6月の西宮神社文化講演会で、「遠藤周作と西宮の文学」と題して関西学院大学名誉教授細川正義氏が講演されました。その中で、遠藤周作母子が住んだ仁川の家の場所を地図で示されましたので、その場所を訪ねてみました。 昭和14年に母遠藤郁と周作は夙川から仁川に転居しています。兄正介は昭和12年4月に第一高等学校文科に入学し上京していました。遠藤周作はエッセイ「仁川の村のこと」で次のように述べています。<少年のころ、ぼくはこの線(阪急今津線)にある仁川という場所で育った。言うまでもなく関西学院のある所だ。白く光っている仁川の川原を真中にはさんで、洋菓子のような洋館がたちならぶ小さな住宅村である。にもかかわらずこの小さな村はなぜかどこかの避暑地にも似た雰囲気を持っている。>仁川の転居先の住所は宝塚市仁川月見ヶ丘5丁目。ちょうど道が斜めに交差しているΔ地帯(赤矢印)にあり、現在はそこに4軒の家が建っているほど広い敷地でした。現在の遠藤邸跡地の様子です。すっかり変わりほとんど面影は残っていませんが、赤い丸いポストは当時もあったのでしょうか。 電電公社理事を務めた周作の兄正介の没後、遠藤正介氏追悼事業委員会より『遠藤正介』と題した追悼本が発刊(非売品)されており、遠藤正介のマツ子夫人が「夫を語る」の中で、次のように述べています。<郁は小林聖心で音楽を教えているほか、家でプライベートに「ヴァイオリンやピアノも、声楽も家で教えていた」、終戦前後は「遠藤の家の講堂で、日曜日にはミサがあげられていた。>広い敷地には自宅のほかに講堂まで建てられていたようです。遠藤周作は「仁川の村のこと」で当時の仁川の風景について次のように述べています。<川を上流にさかのぼっていくと、アカシヤの樹にかこまれた異国風の家々が点在しているが、それはむかし関西学院に教鞭をとっていた外国人の家々だったのである。白い柵ごしにコスモスやマーガレットの花が咲き乱れ、自転車にのった金髪の子供たちが大声で叫びながら走りまわっていた光景を昔、よく見たものだが、今はどうなっているのだろうか。>今や仁川の両岸にはぎっしり住宅が建ち並び、当時見られた洋館も殆ど無くなっています。洋館を捜して歩いていると阪急仁川駅近くに、『マスター先生』の著者の近藤修平さんがオーナーで、洋館風の佇まいを残すカフェ・ハッセルハウスがありました。<ぼくの住んでいた家は仁川の弁天池という大きな池のすぐ近くにあって、その頃は、あたり一面の葦の芽が生え、初夏の夜などは蛍がとびかっていたものである。体もあまり強くなく、ひきこもり勝ちだったぼくは、仁川のさまざまな風景を愛し、それを唯一の慰めにしていたので、今でもそれらの白い路も赤松の林もはっきりと思いだすことができるのだ。>昔は弁天池にボートも浮かんでいました。現在の弁天池の様子です。次回は遠藤周作の秘密の場所を久しぶりに訪ねてみます。
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遠藤周作 仁川の旧居跡地の今
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6月29日はビートルズが1966年に初来日した記念日でした
テレビで見ていたビートルズの初来日の様子は半世紀前の懐かしい思い出の一つですが、今回初めてビートルズの街リバプールを訪問しました。かつての貨物船の荷下ろし場で世界文化遺産にもなっている港湾地区のアルバート・ドッグ、世界初の完全耐火倉庫で赤煉瓦が目立ちます。函館の赤レンガ倉庫みたいなものでしょうか。その一角にあるビートルズ・ストーリーはビートルズについて紹介する博物館。街を歩くとリバプールがビートルズ観光で成り立っていることがよくわかります。中でも有名なのがマシュー・ストリートのキャバーン・クラブ。ビートルズが1961年に初めて、この場所でライブを行ったことで世界的に知られることとなったクラブです。ビートルズはここで292回ライブを行いました。その名のとおり、洞穴のように地下につながっており、その中にはレンガでできたアーチ型の天井のスペースに、小さなステージが一つだけありました。今もビートルズの懐メロを演奏し、観光客や地元の人を楽しませているそうです。グレープスはキャバーン・クラブの目の前にある歴史あるパブ。キャバーン・クラブで演奏していた4人がお酒を飲みにしばしば訪れたパブです。同じく、キャバーン・クラブからすぐ近くにある1880年代から残るパブ、ホワイト・ハウス。店内はクラシックなインテリアでした。マシュー・ストリートには、革ジャンスタイル、足を組んだジョン・レノンの銅像もありました。世界遺産に登録されているピア・ヘッドに2015年12月に設置された4人の銅像。数ある銅像の中でも一番立派でした。これは、ザ・ビートルズの最後の地元公演から50年経つのを記念し、ザ・キャバーン・クラブが市に寄贈したものだそうです。リバプールは観光業で復活したビートルズの街でした。
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遠藤周作が大好きだった仁川法華閣の渓流
遠藤周作母子が住んだ仁川の家の跡地を訪ねた後、時間もあったことから久しぶりに遠藤周作が毎日しのびこんだという法華閣の渓流が、今どうなっているか行ってみることにしました。『仁川の村のこと』からです。<とりわけ、ぼくが好きだった散歩道はこの仁川のゴルフ場をぬけ、小林村の聖心女子学院の裏山に出て、逆瀬川におりる山径である。>写真は宝塚ゴルフ倶楽部を抜ける道で、今は舗装もされています。<この径はほとんど誰も知らない。日曜日のハイキング客たちもまだ気づいていないようだ。けれどもこの経と、それをとりまく風景とは一種、特別な雰囲気を持っていて、ぼくは後年仏蘭西のサボア地方に遊んだ時しばしば、あの仁川の散歩道をよみがえらしたほど似ているものを感じたのである。>航空写真に黄色で示した道が遠藤周作の好きだった小仁川に沿った散歩道です。出発点は仁川月見ヶ丘5丁目の遠藤の自宅、赤いポストのあるあたりから弁天池の方へ向かいます。歩いてすぐ、弁天池に注ぐ小仁川に到着します。弁天池の向こうに見えるのが阪急仁川駅です。ここから小仁川を遡って宝塚ゴルフ倶楽部、小林聖心女子学院に向かって歩いて行きます。