遠藤周作が中学時代、カトリック夙川教会で面倒をかけ、神父の中の神父と称賛しているメルシェ神父は、1930年に来日し、1935年から1937までカトリック住吉教会の初代主任司祭を務めた後、カトリック夙川教会に移っています。 遠藤周作が1977年に幼なじみの稲田神父の司祭叙階25周年の祝会に招かれ、住吉教会を訪れたとき、72歳になったメルシェ神父と再会します。『幼なじみ』からです。エッセイではボッシュ神父と名前を変え、登場します。<私はやはり関西に来てよかったと思った。ボッシュ神父とはもう三十年間、顔をあわせていない。戦争が終わった直後、この仏蘭西人の神父は高槻にある収容所からやっと釈放されたのだが、その時、私は東京に住んでいたのだ。>遠藤周作はメルシェ神父とは戦後ずっと会う機会がなかったのです。しかし、少年時代の遠藤はメルシェ神父に反発するかのように、悪戯を繰り返し叱られてばかりでした。<子供の頃、私はまだ四十代の顎髭をはやしたこの仏蘭西人の神父をよく怒らせた。教会の中庭で野球をやっている時、私の投げたボールが彼の司祭館の硝子を砕いた時、鍾馗様のように真赤な顔をした彼に耳を引っ張られた。私の飼っている犬がミサの最中に聖堂のなかに飛び込んできて、信者たちを驚かした時は、私はもう教会に来てはならぬとひどく彼から叱られた。>当時の司祭館や中庭が見えるカトリック夙川教会の写真がありました。 メルシェ神父は戦争中憲兵隊に捉えられ拷問された後遺症がでたのか、少し体を悪くし、仁川の修道院で療養していましたが、稲田神父の祝会に出て来られました。<うしろで足音がした、ゆっくりと、静かに、その挨拶の邪魔をしないように歩いてくる。その足音だけで私は背のまがった老人を想像した。ボッシュ神父は粗末な外套を着て両手の掌を重ねながら、前の席にそっと腰をおろした。> 稲田神父の聖堂でのミサと挨拶のあと、司祭館の食堂に移り、幼なじみたちとメルシェ神父を囲み歓談が始まります。<「神父さん。周ちゃんはひどかったですよね」とヤッちゃんがボッシュ神父さんに声をかけた。「教会の尖塔によじのぼって、おシッコしたのを憶えてはりますか」「はい。憶えています」ボッシュ神父さんは微笑しながら私のほうをふりむいて、「よく叱りました」「こわかたなあ、神父さんは」「でも、そうでないと、メチャメチャでした。婦人会から苦情がよく出ました。怒らないと私が困りました」「ほんま、婦人会のおばさんたちには睨まれとったからなあ、周ちゃんは。実際、あの頃の周ちゃんが小説家になるなんて考えもせんかった」>あの塔の上からおシッコしたというのも本当のことだったようです。 悪童だった遠藤周作はメルシェ神父のことを当時は天敵くらいに思っていたのではないでしょうか。そして話題は戦争中、信者たちが非国民と言って苛められた話になります。<その時突然、皆の視線がボッシュ神父さんのほうにそっと向けられた。我々も苛められたが、神父さんだけが拷問まで受けたのだ。神父さんの顔に一瞬、当惑したような、恥ずかしそうな表情が浮かんだ。それから彼は無理に微笑してみせた。私の眼にはその微笑が泣き笑いのように見えた。> 遠藤周作は「昭和―思い出のひとつ」でも、<終戦まで彼が受けた拷問はすさまじいものだったらしく、戦争が終わって教会に戻ってきた時は骸骨のようにやせ、体中、皮膚炎になっていた。しかし彼は戻ってきて最初の日曜のミサの時、集まった信者たちに、「わたくしは日本人を恨んでいませんから」とひとこと言ったきり、この二年前に死ぬまで四十年のあいだ一言も当時の思い出を口に出さなかった。>と述べています。『幼なじみたち』は次のようにメルシェ神父の言葉で静かにおわります。<「神父さん、疲れませんか」と誰かが言った。「いえ、大丈夫」と神父さんはうつむいて呟いた。「体の痛くなりますのは冬の寒い時だけです。春のきますと治ります。いつも、そうです」>メルシェ神父の戦後の言動が遠藤の心を捉え、神父の中の神父と言わしめたのでしょう。
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1977年御影の教会でメルシェ神父に再開した遠藤周作
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阪急神戸線百周年「ガラアキ電車」の自虐広告と小林一三
阪急神戸線が開通して今年で100周年になるそうで、何度か新聞記事にもなっていました。その阪急神戸線御影の村山カーブの由来を調べていて、小林一三の『逸翁自叙伝』をじっくり読むことになり、阪急神戸線開通までの紆余曲折が如実に書かれていました。 神戸線が開通する前の計画は、灘循環電気軌道という会社が神戸市の葺合より東海道本線・阪神本線の北側および南側を通って、神戸と西宮を結ぶ形の環状線を敷設するための特許を取得しており、箕面電車が、これと路線を接続させる形で、阪神間の輸送に参入する構想でした。『逸翁自叙伝』からです。<道窮すれば自ら通ず、天は自ら助くる人を助く。かくのごとく貧弱であった箕面電車が阪神間の新線を建設しようと苦心しつつある時、第一次世界大戦の好景気は、私の会社の繁昌とその営業成績の向上を現示した。この機会を逸すべからず、大正五年四月二十八日に臨時株主総会を開き、灘循環特許線買収を決議し、ただちに十三門戸線と特許線合併の認可申請をしたものである。> しかし、この計画に阪神電車から灘循環線の特許壌土株主総会決議無効の訴訟が起こされるなど、紆余曲折を経て、神戸線が完成するのです。<阪神電車からの訴訟は一審二審、最終において大審院の勝訴に至る三か年間の係争の影響は、著しく阪神間の工事進行を阻害した。諸物価は暴騰した、またその間に住吉、村山氏邸内横断の特許線を変更せよと強要された事件などが起こり、工事の進行はすこぶる遅々たり、はたして遂行し得るや否やと疑問視されたものである。>ここでも村山カーブについて触れていました。 この苦難を乗り越え、大正7年に社名を阪神急行電鉄株式会社と改名し、大正9年7月16日に神戸線が開通します。田舎電車と呼ばれた箕面電車が建設資金を確保するため、あらゆるものを犠牲にしてようやく開通した神戸線。そしてあの広告が誕生です。<私はこういう広告文を書いた。「新しく開通した大阪(神戸)ゆき急行電車、綺麗で、早うて、ガラアキで、眺めの素的によい涼しい電車」それがお家芸の一枚看板、電車正面のこの広告が、阪神間の全新聞紙に載った時の私の嬉しさ、アア、ガラアキ電車!オールスチールカー、四輌連結、三十分で突走しているあの日本一の電車の前身である、たった一輌のガラアキ電車!>この広告文を考えたときの気持ちは、具体的には述べられていませんが、文章を読む限り、こんな快適な電車を開通させたのにガラアキとは、どうにでもなれという気持ちにもとれますが、逆にこれを何とか満員にしてみせるぞという決意表明だったのでしょう。これを読んだ当時の乗客の感想も聞いてみたいものです。 この章、最後は開業当時明治34年と昭和27年の阪神と阪急の決算表を比較して、阪急が大逆転している決算値を見ながら涙する場面です。<私は最近阪急三代目の連中から別記統計表を受取って、ジッと見詰めていると老いぼけた私のまつ毛に露が浮かぶのである。>小林一三は阪神に対して相当なライバル心を持っていたのでしょう。 箕面電車開業後、そして神戸線開通後も持ち上がっていた阪神電車との合併談ですが、2005年に村上ファンドが阪神電気鉄道の筆頭株主となった事件から、、2006年には阪急ホールディングスが、阪神電気鉄道を完全子会社化し、阪急阪神ホールディングスとして経営統合されます。小林一三が生きていれば、どんな感想を述べたでしょう。
