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Channel: 阪急沿線文学散歩
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遠藤周作の子供の頃の遊び場、夙川公園(『一人の外国人神父』より)

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遠藤周作は昭和8年10歳の時から、昭和14年16歳で仁川に転居するまでの少年時代に、夙川に住んでいました。 その頃の様子について、エッセイ集『心のふるさと』に収録された「一人の外国人神父」(初出;文芸春秋 1994年2月号)で次のように述べています。<その夙川公園は少年時代の私の遊び場であった。今でもあの公園を友達と自転車のベルを鳴らしながら走っていた中学生頃のわが姿が思い浮かぶ。> 遠藤周作は雲井町あたりに住んでいたそうなので、夙川公園とは自転車で走り回っていたのは蟋蟀橋と大井手橋の間のあたりのことでしょう。<夙川はいわゆる阪神の住宅街で、少年時代、私はそこで育った。今は大分、様変わりしたが、当時は駅前に商店があるだけで、あとはのんびりとした住宅ばかりだった。>遠藤周作が夙川に住んでいた、のんびりとした住宅ばかりの昭和11年の鳥瞰図です。昭和12年ごろの夙川駅前の商店の配置図です。(「夙川地区100年のあゆみ」より)<夙川の名所のひとつは、そこにフランス式の高い尖塔を持ったカトリック教会のあることだった。フランス式というのは、後になって私があの国に留学した折、田舎に行くと、小さな町や村に同じような大きさの、同じような形の教会をしばしば眼にしたからである。>遠藤周作がフランス留学中に見たカトリック教会です。(NHK-BSプレミアムカフェ「ルーアンの丘から 遠藤周作・フランスの青春」より)<向こうではあたり前の教会でも当時の日本では珍しいものだった。クリスマスや復活祭になると尖塔で鳴らす鐘の音が夙川の町のどこからも聞こえた。>夙川カトリック教会の聖堂は昭和7年に完成し、直後にカリヨンも据え付けられました。 2011年の修復が完成し、カリヨンの音が甦りました。<私はこの教会で洗礼を受けた。別にそれは私の意志ではなく、母親のいいつけに従っただけだったが、同じように公教要理という基督教の基本的な教えを学ばされている信者の子供たちとここで仲良くなった。>夙川カトリック教会で洗礼を受けたことが、遠藤文学の原点となっているのです。

椹野道流『最後の晩ごはん』第二作の舞台は芦屋市ルナ・ホール

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 椹野道流『最後の晩ごはん』第二作「小説家と冷やし中華」では、「ばんめし屋」の上顧客である小説家淡海五朗の妹の幽霊が登場します。 淡海五朗のかつての教え子が「劇団バーサンズ」を立ち上げ、ルナ・ホールで朗読劇『安寿と厨子王』を上演することになります。<「そうそう!実は彼女たちがね、来月、発表会を開くんだ」「発表会?朗読の、ですか?」「うん。友達や家族に、自分たちの朗読を聞いてほしくなくなったんだってさ。JR芦屋駅近くにルナ・ホールってあるの、知ってる?」海里はちょっと考えてから曖昧に頷いた。「たぶん、あれのことですよね。国道二号線を超えて、芦屋川ぞいにずーっと上がっていくとある、コンクリートにちょっとツタが張った建物」「そうそう、それ」「結構立派なホールじゃないですか、あそこ」「そうなんですけどね、借りるのはあくまでも小ホールだから、舞台として平台を置いたら、詰め込んでもせいぜい百人くらいしか入らないんじゃないかな。勿論、そんなに人は来ないだろうけど」> 芦屋川ぞいに立つ、坂倉建築研究所設計のルナ・ホールです。 写真を撮って気が付きましたが、芦屋市は六麓荘に限らず、市街地の無電柱化を進めているそうで、ルナ・ホールのある芦屋川沿いには電柱がなく、美しい写真が撮れました。  この後、「ばんめし屋」の上顧客である小説家淡海五朗の複雑な出自と、異父兄妹で、高二のときに、居眠りトラックに轢かれて亡くなった妹の純佳の存在が明かされます。<それから四日後の日曜日。いよいよ、発表会当日である。ルナ・ホールの小ホールでは、貸出時間の午後一時から、夏神と海里、それに淡海が会場設営を始めた。淡海は、数日前のことなど忘れたようなひょうひょうとしたいつもの態度を保っており、夏神と海里も。彼の妹の幽霊については、何一つ口に出しはしなかった。ホールの一角に平台を置いて小さな舞台を作り、舞台と客席に椅子を並べ終わるころ、絶妙のタイミングで本日の主役、劇団の面々が到着した。>ルナホールの小ホールです。 壁面が鏡になっており、普段ダンスの稽古などにも使われるそうです。演劇などは、カーテンを閉め、前に平台を置いて、会場にパイプ椅子を並べ上演するそうです。スポットライトを点けてもらうとこんな雰囲気になりました。 小説には、借りるときの費用や様子が詳しく書かれており、椹野道流さんは実際にお使いになったことがあるのではないでしょうか。 第二作は兄妹の互いに思いやる心が描かれた泣けるストーリーになっていました。

