BSプレミアムで再放送中の「涼宮ハルヒの憂鬱」、第21話では北校の文化祭で映画の上映を企てる涼宮ハルヒのSOS団が撮影に向かったのは祝川商店街。ハルヒらは、光陽園駅から祝川商店街に向かいます。甲陽園駅は、光陽園駅に、夙川は祝川に変わっていますが、この祝川商店街のモデルは尼崎中央商店街になっており、初めて商店街の中を歩いてみました。阪急甲陽線から、尼崎中央商店街に行くためには、神戸線、今津線、阪神へと3回乗り換えが必要ですので、今回は阪神バス、阪神電車の経路で尼崎に向かうことにしました。アニメに登場する場所は、アーケードが曲がっているのが特徴です。尼崎中央商店街の地図を見ると、三和本通り商店街のようです。撮影場所となった大森電器店とは三和電器。背景になっているのは、珈琲屋コロンビアとおしゃれの店ワダ。三和電器の向かいの店です。この三話本通り商店街に西宮ブログのモンセ分店薬局薬剤師徒然日記でお馴染みのお店がありました。 初めて歩いた尼崎中央商店街。アーケード商店街としては、東京の武蔵小山商店街程度の規模はあります。それに、値段は安いし、美味しそうなお店が沢山ありましたし、活気がありまます。しかし、昔はもっと人通りが多く、こんなものではなかったとのこと。面白い商店街でしたので、また行ってみます。
↧
祝川商店街として登場する尼崎中央商店街へ(涼宮ハルヒの溜息Ⅱ)
↧
カトリック夙川教会の聖テレジア像と遠藤周作
遠藤周作のキリスト教観について、我々俗人にも分かりやすいのは、「遠藤周作の世界―追悼保存版」で夫人の遠藤順子さんが語っている言葉でしょう。<主人は外国へ参りまして、やはり日本のキリスト教はどうあるべきかということを非常に考えたのだと思いますし、それから小さい時分に洗礼を受けましてからも、どうも自分にはしっくりこない着物をいつまでも着せられているという感じでしたと思いますので、何とかこれを自分の身体にしっくり合うような和服仕立てに直したいということを、結局一生やっていたのじゃないかと思いますね。>遠藤周作が小さい時分に洗礼を受けたのが、カトリック夙川教会でした。<西洋の神様ってやはり罰する神様だったり、要するに父なる神様で、でも自分は母親べったりの人でしたからね、「ごめんなさい」と言ったら「いいよ」といって許してくれるような母なる神でないと、いわゆる罰する神というのは日本には根づかないのではないかというふうに思っていたみたいですね。> カトリック夙川教会のアルコーブに、これまであった十字架のキリスト像に代わり、聖テレジア像が置かれているのに気づいたのは5月のテレマン・アンサンブルのチャリティ・コンサートでのことでした。 先日、雑誌の取材に同行して梅原神父さまから、聖テレジア像が移された経緯についてお聞きすることができました。昭和7年の建堂当時は、「幼きイエズスの聖テレジア教会」と命名され、アルコーブには守護神の聖テレジア像が置かれていたとのことでした。 約50年前の、世界公会議で定められた方針に従って、それまで置かれていた聖テレジア像を告解室の隣に移し、キリスト像が置かれたそうですが、近年になって、神父様と信者の皆様が再び夙川教会の守護神の聖テレジア像をアルコーブに戻すことを決められたとのこと。勝手な想像でおそらく当たっていないのでしょうが、私には、あたかも遠藤周作のキリスト教観が具現化したもののように思えました。
↧
↧
『涼宮ハルヒの溜息』で登場した甲山森林公園と広田神社
毎週金曜午後11時45分からBSプレミアムで再放送中の「涼宮ハルヒの憂鬱」からです。第21話で、団長・涼宮ハルヒの思いつきで文化祭に向けて「朝比奈ミクルの冒険」という自主制作映画を作ることになったSOS団。祝川商店街のロケに次いで向かったのは甲山森林公園。やはり登場するのはシンボルゾーン記念碑広場の「愛の像」。アニメでは甲山の頂上が見えないのが、やや不満。「愛の像」は白大理石で台座はポルトガル産赤御影石とのこと。ところで記念広場の南側に、このような野外ステージがあったのはご存知ですか?何度も森林公園を訪れている私ですが、この存在はアニメを見て初めて知りました。この野外ステージで繰り広げられる撮影風景。約1,000人が収容でき、コンサートや集会に使用されると説明されています。しかし、それ程の観客を集める駐車場はないし、少なくとも最近はそのような催しが開催された記憶はないのですが。SOS団がそばを食べるのは神呪寺の手前にある「お食事処 好の家」でした。さて、甲山森林公園の近くの(?)神社として登場する広田神社。光(甲)陽園駅のシーンも登場。このシーンは朝比奈ミクルがバニーガール姿で立つ後ろに「祝川オアシスロード」の表示があり、西宮市立中央図書館の西側のようです。アニメではこのように多くの西宮市内のシーンが登場するのですが、次回は谷川流の原作も読みながら比較してみたいと思います。
↧
昭和7年カトリック夙川教会の住所は西宮市外香櫨園夙川
今年、カトリック夙川教会のアルコーブに聖テレジアの像が戻されたことを前回紹介させていただきました。 夙川教会の歴史を読むと、夙川にネオ・ゴシック様式の聖堂が完成したのは昭和7年4月。新聖堂はブスケ神父が敬愛してやまなかった聖テレジアに献げられ、「幼きイエズスの聖テレジア教会」と呼ばれたそうです。 初代主任司祭のブスケ神父が翻訳した『小さき花 聖女小さきテレジアの自叙伝』を見ると、昭和四年第十五版の奥付には「兵庫県西之宮市香櫨園(夙川阪急停留所西) 訳者兼発行者 シルベン・ブスケ」と記されています。更に昭和五年に発行された『幼な子に倣いて』の奥付には「著者発行者 西宮市外香櫨園夙川カトリック教会 シルベン・ブスケ」と記されています。 現在の阪神香櫨園駅に馴染みのある我々にとって、少し奇異に感じますが、カトリック夙川教会が昭和7年に建堂された場所は、正に香櫨園の中心地だったのです。 ご存知のように、香櫨園の名前は明治40年に、大阪の商人である香野蔵治氏と櫨山慶次郎氏の手によって開設された香櫨園遊園地に始まりますが、場所は現在の阪急夙川駅の西側、羽衣町、霞町、松園町、相生町、雲井町、殿山町一帯でした。 さて、香櫨園遊園地は大正2年に廃園となり、サミュエル商会から大神中央土地(株)の手にわたり、住宅地経営が始められます。当時は武庫郡大社村森具でしたが、大正12年には羽衣町、霞町、松園町、相生町、雲井町、殿山町一帯を森具区から分離独立させ、香櫨園区と命名されたのです。