阪急今津線が舞台となっている小説では、映画化もされた有川浩『阪急電車』が知られていますが、清水博子『vanity』にも、その車内の様子が面白おかしく描かれています。 マダムから1万円札を渡された画子は、食糧を買いに甲東園駅から阪急電車に乗って阪急三宮店まで遠征することにします。<山をくだりKT園駅からN宮K口方面行に乗る。ふたつてまえのO林駅から乗車してきたS女子学院の中高生が肘と肘を交差させ、およしになって、と身をよじっている姿もみなれた。やめんかい!などと大声を出す乗客はこの路線に存在しない。> 確かに車内で大声を出す人はあまり見かけませんが、映画『阪急電車』では車内で騒ぐ中年女性たちに、それまで我慢してきた時江(宮本信夫)が怒りの鉄槌を下す痛快な場面がありました。<MDYJ駅でK女学院の中高生たちが乗りこんでくる。S女子学院の生徒は自分がなにものであるかと悩んだことなどない風情だが、K女学院の生徒たちはすでにわたしがわたしであるという顔をしている。もしマダムに娘がいたらぎりぎりの成績でK女学院に入学させ大学受験させるより、S女子学院から東京の系列のS女子大学へ無試験であがる進路強制するだろう。> O林駅のS女子学院とは、明らかに小林聖心女子学院がモデルなのですが、須賀敦子さんご出身の学校、「自分がなにものであるかと悩んだことなどない風情」は清水博子さんの誤解でしょう。しかし、プロテスタント系のK女学院とカトリック系のS女子学院の校風は明らかに異なります。『神戸女学院のものがたり -専門学校最後の卒業生が巣立って50年』の中で、昭和16年神戸女学院高等部家政科卒の方が「はるかな思い出」と題して、その差を次のように述べられています。<学校に行くにはその頃皆、西宮北口で下車して歩くのだ。今津線の門戸厄神まで乗る人もいたが、歩く道のりはさほど変わらなかったし、今津線は車体も小さくその上、仁川、小林には関西学院や聖心女学院があって、混雑するのでなるべく北口から歩くように、と言われている。もっとも聖心には専用車があった。聖心はカトリックのお嬢さん学校で、白いブラウスに紺のジャンパースカートが清楚であった。大人しく上品でちょっとおすましで、それに比べると女学院の子はヤンキーで、お行儀が悪くて車中で騒いでいた、と時々同窓生から苦情がきてチャペルの礼拝のときに全学院が注意される。> この情景は、多島斗志之の推理小説『黒百合』にも描かれていました。<単に「女学院」と阪神間で略称されるこの学校は、プロテスタント系のミッションスクールだ。数駅離れたカトリックの小林聖心女子学院は躾のきびしいお嬢さん学校として知られており、専用車の中もわりあい静かだったが、女学院の専用車は、ひっきりなしのお喋りに甲高い笑い声がまじって賑やかだった。> 高校時代は同じ阪急今津線で通っていた私にとって、両校とも足を踏み入れることのできない秘密の花園でしたが、近年何度か訪ねる機会に恵まれました。関西を代表するキリスト教系の二つのお嬢様学校、今も伝統的な校風は変わっていないように感じました。 更に西宮北口では宝塚音楽学校の生徒まで登場します。<N宮K口で大阪と神戸をつなぐ路線に乗り換えるとき、震災後の大規模開発によって生まれた地上十八階建ての公団が見える。テナントの大型書店を画子はときどき利用する。兵庫にそぐわない高層建築の足元でたちつくす画子の横を、ぽっこりした帽子をかぶった音楽学校の生徒たちがステッキのような脚をスライドさせてとおりすぎる。> 宝塚音楽学校といえば、元宝塚歌劇団花組トップスターだった大浦みずきさんの父、阪田寛夫が『ロミオの父』で、音楽学校時代の娘がでる文化祭にいそいそと阪急電車に乗って出かける場面が印象的でした。<二週間先に行われる文化祭にはまだ他に歌だの踊りだの幾つかの演目がある筈だったが、大晦日も元日もその次の日も、次女は何の稽古もしなかった。彼女が自分で志望して入った関西にあるその学校は和洋の芸能を二年間みっちり教えこむところで、毎朝七時に登校して校舎の掃除から日課が始まるという厳しい教育をする。それでも彼の娘のように憧れて試験を受ける者があとを絶たない。ここを卒業すればその上にある女だけの歌劇団に入れるのだ。>残念ながら大浦みずき(阪田なつめ)さんは2009年に亡くなられました。
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清水博子が描いた「阪急電車」
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清水博子が感じた阪急神戸線の風景(『vanity』)
東京から行儀見習いという名目で、恋人の母親が住む甲東園のお邸にやって来た画子は阪急電車で甲東園駅から西宮北口駅で乗り換え、三宮にお買い物に出かけます。 西宮北口駅の神戸線と今津線が平面交差するダイヤモンドクロスは1984年に撤去され、今津線が分断されました。写真は阪急西宮ガーデンズにある西宮北口駅付近の昔のジオラマ。 そして1987年竣工時の2階コンコースには立柱式のカリヨンが設置され、駅の雰囲気も明るくなりました。清水博子さんが訪れたのは更に後の震災後のことでした。『vanity』から続けます。<N宮K口のホームで3宮行きを待つうちに、記号のつながりでしかなかった阪神間の地名を漢字としてつかみはじめていた。N宮は西宮、これからむかう3宮は三宮。あたまのなかで固有名詞に変換されていく。阪急神戸線のやわらかい陽となまあたたかい風とほがらかな表情にまみれ、地名に対するみがまえが溶けはじめていた。>阪急神戸線のあたたかな風景が、身構えていた清水博子さんの心を溶かし始めたようです。<芦屋川と芦屋のちがい、西宮北口と西ノ宮と西宮のちがい、宝塚と宝塚南口のちがい、甲子園と甲東園と甲陽園と香櫨園のちがいを、電鉄会社のちがいとしてしかまだ把握できない。山側の住人が海側の住人より財産を所持していそうだとおおざっぱな判断はつくが、北の山が峰となって盛りあがる麓の栖み分けが弁別できない。>阪神間は狭い海と山の間を、阪急電車、JR、阪神電車の3路線が走り、その駅名に東京から来た清水博子さんはとまどいを隠せません。「甲子園と甲東園と甲陽園と香櫨園」の違い、確かに電鉄会社の違いではありますが、甲子園は干支のひとつの甲子(きのえね)に由来し、1924年の甲子の年にできた甲子園球場の臨時駅として開業したことに由来。阪急甲東園と甲陽園の甲は甲山に由来するものでしょう。阪神香櫨園駅は香櫨園遊園地を開発した香野蔵治と櫨山喜一の名前に由来するもの。 香櫨園遊園地は阪急夙川駅付近にありましたが、阪神電鉄が遊園地の経営に携わっていたため、阪急は香櫨園の名前を使えなかったのです。大正末の地図を見ると、現在の阪急夙川駅付近が香櫨園と記されています。この地図には、香櫨園鉱泉も記載されています。 夙川自治会発行の『夙川地区100年のあゆみ』によりますと、「昭和7年に阪急電車の駅名と区名を一致させるために、香櫨園区は夙川区と改称され、長く親しまれていた香櫨園は名実ともに発祥地から姿を消した」とされ、現在の阪急夙川駅付近が、昭和7年まで香櫨園と呼ばれていたことがわかります。<夙川、芦屋川、岡本、御影。日本中でもっともなだらかな駅名のつらなりを現実にたどる。途中下車の欲望をおさえ、臙脂色の車両に乗りつづける。水の線をいくつも越える。山が近づいてはとおざかる。六甲、王子公園、春日野道、三宮。電車を降りる。空気を吸う。港のにおいだ。> 途中下車したくなるほどの阪急沿線の魅力については、阪田寛夫が『わが小林一三』で、開発の経緯から紐解いています。<それが日本文化にとってどんな意味があるかは判らないが、かつて阪急神戸線の西宮北口あたりから六甲山系沿いに神戸の東の入口まで、また西宮北口まで戻って直角に同じ六甲山脈を今津線で東の起点宝塚の谷まで、そして宝塚からは宝塚線で北摂の山沿いに大阪に向かって花屋敷から池田、豊中あたりまで、その線路より主として山側の、原野であった赤松林と花崗岩質の白い山肌・川筋にまるで花壇や小公園や、時には箱庭をそのまま植え込んだような住宅街が、ある雰囲気を持って地表をしっかり掩っていた。今から四十年以前のお話である。> 昭和10年代の風景ですが、阪田寛夫は西宮北口―神戸間、西宮北口―宝塚間、宝塚―豊中間の風景を次のように称賛しています。<長い長い立体的で緑色の休憩地―これまでの日本にはまだなかった、何と名付けてよいかわからない宙に浮かんでいる匂いのいい世界を、この地上にかたちづくって来たように思われる。昭和でいえば十年代半ば頃まで、筆者の私が大阪市内の小学生・中学生だった時分は、恐らく日本中のどこにも、これほど自然と人工の粒のそろった美しい住宅地はないと確信していた。> この阪急沿線の風景は戦後の高度成長期、更には阪神淡路大震災を経て、自然の美しさがどんどん損なわれ、開発当時の趣のある和洋館もほとんど無くなってしまいましたが、それでもまだ阪急沿線の魅力は残されています。
