志賀直哉は大正14年から奈良に移り、幸町の借家で過ごした後、昭和4年から自ら設計した上高畑町の家に昭和13年まで住んでおり、代表作『暗夜行路』もここで執筆された作品です。上高畑町の家には、多くの文化人たちを招き芸術を論じ、子供たちの家庭教育を行い、家族との絆を育んだ生活だったそうです。 志賀直哉は奈良の自然を愛したようで、エッセイで次のように述べています。<私は土地としては関西を好んでいる。一生、奈良で暮らしても自分はいいが、男の児を其処で育てることは少し考えた。奈良の人が皆、そうだと云うのではないが、土地についた、退嬰的な気分は、自然、住む者の気持ちに影響する。男の児のためにそれを恐れた。又、仮に子供がそれに影響されまいと心に努力する場合を考えても、丁度引き上げていい頃だと思った。>どうも子供の教育問題が奈良から東京へ移った原因のようです。 谷崎潤一郎と同じく、関西人があまり好きでなかったようで、次のようにも述べています。<然し住民は東京の方が段違いにいい。言語、慣習、その他色々なものが私に親しいからでもあろうが、他に親切で大体関西人に較べて文化の進んだ感じがあると思った。前にも一度書いたが、関西と関東と、土地と人とを別々に好きだという事は、私の不幸だと今も想っている。>どうも関西人は不親切で、文化が遅れているという印象のようです。ともかく旧志賀直哉邸に入ってみましょう。敷地は435坪、建物は2階建て134坪という広大さで、和風、洋風、中国風の様式が取り入れられており、建築物単味でも見ごたえがあります。数奇屋作りの一階書斎です。ここは、執筆に関係ないものは一切排除し、余計なものを置かなかったそうです。一階の6畳の茶室です。直哉は来客と気軽に話をしたり、将棋をさしたりする部屋にするつもりだったようですが、結局、夫人と子供たちのお茶のお稽古に使われたそうです。中庭です。食堂は約20畳もある広さ。ひっきりなしに訪れる来客はここで家族と一緒に食事をし、子供たちの娯楽室でもあったそうです。ここが「高畑サロン」が開かれたサンルームです。大きく明るいガラス張りの天窓があり、床は特注の瓦敷塼です。 この部屋に多くの文人画家が集い、芸術を語り人生を論じたり、麻雀、囲碁、トランプ等の娯楽に興じたそうです。社交の一コマ。中列に武者小路実篤、志賀直哉の顔が見えます。お風呂は珍しい角型の五右衛門風呂。中を覗く鉄釜になっていました。窓から若草山が見える客間です。小林多喜二らがここに泊まったそうです。二階の書斎です。直哉の昭和6年4月に書かれた日記に「 これから二階の書斎を充分に利用しよう」という記述があり、『暗夜行路』もここで書き上げたそうです。裏庭の小プールです。直哉は、大正3年に結婚して昭和7年までの間に2男7女をもうけており、子供たちのために作った庭の一角の小さなプールです。 志賀直哉は、この旧居に9年間住み、関西人にはあまり馴染めなかったようですが、奈良の美しさについては次のように述べています。<兎に角、奈良は美しい所だ。自然が美しく、残っている建築も美しい。そして二つが互いに溶けあってゐる点は他に比を見ないと云って差支えない。今の奈良は昔の都の一部分に過ぎないが、名畫の殘欠が美しいやうに美しい。御蓋山の紅葉は霜の降りやうで毎年同じやうには行かないが、よく紅葉した年は非常に美しい。5月の藤。それから夏の雨後春日山の樹々の間から湧く雲。これらはいつ迄も奈良を憶う種となるだろう> 志賀直哉旧居のお隣に、たかばたけ茶論という喫茶店がありました。オープン。カフェからは山岳画家・足立源一郎画伯が大正8年、南仏プロヴァンスの田舎家をモチーフに建てられた洋館や樹齢100年以上というヒマラヤ杉を眺めることができます。奈良の散歩に疲れたときは、ここで休憩されるのがお勧めです。
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奈良の志賀直哉旧居を訪ねる
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大阪城公園梅林のあとはNHK大阪放送局で「べっぴんさん」セット見学
