Quantcast
Channel: 阪急沿線文学散歩
Viewing all 2518 articles
Browse latest View live

山崎豊子『女の勲章』パリの有名デザイナー、ジャン・ランベールのモデルは?

$
0
0
『女の勲章』では、主人公大庭式子が、フランスの有名なデザイナー、ジャン・ランベールの型紙の購入権を獲得するため、パリに飛び立ちます。彼の作品は今までにない全く新しい立体製図と裁断で作られており、大庭式子は型紙を買い、日本に紹介しようとしていたのです。今回のフジテレビスペシャルドラマで主演を務める松嶋菜々子さんが身にまとうシフォンのドレスは、世界最高峰のファッションメゾン「クリスチャン・ディオール」の作品とのこと。 実は、『女の勲章』のモデルと言われる上田安子さんが1953年に大丸心斎橋店主任顧問デザイナーの立場で渡仏し、日本へクリスチャン・ディオールのオートクチュール技術を初めて紹介したのです。 したがって、『女の勲章』のパリの有名デザイナー、ジャン・ランベールのモデルもクリスチャン・ディオールだったのでしょう。そういえば俳優の顔が似ています。 上田安子さんは1957年に『一流デザイナーになるまで』と題するディオールの自叙伝を穴山昂子氏と共訳で発刊されており、その復刻版が2008年に刊行されました。復刻版のあとがきで、上田学園顧問の上田あつ子氏が次のように述べています。<緻密な計算に基づき、デザインの仕上がりや生地の性質などに合わせて何十種類もの芯地を使い分けながら一着の洋服を完成させ、優雅で立体的なシルエットを限りなく効果的に表現するディオールの作品は、当時、まだ平面的だった日本の洋服づくりの概念を覆すほど、卓越した美的完成度を有していたのです。彼女が初めてディオールの作品を目のあたりにしたとき、「私がしてきたことはデザインではなかった」と絶句するほどの衝撃を味わったそうです。>上田安子記念館に入ると、上田安子の代表作が展示されています。1956年に渡仏したときの写真も飾られていました。しかし、『女の勲章』はフィクションです。

夙川の蛍、今晩は子供たちがいっぱい

$
0
0
今年は5月19日に、既に夙川で蛍が飛んでいました。http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11604553c.html今晩もまだ飛んでいるかと9時ごろでかけると、土曜日の夜なので子供連れの人たちが多く来ています。さて問題の蛍ですが、今日も苦楽園口橋のあたりから蛍が舞っていました。どのあたりで蛍が飛んでいるのかと、苦楽園口橋から上流に歩いてみました。苦楽園口橋の少し下流あたりから数匹飛んでいるのが見えましたが、一番多く見えたのは、苦楽園橋と甲陽線鉄橋の中間地点辺りです。このあたり、外灯や街の明かりで、暗くはないのですが、光って飛んでいるのがよく見えました。背景が明るく写っていますが、真ん中の丸い光が蛍です。いつもは最も多く蛍が見られる甲陽線の鉄橋の上流(上の矢印の位置)にも蛍が舞っていましたが、例年よりは少なそうです。このような人家の多い明るい場所で蛍が見えるのも不思議です。今年はいつまで見れるのでしょう。

山崎豊子『女の勲章』取材しないで書いた小説

$
0
0
『大阪づくし私の産声 山崎豊子自作を語る2』で「取材しないで書いた小説」として『女の勲章』の執筆時のことを次のように述べられています。 それによると、毎日新聞連載時に病気が回復せず、パリへの取材を諦められたそうです。<だが、病気は一向、回復せず、パリ取材は不可能ということがはっきりした時点で、当時、日本には二枚しかないと聞かされている畳二帖大のパリの立体地図を入手した。書斎の壁一杯に貼り、地図の中の街通りを歩き、目指す地点に来ると、カラースライドを映し、参考資料の頁を丹念に繰った。ある時はルーブル美術館であり、ある時はサン。ジェルマン・デ・プレの街角であったりしたが、この地図とカラースライドと資料読みに一日平均五、六時間、原稿執筆が四、五時間という作業が続いた。>『女の勲章』が毎日新聞に連載されたのは昭和35年のこと。 今でこそ、グーグルマップのストリートビューを利用すれば、簡単に自分で行きたい世界の都市を散策することができますが、当時は大変だったようです。 因みに、大庭式子がエール・フランスでパリへ向かった航路は、懐かしい南回り。<旅を楽しませるスチュワーデスの応対が、静かな機内に響いた。式子は、祈るように眼を閉じた。サイゴン、カラチ、ベイルート、ローマ、そしてパリ、四十時間後には式子も、白石教授のいるパリへ到着するのだった。>パリへ40時間もかかった時代でした。 さて大庭式子が泊まったホテルはどこだったのでしょう。目覚めた朝の窓からの景色です。<眼下にチュイルリー公園の並木が広がり、左側にルーブル宮が見え、チュイルリー公園の向こうにセーヌ河の河岸のガードル・ドルセの時計台が見え、その間にセーヌが緩やかに流れていると思うと、式子はパリの街の中にいる自分を感じた。>小説に登場するホテルの名前はサンジャーム。チュイルリー庭園とルーヴル美術館の向かい、パリの中心部に位置するホテル、サン ジャーム アルバニー パリ ホテル スパにちがいありません。(赤矢印の位置)上の写真の右手前のホテルです。ホテルの窓からの景色は小説通りです。しかし、フジテレビのスペシャルドラマでロケされたホテルは、シャトーのようにも見えるのですが、どこかわかりませんでした。(写真4枚目)ドラマでは、チュルリー公園や、シテ島、モンマルトルの石段など美しい映像が流れていました。