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神戸を愛した作家たち(竹中郁「わが神戸 金星台」)
竹中郁『私のびっくり箱』に「わが神戸 金星台」と題して、神戸の街を愛した作家たちについて綴られていました。 竹中郁は神戸に生まれ、生涯を神戸で過ごしました。<この神戸が好きで動かないのは、私一人だけではない。私の中学生時代からの相棒の、画家の小磯良平がそうだ。>小磯良平は神戸市の中山手通りに生まれ、竹中郁とは神戸二中の同級生で、生涯の親友。大学卒業後も二人でフランスに遊学しています。竹中郁をモデルにした『彼の休息』<東は西宮市背から西は須磨の浦一の谷の合戦場あたりへまでつづく六甲山系の、前は大阪湾を一望にみはるかし、紀伊水道や淡路島を指呼できる風土。山の水は清く冷たく、しかもおいしく、山海の獲ものは鮮しく、水害以外は災害なしとくると、誰しもがこの地に腰をすえたくなろうというものだ。日本画家の村上華岳もそうだった。>六甲ガーデンテラスから大阪湾を見晴らす景色です。<俳句人の山口誓子も、神戸市とはいいかねるが、六甲山系にくらいついて三十数年というところだ。俳句人の中の鬼才西東三鬼はボヘミアンらしく、神戸のトアロードの中程のトアホテルアパートという妙ちきりんな西洋下宿屋をねぐらとした。ついで、山本通りの木造異人館でくらした。その著『神戸 続神戸 俳愚伝』をよむと彷彿とする。>山口誓子は苦楽園にその寓居跡には夫妻の歌碑があります。西東三鬼は昭和18年の夏にトア・アパートメント・ホテルを引き払ったことが『神戸』に書かれています。<私達はその翌日、ホテルを引き払って、山の手の家へ引越したのである。その家は、明治初年に建てられた異人館で、ペンキはボロボロ、床はブカブカしていたが、各室二十畳敷位の、ガンガラガンとした部屋ばかりであった。……戦後、この西洋化物屋敷を、三鬼館と命名したのは誰であるか知らないが、来訪した次の諸先生の中の一人に違いないのである。>『私のびっくり箱』に戻ります。<小説家の陳舜臣は神戸生まれ神戸育ちで、なまじっかな神戸人よりも神戸にそそぐ愛情はふかい。六甲山の山ふところの、相当嶮しく不便なところにわざと住んで、正真正銘の岩清水を汲んでくらしている。花崗岩質の山塊から迸る水だ。私は井戸水でがまんしているが、山清水とは羨ましい。>陳舜臣さんのご自宅は灘区篠原伯母野山町の六甲学院の正門前にあったそうです。写真は六甲学院からの景色。竹中郁がこのエッセイを書いたのは昭和52年のこと。登場する人物は皆さま亡くなられましたが、最後まで神戸の街を愛されていたようです。
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苦楽園「三笑橋」の由来(竹中郁『私のびっくり箱』)
竹中郁『私のびっくり箱』「苦楽園とは」からです。<国鉄の芦屋駅の前から走るバスで「苦楽園」行きというのがある。それに乗ると終点は小さい橋のたもとで、その橋は「三笑橋」という名だ。ここらは大正十年ごろに土地開発された。電鉄沿線に土地経営がはやったが、その波の一つだ。> そこでで、竹中郁は「三笑」、「苦楽」の命名のしぶさを語ります。<「三笑」という中国の故事は、詩人陶淵明を送ってでた法師がつい話に夢中になって、渡るつもりのなかった虎渓という谷をうっかり渡った。そこで三人が大笑いしたのに由来する。絵にも描かれることが多く、大観や関雪も手掛けた。その虎渓三笑からこの橋名はもらったのだ。その苦楽園の売出し広告文に、スイスのローザンヌに似ているとかと、与謝野晶子夫妻が云っていたのもおぼえている。>こちらの虎渓三笑の絵、英語で“Three Laughs at Tiger Brook”とキャプションが付けられていました。こちらは曽我蕭白 「虎渓三笑図屏風」 (ボストン美術館所蔵作品)。開発された当時は、このような風景を思わせるようなところだったのでしょう。 私も久しぶりに三笑橋の記憶を確かめに、苦楽園口から阪急バスで「苦楽園」に登ってみました。これが現在の「三笑橋」。正直申し上げて、まわりの景色が変わったこともあるでしょうが、命名の由来ほど風情のある橋ではありません。1915年の三笑橋の写真がありました。はげ山の六甲山系が移っており、橋のたもとの家がなければ、中国の故事を思い起こすかもしれません。しかし、スイスのローザンヌに似ているとは。昔も今も土地開発の広告には驚かされます。こちらは楽天不動産の苦楽園分譲地の広告ですが、まあリーズナブルといえましょう。六甲山麓苦楽園もフォードで温泉客を迎えていた時代とは大きく変わり、アウディが颯爽と走る高級住宅街となりました。竹中郁が生きていたら何と言ったでしょう。
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苦楽園ラジューム温泉で泳いだ竹中郁(『私のびっくり箱』)
竹中郁『私のびっくり箱』から苦楽園の話題を続けます。<とにかく今日走っても、あの東六甲山の斜面はいい眺めで、ひろびろと心地よい。後に六麓荘という一廓がくっついた形でできて、ゆったりとした住宅地の佳景をつくった。苦楽園がはじめラジューム温泉などといって浴場を建てたあたりは(これは三笑橋から東へ少々のところ)様変わりして大正時代の俤(おもかげ)がない。 とにかく一回だけこの温泉の湯につかった記憶がある。大きな浴槽をたった一人で占めて泳いだ記憶がある。> 苦楽園が中村伊三郎によって別荘地として開発されたのは1911年(明治44年)。六麓荘の開発は、1928年(昭和3年)のことですから、昭和の初めの頃は、六麓荘は苦楽園の弟分だったようですが、今や高級住宅地の名前としては六麓荘が鳴り響いています。地図でお分かりのように、芦屋の六麓荘と西宮の苦楽園とは市境で、隣り合わせです。2011年には下村海南邸があったあたりの住宅開発が進み、当時こんな広告板が現地に立てられていました。 また苦楽園ラジューム温泉は昭和13年の阪神大水害で鉱泉が枯れ閉鎖しましたから、竹中郁がラジューム温泉で泳いだのは昭和の初めの頃だったのでしょう。 昭和9年湯川秀樹は大阪から苦楽園に引っ越してきましたが、夫人の湯川スミさんが『苦楽の園』で家族みんなで窓際に並んでその景色に見とれたと述べています。写真は三笑橋から少し上ったところにある旧湯川邸。<大阪の家より部屋数は少ないが、空気は綺麗だし、乾燥している上に、南に向いた山の中腹なので見晴らしが素晴らしかった。夜になると阪急、阪神、国鉄の電車や汽車の光が行き交い、えもいわれぬ景色だ。夕食後のひと時、私たちは家族みんなで窓際に並んで見とれたものであった。>現在も素晴らしい見晴らしが拡がります。この下の住宅地あたりが、ラジューム温泉があったところですが、まったくその面影は残っていません。 ここで竹中郁は「苦楽園」の名前の由来について興味を持ち、この土地を経営した娘の中村孝子さんに尋ねますが、後日土方久元が命名者であったとの報告を受けます。<この土地の開拓者中村伊三郎は阪急の小林一三と義兄弟の誓いをした仲で、似たようなタイプの事業化だったらしい。中村夫人の努力で、じつはこの命名者は大隈ではなくて、時の宮内大臣の土方久元だと訂正の報告があった。> 名前の由来の詳細については、『月刊神戸っ子』2014年11月号「苦楽園の歴史」に詳しく書かれていました。<この「苦楽園」という名称は、瓢箪の名前に由来している。開発者の中村伊三郎は、家宝としてある瓢箪を大切に所有していた。この瓢箪の名こそ「苦楽瓢」で、そこから苦楽園と命名したという。この瓢箪は三条実美卿や土方久元伯ゆかりのもので、文久3年(1863)の七卿落ち(尊王攘夷派の7人の公家が京都から追放され長州藩へ落ち延びた事件)の際に死を覚悟してこれで別れの杯を交わしたが、後に無事で会うことができたことから苦の後に楽ありで「苦楽瓢」と名付けられたという。>六麓荘が開発される前の大正時代末期の苦楽園の写真です。