大阪城公園にある梅林は100品種以上、約1270本もの梅が植えられていると聞き、見学に行ってきました。 JRで行きましたが、大坂城公園駅を降りて目についたのが、改札口の上に飾られている司馬遼太郎の大阪城公園駅誕生記念の詩文が焼き付けられた見事な陶板レリーフ。次のように始まります。<おごそかなことに、地もまたうごく。私どもは、思うことができる。この駅に立てば、台地のかなたに渚があったことを。遠い光のなかで波がうちよせ、 漁人(いさりびと)が網を打ち、浜の女(め)らが藻塩(もしお)を焼いていたことども。秋の夜、森の上の星だけが、遙かな光年のなかで思いだしている。>読んでいると、はるか昔の大坂に思いを馳せることができます。最後は次の様に終わります。<悲しみは、この街に似合わない。ただ、思うべきである。とくに春、この駅に立ち、風に乗る万緑の芽の香に包まれるとき、ひそかに、石垣をとりまく樹々の発しつづける多重な信号を感應すべきであろう。その感應があるかぎり、この駅に立つひとびとはすでに祝われてある。日日のいのち満ち、誤りあることが、決してない。 司馬遼太郎> さて、春近い大阪城公園駅に立ち、梅林に向かいました。大阪城梅林は内濠の東側、約1.7haの広さに約1,270本近くの梅が植えられています。梅の木が太いので古くからの梅林かと思いましたが、1972年に北野高校同窓会から22種880本を寄贈されたのを機に1974年3月に開園され、現在では97品種1270本となっているそうです。品種の豊富さでは関西随一の梅林となっており、それぞれの木に品種のタグがついて、わかりやすくなっています。日本一の城をバックにした梅林は見ごとです。また京橋の高層ビル群をバックにした梅も、ある種の風情があります。梅林でしばらく時間を過ごしたあと、NHK大阪放送局へ。大阪放送局では、「連続テレビ小説べっぴんさん」のセットが3月26日(日)まで1階アトリウムで公開されています。キアリス本店あさや靴店世界の料理「レリビィ」ハットリベーカリーなど港町商店街のドラマセットが並んでおり、歩かせていただきました。ようやく、どうなることかと心配した「べっぴんさん」も終わります。
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須賀敦子『アルザスの曲がりくねった道』と常盤貴子『旅するフランス語』
須賀敦子さんが、未定稿「アルザスの曲がりくねった道」の取材旅行に訪ねたコルマールの街が、先日Eテレの常盤貴子さんの「旅するフランス語」で紹介されていました。 常盤貴子さんは小学校4年から西宮市へ移り、春風小学校、上甲子園中学校、高校1年までは市立西宮東高等学校に在籍していたという西宮にもゆかりのある女優です。2月、3月にアルザス紀行が5回にわたって放映されます。 第21章は「アルザス紀行2」。フランス北東部のアルザス地方でワイン街道めぐりで、アルザスのぶどう畑の曲がりくねった道が登場しました。 須賀敦子さんは『アルザスの曲がりくねった道』で、主人公フランス人修道女オディールの故郷について、次のように書かれています。<オディール修道女の故郷がアルザス地方の小さな村だと聞いたのは、わたしが友人たちと、車でアルザス地方を旅したことがあると彼女に話したときのことだった。><そこからミュールズを抜けて、コルマールからワインの道をストラスブールまで一直線。そこまでいうと、オディールの目がぱっとかがやいて、わたしをさえぎった。あっ、コルマールに行ったの。いつもは控え目な彼女が叫ぶようにそういうと、まぶたを半分とじるようにして、つぶやいた。ああ、コルマール。なつかしい、コルマール。戦争の前は、あの辺りのぶどう畑がぜんぶ、わたしたちの家のものだったのよ。シュレベール家のぶどう畑。息をつめるようにしてひと息にそういい終えた彼女に、わたしはあっけにとられた。> アルザスは有名な白ワインの里。常盤貴子さんも地元のワインとおつまみでピクニック。 須賀敦子さんの未定稿『アルザスの曲がりくねった道』の序章の最後では<むかし、シュベール家のものだったという青いぶどう畑の道を、二十一歳であとにしたきりもういちど歩くことのなかったオディールのかわりに、わたしの足で歩いてあげよう。「オディールのあとをたずねる」というのは、もしかしたらわたしなりの墓参りなのかもしれなかった。>と書かれています。常盤貴子さんも歩いていたアルザスの青いぶどう畑の道。須賀さんの最後の取材旅行となったコルマールの足跡をもう少し訪ねてみましょう。
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須賀敦子さんは最後の取材旅行でコルマール郊外旧聖心女子のリセへ
