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Channel: 阪急沿線文学散歩
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生涯をゴッホに捧げた夙川パボーニの画家大石輝一

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「日本初!オランダのファン・ゴッホ美術館との本格的国際共同プロジェクト」と銘打ったゴッホ展が、現在開催中で来年には京都国立近代美術館で開催される予定です。 ゴッホを初めて日本に紹介したのは白樺派の同人たちでした。武者小路実篤、志賀直哉らにより明治43年に創刊された同人誌『白樺』は文学界に新風を送る存在になり、そればかりでなく西洋の絵画や彫刻を次々と紹介し、その後の日本人の美術観を決定づけるほど、芸術面でも大きな影響を与えました。白樺創刊号の表紙(画:児島喜久雄) その雑誌『白樺』に連載された児島喜久雄訳のゴッホの手紙と伝記は、当時洋画家を志していた大石輝一を深く感動させ、 120度のゴッホ熱に浮かされたと自ら語るように、日夜ゴッホについて論じ、画友たちから「ゴッホ」と渾名されるまででした。 その後、大正5年22歳の時、三重県熊野市の友人宅に長期滞在していた大石は帰郷中の「秋刀魚の歌」で有名な佐藤春夫と親交を深め、「狂画人ゴッホ、我憐れむ」の春夫歌句に淡彩を添えた合作色紙を残しています。更に、大正5年から岡田三郎助の本郷洋画研究所で学んでいた大石は、大正9年に芦屋の実業家山本顧弥太の白樺派への資金援助により日本に初めて到着したゴッホ肉筆の四十号大の「ひまわり」を武者小路家で見せてもらうことになります。その感激はいかばかりだったかと思いますが、芦屋の「ひまわり」は阪神大空襲で焼失してしまったのです。http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11093150c.html 大石は昭和9年に夙川に小さいながら南欧風の、お洒落な茶房「ルウヂ・ラ・パボーニ」を開店し、アトリエを兼ねた文化の発信拠点とします。 そこで機関紙『パボーニ』を発刊し、「狂画人ゴッホ」と題したゴッホ論を繰り広げるとともに、白樺派の柳宗悦の民芸運動の一端を担った活動も始めました。 戦後になって、昭和29年には神戸朝日ホールで、昭和31年には西宮市民館で複製画によるヴァン・ゴッホ展を開催します。その時の日本ゴッホの会式場隆三郎との縁で、画家山下清がパボーニに逗留し、その後も家族的な付き合いを続けました。山下清は自著『日本ぶらりぶらり』で、パボーニ逗留中に大石と過ごした楽し気な様子を記しています。 晩年に大石は画家の枠を超えて、南仏アルルの風景に似た三田市の開拓村に芸術の園アートガーデンの建設に邁進します。やがて開拓村の小高い丘に「タラスコン街道の画家」に描かれたゴッホの姿そっくりの大石が現れ、ゴッホ碑に始まり柳宗悦賛碑、ブスケ像、ロマン・ロラン碑、武者小路実篤の詩碑など次々と建立したのです。遂にゴッホ熱は大石が亡くなるまで冷めることはありませんでした。

渡辺淳一『リラ冷えの街』の舞台となった北大植物園へ

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渡辺淳一『リラ冷えの街』は、北の都・札幌の四季の移ろいを背景に、不思議な巡り合せの男と女の愛の行方を辿る物語。主人公の有津京介は北大植物学教室の研究者で、北大植物園に常勤しています。<植物園事務室は白壁ぬりの二階建てで、正面玄関の上には三間幅のバルコニーがある。札幌農学校時代の植物学教室を原型のまま大学構内から移したもので、窓の細く長く、どっしりした構えはいかにも明治調の建物だが、バルコニーの床と手摺は一部朽ちかけていた。> 植物園事務室とは、現在の宮部金吾記念館です。明治34年に建てられた洋風建築物で、北海道大学植物園の初代園長だった宮部金吾博士が、かつて教鞭をとっていた旧札幌農学校動植物講堂の東翼部を移築したもので、昭和63年まで植物園庁舎として利用され、現在は宮部金吾の記念館として遺品などが展示されています。 『リラ冷えの街』は昭和62年に初版が刊行されていますので、執筆されたときは、植物園事務室だったようです。当時の正面玄関は、書かれているようにバルコニーの下だったようです。記念館に、1910年代の移築前の写真が展示されていました。札幌農学校出身の有島武郎一家の植物園での写真も展示されていました。<植物園事務所の右手には樹齢八十余年のライラックの老木がある。八十余年というのは明治二十五、六年ごろに、すでに大きな株のままソリに乗せて運び込まれたからである。詳しい樹齢は誰も知らなかった。高さ五メートルを越し、こんもりと枝が繁っているので花どき以外はライラックと気付かぬ人が多かった。>ここに書かれているライラックの老木がどれか、よくわかりませんでしたが、記念館の前に「札幌で最古のライラック」がありました。日本にライラックの樹を持ち込んだのは、北星女学校の創始者であったサラ・クララ・スミス女史で、明治22年のことでした。日本で初めてのライラックの苗木は北星女学校の校庭に植えられ、後にその一部が北大植物園へと株分けされたそうです。 小説の最終章も植物園の風景で始まります。<再び五月が訪れた。植物園正面の花壇にチューリップが咲き、園内の樹木ではニレとコブシが花開いた。北海道の五月には本州のような季節のきめ細かさはないが、一度に訪れる春の喜びは、はるかに強い。まだ肌寒い日もあるのに、人々はコートを脱ぎ、求めて外へ出る。背を伸ばし、大股で歩く、道を行く人々の姿にも活気が溢れていた。>  北大植物園には宮部金吾記念館以外にも、重要文化財に指定されている建物が残されています。そのひとつ、明治15年に建てられた博物館本館は、今も現役で、日本で一番古い博物館として有名です。 札幌駅の近くにありながら、広い園内にはハルニレの巨木が立ち、うっそうとした林も残されており、開拓以前の古き札幌の姿がしのばれる都会のオアシスでした。

渡辺淳一『リラ冷えの街』札幌人の正規の東西南北とは?

