谷崎潤一郎『細雪』でお春どんの父親が痔の手術のため入院した西宮恵比寿神社の近くの肛門病院が登場します。<お春の云うところに依ると、彼女は先月の下旬に、尼崎の父が痔の手術で西宮の某肛門病院に入院した時、二週間ばかり暇を貰って父に付き添っていたのであったが、その間大概日に一遍は食事や何かを運ぶために尼崎の家と病院とを往復した。> 小説では女中のお春の父親が某肛門病院に入院したとありますが、実は谷崎潤一郎が痔瘻の手術を受けるため西宮の勝呂病院に入院していたのです。谷崎松子『蘆辺の夢』にその日の様子が述べられていました。<昭和十二年四月十七日(先々月潤一郎痔瘻をやみて勝呂病院入院当日の控えここにうつす)主の肛門周囲炎、御キュウもとうとう見限りをつけ、西宮勝呂病院に今一度診断を乞う事にする。脇息にふとんをくくりつけたものを車中に持ち込み、住吉川堤を国道へ徐行して貰う。> 当時、住吉村反高林の倚松庵に住んでいた谷崎は住吉川沿いを上り、国道2号線で勝呂病院に向かったようです。(倚松庵があった場所は現在より少し南にありましたが、六甲ライナーの橋脚工事で現在の場所に移設されています。)<人間の躰の中で最も痛いという部分を患い、この四五夜は安らかな眠りも覚束なかった主も、花を通りすがりにながめただけでも幾分心も和んだのであろう、珍しく打ち笑んでいる。勝呂氏診察の結果、手術より方法がないと入院手術をすすめられる。寝台のない部屋が丁度あくので後刻入院の運びにする。>結局四月十八日に手術を受けることになります。<庸子さん(勝呂先生夫人)のねて居らっしったところは御床も縁側もあって良いのであるが、隣の手術室の声等聞こえては心地悪いかと、二階の病室にきめる。> 勝呂家との付き合いも結構あったようで、『細雪』の創作ノートに勝呂夫人が重子(雪子のモデル)に縁談を持ってきたことが記述されています。創作ノートからです。<この話があった半年ほど前、勝呂夫人が訪ねて来て、夫人の親戚(従兄?)にあたる人で、福山市で請負をしている人が細君に死なれ子供が二人あるのだが、財産はいつ死んでも食うに困らないだけあると云う縁談を持って来る。そして明後日その人が西宮の勝呂氏宅へ来るから来てくれぬかと云った話がある。Tは「つれて参ります」と承知してしまったが、あとでS子が、「そうそう易々と見合いなどをせずに、今少し話が進み、調べや何かが済んで、これならと云う見極めがついてから逢わせるようにしてくれろ、どうせ福山などと云う田舎のそんな人のところへは行きたくもないのだから、逢わないで済むなら済ませたい」と云って、M子に訴えて泣いたことがある。でも此の縁談はとも角として、行かないでは勝呂夫人に悪いし、今後のこともあるのだからとようようになだめすかしてつれて行った。>『細雪』ではこの見合いの話は登場しませんが、雪子の訴えた言葉は登場します。 創作メモは実名、あるいは実名の頭文字で書かれており、当時の谷崎家の様子がよく伺われます。
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『細雪』に登場する西宮の某肛門病院は勝呂クリニック
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お春が啓坊と出会った阪神国道のバス停とマンボウ(『細雪』より)
お春どんは休暇をもらって、尼崎の実家と父親が入院した勝呂病院を行き来するため、国道バスを使っていました。<病院は西宮の恵比寿神社の近くにあったので、いつも彼女は国道の札場筋から尼崎までバスに乗って行ったが、その往復の道で三度奥畑に邂逅した。>このバス停はマンボウの出口のすぐ近くにあったという記述から、現在の「西宮戎」バス停だったようです。 そして、お春どんが国道でバスを待っている時、奥畑と出会ったことを幸子に話すのです。ここには西宮では有名なマンボウの解説も登場します。<で、バスを待つのに、彼女は国道を南から北へ横切って、浜側の停留場に立つのであった。(お春はマンボウと云う言葉を使ったが、これは現在関西の一部の人の間にしか通用しない古い方言である。意味はトンネルの短いようなものを指すので、今のガードなどと云う語がこれに当て嵌まる。もと阿蘭陀語のマンブウから出たのだそうで、左様に発音する人もあるが、京阪地方では一般に訛って、お春が云ったように云う。 阪神国道の西宮市札場筋附近の北側には、省線電車と鉄道の堤防が東西に走っており、その堤防に、ガードと云うよりは小さい穴のような、人が辛うじて立って歩けるくらいな隧道が一本穿ってあって、それがちょうどそのバスの停留所の所へ出るようになっている)>これが「人が辛うじて立って歩けるくらいの隧道」です。地図中に黄線で示したところがマンボウの位置。緑の点線が札場筋です。『細雪』で谷崎はこれだけ熱心にマンボウについて解説してくれているのですから、ここに『細雪』の説明文でも掲示すればいいと思うのですが、西宮市の文化行政はまったく意に介さないようです。 ところで、何故『細雪』にマンボウについてこんなに詳しく書かれているのでしょう。私の推測ですが谷崎が相生町に住んでいた時、西宮東口のおでん屋「京楽」を贔屓にしてよく通っていたそうです。夙川の喫茶パボーニの前を通って、谷崎が歩いていくのを大石画伯が何度も目撃しており、そこからしばらく東に歩いて、マンボウを通り抜けて「京楽」に通っていたのではないでしょうか。
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啓坊が住んだ西宮の一本松の傍の家(『細雪』)と森田たまの住居跡
阪神国道の西宮夷のバス停で三度、啓坊と出会ったお春どんは、奥畑がマンボウを超えた一本松の直ぐ傍に住んでおり、一度遊びに来給えと誘われます。(写真はマンボウの傍にある「西宮戎」バス停)<奥畑はひとりニコニコして、そうだっか、此の近所に来てなさるのんか、そんなら一遍僕所へ遊びに来給え、僕所はあのガードを越えた直きそこです、-と云いながら、そのマンボウの入り口を指して、-君、一本末知ってなさるやろ、僕所はあの一本松の傍やよってに、直き分かります、是非やって来給え、と云って、……>(国道筋から見たマンボウ) そしてお春どんは、その家を確かめに行ってみます。<自分はあのお方は大阪の方に住んでいらっしゃるのだとばかり思っていたところ、西宮の一本松の傍に家があると云われたのが意外だったので、或る日、あのマンボウを通り抜けて、一本松の所まで行って見たら、成る程ほんとうにお宅があった。前が低い生垣になっている、赤瓦に白壁の文化住宅式の二階家で、ただ「奥畑」とだけ記した表札が上がっていたが、表札の木が新しかったのを見ると、極く最近に移って来られたのであろう。>一本松は、マンボウから少し北の常磐町にあります。上の地図の赤丸がお春どんが啓坊と出会った「西宮戎」のバス停、黄線がマンボウ、緑の丸印が一本松です。一本松の樹高は約9mで西宮市の保護樹木となっています。 右側の石碑には、「史蹟 往古武庫菟原郡界傳説地」と刻まれており、律令体制下での武庫郡と菟原郡との郡界を示す「一本松」だったという言い伝えです。 また左側奥の石碑には「一本松地蔵尊」と刻まれています。この碑の上部には、大坂城築城の際に刻まれた出雲の藩主「堀尾茂助」の家紋である分銅型の刻印がうっすらと残っており、この近くの分銅町の発祥につながっています。 奥畑の家はこの一本松の近くとなっていますが、当時この近くに住んでいたのが『もめん随筆』で有名な森田たまさん。航空写真の矢印の位置が一本松、黄線で囲ったところに、森田たまさんが住んでいました。上の写真の道、奥の左手です。昔はこのあたり、田んぼでJRの線路まで見えていたそうです。森田たま『もめん随筆』の「借家の庭」に、つばめが走る様子が書かれていました。<その左側は田圃で汽車の線路まで一軒の人家もなくひろびろと開けているせいである。線路は高架線になっていて土地よりはだいぶんに高いため、汽車の通るのは部屋に坐っていても見える。………あ、つばめが来たと自分達はしばらく箸をおいて、あのスマートな昼の急行列車の東上する姿を、八つ手の葉ごしにかなめの塀の上に眺めるのである。いま神戸を出てきたばかりのつばめを、その響きの明朗なる如くその姿も颯爽として、初陣の若武者といった感じがし、後尾の展望車が通り過ぎた後は、毎日のことながら一抹の郷愁を自分の胸へ落す。> 彼女もまた関東大震災でこちらに移り、昭和7年までこちらに住んでいました。谷崎潤一郎とは交流があったのでしょうか。