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画子の三宮での買物は(清水博子『vanity』)
清水博子『vanity』から続けます。 阪急電車で甲東園駅から三宮まで買物に来た画子。まず向かったのはハンター坂。(ガイドマップの黄線部) ハンター坂は中山手通に面した神戸にしむら珈琲店 中山手本店の角から始まります。<電車を降りる。空気を吸う。港のにおいだ。 ハンター坂をのぼり洋菓子店で今夜の食後のケーキ、あしたの朝食のキッシュ、べつの洋菓子店でひもちする焼菓子、>「ハンター坂」はかつてこの坂の山側に、英国商人E・H・ハンターの洋館があったことに由来しています。現在の跡地にはHのマークがはめ込まれた塀が広大な邸の名残を留めているだけです。そしてお邸は昭和38年に王子公園に移築され「旧ハンター住宅」として国の重要文化財に指定されています。『vanity』に書かれているような洋菓子店は、残念ながら現在のハンター坂には見当たりませんでした。 ハンター坂を左に曲がり、向かったのは輸入食品専門店神戸グロサーズ。 更に村上春樹もそのサンドイッチを激賞したトアロードデリカテッセンへ。<西に曲がりグロサーズで羊肉の塊、トアロードを下りデリカテッセンで七種類のパティと辛いピクルスと辛くないピクルス、>ここは谷崎潤一郎御用達だったお店でもあります。谷崎ファンだった清水博子が今回の買い物で最も行きたかったのはこのお店だったのでしょう。 続いてトアロードを海側に下って、元町商店街の「花見屋」へ。<高架をくぐった元町商店街でコーヒーあられ、南京町で中国茶を購い、髪を金色に染めあげた女店主がにこにこしている喫茶店の椅子にへたりこむ。>花見屋は昭和14年創業の老舗あられ専門店。あられは80種類以上あるそうですが、清水博子が選んだのは、何と「コーヒーあられ」。甲東園で待つマダムを驚かせようと思ったのでしょうか。コーヒーの味はしっかりしていて、ほのかな苦味と香ばしい香りが楽しめます。 この後帰路についた画子は、マダムと二人で夕食の関西風すき焼き鍋をはさみ、緊張感あふれる会話となりますが、これは次回に。
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谷崎潤一郎との関わりを感じる清水博子『vanity』に甲南商店街登場
清水博子さんは谷崎潤一郎に傾倒していたらしく、オマージュ作品として、『カギ』を執筆されています。また『vanity』でも関東大震災で東京から関西に来た谷崎潤一郎を意識したところが垣間見え、主人公・画子は東京のアパートを焼け出され、西宮・甲東園にある恋人の実家に行儀見習いという名目で阪神間に暮らすという設定です。(谷崎潤一郎は関東大震災の後、しばらく西宮・苦楽園に逗留しました) 谷崎潤一郎は『細雪』で阪神間での優雅な暮らしを小説にし、数多くのエッセイで関東人から見た関西の印象について書き表わしています。 東京出身の谷崎潤一郎は『陰翳礼賛 東京をおもう』で、「西洋と東京の礼賛」から「日本固有文化と関西・地方への礼賛」へと移り変わる自己分析を述べています。『vanity』では画子がマダムに代わって東京の電機会社の株主総会に出席するため、二週間ぶりに東京に戻る場面があり、次のように『陰翳礼賛 東京をおもう』に触れています。<二週間ぶりにドアを開けた自室の暗さと狭さにびくっとした。東京に明暗はない。そこにあるのはさむざむしさだった。『陰翳礼賛 東京をおもう』を読もう、それから芦屋の谷崎潤一郎記念館に遠征しよう、とあさって関西へもどらなければならない自身をなぐさめた。>これを読んで、初めて『vanity』が、東京人の清水博子が見た、阪神間のブルジョア生活を、谷崎の向こうを張って描こうとしたものであると気付いたのです。もちろん谷崎とは全く異なる描き方ですが。 さらに甲南商店街の話が登場するのですが、これも谷崎の『猫と庄造と二人のおんな』を意識してのことでしょう。庄造がリリーに会いに、芦屋川から六甲口に向けて自転車で国道を西に走る場面です。 小説には、森の公設市場前、小路の停留所、甲南学校前と懐かしい国道電車の駅名が登場します。 庄造は甲南学校前の国粋堂というラジオ屋の主人から二十銭を借りて、すぐ向こう側の甲南市場へ駈け込んで、台所を借りて鶏の肉を水炊きにしてリリーの餌の準備をするのです。 このように、『猫と庄造と二人のおんな』で描かれた昭和の時代の人情味あふれる甲南市場、清水博子は現代の甲南商店街を次のように描きました。魚碕小学校に通っていた会社の先輩からの話です。(小説では魚住小学校となっていますが、実在の小学校は、甲南商店街と灘中の近くにある魚崎小学校です)<魚住小学校から魚住中学校へ進学した同級生のおおくは甲南商店街の子で、ほとんど毎日おつかいに行った肉屋は堺の包丁で薄切りにした牛肉を薔薇の花のかたちに盛ることを考案し大正天皇に献上した由緒ある店だったがあとつぎとなるはずの朋友が家出したせいで廃業を余儀なくされたこと、好きだった女の子の家は花屋を営み……>ひょっとすると庄造が台所を借りたのはこの肉屋だったのかもしれません。<商店街は震災でめためたになりいまや歯抜けの状態であることなど、魚住界隈のノスタルジーばから語っていた。>ここに描かれた甲南商店街は震災後の寂しい姿で、谷崎の時代とはまったく異なる風情になっていますが、清水博子はその現実を描きたかったのでしょう。
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須賀敦子さんたち聖心女子大学第一期生が学んだカマボコ型校舎
聖心女子大学オフィシャルTwitterで、4月30日~5月2日創立記念週間の紹介があり、初代学長マザー・エリザベス・ブリットの写真や、1948年創立時のカマボコ校舎での授業風景の写真が公開されていました。 須賀敦子さんはマザー・ブリットについて『遠い朝の本たち』の「しげちゃんの昇天」で次のように述べています。<あと一年で専門学校を卒業というころ、女子大ができるらしいという噂が学生のあいだにひろまった。戦前、帰国子女や日本在住の外国人の教育にあたっていた有能なアメリカ人の修道女が、その大学を創立するため戻ってくると聞いて、私は勉強をつづけたいと思った。それまでヨーロッパの厳格な寄宿学校の伝統に従って、廊下や洗面所に鏡というものがなかった学校に、それでは若い娘たちがちゃんと育たないといって鏡をつけさせたり、空襲で焼けてしまったけれど、窓の広い明るい自習室を建てさせたりしたこの修道女の名は、まるで神話じみて生徒たちの間で語り継がれていたからだ。大きなバラの花束がとどくのを待つように、私たちはその修道女の帰国を待ちわびた。>その修道女が初代学長のマザー・ブリットだったのです。 同期の第一期生には中村(緒方)貞子さんや渡辺和子さん、紀平悌子さんら錚々たるメンバーがおられ、緒方貞子さんも、『聞き書 緒方貞子回顧録』の「聖心女子大学時代」で、マザー・ブリットについて、次のように述べられています。<聖心女子大が発足するにあたって、戦争でアメリカに帰国されていたエリザベス・ブリットが呼び戻され、初代学長につきました。彼女は学術的な能力にくわえ、たいへんリーダーシップのある方でした。これから女性がどうあるべきか、そのためにどんな教育をすべきかについて明確なヴィジョンをお持ちで、私も大きな影響を受けました。> 待ちわびた聖心女子大初代学長エリザベス・ブリットのもとでの授業はカマボコ型校舎で始まりました。『遠い朝の本たち』「しげちゃんの昇天」からです。<もと宮家から購入したという広大な渋谷のキャンパスではじまったあたらしい大学の授業は、どっしりした武家門と、進駐軍から譲り受けたカマボコ兵舎の教育というちぐはぐな環境で始められた。一年休学してしげちゃんはその大学に帰ってきた。私たちは一年違いになったが、ふたりとも寄宿生だったので、またよく本の話をするようになった。>その校舎での貴重な授業風景の写真を初めて見ました。皆様着ている制服は米軍女性の軍服を仕立て直したものでした。『聞き書 緒方貞子回顧録』からです。<制服を導入したのもマザー・ブリットでした。何を着ていけばよいか悩むのは時間がもったいないと言われたのです。当時は物資不足でしたから、米軍女性の軍服を仕立て直して制服にしたのです。何年か後に、ワシントンのスミソニアン博物館に行ったときに、軍服の展示がされていたのですが、そこでカーキー色の聖心女子大時代の制服をみつけたときには思わず声をあげてしまいました。>カマボコ兵舎に代わって竹腰健造氏の設計により、1950年に1号館の建設が始まり、3階建で竣工。須賀敦子さんら第一期生の在学中に完成しています。
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自転車でニテコ池を一周した画子(清水博子『vanity』)
