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Channel: 阪急沿線文学散歩
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戦後初めてのフランス留学記、遠藤周作『赤ゲットの佛蘭西旅行』

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先日NHK-BSのプレミアムカフェで「遠藤周作・ルーアンの丘から~よみがえるフランス留学記~」が再放送されていました。 長塚圭史が、1998年に出版された「ルーアンの丘」など遠藤周作の著作をもとに、その足跡をフランス各地に訪ね、一人の偉大な作家が誕生するまでの心の軌跡を辿ったもので、遠藤ファンとしては、その映像は興味深く、参考になるものばかりでした。『ルーアンの丘』には「赤ゲットの佛蘭西旅行」と「滞仏日記」が収められており、「赤ゲットの佛蘭西旅行」は、昭和26年11月から翌年7月まで「カトリッ/ク・ダイジェスト」に連載されたものをまとめたものです。  遠藤周作はフランスの現代カトリック文学研究のため戦後最初の留学生として、フランスに渡り、おそらく不安でいっぱいだったはずですが、「赤ゲットの佛蘭西旅行」は、決して深刻なものではなく、後の狐狸庵仙人シリーズを伺わせるユーモアにあふれた作品になっています。 例えば、最初の章「いざ、エチケットの国へ」では、<だから、フランスに行くことが定まった時、どうも恐れ入りました。ぼくの大嫌いなエチケットの国へ行くのですからね。万感こもごもでした。もう破れた靴下は、はいたらいけねえ、髪は、バサバサ伸び放題というわけにもいけねえ、箸のあげおろしにも品よくしかめつらせねばならん。そう考えると夜、床の中で涙ぐみましたよ。しかし、フランスに行くことは嬉しかった。ぼくは大学はフランス文学で文士になろう、いつかはフランスに行けたら行こうと思っていたんですから嬉しかったですね。>とユーモアを交えながら、率直にフランスに旅立つ喜びを語っています。しばらく、映像と「赤ゲットの佛蘭西旅行」を比較しながら辿ってみましょう。

遠藤周作『赤ゲットの佛蘭西旅行』と戯曲『薔薇の館』に登場すウッサン師

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遠藤周作『赤ゲットの佛蘭西旅行』に留学でお世話になったウッサンというフランスの神父様の所に毎週フランス語会話を習いに行く話がでてきます。<この神父様は今は東京の大神学校の副校長をしておられるが、ぼくらは、彼が大好きになりましたね。みんなウッサンとはいわずにオッサン、オッサンと言っていた。彼は生粋のフランスはアンジェ市の生まれを自慢するだけあって、そのフランス語会話教授法たるや、芝居か何かわからない。>この後、面白いフランス語会話の教授場面が続きます。そして、感想を次のように述べています。<ずる休みをすると、オッサンは顔を赤くして、「このナマケモノ!」と覚えたての日本語で怒鳴りつけますから仕方ない。実際、いい、大好きな神父様でしたね。フランス人の善良さ、ヒューマニズム、そういったもの全てを、溢れさすばかりにもっている神父様でした。そのため一同、さらにフランス人が好きになった。> アレクシオ・ウッサン神父は1948年に来日し、東京練馬区の大神学校で副校長を務め、関町教会も手伝っていました。 1958年からは広島の翠町教会に赴任されますが、1963年54歳という若さで、脳溢血の発作により天に召されました。 この遠藤周作がお世話になり、大好きだったウッサン神父と同じ名前の人物が、『真昼の悪魔』では悪魔と対峙する神父として登場し、戯曲『薔薇の館』にも修道士ウッサンとして登場します。『薔薇の館』は遠藤周作の追及している信仰の問題が、全て集約されている作品です。(写真は「薔薇の館」の演出者芥川比呂志と遠藤周作)その中で、修道士ウッサンは、背負いきれない重荷を負って死んでゆく無力で子供のような修道士として描かれ、遠藤周作は明らかにイエスの像を重ねているのです。 この『薔薇の館』は堀辰雄の『木の十字架』にも登場するアントニン・レイモンド設計の軽井沢聖パウロ・カトリック教会が舞台のモデルとなっています。しかし、そこに登場するブルーネ神父の姿は、明らかに夙川カトリック教会の主任司祭で、戦争中に抑留され、終戦後、痛々しい姿で教会に戻りながら恨み言ひとつ言わなかったというメルシェ神父がモデルになっています。次回は『薔薇の館』についてもう少し説明しましょう。

遠藤周作の戯曲『薔薇の館』のブルーネ神父のモデルはメルシェ神父

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遠藤周作の戯曲『薔薇の館』は昭和17年4月から昭和21年にかけての軽井沢の教会が舞台。かつて薔薇の花で彩られていた瀟洒な教会で、戦争という事態に直面した修道士や信者、教会に集う人々の苦悩が描かれ、それは遠藤周作自身が抱えていたキリストを信じることへの苦悩でした。遠藤周作は次のように述べています。<幸い私は、この戯曲を執筆する前に現実に戦争中、日本のある村で起こった一つの事件を知っていた。その事件はここではそのままのべるわけにいかないが、私はそれを幾分、変えることによって自分の意図が実現できそうな気がしたのである。> この事件とは、夙川カトリック教会のメルシェ神父の拘留のことを指しているのではないでしょうか。舞台に選ばれたのは、堀辰雄『木の十字架』にも出てくる軽井沢聖パウロ教会です。 遠藤周作は戦争末期に軽井沢の堀辰雄の病床を毎月のように訪ねていたそうで、その頃の思い出を次のように述べています。<堀辰雄氏も書いておられた何処かスイスの寒村にもありそうな素朴なこの教会は、チェコのレイモンド氏が設計したもので、村のメイン・ストリートと並行した水車小屋道に建てられているのだった。あの頃、僕は友達と自転車を手ばなしで走らせながらここに遊びに来たものだった。>上の写真の水車小屋道で、遠藤周作は自転車で遊び回っていたようです。 戦時中、敵国からの外国人宣教師は追放、あるいは抑留され、教会は監視下に置かれ、信者の若者は次々と戦地へ送られました。戯曲では、ブルーネ神父も昭和18年2月に警察に抑留されます。そして抑留から解放されたブルーネ神父は再びこの教会に戻ってくるのです。<田端 本当だ。抑留生活で、神父さん、凍傷で左足を切って義足をつけられたそうだが、もう痛まんのかねえ。だが昔のように町の若い連中と山登りをしたり、兎狩りもできなくなったね。それにしても、流石はブルーネ神父さんだ。もうここには戻らんのかと思っていたら、戻ってきたんだから。夫人 どうして戻っていらっしゃらないと思ったの?田端 まあ、こう言っちゃ何だが……抑留生活で、辛い目にも会われたろうし……兵隊たちに撲られもしただろうし。戦争だったんだから仕方ないと言えば言えるんだろうが……神父さんにしてみれば日本人が嫌いにもなったろうとこう考えとったんですよ。それなのに、自分は日本から出ていかん。あの町にまた戻りますと、療養所から葉書をもらった時は、意外でしたなあ。>その姿は、終戦後いたいたしい姿で夙川カトリック教会に戻ったメルシェ神父とどうしても重なるのです。