門井慶喜『屋根をかける人』に描かれたW.M.ヴォーリズの結婚式

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玉岡かおるさんの『負けんとき』以来、久しぶりにウィリアム・メレル・ヴォーリズをモデルにした門井慶喜著『屋根をかける人』が刊行されました。 内容は、次のように紹介されており、早速読ませていただきました。<「日本人として生きる」ことを選んだアメリカ人建築家の壮絶な一代記明治末期にキリスト教布教のために来日したアメリカ人建築家、メレル・ヴォーリズ。彼は日本人として生きることを選び、 終戦後、昭和天皇を守るために戦った――。彼を突き動かした「日本」への思いとは。> そのなかで、ヴォーリズの人生のハイライトである満喜子との結婚式のシーンを紹介しましょう。やはり小説ですから、明治学院のチャペルで挙式した経緯などは『負けんとき』とは捉え方が異なりますが、結婚式の様子の描き方はそれぞれ興味をそそられます。 結婚式を挙げたのは、メレル自身が設計した、東京白金台の明治学院チャペル。大正8年6月3日、メレル38歳、満喜子34歳のときでした。近江八幡の旧八幡郵便局の二階展示場で、二人の結婚式の写真が展示されていました。<結婚式の二週間前、メレルは満喜子と共に会場の下見をしたのだが、そのときはもう我ながらどうしようもないはしゃぎ声で、「ほら、満喜子さん、あそこに祭壇があるでしょう」「あります」「さっき外から見たとき、ひときわ高い尖塔があったでしょう」「ありました」「あの尖塔の真下がこの祭壇なのですよ」「へえ」満喜子は苦笑いしたようだった。それくらいわかると言いたかったのかもしれない。>ヴォーリズが設計した明治学院チャペルです。高い尖塔が見えています。<メレルは天井のあちこちを指さしながら、「天井も、わざと木の骨組みを見せているんですよ。あの木と、あの木は再利用」「再利用?」「旧チャペルの廃材です。いくら好景気の世の中でも、建築費は惜しまなければ」>チャペル内部の様子です。木の骨組みが見えていて、華美に走らないヴォーリズ建築の設計思想が伺えます。当日の列席者は、約三百人に及んだそうです。満喜子の隣に立っているのが、満喜子の兄広岡恵三の妻かめ子です。 かめ子の実母で、ふたりの結婚をいちばん応援した広岡浅子は、この半年前に腎臓炎の悪化により亡くなっていました。

門井慶喜『屋根をかける人』に描かれたヴォーリズ設計の広岡本邸

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W.M.ヴォーリズの波乱の人生を題材にした門井慶喜『屋根をかける人』では、広岡浅子がヴォーリズに依頼し、建てられた広岡本邸の場所が明らかにされています。 小説では、広岡浅子が亡くなる直前に、見舞いに来たメレルに次のように言い残します。<その直前、メレルは満喜子とともに浅子をみまった。浅子はベッドのから起きられなかった。指で押した痕がのこるほど顔がむくんでいて、意識もやや遠かったが、それでも目を見ひらいて、「……ほんてい」「え?」「本邸、はよ建てなはれ」>広岡浅子が亡くなったのは大正8年1月ですが、その翌年に本邸が完成しています。広岡浅子の実の娘が広岡亀子、その夫がヴォーリズの妻・満喜子の実兄・広岡恵三です。<兵庫県武庫郡本山村の広岡本邸は、翌年、完成した。 施工は神戸の気鋭の会社、竹中工務店が担当した。実質上の施主である浅子はもうこの世にはいなかったが、それでも広岡恵三・亀子の主人夫婦に五人の子供、アメリカ人家庭教師、執事、それに多数の女中や下僕がいっぺんに住み始めたため、村そのものが活気づいた。一家というより、一企業が誘致されたような騒ぎだった。>現在の住所は神戸市東灘区本山町森で、現在の甲南女子大一帯が広岡本邸の跡地だったのです。小説に書かれているように、ヴォーリズ建築には珍しい、お城のような広岡本邸でした。大同生命大阪本社の特別展に展示されていた、広岡夫妻・ヴォーリズ夫妻の写真です。神戸の大邸宅のベランダで撮影したもののようです。

『涼宮ハルヒの憂鬱』に登場した阪急甲陽線水道道踏切と甲山

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現在、BSプレミアムで『涼宮ハルヒの憂鬱』が毎週金曜午後11時45分から再放送されています。先日見ていると、阪急甲陽線の水道路踏切のシーンが登場していました。阪急甲陽線沿いに水道路踏切へと歩く、涼宮ハルヒとキョンです。水道路踏切で立ち話する二人です。背景に描かれているなだらかなカーブの山は、実際の写真と見比べてもらえばお分かりのように甲山がモデルなのです。でも、もう少し甲山らしく描いてほしかった。阪急電車も登場です。でも渋いマルーン色が、アニメでは少し残念な色です。 ところでこの踏切がどうして「水道路」踏切と呼ばれているかご存知ですか。 神戸市は、上水道水源として、千苅貯水池から宝塚市を横切り、西宮市に新設した上ヶ原浄水構場(浄水場)を経て、神戸市内までの水道の建設に大正3年に着工し、昭和6年に完成させています。甲山森林公園展望台から見える上ヶ原浄水場です。 この水路のことを神戸水道と呼び、水道管を埋設した上を管理し易いように道路にしていたため、住民からも水道路と呼ばれていたのです。 水道路は大池の南側の道から甲陽線水道路踏切を通り、夙川学院前の道から芦屋方面に向かっています。でも今や、西宮ではほとんどの方はご存知ないようです。ここにあった夙川学院の中・高等学校の校舎は跡形も無くなっていました。残されたのは付属幼稚園だけのようです。