大正末の地図を見ると、香櫨園と記されています。この地図には、高塚山のあたりに香櫨園鉱泉と記されており、それも興味あるところです。 夙川自治会発行の『夙川地区100年のあゆみ』によりますと、「昭和7年に阪急電車の駅名と区名を一致させるために、香櫨園区は夙川区と改称され、長く親しまれていた香櫨園は名実ともに発祥地から姿を消した」とされています。大社村が西宮市と合併したのは翌年の昭和8年のことですから、西宮市香櫨園という地名は存在しなかったので、昭和4年のカトリック夙川教会の住所は「西宮市外香櫨園」という方が正しいようです。しかし、合併後の昭和8年の西宮市全図を見ると、そこにはまだ香櫨園と書き込まれていて、香櫨園の名称がしばらく使われていたと思われます。 大社村の正式合併前から、既に西宮市と呼んでいた可能性もあり、上のブスケ神父の印に記されているように、西宮市香櫨園という住所が一般に通用していたのではないでしょうか。最後に、夙川自治会長さんに、夙川地区というのは、上の昭和8年の夙川区平面図に示されている、羽衣町、霞町、松園町、相生町、雲井町、殿山町一帯のことであるとお教えいただいたことを申し添えておきます。
↧
遠藤周作がいたずらしたカトリック夙川教会の鐘は日本最古のカリヨン
先日雑誌の取材に同行させていただき、カトリック夙川教会の鐘楼に登り、カリヨンを見せていただきました。このカリヨンをいたずらに鳴らしたのが遠藤周作です。 加藤宗哉著「遠藤周作」では次のように書かれています。<一方、この少年は母と一緒に預かるミサにおいても不真面目だった。教会のなかに捨犬をひそかに導き入れて神父の説教中に解き放って信者達を驚かせたかと思うと、あるときは聖堂の鐘楼にのぼって勝手に鐘を鳴らした。奇声を発したり、司祭館のガラス窓を破ったりするのは日常茶飯だった。>相当のいたずらっ子だったようです。遠藤周作はここでロープを引っ張り、鐘を鳴らしたのでしょうか。 さてこのカリヨンは昭和7年の聖堂完成直後に据え付けられたもの鐘は11個あります。時計からの信号により、アンジェラスの鐘演奏が自動的に行われます。これが2009年に修復され、昔の姿のまま動いている自動演奏装置です。フランス語の銘板が付いていました。フランス出荷前の仮組の写真がありました。 日本最古のカリヨンの音はYOMIURI ONLINE「 名言巡礼 須賀敦子『ユルスナールの靴』から 西宮・宝塚(兵庫県)」でも美しい夙川教会の映像とともに聴くことができます。http://www.yomiuri.co.jp/stream/?id=06968
↧
↧
涼宮ハルヒの溜息Ⅳで登場した西宮市高座町の新池
BSプレミアムで再放送中の『涼宮ハルヒの憂鬱』第23話「涼宮ハルヒの溜息Ⅳ」でSOS団が向かったロケ先は高座町の新池でした。後ろに見えているのは甲山と市立西宮高校。SOS団のロケシーンです。 さて現地にはないシーンが登場します。新池の周りを高いフェンスが囲っていて、立ち入り禁止となっているのです。 新池には張り出しデッキがあるくらいですから、そこまでは自由に入れるのです。 何故このようなシーンが入ったのか。原作を読むと明らかになります。<三十分くらい徒歩で移動し、着いたところは池の畔だった。丘の中ほどにある、ほぼ住宅街の真ん中である。池と言ってもけっこう広い。冬になれば渡り鳥がやってくるほどのデカさであり、古泉が言うところによるとそろそろ鴨だか鴈だかがやってくる頃合いだそうだ。 池の周囲には鉄製フェンスが施され、侵入禁止を明示している。>このよう原作では鉄製フェンスが登場し、これを乗り越えようとしたハルヒに対し、長門が簡単にこじ開けてしまうという場面が描かれており、それに忠実にアニメを制作しているのです。したがって、谷川流が原作を書いたきの池のイメージは新池ではなかったのでしょう。フェンスがある夫婦池か五ケ池でしょうか?原作でハルヒがディレクターズチェアを置いた場所も、<ぬかるみ気味の地面にディレクターズチェアを置き、ハルヒはスケッチブックにセリフと思しき文章を書きなぐっていた。>とされており、アニメのシーンとは違っているのです。新池は広田神社のすぐ近くにありますので、広田神社のロケハンの時に、あわせて近くの新池を採用したのではないでしょうか。ところで新池は西宮市民にとってもあまり馴染みがない池です。明治時代は岩ケ谷下池の井一部だったようです。岩ケ谷上池はかなり早い時期に埋め立てられ、無くなっています。昭和45年には、新池(旧岩ケ谷下池)の北半分が埋め立てられ、市立西宮高校が移転してきます。新池が改修、整備され現在の姿になったのは平成4年(1992年)のことだったようです。宮っこ1992年11月号に「わがまち自慢 美しく変身『新池』」という記事が掲載されていました。
↧
夏目漱石『倫敦塔』を歩く
漱石は明治33年10月から明治35年12月までの2年間、文部省留学生としてロンドンに留学し、その時のロンドン塔見物を題材にした短編を書いています。『倫敦塔』を読みながら、歩いてみました。<二年の留学中ただ一度倫敦塔を見物した事がある。その後再び行こうと思った日もあるがやめにした。人から誘われた事もあるが断わった。一度で得た記憶を二返目に打壊わすのは惜しい、三たび目に拭い去るのはもっとも残念だ。「塔」の見物は一度に限ると思う。> 二度と倫敦塔を訪ねなかったのは、下宿の主人に漱石の想像を悉くつぶされたことも一つの原因になっているようです。漱石にはロンドンの喧騒が肌に合わず、神経衰弱に陥ったそうですが、次の文章にも表れています。<表へ出れば人の波にさらわれると思い、家に帰れば汽車が自分の部屋に衝突しはせぬかと疑い、朝夕安き心はなかった。この響き、この群集の中に二年住んでいたら吾が神経の繊維もついには鍋の中の麩海苔のごとくべとべとになるだろうとマクス・ノルダウの退化論を今さらのごとく大真理と思う折さえあった。>倫敦塔に行くのも、一枚の地図を頼りに歩いて行ったようです。<無論汽車へは乗らない、馬車へも乗れない、滅多な交通機関を利用しようとすると、どこへ連れて行かれるか分らない。この広い倫敦を蜘蛛手十字に往来する汽車も馬車も電気鉄道も鋼条鉄道も余には何らの便宜をも与える事が出来なかった。余はやむを得ないから四ツ角へ出るたびに地図を披らいて通行人に押し返されながら足の向く方角を定める。