ヒル・トップはビアトリクス・ポターの仕事場として、そして来客に応対する場所、パブリックな場所としても使われていたそうです。 家の外観のみならず、内部も絵本の舞台となっていくつかの作品に登場します。一階で一番目につくオーブンのついた暖炉です。『ひげのサムエルのおはなし(The Tale of Samuel Whiskers)』では、冒頭にその暖炉の前の椅子に座っているタビタおくさんたちが描かれています。このお話で、子猫のトム・キトゥンは暖炉の煙突の出っ張りに隠れます。 この暖炉は『パイがふたつあったおはなし(The Pie and The Patty-Pan)』にも描かれています。 リビーがパーティの準備をして、オーブンの中のパイの焼き加減をみている場面です。リビーが暖炉の前に座っています。リビーがオーブンからパイを出して、テーブルにセットする場面です。暖炉の前のテーブルで食事するリビーと子犬のダッチェスの様子です。このように作品にしばしば登場する暖炉とその前に置かれたテーブルです。『こねこのトムのおはなし(The Tale of Tom Kitten)』に出てくる階段です。次はこの階段を上って二階の部屋に行ってみましょう。
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ビアトリクス・ポターのヒル・トップ・コテージ1階
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甲山神呪寺の蓮の花が見ごろ
今日は須賀敦子さんの取材に来られた方と甲山墓園を訪ねました。
写真は甲山墓園にあるカトリック大阪大司教区共同墓地です。
そのあと甲山の神呪寺に立ち寄りましたが、蓮の花が見ごろを迎えています。
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遠藤周作『砂の城』いよいよ泰子は母の住んだ甲東園へ向かう
遠藤周作『砂の城』から続けます。スチュワーデスの採用試験のため、長崎から東京に出てきた泰子は、帰りに中学・高校時代の友人が住む神戸に立ち寄り、母の初恋の人が住んでいた甲東園の恩智病院に向かいます。 遠藤一家は大連から帰国したとき、一時六甲の叔母の家で暮らしましたので、そのあたりに泰子の友人の住むアパートを設定したようです。<アパートを出て彼女は阪急六甲駅にむかう坂道をおりた。駅の案内看板をみて母の実家がかつてあった甲東園が西宮北口で乗り換えることを知った。 ウィーク・デイだったけれども意外に混んでいた。十月の秋晴れ日を利用して紅葉を見にいくらしい客も眼についた。西宮北口から宝塚に向う阪急の支線に乗り換える。>西宮北口駅で阪急今津線に乗り換えます。仁川から見える甲山です。<車窓から母の手紙の書いてあった甲山が見えた。なるほどまるい甲を思わせる形をしている。その山の下は切りひらかれてビル群のように白い団地が拡がっていた。甲東園の駅で降り、彼女は駅前の菓子屋に入って、「恩智病院はどこでしょうか」とたずねた。>阪急甲東園の駅も昔と随分変わってしまいました。 甲東園の恩智病院の家族は引っ越し、別の家になっていましたが、母が娘のころ、歩いた路を泰子も自分の足で歩いてみたいと、その場所に向います。私も高校時代よく歩いた道です。<秋の陽が松林にあかるくさしていた。母の手紙にもこのあたりは松林が多いと書いてあったが、今、その一部がまだ残っているのだろう。松林が多いと書いてあったが、今、その一部がまだ残っているのだろう。松林にそった路に洒落た洋館が並んでいる。外人の子供が自転車に乗って通り過ぎていった。八百屋の主人に教えられた路を歩いていくとやがて昔、恩智病院だったという古びた洋館が見えた。ここなのか……彼女はまるでそこが自分も昔、住んでいたような錯覚と懐かしさに捉われて周りを見まわした。母の家はこの恩智病院のはす向かいにあった筈だが、それは大きなアパート風の会社の寮にかわっていた。> ここに描かれた松林と洋館の風景、甲東園よりむしろ遠藤周作が住んでいた頃の仁川の風景を描いたように思われます。
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ビアトリクス・ポターのヒル・トップ・コテージ二階へ
さてコテージの二階へ上がって見ましょう。『ひげのサムエルのおはなし(The Tale of Samuel Whiskers)』のタビタが子ねこのトムを捜す場面で、階段の踊り場が登場します。窓に真紅のカーテン、端にあるホールクロックなどそのままでした。『こねこのトムのおはなし(The Tale of Tom Kitten)』でも二階の部屋の様子が描かれています。おかあさんのタビタが3匹のこねこたちに服を着せる場面では、二階の出窓とチェスト、その上に鏡が描かれています。現在の配列は左右反対ですが、この場所のようです。 タビタが友達を招いてお茶をする間、3匹の子ねこたちは二階に追いやられますが、天蓋付きベッドで、騒いでいる様子が描かれています。その天蓋付きベッドもありました。『2ひきのわるいねずみのおはなし(The Tale of Two Bad Mice)』に登場するドール・ハウスもありました。ネズミのトム・サムとハンカ・ムンカがドール・ハウスの扉を開けて中に入ろうとする場面です。現在部屋に置かれているドール・ハウスですが、屋根の形はフラットですが、そのほかはポターの絵とそっくりでした。