グリコ・森永事件が題材の『罪の声』に登場する思い出の阪神パーク

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グリコ・森永事件を題材にして、昨年の「週刊文春ミステリーベスト10」で第1位に選ばれた『罪の声』の作者は、尼崎市生まれ、関西学院大学社会学部卒業、2012年に神戸新聞社を退社し、専業作家となったという塩田武士氏。 著者は、「この一冊を書くために、グリ森の関連書籍や公表されている資料に可能な限り当たったのはもちろん、事件が起こった84年から85年にかけての新聞すべてに目を通しました。事件現場にも何度も足を運びましたし、周辺に住んでる方への「聞き込み」もやりました。」と取材への情熱を語り、『罪の声』の最後のページには、<本作品はフィクションですが、モデルにした「グリコ。森永事件」の発生日時、場所、犯人グループの脅迫・挑戦状の文言、その後の事件報道について、極力史実通りに再現しました。>記しています。 現場の様子から脅迫状の文言に至るまで、忠実に再現しながら、80年代半ばの日本社会の世相を描き、事件が紐解かれていくという構成によって、「グリコ。森永事件」の臨場感を味わいながら読み進むことができた作品でした。 著者が取材する過程で、特に印象に残ったのは大阪の摂津市にある水防倉庫と述べています。<ここは「グリ森」で江崎勝久社長が実際に監禁された場所ですが、行ってみると、倉庫だけがぽつんと立ち、周辺には何もない。「犯人に土地鑑がなければ、絶対にここには連れてこないだろう」と改めて思いましたね。> 私がこの作品の中で印象に残ったのは、今も当時の姿のまま残っている水防倉庫とは対照的に、2003年に閉鎖され、今や跡形も無くなっている「阪神パーク」の光景。 ネタバレになりますので、登場人物の説明はいたしません。<「時期は分からないんですが、達夫さんは一度、俊也さんを動物園に連れていかれたみたいですよ。阪神パークやったかな」阪神パークはかつて甲子園球場前にあった娯楽施設で、動物園のほかジェットコースターや観覧車なども設置していた。「あっ、そうや。レオポン見に行ったとか言うてましたね」久しぶりにレオポンと聞いて、俊也の海馬が疼いた。何かあると思った後、すぐ頭に浮かんだのは、ヒョウとライオンの間に生まれた珍獣の姿ではなく、キツネ目の男だった。>レオポンの剥製は現在もリゾ鳴尾浜に展示されていました。<たまに思い出すキツネ目の男を尾行するシーン。あれは阪神パークの伯父の後をついて歩く光景だったのではないか。今はなき素朴な施設の情景が甦り、俊也の胸に懐かしく、切ない気持ちが込み上げる。>著者は1975年生まれ、グリコ森永事件発生時は6歳ですから、この光景は著者の幼いころの思い出と重ねているのかもしれません。その跡地には今は何も残っていません。