> 私もホテルから地図を頼りに歩いて行きました。歩いているとシティ・オブ・ロンドンの境界を示す守護獣のドラゴン像がありました。ロンドン塔はロンドンの中心といえど、正確にはシティ・オブ・ロンドンの境界から外れていました。 さて漱石の倫敦塔の説明が始まります。<倫敦塔の歴史は英国の歴史を煎じ詰めたものである。過去と云う怪しき物を蔽える戸帳が自と裂けて龕中の幽光を二十世紀の上に反射するものは倫敦塔である。すべてを葬る時の流れが逆さかしまに戻って古代の一片が現代に漂よい来れりとも見るべきは倫敦塔である。人の血、人の肉、人の罪が結晶して馬、車、汽車の中に取り残されたるは倫敦塔である。この倫敦塔を塔橋の上からテームス河を隔てて眼の前に望んだとき、余は今の人かはた古の人かと思うまで我を忘れて余念もなく眺ながめ入った。>1902年に漱石が感動した光景は今も保たれています。絵地図を見ながら倫敦塔の中に入ります。<空濠にかけてある石橋を渡って行くと向うに一つの塔がある。これは丸形の石造で石油タンクの状をなしてあたかも巨人の門柱のごとく左右に屹立している。その中間を連ねている建物の下を潜って向こうへ抜ける。中塔とはこの事である。>エントランスの向こうに見えるのが中塔(Middle Tower)です。<また少し行くと右手に逆賊門がある。門の上には聖セントタマス塔が聳えている。逆賊門とは名前からがすでに恐ろしい。古来から塔中に生きながら葬られたる幾千の罪人は皆舟からこの門まで護送されたのである。彼らが舟を捨ててひとたびこの門を通過するやいなや娑婆の太陽は再び彼らを照らさなかった。テームスは彼らにとっての三途の川でこの門は冥府に通ずる入口であった。>テムズ川につながる逆賊門(Traitor’s Gate)です。テムズ川と堀に囲まれた中世の倫敦塔の絵がありました。逆賊門から船が入ろうとしています。<左へ折れて血塔の門に入る。今は昔し薔薇の乱に目に余る多くの人を幽閉したのはこの塔である。草のごとく人を薙、鶏のごとく人を潰し、乾鮭のごとく屍を積んだのはこの塔である。血塔と名をつけたのも無理はない。>血塔(Bloody Tower)です。<血塔の下を抜けて向うへ出ると奇麗な広場がある。その真中が少し高い。その高い所に白塔がある。白塔は塔中のもっとも古きもので昔むかしの天主である。竪二十間、横十八間、高さ十五間、壁の厚さ一丈五尺、四方に角楼が聳えて所々にはノーマン時代の銃眼さえ見える。千三百九十九年国民が三十三カ条の非を挙げてリチャード二世に譲位をせまったのはこの塔中である。>倫敦塔の中心に来ました。白塔(White Tower)です。中に入ってみましょう。<南側から入って螺旋状の階段を上るとここに有名な武器陳列場がある。時々手を入れるものと見えて皆ぴかぴか光っている。日本におったとき歴史や小説で御目にかかるだけでいっこう要領を得なかったものが一々明瞭になるのははなはだ嬉しい。しかし嬉しいのは一時の事で今ではまるで忘れてしまったからやはり同じ事だ。ただなお記憶に残っているのが甲冑である。その中でも実に立派だと思ったのはたしかヘンリー六世の着用したものと覚えている。全体が鋼鉄製で所々に象嵌がある。もっとも驚くのはその偉大な事である。>漱石もこの陳列には目を見張ったようです。 下宿に戻った漱石は主人に倫敦塔の話をしますが、中世の倫敦塔の空想を打ち破られ、最後に次のように述べています。<これで余の空想の後半がまた打ち壊わされた。主人は二十世紀の倫敦人である。それからは人と倫敦塔の話しをしない事にきめた。また再び見物に行かない事にきめた。>さて漱石の『倫敦塔』、イギリスではロンドン塔のカラスについて初めて記述した作品として評価されていることがわかりました。それは次回に。
↧
夏目漱石が『倫敦塔』で見た「怖い絵展」のポスターの幻想
ロンドン塔の処刑の様子を描いたポール・ドラローシュ 「レディ・ジェーン・グレイの処刑」 が9月18日まで兵庫県立美術館「怖い絵展」で展示されています。 白いドレスを着て、目隠しをされ、今まさに断頭台の露と消えそうなうら若き乙女がレディ・ジェーン・グレーです。この時、弱冠16歳。イングランド初の女王となってからわずか9日後のことでした。 漱石は『倫敦塔』でボーシャン塔(The Beauchamp Tower)を訪れた時、処刑の場面を幻想を見たように描いています。<気味が悪くなったから通り過ぎて先へ抜ける。銃眼のある角を出ると滅茶苦茶めちゃくちゃに書き綴つづられた、模様だか文字だか分らない中に、正しき画かくで、小ちいさく「ジェーン」と書いてある。余は覚えずその前に立留まった。> ボーシャン塔の銃眼のところで「ジェーン」の文字を見つけた漱石は、その処刑の場面に思いを馳せます。<英国の歴史を読んだものでジェーン・グレーの名を知らぬ者はあるまい。またその薄命と無残の最後に同情の涙をそそがぬ者はあるまい。ジェーンは義父と所天の野心のために十八年の春秋を罪なくして惜気もなく刑場に売った。蹂躙られたる薔薇の蕊より消え難き香の遠く立ちて、今に至るまで史を繙とく者をゆかしがらせる。希臘語を解しプレートーを読んで一代の碩学アスカムをして舌を捲かしめたる逸事は、この詩趣ある人物を想見するの好材料として何人の脳裏にも保存せらるるであろう。余はジェーンの名の前に立留ったぎり動かない。動かないと云うよりむしろ動けない。空想の幕はすでにあいている。> ここから漱石の空想の場面が広がります。<始は両方の眼が霞すんで物が見えなくなる。やがて暗い中の一点にパッと火が点ぜられる。その火が次第次第に大きくなって内に人が動いているような心持ちがする。次にそれがだんだん明るくなってちょうど双眼鏡の度を合せるように判然と眼に映じて来る。次にその景色がだんだん大きくなって遠方から近づいて来る。気がついて見ると真中に若い女が坐っている、右の端はじには男が立っているようだ。両方共どこかで見たようだなと考えるうち、瞬たくまにズッと近づいて余から五六間先ではたと停まる。男は前に穴倉の裏で歌をうたっていた、眼の凹んだ煤色をした、背の低い奴だ。磨ぎすました斧を左手に突いて腰に八寸ほどの短刀をぶら下げて身構えて立っている。余は覚えずギョッとする。女は白き手巾で目隠しをして両の手で首を載せる台を探すような風情に見える。首を載せる台は日本の薪割台ぐらいの大きさで前に鉄の環が着いている。台の前部に藁が散らしてあるのは流れる血を防ぐ要慎と見えた。