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渡辺淳一は札幌医科大学医学部を卒業し、1969年までは医学部講師を続けながら、北海道の同人誌に執筆を続けていたこともあり、札幌を舞台とした小説をいくつも書いています。『リラ冷えの街』では札幌の風景が情緒豊かに描かれ、開拓の歴史にまで触れられています。<札幌の駅前通りを南へ下ると歩いて十分そこそこで、薄野の交叉点にぶつかる。ここで電車は左右へ分かれ、一方は豊平へ、一方は山鼻へ向かう。山鼻線は右へ三丁走り、そこで左へ曲がって再び南下する。山鼻はかつて山鼻屯田兵が入植し、開拓したところである。>現在の路面電車線はループ状に走っており、豊平へ向かう線はありません。黄色で示したのが市電の路線で丸く囲んでいる所がすすきの駅です。<今でこそ山鼻も札幌の中心地になってしまったが、明治の頃は札幌本府のあった今の時計台の辺りと、山鼻とは随分かけ離れた存在であった。本府の道は、正規の北へ向けて南北の道路を敷き、それに東西に走る道を交叉させ碁盤模様に造られた。>ここで驚いたのは、札幌に長く住んでいた渡辺淳一が、「本府の道は正規の北へ向けて南北の道路を敷いた」と書いていることです。 たしかに札幌は東西の基軸を創成川、南北の基軸を大通りとして街づくりが進められ、初めて訪れると、その碁盤の目が東西南北と一致しているようにも思われます。 この碁盤の目は、開拓が始まった時幕末の慶応2年に、幕府の開拓御用を命じられた大友亀太郎が、飲み水や水運を確保するために引いた用水路が「大友堀」で、これが後に「創成川」と呼ばれ、札幌都心部の街路の基準になっているのです。上の写真は札幌を東西に分ける基準となっている創成川。最初の地図で青色が東西を分ける創成川、橙色が南北を分ける大通りです。座標の原点になって居るのが地図で赤丸で囲んだテレビ塔です。 さらに渡辺淳一は次のように続けます。<これに対して山鼻村は南北の道路は北極星に向けて造られた。いわゆる地図上の北と、北極星の北とは七度の開きがある。本府側から伸びてきた道路と、山鼻村から伸びてきた道路は開拓が進むに従って接近し、最後に今の南七条辺りでつながった。山鼻電車線が東本願寺の先で軽く屈曲しているのはこのためである。> ここで「地図上の北と北極星の北とは七度の開きがある」と記されていますが、真北と北極星の方角は少しはずれていますが、真北に近く、七度の差はありません。地図の黄色の丸で囲んだ東本願寺前駅で、軽く屈曲しているその方向がむしろ北に近いのです。 考えてみると、札幌の地図は、観光地図をはじめとして、碁盤の目を垂直水平に書いた地図がほとんどで、北の方角が入れられていないのも多くあります。上の観光地図など、北の方角が入っていますが、実際の北は右に7~8度傾いているのが正しく、反対に傾けています。 渡辺淳一はこれらの地図を見て、札幌市街の碁盤の目は東西南北方向にぴったり一致していると思い込んでいたのでしょう。ちなみに京都の碁盤の目は東西南北と一致していますから、江戸時代の人より、1000年以上昔の平安時代の人の方が天文学に優れていたのかもしれません。しかし、少しの角度の違いなど気にしないのは、北の大地に育った人のうらやましい特性でもあります。

阪急沿線フリーク阪田寛夫が大好きだった藤澤桓夫の『新雪』

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『新雪』は、昭和16年から17年にかけて、朝日新聞に田村孝之介挿絵で連載された藤澤桓夫の代表作といわれる小説で、モンゴル語学者の娘、弟子、教師、女医の四人の恋愛模様が、六甲山を背景に描かれています。  翌年、五所平之助監督、月丘夢路主演で映画化されており、小説や映画をご存じない方でも、灰田勝彦が歌う主題歌「♪紫けむる新雪の峰ふり仰ぐ、この心~」はご存知の方が多いのではないでしょうか。  さて真珠湾攻撃直前から始まった連載小説に、当時旧制中学四年生の阪急沿線フリークだった阪田寛夫は毎日読むのを楽しみにしていて、「読む時だけは心が晴れる気持ちになった」と述べています。 阪田寛夫『わが小林一三』からです。<その原因の一つは、阪急神戸線沿線が舞台になっていることで、東京の作家の目ではなく、大阪や神戸という土地の性質を深く知る人が、この町の値打ちにふさわしい光を松林や月見草や家のたたずまいに投射して描き出していると、子供の心にも信じられたからである。> 映画で主演の月丘夢路が演じたのは女医の片山千代ですが、阪田寛夫は、東洋言語学者の父の助手をしている静かな娘保子に思慕の情が集中したと述べ、<心身ともに清楚で、決して露わに出さない美しさと聡明さを備えている理想的な女性が、本当にそのひとらしく美しく生きられる場所は、当時の我が国では阪急神戸線沿線以外にはなかったと、中学生の私はこの小説がもうすぐ終わるころに、かなしくなるほどに確信した。> 美しく理想的な女性が住む場所は阪急神戸線沿線以外にないというまでに阪田寛夫がのぼせた『新雪』がどんなものか、読んでみようと探したのですが、西宮、芦屋の両図書館にもamazonにも在庫はなく、古書もべらぼうに高く、諦めかけていたところ、ようやく大阪府立中之島図書館でみつけ、読ませていただきました。 主人公 蓑和田良太 女医 片山千代 言語学者の娘 湯川保子 ともに六甲駅付近に住んでいおり、そのあたりの夜の風景が、千代が良太の下宿先のタバコ屋に向かう場面で描かれています。<戸外はよい月夜だった。右側から松林の影がくっきりと落ちている白い道を、千代はぶらぶらと歩き出した。少し冷え冷えしすぎる夜気が、千代の若い膚には、却って快いものに感じられた。> この時代、阪田寛夫も述べているように阪神間の風景は、松林と白い道に代表されていたようです。<月かげのなかを仰ぐと、澄み切った夜空にオリオンが砂糖菓子のように光っていた。そして、星を見ていると、千代の心には、孤独感とも幸福感ともつかない切ない感傷が湧き上がってきた。彼女の頭上に煌いている星は、千代に、今日の夕暮れ、駅から蓑和田良太と一緒に戻って来る途中、六甲の山々の上で光り出していた星の色を思い出させるのだった。>このように抒情豊かに描かれた阪急沿線の風景に、少年阪田寛夫の心はどっぷりつかり込んでいたようです。

渡辺淳一『リラ冷えの街』鴨々川を歩く

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渡辺淳一『リラ冷えの街』で、主人公有津京介の妻の妹苑子は中島公園に続く西の一角にある貸家式アパートに住んでいます。中島公園の西側の鴨々川沿いには渡辺淳一文学館があり、その近くに苑子のアパートを設定したようです。写真は早朝の渡辺淳一文学館。今回は時間がなく入場しませんでしたが、建物は安藤忠雄設計です。<電車通りから一丁半入っただけで、車の騒音は消え、静まり返った夜にはアパートの裏手を流れる川のせせらぎが聞えた。> 川の流れは結構早く、せせらぎがはっきり聞こえます。一丁という数え方は今や札幌独特の数え方のように思われますが、札幌市街の1ブロックを指しています。<川の名は鴨々川といい、豊平川の取水口から公園の西を抜け、都心へ出て札幌を分つ創成川となる。川の両岸には柳が茂り、川の彼岸は公園の樹木となり、此岸は大きな邸宅や古い料亭がゆったりとした間合をもって建っていた。この道だけはタクシーより人力車が、エレキより三弦が似合った。川にも道にも、家の構えにも、まだいくらか明治の札幌の名残りがあった。>「鴨々川」の名は、明治期に京都の「鴨川」にちなんで名付けられたそうです。今やビルが立ち並び、明治の札幌の名残を捜すのは難しくなっています。 その鴨々川沿いを下流に向かって歩いていると、とんでもない建物に出くわしました。 玄関には「北の海鮮炙りノアの方舟」と書いてあり、一瞬昔話題になったカルト集団「イエスの方舟」かと思いましたが、関係ないようです。ホームページを読むと、<英国人建築家「ナイジェル・コーツ」が手掛けたこの建物は、石化してしまったノアの箱舟をテーマに建てられ、その奇抜なデザインは建築物としても有名です。店内も英国人アーティストによるギリシャ神話をイメージした壁画や洗練された装飾が並び、まるで異国の地にいるよかのような不思議な感覚へと誘います。> 食べログの評価も3.5点と、高評価。しかし、ここも時間がなくはいれませんでした。 豊平川から分岐した鴨々川は、最後は直線状に札幌市街を東西に二分する創成川となります。<この川沿いの道を苑子は好いていた。函館からでて来て、友達に誘われてこの道を歩いた時から好いていた。日ごとにリトル東京に変貌していく札幌の都市の近くで、ここだけはかすかな抵抗を示していた。> 渡辺淳一がこの小説を書いた30年前と景色はかなり変わっているようですが、それでもまだ情緒が感じられる川辺でした。