門井慶喜『屋根をかける人』W.M.ヴォーリズと心斎橋大丸

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門井慶喜『屋根をかける人』の最後には、ヴォーリズ建築の研究者として有名な大阪芸術大学教授・山形正昭氏から教示を得ましたとの謝辞が記されており、小説の中でも数々のヴォーリズ建築が登場します。 広岡浅子の大同生命本社ビルはもちろん、昨年から建替え工事にはいっている心斎橋大丸も登場します。 大正4年の秋か冬のこと、近江八幡の事務所に戻って来たヴォーリズは佐藤久勝を呼びます。<メレルは彼の横に立ち、ぽんと肩をたたいて、「おもしろいところから話がきました。教会でも保険会社でもない、あなた好みの業界です。デパートメントストア」「でぱーと?」「百貨店ですよ。心斎橋の大丸」>と佐藤久勝にデザインをまかせるのです。 佐藤久勝は、滋賀県立商業学校(現:八幡商業高校)出身で、ヴォーリズのバイブルクラスで学んだ生徒の一人でした。2015年には「心斎橋大丸原図展~ヴォーリズと佐藤久勝~」が各地で開催されていました。この人事が図に当たります。<ひとたび心斎橋筋に面した東側の中央玄関から入った客は、「わっ。」わっ」大きな声をあげ、ぽかんと口をひらくのがつねだった。何しろ一階の天井がたかだかとしている。壁沿いに中二階がぐるりと浮いている。><親柱、太い。まるで床柱のような存在感だが、てっぺんが六角状になっていて、その六つの側面はそれぞれに雪の結晶にも似た幾何学模様の電飾がきらきらと埋め込まれているのが斬新だった。様式的にはアールデコに属するのだろうが、それにしても重厚で軽快、少々しちくどいほどのモダンさの演出。こういう異質感あふれる空間設計は、メレルのついぞ発想し得ないところだった。><この雪の結晶ふうの紋様はまた、全館を通じての主旋律ともなっている。壁、天井、エレベーターホール、いたるところで大きさを変え、色を変えつつ目立ちに目立っているため、― 商品がかえって貧相に見える。百貨店の支配人が当惑顔をしたほどだった。><いちばん街の話題になったのは、内部装飾ではなかった。外壁でもなかった。その境界線というべき東側の中央玄関。いったいに大阪はむかしから屋号をまったく憶えぬことを粋とする客が多く、-高島屋?どこの反物屋や。などとうそぶくのが常だったが。その彼らでさえ、こと大丸に関しては、-ああ、あの孔雀の。しぶしぶ言わざるを得なかった、その孔雀のレリーフが中央玄関の上に凛然とはめこまれていた。><常識的にはあり得ない選択だが、これもまた、発注先であるアメリカのアトランティック・テラコッタ社の担者が、-こんなのはどうでしょう。と提案してきたのへ、「メレル先生、これですよ。これにしましょう」熱心に言ったのは佐藤久勝に他ならなかった。><こうして大丸心斎橋店は「あの孔雀の」になり、日本最高の百貨店建築のひとつとなった。> しかし佐藤久勝は完成少し前、大丸の建設現場で肺炎で突然倒れます。昭和7年1月6日佐藤久勝は、完成した大丸の建物を見ることなく永遠の眠りについたのです。昭和 20 年3 月の大阪大空襲で5 階以上を焼失しながらも耐えた歴史的建造物。どのような姿でよみがえるのでしょう。発表されている完成予想図です。

もう夙川に蛍が乱舞していた!

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ここ数年、6月になって苦楽園太郎さんのブログの夙川の蛍の飛び始めの情報を頼りに、蛍を見にいっていました。 ところが今日(5月19日)21時ごろ、阪急苦楽園口駅から苦楽園口橋を渡って家に帰ろうとしている時に、蛍が飛んでいるのが目に飛び込んできたのです。直野祥子さんの『夙川ひだまり日記』によると、<昭和三十年代までは、夙川も水遊びができるきれいな川でした。メダカを追いかけたりカワニナを集めたり、さらさらの砂が足の指をとおりぬけました。それより前は蛍がたくさん飛んでいたそうです。>と、書かれているように、昭和30年代以降になって蛍はいなくなったのです。 その後、下水道も整備され夙川の浄化も進み、5,6年前からなのでしょうか、おそらく地元の方々の努力により、チラホラ蛍が見れるようになりました。 今日乱舞とは少し大げさですが、蛍が舞っていたのは、赤矢印で示した苦楽園口橋の直下から上流にかけてです。griさんのイラストを拝借しました。http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061426/p10738869c.html 苦楽園口橋といえば、宮本輝の『にぎやかな天地』の挿画で描かれているように、自動車が頻繁に通る橋です。こんなところに蛍が戻ってきてくれたとは驚きでした。そして、今年はなんでこんなに早く蛍が飛び始めたのでしょう。

BSでも紹介されていた国立新美術館のミュシャ展へ

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東京に所用があり、4月にBSプレミアム「華麗なるミュシャ 祖国への旅路 パリ・プラハ 二都物語」で紹介されていた国立新美術館の「ミュシャ展」に行ってきました。 2017年は日本とチェコが国交を回復してから60周年を迎える年にあたるということで、ポスターにも書かれているように、超大作ミュシャの「スラヴ叙事詩」がチェコ国外では世界で初めて、全20点の公開が実現したようです。 アルフォンス・ミュシャは、モラヴィア(現チェコ)に生まれ、ウィーンやミュンヘンを経て、27歳でパリに渡ります。 34歳の時に、女優サラ・ベルナールのポスターを手がけ、成功し、華やかで洗練されたポスターや装飾パネルでよく知られています。 私も「スラヴ叙事詩」については、テレビで知ったのですが、ミュシャは50歳で故郷のチェコに戻り、晩年の17年間を捧げて、古代から近代にいたるスラヴ民族の苦難と栄光の歴史を巨大なカンヴァスに描いた20点の油彩画「スラヴ叙事詩」を完成させたそうです。 初めての新国立美術館でしたが、さすが東京で、入場にも大変な行列に並ぶことになりました。 普通は美術館や博物館では写真撮影が許されませんが、嬉しいことに数作品の写真撮影が許されているコーナーがありました。「聖アトス山」「ロシアの農奴制廃止」「スラヴ民族の賛歌」「スラヴ叙事詩」は、1960年代以降、モラヴィアのクルムロフ城にて夏期のみの公開で、ほとんど人の目に触れることはなく、その幻の傑作が、ようやく2012年にプラハ国立美術館ヴェレトゥルジュニー宮殿で全作品が公開され、今回初めて国外で公開されることになったそうです。 ミュシャ展では、《スラヴ叙事詩》のみならず、パリ時代のポスターやアクセサリー、チェコスロヴァキア時代の切手など、よく知られているミュシャの作品を見て回ることができました。