背後の壁にもたれて二三人の女が泣き崩れている、侍女ででもあろうか。白い毛裏を折り返した法衣を裾長く引く坊さんが、うつ向いて女の手を台の方角へ導いてやる。女は雪のごとく白い服を着けて、肩にあまる金色こんじきの髪を時々雲のように揺らす。ふとその顔を見ると驚いた。眼こそ見えね、眉の形、細き面、なよやかなる頸の辺に至るまで、先刻さっき見た女そのままである。思わず馳け寄ろうとしたが足が縮んで一歩も前へ出る事が出来ぬ。女はようやく首斬り台を探り当てて両の手をかける。唇がむずむずと動く。最前男の子にダッドレーの紋章を説明した時と寸分違がわぬ。やがて首を少し傾けて「わが夫ギルドフォード・ダッドレーはすでに神の国に行ってか」と聞く。肩を揺り越した一握の髪が軽くうねりを打つ。坊さんは「知り申さぬ」と答えて「まだ真の道に入りたもう心はなきか」と問う。女屹っとして「まこととは吾と吾夫の信ずる道をこそ言え。御身達の道は迷いの道、誤りの道よ」と返す。坊さんは何にも言わずにいる。女はやや落ちついた調子で「吾夫が先なら追いつこう、後ならば誘うて行こう。正しき神の国に、正しき道を踏んで行こう」と云い終って落つるがごとく首を台の上に投げかける。眼の凹んだ、煤色の、背の低い首斬り役が重た気げに斧をエイと取り直す。余の洋袴ズボンの膝に二三点の血が迸ばしると思ったら、すべての光景が忽然と消え失うせた。 あたりを見廻わすと男の子を連れた女はどこへ行ったか影さえ見えない。狐に化ばかされたような顔をして茫然と塔を出る。>この漱石が見た幻想は、まさにポール・ドラローシュ が描いた「レディ・ジェーン・グレイの処刑」の場面そのものでした。夏目漱石『倫敦塔』は青空文庫でも読めます。
↧
ロンドン塔のカラス伝説を初めて著述したのは夏目漱石『倫敦塔』
ロンドン塔に行くと大きなカラスがいました。こんな看板もあります。 17世紀にチャールズ2世がロンドン塔に棲みついたカラスの駆除を命じますが、占い師がカラスがいなくなると英国が滅びると予言により、カラスは英国王室の守護神として大切に飼われているのです。 今もロンドン塔では、ワタリカラス(raven)6羽が飼育されていて、1羽死ぬと野生のカラスを1羽捕えてきて加えるそうです。 ロンドン塔のカラスについて更に調べていると、Culture TripというサイトでThe Six Ravens At The Tower Of London(ロンドン塔の6羽のカラス)という紹介がありました。<One of the first descriptions of the Tower of London’s ravens was from a Japanese writer who wrote the 1905 novel Tower of London. > ロンドン塔のカラスについての最初の著作は1905年に日本の作家が書いた『倫敦塔』であると述べています。夏目漱石の名前はなく、単に日本の作家とされているのは少し残念ですが。更に、<He wrote that those executed in the tower were turned into ravens. It is a fascinating dark story that adds to the magic of the legend.> 漱石が、処刑された人々がカラスになって帰って来ると書いていることが、この伝説に魅惑的な暗黒の物語を付け加えているとしています。『倫敦塔』を読んでみましょう。<烏が一疋下りている。翼をすくめて黒い嘴をとがらせて人を見る。百年碧血の恨が凝って化鳥の姿となって長くこの不吉な地を守るような心地がする。> 処刑された人がカラスになって帰って来るという想像は日本人には容易に理解できますが、キリスト教徒のイギリス人にはどう映ったのでしょう。<吹く風に楡の木がざわざわと動く。見ると枝の上にも烏がいる。しばらくするとまた一羽飛んでくる。どこから来たか分らぬ。傍に七つばかりの男の子を連れた若い女が立って烏を眺めている。ギリシャ風の鼻と、珠を溶いたようにうるわしい目と、真白な頸筋を形づくる曲線のうねりとが少からず余の心を動かした。小供は女を見上げて「鴉が、鴉が」と珍らしそうに云う。それから「鴉が寒さむそうだから、パンをやりたい」とねだる。女は静かに「あの鴉は何にもたべたがっていやしません」と云う。小供は「なぜ」と聞く。女は長い睫の奥にただようているような眼で鴉を見詰めながら「あの鴉は五羽います」といったぎり小供の問には答えない。何か独で考えているかと思わるるくらい澄ましている。余はこの女とこの鴉の間に何か不思議の因縁でもありはせぬかと疑った。彼は鴉の気分をわが事のごとくに云い、三羽しか見えぬ鴉を五羽いると断言する。あやしき女を見捨てて余は独りボーシャン塔に入る。> 漱石は五羽の鴉と書いていますが、正しくは六羽のようです。 漱石の幻想は、下宿に帰って主人から種明かしをされて破れてしまいます。<無我夢中に宿に着いて、主人に今日は塔を見物して来たと話したら、主人が鴉が五羽いたでしょうと云う。おやこの主人もあの女の親類かなと内心大いに驚ろくと主人は笑いながら「あれは奉納の鴉です。昔しからあすこに飼っているので、一羽でも数が不足すると、すぐあとをこしらえます、それだからあの鴉はいつでも五羽に限っています」と手もなく説明するので、余の空想の一半は倫敦塔を見たその日のうちに打ぶち壊こわされてしまった。>漱石の作品の中で、『倫敦塔』はあまり評価されていないように思いますが、英語版が出版されるくらい、本場のイギリスでは評価されているように思います。
↧
↧
芦屋マリーナが見える談話室で『木を植えた人』の読書会