日本最北端の旭山動物園へ

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今回は文学散歩ではありませんが、いつか行ってみたいと思っていた旭川市の旭山動物園を訪ねました。 旭川市の人口はわずか36万人で、札幌からバスで2時間40分という距離ですから、不利な立地条件で、2004年7月と8月の入園者数が、東京の上野動物園を抜き、私が訪ねた現在も多くの入園者を集めており、驚くべき集客力です。 一時は閉園の危機に陥った旭山動物園が日本一の動物園になった道筋は、TVでも紹介されましたし、旭山動物園園長小菅正夫著『旭山動物園革命 -夢を実現した復活プロジェクト』に詳しく述べられています。<「人生で動物園に三回行く」一般的に、動物園に行く機会は、人生のうちで三回あると言われる。一回目は、自分が子供のとき親に連れられて、二回目は自分がおやになったとき子供を連れて。そして三回目は自分がおじいちゃん、おばあちゃんになったときに孫と一緒に。> しかし今回は孫を連れて行ったわけではありません。少子化の時代、大人も動物園に呼ぶ秘訣は?<私たちは考えた。動物たちの素晴らしさがお客さんに伝わる動物園とは、どんな施設だろうか。何度も足を運びたくなる動物園にするにはどうしたらいいのか。子どもだけではなく、大人になっても行きたいと思うような動物園とはどんなところだろうか、と。> その答えは「見せ方の工夫」であり、決して曲芸をさせるわけでなく、動物にとってもっとも特徴的な能力を発揮できる環境を整えることである、としています。 動物園は旭日山の斜面にあり、立地条件はいいものではありませんが、とにかく中に入ってみましょう。<ペンギンはただ歩かせると人間より遅いし、ヨチヨチ歩きで、どことなく頼りない。しかしいざ水中に入ると、驚くほどのスピードで、まるで空を飛んでいるように泳ぐ。ペンギンは空を飛べない鳥の代表だが、水中トンネルではやはり鳥類なんだなと改めて納得する。>頭の上を、空を飛ぶように泳いでいくペンギンの姿は壮観でした。<アザラシは泳ぎが上手い。あざらし館の透明な円柱トンネル(マリンウェイ)では、その秘密がよくわかる仕組みになっている。これまでの動物園では、アザラシは水槽の上からしか見えることができなかったので、どのように泳いでいるのかがわかりにくかった。しかし円柱トンネルをつくることで、360度、あらゆる角度からアザラシが泳ぐ姿を観察できるようになったのである。>これも説明通り、円柱トンネルを泳ぐアザラシを間近に見ることができました。 もっと驚いたのはカバの生態です。カバは一日の多くの時間を水中で過ごしているそうで、泳ぐ姿と水中の機敏さは、まるでアザラシのようでした。素早い動きで、うまく写真が撮れていませんが、足でガラスを蹴って向こうに泳いでいく後ろ姿です。オランウータンの姿も楽しく見せていただきました。<こうしたそれぞれの動物の持つもっとも特徴的な動きなどを見せる展示の仕方を、「行動展示」と名付けた。参考のために記すと、動物の姿形で分類して、おもに檻に入れて展示するという従来からある展示方法を「形態展示」、動物の生息環境を園内に最大限再現して展示する方法を「生態的展示」と呼ぶ。> この行動展示を行うことで、動物がイキイキするそうです。そして、イキイキする動物を見ることで、人間小の側も嬉しくなり、元気になることもわかったと述べられています。 園内の景色も北海道らしく白樺が美しく、ナナカマドの樹も赤い美しい実をつけていました。 今回は札幌起点ととし、朝9時に出かけ、戻ったのは6時ごろでしたが、イキイキした動物の姿を見せてもらって、元気になって帰ってきました。

阪田寛夫が述べる人文的世界の「阪急沿線」とは

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阪田寛夫は『わが小林一三』で、少年時代の阪急沿線への憧憬を述べています。<もし小林一三がいなかったら、いたとしてもここまで書いてきたような運に彼がめぐり逢わなかったとしたら、私の歳に近いか、もっと上の年代の上方生まれの人間は、自分たちにとっては確固とした人文的世界である「阪急沿線」というものを、ついにこの世に持たずに終わったことであろう。> 阪急沿線開発は良しき悪しきにつけ小林一三の発案により、進んだことは間違いなく、阪田寛夫が、当時「人文的世界」とまで述べるほどに成熟した風景を形成したと言っても過言ではないかもしれません。<それが日本文化にとってどんな意味があるかは判らないが、かつて阪急神戸線の西宮北口あたりから六甲山系沿いに神戸の東の入口まで、また西宮北口まで戻って直角に同じ六甲山脈を今津線で東の起点宝塚の谷まで、そして宝塚からは宝塚線で北摂の山沿いに大阪に向かって花屋敷から池田、豊中あたりまで、その線路より主として山側の、原野であった赤松林と花崗岩質の白い山肌・川筋にまるで花壇や小公園や、時には箱庭をそのまま植え込んだような住宅街が、ある雰囲気を持って地表をしっかり掩っていた。今から四十年以前のお話である。>『わが小林一三』の初版発行が昭和58年ですから、四十年以前とは昭和10年代の阪急沿線を指しています。阪田寛夫はその頃、既に開発が進んでいた、西宮北口―神戸間、西宮北口―宝塚間、宝塚―豊中間の風景を称賛しています。<長い長い立体的で緑色の休憩地―これまでの日本にはまだなかった、何と名付けてよいかわからない宙に浮かんでいる匂いのいい世界を、この地上にかたちづくって来たように思われる。昭和でいえば十年代半ば頃まで、筆者の私が大阪市内の小学生・中学生だった時分は、恐らく日本中のどこにも、これほど自然と人工の粒のそろった美しい住宅地はないと確信していた。> これほどまでに称賛された風景ですが、今やどんどん宅地開発が進み、「立体的で緑色の休憩地」とは呼べなくなるほど、緑が失われてきました。ニテコ池の周りの緑も伐採されマンション建設が進んでいます。