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遠藤周作『砂の城』泰子は逆瀬川駅から秘密の場所に向かう
遠藤周作『砂の城』から続けます。甲東園を訪れた主人公泰子は、逆瀬川駅から亡くなった母が初恋の人、恩智勝之に教えられた「秘密の場所」に向かいます。<駅に戻って逆瀬川駅までの切符を買った。時刻は昼近くだった。逆瀬川は終点の宝塚駅から二つ手前の駅で、あの母の手紙では彼女に恩智勝之が「秘密の場所」を教えたところなのである。白い川原の両側に大きな邸宅が並んでいた。間もなくゴルフ場を矢印で示した看板が眼についた。「秘密の場所」は母の手紙ではこのゴルフ場にそった山の寺の下にあるはずだった。>逆瀬川駅で降りた泰子は少し川をさかのぼって、宝塚ゴルフ倶楽部に沿った道に折れます。この宝塚ゴルフ倶楽部と小林聖心女子学院に挟まれた道は、遠藤周作の仁川時代の散歩道でした。(写真右下が小林聖心女子学院)<甲山と六甲山脈の山々がうしろに拡がっている。なだらかなゴルフ場のあちこちには黄ばんだアカシヤの大木が植えられ、まるでスイスの牧場のようである。二組ほどのグループがゴルフのクラブをふっている。>ゴルフコースから甲山が見えるホールもあります。<そのゴルフ場の途中に遊岩寺と書いた立て札が出ていて泰子はすぐ、(ここだわ)と道を右にとった。道は枯葉の散った山道となり、両側は茶褐色や黄色になった雑木林に変わった。>小林聖心女子学院からゴルフ場を横切る道を通って、出たところを右手にはいります。小説で「遊岩寺」とされているのは法華閣をモデルとしたのでしょう。現在は宝塚うぐいす墓苑となっています。<彼女は滑らぬように注意しながら渓流のそばまでおりてみた。舞った枯葉が水にうかび、岩と岩との間を流れていく。小さな滝にかくれ、姿をみせる。水は枯葉をそこに残して岩と岩との間をぬっていく。静かだった。母と恩智勝之が腰かけたのはどこか、わからない。ここだったのかもしれない。>法華閣のすぐ下にある、小仁川に流れ込む渓流が「秘密の場所」のモデルだったと思われます。遠藤周作はこの場所の思い出をエッセイ『仁川の村のこと』にも詳しく述べています。 これで「秘密の場所」をたどる旅は終わりますが、今回このように詳しく説明させていただいたのは、「秘密の場所」が逆瀬川上流であると解説された西宮神社での講演会がきっかけでした。ただ『砂の城』は小説で、フィクションですからどのように解釈されるのも個人の自由だとは思います。
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ニア・ソーリー村でただ一軒のパブ、タワー・バンク・アームズ
ビアトリクス・ポターが暮らしたニア・ソーリー村の多くの場所 が作品の舞台として登場します。ニア・ソーリー村の全景です。ヒル・トップで貰ったニア・ソーリー村の地図には物語に登場する場面が番号付きで挿入されていました。ヒル・トップ・コテージの入口をを出てしばらくすると、ニア・ソーリー村でただ一軒のパブ「タワー・バンク・アームズ」があります。(赤矢印)時計のあるファサードが印象的で、『アヒルのジマイマのおはなし(The Tale of Jemima Puddle-Duck)』に登場します。ジマイマがだまされていることを知った番犬のコリーのケップが友人のフォックス・ハウンドの子犬2匹を呼びにいく場面です。ジマイマが牧場をあとにして、丘の向こうまで続く荷車道を上っていく場面。ヒル・トップ・コテージの2階から見える石垣が丘の上まで続く光景に似ています。
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ニア・ソーリー村のバックル・イートへ
「地球の歩き方」にも紹介されているニア・ソーリー村にあるバックル・イートは現在はホテルになっています。訪ねてみると、こんな看板がありました。ロビーの様子です。ビアトリクス・ポターの多くの本に描かれているとの説明。まずは、『こねこのトムのおはなし(The Tale of Tom Kitten)』アヒルたちが、トムの住むヒル・トップに向かって歩いて行く場面の背景に、このバックル・イートが描かれています。そして、『パイがふたつあったおはなし(The Tale of The Pie and Patty-Pan)』では、ポメラニアンのダッチェスの元に友達の猫のリビーからお茶のお誘いの手紙が届いたシーンです。現在も花が綺麗に咲いて、ベンチで写真を撮る人も。 さらに、『こぶたのピグリン・ブランドのおはなし(The Tale of Pigling Bland)』では、餌をあげているペティトーおばさんの背景に描かれています。みなここで立ち止まって写真を撮っていました。ポターもお気に入りの建物だったのでしょう。
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昭和11年世界一周した須賀敦子さんの父豊次郎氏のSOUVENIR