母親の遠藤郁さんは小林聖心で音楽を教えておられましたので、彼女もこの道を歩いて通っていたのかも知れません。仁川小学校のあたりに来ると何やら道標らしきものが残されています。遠藤周作が大好きだった法華閣への道標です。写真の右の道がゴルフ場の中を通って、小林聖心女子学院の裏門に続く道です。小仁川は宝塚ゴルフ場の中に端を発するようですが、ここで左側にカーブして別れている支流が法華閣に続いているのです。航空写真に黄色で示したのが小仁川の分岐で、赤矢印の位置が法華閣の本堂があった位置だと思われます。 写真でおわかりのように、あたりはうぐいす台の団地として開発されています。<少年の頃、ぼくはこの径の一角にある法華閣という寺が大好きだった。寺は山の中にあってその山には清冽な谿川がだれも訪うものもなくかすかな音をたてているのである。今だから白状するが、その頃、ぼくはこの谿川に一人で毎日、しのびこんだものだった。夏草と名もしれぬ草花のおいしげる山と山との間に聞こえるのは川のせせらぎだけである。川の中に素足をひたすと、それは氷のように冷たい。そして小さな魚が岩や石の間を素早く走るのである。>昔の法華閣の入口の写真がありました。現在はこのようにうぐいす台団地として開発され、元の法華閣は「宝塚うぐいす墓苑」となったようです。 そして、私の最も関心事だった遠藤周作が毎日しのびこんだという渓流に入ってみました。写真は順に下流から上流へ上っていきます。梅雨のせいか、清流の量も多く、まだエッセイに書かれている姿が残されていました。墓苑の向こうに見えている林の下を、遠藤周作が愛した渓流が流れているのです。<夕暮れになると法華寺の鐘がなる。と、それを合図のように。むこうの丘・聖心女子学院の白い建物から夕の祈りの鐘がこれに応ずるのである。少年ながらも、ぼくはこの二つの異なった宗教、東洋の鐘と西欧の鐘のひびきの違いを、なにか不思議なもののように思いながら聞いたものだった。>昔あった法華閣の写真がありました。この渓流で遠藤周作は、静かに法華閣の東洋の鐘と小林聖心のアンジェラスの鐘を聴いていたのです。
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アメリカ文学の父アーヴィングが200年前に訪れたシェイクスピアの墓
アメリカ文学の父と呼ばれるW.アーヴィングの最高傑作と言われる『スケッチ・ブック』下巻は約200年前の1815年にヨーロッパへの旅に出た作者が、そのときの体験や見聞を綴った作品集です。その中に「ストラットフォード・アポン・エイボン」という章があり、シェイクスピアの墓を訪れたことが述べられています。<さて、シェイクスピアの墓は生家から歩いてすぐのところにあった。この大詩人は教区のトリニティ教会の礼拝堂に埋葬されていたのだ。この教会は時の流れと共に朽ちかけていたが、その大きく荘厳な外観は豪華な装飾が施されていた。教会は鬱蒼とした樹木に囲まれてエイボン川の岸辺に建っており、その周辺を取り巻く庭園により大都市の雑踏から隔絶されていた。そこは閑静な場所となっていたのである。教会の下方を流れるエイボン川のせせらぎの音がやさしく聞こえてきたし、岸辺に生い茂るニレの木の枝は澄んだ川面に垂れ落ちていた。>地図の右上の赤矢印が生家の位置、左下の青矢印がトリニティ教会の位置です。シェイクスピアの生家からしばらく歩くとトリニティ教会が見えてきました。近くのエイボン川ではボート競技をしていました。岸辺の木はアーヴィングによるとニレの木のようです。<私たちは菩提樹の並木を通り、教会に近づいた。そして、華美を極めた装飾の、ゴシック風の玄関に辿りついたが、そこには精巧な彫刻が施された頑丈そうな樫材の扉が取り付けられていた。その内部は広々とした空間となっていて、建築様式や装飾は田舎の他の多くの教会よりも優れていた。>トリニティ教会の玄関に着きました。アーヴィングが述べているように広々とした内部の様子です。大きなパイプオルガンが見えています。<シェイクスピアの墓は教会の礼拝堂にあったが、そこは静寂と陰気な雰囲気に包まれた墓所であった。>礼拝堂に行ってみました。<平坦な一つの石碑がシェイクスピアの墓であることを示しており、その石碑には、かの有名な四句から成る碑銘が刻まれていた。それはシェイクスピアの直筆によるものだと伝えられていることも手伝ってか、見る者に畏怖の念すら抱かせる何かがある。>シェイクスピアの墓です。石碑に刻まれた四句から成る碑銘が見学者にも見えるように掲示されていました。<もし、その碑文がシェイクスピア本人の直筆であるならば、それは彼が墓所の平穏を願っていたことを裏付ける証拠となるし、思慮深く繊細な詩人としては至極当然のことのように思える。よき友よ、願わくばイエスのために、忍んでここに埋葬された屍を掘るなかれ、この石碑に触れざる者に幸いあれ、わが遺骨を動かす者には呪いあれ。 >彼の墓碑銘は、それなりの効果があり、持ち上がったウェストミンスター寺院への改葬計画も見あわせれたそうです。アーヴィングは墓の上にある胸像についても説明しています。<ちょうどこの墓の上の壁がんにシェイクスピアの胸像が飾られているが、これは彼の死後まもなくして制作されたもので、本人の相貌に近いと言われている。その顔立ちは快活で清澄な雰囲気を醸し、額は丸く盛り上がったような形で美しかった。><シェイクスピアの墓のそばには妻のアン・ハサウェイや長女スザンナ(ジョン・ホール夫人)、その他一族が眠っている。そのすぐ近くの墳墓の上には、有名な高利貸しとして知られたシェイクスピアの旧友ジョン・クームの全身像があった。>シェイクスピアの家族の墓が並んでいました。<何しろ、ここにはシェイクスピアの思いが充満しているので、聖トリニティ―教会全体がまるで彼一人だけが祀られている霊廟のように思えて仕方がない。>と述べられており、そのままの印象の教会でした。200年前には朽ちかけていたというのが、信じられないくらい多くのシェイクスピアファンが訪れるています。
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須賀敦子さんが植えたネムノキが夙川の須賀邸で満開です