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小林一三『逸翁自叙伝』から箕面動物園の失敗
箕面に明治43年から大正5年まで、日本有数の箕面動物園が開業していたことをご存知でしょうか。『逸翁自叙伝』に「動物園の失敗」として反省を込めて述べていました。<会社の名称が箕面電車であるその第一の目的地箕面公園は、電車の開通と同時に、日一日と春めく花だよりを機会に、箕面動物園を開場した。>その跡地を早速訪ねてみました。箕面へ行くのは小学校の遠足以来です。まず阪急箕面駅直ぐ近くの、みのおサンプラザ地下一階の箕面市立郷土資料館で下調べ。ジオラマや箕面動物園の写真が展示されています。<公園入口左手の動物園は、渓流に日光の神橋を写した朱塗りの橋を渡って、二間四方朱塗の山門から左へ登りゆくのである。園の広さは三万坪、だらだら坂を曲りまがって中央の広場には余興の舞台がある。数十町の道に沿うて動物舎がある。渓流の一旦を閉じて池を造り、金網を張った大きい水禽舎には数十羽の白鶴が高く舞う。>ジオラマには「日光の神橋を写した朱塗りの橋」、「二間四方朱塗の山門」が再現されていました。こちらが動物園の案内図。動物園入り口の「不老門」と手前の塔は券売所。らくだの写真や鶴のいる水獣舎の写真も展示されていました。もちろんライオンも。観覧車まであったようです。 ところで動物園入口の橋は箕面の大滝に向かう一の橋とは違い、その手前にあったようです。現在の地図と見比べると、箕面観光ホテル、スパーガーデンのあたりに動物園があり、黄色の線で囲ったところが朱塗りの橋があったところ。現在はガードレールのついた道になっており、橋とは気付かないくらいです。現地に行ってみますと、残念ながら立入禁止となっていますが、アーチレンガ積みとなっている「豹のいた檻」の跡がみられます。この坂を上っていく途中に色々な獣舎や休憩所があったようです。 開園当初は遊覧客も多かったようですが、大正5年に閉園となります。<その頃の関西には京都以外に、動物園はなかった時代であるから、遊覧客はなかなか多い、ことに自然の岳岩を利用し、四角の箱の中に飼育せしめたものと異り、猛獣の生活を自由ならしめた自然境の施設は自慢の広告材料であった。園内の絶頂には鉄骨の回転展望車を造って、大阪湾を一望のうちに望むというのであるが、結局失敗に終わって閉鎖した。> 失敗の原因の一つは、猛獣舎の改造や維持費もかかることにありましたが、それより大きな問題は清麗な環境を守ることでした。<箕面公園は春は桜の花、若葉青葉新緑の涼しい夏を送って初秋の七草千草、やがて満山燃ゆるがごとき紅葉の名所として、すでにすでに天下に名あり、煤煙と俗塵の大阪から半時間を要せずして、この仙境に遊ぶ。これは箕面電車の至宝であるから、この清麗な環境を、徒に俗化することは大阪市民の期待に反し、レクリエーションの精神に反する結果にもなる、出来るならば、俗化せざる渓谷森林の自然美と、高尚にして風雅なる天然公園を維持し保有することが、この会社の使命であるという大方針を討議することになったのである。>なるほど箕面の風雅なる天然公園を維持し、俗化を避けることが得策と考えたようです。しかし、行ってみると、現在は巨大な箕面温泉スパーガーデンと箕面観光ホテルの巨大な建物が山際に聳えているのにはびっくりしました。
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箕面電車の開業(『逸翁自叙伝』)とラケット型線路の箕面駅
箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)が開業したのは明治43年。最初の路線として梅田ー宝塚間の宝塚線と石橋ー箕面間の箕面支線が開業しました。(写真は箕面郷土資料館の展示から)『逸翁自叙伝』を読むと開業にかけた小林一三の思いが伝わってきます。<私は「最も有望なる電車」というパンフレットを、確か一万冊だと思うが、41年10月に発行、紙数37頁、建設予算からその工事説明、収支予算、住宅の経営、遊覧電車の真価等を詳述したものを市内に配布した。>「最も有望なる電車」では開業後八分の配当とし、うまく行けば一割配当はなんでもないと風呂敷を広げ、住宅経営について次のように述べています。<それは外国の電鉄会社が盛んにやっている住宅経営の事です。会社の所有となるべき土地が気候適順、風景絶佳の場所に約二十万坪、僅かに梅田から十五分乃至二十分で行けるところにあります。此処に停留所を設け大いに土地開発の策を講じて沿道の乗客を殖やし、同時に土地の利益を得ようと云う考えです。> 更に箕面有馬電鉄の沿道はそんなによいところかという問いに対して、<この沿道は飲料水の清澄なること、冬は山を北に背にして暖かく、夏は大阪湾を見下ろして吹き来る汐風の涼しく、春は花、秋は紅葉と申し分ないことは論より証拠でご一覧になるのが一番早わかりが致します。>いいことづくめの説明、相当思い切った宣伝で、発行に際して、もしこの通りできなかったら重役の責任はどうなるのかという反対意見もあったそうです。 さて開業当時の箕面駅のジオラマです。(箕面郷土資料館)箕面公会堂の周りをぐるりと回るループ状になっており、降車場と乗車場が分かれており、バスターミナルのようです。こちらは平成16年度の地形図に明治43年の箕面駅のレイアウトを重ねたもの。現在の箕面駅に降りると、そのカーブの名残りが少し残っています。 何故折り返し運転せずに、バスターミナルのようなループ状にしたのか調べてみると、開業当時は、電車の架線からの集電はポールが使われていて、終点で折り返すには乗務員が一旦外に出てポールを架線から外し、ポールに繋げられたロープを引っ張って反対側に切り替えるという面倒な作業を必要としたためだそうです。 箕面有馬電気鉄道1型模型。確かにポールがついており、排障板もあり、路面電車のような構造です。 蛇足かもしれませんがジオラマを見ていて、箕面駅前にカフェパウリスタがあったことを知りました。電飾塔の右側の建物がカフェパウリスタです。明治44年6月25日に箕面公園入口 カフエパウリスタが開業したとのこと。Wikipediaで「カフェパウリスタ」について調べると、最後に「2003年、箕面市の市史編纂の過程で、箕面駅前のカフェパウリスタが1911年(明治44年)6月に開業していた事実が判明した。これは銀座店より半年ほど早い。箕面店はまもなく閉鎖されたため、その存在さえ忘れられていた。建物は後に豊中市に移築され、豊中クラブ自治会館として使用されていた(2013年取壊し)。」と書かれていました。小林一三が呼んできたのでしょか。