須賀敦子『遠い朝の本たち』父ゆずりに須賀さんの父親が世界一周の旅をしたことが述べられています。<私が六歳のとき、父は、当時そう呼ばれた世界一周の旅をした。船でウラディヴォストックにわたり、そこからシベリア鉄道でモスコウを経てヨーロッパの国々やイギリスをたずね、さらにロンドンから船でアメリカに行き、大陸を列車で横断したあと、また船で太平洋を渡って帰るという、いまでは考えられないほどの、ゆっくりした旅行だった。行った先々で、父は日本で待っている人たちにおみやげを買った。とくに最後に寄ったカリフォルニアからは、おおきな木箱いっぱいのサンキスト・オレンジがとどいた。> この世界一周の旅の旅の始まりは、昭和11年7月12日のこと。豊次郎氏は日本貿易振興協会主催による世界一周実業視察団体旅行に参加します。船で神戸港を発ち、ウラジオストックからシベリア鉄道に乗り、モスクワを経由し、ワルシャワ、ブダペスト、プラハ、イスタンブール、ヴェネツィア、ローマ、フィレンツェ、ウィーン、パリ、ロンドン、サンフランシスコなどを巡り、翌年5月に帰国しています。この視察旅行は須賀工業90年史にも記載されていました。<昭和11年7月中島彦六常務・須賀豊治郎取締役、日本貿易振興協会主催の世界一周実業視察団体旅行に参加>と須賀工業から中島彦六常務と共に二人で参加されていますが、(12.12帰国)と書かれており、中島常務は12月12日に帰国し、豊治郎氏は翌年5月まで旅を続けられたようです。 先日、須賀敦子さんのご実家を訪問させていただき、豊治郎氏の素晴らしいコレクションを見せていただきました。その一つが世界中のスプーンのコレクション。豊次郎氏が訪問した都市の合計24本のスプーンのコレクションです。おみやげはおおきな木箱いっぱいのサンキスト・オレンジだけではなかったようです。コレクションの下には、「SOUVENIR 1936 TOYOJIRO SUGA」の銘板が今も光り輝いていました。1936年といえば、8月1日から8月16日にかけてナチス政権下で、ベルリンで夏季オリンピック大会が開催されており、そのスプーンもありました。 須賀敦子さんの回想的エッセイ『ヴェネツィアの宿』の最終章「オリエント・エクスプレス」の冒頭は、父豊治郎氏が世界一周の旅で訪れたエディンバラに行きステーション・ホテルに泊まるよう言われた話から始まります。<「朝、九時にキングス・クロス駅から、『フライング・スコッツマン』という特急列車が出ているはずです。それに乗ってエディンバラまで行ってください。パパも同じ列車でスコットランドへ行きました。エディンバラでは、ステイション・ホテルに泊まること」>そのエディンバラのスプーンもありました。真ん中のスプーンですが、絵はエディンバラ城の入口の塔を模したのでしょう。 その左隣のスプーンには、シェークスピアの故郷ストラットフォード・オン・エイボンと書かれています。 右隣りのスプーンに書かれているRMS Aquitaniaが何かわからず、調べてみると、イギリスのキュナード・ラインが建造した北大西洋航路客船の名前で、大きさはタイタニック号とほとんど変わらず、エンジン出力はタイタニックを上回るものでした。このような当時の豪華客船でイギリスからニューヨークに渡ったのでしょう。ちなみに、RMS Aquitaniaのスプーンの右隣は、ニューヨークのエンパイア・ステート・ビルディングのスプーンでした。何と豪華な旅だったのでしょう。このような視察団があったことは昭和11年の頃の日本の国力を表しているのかもしれません。
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椹野道流『最後の晩ごはん』第六話は奥池のお邸が舞台
椹野道流さんの『最後の晩ごはん』第六話「旧友と焼きおにぎり」は芦屋の奥池に豪邸に引っ越してきた木版画家の西原アカネが子供の頃から毎晩見ていた夢のおはなしから始まります。 今回舞台となっている奥池は椹野道流さんがお住まいの場所ではないでしょうか。 小説では芦屋警察署の刑事、仁木涼彦と主人公五十嵐海里が車で六麓荘と並ぶ山の手の高級住宅街という奥池に向かいます。<海里は再びヘッドレストに頭を預ける。何度目かのヘアピンカーブを曲がった後、目の前に、コンクリート製のゲートのようなものが見えてきた。「あれ何?」涼彦はこともなげに答える。「料金所だよ。あそこから先は、芦有ドライブウェイになる。六甲山や宝塚や有馬へ続く有料道路だ」> 航空写真で見ると、細長い芦屋市行政区域で、山の中に奥池の高級住宅街が広がっていることがよくわかります。赤矢印で示したところが芦有ドライブウェイの料金所です。<海里は、驚いて目を丸くした。「へ?待ってくれよ。一本道だろ、ここ。それなのに、いきなり有料道路?あ、住人はタダなのか」「いや。住人も、割引とはいえ定期券を買うらしいぞ」「マジか!家に帰るたび、お金がかかるってこと?すっげえな!」「本当かどうかは知らんが、家に帰る唯一のルートが有料道路なのは、日本でもここだけって話だ」>1961年に開通した有料道路ですが、いったいいつになったら公道化されるのでしょう。 二人は更に芦屋ハイランドに向かいます。<一方通行のやや細い道を通り、さっきまで走っていた芦有ドライブウェイの下を潜ってしばらく行くと、車はいよいよ住宅街に差し掛かった。「ここが奥池?絵にかいたようなお屋敷だな!」ヘアピンカーブから解放され、まだ顔色は悪いものの、海里は少し元気を取り戻して窓の外を眺めた。山の中腹を切り開いて造成した住宅地は嫌というほど緑に包まれていて、土地の区画がとにっかく大きい。建ち並ぶ住宅も、まさに邸宅と呼ぶべき立派な建物が多い。建築家が意匠を凝らしたと思われる奇抜なデザインのお屋敷も、あちらこちらにあった。