幸運にも『海の向こうに本を届ける』の著者栗田明子さんを囲む読書会に参加させていただきました。場所は芦屋マリーナを見下ろす談話室、天気も良く大阪湾が見晴らせました。 今回のテキストはジャン・ジオノの『木を植えた人』。 フランスの山岳地帯にただ一人とどまり、希望の実を植え続け、荒れ地から森を蘇えらせた孤高の人の物語。ひたすら無私に、しかも何の見返りも求めず、荘厳ともいえるこの仕事を成しとげた老農夫、エルゼアール・ブフィエの半生が描かれています。 元々は1953年に『リーダーズダイジェスト』誌が「あなたがこれまで会ったことがある、最も並外れた、最も忘れ難い人物」というテーマで執筆依頼したものですが、ジオノが描いたエルゼアール・ブフィエは実在の人物ではなく、そのことを村まで来て調べて知った『リーダーズダイジェスト』誌は掲載を拒否します。そこで、ジオノは著作権を放棄し、この物語を公開し、世界に広まったものです。 フィクションとは言え人間の尊厳を改めて考えさせる人間賛歌でもあり、人々を感動させるだけでなく森林復興への具体的な行動に立ち上がらせました。ジオノは時代の趨勢に逆らい続けた自然思想家でもあり、亡くなった後もジオノの思想の実現に人々を動かした作品です。 読書会の最後に栗田さんが、1994年に「こぐま社」からの日本語版の出版の交渉にプロヴァンスのジオノの資料館となっている旧居を訪れ、ジオノの次女のシルビアさんとお会いした時のお話などを伺うことができました。ジオノの書斎。ジオノと次女のシルビアさん。1994年の訪問時の写真。 1987年には、ジオノの小説を原作として、カナダのアニメーション作家フレデリック・バック監督・脚本で同名の短編アニメ "L'Homme qui plantait des arbres" が発表され、’87アカデミー賞短編映画賞を受賞しています。そしてフレデリック・バックのアニメーションが放映されたカナダでは一大植樹運動がまき起こり、年間3000万本だったものがその年一挙に2億5000万本に達したそうです。 また東京大学文学部仏文科卒でアニメ『火垂るの墓』や『かぐや姫の物語』などの監督として著名な高畑勲は『木を植えた男を読む』と題して、自ら翻訳、解説し、最後にはフレデリック・バックとの対談を掲載しています。 バック監督のフランス語アニメーションは全編30分YOUTUBEでみることができます。https://www.youtube.com/watch?v=7Rn6trL3-54&vl=ja日本語訳はコンピューターによるものなのか、ほとんど意味不明の文章になっていますので、本を読んでからご覧ください。ご覧いただくとわかりますが、このアニメーションは手法も根底に流れるテーマも高畑勲監督の『かぐや姫の物語』に大きな影響を与えたと思われます。 ジオノの『木を植えた人』は短編ですが、世界中の人々に感動を与えた作品です。
↧
阪神間が好きな遠藤周作は夙川生まれ?
月刊『神戸っ子』アーカイブを見ていると、遠藤周作がしばしば登場しています。1970年4月号には「遠藤周作氏をたずねて なにいうてけつかるねん」というインタビュー記事が掲載されていました。当時の表紙は小磯良平。 1970年というと大阪万博が開催された年。遠藤周作は大阪万博で、カトリックとプロテスタントの初の合同事業、基督教館のプロデューサーを阪田寛夫、三浦朱門とともにつとめています。ミニスカート全盛時代でもあり、こんな広告記事も掲載されていました。 さてインタビューで、記者から「そろそろ東京をひきはらって神戸にお住みになりませんか」という問いに対して、次のように答えています。<中学時代の友達が阪神間に多いのので、はやく神戸に帰って来いと叱られるのですが、阪神間が好きだし、こちらに住む心の準備はある。関西にいても仕事にさしつかえはないかと瀬戸内晴美に相談したらOKとのことだったので阪神間に土地をさがしてもらっている。> 1963年に遠藤周作は経堂から町田市玉川学園に転居していますが、阪神間への転居も考えていたようです。玉川学園のあたりの景色は、小高い丘になっており何となく夙川や仁川に似ていました。続いて、<夙川で生まれたのだが、あのあたりも仁川にいたるあたりもめちゃくちゃに変わったね。でも住むんだったら阪神間がいいね。>と、驚いたことに「夙川で生まれた」と答えているのです。遠藤周作は1923年東京巣鴨生まれ。出生地を隠したり、間違えて答えたはずはありませんから、カトリック夙川教会で洗礼を受けたことが遠藤にとっての生誕と考えていたのかもしれません。
↧
灘中生の憧れのまと佐藤愛子(1970年『神戸っ子』4月号より)
月刊『神戸っ子』1970年4月号の「遠藤周作氏をたずねて なにいうてけつかるねん」から続けます。<灘中の頃は夙川で阪神電車に乗って岡本でおりるのだが、途中で甲南高女の生徒に会うんだな。あの「周作怠談」の佐藤愛子なんか、僕らの憧れのまとやったんや。それが別当薫(現大洋監督)に惚れててんやて。そやから大洋が負けるんや。この間、甲南高女の同窓会に招かれましてね。もう皆、オバハンやが感無量でした。握手してもらったら胸が震えて。> 当時灘中があった場所は現在と変わらず、神戸市東灘区魚崎北町。甲南女学校は、武庫郡本山村田中字手水(東灘区田中町4丁目12-1)で現在の本山南中学校の場所にありました。水色で囲んだところに灘中学校があります。佐藤愛子さんが通われていた頃の甲南女学校の正門。校舎です。現在の跡地は本山南中学校になっていますが、立派な甲南女子学園発祥の碑が遺されています。 佐藤愛子さんは甲子園から阪神電車か阪神国道電車で通っていたはずですが、遠藤周作は『神戸っ子』のインタビューで「夙川で阪神電車に乗って岡本でおりる」と話していることから、どうも阪急電車で夙川駅から岡本駅まで乗って、灘中に通っていたようです。上は現在の航空写真。水色が灘中。赤が甲南女学校があった本山南中学校。黄色が遠藤周作が降りた阪急岡本駅。 遠藤周作は『私の履歴書』でも、灘中で机を並べていた親友楠本憲吉氏と甲南女学校の女の子のあとをつけて行ったと述べています。<姉上が部屋から出て行かれると私たちは再び灘中に近い甲南女学校の女の子たちの話を続けた。私たちは当時、彼女たちを尾行することを、「カメする」と言っていたが、その言葉は童話の兎と亀との話から生まれたのである。今の少年と違い、男女共学ではなく、女の子とデイトするなど不可能だった我々は、ただ甲南女学校の女の子達のあとを距離をとってついていくだけで、それ以上、何もできなかった。>きっと甲南女学校の正門からあとをつけて行ったのでしょう。 この話は遠藤周作『口笛を吹く時』にも出てきて、平目と小津は国道電車の芦屋川停留所で何日も待ち続け、ついに東愛子ら三人のセーラー服が降りてきたのを見つけ、カメするのです。東愛子とは佐藤愛子さんをモデルにしたのでしょう。佐藤愛子が憧れた別当薫は当時西宮市に住み、旧制甲陽中学校時に通い、エースで4番でした。
↧
遠藤周作をなぐさめたのは阪神間の赤褐色の土
