょう。それをカズオ・イシグロはこの小説全体で見事に書き表わしています。『日の名残り』で執事のスティーブンスと女中頭のミス・ケントンは結ばれませんでしたが、『ダウントン・アビー』では執事のカーソンと女中頭ヒューズはめでたく結ばれます。 また『ダウントン・アビー』の最終回では、これまでの一人一人が紆余曲折を重ねてきた物語も、見事に全員がハッピー・エンドを迎え、ようやく安堵できました。印象的だったのはこの言葉。伯爵の次女、イーディスの結婚式の場面で、伯爵の母、バイオレット・クローリー(演ずるのはハリー・ポッターシリーズでもお馴染みのマギー・スミス)が、「多くの障害があっても、運さえよければ幸せになれる。それがイギリス式ハッピーエンド(English version happy ending)よ」といった言葉。この物語、最終回ではありえないほど全員がハッピーエンドを迎えたのです。そして、「イギリス人の気質はどこから来ているのかしら?」という問いに、「歴史に育まれたせいもあるけれど、お天気のせいよ」イギリス人らしいウィットのある答えでした。『日の名残り』、『ダウントン・アビー』それぞれ、余韻を残す優れた作品でした。
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御影駅から日本一の長者村界隈を歩く(その1)
神戸市東灘区住吉山手、住吉本町、御影郡家周辺は、昔は武庫郡住吉村観音林、反高林と呼ばれ、明治7年に官営鉄道が開通し、住吉駅が開業し、明治後期になると良好な環境に富裕層が着目し、住吉村一帯は郊外住宅地として発展します。 樋田毅『最後の社主』によると、明治33年頃、朝日新聞の創業者、村山龍平が約一万坪の土地を購入し、鬱蒼とした森を切り開いて明治41年頃に三階建ての洋館を完成させています。写真は村山邸の洋館。 そして、村山邸の創建が呼び水となり、住友銀行初代頭取の田辺貞吉、住友家の総理事の鈴木馬左也も広大な土地を取得。さらに明治40年頃に阿部元太郎が住吉川沿いの観音林、反高林の土地を開発、住宅地の譲渡をおこない、東洋紡績の社長となる阿部房次郎が取得しています。その後も住友本邸、東洋紡社長の小寺源吾邸、鐘紡社長の武藤山治邸、日本生命社長の弘世助三郎邸、野村財閥の野村徳七邸、大林組社長の大林義雄邸、乾汽船社長の乾豊彦邸、武田薬品社長の武田長兵衛邸、伊藤忠の創業者の伊藤忠兵衛邸、岩井商店主の岩井勝次郎邸、東京海上社長の平生釟三郎邸などが建ち、住吉村は「日本一の長者村」と呼ばれるまでになったそうです。 その跡地が現在どうなっているか、神戸新聞に掲載された住吉・御影の邸宅地図を片手に歩いてみることにしました。あまりにも多いので、今回は阪急神戸線の南側です。このあたりの現在の様子が、「金太郎」さんに教えていただいた野村不動産プラウド住吉山手の航空写真を見るとよくわかります。https://www.proud-web.jp/house/w137470/location/宅地開発されてしまった中で、今も残る村山邸の森の緑は存在感を示し、そこを避けて阪急神戸線がS字カーブしているのもよくわかります。その手前に結弦羽神社があり、村山邸に比べると小さな神社の森があるのですが、小林一三はこの神社の森も伐採して神戸線を通そうとしていたようです。村山邸の東側にあったのが、野村財閥の野村徳七邸(邸宅地図⑬)です。行ってみると、このような姿に。現在は御影野村ハイツとなっていました。野村不動産プラウドの広告では、「野村財閥創業者の二代目野村徳七が居を構えた、野村グループゆかりの地、御影」と謳われていました。南に下ると⑭山手幹線沿いにある東京海上社長で甲南学園創立者の平生釟三郎邸。現在は甲南学園平生記念館となっていました。⑮安宅弥吉邸はこのようなマンションに。 住吉川の東岸の本山村には、日立鉱山社長の久原房之助が一万坪超の土地に洋館、和館、宴会場まで設け、フラミンゴを飼っていたという逸話も残っています。⑯現在、久原房之助邸はオーキッドコートになっています。①の住友財閥の住友吉左衛門邸跡地もこのような大きなマンションになっていました。邸宅地図の②には大原孫三郎邸、③には東洋紡績の社長となる阿部房次郎邸がありました。ちょうど、上ヶ原貯水池から神戸市内への送水管が通る住吉川の水道橋のたもとにあり、現在は住吉本町公園となっています。 大原孫三郎の孫にあたり、大原美術館名誉館長の大原謙一郎氏は幼少時代ここで暮らされたそうです。10月1日には芦屋市ルナホールで「倉敷にも『阪神間』が息吹いている」と題して記念講演をされます。入場料は無料ですが、申し込みが必要で、問い合わせ先は芦屋市立公民館、TEL0797-35-0700となっています。次回は阪急神戸線の北側に行ってみます。