>山の中、奥池湖畔に閑静な住宅街が広がります。「奥池南町のまちづくり」という掲示板がありました。<目の前にある家は、他の家々とはちちょっと毛色が違うようだった。敷地は他と同じく広いのだが、外周がぐるりと背の高い生け垣に取り囲まれ、まるでちょっとした雑木林のようだ。デコラティブな模様のある鉄製の門扉から中を覗くと、生け垣だけでなく、庭木もかなり奔放に茂っているのが見える。そんな木立の中に煉瓦を土に埋めて造った通路があり、それが敷地の奥まったところにある家の玄関へと続いていた。>この光景はひょっとして椹野さんのご自宅をモデルにして書かれたのでしょうか。そういえば、ギャラリー「藤本義一の書斎 Giichi Gallery」も奥池にあります。安藤忠雄設計のコシノヒロコさんの旧自邸も奥池にあり、現在はKHギャラリー芦屋として公開されています。さて帰りに二人は展望台に立ち寄ります。<芦有ドライブウェイに戻ったところで、涼彦はふと思いついたように口を開いた。「お前、こっちに来たことがないんなら、ここからの夜景も見たことがねえのか。ついでだし、ちょいと寄り道して見ていくか?」そして、海里の返事を待たずに、帰り道とは反対方向、つまりさらに山に登るほうへハンドルを切った。><涼彦は、目の前に広がる景色を、少し自慢げに指さす。手すりがあることころまで行き、並んで立った海里とロイドは、感嘆の声を上げ、目と口を大きく開いた。六甲山系から望む景色は、よく「百万ドルの夜景」と表現される。だが、目の前の光景の価値は、百万ドルどころではないと海里は思った。さっき後にしてきた奥池の向こうに広がるのは、まさに光の海だ。無数の金色や銀色の光の粒が、隙間なく敷き詰められている。その合間に、赤や緑の光がちりばめられていて、まるでファンタジー映画によく出てくる、海賊の宝箱をひっくり返したようだった。>この展望台まで上って来ると、もう西宮市に入っています。きっと夜景は椹野さんが描かれているように素晴らしいことでしょう。
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ニア・ソーリー村のT字路から鍛冶屋横丁へ
ピーター・ラビットの舞台を訪ねてニア・ソーリー村の散策を続けます。Peter Rabbit's almanac for 1929の2月の絵は印象に残るポスト・ボックス。ニア・ソーリー村のT字路に差し掛かると、赤い大きな郵便箱がありました。(絵地図の2の家)現在も100年近く前の姿のままです。石積みの家と塀が印象的です。 その向かいが鍛冶屋横丁で、角の家は(上の絵地図の3)は『「ジンジャーとピクルスや」のおはなし(The Tale of Ginger and Pickles)』に描かれた雑貨屋だったそうです。(上の写真は鍛冶屋横丁)『ひげのサムエルのおはなし(The Tale of Samuel Whiskers)』でひげのサムエルとアナ・マライア夫婦(2匹のネズミ)が大慌てで逃げる場面はこの鍛冶屋横丁です。この絵の一番区に描かれている婦人はポター自身らしいのです。ポターの立っている角の右側に少し描かれている家がアンヴィル・コテージです。2匹はバレイショさんの家の大きな納屋に逃げ込んだのですが、バレイショさんの家は、現在ゲストハウスとなっており、その前にあった納屋は現在は無くなっています。100年前の姿とは少し変わっている所もありますが、ピータ・ラビットの世界がよくここまで残せたものだと、感嘆いたしました。
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ミーナのモデルにもなったJFC創業者栗田明子さんの講演会
西宮の建石小学校のご出身で、(株)日本著作権輸出センター(JFC)創業者・現相談役の栗田明子さんによる戦争と平和に関する本との出会い、出版までの経緯についての講演会が開催されます。栗田さんの著作『夢の宝石箱』、『海の向こうに本を届ける』については2012年にブログでご紹介したことがあります。http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10768275c.htmlhttp://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10768703c.html 栗田さんは芦屋に戻っておられ、昨年初めてお目にかかりました。そして、8月10日(木)10:00~芦屋市立公民館で「私の扱った戦争と平和に関する本」と題して、ご講演をいただくことになりました。 その一冊、『トミーが3歳になった日』はアウシュビッツに捕らわれトミーと父親の感動と驚きの物語です。 また安野光雅さんを中心として作られた『まるいちきゅうのまるいいちにち』のお話では、若かりし頃の安野光雅さんと栗田さんとの出会いなど興味深いお話も伺えると思います。参加費無料、申し込み不要、先着90名ですので、ふるってご参加ください。
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ホークス・ヘッドの「ビアトリクス・ポター・ギャラリー」で原画鑑賞