昭和11年の井上靖が暮らした香櫨園

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井上靖は『闘牛』、『あした来る人』、『貧血と花と爆弾』、『昨日と明日の間』など数多くの作品で、高級住宅地として香櫨園を登場させています。しかし、井上靖が香櫨園に住んだのは昭和11年から12年にかけての僅か1年間でした。井上靖略年譜を見ると、昭和10年 28歳京都帝国大学名誉教授、足立文太郎の長女・ふみと結婚昭和11年 29歳京都帝国大学卒業、「流転」により第1回千葉亀雄賞を受賞、大阪毎日新聞社に入社昭和12年 30歳軍隊に召集され、中国の北部各地に駐屯となっており、大阪毎日新聞入社から軍隊に召集されるまでの新婚の1年間を、香櫨園で暮らしたのです。 香櫨園で暮らした経緯について、夫人の井上ふみ著『やがて芽をふく』に詳しく述べられていました。<昭和十一年八月一日付で毎日新聞大阪本社の『サンデー毎日』に入社することになったので、私たち家族は会社の近くに引っ越すことになった。子供の頃から一番面倒をよくみてくれて、私が好きであった従兄の世話で、そのすぐ近くの西宮市香櫨園に引っ越した。 材木屋のご隠居の住居であったというその家は、さすがにしっかりした建物であった。玄関と八畳、四畳半、それに台所、その隣に三畳のお手伝いさんの部屋があった。>井上靖が暮した川添町の家は、「西宮歴史資料写真展」にも展示されていました。<家の前に広い空き地があって、子供たちが野球の練習をしていた。海が近くて、靖は休日などには、赤ん坊を抱いてよく散歩に行った。>井上靖が川添町に住んでいた昭和11年の鳥瞰図です。黄色の矢印のところですが、現在とは違い、家の数もまばらで、家の前は広い空き地だったようです。 鳥瞰図に描かれている夙川沿いの松並木を、生まれて間もない赤ん坊を抱いて香櫨園海水浴場のあたりまで散歩したのでしょう。<そうした昭和十二年八月末、靖は赤紙を受け取った。長女幾世が這っていた。思い出に残る日である。何はともあれ、靖は三日後には、本籍のある郷里の伊豆湯ヶ島に戻らなければならない。靖の両親は、まだそこに元気で住んでした。 私も幾世を連れて、足立の母と湯ヶ島へ行って靖を送りだした。すぐまた戻って、この西宮の家を引き揚げ、靖の留守中は京都の実家で過ごすことになった。> 僅か一年で離れざるをえなくなった香櫨園ですが、新婚早々住んだ土地は忘れがたかったのでしょう。井上靖の小説には何度も登場しています。

阪神間で話される言葉は?

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阪神間は転勤族が多いせいか、標準語を話す人が多く暮らしています。田中康夫も『神戸震災日記』で、震災後のボランティアにスクーターで物資を配給していたときのことを、次のように語っています。<僕は夙川地区のこうした家屋も一軒一軒、御用聞きの様に訪れることを心掛けた。が、初期に下着や水を、中期に化粧水を差し出しても、直ぐには受け取ろうとしないのだ。けんもほろろに無視する態度ではない。その逆だ。阪神間の中でも最も“標準語”に近い言葉遣いする夙川の人々は、なべて慎み深く、「いえ、私などより、もっと困っている方に差し上げて下さい」と最初は遠慮するのだった。> 昭和十年代、阪急沿線の風景に憧れていた阪田寛夫は、六甲山系の南斜面に住む人々について次のように想像を巡らせます。『わが小林一三』からです。<すると心が一層迫ってきて、灯火がともり始めた谷間や丘の窓硝子という窓硝子の内側に、どうしてもスリッパを履いた美しく聡明な少女が愁い顔に立っていると信ぜざるを得なくなるのである。> このあたり、中原淳一の世界の様になってきます。更にそこに住む人々について、<筆者の想像に於いては、彼らは衣食を大阪よりは神戸の外人街に依存した。令嬢や夫人の服や外套の仕立ては香港や上海で年季を入れた中国人裁縫師に限るし、味噌汁や大根漬けの代りにパンやチーズを求める先は神戸トアロードのドイツ食料品店に限られるのであった。そしてその口より発する言葉は口臭に汚れた我々の大阪弁ではなく、匂いのいい紙石鹸のような標準語にほかならぬと思われた。>と「匂いのいい紙石鹸のような標準語」を話すとしているのです。(大正2年に阪急電鉄が、郊外住宅を勧める『山容水態』) この時代、阪神間に住んでいたのは、谷崎松子さんや河野多恵子さんのように、郊外生活を求めて煤煙に覆われた大阪から移ってきた家族が殆どでしたから、実際は船場言葉だったのでしょう。しかし、六甲山系の南斜面に開けた街の美しさに心惹かれた阪田寛夫は次のように述べています。<公卿家族や殿様華族、維新の元勲や陸軍大将はおろか、高級官僚さえ一人も住んでおらず、大政治家も、大学者も、大僧正もいなくて、当時実業家と名前を変えつつあった商人が住み手の大部分であった住宅地が、それでいて、-いやそれ故にと、今は思うのだが、少年時代の私には、大阪弁や神戸弁を話す当たり前の人間がそこに住んでいるとは到底思い及ばなかったほどに、豊潤な顔立ちと、心ばえの街に育っているのだ。> 小林一三が開発を進め、形造った街の姿を称賛しているのですが、どうも阪田寛夫には高貴な人は大阪弁や神戸弁は話さないものだという、劣等感に似た思いがあったのではないでしょうか。でも関西弁の私にはよく理解できます。