遠藤周作は1965年『神戸っ子』6月号に随想を寄稿し、1970年4月号にはインタビュー記事が掲載されています。いずれの記事にも阪神間の白い土の色について言及しています。 まず、1965年の随想「想い出すこと」からです。<もともと話をするのが不得意なのと、講義などは私の本来の仕事ではないので、大抵はお断りするのだが、関西の大学から依頼されると何となく承諾してノコノコ出かけて行く。そしてそれが京都や大阪での仕事であっても事情が許す限り宿は宝塚ホテルにとる。> 遠藤周作は宝塚ホテルに宿泊し、仁川の旧居があったあたりや、今はなき宝塚文芸図書館を訪ねたようです。現在の宝塚ホテルは解体・新築移転が決まり、新ホテルは宝塚大劇場の西隣に建設され、2020年春に開業するそうです。<阪急電車に揺られながら窓の外を眺める。東京近郊の黒褐色の土をみなれた眼に赤っぽい土の色が鮮やかに映る。「ああ、帰ってきたんだ」戦争中、まだ慶応の予科生だった頃、激しい勤労奉仕と栄養失調の東京での生活に疲れ果てて帰省した時、すし詰め電車の中でこの土の色を見ておもわず涙をこぼしたのを思い出す。この赤褐色の土はいつみてもあたたかく豊かで大好きだ。> 遠藤周作が阪急電車の窓から眺めた土の色、今や道路は舗装され、六甲山系も木が生えそろい土の色も確かめらなくなりました。近くで見れる土の色は夙川公園くらいでしょうか。 1970年『神戸っ子』のインタビュー記事でも、土の色について述べています。<風土というと、神戸の土は白い。昔、こちらに住んでいたものにしたら、東京から大津のあたりまで来て土が白くなるとホッとする。>どうも土の色は大津あたりから変わるようです。 更に「消えた文学の原点」では、関東の黒い土が嫌いとも述べています。<私は東京に生まれたが、少年時代は阪神で育った。育った家は灘区の六甲や夙川、仁川と転々としていたし、色々な意味で阪神の風景や人情が私の感情教育に影響を与えたことも確からしい。やむなく東京に住んでいるが、私は関東の黒い土が嫌いである。> 私はむしろ黒い土が羨ましいのですが、遠藤の土の色の思いは、東京に住んでいた父親と、仁川に住んでいた母親への思いにつながっていたのでしょう。関西にずっと住んでおられる方は、黒い土のイメージがないかもしれませんが、田園調布の宝来公園の土の写真を添えておきます。
↧
↧
カトリック夙川教会の幼稚園を舞台にした阪田寛夫の「酸模」
阪田寛夫『我等のブルース』に収められた短編「酸模」は六年生の男子小学生の異性へのあこがれ、性の目覚めを描いた、少し甘酸っぱい思いのする物語です。その舞台はどうも昭和19年まで存在したカトリック夙川教会の幼稚園のようです。「酸模」は次のように始まります。<啓四郎は牧師の子供ほど損なもんはないと思っていた。家ではスケベエなことはちっとも言えない。おまけに学校ではアーメン!とからかわれる。春休みになって幼稚園のペンキの塗替えが始まった。幼稚園は教会の裏から松林を隔てて、背中合わせに建っている。(お父さんは園長もかねている)> 主人公啓四郎は阪田自身をモデルにしたようですが、阪田寛夫の父親・素夫は阪田インキ製造所(後のサカタインクス)をしつつ阿倍野にある日本基督教団南大阪教会と同じ敷地にある南大阪教会幼稚園の園長をされていました。したがって幼稚園のモデルは南大阪教会幼稚園なのですが、さらに読んでいくと舞台を夙川に移していることがわかります。写真は村野藤吾設計の日本基督教団 南大阪教会と現在も存続する幼稚園。 啓四郎は二十幾つの幼稚園の先生の右近さんを好きになります。<朝、学校へ行くのにわざと少し遅い目に出ると、夙川の駅からトコトコ坂道を登ってくる右近さんにうまく出くわす事がある。>どうもカトリック夙川教会に向かう坂道のようです。上の写真は1938年のメルシェ神父と幼稚園児たちの写真です。 この小説の途中に、西宮北口で「日独伊三国博覧会」が開かれていたと述べられています。戦時中、西宮北口に航空園があったことは知っていましたが、「日独伊三国博覧会」が開催されていたことはネットで調べても出てきません。<西宮北口で日独伊三国博覧会が開かれている。試験勉強の参考になると先生が言っていたので、タクちゃんと見に行った。朝から冷たく曇っていて、産業館も国防館もみんなガランと淋しく、土間のしめった土が膝まで冷え冷えとしみる。>中にはフランクフルト曲芸団の公演まであったそうです。<三十銭払ってはいると三百人程の人がバラバらと腰かけておとなしく待っていた。まん中に大きなマットが敷いてあって、ブランコや吊輪の高い鉄棒が立っている。ドイツのフランクフルト曲芸団の公演と書いてあった。>「円形のスタンドのてっぺんに三つの国の国旗が順にぐるりと立て廻らせてある」など記述は具体的なので、実際に開催されていたのかもしれませんが、よその場所なのか判然としません。 そのスタンドでの啓四郎の姿がが面白く書かれています。<啓四郎はさっきからソワソワしていた。すぐ三段上の席から綺麗なすんなり揃った脚がのびていて、振向くたびに眼がどうしてもその間に吸い寄せられるのだ。まるで銀色の長い靴下のその奥に、柔らかな白い清潔な下穿きがはっきり見える。>あまりよく振り向くので友人のタクちゃんに注意されるのですが、この少年の覗き見する気持ちもよくわかります。 次に阪急夙川駅の東のガード下で、とんでもない発想が述べられています。<夙川の駅のすぐ手前で、道が線路をくぐっている。電車が通ると、車体のハラワタみたいな黒い機械がまざまざ見える。乗ってるお客は真下から見られているとはちっとも気が付かない。啓四郎は此の頃それを見ただけでウンこをこらえている様な気持ちになってくるのだ。こんなのが本当に仕様のないスケベエなんじゃないかしら。> 私も子供の頃、ガードの下から列車が通るのを見上げるのは好きでしたが、さすがここまでは高揚しませんでした。現在の夙川駅近くのガードです。 最近は安全のためでしょうが、上から何か降って来ないように完全に鉄板で覆われていて、昔の様に列車の下側を見ることはできなくなってしまいました。 主人公啓四郎が、自分は本当に仕様のないスケベエなんじゃないかと心配する気持ちもよくわかります。健康な小学生であればこそと思いましたが、この小説の最後はもっと過激に谷崎潤一郎並みの隠微な終わり方をします。事務室に忍び込んだ啓四郎はあこがれの右近先生の運動靴を見つけます。<思い切ってカカトの内側に鼻をくっつけた。吸い込む。チーズの匂いだ。>全文引用しようと思いましたが、この先まだ過激な文章が続きますので、ここで止めておきます。 それにしても何故プロテスタントの阪田はカトリック夙川教会の幼稚園を舞台にしたのでしょう。(投稿禁止用語が2つあり、カタカナとひらがなを混ぜました)