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昭和15年、谷崎潤一郎が訪れた奈良ホテル
谷崎潤一郎『細雪』に登場するホテルは、帝国ホテル、オリエンタルホテル、トーアホテルなど当時の名立たるホテルばかり。下巻では、昭和14年6月上旬に貞之助と幸子は奈良の新緑を見に出かけ、奈良ホテルに泊まる場面があります。 明治42年に営業開始した奈良ホテルは、辰野金吾、片岡安により桃山風の建築様式を基本主題として設計され、戦前は国賓・皇族も宿泊し、「西の迎賓館」と呼ばれていました。 館内には訪れた皇族、著名人が年譜に示されています。 文学作品にもしばしば登場し、大正5年に高浜虚子、大正7年に和辻哲郎、昭和6年に林芙美子、昭和16年に堀辰雄、戦後は司馬遼太郎など錚々たる文筆家が訪れ、どなたも奈良の風景に調和したこのホテルを気に入り、讃えています。(写真は取材で訪れた司馬遼太郎と須田 剋太) しかしながら、谷崎潤一郎が宿泊した時の感想は、他の著名人達の感想とはまったく異なりました。『細雪』では、昭和15年6月上旬の土曜日曜に、蒔岡貞之介・幸子夫妻は二人だけで奈良の新緑を見に出かけ、奈良ホテルに泊まります。<土曜の晩は奈良ホテルに泊まり、翌日春日神社から三月堂,大仏殿を経て西の京へ廻ったが、幸子は午頃から耳の附け根の裏側のところが紅く脹れて痒みを覚え、鬢の毛が触るとその痒さがひとしおであるのに悩んだ。それは蕁麻疹のような痒さであったが、今朝から春日山の若葉の間をくぐり抜けたり、ライカを持ち歩いている貞之助のめに五六回も木の下に立ってポーズしたりしたので、そんな時に蚋(ぶと)のようなものに刺されたのかも知れなかった。> 貞之助はホテルに帰って、町の薬屋にカルボールリニメント(ドイツ語表記:Karbol Zink Linimente)を買いにやりますが、そんな薬はございませんと云われ、モスキトンを買ってきます。しかし、モスキトンではまったく効き目なく、翌朝ホテルを発つ前に亜鉛化オレーフを買いにやります。谷崎は相当薬には詳しかったようです。(亜鉛化は亜鉛華が正しいようです) 家に帰って来て、貞之助は幸子の疾患部を仔細に見て、「これは蚋やないで、南京虫やで」と告げます。<へえ、何処で南紀虫にやられましたやろ、と云うと、奈良ホテルの寝室や、僕かて今朝はここが痒いと思うたら、ほら、と云って夫は二の腕をまくって見せ、これ、たしかに南京虫の痕や、お前の耳にかてこれが二か所もあるやないか、と云うので、合わせ鏡をして見ると成る程それに紛れもなかった。「ほんに、そうやわ。―あのホテル、ちょっとも親切なこともないし、サアヴィスなんかも成ってない思うたら、南京虫がいるなんて、何と云うひどいホテルやろ」幸子は、折角の二日の行楽が南京虫のために滅茶々々にされたことを思ふと、いつ迄も奈良ホテルが恨めしく、腹が立って仕方なかった。> 『細雪』は小説ですが、中央公論新社『谷崎潤一郎全集』第二十五巻に収められた創作ノートを見ると、松子夫人が南京虫の被害にあったことが書かれており、相当悪印象を持っていたようです。『細雪 下巻』は昭和23年に中央公論社より刊行されているのですが、これだけ悪しざまに書かれてしまった奈良ホテルは、当時、相当困ったことでしょう。 私が昨年宿泊したときは、サービスも行き届き、快適だったことを付け加えておきます。
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『細雪』後日譚 ―雪子の結婚
谷崎潤一郎『細雪』は雪子の縁談話に始まり、いくつかのまとまらない見合いの末、最後の最後になって、いつも縁談話を持って来る井谷が、美容室を人に譲り、最新式の美容術を研究するため渡米するという別れ際に持ってきた御牧という子爵の庶子の実との縁談がめでたくまとまり、大団円をむかえます。 雪子は、姉妹の中で最も口数が少なく、はっきりものを言わない性格で、なかなか縁談もまとまらなかったようですが、相当の美人だったらしく、作中で幸子は「自分の妹のことを褒めるのはおかしいけれども、ほんとうの昔の箱入り娘、荒い風にも当たらないで育ったと云う感じの、弱々しいが楚々とした美しさを持った顔と云えば、先ずうちの雪子ちゃんなどの顔ではないか」とほめています。 また『細雪』では、三姉妹の容姿、性格を次のように紹介しています。<先ず身の丈からして、一番背の高いのが幸子、それから雪子、妙子と、順序よく少しずつ低くなっているのが、並んで路を歩く時など、それだけで一つの見物なのであるが、衣装、持ち物、人柄、から云うと、一番日本趣味なのが雪子、一番西洋趣味なのが妙子で、幸子はちょうどその中間を占めていた。顔立ちなども一番丸顔で目鼻立ちがはっきりしてい、體もそれに釣り合って堅太りの、かっちりした肉付きをしているのが妙子で、雪子はまたその反対に一番細面の、なよなよとした痩形であったが、その両方の長所を取って一つにしたようなのが幸子であった。妙子は大概洋服を着、雪子はいつも和服を着たが、幸子は夏の間は主に洋服、その他は和服と云うふうであった。>そのモデルとなった、松子、重子、信子の写真がありますが、書かれている通りの顔だち、様子です。『細雪』の最後で、雪子の結婚相手となった45歳の御牧実は、学習院を出て東大の理科に在学し、中途退学して仏蘭西、亜米利加と渡り、州立の大学で航空学を修めて卒業、その後も海外を渡り歩き、帰国後は建築設計の仕事をしていたが、今は無職という人物設定。 定職を持たないという不安があったものの、願ってもない縁談。子爵の息子ですから、阪神甲子園の北側数丁のところに百坪に余る庭のついている平屋建てを子爵家が買い取って新夫婦に贈り、御牧氏は尼崎市の郊外にできる東亜飛行製作所に就職することが決まり、最後はめでたし、めでたしで、安堵させられます。 この原作をうまく生かしたのが、NHK-BSの『平成細雪』。井谷がラストチャンスと、この縁談をヘアサロンに来た幸子に伝えます。相手は旧華族出身の御牧久麿39歳。原作と姓は同じですが、名前は旧華族らしい名前、年齢も少し若くしています。最後は御牧が雪子に婚約指輪を渡すシーンでした。 ところで、雪子のモデルとなった重子の結婚について、谷崎潤一郎は『三つの場合』の「明さんの場合(細雪後日譚)」に詳しく書いていました。 御牧実のモデルとなったのは、重子の結婚相手となった渡邊明氏であり、谷崎は<細雪の下巻二十七章に、仲人の国嶋と云う人が御牧の人物性行等について物語ったところを、井谷と云う婦人が蒔岡家に取り次ぐ一条があるが、それが大略明さんの経歴に当て嵌まるのである。>と述べています。 そして、<「父子爵」とあるのを兄子爵、「藤原氏」とあるのを徳川氏、「建築家」とあるのを木工家と置き換えれば、そっくり明さんのことになる。>としており、家系を紐解くと、明さんは十一代将軍の曾孫にあたる人物でした。 更に、<明さんも過去を洗うと、可なりな廃頽生活に浸っていた時代もあるらしく、華族の次男坊によくあるような、御家人くずれと云った擦れっ枯らしの一面と、お坊ちゃん育ちの、案外人のいい、純情で義侠的な一面とを持っていた。>と述べており、自由気ままな生活をしていたようです。 したがって、二人の結婚生活は現在の常識では計り知れない種々の出来事があったようで、次回それを紹介させていただきます。
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『細雪』後日譚 ―雪子の結婚と死