堂島のパボーニで「味いちもんめ」の倉田よしみ 漫画・イラスト原画展

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「味いちもんめ」の倉田よしみ 漫画・イラスト原画展が、大阪市北区堂島の「カーサ・ラ・パボーニ」にて開催中です。期間:2017年5月16日(火)〜6月9日(金)倉田よしみ氏は、ちばてつやのアシスタントを経て、1978年、「週刊少年サンデー」に掲載の『萌え出ずる…』でデビュー。86年から「味いちもんめ」シリーズを漫画誌で連載、現在は「味いちもんめ~にっぽん食紀行~」を手がけられ、2013年から京都造形芸術大マンガ学科教授。神奈川県にお住まいとのことですが、大手前大学専任教授も務められており、西宮にも来られるとのこと。パボーニでお会いしてお話させていただきましたが、気取らない大変親しみの持てる方でした。 京都新聞の「知と感性の異種格闘技」というコラムに、倉田よしみ氏と料亭「木乃婦」社長の高橋拓児氏との対談が掲載されていました。そこで夢を持つ若者を導き、技術を伝える責任について、次のように述べられていました。<倉田 40年以上前にちばてつや先生のところでアシスタントをしましたが、当時は誰も教えてくれず、見よう見まねで覚えた。><倉田 漫画制作を学ぶ学生も静かな子が多い。見えないところで努力すればもっとうまくなるのにと思うこともあります。今の漫画界は若い人を育てる体制ではなく、ある程度仕事ができる人を集める。僕がアシスタントの時代は周りを見て一つ一つ仕事を覚える余裕もあった。背景などを描く中で、これだけはほかの人に負けないようにと技術を磨いた。><倉田 うちは4人のアシスタントがいて、1回16ページを隔週で雑誌に連載中です。朝方まで描き続ける日々ですが、アドレナリンが出るのか、ずっと書いていたい気持ちになる。ペン先や鉛筆など道具にもこだわります。細部に完璧さを求めるので、完成はいつも締め切り間際。20時間以上起きていることもあり、息抜きにみんなで食事に行くこともある。>一流の漫画家への道の厳しさが伝わってくる対談でした。でも倉田教授の授業は学生には人気があるとのこと。人柄からでしょうか。

ずっと気になっていた品川の洋食屋さん「つばめグリル」へ

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久しぶりに品川で宿泊しましたので、以前から気になっていた「つばめグリル」に初めて入ってみました。 つばめという名前の由来は、昭和5年10月1日に東京駅を出発した“特急つばめ”にちなんだもので、その名を後世に残そうと、「つばめグリル」と命名されたそうです。レストランに入るとすぐ目の下にキッチンが見えました。食材いこだわり、製法にこだわった、いかにも老舗のプロの洋食屋さん。接客もテーブルへの案内もしっかりしています。まずはビットブルガー・プレミアム・ピルスと黒のケストリッツァー・シュヴァルツビアを注文して乾杯。次に湯むきした丸ごとのトマトにチキンサラダを詰めたつばめグリルを代表するサラダというトマトのファルシーサラダを注文。メインはやはり一番人気のハンブルグステーキ。ビーフシチューとハンブルグステーキを組み合わせて包み焼にすることで、より旨味が凝縮されるそうです。アルミホイルで包まれふっくらと膨らん運ばれてきました。サイドディッシュのベークトポテトもホクホクです。アルミホイルをフォークで開けるとそこにはビーフシチューと絡み合った熱々のハンバーグがでてきました。ホテル並みの味とサービスで、値段は大衆食堂。大満足でした。

夙川カトリック教会聖堂地下ホールがブスケホールと名付けられていました

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夙川カトリック教会の地下ホールは、戦時中海軍療品廠となり、須賀敦子さんが薬の整理に従事した場所でもあります。その部屋が、今年の3月に夙川カトリック教会の創立者であるブスケ神父の名をとって「ブスケホール」と命名されました。 5月21日(日)には恒例のバザーと併せて、「シルベン・ブスケ師展」が開催されており、訪問いたしました。ブスケ神父に関わる貴重な写真や資料、映像が大石輝一画伯が描いたブスケ神父像とともに展示されていました。(上の写真は昨年夏芦屋市民センターギャラリーに展示されたブスケ神父像の前で) 1943年北野教会の主任司祭を務めていたブスケ神父は憲兵に捕らえられ、3月に亡くなり、服部霊園に埋葬されていましたが、戦後満池谷墓地のキリスト教区に改葬されることになります。 神父の死後6年を経て、1949年に信徒たちが神父の墓を掘り起こし、遺体を夙川教会に安置し、田口司教によるミサが捧げられた後に、満池谷墓地のキリスト教区に葬られたのです。満池谷墓地キリスト教区のブスケ神父の墓所その時の貴重な写真が展示されていました。戦時中憲兵隊に連行され拷問を受けたメルシェ神父の姿も見えます。