画子はマダムに内緒でジャガーのマウンテンバイクを購います。<六甲の山ン中の家には自転車がない。このあたりで自転車に乗っているひとなんかいないわよ、とマダムが云うとおり自転車はまずみかけない。老人が座って運転する四輪の電動シニアカートの通行数がまさっている。> 確かに坂道のきつい甲東園ではごもっともですが、最近は電動自転車で子供を後ろに乗せて、スイスイと坂道を登っていくママさんたちを見かけるようになりました。<伊丹出身で灘区の女子高に通っていたタレントが、同級生を自宅によんだとき、伊丹って自転車がいっぱいで北京みたい、と驚きあきれられたとテレビで語っていた。>このタレントのお話、清水博子さんの『カギ』にもM野Y子として登場しますので、松蔭高等学校から堀越高等学校に編入した方に違いありません。 それにしても北京が自転車でいっぱいだったのは、30年以上前だったでしょうか。かつて自転車王国と言われた中国ですが、北京の街は今や車があふれ、スモッグで覆われています。<新品の自転車でまえのめりになってニテコ池を一周した。どんぐりのような制水塔のむこうになだらかな山並みをのぞむ風景にはプチブルジョワジーをプチブルジョワジーたらしめてきただけの耀さがあった。風がふきすさぶ関東平野をまずしくかんじはじめている自身に周章(あわて)た。帰りは膝ががくがくになりジャガーを押して歩いた。山ン中の家の庭の崖下に自転車を隠した。> 新型コロナで外出自粛令下ですが、運動不足解消のため、私も清水博子の後を追って、ニテコ池散策に出かけました。 ニテコ池南端にある聖霊塔。明治時代に建立されたもので、ゴードン・スミスの『ニッポン仰天日記』に建立された経緯が紹介されています。右側面には「功徳主 辰馬悦蔵」と刻まれており、おそらく酒造家の初代辰馬悦蔵氏でしょう。ニテコ池の向こうに甲山を望む大好きな景色です。こちらは二番目の池で、清水博子さんが「どんぐりのような制水塔のむこうになだらかな山並みをのぞむ風景」と書いている景色です。右側(東側)は以前山林になっていたのですが、残念ながらほとんどの木が伐採されマンションが建ちました。西側には松下幸之助が戦後私邸として使用した名次庵が見えます。小学生時代にこの道を通っていた頃は、ガレージには運転手とキャデラックが控えていました。名次庵の南側には、日銀大阪支店長公邸、アメリカ領事公邸、松下幸之助の光雲荘が続き、ニテコ池の西岸を囲っていました。 清水博子が「プチブルジョワジーをプチブルジョワジーたらしめてきただけの耀さがあった」とする背景にある風景でした。昔は、アメリカ領事公邸の広大ななだらかな斜面になった芝庭を、ポインターが走り回る優雅な光景が見られましたが、こちらも上の写真のような高級マンションに建て替わってしまい、最上階にはT瓶さんがお住まいのようです。光雲荘は、松下幸之助が「今後おそらく三百年も先には、この当時の日本建築というものがいろんな形において、いろいろ吟味されたり参考にされたりするだろう。そのときに、じゅうぶん参考に供されるような建物を建てておきたい」と述べているように、書院造りを基本とした純和風の伝統木造建築の建物でしたが、2008年に大阪枚方のパナソニック人材開発カンパニーの敷地に移築され、現在は門だけが残されています。年々、ニテコ池周辺の緑が失われて行っていますが、辛うじて、心を和ませてくれる風景が広がり、私の一番の散策スポットとなっています。
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マダムも知っていた『火垂るの墓』のニテコ池(清水博子『vanity』)
自転車でニテコ池を周った画子は、甲東園の山ン中のマダムの家に戻り、二人で夕食の準備をしながら、こんな会話になります。<ニテコって行ったことないのですけれど、『火垂るの墓』で戦災孤児になった清太と節子がおばあさんの家から追い出されて隠れ住んだところとして有名なのだそうですね。海老フライにそえるタルタルソースのパセリとピクルスを刻みながらしらばっくれてみた。……>やはり、ニテコ池というと、『火垂るの墓』のようです。こちらが、アニメ『火垂るの墓』の美術監督・山本二三がロケハンし、この角度から描いたと思われる現在の写真です。最初の写真と見比べてみてください。阪神淡路大震災でニテコ池もかなり崩れたため、昔の風景とはかなり違っていますが、その名残を留めています。 アニメで描かれた二つの横穴豪はこの位置にありましたが、防空壕ではなかったと思います。こちらは清太が池のふちから横穴豪に向かう場面ですが、震災で崩れた堤が復旧され、随分変わりましたが、池の中に降りる坂道の名残がありました。 ところで、原作では、防空壕はニテコ池の中ではありません。<白い骨は清太の妹、節子、八月二十二日西宮満池谷横穴防空壕の中で死に、死病の名は急性腸炎とされたが、実は四歳にして足腰立たぬまま、眠るようにみまかったので、兄と同じ栄養失調症による衰弱死。>と書かれており、横穴防空壕は満池谷ではありますが、ニテコ池の中ではないのです。 また、野坂昭如の自伝的小説『ひとでなし』でも、<西側の崖に、神戸市の古い金庫メーカーの住まいがあり、コンクリートで固めた横穴壕を造り、そのまま家族は疎開、空いていた。ぼくと妹はここへ移り、律子が座布団、薄べりを持ってきてくれた。配給は高瀬家へとりに行く、野草まじりの雑炊を妹に食べさせ、主食代わりの酒黒松白鹿も空、後は畠の野菜を盗むしかない。>と書かれており、防空壕はニテコ池の南側にあったのです。上の写真の右側です。<ホタルノハカってなあに。アニメの。本でしょう、あたぁし本のことはくわしくないから。マダムは海老を揚げつづける。調理において洗ったり切ったりまぜたりは画子も参加可能だが、火をつかくうことは許可されない。戦争を実体験している中産階級は戦争にふれられたくないのだ、と画子はマダムの弱みをにぎったつもりになり、タルタルソースに醤油と和芥子をすこしばかり足した。>やはり、『火垂るの墓』とニテコ池がはっきり結びつくのは、原作より高畑勲監督のアニメ映画『火垂るの墓』に登場するいくつかのシーンです。『vanity』で、<どんぐりのような制水塔のむこうになだらかな山並みをのぞむ風景にはプチブルジョワジーをプチブルジョワジーたらしめてきただけの耀さがあった。>と書かれている「どんぐりのような制水塔」もアニメに登場します。 アニメの最後で、3人の若い娘が大きな家に入っていく場面。光雲荘の裏口あたりをモデルにしたようです。 戦時中にこのようなスカート姿の若い女性がいたのかと思うのですが、野坂は『アドリブ自叙伝』で、神戸の焼跡で見た赤いスカートについて次のように述べています。<そして焼跡の壕舎に住む連中は、こうなったらもう怖いものはないといったような、開き直った印象で、スカートのまま歩く娘もいたし、和服の老人を見受けたこともある。><また、警察官や憲兵だって、焼跡のスカートをどうしてとりしまることが出来よう><壕舎生活はしごくみじめだったと思うが、はたから見ていると、牧歌的であり、また、バケツを持って水汲みにいく娘の、赤いスカートが焼野の上を、ひらひらゆれるさまは、美しかった。>と述べており、敢えてスカート姿の女性をアニメに入れてもらったのでしょう。ラストシーンで、丘の上の洋館のベランダが映り、「埴生の宿」が流れます。これも名次山の松下邸をモデルにしたようです。 そして「埴生の宿」が流れた理由は、『わが桎梏の碑』で次のように述べていました。<寄寓先もしばしば断水、あたりは日本有数の高級住宅地で、どこにも井戸を持つ、ここへも貰い水。若い女性が四、五人が、庭に面した涼しげな夏座敷で、戦争などどこ吹く風、華やかな笑い声を立て、ある時、ピアノ伴奏で「埴生の宿」を合唱していた、この思い出を、アニメーション監督の高畑勲氏に告げ、ラストシーンのヒントになったらしい。> ニテコ池を歩くと、アニメ『火垂るの墓』に登場する数々の風景が認められます。
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谷崎潤一郎ファンの清水博子も国道2号線を自転車で「ひとり道行」
谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のおんな』のクライマックスとも言うべき、庄造が自転車に乗って、阪神国道をリリーに会いに出かける場面。 須賀敦子さんは「古典再読」で次のように評しています。<なかでも庄造がこっそりリリーに会いに行く自転車の「ひとり道行」は圧巻。「何と云うあてもなしに、ベルをやけに鳴らしながら蘆屋川沿いの遊歩道を真っすぐ新国道へ上がると、つい業平橋を渡って、ハンドルを神戸の方へ向けた。まだ五時少し前頃であったが、一直線に続いている国道の向うに、早くも晩秋の太陽が沈みかけていて、太い帯になった横流れの西日が、殆ど路面と平行に射している中を、人だの車だのがみんな半面に紅い色を浴びて、恐ろしく長い影を曳きながら通る」 大震災で破壊された谷崎ゆかりでもある地名のひとつひとつを、胸のなかでゆっくりなぞりながら、読んだ。> 谷崎潤一郎を高く評価していた清水博子さんはその自転車行を実際に経験してみたかったのでしょう。私小説『vanity』では、画子が甲東園から南に下がって国道2号線を通って、住吉まで焼きあなごを買いに行く場面が描かれています。<庭の崖下から自転車をひきずりだし、国道一七一号線をかけおり、国道二号線に出る。兵庫を東西につらぬくのが、国道二号線ならば、国道一号線はどこにあるのか。多分東京にあるのだろう。考えごとをふりきるように止まらず走る。> 清水博子さんが疑問に思った国道一号線は、東京都中央区から大阪府大阪市北区へ至る一般国道で、そこから更に西に福岡県北九州市門司区へ至るまでが国道二号線です。<信号待ちしている自動車のジャギュアやプジョーやシーマをアルファロメオやランチアやヴァンデンプラプリンセスを自転車のジャガーで追い抜く。六甲ライナーの高架下をくぐりぬけ、住吉の焼きあなごをピックアップする。六甲山を正面に住吉川沿いをのぼり、山手幹線を右に折れ、スピードをゆるめ東へもどる。>確かに夙川沿いの道などは、外車比率が驚くほど高くなっています。 帰りは山手幹線を使ったようですが、谷崎潤一郎『細雪』の舞台の倚松庵があった、住吉や芦屋の街の現在の風景が描かれています。谷崎潤一郎記念館にも行きたかったようです。<さらに海のほうへ下れば谷崎潤一郎記念館があるらしいが、きょうは犬をたくさんみたから見学はもうたくさんだった。マダムにおみやげが必要だ、と気づき、自転車をこぎはじめる。ビゴの店本店でケーキを六個みつくろった。>国道二号線沿いのビゴの本店ではケーキも販売されています。マダムの谷崎評も書かれています。<谷崎潤一郎記念館に立ち寄ろうとしてやめたことをマダムに報告すると、あのひと悪魔主義とかいうエッチな作家なんでしょう、まあお勉強はいいことですけど、と云いながら、画子が買ってきたケーキのうち一個と四分の三を食べた。> さて、この国道2号線(阪神国道)を、戦時中、夙川から御影まで大八車を引いていったのが野坂昭如で、『ひとでなし』にその様子を描いています。 野坂は妹と満池谷の親戚の家に疎開した後、空襲で焼けた中郷町3丁目の家に埋めてあった食料をとりに戻ります。大八車を引いて満池谷から中郷町までは約10kmの道のりで、大変だったと思いますが、戦時中の様子がよくわかります。<大八車に律子を乗せ、挽き歩く国道に、焦げ茶色の単車輌、国道電車が追い抜くその後姿は、お尻をふり立てているみたいで、歩くスピードのせいぜい倍。他に荷馬車、リヤカー、自転車にたまさか行き会う。歩道にも人影は稀。芦屋川にかかる業平橋の角に黒く高い塀をめぐらせた屋敷があり、山へ向って広壮な邸宅が続く、やはり人はいない。>阪神国道も、戦中、戦後、いくつかの小説の舞台となっていました。
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『平成細雪』を見ながら谷崎潤一郎『細雪』再読
清水博子さんの『vanity』がきっかで、久しぶりに『細雪』を再読。 『細雪』は、谷崎潤一郎本人の住吉の倚松庵での暮らしをもとに、舞台を芦屋に移して、昭和10年代の関西の中産階級(今でいう上流社会?)の生活を描いた物語。小田実は「大変うまく、当時の生活意識というものを書いている」と評価し、ニューヨーク州立大学客員教授時代は、谷崎の作品をテキストとして日本文学を教えました。またドナルド・キーンも「外国人に日本の小説を1冊推薦するなら、谷崎潤一郎の『細雪』」と絶賛する当時の日本文化の一面を伝える小説です。 小説の冒頭書き出しの描写も素晴らしく、NHKBSプレミアムで放映された『平成細雪』(脚本;蓬莱竜太)でも、時代を平成に合わせつつも、そのまま映像化されていました。(「こいさん、ちょっと頼むわ」と部屋から顔を出して呼ぶ幸子)<「こいさん、頼むわ。 ── 」鏡の中で、廊下からうしろへ這入って来た妙子を見ると、自分で襟を塗りかけていた刷毛を渡して、其方は見ずに、眼の前に映っている長襦袢姿の、抜き衣紋の顔を他人の顔のように見据えながら、「雪子ちゃん下で何してる」と、幸子はきいた。「悦ちゃんのピアノ見たげてるらしい」 ── なるほど、階下で練習曲の音がしているのは、雪子が先に身支度をしてしまったところで悦子に掴まって、稽古を見てやっているのであろう。>『平成細雪』では、時代を考慮して、妙子が「今時お見合いに着物なんてはやらんで」と入ってきて、襟を塗ります。<姉の襟首から両肩へかけて、妙子は鮮かな刷毛目をつけてお白粉を引いていた。決して猫背ではないのであるが、肉づきがよいので堆く盛り上っている幸子の肩から背の、濡れた肌の表面へ秋晴れの明りがさしている色つやは、三十を過ぎた人のようでもなく張りきって見える。>この表現が谷崎特有の淫靡さが少し漂うところですが、『平成細雪』でも逃さず映像化していました。幸子を演じていたのは、高岡早紀さん。 三姉妹と悦子もモデルとなった方々の写真がありました。左から重子(雪子)、信子(妙子)、恵美子(悦子)、松子(幸子)。谷崎が選らんだ人ですから、さすが美人姉妹です。しばらく『細雪』を続けます。
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雪子のお見合い話に登場する仏蘭西系のMB化学工業会社
谷崎潤一郎『細雪』の冒頭の「こいさん、頼むわ。── 」の場面で、妙子が幸子の襟首の白粉を塗るのを手伝いながら、新たなお見合いの相手の話をします。<「井谷さんが持って来やはった話やねんけどな、!」「そう、 ── 」「サラリーマンやねん、MB化学工業会社の社員やて。──」「なんばぐらいもろてるのん」「月給が百七八十円、ボーナス入れて二百五十円ぐらいになるねん」「MB化学工業云うたら、仏蘭西系の会社やねんなあ」「そうやわ。── よう知ってるなあ、こいさん」「知ってるわ、そんなこと」一番年下の妙子は、二人の姉のどちらよりもそう云うことには明るかった。そして案外世間を知らない姉達を、そう云う点ではいくらか甘く見てもいて、まるで自分が年嵩のような口のきき方をするのである。「そんな会社の名、私は聞いたことあれへなんだ。── 本店は巴里にあって、大資本の会社やねんてなあ」「日本にかて、神戸の海岸通に大きなビルディングあるやないか」「そうやて。そこに勤めてはるねんて」> ここに登場する仏蘭西系のMB化学工業とは、大岡昇平が戦後勤め、『酸素』の題材になったフランス系企業の帝国酸素がモデルとなっています。本社ビルは海岸通りではありませんが、旧居留地の明石町にあり、現在も神戸大丸別館として使われています。 建物はW.M.ヴォーリズの設計で1929年にナショナル・シティバンク神戸支店として建設されました。1階をシティバンクが使用、2階には独逸染料、バイエル薬品が入居、3階に帝国酸素が入居していましたが、その後2階のドイツ系2社が退去し、2階、3階を帝国酸素が使用していました。 大岡昇平が帝国酸素に勤めていた頃、『細雪』は書かれたのですが、大岡の文壇レビューは戦後まもなくですから、『細雪』のMB化学工業会社の見合い相手は大岡とは関係なさそうです。 一方、大岡昇平が1955年に著した『酸素』は完結しなかったものの、『細雪』に対抗して、戦争に向かう時代の阪神間に住む中産階級家族の破綻を描こうとしたものでした。ヴォーリズの建物をめぐる面白い関係です。 また見合い相手となるMB化学工業のサラリーマンはそのまま『平成細雪』でも登場していました。原作で、彼の年収は「月給が百七八十円、ボーナス入れて二百五十円ぐらいになるねん」と書かれているのは、『平成細雪』では平成の時代に変換して、ボーナス入れたら年収1000万くらい、となっていました。<現在では月給も少ないけれども、まだ四十一だから昇給の望みもないことはないし、それに日本の会社と違ってわりに時間の余裕があるんモで、夜学の受け持ち時間の方をもっと殖やして四百円以上の月収にすることは容易だと云っているから、新婚の所帯を持って女中を置いて暮らして行くには先ず差支えあるまい。>という記述もあり、昭和十年代、中産階級と言われたサラリーマン家庭でも女中さんを置いていたことがわかります。振り返れば、貧富の格差が大きな時代でした。 この見合い写真を持ってきたのは、幸子の行きつけの美容院を経営する井谷律子でした。<井谷と云うのは、神戸のオリエンタルホテルの近くの、幸子たちが行きつけの美容院の主人なのである。縁談の世話をするのが好きと聞いていたので、幸子はかねてから雪子を頼み込んで、写真を渡しておいたところ、先日セットに行った時に、「ちょっと奥さん、お茶に付き合って下さいませんか」と手の空いた隙に幸子を誘い出して、ホテルのロビーで始めて此の話をしたである。>テレビドラマ『平成細雪』では、神戸でサロン・ド・井谷を営む井谷 律子として登場です。 原作で、その性格は次のように書かれています。<井谷は普通の婦人よりは何層倍か頭脳の回転が速く、万事に要領がよい代わりに、商売柄どうかと思われるくらい女らしさに欠けていて、言葉を飾るような廻りくどいことをせず、何でも心にあることを剥き出しに云ってのけるのであるが、その云い方がアクドクなく、必要に迫られて真実を語るに過ぎないので、わりに最手に悪感を与えることがないのであった。>女らしさに欠けているというのは失礼ですが、濱田マリの演技は原作にぴったりのものでした。