谷崎潤一郎『細雪』の一つの柱になっていた雪子の縁談は、最後に旧華族出身の御牧実との縁談が成就して終わります。 雪子のモデルとなったのは旧姓森田重子、華族の坊ちゃん・御牧実のモデルとなったのは作州津山十万石の藩主、第十四世松平康民の三男、渡辺明でした。(渡辺須磨の実家を継いで渡辺姓を名乗る)結婚式は昭和16年4月29日、明45歳、重子35歳の春に挙げられました。谷崎潤一郎『三つの場合』によると、<二人は式場から直ちに新婚旅行に赴き、その夜は横浜のニューグランド、その翌日から京都ホテル、奈良の月日亭、神戸のオリエンタルホテル等々を、前後二週間に亘って悠々と遊び歩いた。あまり長い新婚旅行だったので、途中で旅費が足りなくなって、神戸から松平家へ追加の電報を打ったりして、康春氏を呆れさせた。>ここに登場するのも名だたるクラシックホテルばかり。昭和2年開業のホテル・ニューグランドはその頃、大佛次郎も小説『鞍馬天狗』などの執筆に使っていたのではないでしょうか。京都ホテルは明治28年開業。 奈良ホテルを使わなかったのは、谷崎松子さんの進言もあったようで、『細雪』では、御牧から相談された幸子が次のように語ります。<奈良の旅館は純日本式の家にしたいと云う御牧の注文に、それでなくてもホテルの南京虫に懲りている彼女は、月日亭を推挙したりした。>南京虫のうらみ骨髄だったようです。写真は松子が推薦した月日亭。(ホームページより) 新居は小説に書かれた阪神甲子園ではなく、目黒区上目黒五丁目、兄康春氏が祝ってくれたもので、新築平屋、土地は百十余坪、そこで女中一人を置いて、松子さんの子息、根津清治との四人暮らしを始めます。 しかし、重子が43歳のときに、明は胃癌で亡くなり、結婚生活は足掛け9年連れ添っただけで終わってしまいました。その間、明の木工家としての才能は豊かであったものの、仕事は長続きせず転々とし、結婚式から3年後の昭和19年春には函館船渠会社の工場の現場監督して単身赴任、いずれ後から重子も行くことになっていたそうです。 しかし戦時中、谷崎が岡山県真庭市勝山に疎開したときも、重子は北海道には行かず、勝山に同行していました。谷崎は次のように述べています。(写真は勝山郷土資料館前にある石碑)<義妹にしてみれば、夫に従って北海道へ同行すべきか、姉や姪たちと生死を共にして津山に逃げるべきかについて、随分迷ったに違いないが、最後には夫より姉一族のほうに一層強く惹かされたのであろう。それと云うのが、私の一族と義妹との結び着きには、単に姉妹と云う関係以上のものがあって、義妹は私の妻を或る意味では母のように慕い、若い時から実家の森田家よりも私の家で暮らす日の方が多かったばかりでなく、結婚の時も私の家から嫁いだくらいだからである。> 重子と谷崎家との繋がりはあまりにも強く、昭和20年6月に明が津山に迎えに来て、一度は北海道行きを決断したものの、翌日、明から「やっぱり重ちゃんは置いていくことに決めました」と云われ、実現しませんでした。 戦後昭和21年になって、明は函館の会社を辞めて東京目黒の家を売り、京都の日本羽毛会社に就職し、得意な英語を生かして進駐軍への羽毛布団の売り込みの仕事をします。その後昭和23年からは日本羽毛会社を辞め、京都の植物園内にあった米軍将校のオフィサース・クラブのマネージャーに就職。南禅寺の近くの家で暮らしていましたが、昭和24年10月、明は胃がんで亡くなってしまいます。(京都植物園は、戦後連合軍の家族住宅用地として接収され、昭和32年になってようやく米軍から全面返還されました) 南禅寺で暮らす頃になって夫婦仲は良くなっていたようで、谷崎は次のように述べられていました。<明さんと義妹とは結婚して間もなく戦争に遭い、兎角離ればなれに暮らしていた期間が多く、夫婦仲も必ずしも円満とはいかなかった。一方は東京の山の手に育った華族の次男坊、一方は大阪で十四五代も続いた千石船の船大工(明治以降は造船所)の娘であるから、育ちも違い、肌あいも違い、いろいろの点で喰い違いが生じたのも無理はないが、しかし漸くこの頃に至り、夫は妻を、妻は夫を理解するようになり、南禅寺での夫婦生活ははたの見る目も羨ましいものがあった。>重子さんも京都に住まいが移り、落ち着いたのでしょう。 明さんの死後、重子は南禅寺の家を引き払い、幸子の住む下鴨泉川町でしばらく暮らしますが、その後松子の先夫の長男根津清治を養子に迎え、その配偶者に京都の高折病院長の長女千萬子を養女としてもらいました。そして北白川仕伏町のお花畑の美しい山懐に恰好な住宅を購って住んでいたそうです。 そして重子は昭和49年に麻布の病院で生涯を閉じますが、その追悼文ともいっていいものが、谷崎松子『蘆辺の夢』に収められていました。<こんなに長年生活を共にした姉妹も珍しいに違いないであろう。それにしても目を瞑られて見て初めて妹の真意を知ることの多いのに我ながら茫然としている。矜持を潜めている人である事はよく感じていたのに、可成り世間的には蝉蛻の心を持っていた事実に私は考え至らなかった。見るも可憐な羞じらいに優雅な物腰にいう可き事もいい得ぬ心弱さ、それでいてどこかに気稟としたものを持っていた。私のような凡俗の姉のために一生の大半を傍らに離れないでいてくれた心根があわれでならない。>本当に絆の強い森田家の姉妹でした。後日譚を読んでいると、それだけで小説になりそうな話題ばかり、『続細雪』を書いてくれればよかったのに。
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谷崎松子が少女時代に暮らした香櫨園
『細雪』『吉野葛』『盲目物語』『春琴抄』などのモデルになった谷崎松子(旧姓森田松子)さんは、少女所時代には香櫨園の別邸で暮らしていました。谷崎松子『蘆辺の夢』からです。<父は母のために阪神間に別荘を持ちたいと知人に頼んでいたらしい。が、母の死後、香櫨園に庭もゆったりした、建物もわるくない家が見つかった。子供たちが母の体質を受けていたらとそればかり懸念して、できうるかぎり香櫨園の家に暮らさせようとし、末の妹は、間もなく西宮の小学校へ転向させられた。> 大阪から香櫨園の別邸に移り住んだのは大正8年、松子16歳の頃のようです。当時の時代背景を考えると、明治中期以降、大阪は綿紡績を中心に「東洋のマンチェスター」と呼ばれるようにまで成長しましたが、その後、繊維産業だけではなく重化学工業も発展し、大正末・昭和初期には「大大阪」時代を迎えています。しかし当時の大阪の環境は劣悪で、阪神電気鉄道は、『郊外生活』というPR誌を発行するなど、鉄道事業の拡大のために沿線の土地開発や貸家経営を積極的に行い大阪や神戸などの大都市からの移住を推奨しています。<阪神電車の香櫨園駅から夙川の土手を少し上がり、平地へ下りた、ちょうど東海道線の真下に当たる場所で、汽車の音が少し気にはなったが、家の前は、その間かなりの空き地になっていた。玄関に入るまでの前庭は、樹々の緑も色濃く繁り、奥行きもあり、私はすっかり気に入ってしまった。父の指図でいつの間にか家具類から夜具に至るまで運ばれ、私たちの香櫨園生活がはじまった。>航空写真の黄線で囲ったあたりに、別邸がありましたが、現在は住宅で埋まっています。昭和11年の吉田初三郎の鳥観図を見ると矢印のあたりで、松子さんが暮らした頃の様子がわかります。<家のたたずまい、間取りもよく、落着きそうに思った。鉤型に設計された部屋は明るく、縦にも横にも縁側が延びていて、どの部屋からも庭の全景が目に納まった。枯山水風の庭に作られていて、築山に出る土橋が架かり、池をまわれるようになっていた。右側に中門があって、平安朝の衵姿の乙女でも佇たせたいような風情のある門に、娘心をゆるがせられるのえあった。>矢印のあたりの邸だったのではないでしょうか。 場所は、むしろ阪急夙川駅に近いのですが、阪急神戸線が開通し夙川駅がきたのは、大正9年でしたから、松子さんが転居された大正8年にはまだ夙川駅はなく、「阪神電車の香櫨園駅から夙川の土手を少し上がり、平地へ下りた、ちょうど東海道線の真下に当たる場所」という説明になったのでしょう。
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谷崎松子さんの苦楽園・六甲ホテルの甘美な思い出