南郷山にヴォーリズ建築事務所設計の建築物が出現か

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今年110周年を迎える夙川地区自治会長様より、夙川に残っているヴォーリズ設計の建物について教えていただきました。(「夙川地区100年のあゆみ」より) 多くのヴォーリズ設計の外国人住宅があった夙川地区ですが、旧ナショナルシテイ銀行社宅やヨスト邸は既に取り壊されてしまいました。(映画『She's Rain』より)(旧ヨスト邸) 今もメンテナンスされ残っているのは西田ひかるさんのご主人の実家や広岡邸など数軒にすぎないとお話されていました。(上田安子記念館) 夙川地区に近年新たに建てられた一粒社ヴォーリズ建築事務所設計の建築物としては、上田安子記念館やレディース&マタニティクリニック サンタクルス ザ シュクガワがあるそうです。(ホームページより) まさかあの煌びやかな産婦人科の建物がヴォーリズ建築事務所設計によるものとは、想像もできませんでした。  南郷山も上野邸はじめ多くの豪邸が並んでいますが、今日普段あまり歩かない一角がまたまた更地になっているのを見つけました。以前はどんな景色だったかと、グーグルストリートビューで調べみました。 このような邸宅の跡地に、次に出現する建物は何かと掲示物を見てみますと、用途は賃貸長屋、申請代理人は一粒社ヴォーリズ設計事務所となっているではありませんか。一粒社ヴォーリズ設計事務所設計の2階建て中庭付きの集合住宅になるようです。どんなデザインの建物が出現するのでしょう?

アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』で夙川公園が世界に発信された

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NHK・BSプレミアムで4月から西宮北高を舞台としたTVアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』が毎週金曜日の午後11時45分から再放送されています。全28話。 4月21日の第3話では主人公キョンと朝比奈ミクルさんが夙川公園でデートする様子が描かれています。場所は苦楽園口橋と大井手橋の間のようです。 夙川公園の桜は散り、今は青葉が目を休ませてくれます。『涼宮ハルヒの憂鬱』に登場する夙川公園は日本政府観光局発行の「JAPAN ANIME MAP」でも紹介されており、次のように世界に発信されています。Shukugawa Park (Shukugawa-koen) is located at near Shukugawa Station (Koyo Line, Kobe Main Line) next to Kurakuen-guchi Station. Many spots appeared in the anime such as a row of cherry trees and the stream are found everywhere in this park.川の流れも綺麗に描かれています。

芦屋を舞台とした小説『最後の晩ごはん』と謎の作家・椹野道流

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芦屋を舞台とした小説『最後の晩ごはん』シリーズが阪神間で人気を呼んでいます。 小説を読んで、作者の椹野 道流さんとはどんな人だろうかと興味を持ったのですが、Wikipediaでも<日本の法医学者・小説家。兵庫県出身。血液型はO型。四緑木星。デビューから数年はとある医科大学の法医学教室に籍を置く、非常勤の監察医だった。現在は専門学校で教壇に立つかたわら、作家活動をしている。特技は一弦琴。中原中也が好きで、ペンネームの「椹野」は椹野川に由来する。>とのみ。 年齢、性別不詳でしたが、第1回兵庫医科大学フォーラムでのご講演の写真や、Twitterに椹野さんの雑誌のインタビュー記事の写真があり、女性であることがわかりました。(写真はamazonの著者紹介より)インタビューでは、<医科大学を卒業して、すぐに法医学教室に入りました。大学院生を経て助手になり、兵庫県の非常勤監察医も経験させていただきました。司法解剖や行政解剖でたくさんのかたがたの死やご遺族の感情に触れたことが、小説を書き続ける動機の一つとなりました。経験したそのままではありませんが、人の死にまつわることを書き続けていきたいです。今は現場から退き、医療系専門学校などで、解剖学、公衆衛生学、法医学を教えています。>と述べられています。 大変な経歴をお持ちの作家であり、小説に幽霊まで出てくる理由がわかったような気がします。しばらく小説の舞台を訪ねてみましょう。

椹野道流『最後の晩ごはん』主人公五十嵐海里の実家は東灘区岡本

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芦屋を舞台とした小説『最後の晩ごはん』の第一作は「ふるさととだし巻き卵」。捏造されたスキャンダルで活動休止に追い込まれた若手イケメン俳優の五十嵐海里は、全てを失い、郷里の神戸まで戻ります。 海里はJR摂津本山駅から実家のある岡本まで歩いたようです。 <それから五時間後、海里は実家の最寄りの駅に降り立った。兵庫県神戸市の、JR摂津本山駅。青い瓦屋根の、一見、一般家屋のような駅舎が懐かしい。ミュージカル俳優になるため一度も帰ったことのない故郷の駅である。各駅停車しか停まらない、どこか田舎じみた雰囲気のあるこぢんまりとした駅だが、何故か駅前のロータリーだけは立派で、周囲には嫌というほど様々な店舗が立ち並んでいる。>  小説に描かれているレトロな青い瓦屋根の旧北口駅舎は2012年に解体されてしまいました。 現在のJR摂津本山駅は整備され駅ナカ店舗もできています。 駅を出た海里は、天上川沿いに北に上って行きます。 <コンクリートで固められ、やや貧弱な水量が悲しい天上川沿いに、この辺りの人間がナチュラルに使う表現で言えば「山側」、つまり六甲山系が見える北側に向かて、緩い坂道を上がっていく。高校時代、毎日通った道のりだ。> いつごろからでしょうか、天上川には、上流にある六甲山系の山から野生のイノシシが度々下ってきて問題となっています。  この川沿いの道は、早川茉莉さんが『エッセンス・オブ・久坂洋子』でも次のように述べられていました。 <お気に入りのカフェをめざして、川べりの道を歩いている時、目指す道の視界の先に小豆色の阪急電車をとらえた瞬間、私はふいに彼女の気持ちが分かるような気になったりしたこともあるのです。> 『最後の晩ごはん』に戻ります。海里は更に上って阪急の高架下をくぐります。 <阪急電車の高架を潜り、さらに坂道を上がり続けて、昔からある診療所のある角を斜め左に曲がる。典型的な住宅街を東から西へ向かってひたすら歩いていくと、そのうち、南北に走る十二間道路という幹線道路にぶち当たる。> 診療所とは園田医院のことのようです。 <そこからほんの少しだけさらに西へ行ったところで、海里は足を止めた。少し古びた白い低層マンションの横にある、鬱蒼とした木立。その向こうに見える赤茶けた屋根の一軒家が、海里の今の実家である。> 十二間道路の突き当りの交差点からもう少し西に行ったところが海里の実家に設定されています。椹野道流さんはこの辺りに住まれたことがあるのかもしれません。  