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『逸翁自叙伝』から「松風閣の思い出」とお鯉さん美人薄命
先日箕面動物園の跡地を訪ねましたが、そこには明治の中頃、北浜銀行頭取の岩下清周ら7人によって、関西の財界人クラブとして建てられた松風閣と名付けられた建物がありました。現在も箕面観光ホテルの別館桂として残されています。<箕面動物園は廃止されて、その園内に残れる有名なる松風閣は、岩下氏ほか七名の出資による一種の匿名クラブとして、北浜銀行関係同人の来賓接待に使用されたのである。その設計新築は、建築道楽をもって有名なる志方勢七翁の宰領によって完成した。勾配の多い庭園を巧みに利用し、宏大なる二階造り、地下室を入れると三階になる。風流高雅、清閑の山荘、大阪第一として世人を驚かした。>『逸翁自叙伝』には山県有朋、井上薫、原田二郎ら明治の重鎮を松風閣に迎えた時のそれぞれの面白いエピソードが書かれています。しかし、箕面動物園の中にあったころは、面白かったでしょうが、本当に風流高雅だったのでしょうか。 また現在、箕面観光ホテルの「別館桂」と名付けられている理由は、明治時代に総理大臣にもなった桂太郎が、愛妾「お鯉」を伴ってしばしば泊まったので、人々は松風閣のことを桂公爵別邸と呼んだことからだそうです。 そのお鯉さんを小林一三が箕面駅で出迎えて案内したときの様子も『逸翁自叙伝』に述べられていました。<この美人は写真で知っている新橋のお鯉で、も一人は、付添いとは言うものの、立派な服装をしたお友達のような美人であった。私は松風閣と琴の家と、それぞれ手配し、それから東道の主人として三婦人と共に、流れに添うて歩き出した。>箕面公園入口の一の橋。こちらは現在の一の橋。一の橋から箕面公園に入り、瀧安寺弁財天まで歩いたようです。<瀧安寺の弁天さまへ参詣、境内の茶屋にてひと休み、渋茶を吞みながらつくづくと桂公の愛妓として有名なるお鯉さんを見た。何一つ欠点のない、申分のない別嬪であった。いま私の記憶に残っていることは、裾をちょっと褄からげて、帯留にはさむ、下着の下から長襦袢尾の派手な樺色の疋田鹿の子がダラリと垂れ下がって、その濃艶な匂いを漂わせ、白い足を床几にのせて、片足の足袋をぬいで足袋の中の砂を払っている右手の指には、大きいエネラルドが光る、仇っぽい粋な江戸っ子の彼女に、私は恍惚として見とれたのである。>ここまで小林一三が賞賛する美女とはどんな方だったのか調べてみると、星野星子さんの「いまトピ」というサイトに写真が掲載されていました。https://ima.goo.ne.jp/column/article/3964.htmlひょっとすると、この箕面電車のポスターのモデルはお鯉さんだったのかも。 お鯉さん、美人だけだっただけでなく、相当な人物だったようです。しかし、この項、次のように終わります。<お鯉さんに遇ったのは、ただこの一度だけである。その後、何十年後であったか、誰かの紹介状によって東京電灯の社長室において、お鯉物語を書くというので対談したことがある。こんなにも様子が変わるものかと美人の薄命を痛感した。>安藤照の自伝『お鯉物語』『続お鯉物語』は昭和2年、福永書店より刊行されています。 お鯉さん、桂太郎が亡くなられてから相当苦労されたようで、晩年は出家し目黒にある羅漢寺の尼僧となり1948年死去されたそうです。 お鯉さん、小林一三が案内した日は、瀧安寺から戻られたそうですが、私は箕面の大滝まで。小学校の遠足以来だったので安易に考えていましたが、上り坂もきつく、結構時間がかかりましたが、やはり上って来て良かった。帰りには、まだ紅葉はしていませんが、名物もみじの天婦羅を。ころもを食べるようなものですが、おいしかった。
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『名建築で昼食を』小説家のためのホテル・山の上ホテルへ(その1)
最近、テレビ大阪の番組で、真夜中テレビ「名建築で昼食を」という番組を見つけました。 東京都庭園美術館の回から見ているのですが、建物好きの私が東京在住時代に訪ね歩いたところばかりで、毎回楽しく見ています。原案は甲斐みのり『歩いて、食べる 東京のおいしい名建築さんぽ』。物語は、カフェ開業を夢見る主人公・春野藤が、「乙女建築」巡りを趣味とする中年の建築模型士と出会い、毎回名建築巡りをするというものですが、ドラマ仕立てとなっています。 今回紹介するのはW.M.ヴォーリズ設計の山の上ホテル。山の上ホテルのホームページを見ると、元々ホテルとして設計されたものではなく、九州の石炭商佐藤慶太郎氏が「佐藤新興生活館」として完成したもので、当初は財団法人日本生活協会の管理下に置かれたそうです。 当初は、西洋の生活様式、マナー等を女性に啓蒙する施設として利用され、太平洋戦争中には帝国海軍に徴用、敗戦後にはGHQに接収されて陸軍婦人部隊の宿舎として用いられていました。ホテルとしての開業は1954年で、そのとき山の上ホテルと名付けられたとのこと。初めて知りました。 山の上ホテルは作家のためのホテルと言われだけあって、池波正太郎、山口瞳はじめ多くの作家がホテルライフについて述べており、常磐新平は『山の上ホテル物語』で、創業者をはじめ支配人たちが語る作家たちの素顔や、特別なホテルを目ざすスタッフたちの情熱を詳しく描いています。
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『名建築で昼食を』小説家のためのホテル・山の上ホテルへ(その2)
今回私が主に参考にした本は山の上ホテルを舞台に、主人公の新人作家・中島加代子が繰り広げる物語・柚木麻子著『私にふさわしいホテル』です。冒頭は次のように始まります。<ホテルのエントランスに続くゆるやかな坂道に、八月の木漏れ日が差し込み優雅な模様を作っている。>この坂道は吉郎坂。<ウエハースを王冠の形に積み上げたような、アールデコ様式の本館が姿を現すにつれ、私の胸はどんどん高鳴っていく。正面玄関脇の面格子を飾る、遠峯健氏による「山の上ホテル」の涼やかなフォントを見つめ、心の中で呼びかけた。ただいま―。私のためのホテル。>ホテルを彩る、看板やドアノブプレートの、文字や絵を描いたのは、東京藝大出身の遠峰健。ホテルに社員として勤めながら、画家としても活動をしていたそうです。天井照明にはW.M.ヴォーリズの特徴の八芒星のデザインが使われています。床のタイルにも。オリジナルの設計図にも描かれていました。<山口瞳は、ここ山の上ホテルを「小説家のためのホテル」と称したそうだ。神保町古本屋街、大手出版各社に近く、調べものや打ち合わせの勝手が良いばかりではない。八十足らずの客室だから可能な行き届いたホスピタリティ、物書きに多い美食家をうならせる天ぷら屋ステーキの美味しさ、巣ごもり気分になれる丘の上の静謐な空間。