大正初期の苦楽園は、保養地として賑わいをみせ、三笑橋を中心に東には共同浴場とその隣に長春楼、北には大観楼と松雲楼、西から南にかけては萬象館、六甲ホテルなど旅館やホテルが建ち並び、山上プールや運動場まで揃う「総合温泉リゾート地」でした。 苦楽園の六甲ホテルでは毎週西洋料理の講習会が開催されて阪神沿線の夫人令嬢が集うなど、社交場としても大きな役割を果たしていたそうです。また大正6年には与謝野寛、晶子、四男アウギュストの三名が、苦楽園を開発した中村伊三郎の自宅「久方庵」に約2週間滞在し、その間に近くの六甲ホテルも訪ねています。上の地図に、中村邸と六甲ホテルの位置が書き込まれています。与謝野迪子『想い出』からです。<ホテルには山田耕筰さんが泊まっておられ、夕方、与謝野家の人達とホテルに行った時、広間の灯を暗くして、ピアノの燭台にろうそくをともし、ピアノを聞かせてくだすった。静かな山の夜のその即興曲はロマンティックな余韻を残し私達を魅了した。そして、私達姉妹は、その瀟洒な山田耕筰さんの紳士ぶりに燕の紳士とあだ名をつけ、いつまでも噂した。>山田耕筰もしばしば、六甲ホテルを使っていたようです。上の写真の恵が池の右手に六甲ホテルがありました。 そのような、阪神間モダニズムを象徴する六甲ホテルに、当時香櫨園に住んでいた谷崎松子さんも、大正11年19歳の夏に誘われ、その時の甘美な思い出を『蘆辺の夢』で述べています。。<香櫨園の山手の方に、阪急線の夙川から六甲山の方へ入る、苦楽園というところに六甲ホテルがあった。そこへ夕食に誘ってくれたのが若き医学者T先生であった。食事を終えてバルコニーに出て、黄昏の空の色の美しさに心もなずみ、街の灯も刻々と光を増して来る頃であった。目の前にT先生が大きく映ったかと思うと、静かに抱きしめて、軽くキスされた。私は、誰からもキスされた覚えはいまだなく、さすがに上気した。> さらに縁談が持ち上がっていた上、美人の松子さんに思いを寄せる人も多かったようです。<前年あたりから、私の周囲をめぐってさざめきのような音が耳をかすめていた。阪大医学部の医師の卵の人たちは、家の上の線路をわたると池があったが、そのほとりに建っている家に下宿していて、姉と私の姿を見ては、思わせぶりな風情をみせていた。こういうと、自惚れていたように思われるであろうが―。>吉田初三郎の鳥観図からもわかるように、上の絵の中央に片鉾池があり、西側に家が何軒か描かれており、医学部の学生はそこに下宿していたのでしょう。松子さんは傍目にも美しかったことは間違いないようで、大正11年の『サンデー毎日』創刊号で、松子さんの桃割れの日本髪で日傘をさしている写真が使われたそうです。
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夙川の根津家別荘での事件(『花筏―谷崎潤一郎・松子たゆたう記』)
大正12年、森田松子は大阪屈指の木綿問屋の根津商店の若社長根津清太郎と結婚します。そして大正13年には長男の根津清治を出産していますが、清太郎は店にもあまり顔を出さずに花街通いに明け暮れていました。船場の商人たちが郊外に別荘を持ち始めた時代、昭和2年には根津家も夙川(大社村森具字北蓮毛847、現;西宮市相生町12番14~16)の別荘に移っていました。 昭和4年には恵美子を出産しますが、そこで夫の清太郎と妹の信子が駆け落ちをするという衝撃的な事件が起こります。この事件は谷崎潤一郎の小説『細雪』の冒頭で、雪子(モデルは重子)を縁遠くした理由として登場します。<雪子を縁遠くしたもう一つの原因に、井谷の話の中に出た「新聞の事件」と云うものがあった。それは今から五六年前、当時廿歳であった末の妹の妙子が、同じ船場の旧家である貴金属商の奥畑家の忰と恋に落ちて、家出をした事件があった。雪子をさしおいて妙子が先に結婚することは、尋常の方法ではむずかしいと見て、若い二人がしめし合わして非常手段に出たもので、動機は真面目であるらしかったが、孰方の家でもそんなことは許すべくもなかったので、直きに見つけ出して双方に連れ戻して、そのことはたわいもなく解消したかの如であったが、運悪くそれが大阪の或る小新聞に出てしまった。而も妙子を間違えて、雪子と出、年齢も雪子の年になっていた。当時蒔岡家では、雪子のために取消を申し込んだものか、但しそうすれば半面に於いて妙子がしたことを裏書きするのと同じ結果を招く恐れがあり……> 現実は更に複雑で、奥畑家の啓坊のモデルが根津清太郎ですから、『細雪』の中姉ちゃんの幸子と啓坊は夫婦だったことになるのです。ここで書かれている新聞記事で雪子(重子)と妙子(モデルは信子)が間違えられていたことも事実だったようです。 事実と創作を交えて書かれた鳥越碧著『花筏 谷崎潤一郎・松子たゆたう記』では次のように書かれていました。夙川の根津家別荘で二週間前に生まれた恵美子の寝顔を見ていた時のことです。<「御寮人さん、ここで真価が問われますのや。騒いだらあきまへんで。穏やかに笑うてはったらよろしゅおます」と、お浜の声も厳しい。御家さんとお浜から𠮟責とも説得ともつかぬ説明を受けて、松子は、ことの次第を理解した。信じられぬままに。あろうことか、夫の清太郎と妹の信子が駆け落ちしたというのだ。そのような衝撃的な事件を、産褥にある松子に御家さんは冷ややかに伝えたのである。> 現在は文春砲でしばしば芸能人の不倫が世間を騒がせますが、この時代不倫はあたりまえだったようです。しかし、さすがに義妹との駆け落ちはニュースになったようです。<どこで漏れたのか、今朝の三流新聞紙に駆け落ちの記事が出たのだ。「根津商店の若社長、義妹と道行」という見出しで。しかも、信子ではなく重子と名前を誤報されて。母屋の方では、別家衆やら番頭たちが集まって、善後策を講じている様子である。重子は急遽、実家に呼び戻された。離れの松子は、放り置かれたままである。どうしよう。あの楚々とした重子が、こんなスキャンダルで汚されるとは。駆け落ち事件で、自分たち姉妹がこんなふうにめちゃくちゃにされたことが、悲しくてならなかった。>『細雪』が中央公論に発表されたのは昭和18年、この事件から14年経っていたとはいえ、松子さんにとっては禁断の話題まで、小説に取り込まれるとは思ってもみなかったことでしょう。大谷崎の小説家魂が、そこまで描かせたのでしょうか。市居義彬著『谷崎潤一郎の阪神時代』に夙川の根津別荘の間取り図が記されていました。清太郎と松子夫婦が住んでいた別棟に、その後谷崎潤一郎と丁未子夫妻がしばらく住むことになるのです。昭和11年の吉田初三郎鳥観図にも根津家別荘が描きこまれていたのは驚きです。ここを舞台に色々な物語が生まれました。
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阪神間モダニズムが生み出した仁川の風景(谷崎潤一郎『赤い屋根』)
仁川の風景をこよなく愛した作家は遠藤周作でした。小説『黄色い人』では仁川を舞台とし、エッセイ「仁川の村のこと」で次のように述べています。<少年のころ、ぼくはこの線(阪急今津線)にある仁川という場所で育った。言うまでもなく関西学院のある所だ。白く光っている仁川の川原を真中にはさんで、洋菓子のような洋館がたちならぶ小さな住宅村である。にもかかわらずこの小さな村はなぜかどこかの避暑地にも似た雰囲気を持っている。> また、戦前は関西学院に招かれた外国人教師たちもこのあたりに住んでいたようです。<川を上流にさかのぼっていくと、アカシヤの樹にかこまれた異国風の家々が点在しているが、それはむかし関西学院に教鞭をとっていた外国人の家々だったのである。白い柵ごしにコスモスやマーガレットの花が咲き乱れ、自転車にのった金髪の子供たちが大声で叫びながら走りまわっていた光景を昔、よく見たものだが、今はどうなっているのだろうか。> この風景は遠藤周作が仁川に住んでいた昭和14,5年のことです。 もう少し遡って、昭和4年頃の甲山頂上から見た仁川の景色が、北尾鐐之助『近畿景観』に描かれています。<ここからみると、なるほどこの西宝線の沿線では、一番仁川が異常な発展を見せている。川は甲東村を流れて、甲武橋の少し北の武庫川に入るまで、凡そ三粁ほどの短いものであるが、甲山から次第に下りになって、宝塚へ行く街道の向こうまで、両岸がずっと、低い二条の丘となってつづいている。><松林がある。丈の低い灌木林がある。川が白々とした磧をみせて、改修後も、逆瀬川のようにせせこましくなっていない。