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御影駅から日本一の長者村界隈を歩く(その2)
日本一の長者村と呼ばれた御影界隈の散策を続けます。今回は阪急神戸線以北です。 邸宅地図から外れていますが、阪急御影駅の北西にあるのが大林組社長の大林義雄邸(昭和7年竣工)。門からは特徴ある丸い塔の一部が垣間見えます。 このお屋敷は昭和49年の映画『華麗なる一族』の万俵邸として使われたことも有名で、その後、木村拓哉主演でテレビドラマ化されたときも、万俵邸の外観は大林邸を模したCGでした。 大林邸は日本のスパニッシュ建築の代表作に位置づけられる作品で、全体の設計は安井武雄によるものですが、社長自らデザインに凝り、安井の設計が気に入らず、大林組設計部の木村得三郎を呼んで仕上げを任せたそうです。深田池から少し北に上って行くと、⑪日本生命社長の弘世助三郎邸があり、現在は蘇州園となっています。下は数年前使わせていただいた時の写真です。上2階の木造部分は、釘を使わない組子造り。弘世勘三郎邸時代の写真が展示されていました。正門の隣はガレージでした。⑩は昭和7年築、英国風の洋館、武田薬品の武田長兵衛邸です。正式名は銜艸居(かんそうきょ)となっています。武田邸の東向かいにあるのが⑨広海二三郎邸です。(写真の右側)この道を上がっていくと、左側の大きな敷地にヴォーリズ建築の小寺邸がありましたが、現在はこのように宅地として分譲されてしまいました。更に上がっていくと昭和11年頃建てられた、乾汽船株式会社を設立した乾新治邸があります。このお屋敷は神戸市指定有形文化財となっており、神戸市が管理していので、時々内覧会が開催されます。その時の写真です。更に、この上に行くと、嘉納財閥の7代目当主嘉納治兵衛の収集品を展示するため、昭和6年に設立された白鶴美術館⑰です。明治から昭和初期にかけて建てられた大邸宅も現在残っているものは少なくなりましたが、往時を想像しながらの御影の散策は楽しいものでした。
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陳舜臣の神戸港を歩く
Go to キャンペーンが始まっていますが、県外の旅行は家内から却下され、近場でリゾート気分を味わおうと神戸港に。中突堤から夜景を見ながら一泊です。 神戸港は慶応3年(1868年)の開港以来、その姿も大きく変わってきました。(写真は明治35年頃の神戸港の地図)明治40年には第1~第4突堤が竣工しています。大正6年には中突堤も姿を現しています。陳舜臣『神戸わがふるさと』に昭和のはじめから阪神淡路大震災直後までの神戸港の移り変わりについて触れられていました。<海岸通の南を臨海線が走り、そのむこうはもう海だった。西から弁天浜、国産浜、中突堤、メリケン波止場とならんでいる。国産浜はたしか昭和十年代の前半に埋め立てられた。神戸は平清盛の昔から、やたらに港を埋めたものである。>陳舜臣の子どもの頃の記憶にある神戸港の鳥観図がありました。(吉田初三郎昭和4年)<弁天浜は明治十年の西南戦争のとき兵站基地になったという。私たちの少年時代、そこにはイレズミをしたおじさんたちがたむろしていたので、子供たちはそこを敬遠して、中突堤からメリケン波止場にかけてを遊び場とした。>こちらは昭和53年の中突堤の写真ですが、手前の倉庫群となっているところが弁天浜。黄線で囲ったところが国産波止場。国産浜が埋め立てられ国産波止場となったのでしょう。 ここも埋め立てが進み、現在は中突堤中央ターミナルが建ち、神戸港遊覧船の発着場となっています。<中突堤とメリケン波止場のあいだの海は、ハシケ溜りで、ハシケを家とする家族も多かった、彼らの水上生活が、幼い私たちにはロマンチックに見えた。突堤の石垣のすきまに、よくウナギがもぐりこむが、それを釣り出す方法を教えてくれたのはハシケの子供であった。>ハシケ溜りだったところの現在の様子です。<子供時代の遊び場の海が、またしてもあっさり埋め立てられ、メリケン・パークと呼ばれるようになったのは、ごく最近のことである。「メリケン」という呼び名は馴染み深いが、なんとなくもの悲しくも響く。ハシケの人たちの生活を連想するからであろうか。>現在のメリケンパーク。陳舜臣が幼年時代を過ごした神戸港は、その後発展を続けてきましたが、コロナの影響もあってか、ハーバーランドもモザイクもうら寂しい風情。早く活気を取り戻してくれればいいのですが。