カズオ・イシグロが小説の書き方を学んだ「創作科」とは

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ノーベル賞を受賞したカズオ・イシグロは6歳で渡英、ケント大学で英文学と哲学を専攻し1978年卒業、ミュージシャンを目指し、ソーシャル・ワーカーとして働きながら執筆活動を始めたそうです。Ishiguro as singer-songwriter in his early twenties(1977) その後、1980年にイースト・アングリア大学大学院の創作学科に入学し、小説を書き始め、1989年に『日の名残り』でブッカー賞を受賞し、一躍小説家としての名を成しました。「創作科」については、「大学で小説の書き方などが学べるのか?」という批判もあったそうですが、創作学科(creative writing course)で学んだことがイシグロの文体に大きく影響し、ノーベル賞受賞に役立ったことは間違いないでしょう。  この「創作(creative writing)」について学ぶことが小説を書く上で不可欠だったと述べているのは、同じく日本生まれで神戸女学院高等部卒業まで西宮・芦屋に住んでいたキョウコ・モリです。12歳の時母の自殺がきっかけで、渡米し、ウィスコンシン大学の創作科(creative writing)で修士号、博士号を取得。1993年に初の小説『シズコズドーター』を発表し、「ニューヨークタイムズ」紙年間ベストブックに選ばれています。日米の文化の差を綴った『悲しい嘘』で、次のように述べています。<文章の勉強をするには、アメリカの大学へ行くしかなかった。日本の大学では、日本語であれ英語であれ「創作」などというものは教えていなかったから。いまでもそれは変わっていないようだけれど。いったい、日本の作家たちはどうやって書くことを身につけていくのだろう。ほとんどの人たちは、わたしと似たような教育を受けて育ってきたはずなのに。>確かに芥川賞を受賞した又吉直樹は、どのようにして書くことを身につけたのでしょう。才能でしょうか。<ものを書く力というのは、ひと握りの選ばれた人間にだけ与えられた「生まれつき」の才能ではない。アメリカのわたしたちの世代の作家には、独学だけでやってきた人はほとんどいないだろう。創作や現代文学を教えてくれるクラスがなかったら、きっとみんな誰の本をどう読めばいいのか、その形式や内容のどこに着目すればいいのかわからなかったに違いない。じょうずな会話の運び方や、話をスムーズに展開させる方法、無駄をはぶきながら人物を生き生きと描き出す方法も教えてもらってよかった思う。> 又吉のような才能がなくても、創作を学ぶことで、凡人にも小説が書けるようになるのでしょうか。 さて日本では「創作」については、教えていないのかというと、近年はそうでもないようです。 芥川賞選考委員でもある西宮市在住の小川洋子さんは、早稲田大学の文芸科で創作について学ばれており、『物語の役割』「私が学生だったころ」で次のように述べています。<私は二十数年前、大学で文学を学ぶ学生でした。学科は文芸科といって、詩や小説や戯曲や評論などを研究するだけではなく、実作を目指すという、今はあちこちの大学にできていますが、当時は珍しい学科でした。最初は、文学の書き方を大学で教えられるのかという批判的な見方もされていたようですが、私自身は文芸科に進んでよかったと思っています。その理由はまず、日々の授業の中で、常に新しい、先頭に立っている文学に触れたことです。> 小説など教えられて書けるようになるとも思えませんが、創作を学ぶことは文章を書く力を向上させるのは間違いないでしょう。私もどこかで学びたくなりました。

大江健三郎『日常生活の冒険』で紹介されたゴッホの詩

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日本のノーベル文学賞受賞作家の大江健三郎の小説に『日常生活の冒険』という本があります。出版元の解説には、『このおよそ冒険の可能性なき現代をあくまで冒険的に生き、最後は火星の共和国かと思われるほど遠い見知らぬ場所で、不意の自殺を遂げた。二十世紀後半を生きる青年にとって冒険的であるとは、どういうことなのであろうか? 友人の若い小説家が物語る、パセティックな青春小説』と述べられています。 この小説で、主人公の斎木犀吉が「ぼく」におしえたゴッホの詩が重要な役割を果たしています。<ゴッホがアルルから出した弟あての手紙に次のような詩が書き込まれていることをごぞんじでしよう。それは仲の悪かったモーヴという親戚の死を悼んでの詩だ。死者を死せりと思うなかれ生者のあらん限り死者は生きん 死者は生きんぼくはこの詩を斎木犀吉におしえられたのだった。> この詩は大江健三郎が翻訳したもので、詩の意味は、『死者を死んだものと思わぬことだ生きている者がいる限り死者はその心の中で生きつづける』というものです。 驚いたことに、その詩をゴッホに心酔していた夙川パボーニの画家、大石輝一が石板に刻み、芸術の園「三田アートガーデン」に掲げていたのです。上の写真は現在の姿で、右側の石板にゴッホの詩が刻まれています。 大江健三郎は『日常生活の冒険』を昭和38年『文学界 』に連載.し、昭和39年に単行本が発刊されました。ゴッホに心酔していた大石輝一はそれを読んで、石板に刻み、昭和40年にアートガーデンに掲げたのでした。その時の写真が残っていました。 晩年に大石は画家の枠を超えて、南仏アルルの風景に似た三田市の開拓村に芸術の園アートガーデンの建設に邁進しました。開拓村の小高い丘には「タラスコン街道の画家」に描かれたゴッホの姿そっくりの大石が現れ、地元の人から「ゴッホ現る」と言われたそうです。夫人の大石邦子さんがゴッホの人形を作っていました。堂島のカーサ・ラ・パボーニでは10月28日(土)まで「パボーニでゴッホの顰みに倣う展」を開催中です。

大江健三郎はゴッホの「花咲く桃の木」を巴旦杏と勘違い?

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大江健三郎『日常生活の冒険』ではゴッホの「花咲ける木」が、ゴッホの詩とともに重要な役割を果たしています。<ぼくは、この詩を斉藤犀吉におしえられたのだった。かれは芸術家の仕事に対してセンチメンタルな偏愛をしめしたりする青年ではなかったが、ゴッホの≪花咲ける木≫という絵については特別だった。アルルの涙ぐましい初春の空のもと、雪の残っている畑の一本のハタンキョウの木に花が咲きにおっている。> ハタンキョウ(巴旦杏)とはアーモンド(almond)あるいはスモモ(plum)を意味します。 ゴッホが描いた有名なアーモンドの絵は、南フランスの精神病院で療養していた時、パリに住んでいた弟テオに子供が生まれたのを祝って制作した『花咲くアーモンドの木の枝』(Almond Blossom)。 他にもゴッホが描いたアーモンドの木の絵はあります。『花咲くアーモンドの木』(Almond Tree in Bloom)1888 Van Gogh Museum, Amsterdam が、大江健三郎が述べている「花咲ける木」と思ったのですが、以下の文章を読むとどうも違っているようです。<この絵にはモーブの思い出という言葉が書きつけてあるのだが、そのモーヴ、従姉の夫の死にあたって画家は短い詩を書いた手紙と一緒にこの絵をその未亡人に送ったのだ。斎木犀吉は彼のアパートの壁にこの絵の複製をかけていた。ヨーロッパへ発つまえに、彼はアルルにも行ってみるつもりだといっていたが、彼は花咲いたハタンキョウの木をみただろうか?死者を死せりと思うことが、不可能な場合がある、そのような時、生者のあらん限り、死者は生きん、死者は生きん…> 絵の左下に「モーヴの思い出に フィンセント」と書かれて絵を見つけました。「花咲く桃の木」Pink Peach Tree in Blossom (Reminiscence of Mauve)まさに大江が「アルルの涙ぐましい初春の空のもと、雪の残っている畑の一本のハタンキョウの木に花が咲きにおっている」と書いている通りの絵なのですが、「ハタンキョウ」ではなく桃の木(Peach Tree)なのです。 そもそもフランスに桃があるのかというのが疑問だったのですが、フランスでは桃はとても種類が豊富で、夏から秋にかけて、マルシェで見ない日はないほどポピュラーな果物だそうです。 ここまで調べるとPeach Treeに間違いないと思うのですが、大江健三郎『日常生活の冒険』で、斎木犀吉は犀吉の部屋でゴッホの複製画を見ている「ぼく」に次のようにハタンキョウと説明しているのです。<「知ってるだろう?≪花咲ける木≫という絵だ、アルルの春のはじめの咲いたばかりのハタンキョウだよ、雪が地面にのこっているだろう?ゴッホは従姉の夫のモーヴという俗物と喧嘩していたんだが、そいつが死んだとき、モーヴの思い出のために、と書きこんで、あのとてもきれいな絵を従姉におくったのさ。従姉もモーヴもゴッホの絵の美しさなんかばかにしていた筈なんだがなあ。ゴッホは夢中になって悲しんで、自分の弟には死んだモーヴを悼む詩まで書いておくったのさ」> ゴッホはハタンキョウ(Almond)と桃(Peach)のよく似た2種類の木の絵を描いていますが、小説に登場する絵は、明らかにPeachなのです。上の写真はアーモンドの木 しかし、なぜ大江はそれをハタンキョウとしたのでしょう。「ハタンキョウ」という言葉が小説にはしっくりするので、故意に桃をハタンキョウとしたのかもしれません。ところで11月3日封切りの『ゴッホ~最期の手紙~』は「ゴッホの死の謎に迫る、全編が動く油絵で構成された圧巻の体感型アートサスペンス映画」と紹介されており、期待が持てそうです。