須賀敦子さんの未定稿『アルザスの曲がりくねった道』に登場する主人公のフランス人修道女オディールの故郷はアルザスでした。<オディール修道女の故郷がアルザス地方の小さな村だと聞いたのは、わたしが友人たちと、車でアルザス地方を旅したことがあると彼女に話したときのことだった。> そして『アルザスの曲がりくねった道』の構想が書かれた「ノート1」では、<Zという一九八八年に七九歳で生涯を終えた、ひとりのフランス人修道女の、伝記を断片的につづりながら、彼女の歩いた道を、日本人の「わたし」がたずねるかたちで、書く。「なんとなく」修道女になる道をえらんだZが、読書をはじめとするさまざまな経験を経て、宗教にめざめてゆく話。>と書かれており、Zが主人公オディール・シュレベールでした。 また「ノート6」でも、<わたし -ローマ在住?の日本人?年齢?職業?オディール・シュレベール1909 十月三日生まれ アルザス、N村1929 二十歳で、修道会に入る。……>と書かれています。「わたし」は当然須賀敦子さんですが、オディールのモデルも実在したのではないでしょうか。『アルザスの曲がりくねった道』の序文では、オディールが文学について三十年代にフランスのリセで勉強したと書かれており、コルマール郊外のキンツハイム(Kientzheim)にあったリセ(教育施設)のことだと思われます。『考える人』2009年冬号に、「一九九六年九月、最後の旅」と題した鈴木力氏(新潮社)の記事があり、須賀さんがリセを訪れたお話と写真が掲載されていました。<ここはかつて、広大なブドウ畑の真ん中に聖心の学校があったのだそうです。須賀さんの説明では、昔はブドウ畑全体も聖心のものだったらしいのですが、学校はすでに聖心のものではなくなっていて、しかし建物はそのまま残って、成城学園のリセになっていました(二〇〇五年には成城学園のリセも廃校)。須賀さんはこの学校の建物をみておきたかったようでした。ちょうど夏休みだったので、生徒たちはだれもいませんでしたけど。> 1986年からは、ここに東京の成城学園が"アルザス成城学園(Lycee Seijo d'Alsace)"という日本人のためのボーディングスクールを設置していて、閉校後はその敷地と建物をCEEJA( アルザス・欧州日本学研究所 )が使用しています。古い修道院を改修して、校舎として使用していたそうなので、オディールはその修道院で暮らしていたのかもしれません。
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常盤貴子「旅するフランス語」で須賀敦子さんの訪れたコルマールへ
須賀敦子さんが最後の取材旅行で尋ねられたコルマールが、がNHKのEテレ、常盤貴子さんの「旅するフランス語」第22章 アルザス紀行3で取り上げられていました。「旅するフランス語」は語学番組というより、むしろ紀行番組といった感があり、昨年私も訪ねたコルマールの街を隈なく案内してくれました。パステルカラーのかわいい建物が並ぶ美しい町。中世の面影を残すユニークな建築物が多く、「頭の家」「小ヴェニス」など、おとぎ話のような風景をあちらこちらに見ることができます。 須賀敦子さんは『アルザスの曲がりくねった道』で、主人公フランス人修道女オディールが故郷について話す場面からです。<あっ、コルマールに行ったの。いつもは控え目な彼女が叫ぶようにそういうと、まぶたを半分とじるようにして、つぶやいた。ああ、コルマール。なつかしい、コルマール。戦争の前は、あの辺りのぶどう畑がぜんぶ、わたしたちの家のものだったのよ。シュレベール家のぶどう畑。息をつめるようにしてひと息にそういい終えた彼女に、わたしはあっけにとられた。>『考える人』2009年冬号に、「一九九六年九月、最後の旅」と題した鈴木力氏(新潮社)の記事があり、須賀さんがコルマールを訪れたときの写真が掲載されていました。「旅するフランス語」にも同じ場所(La Petite Venise)の光景が映されていました。旧税関の前に建つ須賀敦子さん。当然この場所も「旅するフランス語」に登場します。コルマールは、日本では宮崎駿監督の『ハウルの動く城』のロケ地になったことでも有名。プフィスタの家も、アニメのシーンに描かれていました。八角形の塔、出窓、壁に描かれた絵画などいたるところが芸術的で、16世紀に裕福な商人のために建てられた家だそうです。アルザス地方は歴史的にドイツとフランスの間を行ったり来たりした場所。そのため、地元の言葉であるアルザス語がとても大切にされてきましたとのこと。「旅するフランス語」第24章はアルザス紀行5は最終回。アルザス地方にあるオーベルジュでの豪華ディナーが紹介されていました。昨年行ったときな見ることができなかったアルザスのシンボルともいえるコウノトリの映像も見ることができました。これで終わりかと思いましたが、「常盤貴子の旅の手帖 大人のパリとアルザス地方」の今回のシリーズは4月から9月まで再放送されるそうなので、楽しみにしています。