ビアトリクス・ポターの住んだニア・ソーリー村のすぐ近くに、白壁の家が並ぶ美しいホークス・ヘッドの村があります。そこで、夫で弁護士のヒーリスが事務所として使っていた建物は、現在は「ビアトリクス・ポター・ギャラリー」となっており、ポターの作品や遺品が公開されています。(上の写真の中央の建物)ポターはニア・ソーリー村のカースル農場を購入するためこの事務所を訪れ、ヒーリスと出会ったそうです。左隣のRed Lion Inn でまず昼食です。湖水地方のあるカンブリア州特産のとぐろを巻いたカンバーランド・ソーセージにたっぷりグレービーソースをかけていただきました。おいそうに見えますか?でもこのカンバーランド・ソーセージは、EUの産地表示保護制度、PGI(Protected Geographical Indication)に認定されたそうです。昼食の後は、斜め前にあるチケット売り場で、チケットを買って「ビアトリクス・ポター・ギャラリー」へ。ピータ―ラビット・シリーズの中の20冊の原画がここにあり、2階にその一部が展示されています。おなじみのヒル・トップを舞台にした『こねこのトムのおはなし』『ひげのサムエルのおはなし』の原画です。嬉しいことに、原画でもフラッシュなしなら撮影は許されています。さてこの原画、手振れ写真になってしまいましたが、『パイがふたつあったおはなし』で、ネコのリビーのいとこ、タビタ・トウィチットが経営する雑貨屋ですが、「ビアトリクス・ポター・ギャラリー」の右隣の建物がモデルでした。「ビアトリクス・ポター・ギャラリー」の内部は、もちろんほぼ百年前の姿のまま維持されていました。
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“死の都”に響いた「未完成交響曲」
7月29日(土)にBSプレミアムで“死の都”に響いた“未完成交響曲”~戦火のワルシャワ公演を再現する~と題して、ポーランド劇場での近衛秀麿の公演が再演されました。 元々は、2015年8月にNHK BS1スペシャルで放送された「戦火のマエストロ・近衛秀麿~ユダヤ人の命を救った音楽家」が発端となった番組のようで、NHK出版から菅野冬樹著『戦火のマエストロ・近衛秀麿~ユダヤ人の命を救った音楽家』にその内容も詳しく述べられていました。 1939年9月1日にドイツ軍がポーランドへ侵攻したことから第二次世界大戦が始まり、ユダヤ人の強制収容所への輸送も始まっていた時代です。 そのナチス・ドイツの占領下にあったワルシャワで、1943年9月にナチス主催の近衛秀麿の公演で演奏したのは、弾圧にあえぐポーランド人により結成された「ワルシャワ市民オーケストラ」でした。 さすがNHKで、今回の放送は、修復した近衛版の楽譜を復元し、60名のポーランド人一流の演奏家で編成されたオーケストラによりポーランド劇場で演奏されたものです。指揮はウィーン大学名誉教授・前田昭雄氏。 その演奏について、近衛秀麿は自著『わが音楽三十年』「未完成交響曲」で一生忘れがたい経験をしたと、次のように述べています。<併し先年ポーランドがドイツ軍に敗れた直後、ワルシャワのフィルハーモニーで僕は、一生忘れがたい経験をした。この敗戦で破壊され尽くした死の都に鳴り響いた『未完成』は、単なる感傷や悲愁ではなかった。或楽句は瀕死の呻きの様に聴きとれた。それから全曲は羞恥、絶叫、あきらめ、愛と祈りと成仏……それ等の交錯であった。多くの楽員は目を泣きはらしたり、興奮の余り顔を蒼白になって居るのを見た。そして音楽からこんな感銘を受け容れられる民族を、僕は心から羨ましく思わずには居られなかった。> この文章から、近衛がドイツ人将校たちの聴衆に対して、ポーランド人・ユダヤ人の心でオーケストラを指揮していたことが如実に伝わってきました。そして、今回再現された前田昭雄氏の指揮による近衛版未完成交響曲は、かなりテンポを遅くしたもので、近衛の感想がそのまま伝わってくる重々しく荘厳な演奏でした。
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ピーターラビット・シリーズに登場するホークスヘッド村
ホークスヘッドの村の情景も、ピーター・ラビット・シリーズに登場します。 まず『パイがふたつあったおはなし』でネコのリビーとポメラニアンのダッチェスがお互いに黙ってお辞儀をしてすれ違った場面のくぐりぬけの道です。ホークスヘッドにはくぐり抜けの道がいくつかありますが、モデルとなったのは上の写真の場所のようです。次は『まちねずみのジョニーのおはなし』に登場するくぐり抜けの道。いなかねずみのチミーが野菜かごの中で眠っている間に、荷馬車でホークスヘッドまで連れて来られた場面です。上の写真が現在のくぐり抜けの道の様子です。壁の色は少し変わっていますが、100年近く前の絵に描かれたままの姿で残っています。ここは現在はKings Arms Hotelのくぐり抜け道になっているようです。外のテーブルでは皆さんビールを飲まれていましたが、看板を見ると、バーもあり、カフェ、食事もできるようになっているようです。休憩に入ってみました。玄関を入ると、ホテルというより典型的なパブです。その奥の部屋にはテーブルが並んでおり、昼に、夕にのビールに疲れ、さすがにここではコーヒーにいたしました。
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ユダヤ人を救ったことを戦後20年以上語らなかったマエストロ近衛秀麿