須賀敦子さんは、お母様の看病に夙川に戻られた当時、実家の庭にネムノキを植えられたそうです。ネムノキは『ヴェネツィアの宿』の「旅のむこう」に書かれているようにお母様が好きな花木でした。http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11461487c.html ちょうど今週、須賀邸のネムノキの花が満開を迎えているとのお知らせいただき、見せてもらいに行ってまいりました。2階のベランダから撮影した須賀敦子さんが植えられたネムノキです。 ベランダから西側を見ると、須賀さんの『遠い朝の本たち』の「小さなファデット」に描かれた景色からすっかり変わってしまった現在の光景を見ることができました。「小さなファデット」からです。<私たちが幼年時代をすごした家は、六甲山の山すそがもうすこしで海にとどいたという、起伏の多い土地にあった。藤棚につづく茶の間にすわって、細い小川が流れる低地をへだてた向こうの山を見ると、太陽に白くきらめく花崗岩の地肌に、アカマツやクロマツに下生えの灌木などそれぞれの微妙にちがった緑が映えて、都会からたずねてくる客は皆すばらしい眺めですね、とうらやましがった。山と私たちは呼んでいたけれども、それは六甲山脈につづく低い丘陵の一角にすぎなくて、山肌をびっしりおおっていた山つつじの群落を、私たちはごくあたりまえのもののように、毎日、眺めていた。春、線路に沿った道の葉桜の緑がようやく出そろうころには、山がうすむらさきにぼうっと明るんだ。>また2009年冬号「考える人」で妹の北村良子さんは、その光景を次のように述べられています。<夙川の須賀の家は、西側の家の崖下に、今と違って広い田んぼが二面あり、その向こうに小川をはさんで、通称稲荷山といわれた深い松林の丘があり、春には山つつじがいっぱい咲くし、とても自然に恵まれていました。家では皆、いつも「借景」と言っていてその景色が好きでした。松林の丘に、子供がよじ登れる場所が二ヶ所だけあって、姉はそこからどんどん登っていました。メダカも掬いましたし、コオロギとかキリギリスとかも、捕まえてはカゴに入れて、ミミズなんて別に怖くもないという感じ。> 現在は、田んぼやため池は埋め立てられ、住宅地となってしまいました。その向こうに見える稲荷山(高塚山)にはマンションが建てられてしまいました。一番後ろにかろうじて見えているのが六甲山の山並みです。
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あべのハルカス「北野恒富展」でクラブ化粧品の美人画ポスター
あべのハルカス美術館で開催中の「没後70年北野恒富展 なにわの美人図鑑」に行ってきました。 北野恒富は明治末から昭和初期にかけて、個性的な女性像を描いた大阪の日本画家。明治13年金沢に生まれ、明治30年に画家を志して17歳で大阪に移り住み、東京の鏑木清方、京都の上村松園とともに三大美人画家と称され活躍しました。 私が北野恒富に興味を持ったのは谷崎潤一郎との関わりが深かったことからです。恒富は根津清太郎とも親しく松子(後に谷崎の妻になる)を根津に紹介したのは恒富だったそうで、松子は恒富に絵を習っていました。小谷野 敦『谷崎潤一郎伝―堂々たる人生』の表紙に使われている絵は北野恒富の「茶々殿」。この絵は恒富が谷崎潤一郎から依頼を受け、後の谷崎婦人となる根津清太郎夫人の松子をモデルに描いた作品です。根津清太郎と松子との縁談をまとめたのも北野恒富だったそうです。新たな発見は北野恒富のポスター原画。私にとってなじみのある中山太一の中山太陽堂の美人画のポスターが、恒富の作品でした。このポスターは大阪市西区西本町2-6-11 タイヨービル1階のクラブコスメチックス・ミュージアムでも常設展示されています。
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『アガサ・レーズンの困った料理』に見る英国人のコッツウォルズ感
コッツウォルズは、ウィリアム・モリスがそのひとつの村バイブリーを「この世で最も美しい村」と賞賛したので有名ですが、都会の暮らしに疲弊した人々の心を癒す田園風景によって、英国人たちが「老後に最も暮らしたい場所」として一番に挙げる桃源郷と言われているそうです。 実際のところはどうなのか疑わしく思っていましたが、コッツウォルズを舞台としたM.C.ビートンによるミステリー、アガサ・レーズン・シリーズを読むと英国人のコッツウォルズ感がよくわかります。「英国ちいさな村の謎」シリーズ第一弾「アガサ・レーズンの困った料理」では、労働者階級出身の主人公アガサはPR会社の経営者にまでのし上がりますが、長年の夢であったコッツウォルズで暮らす為53歳で引退します。「アガサ・レーズンの困った料理」からです。<仕事上の努力は、ひとえにある目標を達成するため、長年の夢を実現するためだった。それは、コッツウォルズのコテージで暮らすこと。イギリス中部地方のコッツウォルズは、世界でも数少ない人工美のひとつだ。蜂蜜色の石造りの家々が並ぶ風情のある村が点在し、美しい庭園、曲がりくねった緑の小路、古びた教会がある。>やはりリタイア後、住みたい村No.1は間違いないようです。(TVドラマにもなったようです) 小説に登場するのはカースリーという村ですが、ここに描かれた景色の特徴そのものの村バイブリーを訪ねました。バイブリーはアーツ&クラフト革命のウィリアム・モリスが、『イギリスで一番美しい村』と称したことで有名な村。橋の向こうのスワンホテルとアーリントンロウを結んで美しい小川が流れています。川では美しい鴨だけでなくブラックスワンまで泳いでいました。川に沿って歩いて行くとバイブリーを代表する蜂蜜色のコッツウォルズストーンでできたコテージ、アーリントンロウが見えてきました。中世に建てられたコテージは、修道院のウール倉庫として使われ、それが17世紀に織物工が住むコテージに改築されたそうです。コッツウォルズ地方の家の多くは、地元で採れる蜂蜜色のライムストーン(コッツウォルズストーン)を積んで建てられています。イングリッシュガーデンです。小説に書かれている「古びた教会」もありました。バイブリーはまさにコッツウォルズを代表する村のようです。もう少し『アガサ・レーズンの困った料理』を読み進めてみましょう。
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遠藤周作『砂の城』秘密の場所のモデルは?