夙川カトリック教会でテレマン・アンサンブルのチャリティコンサート

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 夙川カトリック教会で5月21日(日)にバザーとともに、テレマン室内オーケストラによるチャリティコンサートが開催されました。 I.J.プレイエルのヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲ハ長調から始まりましたが、今回は馴染みのある曲ばかり。 延原武春氏の軽妙なおしゃべりと曲目紹介です。ルロイ・アンダーソンのフィドル・ファドル、ジャズピチカート、ブルータンゴなども演奏いただき、さらに延原武春氏も演奏に加わったオーボエ・コーナーでは、星に願いを、浜辺の歌、初恋なども。 前回はこの聖堂で、ヘンデルの「メサイア」をお聴きし、荘厳さにうたれましたが、今回は楽しい曲ばかりでした。わずかばかりの献金をさせていただき、教会をあとにしました。楽しいひと時を、ありがとうございました。

遠藤周作と夙川カトリック教会聖堂の正面に戻された聖テレジアの像

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 先日、テレマン・アンサンブルのチャリティ・コンサートで夙川カトリック教会の聖堂に入らせていただきました。 これまでと違った、優しさにあふれた聖堂の印象。何故かというと聖堂の正面に、以前は告解室の隣にあったリジューの幼きイエズスの聖テレジアの像が正面のアルコーブに移されていたからです。 以前は正面のアルコーブには十字架に架けられたイエス・キリストの像がありました。 コンサートに先立って、梅原神父のご挨拶があり、聖テレジアの像についての説明がありましたが、遠藤周作ファンでもある私には、この教会で洗礼を受けた彼が、『沈黙』をはじめとする小説のテーマにしてきたキリスト教への思いが実現されたような不思議な感覚で、しばらく聖テレジアの像を見つめていました。 たとえば、新潮社から出版された遠藤周作『母なるもの』は次のように紹介されています。<裏切り者や背教者、弱者や罪人にも救いはあるか? というテーマを追求する作者が、裁き罰する父なる神に対して、優しく許す“母なるもの”を宗教の中に求める日本人の精神の志向を、自身の母性への憧憬、信仰の軌跡と重ねあわせて、見事に結晶させた作品集。> また、『沈黙』でも描かれているように、西洋人にとっての神は、父なる神、正義の神、そして、愛の神であり、キリストを否む踏絵を踏むことなど決して許されるものではないのです。 しかし、遠藤の描くイエスは、あくまでも慈愛に満ちた、罪を犯す人の弱さをもすっぽり包み込む母なる神の像なのです。そのようなことを考えながら聖テレジアの像を眺めていました。 夙川カトリック教会のホームぺージを見ると、夙川カトリック教会月報の巻頭言が掲載されており、その3月号で、コーナン ミシェル 神父が聖テレジアの像がアルコーブに戻された経緯などを述べられていました。http://shukugawac.exblog.jp/26457479/

今村欣史氏の『触媒のうた』喫茶輪でいただいて来ました

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 喫茶・輪の今村さんが、月刊KOBECCOに連載されていた「触媒のうた」が単行本として神戸新聞総合出版センターから刊行されました。まだ店頭には並んでいないようですが、喫茶・輪を訪ねれば購入できます。 帯には、<日本近代文学史の「生き字引」が語る博覧強記の文学談義>と書かれており、御年95歳の宮崎修二郎氏の、今なお衰えを知らない頭脳の明晰さがうかがえます。 何度かKOBECCOの立ち読みで今村さんのエッセイを読ませていただきましたが、「宮崎修二郎翁の文学史秘話」と副題がつけられたエッセイを、このように単行本にしていただくと、文学散歩には大変重宝いたします。「触媒のうた」の意味については最後の章で解説されていました。<宮崎翁がまだ十七、八歳の若き日、“触媒”についての講義を聞き、「自分はこれだ、これで行こう。人間は偉くならなくったっていいじゃないか、人のお役に立てればいいじゃないか、と思うようになりました」>と、名声を求めず人と人とをつなぐ触媒に徹しようと決意され、その姿勢が今も変わらず続いていることが紹介されています。 そして今村さんは、<しかし、わたしが「喫茶・輪」で徒然にお聞きした話には、翁が関わられた文学上の秘話がたくさんあった。これはのこしておかなくてはならないと思ったのである。それがこの連載「触媒のうた」になったわけだ。>と述べられているのです。文学上の秘話、これから読ませていただくのが楽しみです。「あとがき」には今村欣史氏と宮崎修二郎翁の出会いについても説明されています。そのなかに、今村さんの「喫茶・輪」という詩(上の写真)に関わる感動的なお話がそえられていました。今村さんのお人柄がにじみ出ています。

『涼宮ハルヒの憂鬱』第8話笹の葉ラプソディで西宮市立大社中学が登場

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NHK-BSで再放送されている『涼宮ハルヒの憂鬱』の第8話「笹の葉ラプソディ」でキョンは3年前の世界にタイムスリップ。 朝比奈ミクルを背負って、甲陽園駅近くの公園から、大社中学に向かいます。(上の航空写真の矢印の位置が大社中学裏門) そこで出会うのが、裏門をよじ登り中に入ろうとする3年前の中学1年の涼宮ハルヒ。中学の名前は東中学となっていますが、明らかに大社中学です。 校庭にキョンがハルヒの命令で訳の分からない文字を書いています。月曜の朝礼や運動会が催された懐かしい運動場です。特徴ある大社中学のヒナ段も登場していました。まさか卒業してから〇十年後にアニメに登場するとは思ってもみませんでした。