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『B足らん』脚気は阪神地方の風土病?(谷崎潤一郎『細雪』)
谷崎潤一郎『細雪』の冒頭の幸子と妙子の会話でビタミンB欠乏の話題が登場します。<「そやった、あたし『B足らん』やねん。こいさん下へ行って、注射器消毒するように云うといてんか」脚気は阪神地方の風土病とも云うから、そんなせいかも知れないけれども、此処の家では主人夫婦を始め、ことし小学校の一年生である悦子までが、毎年夏から秋へかけて脚気に罹り罹りするので、ヴィタミンBの注射をするのが癖になってしまって、近頃では医者へ行くまでもなく、強力ベタキシンの注射薬を備えて置いて、家族が互いに、何でもないようなことにも直ぐ注射しあった。そして、少し體の調子が悪いと、ヴィタミンB欠乏のせいにしたが、誰が云い出したのかそもことを『B足らん』と名づけていた。> これは谷崎家で実際に繰り広げられていた話題に違いないのですが、このように脚気とビタミンBの話が、長々と戦前の小説に登場するのは少し以外でした。 それというのも、日清・日露戦争で大問題となった脚気は大正時代には解決していたと思っていたからです。しかも阪神地方の風土病とまで言われていたなんて驚きです。 しかし、調べてみると何と、脚気による死亡者は、昭和25年3,968人、昭和40年にようやく92人まで減少したそうです。そういえば、小学生のころ脚気の検査は膝小僧をたたくのだと、膝をたたいて遊んでいたのを思い出しました。 脚気の原因が、日本で医学的に「潜在性ビタミンB欠乏症」とされたのは昭和9年のこと、『細雪』が書かれたのは昭和13年前後ですから、当時は結構話題になっていたのでしょう。まだアリナミンがなかった時代、谷崎家で使われていた強力ベタキシンとは、バイエル社から売り出されていた合成結晶ビタミン B1 の商標名で,1 日に 1,2 アンプルを皮下または筋肉内に注射することで脚気の治療に効果があったそうです。現在でもタブレット錠のものがあるようです。 この『B足らん』が『平成細雪』でも原作を損なわないよう、平成時代に再現されていたのはさすがです。 平成時代の『B足らん』原因は、小じわ。現在では、脚気に代わって「肌などの健康維持の基本となるビタミンB2の補給を今すぐにでも習慣に」「ドリンクタイプや錠剤の医薬品でビタミンB群を補う習慣も、上手に年齢を重ねるコツです」と宣伝されています。原作で妙子が階下に声をかける場面。<「ちょっと、誰か」と声高に呼んだ。「御寮人さん注射しはるやて。注射器消毒しといてや」>階下から、平成時代の雪子が持ってきたのは、さすが注射器ではなくビタミンBのドリンク剤でした。蓬莱竜太の脚本はよくできています。
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妙子が人形作りのため借りた夙川の松濤アパート(谷崎潤一郎『細雪』)
蒔岡家の四女・妙子は女学校時代から人形を作るのが上手で、だんだん技術が進歩して、百貨店の陳列棚に作品が出るようになります。<兎に角彼女の手から生れる可憐な小芸術品は次第に愛好者を呼び集め、去年は幸子の肝煎で心斎橋筋の或る画廊を借りて個展を開いた程であった。彼女は最初、本家は子供が大勢で騒々しいので、幸子の家へ来て作っていたが、そうなるともっと完全な仕事部屋がほしくなって、幸子の所から三十分もかからずに行ける、同じ電車の沿線の夙川の松濤アパートの一室を借りた。> 阪急芦屋川駅近くの幸子の家に来ていた妙子は、夙川の松濤アパートを人形作りの仕事部屋にして、芦屋から通うことになります。(写真は1959年版映画『細雪』に登場する松濤アパートの妙子の部屋)<部屋借りと云っても仕事をしに行くだけで寝泊まりをするのではない、幸い友達の未亡人が経営しているアパートがあるから、よく頼み込んでそこを借りることにしたらどうであろう、そこなら近い所だから自分も時々様子を見に行くことが出来る、と云うようなことを云って、やや事後承諾的に運んでしまったのであった。> この夙川の松濤アパートとは、どうも谷崎潤一郎が執筆のために借りていた甲南荘をモデルにしたらしいのです。宮崎修二朗著『文学の旅・兵庫県』の「甲南荘跡」によると、谷崎潤一郎本人が芦屋から通って、原稿を書いていたそうです。<そこから東に下って阪急夙川駅の西側のガードをくぐり北へ千米ほどもゆくと、そこは「甲南荘」アパートの跡である。戦前まで三階建の洋館があったというが、その跡かたもない。当時の経営者長塩流生氏は西宮市江上町にいるが、氏の話によればそこには評論家の千葉亀雄が大正十五年から昭和三年まで住んでいたという。丸山幹治も昭和一二年から十二年まで、その他洋画家の上野山清貢や伊藤慶之助氏もここに住んだ一時があり、谷崎氏も原稿執筆に芦屋から通って来たともいう。>三階建ての洋館アパート・甲南荘はすでに紹介したことがありますが、昭和11年の吉田初三郎による西宮市鳥観図に描かれていました。阪急夙川駅西側のガード下から越木岩筋を北へ約300m、久出川と交叉する過度にあります。(航空写真の黄色丸印)上の写真は現在の風景。(相生町11番地)島耕二監督1959年版映画『細雪』でも松濤アパートは同じ相生町に設定されていました。松濤アパートから板倉(根上淳)が出てくる場面です。上の航空写真のオレンジ色の丸印あたり、現在の風景です。この踏切は阪急甲陽線相生町踏切です。折悪しく、そこへ奥畑の啓坊(川崎敬三)がやってきて、この踏切で板倉と出会うのです。後ろに甲山が見えています。こちらは現在の相生町踏切から見た阪急甲陽線とそれに跨るように見える甲山。相生町踏切の東側には大きな土蔵のある家がある邸があったようです。(現在の相生町踏切は甲陽線が3輛編成となり、駅が伸長されたため、北側へ10メートル程度北側に移動しています)現在の風景は映画撮影当時とは随分変わりましたが、この通りにはまだこのような土蔵があるお邸が残っています。島耕二監督はかなり原作を意識してロケ地を探されたようです。
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妙子と啓坊のデートコースは夙川オアシスロード(『細雪』)
谷崎潤一郎『細雪』では、蒔岡家の四女・妙子が二十歳の時、船場の休暇の奥畑家の啓坊と恋に落ち家出をして新聞沙汰になるという事件を起こします。 その後しばらく二人は離れていましたが、幸子の心配をよそに、いつの間にかよりを戻し、「お宅のこいさんが奥畑の啓坊と夙川の土手を歩いてはったのを見た」と注意されて、妙子に問いただすと、また付き合うようになったことを認めます。 蒔岡家では三女の雪子が嫁いでから、妙子の縁談を進めようと、雪子には二人の関係を内緒にしていましたが、雪子は上の写真の夙川橋のあたりで二人と出会っていたのです。<はじめ幸子は、妙子と奥畑との最近のいきさつを雪子にも誰にも話さずにいたが、或る日又二人が散歩して夙川から香櫨園へ行く途中阪神国道を横切ろうとすると、通りかかった阪国バスから雪子が降りてきて運悪く出遇つてしまったと云うことを、雪子は黙っていたけれども、そのことがあって半月も過ぎた時分に妙子から聞いた。> 当時は阪神国道(国道2号線)を国道電車とバスが走っていました。夙川橋の最寄りの阪神と阪急のバス停。 阪国バスとは当時、阪神が経営していたバスでしょう。ここで降りた雪子が妙子と啓坊の散歩に出会ったようです。 妙子が人形作りの仕事場にしていた松濤アパートは、久出川と越木岩筋の交差点にありました。(下の写真は夙川と合流する久出川。この奥に松濤アパートがあったのです。) 松濤アパートを出た二人は阪急夙川駅のガードをくぐり、羽衣橋を渡って、夙川沿いに香櫨園の浜に向かっていたのです。(地図の右側から左側へ黄色で示した線に沿って) 夙川沿いの道は、二人が雪子に出会った夙川橋から上流が「夙川さくら道」、下流が「夙川オアシスロード」と名付けられています。「夙川オアシスロード」は歩行者専用道路になっていて、新緑の頃は、緑のトンネルの素晴らしい散歩道です。少し下ると、宮本輝『青が散る』や高殿円さんの小説に登場する、夙川に跨った阪神香櫨園駅です。 さて、二人が雪子に夙川橋で出会う場面、『平成細雪』では、香櫨園駅から更に下流にある翠橋に設定していました。 原作の雪子ではなく高岡早紀演じる幸子が翠橋の上から、妙子と啓坊が歩いて来るのをみつける場面に代わっていました。 現在ある夙川の橋の中では、戦前の雰囲気を残した雰囲気のある翠橋ですから、映像化にこの橋をえらんだのでしょう。上の写真の橋の上に雪子が立ち、右側の川面の遊歩道を二人が歩くという場面です。「夙川オアシスロード」は、野坂昭如がほのかに恋心を抱いていた少女と戦時中、よく香櫨園に向かった道であり、宮本輝『錦繍』や井上靖の小説などにも登場する文学の小道とも呼べます。幸子のモデルとなった谷崎松子さんも、少女時代は空気の悪い大阪を避け、この辺りにお住まいでした。