遠藤周作がエッセイ「仁川の村のこと」で述べているお気に入りの場所の情景が小説『砂の城』にも登場します。その舞台を久しぶりに訪ねてみました。 主人公早楽泰子は、16歳の誕生日に父から、亡くなった母からの手紙を手渡されます。そこには母が16歳になった時の話から始まり、青春の日々が綴られていました。 素子が四歳の時、結核で亡くなった母からの手紙です。<だから、この手紙を母さんが十六歳になった時の話からはじめましょう。そうすればあなたも身につまされて読んでくれるでしょう。その頃母さんの家族は亡くなったお祖父さまの仕事で、大阪と神戸の間にある甲東園という場所に住んでいました。住んでいた家は今は空襲でなくなってしまいましたが、もし、いつか機会があったら、電車にのって西宮北口という駅で宝塚に行く阪急の支線に乗りかえてごらんなさい。十六歳の時の母さんが見た山や空をきっとあなたもそのまま眺めることがえきるでしょうから。>悲しいけれど、何とロマンチックな母から娘への手紙でしょう。 この阪急の支線というのは、阪急今津線のことで、昔はダイヤモンドクロスで阪急神戸線と交わり、宝塚と今津を直接結んでいた路線です。そして今津線は、写真でわかるように神戸線に較べて、いつも古い車両が走っていました。また2011年に公開された有川浩原作の映画『阪急電車』の舞台となった路線でもあります。現在の阪急西宮北口駅今津線ホームです。現在の阪急甲東園駅。いづれも私の学生時代からでさえ、かなり変わっていますから、遠藤周作の住んでいた頃とは、まったく様変わりしています。<母さんはあのあたりの風景が大好きでした。海から離れているのに、まるで海岸近くのように松林が至るところにあり、松林のなかに別荘風の家々がちらばり、六甲山から流れてくる川の川原が白くかがやき、その川の彼方に山脈が青く拡がっているのでした。母さんはそんなところで少女時代から娘時代を送ったのです。>ここに描かれた風景は、甲東園というより、むしろ「仁川の村のこと」に書かれている風景です。しかし、仁川もまた大きく変わり、松林や別荘風の家などもほとんど見られなくなりました。次回は、もう少し先に進みましょう。
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アガサ・レーズンも訪れたボートン・オン・ザ・ウォーター
「英国ちいさな村の謎」シリーズの第一作「アガサ・レーズンの困った料理」でコッツウォルズに引っ越してきた主人公アガサはボートン・オン・ザ・ウォーターを訪れます。 ボートン・オン・ザ・ウォーターは、コッツウォルズのベニスと呼ばれるほど水辺が美しく、コッツウォルズ地域の中でも人気が高い街です。 アガサはこんな風に感想を述べています。<ボートン・オン・ザ・ウォーターはまちがいなくコッツウォルズでもっとも美しい村のひとつだった。村の真ん中にある石橋の下を緑に縁どられた川が流れている。問題は有名な景勝地なのでいつも観光客であふれていることだ。> たしかに歴史の刻まれた建物や素敵なカフェが建ち並ぶ美しい街並みです。街の中央を流れるのはウィンドラッシュ川。アガサが言っているように川の両側の遊歩道はボートン・オン・ザ・ウォーターに住む人々のみならず、多くの観光客であふれていました。訪れた時は、天気も良くVery hot day 、水遊びをする犬や、鴨を追いかける子どもたちで,川の中までにぎわっていました。<そこらじゅうに観光客がいた。大人数の家族連れ、ぐずって泣いている子どもたち、ウェールズからバスを仕立ててやって来た年金生活者たち、バーミンガムあたりの入れ墨をした筋骨隆々たる男たち。白いスリット入りスカートに白いハイヒールをはき、足下のおぼつかない若い女の子たちはアイスクリームを食べながら、あらゆるものに笑いころげている。>同じような風景が広がっていました。 街全体を見て回るには時間がなく、ボートン・オン・ザ・ウォーターの一番の人気観光スポット、モデルビレッジに行ってみました。ボートン・オン・ザ・ウォーターの街を正確に9分の1のミニチュア版にしたもので、上から見ると高台からボートン・オン・ザ・ウォーターの街を見渡すのと同じように、はちみつ色のきれいな街並みを一望した気分になれます。街の中央を流れるウインドラッシュ川と橋もこのとおり。建物に使用されている石もこの地方で採れるコッツウォルズストーンです。建物は木やカーテン、お店に表示してある屋号など細かなところまできちんと再現してあるのに驚きます。ダイアルハウスホテルのミニチュアがありました。実物のダイアルハウスホテルです。ポストオフィスも本物そっくり。このモデルレッジへの入口のミニチュア。こちらが実物です。みんな笑いだすのが、モデルビレッジの中にもモデルビレッジがあること。9分の1のモデルレッジの中にあるモデルビレッジですから、81分の1のミニチュアレッジです。このモデルレッジは1937年に一般公開が開始され、1940年に完成したそうです。オランダのマドローダムほど大きなテーマパークではありませんが、充分楽しめました。
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遠藤周作『砂の城』に登場する宝塚の図書館とは?