石野伸子さんの講演「阪神間ゆかりの作家たち」河野多恵子

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4月から芦屋市公民館で産経新聞編集委員の石野伸子さんによる「阪神間ゆかりの作家たち」(全4回)の講演が始まりました。笹舟倶楽部さんもご出席でした。http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061232/p11587661c.html 石野さんは産経新聞で「浪花女を読み直す」というコラムを連載されています。その取材の過程で発見された阪神間について紹介され、第一回は戦後日本の女性作家の代表格で、少女時代に香櫨園に住んだ河野多恵子さんを取り上げられました。(上の写真は石野伸子さんの産経新聞連載記事「浪花女を読み直す」より)「河野多恵子における香櫨園」について次のように解説されています。 <大阪の中心の典型的な老舗のいとはんである。もし書こうとすれば山崎豊子と同じく大阪商人ののれんにまつわるど根性哀話でも、織田作之助的な大阪の庶民の生活のかなしさも十分に書けるはずである。しかし彼女の小説的関心はそこにはない。ただ、河野多恵子の観念的本能的な異常性と生活的理性的な健全性との並存と調和は大阪商人の根源にある伝統的な人生観(保守性と進取性)と関係あるかもしれない  けれど昭和十一年、彼女が十歳の頃、店と住居とを分離する当世の風潮によって、阪神の香櫨園に居宅を移してからの生活は(東京育ちの自分にとって)大体想像できる。郊外の文化住宅地への移転により西洋的なモダンな文化に無理なく接することができた。その頃のことを書いたものに佳作『みち潮』がある」(昭和46年学研「現代日本の文学50」「曾野綾子・倉橋由美子・河野多恵子集」奥野健男・評伝的解説)>として、『みち潮』が描く世界についてお話いただきました。(写真は「みち潮」の生原稿) また、異常性愛を描いた作品群「幼児狩り」「蟹」「不意の声」「みいら採り猟奇譚」も解説いただきましたが、今回初めて教えていただいて驚いたのは、雑誌『群像』に瀬戸内寂聴さんが連載小説「いのち」を執筆し、2年前に亡くなられた河野多恵子さんの秘密を暴露していること。 連載第3回の2016年6月号から河野多恵子が登場し、丹羽文雄氏や大庭みな子とのライバル関係、、私生活までが小説として本名で書かれているのです。 いずれ単行本になりそうですが、早速図書館から借りて読み出しました。文壇の関係を垣間見るこんな面白い連載小説はありません。次回は5月18日(木)谷崎潤一郎です。

早川茉莉編『京都好き』は文学好きには手放せない京都案内

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 リタイアして、京都に時々出かけるようになりました。多くの文学作品の舞台になっている京都ですが、地理に詳しくなく、どのように巡るかが悩みの種でした。それを解決してくれたのが、早川茉莉さんの『京都好き』。 森茉莉、渡辺たおり、植草甚一、池波正太郎、山田詠美ら29人の、作家、詩人、エッセイストの魅力ある京都のアンソロジー。 もちろん早川茉莉さんの「のばら珈琲」のエッセイも含まれています。巻末には、各作品で紹介されているお店や名所等のリストとMAPが付いているので、京都歩きにはとても便利です。 最後に早川茉莉さんの「塩一トンの京都」と題した編者解説がありました。早川さんも須賀敦子さんの作品はよく読まれているようです。<京都を特集したテレビ番組や雑誌を見るたびに、知らなかった場所やエピソードに出合う。本当にビックリする位、知らないことだらけなのだ。いやはや何とも……と思い、そのたびに須賀敦子さんの『塩一トンの読書』の冒頭の一文を思い出す。「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、一トンの塩をいっしょになめなければだめなのよ」(『塩一トンの読書』河出文庫)京都もまた、気が遠くなるほど長く付き合っても、理解しつくせない街なのだと思う。だが、歩くたび、お気に入りの場所を訪れるたびに、襞の細部にあるものを少しずつ見せてくれる、それが京都という街である。> 西宮からは少し時間がかかりますが、まだまだ京都に通わないと本当の良さがわからないようです。訪ねた場所を少しずつブログでも紹介していこうと思っています。

芦屋で知る人ぞ知る名店「ばんめし屋」(椹野道流『最後の晩ごはん』)