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読書は社会の暴力を減少させた(『欲望の時代の哲学2020』)
NHK-BSで、「欲望の資本主義」シリーズからのスピンオフ企画、『欲望の時代の哲学2020 マルクス・ガブリエル』が何度も再放送され、今回ゆっくり見ることができました。 哲学というと理解しにくい言葉が出てくるので、敬遠しがちですが、ヨースタイン・ゴルデルの『ソフィーの世界』やマイケル・サンデルの『ハーバード白熱教室』が、哲学へのハードルを少し下げてくれていました。 番組の最初に、人間に自由をもたらすはずの現代の科学、テクノロジー、経済の発展がむしろ、人々の自由を奪い、自ら欲望の奴隷と化してしまつているという説明があり、自分の人生を振り返っても、全く同感。そこからどうしたら脱出できるかと、最後まで、興味深く番組を見ておりました。 番組の中で、多くの哲学者や専門家との対談により、思索を深めていきますが、今回紹介したかったのはドイツ出身の新進気鋭の作家、ダニエル・ケールマンのお話。 人間の本質を見つめてきた世界的な作家はどう答えるか。「人は道徳的に無関心になることはできない」という命題を、カントの倫理学から説き起こすのですが、読書の効用がよくわかります。「小説とは常に他者の目から世界を見て別の世界を想像するトレーニングです」「人々が小説を読み始めた頃、社会の暴力は減少したのです」「誰であれ、拷問者にも、殺人者にも、恐ろしい人間にもなりうるのですが精神や心、魂… 他者の視点に立つことは常に道徳的行為そのものです。何者であれね」 自己と他者を切り離さない想像力が倫理観を生み出すのです。 私にとって読書とは、他者の人生を、その視点に立って生きること。色々共感し、考えさせられた番組でした。
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『細雪』芦屋の家で繰り広げられた光景と須賀敦子の書評
『細雪』上巻での名場面の一つに、阪急御影の桑山邸で開かれるレオ・シロタ氏のピアノを聴く小さな集まりに三姉妹が招待され、芦屋の家で妙子が幸子の帯を締めるのを手伝っている場面があります。(河出書房新社『細雪』 小倉遊亀の挿絵) 幸子が帯を締めている最中に、雪子が以前のピアノの会で、その帯がキュウキュウと鳴っていたと言いだし、他の帯に締めなおすのですが、それでも鳴りやまず、幸子のお腹のあたりが鳴る度に三人が引っくり覆って笑ったという場面です。<「中姉ちゃん、その帯締めて行くのん」と、姉のうしろで妙子が帯を結んでやっているのを見ると、雪子は云った。「その帯、―――あれ、いつやったか、この前ピアノの会の時にも締めて行ったやろ」「ふん、締めて行った」「あの時隣に腰掛けてたら、中姉ちゃんが息するとその袋帯がお腹のところでキュウ、キュウ、云うて鳴るねんが」「そやったか知らん」「それが、微かな音やねんけど、キュウ、キュウ、云うて、息する度に耳について難儀したことがあるねんわ、そんで、その帯、音楽会にはあかん思うたわ」>1959年版の映画でもその場面が再現されており、キュウキュウという音まで聞こえてきます。<「―――この帯もあかん」「何でやねん」「何でて、よう聞いてて御覧。―――ほれ、これかてキュウ、キュウ云うてるがな」そう云って幸子は、わざと呼吸をして帯のお腹なかに当るところを鳴らしてみせた。「ほんに、云うてるわ」> 何度も違う帯に締めなおすのですが、解消せず、雪子は袋帯のせいと言い出しますが、妙子は地質のせいだと気付き、ようやく解決します。<「そんでどうや、中姉ちゃん、息して御覧」「ふん、ほんに、―――」妙子に云われて、幸子は頻りに息をしてみながら、「ほんに、これやったらどないもあらへん。―――何でやねん、こいさん」「帯が新しいよってにキュウキュウ云うねんが。この帯やったら、古うなって、地がくたびれてるよってに音せえへんねん」>この名場面とそっくりな様子が須賀邸でも繰り広げられていました。 須賀敦子さんによる『細雪』の書評、「作品のなかの『ものがたり』と『小説』」の冒頭から出てきます。<たたみの上に波うって部屋いっぱいにひろがる色の洪水、姿見のまえで、あの帯にしようか、こっちのほうがいいかと、はてしなく続く色あわせ模様あわせ。そんな姉妹たちのそばで、つぎの帯を両手にもって、辛抱づよく待っている女中。夙川の家での母たちの外出は、いつもそんな大騒ぎのなかで準備された。「細雪」が書店に出はじめたころ、母と、これも戦争で婚期のおくれていた叔母が、息をするたびに帯がキュウキュウ音をたてるという箇所を読みあっては、「谷崎さん男やのに、よう、こんなこと気ぃついたわねえ」と、うれしそうに話しながら感嘆していたのを、なつかしく思い出す。半世紀ちかくまえのことである。> 須賀家の家族の日常生活が、谷崎家と似ていることが、須賀家でしばしば話題となっていたそうで、須賀さんの『細雪』の書評そのものだったそうです。さしずめ、須賀敦子さんの役回りは悦子でしょうか。 実家は夙川にあり、震災後の水彩画がありました。ここでそのような光景が繰り広げられていたのです、<いよいよ結婚のきまった、いちばんうえの叔母が、新しい姓をなんども筆で練習していた二階の部屋のおなじ文机のうえに、ある日、谷崎の「盲目物語」を見つけて、こんなうつくし本があるのかと、息をのんだのがつい昨日のように思い出される。>須賀家の皆様、谷崎潤一郎ファンだったようです。
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谷崎潤一郎『細雪』蘆屋の幸子の家
谷崎潤一郎『細雪』の冒頭で、三姉妹が阪急御影の桑山邸で開かれるレオ・シロタ氏のピアノの演奏会に行くため、身支度をしてから、車を呼んで阪急芦屋川駅に出かける場面からです。<「ちょっと、中姉ちゃんまだやろか。―――」二人はさっきから門のところに待っているのに、幸子がなかなか出て来そうもないので、「―――もう二時になるがな」と、妙子は運転手が扉を開けて立っている方へ寄って行った。> このお話は住吉にあった倚松庵での出来事を素材にしているのですが、小説では幸子の家を芦屋に設定しています。(昭和11年に倚松庵に移る前には、芦屋市宮川町の富田砕花旧居を借りて、しばらく住んでいました)この門の前で、雪子と妙子は、長電話の幸子が出てくるのを待っていました。 幸子の家は阪急蘆屋川駅から約1キロという設定です。<幸子の家から蘆屋川の停留所までは七八丁と云うところなので、今日のように急ぐ時は自動車を走らせることもあり、又散歩がてらぶらぶら歩いて行くこともあった。そして、この三人の姉妹が、たまたま天気の好い日などに、土地の人が水道路と呼んでいる、阪急の線路に並行した山側の路を、余所行きの衣裳を着飾って連れ立って歩いて行く姿は、さすがに人の目を惹かずにはいなかったので、あのあたりの町家の人々は、皆よくこの三人の顔を見覚えていて噂し合ったものであったが、それでも三人のほんとうの歳を知っている者は少かったであろう。>現在の芦屋川駅北側の水道路、山手サンモール商店街となっています。小説に登場する櫛田医院はこの水道路にある重信医院がモデルとなっています。 さて1959年版映画『細雪』では、幸子の住む邸を阪急芦屋川駅から北へ600m程芦屋川沿いに上がった大僧橋付近に設定しています。(地図の赤丸印の位置)倚松庵に似た二階建ての日本家屋が写っています。こちらは現在の様子。元の広い敷地には3軒の豪邸が並びます。こちらは1959年ごろの大僧橋、悦子らが当時流行していたフラフープで遊んでいます。こちらが現在の大僧橋です。欄干はスチール製で趣がなくなりました。こちらは芦屋川の対岸で遊ぶ悦子たち。現在は、後ろに移っていたお邸も無くなり、斜面にマンションが立ち並んでいます。1959年の映像と比較すると、随分景色が変わっていることがよくわかります。
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谷崎潤一郎『細雪』阪急芦屋川駅の三姉妹