小川洋子さんがここは南仏かなと思ったという芦屋川の風景

$
0
0
小川洋子さんは『ミーナの行進』で谷崎潤一郎賞を受賞され、その記念講演で初めて芦屋の街並みを見た時の感想を次のように述べています。<芦屋で家を探そうと、不動産屋さんの車に乗って、北から南に向かい芦屋川沿いに走ったとき「ここは南仏かな」と思うくらいに驚きました。自分が生まれ育った岡山とは、あまりにも風土が違う感触を得ました。松林がありテニスコートがあって、その反対側にはすごく大きなお屋敷が並んでいて、前を見ると海が見え、振り返ると山があり川が流れている。風景がとても洗練されていて、どこか外国にいるような、とても乾燥した新鮮な風景だなと思い、一度で芦屋が好きになりました。> 今日は天気も良く、乾燥した一日で、芦屋川沿いを歩いていて、ふと小川さんのお話を想い出し写真に撮ってきました。海の方を見ると、ルナホールの向こうには芦屋カトリック教会の尖塔が見え、海を挟んで泉南の山並みまで見えます。山の方を見ると、白壁にオレンジ色の屋根、アーチのベランダ、青い空に風見鶏が印象的なビルも見えてきました。なるほど、小川洋子さんが「ここは南仏かな」と思ったのも無理はありません。天気に恵まれた今日の芦屋川のすがすがしい風景です。須賀敦子さんの「風が違うのよ」という言葉も重なっていました。

夙川カトリック教会とメルシェ神父が登場する唯一の遠藤周作の小説

$
0
0
遠藤周作は、ミサに通っていた当時の夙川カトリック教会での出来事について、多くのエッセイを書き残し、また小説では舞台を仁川に移し、『黄色い人』の教会のモデルにしています。しかし、遠藤周作の著した小説の中で、唯一夙川カトリック教会での経験をほとんどそのまま書いているのが『影法師』です。『影法師』からです。<この河を時折ふりかえる時、どうしても、僕が洗礼を受けさせられたあの阪神の小さな教会が心に浮かぶ。今でもそのままに残っている小さな小さなカトリック教会。贋ゴシックの尖塔と金色の十字架と夾竹桃の木のある庭。あれはあなたもご存知のように僕の母がその烈しい性格のため父と別れて僕をつれて満州大連から帰国し、彼女の姉をたよって阪神に住んだ頃です。その姉が熱心な信者でしたし、母は孤独な心を姉の奨めるままに信仰で癒しはじめていました。そして僕も必然的に伯母や母につれられて、その教会に出かけたのでした。> 明らかに遠藤周作が洗礼を受けた夙川カトリック教会について書かれているのです。そしてメルシェ神父は次のように登場します。<フランス人の司祭が一人、その教会をあずかっていました。やがて戦争が烈しくなるとこのピレネー生まれの司祭はある日、踏みこんできた二人の憲兵に連れていかれました。スパイの嫌疑を受けたのです。>遠藤周作がメルシェ神父から怒られていたことも書かれています。<僕らは庭でキャッチボールをしたものです。球がそれて窓ガラスにぶつかると、フランス人の司祭が満面朱をそそいだ顔を窓から出して怒鳴りました。>そのフランス人司祭が棄教神父にそっと会ってやっていたことが書かれています。<その教会に時折、一人の老外人がやって来るのでした。信者たちの集まらぬ時間を選んで司祭館にそっと入る彼を僕は野球をしながら知っていました。「あれは誰」伯母や母に訊ねましたが、彼女たちはなぜか眼をそらし黙ってしまいました。「あいつ、追い出されたんやで」神父のくせに日本人の女性と結婚し、教会から追放された彼のことを信者たちは決して口には出さず、まるでその名を口に出しただけで自分の信仰が穢れると言うように口をつぐんだのです。そっと会ってやるのは、あのピレネー生まれのフランス人司祭だけだった。> この光景は遠藤周作が実際に夙川カトリック教会で目撃していたもので、エッセイ『一人の外国人神父』では次のように述べられています。<しかし、メルシェ神父は本当に立派な人だった。日曜のミサに来る信者のなかに一人、皆からあまり話しかけられぬ外国人がいた。事情は少年のわたしにはよくわからなかったが、それは昔は神父で、日本人の女性と結婚して神父をやめた外国人だったらしい。当時の日本人信者にはそういう行為は破壊に見えたらしく、ミサにそっと来る彼を何となく遠ざけていた。メルシェ神父だけがその外国人を、理解して接触していたようだ。私は気の毒な神父がおずおと教会の隅に来ている姿を何度も見たことがある。>棄教神父はしばしば遠藤周作の作品に登場し、遠藤文学のテーマの一つになっています。棄教神父に理解を示していたメルシェ神父の、戦前・戦中・戦後の生きざまは遠藤周作に「これが神父なのだ」とまで語らせるほど、宗教的な生涯でした。

須賀敦子「オリエント・エクスプレス」コーヒーカップの真実

$
0
0
須賀敦子さんは昭和45年、会社の人から容体の悪くなった父上からのオリエント・エクスプレスのコーヒーカップを持って帰ってほしいという伝言を受けます。 そして、ミラノの駅でオリエント・エクスプレスの車掌長から、白地にブルーの模様がはいったデミ・タスのコーヒー茶碗と敷皿を譲り受けた須賀さんは、そのまま虎の門病院に駆けつけます。『ヴェネツィアの宿』の最終章「オリエント・エクスプレス」からです。<羽田から都心の病院に直行して、父の病室にはいると、父は待っていたようにかすかに首をこちらに向け、パパ、帰ってきました、と耳もとで囁きかけた私に、彼はお帰りとも言わないで、まるでずっと私がそこにいて一緒にその話をしていたかのように、もう焦点の定まらなくなった目をむけると、ためいきのような声でたずねた。それで、オリエント・エクスプレスは?> 父への反抗を存在理由としてきたという須賀さんと父豊次郎との最後の場面です。<私は飛行機の中からずっと手にかかえてきたワゴン・リ社の青い寝台列車の模型と白いコーヒー・カップを、病人をおどろかせないように気づかいながら、そっとベッドのわきのテーブルに置いた。それを横目で見るようにして、父の意識は遠のいていった。翌日の早朝に父は死んだ。> このように、臨終間際の父上にコーヒーカップを渡す場面が、父親との和解を隠喩するかのように感動的に描かれています。 コーヒーカップが間に合い、その翌日の早朝に父上が亡くなったことはフィクションではなく事実だったのですが、たった一つ事実と異なっていることがありました。それが2009年『考える人』特集;書かれなかった須賀敦子の本の「姉のこと」を再読してわかりました。 妹の北村良子さんのお話、聞き手は湯川豊さん。オリエント・エクスプレスのカップを須賀さんが病室に持っていく最後の場面についてです。<北村 そんなふうでしたね。もう本当に、死の床に姉がたどりついたという感じで、オリエント・エクスプレスのカップを持って入ってきて、「パパ、これ」って言って見せたら、カッと目を大きくあけて見て、すぐ目をつむって「違う」って横を向いたんです。オリエント・エクスプレスだって年々デザインを変えますよね。違うの?ってやさしく、でも悲しそうに姉は言いました。>それを聞いた湯川豊さんは、<父は違うと言って横を向いた、と書いたら、結末がどんな感じになったのかな。>と述べていますが、それでも感動的な物語です。そのコーヒーカップはまだ須賀家に残されているそうです。

須賀敦子『オリエント・エクスプレス』最後の文章にそんな深い意味が!