BSプレミアムで先月放送された「玉木宏 音楽サスペンス紀行~マエストロ・ヒデマロ 亡命オーケストラの謎~」は「のだめカンタービレ」の若手指揮者千秋役を演じた玉木宏が主演し、日本のクラシック音楽の先達、近衛秀麿が、戦前ドイツを中心に世界各地のオーケストラを指揮して活躍しながら、ナチス政権下で迫害されたユダヤ人を救う活動もしていたという謎を追う物語でした。近衛秀麿はベルリン・フィルを初めて指揮した日本人でもあり、日本初のプロ・オーケストラを結成した人物でもありました。ナチス政権下の欧州で指揮をする近衛秀麿の姿は、あたかもナチスの広告塔のように見えますが、彼はひそかにユダヤ人音楽家たちの救出に一役かっていたのです。詳しい経緯については、菅野冬樹『戦火のマエストロ近衛秀麿』に述べられているので、省略しますが、近衛秀麿がユダヤ人救出について自著で述べているのは随想集『風説夜話(新装版』だけなのです。 1967年1月20日に刊行された「風雪夜話」の初版本は西宮図書館でも借りられたのですが、そこにはユダヤ人救出のことについては触れられていません。国立国会図書館デジタルコレクションで調べると、新装版では、初版本の最後の章の「幽囚日記」の後に「敗戦秘話」「迫害―ユダヤ人と僕」「死因」という章が追加されており、そこでユダヤ人救出について述べられているのです。新装版は初版からわずか十か月後の1967年11月に刊行され、その間に秀麿は「迫害―ユダヤ人と僕」でユダヤ人の救済について書き下ろしています。何が引き金になったかは、秀麿に協力してくれた人への返礼であったのではないかとし、菅野冬樹氏が『戦火のマエストロ近衛秀麿』の中で解説されています。ユダヤ人救済について『風雪夜話(新装版)』では次のように述べられています。<僕が職務上国外旅行の比較的自由であった立場を利用して、1940年以後スイス、オランダ等の越境の危険を犯しながら出国に成功したユダヤ人の数は十家族を超えた。この際の行動の為の外貨の輸送には、どうしても外交官の資格を必要とする。><我々が米軍の捕虜として米本土のキャンプに着くと間もなく、米国国務省からユダヤ人問題担当の事務官が僕を訪れて来て、厚く礼を述べた後、自らの身命を危険に晒してユダヤ人を迫害から救った十人の外国人の中に僕を数え、ユダヤ人白書の巻頭に写真入りで報告されて居ると話して帰って行った。僕は今もこの期間のささやかな善行を誇りに思っている。> ユダヤ人救済に貢献した近衛秀麿ですが、戦後長らくこの事実が秘匿されていたのは、日本でもそのような行為が決して称賛されず、むしろ関係者に迷惑がかかると考えていたからでしょう。番組でもうひとつ明かされたのは映画『戦場のピアニスト』のモデルとなったユダヤ系ポーランド人のピアニストのウワディスワフ・シュピルマンと近衛秀麿との関係。それは1935年に秀麿が日本への亡命を手助けした著名なピアニスト、レオナード・クロイツァーがベルリン音楽大学教授であったとき教えたのがシュピルマンだったのです。そして1964年にはワルシャワ五重奏団としてシュピルマンを招聘し公演会を実現したのです。最後にワルシャワのポーランド劇場で60名のポーランド人一流の演奏家で編成されたオーケストラにより近衛秀麿が演奏した未完成交響曲を再現する場面は感動ものでした。聴いているのは玉木宏ただ一人。今年は近衛秀麿の生誕120年にあたるそうです。
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ワーズワースも住んでいたホークスヘッド村
ビアトリクス・ポターが作品の舞台にも描き、ビアトリクス・ポター・ギャラリーもある湖水地方のホークスヘッド村ですが、その百年以上前にはウィリアム・ワーズワースが住んでいました。ワーズワースは9歳から17歳まで(1787年から1787年まで)の多感な時代を、写真のホークスヘッド・グラマー・スクールに通っていたのです。校舎は門を入って右側にありました。一階の教室の机にWordsworth と彫られていましたが、本人がほったものかどうかは定かではないそうです。このグラマースクールの裏に、St Michael and All Angels 教会があり、教会前の丘はお気に入りでその風景を詩に残しています。ワーズワースが礼拝に通ったチャペルです。グラマースクールに通うワーズワースと兄のリチャード、弟のジョンが下宿していたのがアン・タイソン夫人の家です。現在はこの通りはワーズワース通りと名付けらています。アン・タイソンズ・ハウスは現在はB&Bとなっていますが、200年以上前の姿をとどめています。
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「遠藤周作」と「遠藤正介」