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井上靖『あした来る人』に登場する香櫨園のお屋敷
井上靖は毎日新聞記者時代の昭和11年頃、川添町に住んでいたことから、作品にしばしば夙川公園を登場させています。(写真は川添町の井上靖が下宿していた家) 1954年に朝日新聞に連載された『あした来る人』は、映画にもなったメロドラマチックなストーリー展開ですが、高級住宅地としての香櫨園の情景が描かれています。 香櫨園に住む梶大介は、山名杏子という若く美しい女性に、銀座に洋裁店を持たせて事業支援していることが唯一の浪費という大実業家です。映画では梶大助は山村聡が、山名杏子は新珠三千代が演じています。 梶の娘・八千代は、登山家大貫克平と結婚していますが、克平は、山と妻とどちらが大切かと聞かれて、山よ答えるほど山に入れこんでおり、お互いすれ違ってばかりいます。 たまたま知り合った杏子と克平は、知らず知らずに相手を意識するようになり、カラコルムを目指す克平らは杏子の店の2階を根城に準備を始め、一方八千代は、カジキ研究のスポンサー依頼に梶のところに来た曽根二郎と知り合い、八千代は曽根の素朴さに惹かれるという複雑なストーリー展開です。八千代を演じたのは月丘夢二、曽根次郎は三國連太郎です。井上靖『あした来る人』からです。<香櫨園までの切符を買った。 阪神電車の香櫨園で降りると、酒場で電話をかけた時、八千代から言われたように、海の方へ向って歩いて行った。そして海へ突き当る少し手前で、いい加減見当をつけて、右手の低地へ降りて行った。そして最初の家で、梶大助の家をたずねた。「梶さんの家ですか」若い会社員の細君らしい女は言った。「はあ」「お向いです」見ると、向いの家は、さして大きい構えではないが、半洋風の造りで、石塀のまわったなんとなく金のかかっている感じの家である。>梶大助の家は香櫨園駅を降りて、南に下った川添橋付近に設定したのでしょうか。このあたりマンションが多くなりましたが、新聞連載当時の昭和29年頃は、まだまだお屋敷街の雰囲気が残っていたようです。
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自動車産業を扱ったドラマ『リーダーズ』とノンフィクション『覇者の驕り』
先日TBS系列でリーダーズ(再放送)とリーダーズⅡが放映されました。 トヨタに関するノンフィクションは何冊か読んだことがあり、知っているつもりでしたが、ドラマ化の脚本がよく、上海ロケやCGを駆使した映像と豪華俳優陣の熱演に感動してしまいました。 一方、自動車産業史にかかわるノンフィクションでは、NHK特集「自動車」(全4回シリーズ)で放送されたデイビッド・ハルバームスタムの『覇者の驕り 自動車・男たちの産業史』(昭和62年に日本語版が日本放送出版協会より刊行)が他に類をみない優れた作品だと思います。表紙の裏には次のような説明があります。「豊かさに自己満足し、驕りの中に変革を忘れた報いを受けたアメリカと、品質の向上と管理、技術革新に労使が真剣に取り組んだ日本の自動車産業は必然的にその地位を逆転させた。ヘンリー・フォードのフォード社創立、フォード家三代の親子の確執、アイアコッカのフォードへの反逆、日産内部の労使抗争といった鮮烈な人間ドラマを軸に、日米自動車戦争の実相が見事に描き出されていく。D.ハルバースタムが5年の歳月をかけて取材・執筆。」 そしてハルバームスタムは、自動車産業を取り上げたきっかけについて「日本語版への自序」で次のように述べています。<これまでの私の人生では、アメリカ人は、アメリカの大企業が世界で最も優れた製品を大量生産しているということを、何の疑問も持たずに受け入れてきた。