阪田寛夫にとっての阪急電車と宝塚

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 童謡「サッちゃん」で知られる詩人で、芥川賞作家、そして宝塚歌劇団のトップスター大浦みずきの父でもある阪田寛夫は、小林一三と阪急電車の大ファンでした。 エッセイ集『わが町』の最初は「宝塚」。そこで阪急電車を尊敬していたと真面目に述べています。<阪急電車というものを、私は何となく尊敬していた。クラスが分かれて野球試合をする時、私はいつも「阪急軍」に入った。その頃の「阪急」には宮武投手や山下実外野手がいた。私の家は大阪市の南端、阿倍野にあった。ここはむしろ南海電車の勢力分野である。このあたりはもと田圃やれんげの咲く野原に恵まれていたが、私の少年時代に既に市街化がはじまった。商店街を兼ねた長屋が、緑をつぶして日に日に精力的に建てこみはじめた。> 熱烈な阪急電車ファンであったことは、『わが小林一三』でも述べています。<昭和十年を前後する時代に、私の通っていた大阪市内の南海電車沿線の小学校でも、阪急電車は速力と、海老茶色に統一された鋼鉄製車体と、野暮な装飾など一切無い機能的で重厚な内装によって、私鉄電車品定めにおける人気は抜群だった。「一回乗っても南海電車」「全身乗っても阪神電車」「特急に乗っても阪急電車」こんなことを言い合いながら互いにひいきの電車の自慢をしては……>関西の小学生らしい発想とギャグです。上の写真は小林一三の作った有名な新聞広告。『わが町』「宝塚」に戻ります。<これにくらべると、阪急沿線の六甲山麓地帯は誇り高い美人の顔のようなものであった。花崗岩質の山が暁方は茜色、夕方は紫に染まり、松林の奥の住宅街は、容易に俗塵を近づけぬ癇の強さを示さずにはおかなかった。 しかし、とりわけ私が阪急沿線を尊敬した理由は、そこに宝塚少女歌劇団があったせいである。> 阪田寛夫は武庫川を渡る阪急電車、そしてタカラヅカに憧れる小学生でした。 そのクラスの三分の二はタカラヅカファンであったと述べていますから、当時は男子小学生のファンも多かったのでしょうか。 さらに、仁川の林間学舎へ行ったときは、ヨッちゃん(春日野八千代)の家まで押し掛けたことが楽しそうに語られていました。

苦楽園にあった山口誓子旧居

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戦後の現代俳句を牽引した山口誓子は1901年京都市に生まれ、1922年高浜虚子と出会い師事します。東大を卒業後、大阪住友合資会社の本社に入社しましたが、胸部疾患が悪化し、1942年に勤続16年目で退社しています。「自叙伝」によりますと、太平洋戦争の始まった1941年に病気療養のため伊勢に移り、その後伊勢湾沿岸を転々としましたが、1953年の伊勢湾台風で被害を受け、苦楽園五番町に移ります。 その後山口誓子が亡くなるまで住まれていた苦楽園の住居は阪神・淡路大震災で倒壊し、現在そこには句碑と記念碑が建てられています。(航空写真の黄色く囲んだ位置です) そして苦楽園の住居について、次のように述べていました。<私の現在住んでいるところは、兵庫県西宮市苦楽園五番町である。海抜百メートル、南面し。六甲の東の外れの山が三百メートルの低さとなって背後に屏風を立てている。夏は涼しく、冬は暖かい。私はここに住んで十年余、健康になった。>この旧居は2001年に神戸大学文理農学部キャンパスに移設、数寄屋造りの母屋の面影をほぼ忠実に復元し、山口誓子記念館として公開されています。10月20日まで山口誓子特別展「誓子と海 -神戸開港150年によせてー」が開催されており伺いました。記念館の内部も見せていただけます。誓子は住居について次のように述べています。<私の今住んでいる家は、昭和のはじめに旅館だったから、横山大観も来て、座敷で大きな絵を描いたそうだ。しかし私は大観のことは思わず、常に茂吉のことを思う。湯川秀樹も阪大助教授時代に苦楽園の終点の近くに住んでいた。とある夜明けに中間子理論を着想したのだ。苦楽園は芸術の山であったと同時に、ノーベル賞の山であった。>横山大観も来たという元旅館だけあって、立派な住居でした。庭も綺麗に整えられています。残念ながら訪問した日は、雨で煙っていましたが、晴れた日は大阪湾まで見晴らせそうです。