↧
『京都人の密かな楽しみ』に旧ハンター邸と六甲山牧場
『京都人の密かな愉しみ』は、2015年に放送が始まり、その後不定期に続編が放送され、2017年5月の「桜散る」編で最終回となりましたが、新作「京都人の密かな愉しみ ブルー修業中 送る夏」が9月30日に放送されるそうです。 それに先立ち「京都人の密かな楽しみ」1st.シーズンの再放送が続いています。 京都の風情に伝統文化、京都人気質、悲恋などをうまく組み合わせて描かれ、常盤貴子、銀粉蝶の名演技に、その脇を固める配役も良く、私の好きな番組だったので、録画して楽しませていただいています。 京都のロケ地を紹介しているサイトもあり京都訪問時には参考になります。ところで、「京都人の密かな楽しみ冬 わたしは京都が嫌い編」で、エドワード・ヒースロー( 団時朗)とエミリー・コッツフィールド(シャーロット・ケイト・フォックス)の出身地イギリスヨークシャーとして登場したのは六甲山牧場と王子動物園に移設されている旧ハンター邸でした。このイングランド映像だけはイングランドだったのでしょうか。冬の牧場。冬の六甲山牧場は訪れたことがなかったので、自信がありませんでしたが、このシーンで確信できました。続いて出てきたのがこの建物。窓枠を見ると、旧ハンター邸の2階に違いありません。さて2nd.シーズンの配役は若者にずらりと変わるようですが、期待しています。
↧
エジンバラで見つけた『ジキル博士とハイド氏』のモデルとなった人物
『ジキル博士とハイド氏』は、ロバート・ルイス・スティーヴンソンが『宝島』の3年後に書いたロンドンを舞台とした小説です。 しかし、そのモデルはスティーヴンソンの故郷であるエジンバラの18世紀のウィリアム・ブロディーによる犯罪からヒントを得たと言われています。ブロディは、エジンバラの市会議員やギルドの役員をしながら、泥棒などの犯罪を続けた人物で、エジンバラでは有名な歴史的犯罪者なのです。 スティーヴンソンは二重人格という精神性と道徳的な善と悪とのジレンマをテーマにし、薬を飲んで人格と容貌が変わるというSF的な要素を加えた作品としました。 その有名な「ジキル博士とハイド氏」のモデルになった実在の人物をモデルにしたカフェ「Deacon's House Cafe」をエジンバラ城へ向かう途中でみつけました。入り口には、ここがWilliam Brodieの工房であったと書かれています。像はブロディのようです。 入口の上に Brodie’s Closeと書かれていますが、ブロディの袋小路とでも訳すのでしょうか。京都でいうと「路地」のような細い道が、このあたりによく見られました。 Deacon's House Caféと通りを挟んで向かいに、ブロディの邸宅があり、現在はパブになっています。「DEACON BRODIE TAVARN」の壁にはジキル博士とハイド氏のモデルとなった由来が書かれていました。1700年頃の話であるが、道の名前にもなっているWilliam Brodieは石工ギルドの組合長(deacon)であった。昼間の彼の姿は、全うな人間であったが、夜の姿は一変して、裏社会に身を置いて、ギャンブルやお酒に明け暮れていたのであった。しかし1788年、Brodieはギャンブルの借金を返すために強盗を犯し、首つりの刑に処されたそうである。この話が、エディンバラ出身の小説家、ロバート・ルイス・スティーブンソンの有名な作品「ジキル氏とハイド氏」のインスピレーションになったそうです。吊り看板にはブロディの二つの姿が描き分けられていました。中は普通のパブになっていました。子供の頃読んだ『ジキル博士とハイド氏』ですが、久しぶりに読み返しました。
↧
吉田初三郎の西宮市鳥瞰図に描かれた富士山の真偽
久しぶりに伊丹空港から札幌に向かいました。伊丹から高度を上げて、どのあたりから富士山が見えるのか確認しようと、目を凝らしていました。 それというのも、昭和11年の吉田初三郎の西宮市鳥瞰図に描かれた富士山の姿が、どの程度デフォルメされたものか、気にかかっていたからです。 しかし、今回は残念ながら雲が多く定かではありませんでした。 鳥瞰図作者として第一人者であった吉田初三郎は、日本全国の鳥瞰図を描きましたが、その多くに、実際に見えても見えなくても富士山を描き込んでいます。 2年前に琵琶湖上空、高度10,000mの飛行機の窓から撮影した富士山の写真です。少し拡大した写真で、肉眼ではもう少し小さく見えたのですが、富士山がはっきり見えたことは間違いありません。その姿が、吉田初三郎が描いた鳥瞰図とあまりにも似ていたので驚きました。 西宮市中心部は詳細に描かれ、一方で周縁部は、地形や距離感が大きくデフォルメされているのが、初三郎の鳥瞰図の特徴です。空を飛んでいる鳥が、地上を斜め下に見下ろしているように描かれたパノラマ図ですが、鳥は1万メートルの高さを飛べないだろうと調べたところ、8000m以上を飛ぶ鳥が観察されたこともあるそうです。 大正から昭和にかけて吉田初三郎が飛行機で飛んだはずはないので、その心眼には驚きます。
↧
↧
村松友視の小説の舞台・小樽の「海猫屋」のいま
村松友視『海猫屋の客』は小林多喜二の小説「不在地主」のモデルとなった磯野商店の倉庫を改装した喫茶店「海猫屋」に集う人々を取り巻く物語です。小樽に住む人のノスタルジーが伝わり、哀愁が漂う小樽の街を散策するのにお勧めの小説。 小説は夏の海猫屋の店内の様子から始まります。<小樽はやはり雪の季節が似合っている……小樽に住む者が誰でも口にするセリフが、マスターの軀にも浮かんだ。しかし、夏場の観光客がいるからこそ、海猫屋をこうやって辛うじて維持していけるのだと思い返し、マスターは店内に貼りめぐらされたポスターをながめた。> 小樽を訪ねた機会に「海猫屋の客」になってマスターにお会いしたいと思ったのですが、残念ながら昨年の10月末に閉店してしまったそうで、その後、「海猫屋」はどうなっているのだろうと訪ねてみました。 レンガ造りの建物は小樽運河から少し入ったところにあり、昨年7月に小樽歴史的建造物に指定されていますが、行ってみると新しい店舗にするためか内装改造中の様子でした。