そのすべてが小説に勝活力を与えるともに、創作の孤独をそっと包んでくれるのだ。>『池波正太郎の銀座日記』や山口瞳『年金老人 奮戦一日記』には、しばしば、山ノ上ホテルのてんぷらとステーキのお話が登場します。 彼らを感嘆させた近藤氏は山の上ホテルの「てんぷらと和食 山の上」で料理長を21年間務め、1991年に独立し銀座「てんぷら 近藤」を開業。世界中からもお客さんが足を運ぶミシュランの常連となっているそうです。ロビー向かって右手に「バーノンノン」の木の扉があります。<吉行淳之介のコラム「トワイライト・カフェ」の舞台にもなっているこのバーで、カクテル「ザ ヒルトップ」をナイトキャップにひっかけるのが、今夜の楽しみだ。><低いテーブルを挟んで頭をくっつけ合うように打ち合わせしているのは、出版関係者だろう。様々なレファレンスブックや田辺聖子の全集がぎっしり詰まった本棚、飴色のライティングデスク、革のソファ、手編みレースのコースター。何から何まで、自分のものにして持ち帰りたくなるほど、私の好みに適っている。豪華ではないけれど、上品な老婦人が暮らす家の応接間のような温かみとお手入れが素晴らしい。>多くの出版関係担当者が締切原稿を待っていたロビー。本棚には田辺聖子全集も置かれています。山口瞳がいつも使っていたのは畳敷きの本館401号室と洋室の403号室。<お待ちしておりました。昨年と同じく401号室をご用意しております」フロントのカウンター越しに、初老の男性が去年と同じ笑顔で応対してくれた。>今回の『名建築で昼食を』で案内された部屋は田辺聖子さんがいつも使っていた403号室。この机で名作が生まれたのでしょうか。私が山の上ホテルに偶然泊まったのは、まだそんな伝統のあるホテルだったとは露知らずの、もう40年以上前の事。シングルユースの小部屋でしたが、気持ちの良いホテルでした。Go to トラベルでまた行ってみるか。
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『名建築で昼食を』田中康夫も使っていた国際文化会館へ
『名建築で昼食を』で、コルビュジェらの薫陶を受けた3人の日本の建築家、前川国男、坂倉準三、吉村順三が共同設計した国際文化会館が登場しました。 この国際文化会館、田中康夫が執筆のためよく使っていたようで、『33年後のなんとなく、クリスタル』で、由利と国際文化会館で待ち合わせする場面が登場します。<六本木交差点から東京タワー方向へ向かい、二つ目の信号を右手に折れると、佇まいは繁華街から一転する。いずれも明治初期に創立されたプロテスタントの教会と女学校が続く。>女学校とは、東洋英和女学院。旧校舎はヴォーリズ設計によるもので、新校舎も一粒社ヴォーリズ設計事務所によるもののようです。<その先の、急な勾配の鳥居坂へ差し掛かる直前の右側、こんもりと樹木の生い茂った一廓が国際文化会館だった。約一万平方メートルの、六本木では貴重なゆったりした敷地。財閥解体でいったんは国有地となった、旧岩崎小彌太邸の跡地だ。>写真は私が以前伺ったときに撮影した入口。国際文化会館の庭園は、現在旧岩崎邸庭園として港区の指定文化財となっています。「名建築で昼食を」では主人公・春野藤が鳥居坂を上ってきます。田中康夫は次のように解説しています。<敗戦後、ロックフェラー財団を始めとする内外の諸団体や篤志家が資金提供し、文化交流や知的協力を通じて日本と世界の人々の相互理解を深めようと誕生した施設。僕が生まれる前年の昭和三十年=一九五五年に竣工した建物は、戦後モダニズムの代表作として評価が高い。> 会館の敷地として、岩崎小彌太(三菱財閥創始者、岩崎彌太郎の甥)が戦前に所有していた、日本庭園のある3000坪の閑静な都心の敷地の払い下げを受け、建物は第一線の日本人建築家3人(前川国男、坂倉準三、吉村順三)で1年余を経て竣工したそうです。番組では、日本庭園の見える名建築のレストランで昼食をとりながら、中年の建築模型士、植草千明が春野藤に、コルビジェ、ライト、レーモンドと前川国男、坂倉準三、吉村順三の関係を分かり易く説明していました。このレストランでのヤスオと由利の会話です。<そうなのよね、とちいさく頷きながら、ガラス窓の外を見やる。由利に引き摺られるかたちで、再び僕も視線を移した。「植治」の屋号で知られる庭師を京都から呼び寄せ、昭和初期に手掛けられた、近代日本庭園を代表する空間として知られる。若緑色した開放的な芝生の先に、鳥居坂の地形を巧みに活かして作庭された築山が広がっている。>私が訪ねた時は、シャッターチャンスに恵まれました。<「ここの雰囲気、落ち着くわね。訪れるたびに、そう感じる。打ち合わせの合間とかに時々、図書館を使わせて頂いているわ」インターナショナル・ハウス・オブ・ジャパン、略してIハウスへ僕が足を運ぶようになったのは、二十代半ばに会員となってから。こぢんまりとした図書室は僕も気に入っていて、以前は頻繁に原稿の執筆で利用した。>田中康夫氏は頻繁にここの図書室を利用していたようです。屋上からの眺めは東京タワーや六本木ヒルズに森も見えて面白い景色。 この建物の保存についてはこれまで2度の危機があったそうですが、2005年に一年近くの時間をかけて大規模な再生保存工事が行われたそうです。田中康夫は次のように解説します。<国際文化会館でもそれを可能としたのは、ディベロッパーとカタカナ表記される不動産会社への空中権の売却益だった。誰もが知る、東京駅の赤煉瓦駅舎を保存復元する事業と同じ選択。つるつるで、ぴかぴかな高層ビルの出現を認める代わりに、歴史的建造物の存在を実現する。この周囲も早晩、再開発され、高層ビルが林立していくのだ。なんとも皮肉な話ではある。>そうだったのか、国際文化会館が保存できたのは空中権の売却益によるものだったとは。
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細井和喜蔵『女工哀史』と香櫨園の浜にあった内外綿紡績工場
先だって大原謙一郎氏の講演があり、クラボウの創業者、大原孫三郎は「大原社会問題研究所」を設立するなど、『女工哀史』とはまったく正反対の経営者であったことが紹介されました。 この機会に、『女工哀史』の作者、細井和喜蔵について調べてみることにしました。和喜蔵は西宮の香櫨園の浜の近くにあった内外綿紡績工場に約1年勤めたこともあり、紡績工場での経験を基にした自伝的小説、『奴隷』を著しています。 西宮市立図書館所蔵の岸田耕一著『わがまちの女工哀史 -近代西宮のあけぼのー』(私家本)に内外綿工場の紹介があり、正門や寄宿舎の写真も掲載されていました。 そこでは飯田寿作氏の「酒都遊観記」を引用し、香櫨園にあった内外綿紡績工場について説明されています。<明治28年、日本紡績株式会社が建設されて近代工業のうぶ声が上がった。この建物が長く尾をひく煙を出し、海上をゆく船から見て一種の航路標識になっていた。明治38年には、それが内外綿株式会社第二工場となった。大正13年には男工304人、女工1200人そして当時は西の浜の紡績工場といわれて親しまれていた>この内外綿紡績工場は昭和18年12月13日、海軍の要請によって船舶用ポンプ製造の日本水力工業株式会社になりました。 