ニューヨークで大人気という朝食を探りにサラベス大阪店へ

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2015年4月に西日本初出店という「サラベス大阪店」、ホームページを見ると、<活気溢れるニューヨークの朝、店頭から伸びる行列は、マンハッタンの風物詩となり、レストラン格付けガイドブックザガット・サーベイでは「ニューヨークNO.1デザートレストラン」、「ニューヨークでブランチを食べたいレストラン」にも選出され、「New York Magazine」では "文句なしのニューヨークの朝ごはんの女王" と形容されました。>と書かれており、どんなものかと日曜日の朝に梅田に出かけました。9時半ごろ到着しましたが、約25分待ちで店内に。オーダーしたのはサラベスの人気メニュー「クラシックエッグベネディクト」と「フラッフィーフレンチトースト」。シェアー用の小皿とナイフ、フォークなども卒なく持ってきてくれました。クラシックエッグベネディクトを半分に切ると、半熟の玉子がとろけでててきます。玉子の美味しさとベーコンを焼いた芳ばしさがミックスされ、さすがサラベスさんの人気メニューです。オーガニックメープルシロップのついたフレンチトーストも見た目よりは甘さ控えめですが、アメリカ生まれでボリューミーでもありました。店内のインテリアも落ち着いています。 さてホテルの朝食に近い価格設定のコストパフォーマンスですが、料理の味などは満足できるものの、店内の狭さが値段の割に残念でした。(人のいない店内写真はホームページより)もう少しゆったりとしたテーブル配置なら、ゆっくりおいしいいブランチを楽しめたのですが。 本来のニューヨークはどんなレストランで、どんな価格設定になっているのかと、調べてみました。 メニューはニューヨークの方が豊富でしたが、CLASSIC EGGS BENEDICT*Canadian bacon, hollandaise, peppers, chives 19.5クラシックエッグベネディクトは$19.5SWEET BREAKFAST 19Doerfler Family Farm Pure Organic Maple SyrupFAT & FLUFFY FRENCH TOAST strawberries, bananasフラッフィーフレンチトーストは$19いずれも1750円程度消費税は同じくらいとしても、チップが15%程度必要ですから、3割程度ニューヨークの方が割高です。店の様子はどうなのかとホームページで見てみました。In 1981, Sarabeth and Bill Levine opened a tiny bakery-kitchen to make and sell her preserves and baked goods.1981年の1号店は最初ベーカリーだったようですが、暫くしてテーブル席が設けられたようです。ホームぺージの店内写真は大阪より広そうでしたが、ブログを見た限り、ニューヨークの店内もそれほど広くさなそうです。 ニューヨークのブログを読むと、食材を地域の農場から仕入れていることや、オーガニックもあること、サービスが行き届いていること、リーズナブルな価格であるなどと、絶賛しているのが多くありました。1943年 ニューヨーク市に生まれたサラベス・レヴィーンさん。料理の本も出版されています。 帰ってきてから、色々調べ上げたあげく、これが国際標準のリーズナブルな価格でおいしい朝食かと、とりあえず納得しました。

三宮一貫楼も登場する『最後の晩ごはん』おにいさんとホットケーキ

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椹野道流『最後の晩ごはん』の3作目、「おにいさんとホットケーキ」では、主人公五十嵐海里の兄一憲の婚約者賢木奈津が登場し、兄弟の和解に大きな役割を演じます。 奈津は業平町に住み、県立芦屋高校のすぐ近くの動物病院に勤めているという設定。調べてみると、県立芦谷高校のすぐ近くには、「みや動物病院」があり、口コミでは評判のいい動物病院です。椹野道流さんは、Twitterでは猫を2匹飼われているようなので、この病院をご存じなのかもしれません。 海里が奈津を誘ってでかけたのは三宮一貫楼。私も一貫楼の豚まんは大好き。<JR元町駅のすぐ近く、通りに面する店の中では、職人が鮮やかな手つきで豚まんを包んでいるところをガラス越しに見ることができる。週末ということもあり、店の前には豚まんを求める人々の長い列が出来ていたが、店内の席はまだそれほど混みあっておらず、二人は一階の窓際の席に落ち着いた。>一貫楼のエビ入り玉子めしも外せないようです。<メニューを眺め、長い相談の末に決めたオーダーは、本家本元の味を確かめるべくエビ入り玉子めし。それから揚げワンタン野菜あんかけ、冷菜盛り合わせ、焼豚、それに豚まん一つを半分こ、であった。>豚まんの味はこんな風に説明。<さっそく熱々の豚まんを半分に割り、からしを少しつけて頬張った二人は、ほぼ同時に満足の声を上げた。「んー、美味しい!」「旨っ。タマネギ、やっぱ甘い」ふわっとした皮の中には、豚肉とタマネギがぎっしり詰まっている。大きめに刻んだタマネギの甘みが豚肉の脂に馴染み、実に優しく豊かな味である。> 第二話に引き続き、この第三話でも夏神の衝撃の過去がさらに詳しく語られます。<店の外で海里を待っていた夏神は、目の前の道路を渡った先の芦屋川へ足を向けた。普段の水量は決して多くないが、雨天時は山から大量の水が流れてくるため、河川敷を広く取ってあるのが芦屋川の特徴である。 日頃は遊歩道になっているその河川敷を山のほうへ向かってゆっくり歩きながら、夏神はしょぼくれた顔で隣を歩く海里の顔をチラリと見た。>この河川敷を歩きながら壮烈な夏神の過去が語られるのです。この後、奈津が交通事故にあい、意識を失い、ハラハラドキドキが続きます。