$
0
0
須賀敦子さんの回想的エッセイ『ヴェネツィアの宿』の最終章は須賀さんが「父への反抗を存在理由にしてきた」という須賀豊次郎氏の臨終場面です。 最終章「オリエント・エクスプレス」の最後で、須賀さんはミラノから持って帰った白いコーヒーカップを、そっと父のベッドのわきのテーブルに置くと、それを横目で見るようにして父の意識が遠のいていきます。(「箱根ラリック美術館」に展示されているオリエント・エクスプレス)そして問題の結びの文章です。<翌日の早朝に父は死んだ。あなたを待っておいでになって、と父を最後まで看とってくれたひとがいって、戦後すぐにイギリスで出版された、古ぼけた表紙の地図帳を手渡してくれた。これを最後まで、見ておいででしたのよ。あいつが帰ってきたら、ヨーロッパの話をするんだとおっしゃって。> さてここで「父を最後まで看とってくれたひと」とはいったいだれのことかというのが、ずっと私の疑問でした。須賀さんの母も当時は容体が悪く、豊次郎氏の最後を看とることはできなかったはずなのです。 その疑問を解いてくれたのは、2009年『考える人』特集;書かれなかった須賀敦子の本の湯川豊さんによる北村良子さんのインタビュー記事「姉のこと」です。 ふたつの家を持っていた豊次郎氏の相手の人について、湯川豊さんが<『ヴェネツィアの宿』で、お父さんの最後を看取って。>と話されているのです。さらに、<北村 彼女はその場では遠慮して、病室を出て行ってました。ですから、ある程度わきまえた人。>と臨終の場におられたことが明かされていました。『ヴェネツィアの宿』は「文學界」に一年間、連載されたもので、その題名は『古い地図帳』だったのです。そうすると、須賀さんがこの作品で一番大切にして書きたかったのは、父を最後に看とってくれた人が伝えてくれたこの言葉だったのでしょう。「古い地図帳」とは、父を許す気持ちと、その相手の人も許す気持ちになったことを隠喩しているのかもしれません。

増山実『風よ僕らに海の歌を』のモデルとなった宝塚のリストランテへ

$
0
0
増山実『風よ僕らに海の歌を』は史実をモチーフにしており、主人公ジルベルト・アリオッタは、数奇な運命をたどり、戦後間もなく宝塚にイタリアン・レストラン・アベーラを開いたオラッツィオ・アベーラさんがモデルとなっています。 アベーラさんは、第二次世界大戦中はイタリア軍の軍人として輸送艦「カリテア号」に乗り込んでいましたが、1943年、神戸港に停泊していたときに、イタリアが降伏したため、アベーラさんたちイタリア兵は日本軍の捕虜となってしまいます。 その後、姫路の捕虜収容所に入り、戦後に武庫川河畔の武田尾温泉で知り合った日本人と結婚し、1946年湯本町の蓬莱橋近くに「イタリアンレストラン・アベーラ」を開業したそうです。 現在のお店は宝塚南口駅近くの閑静な住宅街にあり、オラツィオさんが帰天した後の1971年に“アモーレ・アベーラ”として元の自宅を改装して移転した店舗で、子息のエルコレ・アベーラさんがオーナーとなり、父親から伝授したシチリア風テイストを受け継いでおられます。芝生の庭を見ながらの席もよさそうです。 店内に入ると、創業者で『風よ僕らに海の歌を』のモデルとなったオラッツィオ・アベーラさんの写真が掛けられていました。 幾つかのお部屋があるようですが、80席の収容力があり、お昼に伺いましたが、ほぼ満席でした。 評判のピザも魅力的でしたが、今回オーダーしたのは「アベーラランチ」。焼きたての柔らかいグリッシーニは初めての味でした。前菜は生ハムとメロン。アサリのスパゲティは、貝柱も大きなアサリでトマトソースも美味しくいただきました。メインはシュニッツェルドルチェは抹茶のアイスクリームと苺のケーキ 食べログでも3.55の評価で、お店の雰囲気も味も、十分満足できました。さすが日本で一番歴史のあるイタリアンレストラン、その歴史を知るとファンになってしまいます。

須賀敦子『オリエント・エクスプレス』のエディンバラの足跡を追って

$
0
0
須賀敦子さんの回想的エッセイ『ヴェネツィアの宿』の最終章「オリエント・エクスプレス」の冒頭は、父豊次郎氏からロンドンからフライング・スコッツマンに乗って、エディンバラに行きステーション・ホテルに泊まるよう言われた話から始まります。<「朝、九時にキングス・クロス駅から、『フライング・スコッツマン』という特急列車が出ているはずです。それに乗ってエディンバラまで行ってください。パパも同じ列車でスコットランドへ行きました。エディンバラでは、ステイション・ホテルに泊まること」行ってください、という一見、おだやかでていねいな口調とはうらはらな「泊まること」という命令のほうが父の本音だということぐらいは、すぐにわかった。> 須賀さんは1959年8月にロンドンからエディンバラを訪れます。父親に言われた通り、ステーション・ホテルに向かった須賀さんは、そこで老バトラーと感動的な会話を繰り広げたのです。 私も『オリエント・エクスプレス』に登場する格式のあるステーション・ホテルが、現在はどのようなホテルになっているのか訪ねてみようと、スコットランドの古都、エディンバラに向かい、到着したのは6月13日のことでした。 そこには石造りの家など、他のヨーロッパ地域とは異なるスコットランド特有の風景が広がっていました。 一番、目についたのが、ほとんどの家の屋根にあるチムニー・ポット。 空港からホテルに向かう途中に見えるすべての家々の煙突に、チムニーポットが付いているのです。エディンバラ郊外の住宅地の風景です。 集合住宅風の家の煙突の上には何本ものチムニーポットが並んでいます。 一つ一つの暖炉に一本ずつチムニーポットが繋がっているはずなので、煙突の上のチムニーポットの数で暖炉がついている部屋の数がわかります。 チムニーポットを調べると、日本では園芸用品として販売されており、暖炉で薪が燃やされることもほとんど無くなった現在では、イギリスでも無用の長物となって取り外され、煙突上のチムニー・ポットは残り少なくなっているだろうと想像していました。 しかし、エディンバラに到着して目にした光景は、想像していたものと全く違う光景でした。 特にスコットランドは気温が低いせいか、はたまた北海のガス田に恵まれているせいか、薪や石炭を使う暖炉が少なくなった現在も、部屋ではガスストーブが暖炉に組み込まれて使われているようです。 メリーポピンズにも登場するチムニーポット。ロンドンでも健在なのでしょうか。