昭和53年に非売品として刊行された『遠藤正介』という本がamazonなどで広く流通しているのをご存知ですか。 奥付を見ると日本電信電話公社内に置かれた「遠藤正介氏追悼事業委員会」により発行されたものです。 遠藤正介氏とは「愚兄賢弟」と自らのご不満を揶揄されていた、遠藤周作の兄。灘中学校を四年で修了し、第一高等学校入学、東京帝国大学法学部卒業という大秀才。逓信省に入省し、日本電信電話公社総務理事を務められた方です。 民間企業でも社長クラスの追悼集が発刊されることはしばしばありますが、このように非売品でありながら、広く流通している追悼集というのは稀でしょう。 そこには遠藤正介氏を偲ぶ追悼文が多くの著名人や関係者から寄せられている他、妻の遠藤マツ子氏の対談、遠藤周作を含む親族からの追悼文の他に、自ら著した論文、随筆などが収められています。読んでいると、一高時代にはペンネーム吹田紀夫として短編小説も書いておられ、相当な文才があったようです。 この追悼集に、遠藤周作は「飲み兄弟」と題した追悼文を寄せ、遠藤正介氏が生前、弟について述べたエッセイ、「愚兄賢弟」、「顔色なし“賢兄の座”」、「わが愚弟を語る」が収められています。 いずれも面白い作品ですが、今回は「愚兄賢弟」から紹介しましょう。<周作と私は二人兄弟である。最近は不知か悪意か分からないが、「あなたは、芥川賞の遠藤周作さんの弟さんだそうですね」などといって挨拶されることもあるので、念を押しておくが、私の方が二つ上の兄貴である。しかも世間の評価はどうか知らないが、遠藤家(?)では過去四十年間、常に賢兄愚弟として私の方が尊敬されてきたことも申し添えておきたい。> この後、大連時代や灘中時代、その後の受験のことなどが述べられていますが、遠藤周作の芥川賞受賞の日から過去四十年間に及んだ愚弟賢兄の立場が変わっていったそうです。<この日を契機として、愚弟賢兄の立場は逐次逆転しはじめた。昔から私共二人は、月に一度、落ち合って飲むことにしている。最近では銀座でも渋谷でもどのバーにいっても、弟は「周作先生」であり、私の方は「この人は誰なの、先生」である。すると周作先生は「こりゃ、僕の兄貴や、堅物やから、呑ませてや」てな調子で、やれ柴田錬三郎がどうした、有馬稲子がどうしたという話をきかされてそれでも会計となると、辛うじて兄貴の体面で支払いだけはさせていただくといった始末。>バーでの立場も激変し、正介氏も面白くなかったことでしょう。<親せきの甥や姪も、昔は人格高潔学術優秀な私に対し尊敬を以って接していたが、今日では「嫌いな科目の勉強なんかせんでもええ、叔父さんが親爺に話してやる」とか「そりゃ親のいう方が無理や。子どもの気持ちが分かっとらん」とい周先生の方に多く蝟集するのは人情としてやむを得ぬものがあるのであろう。>私の経験からもたしかに、長男と次男というのは性格が全く違うのですが、このエッセイの最後は次のように締めくくっておられます。<「君の弟の書いとるものを読むとなかなかええことを書いとるが、君は兄貴じゃそうじゃが、種違いと違うのか」などと揶揄されるにいたっては、愚兄賢弟も極まれりというべきであろう。>それでもお二人とも立派な業績を遺されたのですから、贅沢なご不満です。正介氏が、もし文筆家を志しておられたら遠藤周作を抜いていたかも。
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イギリス湖水地方にあるビアトリクス・ポターの世界館へ
ピーターラビットの故郷、イギリス湖水地方にあるベアトリクス・ポターの世界館を訪ねました。入口近くにこんな電動VANが停まっていましたいました。近くのピータラビット・キッチン・ガーデンで有機農法で育てられた野菜やハーブ、果物などを、ここのティー・ルームに運んでいるそうです。中に入ると、まず紹介フィルムを見て、ジオラマの世界に入っていきます。ここでは、ポターの23作それぞれの場面がジオラマで再現されています。館内の探索マップです。それでは順に進んでみましょう。まず『あひるのジマイマのおはなし』そらへとびたったジマイマしんぶんをよんでいたみなりのいいキツネはねのけがぎっしりつまった小屋でたまごをうむジマイマ次に進むと『キツネどんのおはなし』です。子うさぎをさらっていくアナグマのトミーキツネどんの台所の窓をのぞくピーターとベンジャミンキツネどんがもどってきます鍵を使って家の中に入ったキツネどんはトミーが自分のベッドでいびきをかいて寝ているのを見つけ、ベッドの上に水を入れたバケツを綱でぶら下げ、家の外からトミーに水をかけようとします。キツネどんとトミーの戦いが始まりました。次は『こぶたのピグリン・ブランドのおはなし』次は『りすのナトキンのおはなし』です。ナトキンといとこたちは一本の木に住んでいました。しまのぬしふくろうのブラウンです。次は『こわいわるいうさぎのおはなし』次は『ティギーおばさんのおはなし』ティギー・ウィンクルおばさんは、小さくて丸っこい、うでききの洗濯屋さんです。次は『2ひきのわるいねずみのおはなし』ドールハウスとおまわりさんです。次は『ジェレミー・フィッシャーどんのおはなし』サンドイッチを食べるつりびとジェレミー。じじがめトレミー、いもりのアイザック、つりびとジェレミーです。次は『フロプシーのこどもたちのおはなし』もちろん『ピーター・ラビットのおはなし』もありました。これが全てではありませんが、写真の整理は手間取りました。館内の写真撮影は自由です。
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西宮が『最後の晩ごはん』第7話のクライマックスシーンに登場