蒔岡家の三姉妹が阪急御影の桑山邸で開かれるレオ・シロタ氏のピアノの演奏会に行くため、車で阪急芦屋川駅に着いた場面から紹介します。 その前に、美人三姉妹の容貌の描写がありました。<先ず身の丈からして、一番背の高いのが幸子、それから雪子、妙子と、順序よく少しずつ低くなっているのが、並んで路を歩く時など、それだけで一つの見物なのであるが、衣裳、持ち物、人柄、から云うと、一番日本趣味なのが雪子、一番西洋趣味なのが妙子で、幸子はちょうどその中間を占めていた。顔立なども一番円顔で目鼻立がはっきりして、体もそれに釣り合って堅太りの、かっちりした肉づきをしているのが妙子で、雪子はまたその反対に一番細面の、なよなよとした痩形であったが、その両方の長所を取って一つにしたようなのが幸子であった。服装も、妙子は大概洋服を着、雪子はいつも和服を着たが、幸子は夏の間は主に洋服、その他は和服と云う風であった。> これはまさに、森田家の三姉妹をモデルにしたもの。幸子は森田家の次女松子(谷崎松子)、三女雪子は森田重子、四女妙子は森田信子をモデルにしたもので、写真を見るとよくわかります。 さて、家を出るのが遅れた三姉妹が阪急芦屋川駅に到着し、居合わせた人々が皆振り返って目をそばだてたという場面です。<いつも音楽会と云えば着飾って行くのに、分けても今日は個人の邸宅に招待されて行くのであるから、精一杯めかしていたことは云うまでもないが、折柄の快晴の秋の日に、その三人が揃って自動車からこぼれ出て阪急のフォームを駈け上るところを、居合す人々は皆振り返って眼を欹だてた。日曜の午後のことなので、神戸行の電車の中はガランとしていたが、姉妹の順に三人が並んで席に就いた時、雪子は自分の真向うに腰かけている中学生が、含羞みながら俯向いた途端に、見る見る顔を真っ赧にして燃えるように上気して行くのに心づいた。>さすが、キャッチコピーが「綺麗で、早うて、ガラアキ」の阪急電車。空いていたようです。こちらは1959年版映画『細雪』で撮影された阪急芦屋川駅。もちろんまだ自動改札ではなく、駅員さんが立っています。ガード下の道路はまだ舗装もされていませんでした。こちらは現在の阪急芦屋川駅。こちらは、『細雪』が書かれた昭和の初めのころの阪急芦屋川駅。立体交差にもなっておらず、水道路の風景もまったく違っています。こちらは1959年版映画の阪急芦屋川駅プラットホーム。下りホームです。現在の様子です。ホームは芦屋川の上まで延びています。 阪急電車のマルーンカラー、現在のように美しくなったのはいつ頃からだったでしょう。メンテナンスも他の電鉄会社と全然違うそうです。
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日本の新型コロナ対策が思い出させた『菊と刀』恥の文化
当初、世界でまったく評価されていなかった日本の新型コロナ対策について、アメリカのワシントン・ポストは、日本政府の対策を批判しつつも、「政府の命令がないなか、国民は他人の目を気にするプレッシャーなどを背景に一定の成功を収めた」と評価。また、イギリスのフィナンシャル・タイムズはマスクの習慣を評価し、とりわけ政府などの「お願い」に応えた国民の「自粛」の動きが成功につながったのだろうと論評したそうです。 諸外国のロックダウンをはじめとする、罰則を伴う規制に比較すると、ゆるゆるの「自粛」のお願いが、なぜ功を奏したか。日本人の社会的な規範意識の高さと評価する向きもありますが、思い出したのは戦前の日本人の行動パターンを解析したルース・ベネディクトの『菊と刀』で示された「恥の文化」と「罪の文化」。<異なるさまざまな文化を対象とする人類学の研究においては、二種類の文化を区別することが重要である。一方は、恥を強力な支えとしている文化。他方は、罪を強力な支えとしている文化である。> アメリカをはじめ罪の文化を基盤とする社会においては、絶対的な倫理基準の刷り込みを行い、人々が良心を発揮することに頼って存在しているとしています。 一方「恥の文化」では良いおこないを引き出そうとするとき外部の強制力に頼るとし、<恥は周囲の人々の批判に対する反応である。人前で嘲笑されたり拒絶されたりするか、そうでなければ、嘲笑されたと思い込むことが恥の原因となる。いずれの場合も、恥は強力な強制力となる。しかしそれが作動するためには、見られていることが必要である。あるいは、少なくとも見られているという思い込みが必要である。>と述べているのです。 緊急事態宣言が出される前、強制力を伴わない伝家の宝刀を抜いて効果がなければ打つ手がなくなるので、タイミングを見計らっているというコメンテーターもいましたが、結果的には、「恥の文化」が強力な強制力になって、日本人の自粛を促したように思われます。「罪の文化」では内面化された罪の自覚に頼るものですから、他人が何と言おうと自分はこれで正しいと信じるといって押し通すことができるのです。したがって、自粛のお願いでは効果が期待できず、強制的なロックダウンが必要となります。 戦後教育の変化により、日本の「恥の文化」も薄れたと思っていましたが、今回の新型コロナ対策の一人一人の対応を見ていると、まだまだ日本の文化の基盤に残っていると感じられました。 例えば、マスクの着用ですが、最近は電車内やショッピングセンターでマスクをしていない人はほとんど見かけなくなりました。啓蒙活動の効果もありますが、これも「恥の文化」の強制力の後押しがあったからではないでしょうか。 アメリカでは、ようやくマスクの有効性が認識され、着用を呼び掛けているにもかかわらず、トランプ大統領がほとんどマスクを付けなくて平気なのも「罪の文化」の基盤があるからのように思われます。 マスクの着用について調べていると、日本リサーチセンターによる、「公共の場ではマスクを着用する」行動の実施率が各国でどのように変化しているか、グラフが公開されていました。https://www.nrc.co.jp/nryg/200428.htmlこれを見ると、感染率が低かったアジア各国のマスク着用率が欧米各国に比べて、明らかに高かったことがよくわかりますし、アジアの中では日本のマスク着用率は3月までは決して高くなく、3月末から5月にかけて徐々に上がってきたことがわかります。また外務省が海外安全ホームページで公開している各国・地域における新型コロナウイルスの感染状況のグラフを見てもアジアの感染率が低いことがわかります。https://www.anzen.mofa.go.jp/covid19/country_count.html更に、日本医事新報社のサイトに、アジア諸国間の人口10万人当たりに換算した死亡者数の比較表がありました。ここで日本の死亡率は,フィリピンに次いで2番目に多いのです。https://www.jmedj.co.jp/journal/paper/detail.php?id=14724アジア諸国の中で群を抜いて成績が良いのが、台湾とタイ。台湾の10万人当たりの感染者数は1.9 死亡者数は0.03。タイはそれぞれ、4.3 と0.08 です。(日本は12.8 と0.56) これを2番目のマスク着用率のグラフと比較すると、台湾とタイの着用率が2月から高かったこととよく一致するのです。アジアと欧米の差はウィルスの差等、様々な推論がありますが、こう見るとマスクは有効な対策の一つであったことが確信できました。
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『細雪』神戸での見合いの場はオリエンタルホテルとトーアホテル
谷崎潤一郎『細雪』は、倚松庵での暮らしを題材にして、昭和11年秋から昭和16年春までの蒔岡家の4人姉妹の日常生活を綴った作品です。 丸谷才一は、戦後の日本の小説の中で最も多くの読者を得た作品と評価し、その理由について次のように述べています。<かつての安定していた世界、ついこないだまでは自分もそのなかに住んでいて、そして今はもう外国のように、あるいは外国以上に遠のいてしまった世界、それをこれだけ精細に、卓抜な筆力で描き、再現してくれたこと ―そのことがおそらく『細雪』があれだけのベストセラーとなった第一の理由であろう。と言うとき、ぼくはこの長編小説が終戦直後にしか受け入れられないようなたちのものだと述べているのでは決してない。かつての日本へのなつかしさは、日が経つにつれていよいよ増して来ているし、それは何も反動的と言ってそしらねばならぬような心情ではない。もっと自然な、いわばわれわれの過去への思慕なのである。>(丸谷才一・『細雪』について) まさに私が『細雪』が好きな理由が述べられていました。阪神間モダニズムの時代の、当時は中産階級といわれた人々の優雅な生活が描かれているのですが、その時代の見合いの場所として登場するのがモダニズムを象徴する建物としても有名なオリエンタルホテルとトーアホテルです。 冒頭の仏蘭西系のMB化学工業に勤める瀬越との見合いの場所がオリエンタルホテルでした。