有島武郎が描いた札幌農学校と時計台

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札幌は何度も訪れているのですが、今回初めて日本3大がっかり名所の一つと言われている札幌時計台を訪ねました。 きっかけは有島武郎が晩年取り組んだ未完の大作『星座』が明治時代の札幌農学校を舞台にした作品で、時計台の様子も描かれていたからでした。 がっかりの理由は、現在の時計台が、あたかもバージニア・リー・バートンの『ちいさいおうち』の1シーンのように、高いビルに囲まれた場所にあり、広々とした「北海道的風景」をイメージしていた観光客は、その小ささにがっかりするとのことですが、行ってみると、夜景は美しく、中に入ると展示も充実したものでした。 有島武郎は明治 29年(18歳)、札幌農学校予科に編入学し、母方の伯父である札幌の新渡戸稲造教授宅に寄宿しています。明治 34年(23歳)農学校卒業のとき、日記に「我が真生命の生まれし故郷は札幌なりき」と、農学校の5年間が生き方に決定的な影響を与えたことを記しており、その経験が『星座』を著わすきっかけになったようです。『星座』は、札幌農学校を舞台に繰り広げられる青春の物語で、著者自身の同校での体験をもとに描かれた作品と言われています。 園は、時計台の梯子を登って機械室まで行きます。<段と段との隔たりが大きくておまけに狭く、手欄もない階子段を、手さぐりの指先に細かい塵を感じながら、折れ曲り折り曲りして昇るのだ。長い四角形の筒のような壁には窓一つなかった。その暗闇の中を園は昇っていった。何んの気だか自分にもよくは解らなかった。左手には小さなシラーの詩集を持って。頂上には、おもに堅い木で作った大きな歯車はぐるまや槓杆(てこ)の簡単な機械が、どろどろに埃と油とで黒くなって、秒を刻みながら動いていた。>時計台の構造を示す展示がありました。園はこの梯子段を登ったのです。<四角な箱のような機械室の四つ角にかけわたした梁の上にやっと腰をかけて、おずおず手を延ばして小窓を開いた。その小窓は外から見上げると指針盤の針座のすぐ右手に取りつけられてあるのを園は見ておいたのだ。窓はやすやすと開いた。それは西向きのだった。そこからの眺めは思いのほか高い所にあるのを思わせた。じき下には、地方裁判所の樺色の瓦屋根があって、その先には道庁の赤煉瓦、その赤煉瓦を囲んで若芽をふいたばかりのポプラが土筆草(つくし)のように叢(むら)がって細長く立っていた。>現在は二階で、実物大の時計が展示されています。建設当時の札幌農学校、時計台の模型と写真がありました。現在の時計台は、オリジナルの位置から1ブロックほど移動しています。上側を北にした現在の航空写真。黄色の四角で囲んだ部分が、札幌農学校の敷地、中心の黄色の丸く囲んだ所が、元の時計台の位置です。明治22年の地図にも札幌農学校、地方裁判所、同庁の位置が書かれていました。 従って園が機械室の西側の窓を開けると道庁の赤煉瓦が見えたのも頷けます。 時計台の鐘の音の美しさは次のように著されています。<札幌に来てから園の心を牽きつけるものとてはそうたくさんはなかった。ただこの鐘の音には心から牽きつけられた。寺に生れて寺に育ったせいなのか、梵鐘の音を園は好んで聞いた。上野と浅草と芝との鐘の中で、増上寺の鐘を一番心に沁みる音だと思ったり、自分の寺の鐘を撞きながら、鳴り始めてから鳴り終るまでの微細な音の変化にも耳を傾け慣なれていた。鐘に慣れたその耳にも、演武場の鐘の音は美しいものだった。>訪ねた時、丁度正午の鐘を聴きことができました。<時計台のちょうど下にあたる処にしつらえられた玄関を出た。そこの石畳は一つ一つが踏みへらされて古い砥石のように彎曲していた。時計のすぐ下には東北御巡遊の節、岩倉具視が書いたという木の額が古ぼけたままかかっているのだ。「演武場」と書いてある。>岩倉具視が書いた「演舞場」の文字は夜のライトアップの方が良く見えました。 『星座』はもともと大正10年に発表された「白官舎」という作品を書き足したもので、構想としては四部作、あるいは五部作にまで及ぶ大長編小説になる予定だったそうです。残念ながら完成する前に、当時中央公論者の記者だった波多野秋子と心中してしまい、第一部で終わっていますが、それでも十分楽しめる小説でした。

白神喜美子『花過ぎ 井上靖覚書』

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産経新聞の石野伸子さんの講演「阪神間ゆかりの作家たち」で、教えていただいた面白い本が白神喜美子著『花過ぎ 井上靖覚書』。著者は井上靖が毎日新聞大阪本社学芸部副部長のとき、「サンデー毎日」編集部にいた女性。その内容は、<文豪のめざましい活躍の陰に、その人のために身を捨てて尽くした愛の女性があった。が、ついに別れの日が来て彼女は静かに去る…。三十余年の沈黙を破り、いましずかにその人のことを語る。>という、井上靖の死後2年を経て上梓された、いわば暴露本です。 たしかに井上靖の小説には不倫をテーマにした作品がいくつかあります。そのひとつが『猟銃』で、主な舞台は芦屋市、西宮市です。 内容は「1人の男性への3人の女性(不倫相手・男性の妻・不倫相手の娘)からの手紙」を通して、4人の男女の4者4様の複雑な心理模様を描き切った恋愛心理小説」。昨年は中谷美紀主演で舞台化もされました。 実業家・三杉穣介の不倫相手彩子のモデルは、井上靖の茨木時代の一時期深い関係にあったT夫人。『猟銃』の中の、“みどりの手紙”に使われている短歌、「いかにしておはすらむものか寄らばもしたかき静謐(しじま)の崩れむものを」の作者だったそうです。<これは昨年の秋、書斎にいらっしゃる貴方の事を思って、その時の気持ちを歌の形に綴ったものであります。>(『猟銃』) さらに、彩子の手紙(遺書)に、三上穣介と天王山の紅葉を観に行ったことが述べられています。<時雨に現れた山崎の天王山の紅葉の美しさは今も私の目にあります。どうしてあんなに美しかったのでしょう。私たちは駅前の有名な茶室妙喜庵の閉ざされた古い門の屋根の下で時雨をやり過ごし乍ら、駅の直ぐ背後から急な勾配をなして大きく眼の前に立ちはだかっている天王山を見上げて、思わず二人ともその美しさに息を呑んだものでした。>写真は茶室妙喜庵。 ここで使われた名セリフを語ったのは、『花過ぎ』では、T夫人であると述べられています。<こんな美しい天王山の紅葉を見たのは貴方と僕と二人きりです。二人きりで同時に見てしまったのです。もう取り返しはつきません…… と、「猟銃」で三杉穣介が言ったことになっているが、茶碗に執着とか、紅葉を二人で見て仕舞ったと言ったのは、T夫人であると彼から聞いている。 彼より幾つか年上で、恵まれた環境の人妻。エキセントリックな感性と才気。彼が強く魅せられたのは解る。> 井上靖とT夫人の終幕は、夫人の夫君の南国への栄転だったそうで、夫人が去って間もなく、白神喜美子は井上靖と出会うのです。『猟銃』は文章の美しさが際立ちますが、やはり実体験がなければあのような名文は書けないのでしょうか。

夙川べりにあった須田克太旧宅を訪ねる

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洋画家・須田克太は司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』の挿絵を担当し、また取材旅行にも同行しました。司馬遼太郎『街道をゆく(5)モンゴル紀行』で、日の出を見て感激した須田克太が、司馬遼太郎が寝ていたパオの扉をたたき、散歩に出る場面があります。<「朝日が、昇っています」と、訪問者の須田画伯が、息をはずませてそう言った。須田さんは、ひとに物事を押し付けることのまったくに人なのだが、朝日の昇るのをみて、遣り場に感動してしまったらしい。これだけはご覧にならないといけません、と言ってくれた。> そしてパジャマ姿のままの司馬遼太郎を誘って散歩にでます。<須田画伯は、どんどん歩いてゆく。モンゴルに来たから歩くのではなく、西宮の夙川の土手下に住む氏の日常がそうで、毎日、朝、五時すぎに起床し、六時から夙川の堤の上の桜並木の道を、六甲山にむかって半里ほど歩くのである。その習慣を、モンゴルに来ても保持しているだけで、ただ寝巻で歩いているだけが、日常と違っていた。> 須田克太は夙川の堤を朝六時から六甲山にむかって歩いていたと述べられていますが、須田克太の自宅兼アトリエは夙川橋のたもとにありました。上の航空写真の黄色く囲んだ場所で、かなり広い敷地でした。訪ねてみると、そこはビルが2つも建てられていました。生前、須田克太はこの夙川べりを苦楽園口辺りまで、毎朝散歩していたのでしょう。 須田克太は、ここで絵画教室を開き、近所の子供たちに絵を教えていましたが、その中の一人に村上春樹がいました。『村上さんのところ』からです。< 僕が小さい頃(たぶん小学校の低学年だったと思いますが)、須田剋太さんという画家が近所に住んでおられました。司馬遼太郎さんとよく一緒に仕事をしておられたとして有名な方ですが、子供がお好きだったようで、おうちの離れに子供を集めて絵画教室のようなものを開いておられました。僕はそこに行って、絵を習っていました。というか、みんな好きに絵を描いて、それを須田さんがにこにこと「これはいいねえ」とか「ここはこうしたら」とか感想を言うというようなところでした。とても良い方だったと記憶しています。僕が須田さんから受けたアドバイスは、「ものを枠で囲うのはよくないよ。枠をはずして描きなさい」というものでした。なぜかそのことだけを今でもはっきり覚えています。なかなか楽しかったですよ。夙川のわきにある洒落た洋風のお宅でした。>須田克太邸跡地にはまったくその面影は残されていませんが、前の歩道には、上のような掲示板があり、ポスターが貼られていました。B1F 須田克太記念館と書かれていましたので、覗いてみましたが、現在は駐車場になっていました。 西宮の街にこのような文化人の足跡がほとんど残されていないのは、残念でなりません。