須賀豊次郎氏が宿泊したエディンバラのステーション・ホテル

$
0
0
父親からの手紙に書かれていたとおり、須賀敦子さんはエディンバラの「ステイション・ホテル」に泊まるつもりで、ロンドンからフライイング・スコッツマンに乗ってでかけます。須賀敦子『オリエント・エクスプレス』からです。<ロンドンを出るときは晴れ上がっていた空が、列車が北上するにつれて灰色になり、私の感覚では東京―大阪とほぼおなじくらいの距離と思えたエディンバラの駅に到着したのは午後の遅い時間だった。> このエディンバラの駅というのが問題ですが、先に進みましょう。 駅に降り立つとStation Hotelという赤いネオンが見え、それを目指して歩きます。暗い通路を行き着いて、いきおいよくドアを開けたとたん、その豪華さに圧倒されるのです。<あの安っぽいネオン・サインからは想像もつかない、ケイトウ色の赤い絨毯が海のように私の前にひろがっていて、通路の暗さとはうってかわった、まるで豪奢なルネッサンスの宮廷に迷い込んでしまったかと思うほど美しいシャンデリアが、クリスタルのしずくのひとつひとつに光を反射させて燦いていた。>Station Hotelという赤いネオンも、ホテルを探すのにヒントになります。<あちこちに真鍮がきらめいている、顔のうつりそうなマホガニーの腰高なカウンターの前に立つと、でっぷりふとった、そしてこれも正装した白髪の老バトラーがにこやかに近づいてきた。キングス・クロスの駅を離れてからずっと、往年の父の優雅な旅をあたまのなかで追ってきた私が、そのとたん、貧乏旅行しかしたことのない戦後の留学生に変身した。「もうしわけないけれど」私はバトラーの顔を見すえて、でもうっかりすると震えそうになる声を気にしながら、切り出した。「三十年まえ、このホテルに泊まった父にいわれて、駅からまっすぐこちらに来たのですが」> 私は今まで、このエディンバラのステーションホテルとは、エディンバラ・ウェーヴァリー駅のすぐ上にあるバルモラル・ホテルだと思っていました。 しかし、今回エディンバラに来て『地球の歩き方』のホテルの頁を開いてみると、「かつてステーション・ホテルとして、バルモラルとともに名をはせた古式ゆかしいホテル」と説明されていたのは、何と「ウォルドルフ・アストリア」というホテルだったのです。 上の地図の赤矢印の位置にある「ウォルドルフ・アストリア」は、「ステーション・ホテル」といってもプリンスィズ通りの西端にあり、ウェーバリー駅からはかなり離れているのに、何故ステーション・ホテルと名付けたのでしょう。 更に調べると1870年、そこにはPrinces Street Stationという駅が幹線駅として存在していたことがわかりました。しかも、この駅は1965年には完全に無くなっていたのです。 ここから、私の頭の中の混乱が始まったのですが、取り敢えずかつて「ステーションホテル」だったという「ウォルドルフ・アストリア」に向かいました。アーチ型の窓や入り口が駅舎を思わせるデザインになっています。当時存在したPrinces Street Stationの門も、現在は駐車場の入口となっていますが。残されていました。 豊次郎氏が宿泊したのは、このステーションホテルだったのでしょうか。帰国後に、もう一度今まで調査した資料と比較して、明らかにするつもりです。

ハリー・ポッターの作者J.K.ローリングが通ったカフェを訪ねる

$
0
0
NHKBSプレミアムのアナザーストーリーズ 運命の分岐点「ハリー・ポッター 魔法のような誕生劇」で、無名のシングルマザーだったJ.K.ローリングが、生活保護を受けながらエディンバラ市内の「Nicolson's Cafe」で、ハリー・ポッターを書いていたことが紹介されていました。 しかし、「地球の歩き方」を読むと、執筆活動をしていたのは、「Elephant House」と紹介されており、その二か所を訪ねました。 まずは、NHKで紹介されていたDrummond StreetとNicolson Streetの交差点にある「Nicolson’s Cafe」へ。 Nicolson's Cafe はその後、Chinese Buffet King という中華料理店となった後、Spoonというお店に変わったそうですが、それも閉鎖されています。現在は一階がThe Black Medicine Coffee Co.  というカフェになっており、二階は閉じられ行けなくなっていました。  通りに面したコーナーにJ.K.Rowlingがこの建物の二階(イギリスではFirst Floor)で初期のハリー・ポッターの章を書いたという小さな掲示がありました。 残念ながら今やその2階には行けなくなってしまいましたが、TVの紹介場面の映像です。 次に向かったのが「Elephant House」。ここは宣伝が行き届いているらしく、多くの人が店の前で写真を撮っていました。 店の前には”Birthplace”of Harry Potter と掲示されていました。しばらく席が空くのを待って中に通してもらいました。窓からは世界遺産のエディンバラ城が見えています。 因みにエディンバラ城は大きな岩山の上に聳え、その礎が映画『ハリーポッター』での、ホグワーツ城のモデルとなったと言われています。J.K.Rowlingが使っていたのは、ここでもエディンバラ城が見える窓際の一番端の席だったそうです。 私が通されたのは、幸いにもその隣の席でした。窓際に座っていたのはJ.K.Rowlingを思わせる若い女性で、彼女も熱心に写真を撮っていました。訪ねてみるとやはりJ.K.Rowlingのファンとのこと。 ところでElephant Houseが本当に”Birthplace”of Harry Potterなのか調べてみました。彼女がエディンバラに越してきたのは1993年で、最初の原稿が書きあげられたのは1995年。Elephant Houseのオープンは1995年ですから、彼女はここではほとんど最初の小説を書いていないことになり、誇大広告に違いありません。この宣伝は地元の人も快く思っていないとか。Elephant Houseで執筆していたことも事実らしいのですが、多くは義弟の店のNicolson’s Caféを使っていたそうです。

英国で、最も素晴らしい景色のバス停?