川が東西に流れているので、住宅はみな流れを中央にしてすっと縦に建てられていく。青い屋根、赤い屋根である。この勢いで進んで行ったら、十年と経たないうちに、仁川に沿って、おそらく、武庫川の岸まで家が続くであろう。> すでに昭和の初めから仁川の両岸に沿って、青い屋根、赤い屋根の洋館が見られたことがわかります。しかし、この時代の仁川の写真がみつかりません。昭和6年の阪神急行電鉄の「沿線御案内」にも、残念ながら仁川の様子は描かれていませんでした。いつも驚くほど正確に描かれている吉田初三郎の西宮市鳥観図を見ても、仁川のあたりの描写は乏しく住宅はほとんど描かれていないのです。 昭和10年の阪急仁川駅周辺の地図を調べてみました。(この地図は左側が北になっています)阪急今津線は阪神急行電鉄西宝線と書かれ、仁川に沿った両岸に仁川住宅地と書かれています。このあたりに、松林や洋館があったのでしょう。この風景を生き生きと描いた小説がありました。谷崎潤一郎『赤い屋根』の主人公・繭子は仁川の赤い屋根の西洋館に住む東京出身の女優でした。<繭子の住んでいる家は、大阪と神戸の間、阪急電車の西の宮で乗り換えて、あれから宝塚へ行く線の、とある小さな停車場の近くにあつた。電車から見ると、まるで海岸の砂浜のような明るい白ツちやけた地面に、可愛い小松の林が続いて、幅は広いが水はそんなに沢山はない一とすぢの川が、その間をちよろちよろと流れている。何でも陰気なことが嫌いで、派手に陽気にと暮らしたがる彼女は、始めて家を捜しに来た時、此処の景色が気に入ってしまった。>更にその色彩も見事に描写しています。<東京の郊外の黒っぽい土を見慣れた眼には、洗い出したような綺麗な土の色が珍しかった。白いのは地面ばかりでなく、川床の砂や、護岸の石崖も白く、ところどころにチラホラ建っている文化住宅の壁も白い。その単調を破るものは、それらの住宅の屋根瓦の「赤」と、林の松の幹の「赤」と、濃い、新鮮な葉の「緑」とがあるばかり。見渡したところ、此の明快な三つの原色で成り立っているランドスケープは、油絵の具がまだ乾かないでいるかのように生々しく、初夏の晴れた日光の下では、強い照り返しが瞳に痛いくらいだった。>まさに阪神間モダニズムの時代に現れた仁川の風景を活写した文章でした。 現在の仁川の様子です。この写真は西宮文学回廊から借用したものです。https://nishinomiya.jp/bungaku/?p=844 私も仁川の写真は何枚も撮っているのですが、このように川床の草がなく、白砂と川の流れが写った写真は皆無で、西宮流編集室代表・岡本順子さんの許可を得て使わせていただきました。『赤い屋根』の仁川の記述に少し気になったところがありました。<或る土地会社が「翠香園文化村」と云う名をつけて、此処を経営し始めたのは一年ばかり前のことだが、彼女が移って来てからでも、彼方の丘や此方の川縁にもう五六軒も家が増えた。彼女の借りたのは川を南に控えた場所の、疎らな松に囲まれた一軒で、庭から直ぐに石崖になり、水はその下を流れていた。>「翠香園文化村」については、以前も色々調べてみたのですが、やはり谷崎の創作のようです。ただ上で示した、昭和10年の地図を見ると、仁川の南側の仁川住宅地の横に「宝東園」と書かれており、いわゆる西宮七園以外にも〇〇園がいくつかあったことがわかりました。住宅開発会社が名付けたのでしょう。それにしても、どこかに当時の仁川の街並みを記録した写真は残っていないでしょうか。
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大正6年苦楽園に長逗留した与謝野晶子・鉄幹夫妻
与謝野夫妻が大正6年に苦楽園に逗留した経緯について、逸翁美術館編『与謝野晶子と小林一三』で伊井春樹氏が次のように述べています。<大正六年の夏、与謝野晶子にとって重要な年になることは思いもしなかったことであろう。与謝野夫妻は、歌壇の新旗手としてはなばなしい評判を得たとはいえ、結婚して以降はなかなか安心立命のときがなく、とりわけこの数年は精神的にも経済的にも激しく揺れ動くようなすさんだ生活であった。> その原因は、「明星」の終刊、鉄幹の欧州渡航費用、、鉄幹の衆議院立候補と落選など様々な問題があったようですが、夫妻は経済的に追い込まれた状態を改善しようと、東京を離れ自らの歌を揮毫して販売する「歌行脚」を計画します。 それを支えたのが、パトロンの一人であった大阪の実業家・小林天眠(本名・小林政治)です。ポスター写真の右から二番目、与謝野晶子の後ろに立つ人物が小林天眠、なかなかかっこいい人物です。<天眠には、二週間ばかり大阪に滞在し、短冊、色紙、屏風などに揮毫し、三、四百円の収入を得たいとあけすけに打ち明ける。短冊や色紙は依頼者の自弁、宿泊場所の世話、訪れることも地元の新聞に宣伝記事を書かせるようにとのかなり欲張った依頼ではある。>その結果、夫妻が東京から旅立ったのは5月28日、帰郷したのは7月9日で40日を超える長旅となります。<与謝野夫妻は五月二十八日に東京を発ち、その夜は天眠宅泊、翌日から六甲苦楽園にとどまり、六月十二日に岡山を経由して九州へ、若松、福岡、田川、日田などを訪れて揮毫し、二十七日に六甲山にもどり、帰郷したのは七月九日であった。> 小林天眠の与謝野鉄幹・晶子夫婦との関係は深く、夫婦の長男・光に、天眠の三女・迪子が嫁いで、姻戚関係も結んでいます。その与謝野迪子の随筆『思い出』に与謝野寛、晶子が苦楽園に滞在した様子が、詳しく記されていました。苦楽園は大正2年ごろから中村伊三郎が開発し、関西一の別荘地になっていました。小林天眠は中村伊三郎に依頼して、その自宅「久方庵」に与謝野寛、晶子、四男アウギュストの三名が滞在できるように計らったのです。『思い出』には次のように述べられています。<阪神電車の夙川駅で降りると、山側の方に苦楽園行きの電車が待っている。私達はその頃まだ珍しい自動車に乗って、ところどころ岩のむき出している、でこぼこ道を進んだ。木々はあまり大きくなく、五月の陽光に山道は乾いてひび割れがしていた。間もなく、六甲山の中腹にある苦楽園に着いた。数奇屋風の離れ家が景色のよい場所に点々と建っていて、その一つを与謝野家が借り受けていた。そこに集まって食事などを共にした。>ラジウム温泉六甲苦楽園紹介の葉書がありました。写真から解読が難しいのですが、読めるところだけでも紹介しましょう。(不明文字は〇で表記します)地は〇〇の中央六甲山腹に立り。山海の絶景を双〇に眺め 千里の野〇を脚底に置く。園内の林泉雅到に温水、ラジウム温泉の大浴場あり。酒亭あり、旅館あり、食堂あり、ホテルあり、レスト―ランあり。 瑞西ロザーンの美景に酷似すと激賞す。與謝野ご夫妻を始め知名の文人墨客、芸術家 〇〇に遊びて逗留長きに渉る南に海、北西に山、暖水暖〇、避寒地として絶好。人あり、関西の熱海に推〇す。摂津西宮ラジューム温泉六甲苦楽園 電話西宮101番阪神電車香櫨園阪急電車夙川より自動車にて十分間香櫨園駅、夙川駅から苦楽園に客を運んでいた自動車です。(写真集「西宮という街」より)スイスローザンヌに酷似とは大した宣伝ですが、初めてみる当時の苦楽園を宣伝する興味深い葉書でした。
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大正6年与謝野晶子の宝塚少女歌劇の観劇と歌碑