まして、自動車の大量生産ができる国など、アメリカ以外にあるわけがないと思い込んでいた。ところが、突然、そこに日本が登場してきた。天然資源に乏しく、第二次世界大戦によって破壊されたその国が、燃費がいいというだけでなく、一般のアメリカ人がその品質の良さを認めるような、優秀な車を生産しているのだ。そんなことが、いったいどのようにして、そしてなぜ起こったのか。それが、歴史的な重みを持つ、一つの出来事として、そして、ひとつのストーリーとして私をとらえた。> この作品はフォードと日産を描いており、何故、GMとトヨタでなかったかは「著者あとがき」で次のように説明されています。<私はこの物語を二つの会社の人間関係を通して語ることにした。アメリカ側でフォードを選んだのは、クライスラーは弱体すぎて破産寸前だったこと、逆にGMはあまりにも巨大で裕福すぎて、何かとてつもない大きな変化でも起こらない限りびくともしないためだった。アメリカ第二位のフォード社を選んだため、日本側もトヨタに次ぐ第二位の日産を対象として取り上げることにした。> この作品を読むと、まず日米にわたる精緻な取材に驚きますが、日本の取材には相当苦労したようで、<日本に関する部分は、言葉のせいというより、日本人が自分の知っていることをしゃべるということについてわれわれとはまったく違う考え方のため、大変困難だった。>と述べています。 それにしてもアメリカ人のノンフィクション作家がよくぞ、ここまで日産の内部にまで立ち入って調べ上げたという力作です。日本でインタビューした人たちのリストは著名人も含め200人以上。自動車以外の産業に携わる者にとっても、教訓となるところが多く、私にとっては教科書的な本でした。参考までに目次を書いておきます。上巻目次マクスウェルの警告銀行家益田の破滅タフな金持ち坊やフォード株上場すガイジン教師たち日本の技術者デミング、聴衆を見つけるヘンリー・カイザー、デトロイトに挑む自動車労組の指導者〔ほか〕下巻目次銅像の人解き放たれた片山豊塩路天皇四面楚歌のヘンリー・フォード市民ネーダーダットサンは節約するフォード対アイアコッカの確執クライスラーの空白時代天谷、一時代に終わりを告げる変貌するOPEC成り上がり者韓国の台頭歴史の教訓〔ほか〕 本題の「リーダーズ」に戻ると、原作は本所次郎の『小説日銀管理』ですが、テレビドラマの脚本がノベライズされ、既に3月に出版されています。LEADERS(リーダーズ)~国産自動車に賭けた熱い男たちの物語~ 単行本(ソフトカバー) – 2017/3/12脚本 橋本裕志 (著), 脚本 八津弘幸 (著), ノベライズ 百瀬しのぶ (著) こちらはトヨタをモデルにしたフィクションですから、虚実が入り交ざっており、誰がモデルになっているかなど、推測しながら見るのも面白く、次回は事実とドラマを対比してみましょう。
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『LEADERS リーダーズ』(原作『小説日銀管理』)はどこまでフィクション
先日放映された『LEADERS リーダーズⅡ』の最後の場面で、昔先見の明がないとバカにした酒田ガレージの社長酒田健太郎がアイチ自動車にやって来て、アイチ車を販売させてくれと申し出ますが、愛知佐一郎のあとを継いで社長となった石山又造が、断って追い返すという胸のすくシーンがありました。 もちろんアイチ自動車のモデルはトヨタ、愛知佐一郎は豊田喜一郎、石山又造のモデルはトヨタ中興の祖といわれた石田退三です。 原作の本所次郎『小説 日銀管理』では、これがプリンス自動車の合併をモデルにして事実を織り交ぜた強烈な話になっています。 序章「企業の怨念」と終章「十五年目の復讐」で同じ話題が出てきます。 序章は昭和40年、アイチ自動車工業東京支店の社長室へ、日本タイヤ社長の橋口正太郎が尋ねてきて、石山又造にナカジマ自動車の合併の話を持ちかけます。 ナカジマ自動車のモデルがプリンス自動車、日本タイヤ社長橋口正太郎のモデルはプリンス自動車の20%の株式を持つブリジストンタイヤ会長石橋正二郎です。 終章では、十五年前にアイチ自動車がつぶれそうになり、金策に走り回った思い出が述べられます。<寒風が吹きすさぶ名古屋市内を、二人で金策に駆け回った時から、それまでも虚弱だった佐一郎の体調はおかしかったにちがいない。