$
0
0
湖水地方の旅で泊まったホテルは、ウィンダミア駅から555番のバスで約10分のところにあるリゾートホテルですが、そのバス停には、次のようなしゃれた宣伝文句が。The Most Senic Bus Stop in Great Britain?ウィンダミア湖の美しい景色が広がります。ヨットハーバーが見えています。湖水地方にあるイングランド最大の湖ウィンダミア湖。レークディストリクト国立公園の景色が広がりますが、最後の?がイギリス人のウイットでしょうか。それとも1850年創業というバス停の前に立つホテルが考えた誇大宣伝?

ハリー・ポッターのホグワーツ特急の始発駅、キングス・クロス駅へ

$
0
0
キングス・クロス駅は、1852年に開業したロンドンの主要鉄道ターミナルで、須賀敦子さんがフライイング・スコッツマンでエジンバラに向かった駅ですが、J.K.ローリングの小説『ハリー・ポッター』シリーズでホグワーツ特急の始発駅として登場する有名な駅です。 ホグワーツ特急は秘密の9¾番線に発着しますが、それは9番線と10番線の間の煉瓦の壁を通り抜けたところにあり、そのセットが実際に設置されていました。 ところが、駅の改造によりプラットホームに自由に入れなくなり、そのセットの位置も動かしたと聞いていましたので、現在はどのようになっているのかと、確かめに行きました。 地下鉄サークルラインのキングス・クロス・セント・パンクラス駅で降りると、最初に入ったのが立派なセント・パンクラス駅で、ここはユーロスターの終着駅となっていました。 その隣が、1852年開業のキングス・クロス駅で、当時描かれた絵と比較しても、駅舎の外観は保存されているようです。 しかし改修工事により、プラットホームには自由に入れなくなっています。The Harry Potter Shop at Platform 9¾9の入口の横の壁にセットがあり、写真撮影の行列ができていました。写真撮影の申し込みはShopの中でするようです。Shopにはハリーポッターのグッズで一杯でした。ここではハリー・ポッター人気は少しも衰えていませんでした。

須賀敦子さんがキングス・クロス駅から乗ったフライイング・スコッツマン

$
0
0
須賀敦子さんの『ヴェネチアの宿』の最終章「オリエント・エクスプレス」は次のように始まります。<「朝、九時にキングス・クロス駅から、『フライイング・スコッツマン』という特急列車が出ているはずです。それに乗ってエディンバラまで行ってください。パパも同じ列車でスコットランドへ行きました。エディンバラでは、ステイション・ホテルに泊まること」行ってください、という一見、おだやかでていねいな口調とはうらはらな「泊まること」という命令のほうが父の本音だということぐらいは、すぐにわかった。>キングスクロス駅の外観は昔の様子のまま残されていました。<フライイング・スコッツマン、空飛ぶスコットランド男、たぶん、父はなによりもその列車の名前が気にいっていたのだろう、自分に似て旅の好きな娘をそれに乗せて古い北方の首都まで行かせる。一見、唐突にもとれる手紙だったのだが、いかにも彼らしいロマンがそこには読みとれて、父への反抗を自分の存在理由にしてきたみたいにしてきた私も、こんどばかりはめずらしくすんなりと彼の命令を受けるつもりになった。> 須賀さんがフライイング・スコッツマンに乗ってエジンバラを旅したのは1959年のことですが、1959年に走っていたフライイング・スコッツマンの写真がありました。まだ蒸気機関車のままでした。<そしてキングス・クロス駅で、おどろいたことに父の言ったとおりの列車が言ったとおりの時間に出るのを知ってほとんど無力感におそわれながらも、さっそく三等車の切符を求めると、八月十八日の出発を心細さと期待のまざった気持ちで待ちわびた。> 調べてみるとフライング・スコッツマンは、1862年からずっとキングスクロス駅の同じプラットフォームの10番線から同じ時刻の午前10時にエジンバラに向けて出発しているのです。これもイギリス人の伝統を頑なに守る気質からでしょうか。このフライイングスコッツマンが、ハリー・ポッターのホグワーツ特急のモデルになっているのです。ホグワーツ特急もフライイングスコッツマン同様、キングスクロス駅を毎11時に93/4線から出発するのです。話が逸れましたが、これから須賀敦子さんの「オリエント・エクスプレス」に登場するエディンバラのステーションホテルを明らかにしていきます。

ミュージカル『オペラ座の怪人』を見にハー・マジェスティーズ劇場へ

$
0
0
 ロンドン最後の夜、この機会にミュージカルを見に行こうとホテルのコンシェルジェに相談すると、伝統あるハー・マジェスティ―ズ劇場で『オペラ座の怪人』を上演しているとのこと。早速座席をリザーブしてもらいました。 劇場は1705年に開場し、18世紀から19世紀にかけてはバレエやオペラなどが上演され、20世紀になってミュージカルの上演が多くなったそうです。そもそも、『オペラ座の怪人』は、この劇場で1986年10月6日に世界初演されたとのことで、そこで観劇できるとは。ピカデリー・サーカスから通りを南に向かうと、重厚な建物が見えます。19時前に着きましたが、まだまだ外は明るい状況。劇場の入口を入ると座席の位置の方向が示されています。チケットを見せると、すぐに地階のバーに案内され、開演までの時間を座ってゆっくり過ごすことができました。内部は4階建てで約1,200人収容。上を見上げて日本の劇場にはない豪華な造りにビックリです。立派な劇場ですが、ミュージカルの場合は皆さんカジュアルな服装です。比較的前の座席でも、1ポンドでオペラグラスが借りられるようにセットされていました。公演中は撮影できませんので、購入したパンフレットから。まさに写真そのものの舞台が繰り広げられました。ファントム、クリステーヌはじめ、全員が素晴らしい声量と音域です。大阪の四季劇場で見た『オペラ座の怪人』は生演奏ではなかった記憶ですが、今回はオーケストラ・ピットから力強く、また繊細で、情緒豊かな演奏を聴くことができました。終了後、オーケストラ・ピットを覗きに行くと、ハープも置かれていました。 最後はスタンディング・オベーションとなりましたが、これは前の人が立ちだすと、座っていると舞台挨拶が見えないので、全員立たざるをえなくなるということがよく分かり、良い経験となりました。外に出ると10時をまわり、ようやく暗くなっていました。 観劇の楽しみ方にも、日本には追い付けないイギリス文化の歴史と伝統を強く実感した次第です。帰ってきて調べると、ホームページからチケットの購入は可能で、価格は£151.25から£27.75まで9種類に細かく分けられ、視界を遮るものがあれば明記されており、日本に比べて、リーズナブルな価格設定になっていました。