阪急宝塚駅近くの宝来橋たもと(南詰)に、あまり目立ちませんが与謝野晶子の歌碑があるのをご存じでしょうか。 宝塚歌劇の機関紙「歌劇」の創刊号に与謝野晶子の「武庫川の夕べ」と題する歌三首が掲載されているのを見て、宝塚ライオンズクラブの方々が建立されたそうです。宝塚にてよめる 武庫川の板の橋をば ぬらすなり かじかの声も 月の光も 与謝野晶子 歌碑建立主旨 宝塚市を代表する文化の一つ宝塚歌劇の機関紙「歌劇」の創刊号に日本を代表する歌人与謝野晶子の「武庫川の夕べ」と題する歌三首が掲載されていました。与謝野晶子は女性の自立と反戦平和にかかわり貢献した人でもあります、その晶子が夫鉄幹と共にこの宝塚を訪れたことはあまり知られていません。 緑連なる六甲、長尾連山とこの武庫川が街のシンボルとして自然が体験できる自然保護に配慮した山や川があることをより多くの人たちと共に願い、私たちの街の劇場文化の発展と武庫川の自然保護を祈念して、この碑を建立するものです。平成11年4月13日 宝塚ライオンズクラブ 会長(第37代)堀本雅也 与謝野晶子が宝塚を訪れたのは大正6年、「歌行脚」のため、苦楽園に逗留していたときでした。小林一三に招かれて、宝塚少女歌劇を観劇したようです。その様子は後に与謝野家の長男・光と結婚することになる小林天眠の三女・迪子が『想い出 わが青春の與謝野晶子』に記していました。<この滞在中、義父母、オーちゃんのお伴をして、私達、両親に上の女の子三人が宝塚少女歌劇を見に行っている。「アンドロクレスと獅子」の歌劇中、縫いぐるみの獅子が出て来るのを見て、オーちゃんは恐がって泣き出した。義母はやさしく引き寄せて宥めていた。その時の幼いオーちゃんと、いとしげな義母の姿があとあとまで強く心に残った。>「アンドロクレスと獅子」の写真がありました。 歌劇が終わって、小林一三から歌劇学校の女生徒たちや憧れのスターに紹介されます。<彼女達は女流歌人として義母を尊敬の目で見上げ、礼儀正しく挨拶をしていた。義父母と宝塚の人達が記念撮影をしている間、私達はめいめいご贔屓のスターのことを夢中になって話し合っていた。>与謝野晶子は大正9年にも山田耕筰と観劇しており、歌劇が大好きであったようです。<撮影室から出て来ると、小林一三氏は用意して来た数本の女持ちの扇子に、義母の歌の染筆を乞い、出来上がった扇子はスター達に渡された。喜んでいる彼女達を見て、長姉は心から羨ましげに「ええわぁ、うちも欲しい」と呟いてため息をついた。>この扇子も逸翁美術館に所蔵されています。小林一三が『歌劇』お創刊したのは大正7年8月のこと。そこに前年の与謝野晶子の歌三首を掲載したのです。
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西村伊作とも親交のあった小林天眠(『想い出 わが青春の與謝野晶子』)
与謝野家の長男・光と結婚した小林天眠の三女・迪子の『想い出 わが青春の與謝野晶子』を読んでいると、小林家の長女が転地療養のため新宮の西村家に滞在したことが書かれており、小林天眠の交友の広さに驚きました。 小林天眠(本名;政治)は明治10年に兵庫県加西市の自作農家に生まれ、15歳で大阪にでて繊維問屋の丁稚奉公、22歳で毛布問屋を開業、その後大阪変圧器株式会社(現、株式会社ダイヘン)を創業し、初代社長となった大実業家です。そのかたわら小林天眠のペンネームで小説を書き、文学青年として浪花の文壇を生涯支援し続けた人物。また天佑社という出版社を起こし、「モウパッサン全集」や晶子の「心頭雑草」、平塚らいてう「婦人と子供の権利」など後世に残る本も出しましたが、本業の経営悪化、関東大震災などでわずか4年で廃業となっています。 明治20年代後半には、紡績業や織物業が栄え、大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれるようになり、更に大正後期から昭和初期にかけて大阪市は人口・面積・工業出荷額において日本第一位となり「大大阪時代」を迎えます。 天眠が活躍したのもこの時代でしたが、大阪の生活環境は今では考えられないほどの悪さで、小林家の長女の安也子は女学校卒業を前にして軽い肺尖カタルを患っていました。与謝野迪子『想い出』からです。<今の公害に及ぶべくもないが、その時分から大阪は煤煙の都、空気は悪く太陽の恩恵を受けることも少なく、自然の緑も東京ほど多くはなく悪い環境だった。軽症であったので具合のよい日は学校に出たが、二階の子供部屋で一人で床に就いている日も多かった。> 当時は的確な薬もなく、牛乳を毎日飲ませたり、牛肉を食べさせるという栄養療法しかなかったようで、大正9年には空気のよい新宮の西村伊作の家に預けることにします。詳しい経緯は書かれていませんでしたが、当時与謝野晶子が小林天眠の邸に逗留しており、次のように、西村家の暮らしを紹介しています。<紀州にね、西村さんというかたのお家があってね、珍しい西洋ふうの暮しをしてられるのですよ。佐藤春夫さんや、沖野岩三郎さんもよく行かれるのですが、富本憲吉さんが西村さんと一緒にやきものをされるとき、バーナード・リーチさんもみえたそうで……(小林天眠の娘安也子の回想より)>(加藤百合『大正の設計家 西村伊作と文化学院』)『想い出』い戻ります。この時代、大阪から新宮へは汽船で一昼夜かけて勝浦まで行ったそうです。<長姉安也子が母と大叔父その他の人々と、新宮へ旅立って行ったのは、爽やかな初夏の候であったろうか、私達は単衣を着ていた。安治川口の天保山から出る船を、父といっしょに見送った。病弱な母が病気上がりの姉を連れて、今から思えば不便な長旅であったろうが、明るい南国の町、紀州新宮の西村家に落ち着き、一家をあげての暖かいもてなしを受けた。>大正9年は第一次世界大戦後の過剰生産が原因で輸出不振となり、大戦景気で好調だった綿糸や生糸の相場も半値以下に暴落して打撃を受け、21銀行が休業という戦後恐慌が始まった年でした。小林天眠は新宮に同行するための乗船券まで用意していましたが、この時、銀行の支払い停止が勃発したため、見合わせ、天眠の叔父(迪子の大叔父)に代行を頼んだのでた。<西村家の話を母から、また長姉の手紙で知った時、私達は外国の家庭小説オルコットの「四少女」の物語りの中の情景描写を思い浮かべた。その時代としては日本人離れのした純洋式の住居、広い庭も洋風、明るく合理的で清潔な洋館に夫人を除いた家族一同が洋服、それも、純欧米風の服装が板についていた。> キリスト教に入信した父・大石余平により幼年時代から西洋式に育てられた西村伊作は、明治39年に自邸として、わが国で最初のアメリカ式のバンガロー住宅を建て、理想の生活を実践するために工夫を重ね、いわば集大成として大正4年に、3番目の自邸、現・西村記念館を完成させています。家具調度は、台所に備える電気製品のような大きなものから「水さし」「洗面器」のように日用のものまで、シカゴのモントゴメリー・ワードというメール・オーダーの店でアメリカの製品を買い入れたそうです。また白いホーローのバスタブと洗面台が備え付けられたバスルームがつくられ、地下室には絞り器のついた洗濯機が備えられた洗濯室がありました。<六年生のアヤちゃんを頭に、久二、ユリ、ヨネ、永吾、ソノ、ナナの七人の子供たちが可愛らしい服を着、白い大きな洋館の前で、ごく自然なポーズで撮っている写真を見た時、次姉と私は余り見事な洋風化家庭に、憧れをもって感嘆したもんである。>西村家にはその後大正11年に三男八知が生まれ、昭和2年にはクワが生まれて子供は9人でした。ポスターを拡大した昭和9年の西村ファミリーの写真。この写真でも西村家で奥様だけが頑なに着物を着ているのが印象的です。ピューリタン式の西洋風生活を理想とした伊作は、自らの頭の中に残る幼年時代の生活像を実現するため、「西洋的教養の全くない」妻に、料理・西洋式洗濯・機織り・英語に至るまで教え込むことから結婚生活をはじめたそうです。(加藤百合『大正の設計家 西村伊作と文化学院』)奥様はどんな人柄だったのでしょう。 さて小林安也子は、8月近くに元気になって戻ってきます。<長姉は八月近くまで新宮の西村家に滞在し、元気になって帰ってきた。衣食住のうち、住の洋式化は姉の手におえなかったが、衣の方はさっそく、有り合わせの切れ地を集めて、妹達に洋服を縫って着せた。丸善に行って、イギリスのウエルドン社やアメリカのパタリック社の子供服雑誌を求め、西村夫人より教わった洋裁の腕をふるった。私も姉に裁って貰って、衿や袖口にひらひらのついた服を、ベージュ色の絹袖で作って着たが、人がじろじろ見るので直ぐやめてしまった。>そんな時代の興味深い西村伊作の生き方、『我に益あり』という自伝に詳しく書かれていました。私の尊敬する人物の一人です。西村伊作が長女アヤのために文化学院を創立したのは翌年の大正10年でした。
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宝塚ホテルと遠藤周作