鴨居羊子と香櫨園公設市場をアジトにしていたのら猫たちとの語らい

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下着デザイナーとして時代の寵児となった鴨居羊子は、デザイナー、画家として活躍する傍ら、文筆活動にも才能を発揮し、魅力的なエッセイを数多く残しています。その一作が『のら猫トラトラ』で、舞台は香櫨園です。 鴨居羊子は豊中市生まれですが、新聞記者時代から香櫨園に住み、昭和33年には森具に小さな家を買い、昭和43年芦屋に移るまで香櫨園附近に住んでいました。『のら猫トラトラ』には鴨居羊子自筆の「昭和30年頃の香櫨園附近」の絵地図が掲載されています。最初の章で、自らケモノ好きという鴨居羊子の、のら猫たちとの出逢いが書かれています。<ずっと昔、もう二十年も前のことなのに、とてもそうは思えない。私は家から市場の裏路地を通って新聞社へ通っていた。いまでも家は隣町に変わったが、ときどきその市場の裏道を通るので、あれからはや二十年もたったとは思えない。この裏路地で私はいろんな猫たちと友達になっていた。そういえば、その猫たちは、とっくの昔にこの世から姿を消している。やっぱり二十年もたってしまったのだ。> 絵地図にある香櫨園公設市場といのは、いつまであったのでしょう。現在の阪神電車は高架になっており、周りには空き地もなく、マンションが建ち並び、当時とはまったく違った風景になっています。鴨居羊子の絵地図を頼りに、阪神香櫨園駅から歩いてみました。しばらく『のら猫トラトラ』から続けます。

鴨居羊子がのら猫トラトラと出逢った香櫨園公設市場

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 鴨居羊子は動物と話すことができたそうですから、のら猫を馴らすのはお手の物だったようです。その秘訣も『のら猫トラトラ』で述べられています。<香櫨園市場の裏路地ではいろんな猫がいた。うす汚れた少しピンボケの虎縞の野良猫が線路わきの柵の上でいねむりをしている。猫をならすときは、猫と同じような動きが肝心だ。猫の動きはその猫毛のように繊細で軽妙で独特の曲線と粘りがある。したがって、猫を指先でおびきよせるその手つきも、猫的に猫の動作に合わせなければならない。> 香櫨園市場は屋敷町にあり、航空写真の黄色で囲んだ一角にありました。昭和36年の住宅地図で確認すると43店舗もあったようです。 香櫨園市場の裏路地と書かれていますが、現在は2車線の広い道路に整備されており、阪神も高架になっていますから、線路わきの柵(枕木の柵だったのでしょう)もなく、面影は残っていません。きっと昭和30年代は、市場と線路の間の道は舗装もされていない路地だったのでしょう。 上の写真が昭和30年代には香櫨園市場の裏路地だった道路です。現在はこの道路に面して、HANA HANAというお花屋さんがありましたが、香櫨園市場があった頃からのお花屋さんでしょうか。さてのら猫の馴らし方に戻りましょう。<子供のくるくる回す指先にトンボが目をまわすように、私の指先の猫的リズムに、奇妙なことに、なんとなく猫は暗示にかかって、私にすり寄ってきた。犬を馴れさすよりも、ひそやかな喜びがあった。ピンボケの虎縞は片目を細めて、片目はあけたまま、ここいらが猫的である。次第にゴロゴロという。この猫はその模様がピンボケのように、割合間の抜けた猫で、いろんなメス猫に言いよってはフラれていた。私は「トラトラ」と彼を呼ぶ。> トラトラは鴨居羊子さんの気に入りで、その後も毎朝挨拶をかわしたようです。<トラトラはぼんやりしているようでも、朝の何時何分に私が市場の裏を通る頃合いをちゃんと覚えていた。角を曲がって、トラトラーと口ずさむ私を見つけるや、屋根の上で待っていてたトラトラは、いちはやく電信柱をつたわって、ひょいと私の前におりたつ。垣根の裏やゴミ箱の裏などを探していた私はとび上がってトラトラを抱いてやる。斥候のように屋根の上で待っててくれたのが断然私は気に入った。> このあたり今はノラ猫の姿は見かけませんが、もう少し鴨居羊子が付き合っていたノラ猫がいた場所を歩いてみましょう。

ケネディ大統領暗殺事件機密文書の公開

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ケネディ大統領暗殺事件機密文書の公開と一部延期のニュースが報じられています。 事件が起きたのは1963年11月22日金曜日。日本では11月23日早朝、太平洋を越えた日米初の宇宙中継が行われ、その歴史的な電波に乗って送られてきたのが、ケネディ暗殺の悲報でした。当時は世界中で人気のあったケネディ大統領でしたから、私も早朝のニュースに衝撃を受けたことを良く覚えております。 偶然ですが、お世話になっている方から、1963年12月に発行されたLIFE社の“JOHN F. KENNEDY MEMORIAL EDITION”を最近、譲り受けました。カラー写真と白黒写真、エッセイや記事など充実した内容で、さすがLIFEです。ダラスのパレードの写真。葬儀を迎えたジャクリーン、キャロライン、ジョンJr.「世界の哀しみの輪」で紹介された中の一枚の写真。パリで沈鬱な表情で過ごすマレーネ・ディートリッヒ。彼女はケネディの熱心なサオーターだったと記されています。1959年上院議員時代のジョージタウンの家の前で。家族と過ごすリラックスしたケネディ。幼いキャロライン(前駐日大使)の可愛さが印象的。キャロラインはどれほどケネディから愛されていたことでしょう。 あの時代に流行った、ケネディ・カット、アイビー・ルックなどなど、写真を見ていると、1960年代、ティーンエイジャーとして過ごした時代の記憶がよみがえってきました。
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