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 椹野道流『最後の晩ごはん』では、ねつ造スキャンダルで活動休止に追い込まれ神戸に戻った若手イケメン俳優の五十嵐海里は芦屋の定食屋の夏神留二に救われ、彼の店で働くことになります。 その「ばんめし屋」は次のように紹介されています。<芦屋にある、知る人ぞ知る名店。店長の夏神がひとりで切り盛りする。営業時間は日没から日の出まで。メニューは日替わりで一種類のみ。その味に惚れ込み、常連になる客は多い。>「ばんめし屋」の所在地は、第三話「お兄さんとホットケーキ」の第一章にわかりやすく書かれていました。<兵庫県芦屋市。六甲山と大阪湾に挟まれ、神戸市に隣接するこの小さな街には、東西方向ほぼ並行に、三本の線路が走っている。その中でもいちばん南……いや。ご当地に言えば海手を走る阪神電車芦屋駅からほんの少し北上したところにあるのが、芦屋警察署だ。 愛想の欠片もない鉄筋コンクリートの建物だが、一角だけは、かつての壮麗な庁舎の玄関部が残されているのが、何とももの悲しく、印象的である。> 芦屋警察署は昭和2年に建てられた旧建物の玄関と正面ファザードを保存する形で平成13年に立替られたものです。旧建物と新築部分があまり違和感なく繋がれています。 玄関アーチの上部でフクロウが往来に睨みを利かせていますが、夜行性なので夜警、寝ずの番という意味だそうです。<一方、警察署から芦屋川沿いに北上、すなわち山に向かって歩いて行けば、緑がかった尖塔の屋根が目印のゴシック風建築、カトリック芦屋教会が見えてくる。>設計は、建築家の長谷部鋭吉氏によるもので、戦後昭和28年に竣工しています。<そして、そんな二つの対照的な建物の間にある、典型的な昭和の木造二階建て住宅。それこそが、この物語の舞台である。一見、古い民家とおぼしきその家の玄関には、「ばんめし屋」と書かれた木製のプレートが掲げられている。>芦屋警察と芦屋カトリック教会の間の芦屋川沿いの風景です。椹野さんは、よくこんなところに、「ばんめし屋」を設定したものです。 広報あしや3月1日号のに椹野さんのインタビュー記事が大きく掲載されており、その中でもう少し詳しく、「ばんめし屋」の場所が説明されています。<芦屋税務署の横にある駐車場あたりの設定です。世間では「芦屋に住んでいます」というと山手に大きなお屋敷がある、お金持ちのまちのイメージが強いので「あーっ、あの芦屋」と言われます。でも、本当は普通の住宅が立ち並び、親しみやすい飲食店があちこちにある庶民的なまちなので、そいう芦屋を紹介したいと思い阪神沿線を中心に書いています。>芦屋税務署前のタイムスの駐車場に設定したそうです。航空写真の矢印の位置になります。「芦屋歩記」のアプリ(無料)を入れると、下のような画像が見れるそうです。 芦屋市(政策推進課、経済課、芦屋市商工会)のこのような文学作品に対する力の入れようは、他市に抜きんでています。

遠藤周作の未公開恋文みつかる(4月22日日本経済新聞文化面)

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4月22日の日本経済新聞文化面に遠藤周作の未公開の恋文がみつかったことが報じられていると「パイン」さんから教えていただきました。 遠藤周作は昭和25年6月に戦後最初の留学生としてフランスの現代カトリック文学を勉強するため、横浜港を出港しました。しかし昭和26年末から血痰が出、体調を崩し、療養生活を送り、昭和28年2月にマルセイユを発ち、日本に帰国しています。 その当時の様子や心の葛藤は、『ルーアンの丘』に収められた「滞仏日記(一九五二年九月~一九五三年一月)」に書き残しています。 帰国前のフランスでの最後の三日間(1月9日~11日)は、遠藤が愛したフランソワーズという女子学生と二人でパリからリヨン、マルセーユへと旅したことが述べられています。 加藤宗哉氏は次のように解説しています。<それは「明日ぼくが断腸の思いで巴里を去る」という日なのだ。この日、日記の冒頭には大きく「フランソワーズ」という文字が書き込まれている。なぜなら、フランス滞在の最後の思い出に、船が出るマルセイユまで三日をかけて、フランソワーズとふたりだけの旅に出るのだから。> この出来事について、3月のNHKBSプレミアム「ハイビジョン特集 ルーアンの丘から 遠藤周作・フランスの青春(初回放送:2006年)」再放送でも触れられていました。リポーターは長塚圭史。列車の旅の様子を再現し、長塚は1月9日(金)の日記を読みます。<朝、巴里を発つ。フランソワーズと…… 巴里からフォンテンブローにかかる郊外は白い凍雪が一杯につもっていた。裸の樹々が風にゆられえていた。>1月10日(土)リヨンで遠藤はスルシエ神父に別れを告げに行きます。その日の日記の最後は、<夜、再びフランソワーズに手をふれなかった。> 長塚は撮影中リヨンで大きな虹に出会います。まさに遠藤が確信していた「目に見えない力」が虹をかけてくれたのでしょう。1月11日(日)早朝の汽車で二人でマルセイユに向かい、ホテルでフランソワーズとの最後の夜を過ごします。<窓の外が黎明の白い光にさされ、海風にカーテンがゆれるまで、我々は時々眠った。月光に照らされたお前の寝顔はあまりに清潔で純粋だった…… そのお前を起こさぬよう、ぼくはあけ方の窓に靠れ、覚め始めたこの大都会の入口をじっと眺めていた。今日、今日の午後ぼくはお前と判れ、このフランスを去る。長かったこの二年半の滞仏の日々よ。しかし、昨夜最後の夜すらも、お前に触れなかった自分に満足しながら……>1月12日(月)<朝、お前と二人でベッドで朝食をとった。クロワッサンと紅茶とで……お前がそれから風呂にはいっている間、ぼくは鞄をつくった。お前に貸したピジャマを入れた。バス・ルームでお前は歌を歌っていた。戸を少し半開きにしていたので、偶然、その間からお前の整った白い体がバスの湯気の間にちらりと見えた。> あまりにも美しく描かれているので、遠藤周作の作り話かと思ってしまいましたが、事実だったようです。 夫人の遠藤順子さんも当然この事実をご存じで、多感な時期にこのような経験がなければ不思議よと、この日記を公開されたそうです。また結婚の約束をして分かれたフランソワーズは、その後遠藤に会いに日本を訪れています。そのことについては、今回の日経の記事に詳しく書かれていました。<フランソワーズは日本文学の研究者となり、65年に来日する。遠藤とも再開し、「沈黙」を翻訳することになった。このころ遠藤に出そうとしていた手紙の下書きも今回みつかった。「私は自殺することを決めました」「沈黙の作者の誠意を信じています」。恋が破れて10年。和解にはほど遠く、そこにはなお癒えぬ心の痛みが切々とつづられていた。「沈黙」は苦い過去を思い出させる小説だったのかもしれない。作品を批判したことで口論になり翻訳は途絶。病を得てフランスに帰り、生涯独身のまま71年に世を去った。41歳だった。>遠藤周作にももうひとつの「舞姫」物語があり、大きな苦しみを抱えていたのです。日経新聞が、おおきく「遠藤周作「罪」の原点」として取り上げているのも、よくわかりました。

ディズニー映画『美女と野獣』図書室のモデルは?