遠藤周作『砂の城』では、主人公泰子は16歳の誕生日に亡き母からの手紙を父から受け取ります。その手紙からです。<春休みが来ました。母さんはその春休み、宝塚の図書館で本を借り出しては毎日読みふけっていました。食べ物はなくラジオからは荒々しい軍歌が聞え周りのすべてが荒廃してくると、学校でむかし習ったうつくしい詩や小説をもっともっと知りたくなったのです。図書館の周りは桜が満開でした。本を借りだすと、その霞のような花の下のベンチで胸をときめかせながら頁をくりました。>今でも春になると、宝塚の花のみちの桜はきれいに咲いています。 続いて母さんの初恋の相手の甲東園にある恩智病院の息子の勝之との出会いが語られます。<ある日、図書館から出ようとすると後ろから声をかけられました。恩智病院の息子さんでした。「こんなところに来ているのですか」まるで母さんが図書館に来るなど信じられぬように眼を丸くして勝之さん(彼の名前でした)はたずねました。「ええ」赤くなって、手にしていた本を隠そうとすると、「ぼくも時々、この図書館に来るんです。意外といい本がそろっていますしね。待ってくれませんか。一冊、借りてくるから」 彼と一緒に歩いていると嬉しいような、しかし息苦しい気持ちがしました。図書館を出て、植物園の方に行くと、戦争のため人手が少ないのか樹木は手入れをしていないようでしたが、桜や雪やなぎやれんぎょうが満開で、花の部屋にいるような感じです。劇場は閉鎖されて海軍の予科練習生の宿舎になっているため、ラッパを練習する音が時々遠くから聞えてきました。> 宝塚新温泉には昭和3年に「大植物園」が完成し、さらに図書館や屋外プールなどが完成し、温泉・歌劇・動植物園に遊戯施設が揃いました。 宝塚大劇場での戦前最後の公演は昭和19年3月の雪組公演「翼の決戦」でした。立っているのが、春日野八千代です。この公演の話は、北村薫『リセット』にも詳しく述べられています。 戦争が激しくなり、この公演をもって宝塚大劇場は閉鎖して、海軍に接収され、『砂の城』に書かれているように宝塚海軍航空隊が駐屯しました。 まで読んでくると、宝塚の図書館とは、現在は無くなってしまいましたが、昭和6年に宝塚新温泉に併設された図書館であることがはっきりします。昭和前期には私立公共図書館としての性格が強く、遠藤周作が述べているように演劇関係以外の図書も充実していたようです。 この宝塚文芸図書館の建物は中華レストラン「ロンファン」として残っていましたが、2015年には解体撤去されてしまいました。 遠藤周作はエッセイ「心のふるさと」で、宝塚文芸図書館の思い出を次のように述べています。<仁川から阪急電車で四つ目に宝塚がある。私は夏休みなど、ほとんど毎日、この宝塚にでかけた。駅から桜の路が大劇場まで続いており、図書館が劇場の庭にあった。当時の私は宝塚のミュージカルには、まったく興味も関心もなく、女性が男性の真似をして恋を囁くのを気持ち悪いと思っていた。私が宝塚に通ったのは、そこの図書館が本をタダで貸し出ししてくれるからだった。トルストイもドストエフスキーの代表作も、モーパッサンも私はみな借り出して読んだ。当時、小説家になる意志など毛頭もなかったが、その小さな第一歩は仁川とこの宝塚ではじまったと言ってよい。>これほどの思い出が詰まった歴史のある建物をどうして保存することができなかったのでしょう。
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アガサ・レーズンも訪れたチッピング・カムデン
コッツウォルズに住む主人公アガサ・レーズンのミステリーはTVドラマかされているようで、You Tubeでも舞台となっているコッツウォルズの風景が楽しめます。第1作目の『アガサ・レーズンの困った料理』では、アガサは自転車を車に積み、コッツウォルズを走りまわり、チッピング・カムデンを訪れます。 チッピング・カムデンはかつて毛織物業で発達しマーケット・タウンとして栄えた町で、歴史的建造物が多く残り昔ながらの美しい町並みから「王冠の中の宝石」と呼ばれているそうです。<チッピング・カムデンでは、やせようという決意を忘れ、「エイト・ベルズ」の古めかしい落ち着いた店内でステーキ・アンド・キドニーパイを食べ、村のメインストリートを下っていった。>小説に登場するチッピング・カムデンのエイト・ベルズ・インとレストランです。イギリス名物ステーキ・アンド・キドニーパイは旅行一日目のエディンバラのパブで食べましたが、スタミナがつきそうな料理です。ちなみにここで飲んだSt.Stefanusという瓶ビール、アウグスティニアン修道会発祥のビールで3種類のイースト菌で醸造され、樽から出して瓶詰めにして3か月後から瓶の中で塾生が進み、瓶を開けるまでの期間によって味が変わるという説明書きが貼ってありました。『アガサ・レーズンの困った料理』に戻ります。<道は緑に縁どられ、蜂蜜色の石造りの家々は切り妻、高い煙突、アーチ、ペディメント、柱を備え、窓は縦枠か鋸枠がついていて、大きな石の階段がある。観光客の団体はいたが、村はひっそりしてひなびた雰囲気だった。ステーキ・アンド・キドニーパイで満腹になって、アガサはようやく平和な気分になった。>チッピング・カムデンではKingsというホテルのレストランで昼食。これぞ本場フィッシュ・アンド・チップスでしたが、結構洗練されたフィッシュ・アンド・チップスでした。<村の中心には1627年に建てられたマーケット・ホールがあり、短い頑丈な柱が道に黒い影を投げかけている。人生は気楽だ。カミングス・ブラウンの死のことは、きれいさっぱり忘れてしまえばいいのだ。>マーケットホールは、町の中心に有り、かつてここでは、羊毛の取引の他、バターやチーズ、そして食用肉も販売されていたそうです。がらんとした建物の中に入って見上げると、木の梁が見えていました。この建物もナショナル・トラストにより管理されています。そばにあるタウン ホールは、かつては裁判所、牢屋、羊毛取引所として利用されていたそうです。さすが「王冠の中の宝石」、蜂蜜色のコッツウォルズ・ストーンの美しい家並みが印象的でした。アガサ・レーズンもここではリラックスできたようです。