内外綿紡績工場の写真はあまり残っていませんが、その様子は昭和11年吉田初三郎の西宮市鳥観図の西宮砲台の北側に、しっかり描きこまれていました。 和久田薫『女工哀史の誕生 細井和喜蔵の生涯』によると、細井和喜蔵は大正5年、19歳の頃、京都府与謝郡加悦町の実家から大阪に出てきて、紡績工場で働き始めたようです。 和喜蔵が関西時代に働いた工場は、地元の和喜蔵研究者の松本満氏の調査結果によると、①内外面会社第一紡績工場(西成工場)約三年 大阪市此花区伝法町②内外綿会社第二紡績工場(西ノ宮工場)一年余り 兵庫県西宮市泉町③東洋紡績四貫島工場 約一年半 大阪市此花区四貫島④大阪合同紡績神崎工場 兵庫県尼崎市神崎町⑤東洋紡績三軒家工場 ④⑤で約一年 大阪市大正区三軒家短い期間に紡績工場場ばかり転々としています。理由はそれぞれあったようですが、待遇改善や労働組合結成に向けて活動していた和喜蔵が会社から疎んじられ、会社を辞め、経歴を隠して、また次の会社に移ったようです。『女工哀史』は小説ではなく、いわばルポルタージュのような作品ですが、細井和喜蔵はその経験を基にして、自伝的小説を書き上げており、それがプロレタリア文学の初期作品として評価されている『奴隷』と『工場』です。次回はその『奴隷』に描かれた浪華紡績西の宮工場(内外綿株式会社第二紡績工場がモデル)について紹介します。
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細井和喜蔵が描いた内外綿紡績西ノ宮工場と塵突(『奴隷』)
『女工哀史』の著者、細井和喜蔵の自伝的小説『奴隷』を読むと、内外綿紡績第一工場(西成工場)に五年ほど勤めた後、内外面紡績第二(西ノ宮工場)へそれまでの経歴を隠して再就職した様子が書かれていました。 夜学へ通いながらの西成工場勤務時代、江治(細井和喜蔵自身がモデル)は日本労働総同盟友愛会主催の同会大阪伝法支部発会式を兼ねた労働問題演説会に出席し、即刻入会費を払い、入会手続きをします。ここで社会主義の概念と労働組合運動を学び、深い感銘を受けるのです。 その後、西成工場で愛していた女工、菊枝が姿を消し、菊枝を隠した疑いをかけられ、更に労働組合に入会したことを浪華紡績(内外綿紡績がモデル)に知られ、解雇されます。 しかし、現在では考えられないことですが、下宿先の親父に、同会社の西ノ宮工場に再就職するための添書きを書いてもらって、西成工場にいたことを隠して就職するのです。『奴隷』に西ノ宮工場の情景が描かれています。<株主を同じゅうする浪華紡績西ノ宮工場は有馬山脈口を背景に甲山を背負って香櫨園の松原続きに在って、二百五十呎(フィート)の円型五煉瓦煙突と百二十呎のタンクと塵突が辺りに一本の煙突もない透徹した青空に向かって魔のように聳え、白砂青松の自然美を征服した王者の如く泰然と構えている。そして八万錘の紡機と一千台の織機が昼夜囂然(ごうぜん)と轟き、タンクの脇の塵突から間断なく綿粕の塵芥を強烈な風車で送り揚げて四方へ吹き飛ばすので、浜の老松はすっかり葉を鎖されて了い汚れた灰色の雪が積もったように見える。そうしてそのために枯死した木さえ数見られた。>この説明でようやく、「煙突」(約7.6m)と「塵突」(約3.7m)は別であることがわかりました。現在も保存されている塵突の写真が、「近代建築巡礼」というサイトにありました。http://kitokitosya.blog.fc2.com/blog-entry-781.html洲本市の近代建築 2 洲本市立図書館 (旧鐘紡洲本第二工場塵突施設)<紡績工場の最大の特徴である塵突(塵突・工場内の綿屑等を外部へ排出するための設備で、煙突と同様の役割を果たす。)>塵突は四角い塔のようになっていて、煙突ほど高くはなく、きっと送風機で綿粕を空に向かてまき散らしていたのでしょう。吉田初三郎の昭和11年の鳥観図にも、丸い「煙突」と四角い「塵突」が描かれていました。(黄色の矢印のところ。もうひとつあるのも塵突かも知れません。)この塵突から綿粕がまき散らされ、周囲の松に灰色の雪が積もったような景色を作っていたのです。今ではとても信じられません。西宮砲台の後ろに見えている集合住宅あたりに、塵突が聳えて、綿粕をまき散らしていたのです。
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『女工哀史』の著者細井和喜蔵が住んだ西宮のあばら家とは
細井和喜蔵の自伝的小説『奴隷』には浪華紡績西ノ宮工場(内外綿紡績西ノ宮工場がモデル)に勤めた時代の住居についても次のように触れています。<絶対に逃れることの出来ぬ工場以外では喧騒を嫌い、人を厭うようになった江治は間代を張り込んで三畳の別間を借り、独り黙々として其処で起き伏しした。相も変らぬ粗末を通り越したようなあばら家ではあったが、でも三尺の小窓から浜の景色が覗かれて舟の出入りが眺められるのは思わぬ儲けものだった。可成り日が長くなって早く夜が明け、五時の起床汽笛にはもう戸外が明るい。彼はウォーブ……、ウォーブ……、ウォーブ……と三回に切って猛獣のように吼え唸る朝の汽笛を聞き乍ら、静かな寂かな朝凪に掉さす小舟を見て眼を醒し早天の礼拝をして工場へ出かけた。> きっと当時の西宮港、御前の浜あたりの光景を述べているのでしょう。 この細井和喜蔵が借りた住まいの場所について、和久田薫『女工哀史の誕生』では谷口寿郎『阪神文学散歩番外編 細井和喜蔵と西ノ宮』での論考を引用して次のように述べています。<和喜蔵が騒がしさと人を避けるようになったのは、大阪工場で失恋を経験し、その後憂鬱で孤独な日々を送っていたからである。谷口氏は彼の借りた三畳の別間の住まい場所は「おそらく浜辺に接した工場敷地の南側部分の宅地の一角」ではないかと推察している。明治末期の「土地利用図」を見ると、工場敷地をはさむように、北と南側に面して宅地が記されている。そして浜や舟が見えるなら、それは住宅の密集する北側でなく、海に突き出た南側だろうというのがその理由である。>昭和7年の地形図を見ると、住吉神社の周りに住宅があります。こちらは昭和8年の地図です。こちらは現在の地図。現地に行っても、ほとんどその時代の面影は残っておらず、こんな時、頼りになるのは昭和11年の吉田初三郎の西宮市鳥観図。住吉神社の南側(黄線で囲ったところ)に住宅が描かれており、このあたりに細井和喜蔵は住んでいたのではないでしょうか。
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大正時代の苦楽園は西洋の油絵のよう(細井和喜蔵『奴隷』)