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昨晩、阪急西宮ガーデンズでディズニーの実写版『美女と野獣』を見てきました。「ハリー・ポッター シリーズ」のエマ・ワトソンの主演で、彼女の歌唱力も素晴らしく、久々に俳優としての成長ぶりを見て嬉しくなりました。セットとCGを駆使して夢の世界にいざなってくれる実写版。さすがディズニー、総制作費1億6000万ドル(約177億円)という巨額を投じた映像で、楽しませてくれました。 エマ・ワトソン演じるヒロイン「ベル」は読書好きなキャラクターとして描かれています。そんなベルに、本がたくさん詰まった図書室を野獣がプレゼントするのです。 私のような読書好きにとってはたまらない夢のような部屋ですが、このモデルとなった図書館はどこかにありそうです。 ネットで調べると諸説あるようでしたが、ポルトガル最古の大学であり世界遺産にもなっている名門コインブラ大学の公式ホームぺージにたどりつき、「ジョアニナ図書館」であることがわかりました。http://noticias.uc.pt/in_english/the-baroque-joanina-library-can-be-seen-in-the-new-film-the-beauty-and-the-beast/ ここでは世界中にあるバロック様式風図書館のなかで、ジョアニナ図書館がディズニー映画のセットデザインに最も直接的な印象を与えたと認識できるとし、図書館とフィルム映像の比較がなされています。Image from the film “The Beauty and the Beast”: © Walt Disney Pictures.Photo of The Joanina Library: © UC | Paulo AmaralImage from the film “The Beauty and the Beast”: © Walt Disney Pictures.Photo of The Joanina Library: © UC | Paulo AmaralImages from the film “The Beauty and the Beast”: © Walt Disney Pictures.Photo of The Joanina Library: © UC | Paulo Amaral 「黒の漆塗りの棚や木彫に金泥細工の装飾、バロック様式風図書館の建造物が明らかに映画シーンの制作に影響を及ぼしている」と説明されています。 博学だった国王・ジョアン5世の名を冠したジョアニナ図書館は1724年にコインブラ大学の敷地内に設立されたそうで、造り付けの書架にぎっしりと並ぶ蔵書数は、25万冊に及ぶそうです。 このような図書館が歴史と伝統を誇る日本にあっても不思議ではないはずですが、それは施政者の文化に対する認識の違いによるものだったのでしょうか、それとも経済的な理由なのでしょうか。

世界に発信された西宮市立中央図書館

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『美女と野獣』に登場するお城の中の書斎のモデルとなり、世界遺産にも指定されているポルトガルの名門コインブラ大学のジョアニナ図書館にはとても及びませんが、我が西宮市立中央図書館も世界に発信されているのをご存知ですか。日本政府観光局(Japan National Tourism Organization ;JNTO)のホームページにPilgrimage to Scared Places(聖地巡礼)のページがあります。その兵庫県の代表が、The Melancholy of HaruhiSuzumiya(涼宮ハルヒの憂鬱)の舞台巡りです。そのなかで西宮市立中央図書館は写真付きで次のように紹介されています。The appearance and the inside of the library in the anime looks exactly like those of the Nishinomiya Central City Library which is about a 7-minute walk south of Shukugawa Station.現在BSプレミアムで『涼宮ハルヒの憂鬱』は毎週金曜午後11時45分から再放送されており、第三話でキョンと長門ユキちゃんが訪ねた西宮市立中央図書館です。カウンターの中の人物もどなたかをモデルにしたようです。またカメラを持って涼宮ハルヒの聖地巡礼に訪れる人が増えるかもしれません。

椹野道流『最後の晩ごはん』に登場する芦屋神社

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 椹野道流『最後の晩ごはん』の第一話「ふるさととだし巻き卵」で、主人公五十嵐海里が、芦屋神社の近くに住む「ばんめし屋」の上顧客で小説家の淡海五郎に定食を届けるシーンが描かれています。 深夜に、海里はスクーターで芦屋神社への坂道を上がっていきます。<そんなことを考えながら坂を上がっていると、左手に石造りの柵のようなものが見えてきた。あっと思うと、すぐにちんまりしたコンクリート製の鳥居があった。夏神に持たされたLEDのハンディライトで照らしてみると、「芦屋神社東参道」と書いてある。うっかり目的の家を通り過ぎ、芦屋神社まできてしまったらしい。なるほど、右手を見ると、公園らしき闇が広がる。>芦屋神社東参道入口です。<「行き過ぎた。神社より、ちょこっと下がるんだよな」スクーターを反転させ、今度は注意深く低速で走らせながら、海里はハンディライトを片手に、道路からやや奥まった場所に門扉のある家に、「淡海」という表札がかかっていた。どうやらここが、目指す小説家の邸宅らしい。>振り返ると、芦屋浜まで見えていました。淡海の邸宅はこの四つ角の下の右手あたりにあるお邸を設定したようです。芦屋神社については次のように紹介されています。<「お隣の芦屋神社には、大昔のお墓があるからね~。ちょっと怖いかもね~」「ひッ。う、嘘でしょ?」>芦屋神社には猿丸大夫のお墓もあります。<「ホントだよ。知らない?芦屋神社の敷地内には、小さな古墳があるんだ。石室だって残ってる。今はその石室には芦屋川のずっと上の方から水神様を移してきてお祀りしてるんだよ」「へ、へえ……」思わず首を縮こめた海里に、淡海は済まなさそうに片手をひらひらさせた。「ごめん、ごめん、無駄に怖がらせちゃったかな。嘘、ホントは別に怖くないよ。水神様といえば、田の神、山の神だもの。人間に不可欠な水を恵んでくださる神様だから、君もちょっと外から拝んでいくといい。いい水の流れに乗れるかもしれないよ」>芦屋市指定文化財になっている境内にある古墳です。現在は、小説にも書かれているとおり、水神様が移され、祀られています。 芦屋の丘の上の閑静なお屋敷街にある芦屋神社、文化財もあり、一度お参りされてはいかがでしょうか。駐車場もありました。 さて、海里は芦屋神社の向かいにある公園で、次の登場人物(とは言わないかもしれませんが)眼鏡の付喪神のロイドに出会うことになります。公園から不思議な声が聞こえてきます。<またもや同じ声が聞こえたのは、公園のほうだ。公園内の生け垣沿いに建つ、内部に蛍光灯が点いているコンクリート製の小さな建物は、たぶん公衆便所だろう。そこに誰か入っていて、海里に声をかけてきたのだろうか。>公園のトイレです。 助けてほしいというロイドの声に海里は辺りを見回しますが、見つかりません。<「あなた様の真ん前にございます階段の右手の繁み、その根元を、慎重に照らしてみてくださいませ」「階段……?」確かに目の前には、道路より高い場所に設えた公園に向かう、八段ほどのコンクリート製の階段がある。幅はわりあい広く、中央にはステンレスの手摺りがあった。階段の両側には石垣があり、コンクリートで土留めをして、塀に沿うようにツツジか何かだと思われる丈の低い、刈り込まれた植栽がある。>小説に書かれている通り8段の階段がありました。この右側の植栽の根元に捨てられていたセルフレームの丸い眼鏡の付喪神がロイドだったのです。拾われたロイドはこれ以降、海里を主人と呼び、時々人間の姿になって現れます。このように付喪神が登場するのも、法医学教室の監察医を務められた椹野道流さんの経験から生まれたのでしょうか。