須賀豊次郎氏が宿泊したエディンバラのステーションホテル

$
0
0
須賀敦子さんの父豊次郎氏は1936年日本貿易振興協会主催による世界一周実業視察団体団旅行に参加し、途中ロンドンのキングス・クロス駅からフライイング・スコッツマンに乗ってエディンバラを訪れます。そのステーションホテルを訪ねるのが今回のイギリス旅行の楽しみでした。 しかし、エディンバラでステーション・ホテルと呼ばれたのが上の写真の「ウォルドルフ・アストリア」だと知り混乱したのですが、やはり豊四郎氏が宿泊し、1959年に須賀敦子さんが訪ねたのは現在のバルモラル・ホテル(旧North British Station Hotel)だったようです。 エディンバラには当時、カレドニアン鉄道のプリンシーズ・ストリート駅とノース・ブリティッシュ鉄道のウェーバリー駅がありました。 しかし、ロンドンからフライイング・スコッツマンが向かったエディンバラの駅はウェーバリー駅であったことがわかり、そのステーションホテルとは現在のバルモラル・ホテル、当時のNorth British Station Hotelに違いないようです。写真は1948年のウェーバリー駅とNorth British Station HotelNorth British Station Hotelは1902年開業し、1988年までその名前で続いていました。須賀敦子『オリエント・エクスプレス』からです。<ロンドンを出るときは晴れ上がっていた空が、列車が北上するにつれて灰色になり、私の感覚では東京―大阪とほぼおなじくらいの距離と思えたエディンバラの駅に到着したのは午後の遅い時間だった。>現在のウェーバリー駅の様子です。現在も古い駅舎の面影をとどめています。ウェーバリー駅はエディンバラの新市街と旧市街の間の谷にあります。 現在のウェーバリー駅から地上に上るスロープですが、当時はどんな道がホテルにつながっていたのでしょう。 須賀さんは駅に降り立つとStation Hotelという赤いネオンが見え、それを目指して歩きます。暗い通路を行き着いて、いきおいよくドアを開けたとたん、その豪華さに圧倒されるのです。地上から見たバルモラル・ホテルです。<あの安っぽいネオン・サインからは想像もつかない、ケイトウ色の赤い絨毯が海のように私の前にひろがっていて、通路の暗さとはうってかわった、まるで豪奢なルネッサンスの宮廷に迷い込んでしまったかと思うほど美しいシャンデリアが、クリスタルのしずくのひとつひとつに光を反射させて燦いていた。>現在も美しいシャンデリアがあるロビーです。昔はもっと豪華絢爛だったようですが、ここで須賀敦子さんと老バトラーとの素晴らしい会話が始まるのです。<あちこちに真鍮がきらめいている、顔のうつりそうなマホガニーの腰高なカウンターの前に立つと、でっぷりふとった、そしてこれも正装した白髪の老バトラーがにこやかに近づいてきた。キングス・クロスの駅を離れてからずっと、往年の父の優雅な旅をあたまのなかで追ってきた私が、そのとたん、貧乏旅行しかしたことのない戦後の留学生に変身した。「もうしわけないけれど」私はバトラーの顔を見すえて、でもうっかりすると震えそうになる声を気にしながら、切り出した。「三十年まえ、このホテルに泊まった父にいわれて、駅からまっすぐこちらに来たのですが」><「こちらでいちばん高くない部屋はいくらぐらいかしら?」消えてしまいたい気持ちをおさえて、でも、一歩もゆずってはだめだと、さっぱり気分にそぐわない笑顔をつくった。>今回は粋な老バトラーには出会えませんでしたが、キルトを着たドア・マンも風格を漂わせています。

須賀敦子さんがエディンバラで宿泊したホテルは

$
0
0
 須賀敦子さんが父親に強く勧められてエディンバラを訪れたのは昭和34年30歳の時でした。 父親の勧めでステイション・ホテルに宿泊しようとしますが、日本からの留学生の予算にはとてもあいそうもなく、老バトラーに別のホテルを教えてもらうことになります。 須賀さんは、到着したNorth British Staion Hotelのロビーで、意を決して老バトラーに次のように切り出します。<「もうしわけないけれど」私はバトラーの顔を見すえて、でもうっかりすると震えそうになる声を気にしながら、切り出した。「三十年まえ、このホテルに泊まった父にいわれて、駅からまっすぐこちらに来たのですが」そういうと、はてな、といった表情が一瞬、老バトラーの顔をよぎったが、それでも彼はまったく笑顔をくずすことなく、カウンターのこちら側に身をのりだすようにして私のいうことに耳を傾けてくれた。>写真の左側のカウンターでの出来事かもしれません。<「どうも、私の予算にくらべて、こちらは立派すぎるようです」覚悟を決めて私が一息にそういってのけると、「ほっほ」というような、深みのある音がバトラーの口から洩れた。「それで?」「こちらでいちばん高くない部屋はいくらぐらいかしら?」消えてしまいたい気持ちをおさえて、でも、一歩もゆずってはだめだと、さっぱり気分にそぐわない笑顔をつくった。> 結局、どれも須賀さんの予算をはるかに超えるものでした。<「ほんとうに申し訳ないけれど……」私はもういとどくりかえした。「あまり遠くないところで、こちらほど上等でなくて、でもしっかりしたホテルをおしえていただけないかしら。父に言われていたので、ここに泊まることだけを考えて来たものだから」老バトラーの目が糸のように細くなり、野球のグローブのような手をまるめてペンをにぎったと思うと、ステイション・ホテルの紋章がついた贅沢な用箋にすらすらと別のホテルの名を書きつけ、ウィンクしながらそれを背の高いカウンターのまえで背伸びしてる私に差し出した。「正面のドアを出て、通りを渡ったところです。ちゃんとしたホテルだから、安心なさって大丈夫です。では、おじょうさん、よいご旅行を」>とバトラーに希望にあった近くのホテルを教えてもらうのです。日本人としての須賀さんの態度もさすがですが、述べられている老バトラーの対応も素晴らしく、これぞ伝統のスコットランドのバトラーといったものでした。 須賀さんがこの時宿泊されたホテルの名前は、松山巌さんが作成された年譜に記されていました。<昭和三十四年十月九日、午前十時に部屋を出て、タクシーで、キングス・クロス駅に。午前十一時半の列車に乗り、ヨーロッパではじめて食堂車で昼食。六時半、エジンバラに到着。ロイヤル・ブリティッシュ・ホテルに泊まる。>たしかにロイヤル・ブリティッシュ・ホテルはプリンセス通りを渡った向かいのホテルでした。時計塔のあるバルモラル・ホテル(旧North British Station Hotel;写真右)と須賀さんの宿泊したロイヤル・ブリティッシュ・ホテル(写真左端)です。<エディンバラのステイション・ホテルのある通りをへだてて斜向いの小ざっぱりしたホテルの清潔なベッドで目をさますと、私はこの思いがけない宿に来ることになった前夜の出来事を考えて、いろいろあったけれど、とにかくすべてうまくいったと思うと、いまいる部屋の落着いたたたずまいにも気がなごんで、羽枕ほどふわふわした満足感が、じんわりとからだにひろがっていくのだった。> 賑わっているプリンセス通り。左側にロイヤル・ブリティッシュ・ホテルがあります。しかし、調べるとロイヤル・ブリティッシュ・ホテルも1899年開業の伝統あるホテルでした。