大正15年改造社から出版されたプロレタリア文学・細井和喜蔵『奴隷』から続けます。 主人公・三好江治(細井和喜蔵がモデル)は浪華紡績西成工場で愛し合っていた菊枝が行方不明となり、西ノ宮工場に経歴を隠して再就職してからも、鬱々とした日々を過ごします。<工場では大阪から遣って来た学校出の経験者だとて仲々女工達の受けがいい。そして第一回の勘定日に決定された給料は西成工場より三割方よかったので彼は嬉しく思った。だが菊枝のことがどうしても忘れられないので、彼は自ずと憂鬱な日を送らねばならなかった。> そんなある日、江治は独り、香櫨園から苦楽園のラジューム温泉まで歩いて登っていきます。<今を盛りと咲き誇る躑躅(つつじ)が辺りの山々を時に染めて、逝く春の名残を飾っている。江治は今日もまた傷める胸を抱いて憂鬱な面持ちに鎖されながら、独り香櫨園を這い回った。そして暖かい春風が含む花の香と若葉の匂いに蒸されて過ぎし恋の日の追憶に耽り、甚く感傷的になって胸をふさがせつつ山の中腹へ登ってラジューム温泉旅館の在る六甲苦楽園の処まで遣って来た。碧海を背にした赤い瓦の家がきりたてたような断崖の上に幾つもの箱を据えた如く建って西洋の油絵を見るように美しい。玩具のような電車が長閑な村里を抜けてその山の端をぐるりと揺るやかに廻って行く……。>今はツツジも少なくなりましたが、須賀敦子さんのエッセイ「小さなファデット」にも書かれているように、当時は白い山肌にあちこちでツツジが咲き誇っていたようです。(写真は廣田神社で撮影) 碧海と断崖に建つ赤い屋根の家、文章だけ読むとイタリアのアマルフィ海岸のような印象です。西洋の油絵のようだと書かれている当時の苦楽園の絵葉書写真がありました。(上の写真はラジューム温泉があたりからの現在の景色) 苦楽園からは、開業して間もない阪急や、阪神、JRの車両が玩具のような電車に見えたようです。この美しい光景は昭和の初めに苦楽園に移り住んだ湯川家の人びとも楽しまれ、湯川スミ『苦楽の園』にも描かれていました。
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ラジューム温泉のフォードから降りてきた菊枝(細井和喜蔵『奴隷』)
細井和喜蔵『奴隷』から、続けます。浪華紡績西成工場で愛し合っていた女工の菊枝が突然いなくなり、失意にくれた主人公・江治は、香櫨園からラジューム温泉のある苦楽園まで歩いて登ってきます。<彼は近頃ひどく体力が衰えて少しの坂道にも疲れを覚ゆるようになった脚を、とある生え込みに休めて心持ち汗ばんだ顔をハンカチで拭い、眼の下に続く蘆屋の絶景を木の間越しに眺めおろした。>現在の苦楽園からの景色です。<そうして幸い懐に一円ほどおあしが有ったので、来た序でだからラジューム温泉を一風呂浴びていこうかと思案していると、一台の自動車が唸りながら坂道を登って来た。ガソリンの臭いがさっと鼻を衝く。>まだ舗装もされていなかったこの道を江治は登ってきたのでしょう。<(随分な坂を登るなあ)彼がこう思って感心していると、自動車は其処でぴったり停まって了い、詰襟の運転手がひらりと身を跳らせて先へ降りた。江治は見ることもなしに其方を向いて内裡の客が出て来るのを待った。「此処までしか登りません。」運転手がこう言って扉のハンドルへ手をかけた。その瞬間に、江治はがくりと脅えた。彼の心臓はくるうような烈しい動悸が狂乱して波打つ……。>苦楽園温泉開業当初は客を馬車で運んでいましたが、その後、大阪の勧業博に出品されたフォードを苦楽園の開発者・中村氏が購入し、自動車で乗合客を運んだそうです。写真は西宮市制90周年写真集「西宮という街」より。 何とそこから降りてきたのは、西成工場の工場長と行方不明になっていた菊枝でした。女工時代は貧しい身なりだった菊枝が、令嬢か女優みたいな艶やかな姿で、指には宝石入りの指輪が光っていたのです。<「菊枝さん!」江治は矢庭に生え込みから飛び出して二人の迹を追っかけた。菊枝はかつて心を捧げた男といま体を許している男との間に立って極度に困る。そして良心の閃きと一緒に、「許して江治さん!」と懸命に叫んだが彼女の理性はこんがらがって了って完全な言葉にならなかった。>まるで『金色夜叉』の一場面、江治は間貫一のように高利貸しにはならなかったのですが。 西成工場の工場長に囲われていた菊枝は、『奴隷』の続編、『工場』では、鐘ヶ崎紡績をやめ浪華紡績西成工場に戻った江治に再会し、許しを請い、最後には夫婦となるのです。自伝的小説とはいえ、このストーリーは創作だったようです。 細井和喜蔵は大正9年23歳の時上京し、東京モスリン紡績亀戸工場に就職します。そこで女工で労働組合の活動家でもあった「高井としを」と出会い、大正11年に結婚します。しかし、結婚生活わずか3年で、和喜蔵は肺結核と腹膜炎により大正14年に亡くなりました。 和久田薫『女工哀史の誕生』によると、和喜蔵の空想の八部を占めるものは恋愛であり、現実生活の苦しさから空想の世界に逃れようとする潜在意識の働きだったかもしれない、と述べられています。その結果、自伝的小説『奴隷』『工場』の中で、ドラマチックな恋愛物語を創作したのでしょう。和久田薫は内外綿紡績(浪華紡績のモデル)西成工場で、菊枝のモデルとなった人物を次のように紹介しています。<ところが手記「大阪」には、久しぶりに自分が働いていた工場地帯を訪ね、元の職場だった内外綿会社第一紡績工場に行った時、古参の職工長から「小川花」という女工が国元へ一時帰っていて、再び工場へ戻ったもののすぐに亡くなってしまったという話を聞き、「それが僕の初恋の少女お花なのだ。感慨無量である……」と書いている。おそらく小川花という女性が彼の愛した人だったと思われる。>プロレタリアート文学作家の細井和喜蔵は相当なロマンチストでもあったようです。
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細井和喜蔵が絶望の底で彷徨した香櫨園(『奴隷』)
恋人に去られ、紡織機の大発明の夢も潰えた細井和喜蔵はうつ病的な状態に陥ります。 和久田薫『女工哀史の誕生』では細井和喜蔵の自殺未遂について次のように述べています。<大正11年、東亀戸の下宿を訪ねてきた友人の農民詩人の渋谷定輔に「ぼくは二度自殺未遂をしたんだ」と話しているし、小説の自分史的性格から見て実際にあったことだと思われる。また、この出来事の場面が西宮の香櫨園付近であることから。彼が内外綿会社の西ノ宮工場に勤め、しかも失意の底にあって、海の見える別間を借りて住んでいた頃のことではないかと想像される。>内外綿紡績西ノ宮工場はこの西宮砲台の北側にあったのですが、今はマンションが立ち並んでいます。 細井和喜蔵の自伝的小説『奴隷』には、自殺を試みようとした頃の様子が次のように書かれています。<一旦諦めた菊枝への追慕が、発明に破れた彼の頭へ再び潮のように、甦って来る。重ね重ねの悲劇に彼はもう堪えられなくなって、どっとその儘床に就いてしまった。> 和喜蔵が住んでいたのは、内外綿紡績工場の南側、西宮港の傍の貸家だったようです。西宮港の傍に立つ住吉神社。 このすぐ近くに細井和喜蔵が住んだ家がありましたが、当時を思わせるものは何も残っていません。現在の様子です。旧西宮港(西宮ヨットハーバー)の堤防の向こうに、新西宮ヨットハーバーができた人工島に渡る西宮大橋が見えています。<夜は音も無く朝へ近づいて行った。程近い香櫨園の海岸では、真砂を洗う波の音ばかりが永えに変らぬ音を立てている。そして春は逝くのであった。>現在の香櫨園の海岸です。和喜蔵は香櫨園浜から夙川に沿って歩いたようです。まずぶつかるのが阪神香櫨園駅。当時は当然高架にはなっておらず、夙川オアシスロードと交叉する場所に踏切がありました。<凡ての希望を失った江治は遂に死の中に安息所を発見した。そして襲うが儘な誘惑に身を委ねて香櫨園付近の鉄道線路を夢遊病者の如く徘廻った。併し髪の毛ほども入用のない生命でいて、いざとなれば仲々しねないのであった。(今度こそはひと思いに 飛び込んで了わなければならん)彼はこう決心して汽車の来るのを植え込みの陰で待ち伏せたが、巨大な怪物のような機関車が地響き立てて咆え哮るエクゾーストを吐き乍ら側まで近づいて来ると、急に怯じ気づいてそのまま固くなって立ち竦んで了い脚が硬張って動けない。汽車は「臆病者よ、態みろ!」と嘲笑のスチームを浴びせて行き過ぎる。彼はぽかんとしてその偉大な後姿を見送った。> この自殺を試みた場所は、阪神電鉄の香櫨園付近の鉄路ではなく、機関車が走っていた現在のJR夙川橋梁付近だったと思われます。この線路の少し先には、渡辺温が貨物列車との衝突事故で亡くなった、大師踏切があります。 鉄道で思いを遂げられなかった江治(和喜蔵自身がモデル)は、香櫨園から阪神電車に乗って梅田まで行き、市電に乗り換え、さらに阪堺線で終点の大浜まで行きます。そこで海に飛び込むのですが、結局助けられ命拾いしたのです。