遠藤周作は昭和14年から昭和17年まで仁川に住み、その頃の仁川、宝塚の風景が忘れられず、心の故郷と呼び、いくつかのエッセイや小説の舞台として著わしています。 関西に用事があったときは、宝塚ホテルを定宿にしていたそうですが、その様子が昭和58年12月8日の日記に書かれていました。出典は三田文学第67号特集遠藤周作『ひとつの小説ができるまでの忘備ノート』からです。<一時に大阪空港に着く。誰にも迎えてもらわず一人でタクシーに心はずませて乗ったのは今日と明日と、大阪周辺の女子大で講演という義務はあるけれども、その他の時間を利用して自分の故郷、仁川や宝塚を歩けるという悦びがあったからだ。> 遠藤周作が仁川の月見ヶ丘に住んだのは16歳から19歳までのわずか3年でしたが、多感な時期を過ごしたからでしょう、「自分の故郷」と呼んでいるのです。<宝塚ホテルにチェック・イン。部屋に入り窓から外を見ると懐かしい山々が拡がっている。かつて仁川の部屋の窓から毎日眺め、憧れを抱いたあの山々である。> 伝統ある宝塚ホテルは今年6月に、南口駅前から大劇場の隣に移転しましたが、遠藤が宿泊したのは写真の南口駅前にあった宝塚ホテルです。ホテル到着後、遠藤は早速散歩に出かけます。<すぐに散歩。まず南口から橋をわたり宝塚のあの桜並木の路に出る。右に動物園、左は劇場。すべて母と仁川で暮らしていた頃の思い出の場所である。あの戦争中、二つの図書館から本を借りて読むことが、どんなに私にとって人生に開眼させたろうか。トルストイ、ドストエフスキーの本が。>宝塚大橋を渡って、花乃みちまで歩いて行ったようです。現在の大劇場入口。動物園はなくなりました。今はなくなった宝塚ファミリーランドの案内図がありました。動物園のホワイトタイガーは有名でした。これもまたなくなってしまった遠藤周作を作家に導いた宝塚文藝図書館。最後は中華レストラン、ロンファンでした。次回もこの日記から続けます。
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遠藤周作は宝塚ホテルから「夙川の墓地」へ
遠藤周作の昭和58年12月8日の日記から続けます。散歩から宝塚ホテルに戻った遠藤周作は迎えに来た友人と、カトリック夙川教会に向かいます。<いささか疲れてホテルに戻ると梅木明と稲田神父が迎えに来てくれていて、車に乗り逆瀬川から夙川に入る。>車は逆瀬川を遡って、宝塚ゴルフ倶楽部、西宮カントリー倶楽部の横を通って、県道82号を南に下ったようです。(地図の黄線ルート)<その途中、梅木が「平岩稔の墓に寄っていこう」と言ってくれた。夕暮れの夙川の墓地で我々は降りた。墓地の向こうには夙川の街が、夕焼けの下に見えた。墓地の一角はカトリックの人たちの墓が並び、おお、そこに私が知っていた人々、少年の頃、教会の日曜のミサのあと顔をあわせた神父、伝道師、信者たちの墓が並んでいた(そしてそのなかに平岩の墓も!)まるでそれはあの人たちが私に会いに来てくれたような場所だった。>カトリック夙川教会の墓所はニテコ池の北側の満池谷墓地のキリスト教区にあります。遠藤周作が「夙川の墓地」と書いたのはこの墓所でした。カトリック夙川教会を創立したブスケ神父もここに眠ります。夙川のクリスマスツリーで有名なオハラ家の三男ケビン君の名前も刻まれていました。カトリック夙川教会の墓所は、地上では気づきませんでしたが、驚いたことに航空写真を見ると見事な十字架になっていました。 遠藤周作にとって、このカトリック夙川教会の墓所の訪問は相当感慨深かったようです。平岩稔という方は、遠藤周作とどのような繋がりがあったのでしょう。 蛇足ですが、田辺聖子もこの墓地を小説に書いたことがあり、『歳月切符』で次のように述べています。 <私は西宮の満池谷墓地がひろびろして美しいので「窓を開けますか?」に使ったことがある。仏教の墓地では陰鬱な感じだが、クリスチャンのお墓がつづくところは明るくて緑が多く、静かでいい。尼崎に住んでいたころわざわざバスに乗ってここまで出向き、「神は愛なり」などと掘られた墓石の文句を読んで楽しんでいた。いまでは市営墓地も珍しくなく、仏教徒も芝生墓苑などに、キリスト教信者と同じような形式のお墓を建てたりして、モダンになっているが、昭和三十年代に、天空も土地も広々した、明るい墓地は珍しかった。> キリスト教区は満池谷墓地の中でも少し高台にあり、遠藤周作も書いているように、当時は視界が広がっていたようです。遠藤周作は満池谷墓地からカトリック夙川教会に向かいますが、次回もそのお話を続けます。
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遠藤周作は満池谷墓地からカトリック夙川教会へ
昭和58年12月8日の日記から続けます。遠藤周作は宝塚ホテルから友人の車で満池谷墓地のカトリック夙川教会の墓所に立ち寄った後、洗礼を受けたカトリック夙川教会を訪れます。<夙川の教会にも川瀬、伊藤、福田(神父)、渡辺、小池の各氏が待っていてくれた。梅木明が聖堂の中に私を連れていった。私たちが少年の頃にそこに跪いた教会。小さな花のテレジアの像が祭壇の奥からおろされ、その代わりに十字架がおかれているのが残念だったが。>夙川の教会で待たれていた方々は、灘中時代の友人でしょうか。 ここで遠藤が祭壇の奥に十字架がおかれているのが残念だったと書かれているのは、やはり遠藤がキリスト教に聖母マリアのやさしさを求めていたからではないでしょうか。 カトリック夙川教会の聖堂は昭和7年に完成し、ブスケ神父が敬愛してやまなかった聖テレジアに献げられ、夙川教会は「幼きイエズスの聖テレジア教会」と命名され、祭壇の奥のアルコーブには守護神の聖テレジア像が置かれていました。 したがって、遠藤周作が子供の頃、教会に通っていたときは、アルコーブにはテレジアの像がおさめられていました。 しかし、55年前の、世界公会議で定められた方針に従って、それまで置かれていた聖テレジア像を告解室の隣に移し、十字架のキリスト像が置かれたのです。(上の写真は2012年に撮影したものです) 近年になって、神父様と信者の皆様が再び夙川教会の守護神の聖テレジア像をアルコーブに戻すことを決められ2017年に元の姿に戻りました。きっと遠藤周作も喜んでいることでしょう。 以前アルコーブから降ろされていた聖テレジア像の左隣にあるのが告白室です。日記に書かれているカトリック夙川教会訪問については、エッセイ集『私の愛した小説』のなかでも書かれており、告白室の思い出を述べています。 当時のミサの前には、祈祷書をめくり、信者のために色々な罪をくわけして書いたページを読んで告白の準備したそうですが、遠藤周作は子供ながらにも罪とはそんな風に分類できるほど簡単に説明できるのかという疑念を持っていたそうです。<告白室に入り、金網の向こうに耳をかたむけている仏蘭西人の老神父に「嘘をたびたび、つきました」などとその時さえ嘘を呟きながら少年の嘘にも複雑な種類があり、複雑な段階があり、複雑な因果のあることを感じ、それが言葉ではとてもいいあらわされぬことに思い至っていた。>その告白室での当惑が遠藤周作の小説家としての鍛錬にどれほど役立ったかわからないと述べているのです。 この訪問で様々な思い出がよみがえったようです。
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昭和58年12月11日遠藤周作は宝塚ホテルから仁川の家に