それを堪えて、最後は日銀に駆け込んで危機を乗り越えた。> このときアイチ自動車を支援したのが日銀名古屋支店長の山梨 良夫、モデルは高梨壮夫でした。 小説では山梨良夫はアイチ自動車副社長になっていますが、実際の高梨壮夫は、後に日銀理事を経て、トヨタの強い推薦で日本自動車連盟初代会長に招かれています。 一方、この時アイチ自動車の主力三行の一つでありながら支援を拒んだのが、西国銀行。上海ロケをしたらしく、赤色の地に金色の文字を書くのは、いかにも中国の銀行らしくて、これはもう少し日本の銀行らしい看板にしてもらいたかった。悪役を演じる西国銀行(小説では住井銀行)名古屋支店長児島正彦(小説では小平正彦)のモデルは住友銀行名古屋支店長の小川秀彦で、後に住友銀行専務を経て、昭和34年にプリンス自動車販売会社の社長に送り込まれます。<十五年前、住井銀行名古屋支店の玄関前で、佐一郎と石山の挨拶を軽視した常務の堀川恭三は、その後、頭取に昇格した。そして、「機屋に貸せても、鍛冶屋には貸せない」との捨て台詞を吐いた取締役支店長の小平正彦は、住井銀行の専務からナカジマ自動車の社長に就任している。その二人が目の前に座っている。経営が左前になったナカジマをアイチに吸収合併してもらうために、臆面もなく会談を申し入れてきたものだ。>これをきっぱり断るのです。 このトヨタの怨念はすさまじく、住友銀行が悪役のように描かれていますが、当時の日銀総裁一万田尚登が、そもそもそのように指導していましたし、住友銀行も住友財閥系の会社を支援するだけで精一杯だったのですから、やむをえません。因みにリーダーズでは日銀総裁は財部 登で中村橋之助が演じていました。 しかし、トヨタの歴代社長は、この仕打ちを決して忘れず、昭和40年、トヨタは経営危機に瀕していたプリンス自動車の救済を、プリンスのメインバンクである住友銀行の堀田庄三頭取から懇願されますが、トヨタの石田退三会長は「鍛冶屋の私どもでは不具合でしょうから」と堀田頭取の要請を拒絶したと伝えられていますが、これが事実であったかはよくわかりません。 トヨタと住友銀行との取引が再開するのは、さくら銀行と住友銀が合併して三井住友銀行が発足してからでした。 ところで鉄鋼メーカーにもこれに類する話があり、苦境に立っていたトヨタに薄板を納めなかった川崎製鉄は、その後ずっとトヨタと取引してもらえず、取引が再開できたのは日本鋼管と合併した後でした。(この話題も『小説 日銀管理』に取り上げられています。)まさにトヨタの孫子の代まで伝わるDNA、恐るべしです。
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さくら祭りで公開されていた山本清記念財団旧山本家住宅へ
桜はまだちらほら咲きですが、好天に恵まれた4月2日・日曜日、夙川の人出は驚くほどでした。 さくら祭りにあわせて、国の登録有形文化財に指定されている旧山本家住宅が公開されており、訪ねてみました。 この建物が建てられた昭和13年、夙川が阪神間モダニズムを代表する高級住宅地として開発されていた時代。阪神淡路大震災にも倒壊せず、当時の高級住宅の佇まいが山本清記念財団により良好に保たれています。 県道82号線に面した表門の右隣に見えるのは門衛所です。竣工時の写真が展示されていました。県道82号線を挟んで手前の、現在は浦邸と、にこにこ桜保育園のある場所はまだ畑が広がっています。旧山本邸の背後にはマンションなどもなく、夙川の松林が見えています。宮っ子「ええとこ西宮」の記事も展示されていました。 玄関から入って見ましょう。玄関の上の南東側の外壁は柱を壁面に露出させたハーフティンバー式の洋館風になっています。玄関を入った右手にある応接室(竣工時の写真)。階段手摺も立派です。客間には山本清氏がとみゑ夫人と共に蒐集した美術品を展示されています。マントルピースは大理石でできており、ゆとりのある生活が伺えます。一階の南縁側から見える庭です。一階の書院造の和室です。(竣工時の写真)掘りごたつのある一階茶の間。見えているのは中庭です。昭和13年当時の台所ですが、モダンなデザインです。二階の洋間です。窓からは向かいの吉坂隆正設計の浦邸とにこにこ桜保育園が見えています。二階の洗面所には竣工当時からの湯沸かし器が残されていました。庭から見る和洋折衷の主屋。主屋と庭を挟んで南側にある茶室です。旧山本邸に入って見ると、さすが400坪の敷地で、思ったより広く、庭の樹木なども美しく、馬酔木の花など愛でてまいりました。阪神間モダニズムの時代の生活を窺がえる貴重な文化財でした。