須賀敦子さんの訪れたエディンバラ城へ

$
0
0
須賀敦子さんは父親がなんども話してくれたエディンバラ城を訪れます。「オリエント・エクスプレス」からです。<あっち、と見当をつけおいた方角にむかって、私はホテルの前のプリンセス・ストリートを西にむかって歩いた。エディンバラ城の容姿を、遠くからでもいいから、日が暮れてしまわないうちに視覚におさめておきたかったからだ。>須賀さんの泊まったホテルはバルモラルホテル(元North British Station Hotel)とプリンセス・ストリートを挟んで向かいにあるロイヤル・ブリティッシュ・ホテル(地図中、赤矢印)でした。ホテルにチェックインして、すぐにプリンセス・ストリートをエディンバラ城に向かって歩かれたようです。<まもなく左手の視界が開けたが、窪地をあいだに挟んでいるのだろう、すべてが灰色に煙ったなかで、目をこらすとその谷のようにえぐれた土地をへだてて、異様な形骸の黒い岩壁がそそりたっていた。ホテルを出てから、ずっとなんの変哲もない街並を歩いてきたものだから、突然あらわれた岩山はただ奇異としかいいようがなくて、一瞬、幻覚におそわれたのかと、私は思わず目をとじてしまった。ホテルでもらった簡単な地図によると、それはたしかにエディンバラ城の方角だったが、目のまえにあるのが城砦なのか、ただの岩山なのか、判断がつかない。夕食の時間なのだろう、あたりの人影がさっとなくなって、霧だけが道に流れていた。>プリンセス・ストリートから見たキャッスル・ロックという岩山の上に建つエディンバラ城です。昼間訪問しましたので、須賀敦子さんの見た城郭とは少しイメージが違いますが、中に入ってみましょう。入口はもう観光客でいっぱいでした。立派な城門をくぐって、坂を上っていくと砲台のある広場に出ます。ここからは北の方に新市街やフォース湾が見渡せます。東側の光景。ウェバリー駅、須賀豊次郎氏が泊まったNorth British Station Hotel、須賀敦子さんが泊まったロイヤル・ブリティッシュホテルも見えています。 エディンバラ城は7世紀にノーサンブリアの王エドウィンが造った砦が元になっていますが、現存する最も古い建物は十二世紀の聖マーガレット礼拝堂です。 上りきるとクラウン・スクエアにたどりつき、王宮、グレートホール、戦没者記念堂などの建物が中庭を取り巻くように建っています。その他にも、兵舎、火薬庫、病院、戦争博物館、牢獄などがありました。この城からの新市街を見晴らす景色は素晴らしいものでした。ただ新市街と言っても1793年に建設された街ですから、恐れ入ります。