<それも、井谷が双方をただ何となく招待すると云うかねての約束に従って、努めて見合いのような感じを起させないようにと云う条件附きで、当日時間は午後六時、場所はオリエンタルホテル、出席者は、主人側は井谷と井谷の二番目の弟の、大阪の鉄屋国分商店に勤めている村上房次郎夫妻、―――この房次郎が先方の瀬越なる人の旧友であるところから今度の話が持ち上った訳なので、これは是非とも当夜の会合に欠けてはならない顔であった。> ところで、1959年版映画で使われたのは六甲山ホテルでした。 1929年に開業した六甲山ホテルは残念ながら阪急阪神ホテルズから見放され、八光自動車工業株式会社に譲渡され、昨年「六甲山サイレンスリゾート」して、リニューアルオープンされました。幸いにして、旧館の意匠は大切にして、その趣は残してくれたようです。この7月には写真を公募して、思い出写真展が開催されるそうで、久しぶりに出かけてみようと思っています。(写真はホームページより2025年に完成予定の六甲山サイレンスリゾートの全貌https://www.premium-j.jp/japanesesenses/20190820_2831/#page-1) オリエンタルホテルに戻りましょう。オリエンタルホテルは明治3年に神戸外国人居留地79番地に開業した日本最古級の西洋式ホテル。明治20年にはオーナーが変わり81番地に移転しています。更に、明治30年にはアーサー・ヘスケス・グルームおよびエドワード・ハズレット・ハンターらの所有になっています。上は明治14年の地図ですが黄色の丸印が居留地79番地のオリエンタルホテル発祥の地です。 そして明治40年に神戸港メリケン波止場近くの海岸通に面する6番地に移転しました。黄線で四角く囲んだ所が、6番地です。 風見鶏の館を手がけた建築家ゲオルグ・デ・ラランデとヤン・レッツェルが共同設計した3代目となる建物は、昭和20年6月の神戸大空襲で被弾して半壊し、復旧できずに取り壊されましたが、この場所で昭和23年に営業を再開し、昭和39年に25-26番地に移転しました。『細雪」の蒔岡家の雪子の見合いは、昭和11年の出来事として描かれていますから、海岸通り6番地のオリエンタルホテルで執り行われたことになります。写真は昭和7年のオリエンタルホテルと神戸臨港線を走る蒸気機関車。昭和12年の地図を見ると黄線で囲んだ所にオリエンタルホテルと書かれていました。 見合い当日は車が遅れて、幸子たちは30分ほど遅刻してオリエンタルホテルに到着します。<時間が遅れたので、ロビーでの紹介が簡単に済むと、直ぐ八人が一緒に昇降機に乗って二階の小宴会場に上った。食卓の両端に井谷と五十嵐、片側に瀬越、房次郎夫人、房次郎、片側に瀬越と向い合って雪子、幸子、貞之助、―――昨日幸子が美容院で井谷から相談を受けた時の席順は、片側は瀬越の左右に房次郎夫婦、片側は雪子の左右に貞之助夫妻となっていたが、それでは改まるからと、幸子の提議で斯様に直して貰ったのである。―――と云う風に列んだ。>このロビーで、お互いの紹介がなされたようです。現在の旧オリエンタルホテル跡地を訪ねました。海岸通りの陸橋からの写真です。商船三井ビルの向こうのガラスが目立つビルの隣の駐車場のところです。行ってみると、海岸通りの向かい側に説明板がありました。 さて、次の野村との見合いは、雪子がオリエンタルホテルを嫌ったため、トーアホテルで待ち合わせとなります。<幸子は、ちょうど貞之助が帰宅したので、夫とも話し合った結果、矢張雪子の心持を尊重した方がよいと云うことになり、強情を張るようで済まないけれども、………と、押し返して先方へ譲歩を求めると、では尚よく考えて、明朝改めて打ち合せをしましょう、と云う挨拶であったが、十五日の朝電話があり、トーアホテルでは如何と云って来たので、漸うそれに話が落ち着いた。>トーアホテルは明治41年に開業したドイツ系資本の高級ホテルで、稲垣足穂の『星を造る人』にも登場します。このおとぎ話にでも出てきそうな名門ホテルは第二次世界大戦の戦災を免れたものの、戦後GHQに接収され、その管理下にあった昭和25年に原因不明の火災により全焼してしまったのです。上の写真は、雪子たちが落ち合ったトーアホテルのロビーです。昭和12年の地図です。トアロードの北の突き当りのところ(黄線)にトアロードと記されています。現在その跡地には、神戸外国倶楽部が建っています。 このように、『細雪』に登場する建物はほとんど現存せず、風景も大きく変わりましたが、そこに行ってみると、当時の優雅な生活を思い浮かべることができるのです。
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『細雪』阪神大水害で登場する洋裁学院は田中千代洋裁研究所
谷崎潤一郎『細雪』の中巻でのクライマクスシーンは昭和13年の阪神大水害で、その様子が克明に描かれています。7月5日、四女妙子は国道の甲南女学校前の停留所の辺りを少し北へ這入った洋裁学園に行っていました。そのあらましが次のように書かれています。<その朝、悦子を学校へ送って行ったお春が帰宅してから程なく、八時四十五分頃に妙子は家を出て、いつものように国道の津知の停留所からバスに乗った。まだその時刻には、非常な豪雨であったけれども、バスは運転していたので、彼女は平常通り甲南女学校前で下り、そこからほんの一跨ぎの所にある洋裁学院の門をくぐったのは、九時ごろであった。>写真は昭和7年の武庫郡本山村の地図。黄線で囲ったところが甲南女学校です。左側を流れているのが住吉川です。 帰国後、鐘紡の顧問を務めていた田中千代は、昭和8年から阪急百貨店婦人服部の初代デザイナーとなり、昭和12年に、 兵庫県武庫郡本山村(現在の神戸市東灘区岡本)に田中千代洋裁研究所を開設しています。その場所が、『細雪』に登場する玉置女史の洋裁学院とぴったり一致するのです。<が、学院と云っても、のんきな塾のようなものであったし、何しろそう云う悪天候のことではあり、水が出そうだなどと云って騒いでいる場合であったから、欠席者が多く、出て来たものも落ち着かない有様なので、今日はお休みにしましょうと云うことになり、みんな帰ってしまったが、彼女だけは、妙子さん珈琲を飲んでいかない、と、玉置女史にすすめられて、別棟になっている女子の住宅の方で暫く話をしていた。> 田中千代洋裁研究所は昭和12年に入学式が行われたばかり。それまでの研究室としての歩みは、田中千代自身が「おままごとだった私のクラス」と述べているように、『細雪』でも「のんきな塾」と書かれています。 実態はどのようであったか、田中千代『心やさしく生きる』からです。<昭和七年の春、鐘紡のお仕事をはじめて、二か月後の五月に私はお友達五、六人と一緒に、自分の家の食堂を開放して洋裁のお集まりを始めました。食堂のテーブルを囲んで、各自の縫物をし、色々のお話をしたり、私の知っているだけの洋裁をお教えしたり、お手伝いをしたりしていました。>そして生徒が増え昭和九年に、食堂には入りきらなくなって、仕事部屋を建て増ししています。写真は当時の授業風景。 『細雪』では、玉置女史の夫は住友伸銅所の技師と書かれており、田中千代の夫・薫が地理学者であった事実とは異なりますが、一人息子がいたことは小説と一致しています。<只今。と云いながら十になる息子の弘が息を切らして這入って来た。おや学校どうしたの、と云うと、今日は一時間で授業がお休みになったんだよ、水が出ると帰り路が危険になるからこれで帰って宜しいって云ったんだよ、へえ、水が出そうなのかい?と、女子がそう云うと、何云っているんだい、僕が歩いて来る後から水がどんどん追っかけて来たんで、僕、追い付かれないように一生懸命駆けて来たんだ> その後、玉置女史と息子の弘、妙子の3人は玉置女史の自宅の応接室に入り込んだ濁流で、命を無くすところでしたが、危機一髪板倉に助け出されます。(六甲SABOホームページより) 阪神大水害での住吉川の氾濫状況を見ても、この地域が大きな被害を受けたことがわかります。田中千代のご自宅も小説どおりの被害を受けたのではないでしょうか。 ところで、妙子のモデルとなった信子は田中千代洋裁学院で洋裁を学んでいたそうですが、ここで気が付いたのは、谷崎松子の連れ子であった恵美子は昭和4年生まれ、田中千代の息子も10歳くらいだったと推定され、子供同士が同じ甲南小学校に通っていた縁で、谷崎家と田中家の交遊があったのかもしれません。 田中千代洋裁研究所は戦後昭和22年に芦屋市大原町に移転。翌昭和23年に田中千代服装学園として発足しています。写真は大原町の校舎。阪急電車の車窓から見えていた学舎は今は無く、マンションが建ち、大きな棕櫚の木の根元を見ますと田中千代服飾専門学校跡地であることを示した記念碑が残されていました。記念碑には「田中千代学園発祥の地」と刻まれていました。 学校法人田中千代学園は、現在も「渋谷ファッション&アート専門学校」として残っています。振り返ってみると、田中千代洋裁研究所は昭和初期の阪神間モダニズム文化を象徴するものでした。
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