早川茉莉編『京都好き』に収められた「森嘉のお豆腐」が趣味どきっ!にも

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早川茉莉編『京都好き』に収められた絵本作家永田萌さんのエッセイ「森嘉のお豆腐」が、NHKの「趣味どきっ!」三都・門前ぐるめぐり、第4回「京の門前湯どうふ 東西味めぐり」でも紹介されていました。まず永田萌さんのエッセイ「森嘉のお豆腐」から紹介しましょう。 永田萌さんは兵庫県加西市生まれ。学生時代より京都に居住し、以来変わることなく仕事と生活の基盤を京都に置かれていますが、引越し魔で、京都市内だけで16回引越しているそうです。<夏の京都に暮らすことの大変さばかり書いていますが、反対に「幸せだなァ……」と感じることをあげるなら、「嵯峨の森嘉の木綿豆腐を、冷や奴で食べること」でしょうか。><だいたい私は、京都に来るまでお豆腐というのはもっと固くてゴツゴツしていて、おはしにつきさして持ち上がるものだと思っていました。はっきり言って京都の食べ物なんて、さほどおいしいものではないのですが、お豆腐だけはまったく別。はじめて森嘉のお豆腐を食べた時は、あまりのショックにしばし茫然としました。ほのかに大豆の香りのする、口の中でとろりととけて、のどごしのさわやかなこのうすい黄味をおびた白い立方体。これこそ「豆腐」なのです。>  永田萌さんがこのように絶賛している森嘉の豆腐が先日の趣味ドキッでも紹介されていたのです。<こちらのお店は江戸時代から豆腐を作り続けています。この店の…ここでは砕いた大豆を昔ながらのかまで炊いています。京都ではかまの事を「おくどさん」と呼びこの言葉には「かまの守り神」という意味もあります。薪をくべ人の手で火を守りおよそ150年もの間続けてきたこのお店。><しかし邦夫さんのおじいさんは京都の豆腐の常識を覆しある革命を起こしたのです。こちらが豆乳が炊き上がってますのでこれから凝固作業に入りますので。あっこれから。これが凝固剤なんですけど…。それは凝固剤に昔ながらのにがりではなくすまし粉を使う事。これがあの滑らかさを生み出しているんです。で流し込みました。おお〜!おっ固まってきてるの分かりますよ。>このあとは普通の木綿豆腐の作り方と同じ。<そのすまし粉のお豆腐っていうのが非常にエポックメーキングっていいますか京都のお豆腐の一つのトレンドを多分作り上げたお豆腐だと思うんですけれどもそれがどんどん「嵯峨豆腐」という名前で広がっていったという事だと思いますけどね。この滑らかな豆腐がはんなりとした京都らしい味わいと評判になります。その後妙智院の他にも豆腐料理のお店が増え門前のにぎわいは今に続いています。> 永田萌さんの「森嘉のお豆腐」に戻りましょ。<「もしもし、お豆腐の予約をお願いします」「へ、おおきに。どちらさんどす?」「永田といいます」「へえ、何丁どす?」「一丁です」たった一丁?とは、お店の人は言いません。ここの一丁は、軽くふつうの倍はある大きさで、お豆腐好きのわが家の三人がせっせと食べても、お腹いっぱいになるのです。>写真を見ると、確かに両手を添えるほどの大きさでした。<さて、こわさないように大切に持って帰って、水を張った砥部焼の大きな鉢にそっと入れます。まわりに氷を散らし、マンションの玄関の入口の、青いもみじの葉をちぎってきたもの三、四枚浮かべれば、すがすがしことこのうえない一品です。 わけぎをきざみ、私の田舎のおいしいおしょうゆを少しのみりんとおだしで割ったものを用意し、ガラスのおちょこを二つ。お酒は何といっても「月の桂」のにごり酒。>さすが永田萌さんの美的感覚。目に浮かぶようです。今度京都に行ったら木綿一丁買ってこよう。