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小川洋子『ミーナの行進』にも登場するクラブコスメチックスのミュージアムへ
4月1日から5月31日まで、クラブコスメチックスのミュージアムで第14回企画展「人によりそう~中山太陽堂に見る販売促進・営業活動~」展が開催されています。http://www.clubcosmetics.co.jp/museum/ クラブコスメチックスは小川洋子さんの『ミーナの行進』でも、ローザおばあさんが使っていた双美人シリーズの化粧品として登場します。<特に開けてみないではいられない引き出しをたくさん持っていたのは、鏡台だった。そこにはありとあらゆる種類の化粧品が揃っていた。そのすべてが、化粧水から白粉にいたるまで、女の人二人が並んでいる図柄をシンボルマークとした<双美人シリーズ>で統一されていた。女の人は二人ともうりざね顔で、巨大な薄桃色の花を頭に飾り、澄ましてどこかを見つめている。「ああ、それ、とってもよく効くよ。美肌クリームね。塗れば塗るほど、お肌すべすべしてくる。」ローザおばあさんは私を鏡台の前に座らせ、シルクの化粧ケープを肩に広げ、どんなに高価な化粧品でも、惜しげもなく使わせてくれた。それは茶色い蓋で乳白色の丸い瓶に入った、いかにも効き目ががありそうなねっとりとしたクリームだった。> 株式会社クラブコスメチックスの歴史はは明治36年.に中山太一が創業した「中山太陽堂」のクラブ化粧品にまで遡ります。苦楽園四番町と六麓荘町にまたがる土地に中山太陽堂の貴賓接待に使うための「太陽閣」が竣工したのは大正11年のことでした。(写真は大石輝一の描いた苦楽園の太陽閣;現在の堀江オルゴール館の位置にありました) 今回の企画展では、大衆の娯楽が多様化した明治末から昭和初期にかけて、中山太陽堂が販売促進のため展開した博覧会への出展やイベント開催等の活動がご紹介されています。レトロなポスターや、看板なども数多く展示されています。 中でもひときわ目を惹いたのが、博覧会の展示のコーナーでした。 明治から大正期は博覧会の時代と言われるほど様々な博覧会が全国各地で開催され、中山太陽堂は積極的に参加し、大正末までに58の賞を獲得したそうです。 大正11年の上野公園で開催された平和記念博覧会では特設館を設置し、無料で希望者の髪やお化粧を整えたり、休憩室も併設したそうです。写真は中山太陽堂の特設館。 平和記念東京博覧会の会場図も展示されておりましたが、この鳥瞰図はインターネットで探しても見つけることができず、当時の様子を窺がえる貴重な図です。 鳥瞰図でも目立っているクラブ化粧品の新戦略商品の広告塔ともいうべき「カテイ石鹸大噴水塔」の写真もありました。噴水の頂点にはカテイ石鹸の商標となつているルブラン夫人の『母と子』の純白な石膏模型がおかれているそうです。見比べてみてください。『平和記念東京博覧会案内』には、この大噴水塔について、「不忍池の真中に屹然として立つた噴水塔がある、その噴水の奔騰高さは百五十尺、夜となれば電気応用の大仕掛けに只見る満天の飛沫、五彩の光龍、爛として虹と流れ、燦として火花と散る、その壮観は言語に絶して居る。この噴水は頂点にはカテイ石鹸の商標となつて居る泰西名画ルブラン夫人の『母と子』の純白な石膏模型も置かれてある」と説明されています。大阪駅前の貴重な写真もありました。 会場を回りながら、この時代の中山太陽堂の先進的で興味深い販売戦略など説明していただき、充実した展示であることが良くわかりました。 ところで、大正7年に大阪市南区水崎町690番地(後、浪速区水崎町40番地。現在のJR環状線新今宮駅線路沿い)に敷地約1875坪の中山太陽堂化粧品工場が竣工されています。沿革を見ると、「昭和51年に大阪市西区西本町に本社タイヨービルを新築し、移転。奈良県五條市に新工場竣工。」となっておりますが、その工場跡地(の一部)に、最近話題となっている星野リゾートが大阪に初進出し都市観光ホテル建設するとのことです。ご参考まで。
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井上靖『貧血と花と爆弾』に描かれた夙川公園、その主人公のモデルは?