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『探偵小説の街・神戸』横溝正史生誕地碑へ
神戸ハーバーランドから少し足を延して、横溝正史生誕地碑まで行ってみました。神戸を舞台にした探偵小説は数多くありますが、野村恒彦『探偵小説の街・神戸』で次のように紹介されています。<神戸は探偵小説の街である。古くから港町として開け、海外との交流も数多くあった。そのせいであろうか、海外の探偵小説に出会う機会も多かったに相違ない。そして、港町の開放的な気質から、それらを受け入れることも容易であっただろう。>「みなとまちKOBE」は開港以来、探偵小説が似合う町。<神戸にある旧外国人居留地や異人館などは、探偵小説の舞台として事欠かないだろうし、外国航路があった港町はいかにも魔都という名にふさわしい雰囲気を持っていただろう。そして、このような街にこそ、探偵小説はふさわしいのかもしれない。>第七章、八章では「神戸とミステリー」と題して、陳舜臣、横溝正史、高木彬光、内田康夫、西村京太郎はじめ多くの作家の神戸を舞台とした作品が紹介されています。(写真2番目のビルは陳舜臣『枯草の根』の東南ビルのモデルと推定される海岸通りの商船三井ビルディング。何とこの1,2階はゴルフ5になっていました。)また第一章「探偵小説の揺籃期と神戸」の中で、横溝正史と江戸川乱歩の交流について触れ、『探偵小説四十年』には、神戸もたびたび登場し、二人が神戸の家具屋の店先で大きな肘掛け椅子が陳列してあるのを見つけ、乱歩が「この椅子の中へ人間が隠れられるでしょうか」と聞いたという、エピソードが紹介されていました。 そして第六章では、三重県名張市には江戸川乱歩の生誕地碑が建立されているのに、日本の探偵小説界の二大巨頭のもう一人の横溝正史には生誕地碑が建立されていないことを不満に思っていた著者の野村恒彦氏が、神戸新聞に生誕地建立構想を発表し、実現するまでの経緯が述べられていました。その碑はハーバーランドの西側、神戸市中央区東川崎町にある川崎重工業の近くにありました。生誕地碑は地図の赤い矢印で示した所にありますが、実際の生誕地は黄色線で囲った、現在の川重の敷地内にあったことが示されていました。碑文は野村恒彦氏によるもの。その説明によると台座の「横溝正史 生誕の地」の文字は陳舜臣氏の揮毫。また2つのメビウスの輪のデザインについて、次のように説明されていました。<この記念碑は、一見、変わった形をしているが、デザインした武田教授は「2つのメビウスの輪がつながった形は、複雑に絡み合った難事件が、名探偵により、見事に解決されていく”横溝文学”にイメージを得た。この輪は動的であるが、それを載せた立方体は重く、安定して静寂である。この安定は記念碑が変わることなく、永久にこの地に存在し続ける意志の表現であり、同時に、神戸市の市章が、二つの輪が重なってできていることも考慮に入れた>「複雑に絡み合った難事件が、名探偵により、見事に解決されていく”横溝文学”にイメージを得た」とは納得です。地図には横溝正史旧居跡も示されていました。ここで薬屋を開業していたのでしょう。 横溝は江戸川乱歩による「トモカクスグコイ」という有名な電報を受け取り上京し、博文館に入社。そして「新青年」等の編集長を経て、作家として独立します。しかし彼の作品が広く知られるようになったのは、昭和40年代後半に講談社から「横溝正史全集」が刊行され、引き続いて代表作が続々と角川文庫に収録されたことによるもの。晩年、世間にその実力が認められてよかった。
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メリケン・パークとブラジル移民「希望の船出」の碑
陳舜臣『神戸 わがふるさと』の「神戸港」で書かれているメリケン・パークは1987年に造成されてまもなくのエッセイのようです。<メリケン・パークは、まぎれもなく新しい神戸のシンボルである。コンテナや餓鬼大将が夢のあとと、感傷にふける人たちも、しだいに年老い、やがてだれもがここがずっと昔からこんなふうだった、と思い込んでしまうようになるのだ。>その後、阪神淡路大震災で崩壊したメリケン波止場はそのまま残して、1997年に神戸港震災メモリアルパークとして整備され、2017年には大規模なリニューアル工事も完成しました。<メリケン・パークはまだ未完成である。大きなホテルも建つらしい。ポート・ルネッサンスというかけ声もきこえる。中途半端なところがあるにしても、私はここに来てほっとする。ハシケ溜りの海がそのままで、ハシケが一艘もいないよりは、こんなふうに埋め立てられたほうがよほどさわやかである。