100年前のW.アーヴィングによるシェイクスピア生誕の地の聖地巡礼

$
0
0
アメリカ文学の父、W.アーヴィングの最高傑作と言われる『スケッチ・ブック』の下巻は約100年前の1815年にヨーロッパへの旅に出た作者が、そのときの体験や見聞を綴った作品集です。 その中に「ストラットフォード・アポン・エイボン」という章があり、シェイクスピアの生家を訪ねています。<私はそもそも文学的な聖地巡礼の一環としてストラットフォード・アポン・エイボンまで足を延ばしたのだ。そこで最初に立ち寄ったのがシェイクスピアの生家であったというわけである。> そうかアメリカには100年も前から「文学的な聖地巡礼」という言葉があったのです。<あちらこちらから漏れ伝わることによると、シェイクスピアの父親は毛織物の生産を生業としていたようだ。したがって、この文豪はそのような環境で育ったことになる。シェイクスピアの生家は木造に白壁を施したみすぼらしい小さな建築物であり、いかにも大詩人の巣ごもりの場所らしく、その部屋の片隅で雛を孵すのにふさわしいように思われた。> 私も機会を得て、アーヴィング同様ストラットフォード・アポン・エイボンを訪ねシェイクスピアの聖地巡礼をすることができました。シェイクスピアの父親は、革手袋職人を本業としながらも、羊毛や金貸しで事業に成功し、裕福に暮らしていたようです。シェイクスピアの生家は、アーヴィングが述べているようなみすぼらしいものではなく、朝から聖地巡礼の観光客が並んでいました。それもそのはず、公式ガイドブックによると、19世紀の最初の40年間で生家は老朽化し、アーヴィングが訪れた後の1847年には売りに出されていたのです。写真はシェイクスピアの売り出しポスターで1847年9月16日にロンドンのオークションにかけられることが告示されています。しかし、幸いにしてチャールズ・ディケンズを筆頭に著名人が名を連ねたシェイクスピア・バースデイ委員会が寄金を集めて1847年に国のものとして屋敷を買い取ったそうです。そして写真の1762年のリチャード・グリーンのスケッチに基づいて、修復されたのです。中に入ると1574年当時の様子が再現されています。The Parlour 居間です。どの部屋にも大きな暖炉があり、作の上には父親が作って商売をしていた革手袋が置かれています。The Hall 食堂のようです。朝の6時から学校へ行っていたシェイクスピアは昼食は戻ってここで食べます。父親の革の工房です。The Boys’ Room 子供部屋です。シェイクスピアは5歳の時からこの部屋で弟のリチャードとギルバートと共に過ごしました。The Birth Placeシェイクスピア誕生の部屋です。1564年4月23日にここで生まれました。 W.アーヴィングの目を惹いたのはシェイクスピアの使った椅子でした。『スケッチ・ブック』の「ストラットフォード・アポン・エイボン」からです。<しかし、何といっても私の好奇心を掻き立てたのはシェイクスピアが使用した椅子の存在である。この椅子は、その昔、父親の毛織物づくりの作業場として使われていた部屋に隣接する薄暗い小さな一室の暖炉のそばに置かれてあった。おそらく幼少の頃のシェイクスピアは幾度となくこの椅子に座って、待ち遠しさともどかしさに駆られながら、ゆっくりと回転する焼肉用の串を眺めていたことであろう。>その椅子が今でも置いてありました。<シェイクスピアの生家を訪れる人は、必ずといってよいほど、この椅子に腰かけるが、どうやらこれまでの慣習に従っているようだ。すなわち、この椅子に座ることによって、この大詩人から何かインスピレーションを得ようという淡い期待感があるのか、私には分からない。ただ事実を申し述べているだけである。案内人の老女がそっと私に言うには、この椅子はしっかりとした樫の木で作られているが、シェイクスピアの崇拝者たちの燃えるような熱意により傷みやすく、少なくとも三年に一度は椅子の底の革を張り替える必要があるらしい。>当然ですが、世界中の観光客が100年前とは比べものにならないほど多く訪れる現在は、この椅子に座るのは禁止されていました。生家の裏庭からの眺めです。もう少しストラット・アポン・エイボンでシェイクスピアの聖地巡礼を続けます。

『ハリー・ポッターと賢者の石』20周年!J.K.ローリングからメッセージ

$
0
0
6月26日、児童文学「ハリー・ポッター」シリーズ第1作の出版から丸20年を迎え、作者のJ.K.ローリングはTwitterで「20年前のきょう、私が独りで生きてきた世界は突然外に開かれた。素晴らしいことだった。ありがとう」とつぶやいています。J.K. Rowling ✔ @jk_rowling20 years ago today a world that I had lived in alone was suddenly open to others. It's been wonderful. Thank you.#HarryPotter20 何年前だったでしょう、私は映画を見てから原作も読みましたが、大人も引き込ませるストーリー展開に興奮したものです。「ハリー・ポッター」シリーズが世界的ベストセラーとなり、今もなおこのように称賛されるのは、その裏に、J.K.ローリングのシングルマザーとしての苦難と波乱万丈の人生経験やミリオネア―となった現在も続けている社会貢献活動があるからでしょう。 J.K.ローリングは1992年ポルトガルで結婚し、翌年、一女ジェシカを出産します。しかしその4ヶ月後には破局を迎え、妹ダイが住むエディンバラに向かったのです。1993年12月の雪が降りしきる日にエディンバラの社会保障局で生活保護と住宅手当を申請しますが、その時のことをタブロイド紙ザ・サンに「シングルマザーとして」という見出しで、次のように述べています。<これからは週に70ポンドで暮らすんだと実感しました。たった70ポンドで、自分と娘の食べものや身のまわりのものを買って、すべての支払いをしなくてはならなかかったのです。>シングルマザーの苦境は英国でも同様のようです。<ほとんどのシングルマザーはそれほど運が良くないと言われますが、それは控えめな表現にすぎません。英国では、シングルペアレントを家長とする家庭の60%が貧困にあえいでいるのですから。> その頃から、ローリングは義理の弟のロジャーが買い取ったカフェ、ニコルソンズで「ハリー・ポッター」を書き始めたのです。その様子は、ショーン・スミス『J.K.ローリングその魔法と真実』に詳しく書かれていました。<ロンドンで働いていたときも、その後オポルトで暮らしたときも、コーヒーハウスはジョアンの創造力の源となっていたが、乏しいと言えるほどのお金すらない身では、特製のコーヒーを何杯もお代わりしながら居座り続けるというわけにはいかなかった。ニコルソンズはまさに天からの贈りものだった。家族が経営する店だったので、スタッフもジョアンには好意的で、一時間、ときには二時間かけて一杯のコーヒーをすすっていても文句は言わなかった。>娘のジェシカを乳母車に乗せて家を出て眠るのを待ってDrummond StreetとNicolson Streetの交差点にある「Nicolson’s Cafe」に入ったようです。(赤矢印)その娘のジェシカも今や22歳です。昔のニコルソンズの写真がありました。しかしその場所に行ってみますと、現在は一階がThe Black Medicine Coffee Co.  というカフェになっており、2階の外壁は白く塗り替えられSpoonというお店に変わっており、それも閉鎖されていました。通りに面したコーナーにJ.K.ローリングがこの建物の二階(イギリスではFirst Floor)で初期のハリー・ポッターの章を書いたという小さな掲示がありました。<ジェシカがすやすやと眠っているときは、まっすぐニコルソンズへ向かった。そして、苦労しながら二十段の階段をのぼって二階のフロアに行くと、静かな隅のテーブルに陣取って、ハリー・ポッターの構想を練るのだった。当時のニコルソンズには、庶民的で、陽気な学生風の雰囲気があった。店内は青と黄色で彩られ、壁にはマティスの複製画が並び、窓や照明は個性あふれるアールデコ調。ジェシカが眠っている間に原稿を書くといいうのが理想的なパターンだった。> NHKBSプレミアムのアナザーストーリーズ 運命の分岐点「ハリー・ポッター 魔法のような誕生劇」で、ローリングがいつも座っていた場所が再現されていました。J.K.ローリングにとってカフェは安らぎの場でもあり、創造の場でもあったようです。
Viewing all 2518 articles
Browse latest View live