山崎豊子『女の勲章』の発想のヒントとなったデザイナーは?

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『女の勲章』の発想のヒントとなったデザイナーについて、山崎豊子は『大阪づくし 私の産声』の第三章「半年勉強、半年執筆 -私の小説信条」で、次のように述べています。<毎日新聞で婦人欄の服飾を持たされたことがありまして、その時にある一人のデザイナーからヒントを得て、それを船場生まれのデザイナーに置きかえたんです。> ここで山崎豊子が語っているのは夙川に一粒社ヴォーリズ建築事務所設計の記念館がある上田安子さんのことなのです。 もう一人のモデルと言われる、船場生まれのデザイナー近藤年子さんについて、WebマガジンClippy, 2017/4/15 の記事に紹介されていました。http://clippy.red/dorama20170415-2/<大阪・船場生まれの近藤年子さんは、戦後、近所の若い女性を集めて洋裁塾兼店舗を開き、占領軍兵士の婦人たちの洋服を縫いながらデザイナーとして自立する。ファッションブランド「TOSSY(トッシー)」を設立し、大阪・平野町にオーダー店、梅田新道にプレタポルテ店をはじめ、阪神百貨店や東京・代官山にも出店(現在は全て閉店)するなど、関西のファッション界を盛り上げた。現在は、社団法人「総合デザイナー協会」の参与を務める。> そして、モデルにされたことが複雑な思いだったと語られています。<山崎さんは足しげく近藤さんの元に通い、取材を重ねたという。小説発表後、「山崎さんの小説のモデルになったと騒がれ、大変だったそうですよ」と困ったような笑みを浮かべるのは近藤さんの姪、畳谷久仁子さんだ。「山崎さんがいろいろ参考になさったとはいえ、ストーリーはあくまでフィクション、虚構の世界です。それが小説のイメージをそのまま抱かれ…。本人はデザイナーとしてブランドのPRにもなるからいいのでしょうが、家族はけっこう複雑な思いでいたと聞いています」と続ける。> 上田安子さんがモデルになった影響についても、西宮文学案内で石野伸子さんが『夙川ゆかりのヒロインたち』と題した講演で、次のように話されていました。<発表された小説はファッション界の内情を赤裸々に描いたもので、さらに学校内外の男女関係を生々しく描いたものでした。虚実ないまぜの物語により、上田は好奇の目にさらされたに違いありません。事実、小説発表からかなり時間が経った時期に私は新聞社の婦人欄の記者となり、ファッションを取材する機会もありましたが、まだひそひそ話をする関係者は多くありました。また、当時をよく知る先輩記者からは「上田先生の前では山崎豊子も女の勲章も御法度よ」とクギを刺されました。> 上田安子さんは、山崎豊子と距離を置き不仲になったそうですが、それでも批判的なことは語らず、晩年は不仲も解消されたそうです。やはり、取材されるということは恐ろしい。

増山実さんの最新作『風よ僕らに海の歌を』宝塚のアモーレ・アベーラがモデル

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『勇者たちの伝言』でお馴染みの増山実さんの最新作『風よ僕らに海の歌を』が本日より店頭に並び始めました。帯には次のように内容紹介されています。<第二次世界大戦時、日伊共同の任にあたっていたイタリア海軍の特務艦が神戸沖にいた。その名は「リンドス号」。乗組員の料理を担当していた兵士にジルベルト・アリオッタという男がいた。しかしイタリア政府の突然の降伏で彼は祖国へ帰る道を絶たれる。戦後まもない宝塚でイタリア料理店を始めるジルベルトと家族たち。見慣れぬ料理は宝塚の人々を魅了していく。戦争に翻弄されながら、激動の昭和を生き抜いてきた親子二代の軌跡。彼らと交錯する、様々な人生。史実をモチーフに異郷に生きる人々の絆を描く感動のストーリー。> ブログで『勇者たちの伝言』の紹介をしたことがきっかけとなり、本日増山実さんにお会いし、お話する機会を得ました。 まだ読み始めたばかりですが、宝塚が舞台の昭和18年からの物語。小説ですから、登場人物など名前が変えられていますが、これから事実と比べながら舞台を散策するのが楽しみです。ちなみに、小説に登場する昭和21年創業の宝塚のイタリアン・レストラン「ITALIANO RISTORANTE ALMONDE」とは、現在宝塚南口にある「RISTORANTE AMORE ABELA」がモデルとなっているようです。早速、行ってみなければ。
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