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遠藤周作『砂の城』にも登場する川西航空機宝塚製作所の空襲
遠藤周作『黄色い人』の冒頭は、次のように川西航空機宝塚製作所の爆撃で始まります。<黄昏、B29は紀伊半島を抜けて海に去りました。おそろしいほど静かです。二時間前のあの爆撃がもたらした阿鼻叫喚の地獄絵もまるでうそのように静かです。三時間のあいだ河西工場をなめつくしたどす黒い炎も消えましたが、なにが爆発するのでしょう、にぶい炸裂音がひびのはいった窓にかすかに伝わってきます。>『砂の城』でもその爆撃の模様が登場します。亡き母が16歳になった娘泰子に残した手紙からです。<朝の十時ごろ、突然、鉄橋をすさまじい速度で通過する列車―あれとそっくりの音が甲東園の裏山からひびきました。びっくりして庭に走り出ると、B29とグラマンとの編隊が頭上を通っています。「逃げて」と家の中でお祖母さまが叫びました。グラマン戦闘機が矢のように屋根の上をかすめたのです。その影がはっきりと地面にうつり、思わず顔をあげた母さんには敵機に乗っている飛行士の姿まで見えたように思えました。母さんが家の中に逃げ込んだ瞬間、地震のように大地がゆらぎました。>甲東園のあたりまでB29とグラマンとの編隊が飛んできたのは、仁川にあった川西航空機宝塚製作所を爆撃するためでした。<これらすべての響きは五分か十分の後に終わりました。五十機の敵機は甲東園からそう遠くなもない川西飛行機工場に襲いかかり、小憎らしいほどの速さで引き上げました。防空壕を出た時、足から血を出した子供を背負った母親が泣きながら道を歩いてきました。母も子も泥だらけで、話を聞くと、配給物を取りに行く途中、突然、グラマンに襲われ、そばの溝にうずくまっていたのだと言います。>『砂の城』では、爆撃されたのは3月26日となっていますが、実際の川西航空機宝塚製作所が爆撃されたのは昭和20年7月24日のことでした。この日、B29と小型機との計約150機によって爆弾が投下され、20機ないし40機の編隊による波状攻撃が加えられました。 遠藤周作は1943年慶応大学文学部予科に入学し、父が命じた医学部を受けなかったため勘当され、学生寮に入っていました。この爆撃の日はたまたま仁川の母の家に戻っていたことがエッセイ「阪神の夏」に記されていました。<戦争が激しくなったころ、私は慶応予科生だったが、時折、満員の列車でここに戻ると、なんとなく暗く重苦しい雰囲気から逃れられたような気がしてホッとしたものである。だが終戦少し前に偶然この仁川の家へ帰っていた日、突然、B29の爆撃が線路の向こうにある川西の飛行機工場(現在の競馬場にあった)を襲ってきた。列車の通りすぎるような鋭い響きと地響きの中で私は工場を燃やす炎と煙とを見た。少年のころから自分にとっては一番なつかしい仁川がやられるようではもうこの戦争はだめだなとその時、思った。>「仁川の母の家」は宝塚市仁川月見ヶ丘5丁目(航空写真の赤矢印の位置)にあり、川西航空機宝塚製作所は現在の仁川競馬場にありました。間近の空襲を体験した遠藤には、強烈な印象として残ったのでしょう。その光景を小説やエッセイに何度も書いているのですから。
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英国を代表するイングリッシュ・ガーデンで見つけたイモリ
憧れのイングリッシュ・ガーデンを見てみようと、コッツウォルズにあり、20世紀のイギリスを代表する庭園といわれているヒドコート・マナー・ガーデンを訪ねました。 アメリカ人の ローレンス・ジョンストンがイギリスのケンブリッジ大学卒業後に、母が購入したヒドコート・マナーに移り住み、独学で造園を学び、40年の歳月をかけて広さ1万2千坪の庭を、生け垣で区切った25種類の庭園につくりあげたそうです。1948年、ナショナルトラスト所有となり、現在もその美しさを保ちながら管理されています。カントリーヤード 地図①レセプションを抜け中に入り振り返ると、オールドガーデンの向こうにマナーハウスが見えます。地図②立派なヒマラヤ杉です。オールドガーデンから見える茅葺の屋根。地図②西洋風あずまや地図⑨雄大なロングウォーク 地図⑱端まで歩くとこんな風景が広がっています。スティルト(竹馬)ガーデン地図⑦プールガーデン地図⑫ロングボーダー地図㉖スイレンのプール地図㉔ここで綺麗なスイレンを見ていると、イギリス人(だと思いますが)Newt! Newt!と指さして叫んでいます。ネス湖の怪獣でもいたのかと目をこらすと、イモリが泳いでいたのです。どうもイモリはイギリスでも珍しいらしい。それにしても広大なイングリッシュ・ガーデン。さすが英国を代表すると言われるだけあります。毎回聞くナショナル・トラストの力にも感服しました。
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遠藤周作『砂の城』の「秘密の場所」とは逆瀬川上流?