遠藤周作が宝塚ホテルを関西の定宿にしていたことは昭和40年の『神戸っ子』6月号に随想にも、述べられていました。<もともと話をするのが不得意なのと、講義などは私の本来の仕事ではないので、大抵はお断りするのだが、関西の大学から依頼されると何となく承諾してノコノコ出かけて行く。そしてそれが京都や大阪での仕事であっても事情が許す限り宿は宝塚ホテルにとる。>そして、昭和58年にも講演を頼まれて、宝塚ホテルに投宿したのです。昭和58年12月11日の遠藤周作の日記からです。<朝の時間を利用してグリルで珈琲を飲んだあと仁川まで電車で行く。そしてまた再び仁川の家を見に行く。駅から仁川までの道を、私は母と兄とが一緒に歩いているような思いで歩いた。私のかつての家は四つの家に分割されて跡かたもなくなっていたし、ウィルベーバさんの家だけはもとのままである。>宝塚南口から仁川まで、阪急電車に乗って行きます。 昭和52年に兄・正介が56歳で亡くなっており、その思い出ともに阪急仁川駅から母と兄とともに住んでいた仁川月見ヶ丘5丁目の家があった所まで歩いたようです。ちょうど道が斜めに交差しているΔ地帯(赤矢印)にあり、現在も遠藤が書いているように4軒の家が建っているほど広い敷地でした。現在の様子です。<川にそって関西学院まで歩く。用東書房というあの古本屋はまだそのまま残り、そして外人教師たちの家もそのまま残り―。午後、女子短大でしゃべり、五時の飛行機で帰京。>仁川に沿って関西学院まで歩いた様子。関西学院も遠藤にとっては遊び場だったのかもしれません。
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遠藤周作未発表小説『影に対して』三田文学夏季号2020
遠藤周作による未発表小説の原稿が長崎市にある遠藤周作文学館で見つかったことを新聞報道で知りました。 その全文が三田文学夏季号に掲載されることを知り、遠藤ファンの一人として楽しみにしておりましたが、ようやく入手いたしました。 題は「影に対して」。母の生きざまに強い影響を受ける男・勝呂が主人公で、両親が離婚し、平凡な生活を営む父親の元で育った勝呂が、音楽家として大成を目指した母親の人生をたどるストーリーになっています。「三田文学」には遠藤周作文学館学芸員の川崎友理子さんが寄稿されており、次のように解説されています。<遠藤は一九六三年頃から、自分の母を小説で描き始めた。本作もまた、小説的虚構は加わっているが、遠藤の体験に根ざしたものが再構成されており、自伝的性格を持った作品である。母がいかに深く遠藤に痕跡を刻み、影響を及ぼしたか、また、両親の生涯に向きあって自身の生き方を問うてゆく過程を知ることができる点で、極めて重要な作品といえよう。> 確かに虚構が加わり、大連から帰ったとき、主人公は六甲駅の近くで父と暮らし、母は東京の学校でヴァイオリンの教師となっていますが、小林聖心女子学院で音楽を教えていたときの母、遠藤郁さんの姿がそのまま描かれていました。次回はそれを紹介しましよう。
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母、遠藤郁が音楽を教えた小林聖心女子学院(『影に対して』)
三田文学夏季号2020に掲載された遠藤周作未発表小説『影に対して』で、小林聖心女子学院で遠藤郁に音楽を習った女性のお話が登場します。 小説では、主人公勝呂の母、節子は大連から一人で東京に帰り、音楽を教えていたことになっていますが、遠藤郁は正介、周作を連れて六甲の叔母の家に一旦同居し、まもなく夙川に転居。小林聖心女子学院で音楽を教えていました。 小説を読んでいると、遠藤周作が実際に小林聖心の卒業生から母の話を聞いたことに基づいて書いているように思われる部分がありました。<一人の中年婦人が入口から出てくると、人影のない校庭をゆっくり彼の方に近づいてきた。「鮎川でございますが……」勝呂はあわてて頭をさげ、自分は、ずっと前、ここに奉職していた勝呂節子の息子だと説明した。婦人は軽い驚きの声をあげて、母には自分も習ったことがあると答えた。>ここから勝呂と鮎川の会話が続くのですが、そこに書かれた鮎川という婦人の上品な話し言葉は、まさに小林聖心女子学院の卒業生の方々の話し方でしたし、私が小林を訪ねた時も休日で、人のいない静かな校庭だったことを思い出していました。上の写真は小林聖心女子学院付近の航空写真ですが、黄色の点線で示したのが、遠藤周作が仁川に住んでいた頃の、自身が述べている「秘密の散歩道」でした。また矢印の部分は小林聖心女子学院の裏門で、須賀敦子さんは戦時中、学校工場で紫電改の部品加工に従事し、仕事を仕上げたあと、この裏門を乗り越えてゴルフ場へ遊びに行かれたそうです。(『しげちゃんの昇天』)<本工場から運ばれてきた材料を期日までに仕上げ、ほっとしたあとは、一階だったから全員が窓から抜け出して、学校の裏のゴルフ場に遊びに行って物議をかもしたこともあった。>小説に戻りましょう。<さっきと同じように鮎川さんは人影のない校庭をゆっくり校舎に戻っていった。ポケットに両手をいれたまま勝呂は、母が大連から引きあげたあと三年間、音楽を教えたというこの校舎を見つめていた。もちろん、この校舎も、むかし母が通ったあの小学校と同じようにすっかりコンクリートに建てなおされていた。> 小説では勝呂節子がこの学校で音楽を教えたのはわずか3年となっていますが、遠藤郁は昭和10年から昭和23年に新宿区本塩町のカトリック・ダイジェスト社のビルに転居するまでの13年間、小林聖心で教えていたのです。 また小説では、「すっかりコンクリートに建てなおされていた」と書かれていますが、モデルとなっている小林聖心女子学院本館は昭和2年にアントニン・レーモンド設計により竣工し、1999年には、国の登録有形文化財に指定された由緒ある建物です。したがってこのコンクリート造りのこの建物で遠藤郁は音楽を教えていたのです。写真は今も残されている教室の大きな扉。建設当初の貴重な鋼製サッシも残されています。因みに、遠藤正介・周作兄弟が受洗したのはカトリック夙川教会ですが、郁は小林聖心女子学院の聖堂で洗礼を受けました。その聖堂は、今は講堂となっていました。もう少し遠藤郁について続けます。
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遠藤郁の教え子のお話(遠藤周作『影に対して』)
遠藤周作『影に対して』で、勝呂は母、節子が大連から帰って教えていた学校の卒業生から母の話を聞くのですが、実母・郁をモデルとして、小林聖心女子学院で音楽を教えていたころの様子が描かれています。<「母は……生徒さんに、人気がなかったのですね」「いいえ、そんなことございませんよ。そんなことは」婦人はあわてて首をふった。「でも、少しおきびしいところもおありでしたから」「教え方が」「ええ……」彼女は言葉をにごした。「あたしたちは、どうも至りませんで、従いていけないなと思うような時もございまして」> 遠藤郁先生が厳しい先生だったことは、生徒だった稲畑汀子さん、北村良子(須賀敦子さんの妹)さんの対談でもお聞きしたことがあります。 生徒たちがつけたあだ名は「ピーマン」。「こわかったわよねー」「うまくいかないとピアノをバタンと閉めて、地団駄踏んでいらっしゃったわ」と相当おきびしい先生だったようです。<「と、おっしゃると?すみません。母のことは何でも伺いたいもんですから」「何て言ったらいいのかわかりませんけど、ただ、先生は音楽にあたしたちが考えてる以上のことをお求めになったもんですから、それに従いていけない方は」鮎川さんは唇のあたりに、曖昧な微笑を浮かべた。>加藤宗哉『遠藤周作』によると、母、郁は東京音楽学校、現在の東京芸術大学に学び、安藤幸やアレクサンダー・モギレフスキーに師事した音楽家でした。安藤は幸田露伴の妹で、ベルリン留学のあと東京音楽学校の教授を務め、昭和初期にウィーンで開かれた第一回国際コンクールの審査員に日本人として初めて選ばれたヴァイオリニストでしたし、またモギレフスキーも東京音楽学校で教鞭をとり、諏訪根自子を育てた日本ヴァイオリン界の恩人でしたから、郁は当時としてはずいぶん高等な音楽教育を受けたことになります。それだけに「先生は音楽にあたしたちが考えてる以上のことをお求めになった」のでしょう。 昭和23年遠藤郁は小林聖心女子学院を辞して、東京のカトリック・ダイジェスト社の編集・発行の仕事につきましたが、この年、遠藤周作は小林聖心女子学院のシスター三好切子からの依頼で、初戯曲『サウロ』を書き、同女学院の卒業生によって演じられました。そのコルネリオを演じたのが、なんと稲畑汀子さんだったのです。後に、遠藤周作自筆の原稿が小林聖心女子学院の部室からみつかり、今は大切に保管されています。
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