椹野道流『最後の晩ごはん』第7話「黒猫と揚げたてドーナツ」では、五十嵐海里は里中李英に頼まれ、事故死した遺品整理を手伝うことになり、そこでオルガニート用のカードについていた黒猫の幽霊に気づきます。 クライマックスシーンで、事故死した飼い主の山崎敦の霊と事故現場で海里とロイドは会話することになるのです。<「現場は、市役所の近くだったよな。確かお寺の角を曲がった、やたらでっかい木が見えるあたり……」『楠でございましたよね』ポケットの中から、ロイドが情報を補足する。そうだっけ、と気のない返事をして、海里は少しスピードを落として辺りの景色をチェックした。なるほど、前方の対向車線側、道路から少し南に入ったところに、黒々と大木のシルエットが見えてくる。ちょうどそこでガードレールが切れていたので、海里は道路を右折して、スクーターを停めた。>海里とロイドはスクーターで芦屋から国道2号線を東に走って来て、センターのガードレールが途切れる、上の写真の角を右に曲がるのです。最初は市役所の近くの寺と楠から海清寺を想像したのですが、よく読むと事故が起こったのは茂松禅寺の角でした。茂松禅寺も、その位置からわかるように元々は臨済宗東福寺派の六湛寺の一塔頭だったそうです。<暴走した自動車が国道を外れて飛び込んだのが、この楠の大木がある禅寺沿いの脇道だった。寺の名前と、石垣の上にある白い塗り壁に見覚えがある。脇道沿いにある寺門の石造りの階段が、夜目にも明らかに欠けているのは、おそらく自動車がぶつかったせいだろう。>楠の大木と茂松禅寺の寺門の階段です。 もちろん、実際には事故は起こっていませんから、階段も欠けてはいません。楠の根は道路まではみ出しているので、このような石垣で守られていました。元々はこの道も六湛寺の中だったのでしょう。<何げなく通りの反対側を見た海里は、思わず「わあ」と声を漏らした。ニュースではそちら側の建物はあまり映っておらず、駐車場しか見えなかったのだが、そこは大きな病院だった。つまりタクトの飼い主である山崎敦は、病院の真ん前で、車に撥ねられて命を落としたといことになる。>向かいにあるのは、兵庫県立西宮病院の大きなビルでした。<背後を振り返れば、寺の立派な木製の扉は、固く閉ざされている。階段は石垣より内側に引っ込んで設えてあるので、階段に座れば、ひとまずは表通りからの視線は遮れそうだ。「ここがまだ、いちばんマシだな」小声でそう囁くと、たちまち人間の姿になったロイドが、海里の隣に現れ、微妙な距離を空けて石段に腰を下ろした。>この石段で、海里とロイドはオルガニートを鳴らし、山崎の霊を待つのです。芦屋が主な舞台の『最後の晩ごはん』シリーズですが、7話目にしてようやく西宮が登場しました。
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紀元1世紀に建設されたローマ式温泉へ
世界遺産にも登録されているイングランド西部の都市バースにあるローマ時代の浴場跡、ローマン・バス博物館を訪ねました。現在でもこれほど立派な温泉施設を造ることは、採算面から考えても難しいと思いますが、紀元1世紀に造られたローマン・バスを目の当たりにして驚嘆しました。館内に入る前に簡単な説明がありました。日本語のオーディオガイドを借りてここから館内に。現在の地上レベルは2000年前よりかなり高くなっており、館内に入ると、大浴場の2階に出ます。 大浴場を見渡すように2階の欄干には8人のローマ皇帝と将軍の石像が立っていますが、これはこの大浴場が発見された 19世紀末につくられたものです。左側の彫像がカエサル、右側の彫像がクラウディウス帝です。浴場の建物は1世紀末に建てられましたが、その後300年間手が加えられ、4世紀には、上の図に描かれたような姿になっています。現在は屋根がありませんが、元々はドーム型の屋根が付いていました。模型が展示されていましたが、大浴場の後ろの建物がスリス・ミネルヴァ神殿です。 スリスとは、先住民のケルト人が崇拝していた泉の女神のことで、ローマ人は、ローマ神話の治癒の女神ミネルヴァと先住民の女神スリスと同一視していたのです。4世紀のアクア・スリス(バース)の街の絵です。スリス・ミネルヴァ神殿と大浴場などの公共施設を中心に街が造られ、周りを壁で囲んでいることがわかります。(上を流れるのはエイヴォン川)源泉は今も枯れず、46℃、13リッター/秒の割合で湧出しています。ローマ人の温泉利用技術は当時から優れていて、源泉の周りにオークの杭を打ち、鉛のシートで2mの高さのリザーバーを作り、そこから各浴場へ配湯したそうで、鉛管もその時代から使われていたのです。大浴場一階に行くと、ローマ人の扮装をした人がいました。The King’s Bathと呼ばれる浴場がありました。史実ではないようですが、ブリタニア列王史の中で、最初に風呂を作ったブリトン王、ブラダッドによって紀元前836年に温泉が発見されたとされており、伝説上のブラダッドの像が17世紀にThe King’s Bathに据えられています。絵の様に、熱風を床下に送って暖房するシステムもありました。その上の部屋はマッサージ室や、サウナ室として使われ、風呂上がりの休憩、談話に使われていたようです。再現映像が、実物大で見れるようになっていましたが、美観を損ねないようにでしょうか、女性モデルでした。実際はどうだったのでしょう。最後に、温泉水を飲むことができるようになっていました。We adore springs of hot waterと書かれており、温泉は神聖なものと考えられていたようです。源泉は聖なる泉(Sacred Spring)と名付けられていますし、隣にはスリス・ミネルヴァ神殿が建設されているのですから。 日本でも、城崎温泉に温泉寺があることなどを考えると、同じような思想があったのでしょうか。
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