6月に開催された「遠藤周作と西宮の文学」と題した講演会で、講師の方はエッセイ「仁川の村のこと」で書かれた毎日しのびこんだ場所、そして『砂の城』に何度も登場する「秘密の場所」を逆瀬川の上流と紹介されていましたが、「仁川の村のこと」に書かれた場所は、既に何度か記事にさせていただいたように、明らかに小仁川の上流で法華閣の下にあったと思われます。http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11627856c.html さて小説『砂の城』では、<逆瀬川の「秘密の場所」>と書かれており、「秘密の場所」が逆瀬川の上流と考えるのも当然ですが、『砂の城』をよく読んでいくと、「秘密の場所」も小仁川の上流で、法華閣の下の渓流をモデルにしたと思われるのです。 それを明らかにするため、『砂の城』に登場する「秘密の場所」の記述を順に追っていきましょう。 泰子の母と恩智病院の息子勝之は宝塚文芸図書館で度々出会っていました。その帰りのことです。<「ぼくに秘密の場所があるんだがな」とある日、帰りがけに勝之さんは笑いながら囁きました。「本当は今まで、誰にもしゃべらなかったんだよ」「教えて」と母さんはたのみました。その日、勝之さんは宝塚の次の駅で電車をおり、母さんを山の方に連れていきました。新芽がふきはじめた山々は、うすみどり色に変り、林のなかに渓流の音と山鶯のおぼつかぬ声だけが聞こえます。水は清らかで、ハヤが何匹かその水の溜まりに走っているのが見えます。「「いい気持ち」母さんは靴をぬぎ、素足を水にひたしました。「ここが、勝之さんの秘密の場所?」「もっと奥」渓流のなかを二人で上にのぼりました。すみれの花が岩と岩との間に、咲いて、山鶯はあちらこちらとで交互に鳴きかわし、時々、風がふくと樹々の新芽が銀色の葉裏をみせて光りました。「勝之さんは時々、ここに来るんですか」「ああ。ここに来て半時間も一時間もじっと石に腰かっけていることがある」>ここで、宝塚の次の駅と書かれている駅は、宝塚南口駅ではなく、逆瀬川駅を指しています。(写真は逆瀬川) 遠藤周作は、小説では駅の数のみならず、阪神大水害や神戸大空襲などの歴史的事実の日を違えて書いていることがよくありますが、それは記憶違いではなく、その作品が小説(フィクション)であることを読者に意識させるために、敢えて違えて書いているのだと思うのです。『砂の城』で、次に「秘密の場所」が登場するのは勝之が満州の関東軍に編入されてからのことです。<彼のことを考えるたびに、母さんはよくあの逆瀬川の「秘密の場所」に一人で行きました。ここだけは戦争の翳もない。ここだけは死の匂いもない。静まりかえった林のなかに昔と同じように渓流の音がきこえ、水の滴る小さな淵に魚がゆっくりと泳いでいます。雑木林にもう葉はなく、時々、鋭い声を出して百舌が鳴いていました。>ここに描かれた情景は、まさにエッセイ「仁川の村のこと」に書かれた小仁川の上流の情景なのですが、さらに『砂の城』を読み進むと、逆瀬川の駅をおりて遠藤周作の散歩道を通って「秘密の場所」に行ったのだと気付かされます。それは次回に。
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ピーターラビットの舞台ヒル・トップを訪ねる(『こねこのトムのおはなし』)
1902年に出版された『ピーターラビットのおはなし』は115年経った今も人気が衰えません。今年初めて、ピーターラビットのおはなしの世界がそのまま残る湖水地方を訪ねました。 作者のビアトリクス・ポターが暮らし、作品の舞台ともなったヒル・トップと呼ばれる家(写真赤矢印)と農場はニア・ソーリー村にあります。 その光景は110年以上経った今も、ナショナル・トラストによって当時のまま保存されているのです。そのヒル・トップを、今日は『こねこのトムのおはなし』と訪ねてみます。(もう版権がきれているからでしょうか、青空文庫の海外版The Project Gutenberg Ebookで英語版を読み、挿絵も自由に使えます)ヒル・トップのチケット売場で指定された時間に入場します。 さっそく、『こねこのトムのおはなし』で、トムたちが並んでいた木戸と石垣がありました。トムたちが石垣の上でアヒルのパドルダックたちの行進を見ているところです。服をパドルダックたちに取られてしまって、石垣の上にいる子ねこたちです。石垣の向こう側に見える景色は、家の数が増えていますが、右上に伸びていく石垣など今も変わりません。 石垣の門を入り、この花畑のアプローチを歩いて行くと、ヒル・トップの玄関です。この道は、おくさんが子ねこたちを石垣から降ろして、家に連れて帰る道です。玄関が見えてきました。絵本の一番最初に掲載されている絵と一緒です。これが玄関ですが、基本的にはポターが住んでいた頃と変わっていないそうです。ピンクの小バラが壁を伝っていましたが、絵の中ではジギタリスやシャクヤクが描かれています。さあ次回はポターの家に入ってみましょう。
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西宮文学案内秋季講演会で11月に高殿円さんの講演決定
竹内結子主演のフジテレビのドラマにもなった芦屋を舞台とした高殿円さんの『上流階級富久丸百貨店外商部』は以前、私のブログでも紹介させていただきました。http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11571913c.htmlまた彼女の『マル合の下僕』も香櫨園や夙川を舞台とした面白い小説です。http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11567774c.htmlその武庫川女子大学文学部卒で新進気鋭の人気作家、高殿円さんが西宮文学案内秋季講座で11月に講演されます。申し込みは8月15日までです。今から楽しみにしています。
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遠藤周作『砂の城』の「秘密の場所」を追って