遠藤周作『赤ゲットの仏蘭西旅行』ロビンヌ夫人の作法教育

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 遠藤周作は昭和25年27歳のとき、戦後最初の留学生としてフランスの現代カトリック文学を勉強するため、フランス船マルセイエーズ号で横浜港を出港します。船艘で寝起きする四等船客で、三雲夏生・昴兄弟とフランスのカルメル会修道院で修行をめざす井上洋治が共にいました。 先月、NHKプレミアムカフェでハイビジョン特集 ルーアンの丘から 遠藤周作・フランスの青春(初回放送:2006年)が再放送され、当時遠藤が夏を過ごしたロビンヌ一家にお話を聞く貴重な映像が紹介されていました。 それでは「いざ、エチケットの国へ」と旅立った遠藤周作の『赤ゲットの仏蘭西旅行』ロビンヌ家の作法教育からです。<今、しみじみ、振りかえってみると、あの北仏、ルーアンでの夏休みは、ぼくのフランス留学の中、一番牧歌的なたのしかった季節であったように思われます。緑したたる丘と、金色の谷、ノルマンディの澄んだ夏の光とをこの町から離して、ぼくは思いうかべることはできません。>昭和25年のルーアンの街は、まだ戦禍のあとが残っており、現在の情景とはかなり異なっていたようです。<その丘の上に、ロビンヌ家の館はありました。十月、夏休みが終わって大学が始まるまで、ぼくはこの建築家の家でフランス家庭の空気を知り、その生活に慣れることになったのでした。><七月十二日、ぼくはぽつんとルーアンの駅におりました。五、六人の降客の後にくっついて、ゆっくり階段をのぼり、改札口に出た時、一人の、中年のしかし、美しい夫人が近よってきました。「あなたが、ムッシュー・エンドウですか」「はい」夫人はやさしく微笑みました。その眼は、青く夢見るような翳をおびていました。「私は、マダム・ロビンスです」夫人の横には金髪の、賢そうな少年がぼくを見上げていました。「ドミニック」と夫人は園子に言いました。「皆をよんでらっしゃい」子供は走っていきました。「あなたがどこの出口から出られるか。わからないので、各出口に、子供を一人ずつおいておきました。私は、十一人の子供があるのですから……」>ロビンヌ一家と遠藤周作の写真、本当に大家族でした。その兄弟たちから長塚圭史が当時の遠藤周作の様子をインタビューします。洗礼名のポールで呼ばれていたのかと思いきや、愛称は日本と同じ周ちゃんでした。 ロビンヌ家の一員として迎えられた遠藤は、ロビンヌ夫人からマナーを教わりますが、なるほどものぐさの遠藤ならずとも、これを守るのは大変です。<ものぐさでは、日本にいた時、いかなる友人にもひけをとらなかったぼくであるから、第一日目から始まった、マナーの上品、動作の典雅という夫人の原則は面倒くさくて仕方ない。髪はぴちんとわけ、靴はちょっとでも、よごしていると夫人から、叱られる。食事のたびにたえず注意しておかなければならぬ。食事は眼のまわるように忙しい。1.夫人がフォークをとるまではフォークをとらぬ。2.一皿ごと夫人が、すまさぬうちに、食べ終えてはならぬ。3.魚料理にナイフ(肉用)を使っては絶対いけない。4.コップは正面に必ず置くこと、etc。 日本でのテーブル・マナーは英国風だから、3、4など英国式にすると夫人に叱られる。「ポール、食事中葡萄酒を飲む時、前もってナプキンで口をふくことを忘れぬように」「食事中、黙っていてはいけません。話しなさい。話さぬということは礼儀じゃないのです」昼食の後のコーヒーの時、ぼくが煙草を半分、喫って捨てた時は、今思い出しても、こわいくらい叱られました。> 学生時代、欧米の学生たちと旅をしたとき、オランダ人のテーブルマナーは、イギリス以上の大変厳しものだと驚いたことがありましたが、フランスも劣らず厳しいようです。2.などとても私にはできそうにありませんが、大変参考になりました。

山崎豊子『女の勲章』舞台は甲子園の聖和服飾学院

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山崎豊子『女の勲章』がフジテレビ系列で二夜連続スペシャルドラマとして放映されていました。 山崎豊子は原作では、聖和服飾学院の場所を甲子園に設定していました。小説『女の勲章』は次のように始まります。<日輪の型を象って嵌め込んだステンドグラスが、夕陽の直射を受けて、燃えつくような光の輪になっている。大庭式子は、飽かずにそれを眺めていた。> スペシャルドラマでも、この小説で大庭式子の心の隅に潜んでいた本能的な欲望に似たものを象徴するというステンドグラスが、日輪ではありませんが見事に創られていました。 この大庭式子が創立した聖和服飾学院は、甲子園球場から500mほどの住宅街の一角に設定されています。<郊外の住宅街の一角であるから、陽が暮れかけると人通りが少なくなり、五百メートルほど先の甲子園の浜側からは、潮風が吹きわたり、北側に見える甲子園球場の壁も鼠色に冷えていた。> 更に場所のヒントになるのは商店街です。小説の最後で、式子が車で聖和服飾学院に向かう場面からです。<上甲子園まで来ると、車は国道を逸れ海に向かった狭い道を走り、甲子園球場の裏に出た。海の方から思いがけぬ潮風が吹き付け、人気のない球場の中を不気味な風音をたてて吹き抜けて行くようであった。式子は、運転手に車を停めさせると、そこから自分の学校に向かってゆっくり歩いて行った。五メートル程の道幅を挟んだ商店街を通り過ぎて、学校の前まで来ると、式子は、なぜ、甲子園まで来てしまったのか、何をしようと思って来たのか、しきりに思い返そうといたが、思い返せなかった。>この商店街、実在するのかと調べてみると、どうも新甲子園商店街のようです。「新」というもののその歴史は古く、昭和28年に設立され、1960年代頃まで商店街は活況を呈していたそうです。その後、相次いで進出してきた大型店の影響を受けて、苦戦を強いられるようになり、さらに阪神・淡路大震災によって木造の市場は全壊。市場の再建が危ぶまれた中で、土地所有者や商店主らの度重なる話し合いの末、若手商店主たちが中心となって再建されたそうです。山崎豊子は聖和服飾学院をこの近くの住宅街に設定したようです。(航空写真の矢印あたり)甲子園球場から500mほどの住宅街という位置関係もぴったりでした。テレビドラマでは、初代学長を新渡戸稲造が務め、アントニン。レーモンド設計で国の登録有形文化財にも登録されている東京女子大学をロケ地として選んだようです。東京女子大学の公式アカウントの4月7日のTwitterにその写真が投稿されていました。https://twitter.com/twcuPR?lang=ja撮影に使われたのは正門入って左手にある、キャンパスマップでBと示された7号館のようです。ホームページには次のように説明されていました。創立初期の建造物のひとつで、現在も教室棟として使用されています。建築年:1924(大正13)年平成4年度BELCA賞(ロングライフ・ビルディング部門)受賞平成10年度文化庁登録有形文化財登録文化庁登録有形文化財ともなれば、建物に装飾を加えるにも、相当気を使ったのではないでしょうか。 それにしても山崎豊子の小説のロケは関西でしてもらいたかった。