建物の由来の看板については小説にも登場します。<海猫屋(旧磯野商店)、建築年明治三十九年(一九〇六年)、構造レンガ造三階建……建物の外に小樽観光課の札が貼りつけてあり、赤いレンガ造りの建物の由来が書き記されている。「小林多喜二の小説『不在地主』のモデルとなった磯野商店が倉庫として建てたもので、当時、一階は佐渡味噌、二階にワラジやムシロ、三階は家財道具が格納されていた。この建物の建築請負人は、だいなか中村組で、壁の構造は地震対策として二重レンガ積、屋根は防火のために瓦が用いられ、雪にも耐えられるよう一枚ずつ鉄線で固定された堅固な建物である」マスターは、店の入口脇にある建物の由来を、老婆のおつとめのように音読するのが習慣だ。> 明治39年に建造された磯野支店倉庫に、1976年6月海猫屋が開店。喫茶店・ライブハウスとしてスタートし、小説にもあるように舞踏団の活動やアーティストが集う文化を優先した場所となったそうです。 店主・増山誠氏は閉店にあたって記者会見し、「40年間頑張り、運河・レンガの海猫屋を大切にしてきた。次は、これまで生き方と違う生き方をしたい。何の悔いもなく、これまでのお客さんに感謝している」と述べられていたそうです。http://otaru-journal.com/2016/09/0927-2.phpそばの小樽運河に行くと、海猫が鳴いていました。
↧
村松友視『海猫屋の客』の小樽・魚籃館のいま
村松友視『海猫屋の客』で海猫屋とともに舞台となっているのが、主人公の清宮と夕美子と北方舞踏派のキクこと河島が、海猫屋のマスターに勧められて宿泊することになる魚籃館です。上の写真は昨年閉店した、清宮が立ち寄った海猫家の現在の姿です。駐車場には、まだ海猫屋の表示が残っていました。 更にGoogle Earthで見てみると、2015年の海猫屋が写っていました。 海猫屋のマスターは、潮まつりの会場で、清宮と出会い魚籃館へ誘います。航空写真の黄色の丸で囲んだ所が海猫屋、白丸が魚籃館です。<マスターは男がバッグをぶら下げているのを見て、そう言った。「ええ、まだ決めていないんですが」「うちへ泊ればいいべさ」「うちっていうと……」「いや、金はもらうけどね。魚籃館って面白い建物があってさ、そこへ観光客を泊めて金取っているんだ。もっとも、一泊千五百円だけどね」> 海猫屋は昨年閉じられていましたが、面白い建物という魚籃館がいまどうなっているのか訪ねてみました。 Google Earthで見てみると、今年まで古道具屋が一階に入っていたようです。<男は、海猫屋のすぐ近くの魚籃館と書いた札が下がった建物の前へ来ると、名前を名乗った。マスターは、さしたる興味もなさそうにうなずき、表玄関の方へ向かおうとした清宮の肩を叩いて、建物の脇を入った。清宮は、あわててマスターのあとへつづいた。鍵のかかっていない引き戸がぎくしゃくしながら引き開けられ、一瞬、饐えたような匂いが鼻を突いた。そんなことには頓着なく、マスターは右手の階段を足早に昇り、突き当りのドアを開けて中へ入った。>行ってみると、一階の古道具屋はなくなっており、二階にKUMONの看板が目立ちます。二人はこの建物の間の細い道を入り、KUMONの入口になっている所から二階に上がったようです。<この建物を魚籃館と名づけたのはマスターらしい。前堀商店という鉄鋼会社の社屋だった建物を、四年前に借りたマスターが、一階を稽古場に改造、そこで公演が成り立つような空間にした。三階の細長い屋根裏部屋を衣裳部屋とし、二階の各部屋は北方舞踏派の団員が、さまざまな使い方をしていたのだとマスターは説明した。>昭和初期に建築されたこの建物、小樽市の歴史的建造物に指定されており、元は銅鉄商「前堀商店」の店舗兼住宅でした。 内部の洋間には古代ギリシャ様式の柱が配されているそうですが、残念ながら中に入ることはできませんでした。 建物の脇の細い道を中に入ってみました。倉庫に利用されていた木骨石造の建物が奥に続いていました。 物語はこの魚籃館に寄泊している正体不明の三人を中心に進みます。
↧
村松友視『海猫屋の客』に登場する北一硝子の珈琲館
海猫屋のマスターは自分の店ではなく、違った雰囲気を味わいたいのか他の店でもコーヒーを飲むようです。それは北一硝子三号館の美しいカフェ「北一ホール」。<北一硝子……近ごろでは、アンノン族の人気を集め、毎日にぎわっているこんな場所に、小樽のすれっからしである自分が坐っていることを思うと、マスターは吹き出しそうになった。だが、じっと坐ってランプの炎を眺めていると、その炎の向こう側に自分でも知らない華やかな小樽が浮かんでくるような気がした。この建物は、海猫屋より大きい倉庫を改造したもので、さまざまなガラス工芸品を売っている。> この建物は木骨石造倉庫で、小樽軟石を使用していると説明されており、石造りの壁はイギリスの建造物を思い出させます。 玄関を入って右手にマスターが坐っていた北一ホールがあります。上の写真は正面が玄関で左手が北一ホールです。この通路にはは海岸まで続いていたという荷物運搬用のトロッコのレールが残されていました。<暗い廊下をへだてた陳列場では、売り物のランプの光があらゆるガラス器具を浮き上がらせ、幻想的な景色をつくっている。マスターが坐っているのは、その隣にある珈琲館だ。入口の左手にチケット売り場があり、そこで買ったチケットをカウンターへさし出す。>外人観光客用か入口の壁には写真入りのメニューが貼られ、自動券売機がありました。<小樽の象徴のひとつである倉庫を利用しながら、海猫屋とはまったくちがった展開の仕方をしている北一硝子に、マスターは背中合わせの親近感をおぼえていた。同じ暗さでも、海猫屋とはちがう暗さだ……北一硝子の珈琲館でバロック音楽を聴きながら、マスターは冷めたコーヒーを啜った。そして、コーヒー・カップを持つ手をこわばらせ、ランプの炎の中を透かし見るようにした。マスターは、暗い世界の中に何かを発見したのか、そっと席を立って珈琲館を出て行った。>167個の石油ランプがともる素晴らしい北一ホールでしたが、玄関入ってすぐ左手にも天井一面にステンドグラスが広がるCafé Bar 九番倉がありましたので、コーヒーはそちらでいただくことにしました。白玉とアイスクリームの組み合わせのセットでしたが、美味しくいただきました。美しい小樽の夜を満喫して帰らせていただきました。
↧