前回に引き続き、遠藤周作『砂の城』で、亡くなった母が娘の泰子に遺した手紙に登場する「秘密の場所」からです。昭和23年の春になってようやくソビエトの収容所から勝之が甲東園に戻ってきます。<彼が東京に戻る五日前、二人は久しぶりに宝塚に行きました。劇場は進駐軍にとられ、動物園には戦争中と同じように小鳥と猿しかいませんでしたが、植物園は花に埋もれていました。>戦時中は海軍航空隊に接収されていた大劇場ですが、戦後昭和20年9月にはアメリカ軍が宝塚に進駐し、大劇場一帯を接収しました。また動物園の飼育動物の一部は、空襲下での脱走予防のため、昭和19年に殺処分されていました。<「あそこに、行きましょうか」「あそこって」彼はすぐ気がつきました。「ああ。行こう」二人は電車には乗らず逆瀬川まで戻り、川岸を遡って山に入りました、花があちこちに咲いていました。忘れることのできない雑木林のなかから山鶯の声が聞こえてきます。> 遠藤周作は、少年時代仁川に住んでいたころ、よく宝塚文芸図書館に行っていましたが、電車賃のないとき仁川まで歩いて戻ったそうです。 したがって、小説に「電車には乗らず逆瀬川まで戻り、川岸を遡って山に入りました」と書かれているコースは、逆瀬川伝いに遡るのではなく、実際に遠藤周作が歩いたように、逆瀬川の途中から小林聖心の方へ曲がり、宝塚ゴルフ倶楽部を抜ける道を通り、「秘密の場所」に向かったのです。写真はゴルフ場を抜ける道。 そのコースについて、エッセイ集「忘れがたい場所がある」で次のように述べています。<しかし、私が仁川とともに一番、思い出のあるのは宝塚の図書館である。あの宝塚動物園の奥にある小さな図書館は、私にとってははじめて小説の面白さを教えてくれた場所だった。夏休みの午後、セミの声を窓のまわりにききながら閲覧室で、一冊一冊日本や西洋の小説をむさぼるように読んでいた少年時代の自分の姿はいまでもはっきりとよみがえってくる。そして電車賃のない時、私は宝塚から仁川まで歩いて戻ったものだ。読んだ本のこと、その中に出てきたさまざまな人間のことを思い出しながら、逆瀬川をわたり、小林の聖心女子学院の裏をぬけ、そして夕暮れに仁川のわが家にたどりつく。>そのコースを航空写真に書き込んでみました。「秘密の場所」は赤矢印の位置です。小説では山鶯が鳴いている情景が次のように描かれています。<山鶯の声は遠くなり、近くなりました。水のなかのハヤは岩かげで眠ったように動きません。> この「秘密の場所」の現在の住所は「宝塚市仁川うぐいす台」。春に行ってみますと、現在でも町名が表すように鶯の声がさかんに聞こえてきます。
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ビアトリクス・ポターが暮らした家全景
湖水地方にあるビアトリクス・ポターが暮らしたヒル・トップのコテージ全景が、『パイがふたつあったおはなし(The Tale of The Pie and The Patty-Pan)』の表紙の裏側の1枚目の絵に描かれていました。絵の使用はThe Project Gutenberg eBookにより許可されています。(This eBook is for the use of anyone anywhere at no cost and withalmost no restrictions whatsoever. You may copy it, give it away orre-use it under the terms of the Project Gutenberg License included with this eBook or online at www.gutenberg.net) 1905年にビアトリクス・ポターはヒル・トップ農場の購入を決めており、その当時の屋根の両端に煙突が突き出たコテージの姿が描かれています。(スケッチしたのは1902年)現在の写真と絵と比較すると、左側に建物が増設されていることがわかります。 ポターは購入後、元々あった母屋を自分が住む場所にし、そこに続けて農場を任せる農夫一家の住いを増築したそうです。増築した部分の壁に馬蹄型のマークの下に「1906 HBP」と書かれたプレートが埋め込まれていました。1906年は完成した年、HBPはヘレン・ビアトリクス・ポターの頭文字です。『あひるのジマイマのおはなし(The Tale of Jemima Puddle-Duck)』にはガーデン・エントランスとその後ろに玄関が描かれています。美しいスチールの門扉と石垣、そして郵便受けか小鳥のための箱かわかりませんが、白い箱が100年以上前の姿のまま保存されていました。
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女子大生となった泰子が「秘密の場所」を訪ねる(遠藤周作『砂の城』)
遠藤周作の小説『砂の城』では、女子大生となった泰子は、亡くなった母からの手紙を繰り返し読むうち、「秘密の場所」を見たいと思うようになります。<母が娘の頃、好きだった恩智勝之という人に一度、会ってみたいと思った。そしてその勝之と母とが秘密の場所としていた仁川の渓流もいつかこの眼でみたかった。>注目すべきは、これまで「逆瀬川の秘密の場所」と書かれていたのが、ここで突然「仁川の渓流」に表現が変わっていることです。逆瀬川も仁川も武庫川水系に属する川ですが、交わってはいません。やはり、遠藤周作がしばしば忍び込んだ小仁川の支流の渓流をイメージして小説を書いたため、このように逆瀬川と仁川が混在した表現になってしまったのでしょう。
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夙川から見えた芦屋の花火
昨日は須賀敦子さんの取材に来られていた方々と、カトリック夙川教会の向かいのビルの最上階、フィオーレ ジャルディーノで食事をさせていただきました。 ここからのカトリック教会から六甲山系を望む景色は最高ですが、海の方を見ると、芦屋の花火大会が始まっていました。手振れ写真で申し訳ありませんが、ハート型の花火も綺麗です。カトリック夙川教会はライトアップはしていませんでしたが、綺麗にとれました。
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