昔住んだ倉敷の家が博物館風の愉快な家になっていた

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ゴールデンウィークに久しぶりに倉敷を訪問しました。まず我が子のために文化学院を創立した西村伊作の設計による倉敷教会へ。続いて大原孫三郎が作った旧倉紡中央病院の建物(現在は院内保育の建物として活用されているそうです)を見て、昔住んでいた倉敷の家を久しぶりに訪問しました。玄関を入って迎えてくれたのは、羚羊や鹿の角。ぎょっとします。頭上を見上げると吹き抜けには怪鳥が飛んでおりました。階段にはずらりとアンモナイトの化石が並んでいます。ご趣味は多彩で、帆船から江戸時代の時計のコレクションまで。生物も猫に始まり、見かけない鳥が何種類も。熱帯魚もあまり見かけない種類で、水族館に行ったようです。下段の庭には、果樹や野菜も植えられ、昨年はぶどうが豊作だったとか。 最後に庭でエジプトコーヒーをいただいてきました。昔、毎週手入れしていた広々とした芝庭も様変わり。現在は盆栽や、鳥小屋が所せましと並び、ここで奥様と食事をしたり、近所の人とバーベキューを楽しんでおられるとのこと。 名誉教授になられて久しいご主人は、今も論文を執筆され、ペットや植栽のお世話も欠かさず、本当に楽しそうにお暮しでした。まるで西村伊作の「愉快な家」になっていました。

山崎豊子『女の勲章』大庭式子の静養先は旧六甲オリエンタルホテル

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 山崎豊子『女の勲章』で、関西デザイナー協会主催の大規模なファッションショウを終えた大庭式子は真夏の間、六甲山のオリエンタルホテルで静養します。4月15日のフジテレビスペシャルドラマでは、原作のイメージを壊さないよう脚色され、ロケ地はわかりませんが「甲山湖ホテル」として登場していました。 原作では、ホテルのテラスからの景色が次のように書かれています。<大庭式子の眼の下に、幾つかの小高い山が淡い稜線を描きながら起伏していた。先程まで濃い山肌を見せていた六甲山脈が、夕陽の陰になって薄く翳りかけ、山裾に続く帯のように細長い街は、まだ夕暮れの翳を受けず、そこだけが切り取ったような明るさで輝き、街の向こうに広がる海も、鏡のような白い光を反射している。> このような描写を読んでいると、山崎豊子も六甲オリエンタルホテルに避暑に訪れ、しばらく逗留したのではないかと思ってしまいました。 六甲オリエンタルホテルは阪神電気鉄道が六甲山開発の一環としてオリエンタルホテルに営業委託して昭和9年に開業したホテルですが、2007年に営業を停止していますが、現在も建物は残されています。この建物は昭和43年に竣工していますから、『女の勲章』が連載された昭和36年は、まだ山上の趣のある建物でした。 夏季講習の間、甲子園の聖和服飾学院の運営を任されていた津川倫子も、夏期講習の時間割と教材見本を持って、六甲オリエンタルホテルの式子を訪ねます。 同じ日に銀四郎も、式子を訪ねて来て、三人はホテルから天狗岩への散歩に出かけます。<何を思ったのか、銀四郎は、ついさっきまでの冷たさから、急に優しい口調になり、窓の外を見た。先ほどまで、澄んでいた夜気が急に白くぬるみ始め、夕闇の底から瞬いていた街の灯も姿を消し、静かに霧が流れ始めていた。「きれいだすな。三人で散歩に行きまひょう」「でも、六甲の霧はたちはじめると、とても深くて、こんな日に出かけるのは危ないわ」「せっかく来たんでっさかい、ちょっとだけ出かけまひょう、気を付けて歩いたら大丈夫だす」> この散歩道、スペシャルドラマでは甲山湖ホテルの「葉沓の小路」として登場していました。原作で登場する天狗岩は六甲オリエンタルホテルから南へ300m程度のところにあります。天狗岩からの夜景は絶景です。<扉を押して、外へ出ると、樹立の間から霧が白く湧いていた。ホテルの横の小道を折れると、雑木林に囲まれた道が、大きく曲がりながら天狗岩へ行きつく散歩道につながっていたが、霧に遮られて、三メートル先が見えなかった。>六甲山の霧は有名ですが、関東のどこかと思われる「葉沓の小路」のシーンはどこで撮ったのでしょう。

遠藤周作にとってゴッド・マザーのようなロビンヌ夫人

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3月にNHK-BSプレミアムカフェで「ルーアンの丘から 遠藤周作・フランスの青春」が放映されました。 その中で、遠藤周作がフランスに到着した最初の夏に、本当の家族のように受け入れてもらい、お世話になったロビンヌ家の写真や兄弟のお話が収録されていました。 遠藤周作は当時の体験を『赤ゲットの仏蘭西旅行』と題して、「カトリックダイジェスト」に連載し、その後PHP研究所より『ルーアンの丘』と題して単行本として出版されました。 もちろん、その中には体験し、思索した重たい話も多く書かれているのですが、遠藤周作のサービス精神か、はたまた「いたずら坊主」の本性が隠せないのか、ユーモアたっぷりの部分もあります。「ロビンヌ家滞在日記より」と題した章からです。<ジャンヌ・ダルクで名もたかき、フランスはルーアンの都市にロビンヌとよべる家庭あり。さることより一夏日本の青年をあずかることになりしがこの青年、生まれつき粗忽の小僧なれば、夫人いとど驚き給いて、あるいは叱り、あるいはなだめ、フランス典雅の道をひたすら教え給う。小僧、半泣きづらにも学べども、才あしければ効あきらかならず。暮つ方など、窓べに靠れ、日本を思いて涙ぐみおるも、いとど憐れなり。(異本枕草子)>などとユーモアを交えて当時の心境を枕草子風に語っているのです。ロビンヌ家の建物も残されていました。この三階の部屋で遠藤は過ごしたそうです、 遠藤がフランスに到着した時、「ポール、今日から、あなたをポールと呼びますよ。今日から、私を本当のママと思って下さい。私たちの家はあなたの家であり、子供たちはあなたの兄弟です」と家族として受け入れてくれたロビンヌ夫人。遠藤周作の後ろに立つのがロビンヌ夫妻です。 戦後間もなく、まだ戦災の爪痕が生々しかったフランスで、このように暖かく日本人を迎え入れてくれた家族があったことは、驚きです。 長男のギイや三男のアランが、遠藤周作が真面目に努力していたことや、当時の様子を楽しそうに話していたのが印象的でした。写真は笑いをこらえながら遠藤の思い出を語る三男のアラン。右側は長男のギイ。
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