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夙川の喫茶店ラ・パボーニ跡地の棕櫚の樹が消えた
夙川にあった喫茶店、ラ・パボーニは小松左京もよく通った喫茶店でした。『小松左京の大震災‘95』では次のように紹介されています。<「ラ・パボーニ」というのは、知る人ぞ知るモダンな喫茶店だった。阪急夙川駅を降り、夙川左岸の土堤をちょっと南下して、東へ下りるだらだら坂を下ってくると、南側に、紫紺の壁に黄色い未来派ふうのローマ字が浮き上がり、エキゾチックな観葉植物が外に並んでいて、一見どこが入口かわからないようだった。>こちらは、店主大石輝一画伯が描いたパボーニの案内葉書。<この不思議な喫茶店は、若松町にあった私の家から歩いて十数分の所にあり、戦前、私は父や叔父に連れられて何度か入った。壁いっぱいに大石画伯の絵が並べられ、ひげの外国人の肖像や、学校で習うのと全然違うタッチの明るい風景画を私はきょろきょろ見回した。風変りに思えたが、よく見ると、その風景は、芦屋や六麓荘からのぞむ山なみであり、香櫨園の浜と、子供の目にもわかった。シャンソンもかかっていたような気がするが、確かでない。この店で私は初めてカフェ・オ・レというものを飲んだ記憶がある。>パボーニの喫茶室です。こちらが「ひげの外国人」、ハルピンでの作品です。香櫨園の浜の絵、こちらは昨年夙川の回生病院に寄贈され、ロビーに展示されています。<今度の震災で、ラ・パボーニはめちゃめちゃになり、九十歳になる未亡人は、故郷の鹿児島に引き取られたが、近隣の主婦や、あちこちのラ・パボーニ・ファンが協力して絵画を救い出し、ばらばらになった淡彩レリーフふうの大きな壁画も、復元してアートセンターに展示してあった。>大震災でめちゃめちゃになったパボーニ。 その年の6月2日に黒田征太郎もパボーニに駆け付け、シュロだけが残った跡地の絵を描いていました。そして、次のような文章も書かれています。パボーニのあと。 玄関のシュロだけが残っているが こげているらしい… 大丈夫だろうか。青い空がかえってむなしく見える。あの楽しかった壁画。あのあたたかかった空気。もう二度ととりかえせない。僕は子供のころ この近くに住んでいた。そのころは この家はなんなんだろうと思っていつも見ていた。その家がパボーニだったのだ。 黒田征太郎(堂島のカーサ・ラ・パボーニに展示中)この2本の棕櫚の樹も、大きくなりすぎて倒れる危険もあり、遂に今年になって伐採されてしまいました。その跡地は今も空き地のまま、空しく残っています。
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「京都人の密かな愉しみ」出町ふたばの豆餅と栗餅
紅葉には少し早いですが、GoToトラベルで秋の京都に。京都に来ると訪ねたくなるのが、「京都人の密かな愉しみ」に登場する名場面の数々。大福がこんなにのびるのでしょうか。 早速、久楽屋春信の若女将、沢藤三八子(常盤貴子)が公園で一人おいしそうに食べていた明治32年創業「出町ふたば」の栗餅を買いに行きました。開店直後に行ったのですが、噂通り、もうこんな行列になっていました。「京都人の密かな愉しみ」によると、観光客に一番人気は豆餅。通の京都人の一番人気は栗餅だそうです。しかし、店頭ぶら下がりの品書きを見ていると、どれも美味しそう。 つぶあんの「京都丹波産(ごく希少)黒豆大福」と「本よもぎ田舎大福」にも相当ひかれましたが、その日のうちに食べないといけないので多くは買えず、初志貫徹。 北海道美瑛・富良野のよりすぐりの赤えんどうと、搗きたてお餅の中に十勝産大豆を使ったあっさりこしあんの「名代豆餅」と常盤貴子さんが美味しそうに食べていた産地直送の新栗をそのまま包み込んだ素朴な味わいの秋限定「栗餅」を購入。お赤飯も美味しそうだったので、ついつい購入。京都人の栗餅の食べ方には作法があるそう。まずは頭の栗だけを食べ、その後で餡子を。作法に従って美味しくいただきました。ここの大福を食べたら、他所の大福が食べられなくなってしまいそうです。
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「京都人の密かな愉しみ」出町桝形商店街へ豆腐を買いに
「京都人の密かな愉しみ」主人公のエドワード・ヒースロー(団時朗)はイギリスヨークシャー出身で洛志社大学(同志社大学がモデル)文化人類学教授。 俵屋吉富本店のお隣に住み、同志社大学に通っているのですが、近くの出町桝形商店街で買い物をする場面が登場します。河原町通側から入っていくのですが、私が訪ねたのは「出町ふたば」の開店にあわせて、8時半頃だったので、残念ながらまだほとんどのお店が開いていません。 先日、chiyukiさんと言う方に教えていただいたNHKBSの「いけずな京都旅」という番組の再放送を見ていると、そこにも桝形商店街が登場。その番組で京都アニメーション制作のテレビアニメ『たまこまーけっと』にも「うさぎ山商店街」として登場し、京アニファンの聖地となっていることを初めて知りました。 エドワード・ヒースローは店をのぞきながら歩いていきます。私が行ったときは、右手のフードショップゑびす屋さんは開店間近のようでした。 さて、ヒースローは「いずもや」で豆腐を一丁買います。 これも、「いけずな京都」で知ったのですが、井戸からの名水を使っていて、それが美味しい豆腐の秘訣。「いずもや」さんは、早朝から開いていました。 お店のお母さんから、「お早いですね」(京都弁でしたが正確に思い出せない)と声をかけられ、「お母さんこそ」と返すと、「豆腐屋やからしょうがないわ」と。こんなたわいもない会話ができるのも商店街の魅力。 テレビは多分俳優さんが演じたと思いますが、そっくりのお母さんでした。きっとこの店の看板娘なのでしょう。 ヒースローに倣って、豆腐一丁と思いましたが、隣にあったのが容器に入って井戸水に浸されていた「すくいゆば」。 こちらに変更して、帰って早速いただきましたが、濃厚な味で、ゆばを堪能させていただきました。 このような商店街、西宮では阪神淡路大震災でほとんど無くなってしまいましたが、さすが京都、いいお店が今も営業を続けられています。
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