新しい海洋博物館は近代建築の傑作であり、そのフォルムは思いきりのよい美を表現している。思いきりのよさこそ、神戸の哲学であったし、またありつづけるのではなかろうか。>1987年に神戸港開港120年を記念して開館した「神戸海洋博物館」。大海原を駈ける帆船の帆と波をイメージした白いスペースフレームの大屋根が特徴的です。ホテルオークラ神戸が開業したのは1989年のことでした。メリケン・パークには様々なモニュメントがあります。その一つが1908年の第1回ブラジル移民船「笠戸丸」の出航記念、「希望の船出」の碑です。 ブラジル移民をテーマにした石川達三の『蒼茫』は第一回芥川賞受賞作。次のように始まります。<1930年3月8日。神戸港は雨である。細々とけぶる春雨である。海は灰色に霞み、街も朝から夕暮れどきのように暗い。>「海外移住と文化の交流センター」に展示されている『蒼茫』の原稿。 石川達三は1930年に、国立移民収容所に入所し、同年3月「らぷらた丸」の移民輸送の助監督として 神戸を出港し、ブラジルへと渡り、この経験を基に 『蒼氓』を執筆したのです。<第三突堤は風である。飄々と吹く浅春の風である。この冷たい海風の中に黄色いマストを立てて、マストからマストへ万国博のはためく上に、大阪商船の「大」の字の旗と黄と緑のブラジル共和国旗と、もう一つ青い色の出帆旗とが真横に吹かれている。白い帯戦を巻いた黒い船腹をがっしりと水の上に浮かべたこの大汽船の船首には、日字と英字とでこう書いてある。「ら・ぷらた丸」“La Plata Maru”>国立移民収容所は、現在「海外移住と文化の交流センター」となって、建物は保存されています。センターに展示されていた「ら・ぷらた丸」船上の石川達三の写真です。(写真の右端が石川達三)陳舜臣氏がおっしゃる通り、メリケン・パークはまぎれもない神戸のシンボルとなっています。
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カトリック住吉教会に招かれた遠藤周作(『幼なじみたち』)
遠藤周作は、カトリック夙川教会に通っていた少年時代の幼友達で後に神父になった稲田豊神父が、1977年に司祭叙階25周年を迎え、その祝会に出席しました。(1983年12月に遠藤周作が講演のため宝塚ホテルに宿泊した時も、友人たちとの懇談のため稲田神父がホテルまで迎えに行っています)『幼なじみたち』は稲田神父からの突然の電話で始まります。<幼なじみは神父である。阪神の御影にある小さな教会の主任司祭をしている。私より三つも年下なのだが、頭にはもうほとんど毛がない。>阪神の御影にある小さな教会とは、カトリック住吉教会でした。<「周ちゃん」彼は四十年前、夾竹桃の赤い花の咲く教会の庭でキャッチボールをやっていた時と同じ呼びかけをした。私は彼の禿げ頭を思い出し、そんなはげ頭になった五十歳の男が、周ちゃんと妙な声を出したのが可笑しかった。「周ちゃん。忙しいのは、わかってるねんけど、来週の日曜、阪神に来てくれへんか。実はね」>二人がキャッチボールをしていた夾竹桃の赤い花の咲く教会とはカトリック夙川教会でした。敷地は当時よりかなり小さくなりました。 稲田神父から、実は神父になって二十五周年になるので、昔なじみだけのささやかな集いをやるので来てくれないかという頼みの電話でした。<「うん。行くよ。何とかして」幼なじみのためなら無理しても行かねばならぬ。そういう機会を逸したら、もう二度と会えないかもしれぬ━そんな年齢に私たちはもう達しているのだ。>伊丹空港に降り立った遠藤を稲田神父が迎えにきて、カローラで神戸に向かいます。<幼なじみが主任司祭をしている御影の教会はそんなに大きなものではなかった。五百坪ほどの敷地に小さな教会と木造の司祭館とそして幼稚園とがあった。私は彼が電話をかけている間、その幼稚園の庭で少年たちがボールを投げているのをぼんやり眺めていた。>遠藤はそこに少年時代の不器用な自分の姿を蘇らせていました。遠藤周作が訪ねた頃のカトリック住吉教会の写真がありました。 住吉教会の沿革を調べると、1935(昭和10)年、パリ外国宣教会のカスタニエ司教によって御影町に設立され、翌1936年には現在位置(住吉宮町)に移転したそうです。更に初代主任司祭(1935.5~1937.12 )はメルシェ神父で、このあと夙川教会に着任し、遠藤周作と出会っていることがわかりました。もちろん、稲田神父の集いにメルシェ神父も出席され、その御様子も『幼なじみたち』に書かれており、次回紹介いたします。
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