井上靖の短編小説『貧血と花と爆弾』は昭和27年文藝春秋2月号に発表された作品です。 A新聞社で事業部長をしていた木谷竜太は、新たな事業として始める日本最初の民間放送会社の設立に携わることになります。放送会社の設立に奔走する木谷は、秋に来日する世界的なヴァイオリニストの演奏権を、ライバルのS新聞社が獲得したこと知り、ヴァイオリニストが来日した際の、日本でのただ一回の独占放送権を獲得しようと画策する物語。 主人公木谷竜太の自宅は、井上靖が毎日新聞記者時代に下宿していた香櫨園駅近くに設定されています。 夜11時に帰宅した木谷が、放送の契約についてどうしても伝えなければならないことを想い出し、自宅からA新聞の編集局に戻る場面です。<木谷は湯を二、三杯頭からかぶると、風呂場を飛び出し、再び洋服を着て、家人に、今夜はもう帰れないだろうと言って家を飛び出した。海岸から駅へ真直ぐに伸びている夜更けの舗道には、犬一匹通っていなかった。十間か十五間置きに、街燈が眩ゆい程の光を舗道に投げかけ、道の両側の赤松の幹がその付近だけ芝居の書割のように、不自然な色彩で鮮やかに浮かび上がって見えていた。> これを読むと、自宅は香櫨園駅より海寄りに設定したようです。現在はオアシスロードと呼ばれている道を駆けて行きます。<一番海寄りの郊外電車の踏切を駆け抜けると、漸く道の舗装はとれ、今度はいやにふわふわと和かい感触が靴の下に感じられた。その時木谷はほっとすると同時に、軽い眩暈を感じた。>当時はまだ阪神は高架にはなっておらず、香櫨園駅の東側に踏切がありました。 この作品、単なる成功物語かと思いきや、実話に基づいていることがわかり、事実と対比しながら読むと更に面白くなりました。主人公の木谷は、井上靖の毎日新聞社記者時代の同僚であり、後に伝説のプロヂューサーと呼ばれた小谷正一をモデルとしています。 小谷正一伝説として、早瀬圭一によるノンフィクション『無理難題「プロデュース」します』に当時の活躍ぶりが詳しく紹介されています。 『貧血と花と爆弾』では、木谷が「A日本放送」設立とヴァイオリニスト「ラーネッド」の放送権獲得に奔走する姿が描かれていますが、実際に小谷は1951年の「新日本放送」(現在の毎日放送)設立に関わっており、新日本放送は小谷によって、朝日新聞が招聘したアメリカの世界的ヴァイオリニスト「ユーディ・メニューイン」の独占放送権を獲得しているのです。『無理難題「プロデュース」します』には井上靖の小説には描かれていない興味深い事実も書かれており、次回に紹介いたします。
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井上靖『貧血と花と爆弾』に登場する天才少女辻久子と新日本放送
井上靖が大阪毎日新聞の同期入社で伝説のプロデューサーと呼ばれた小谷正一の民間放送局(新日本放送のちの毎日放送)開設をモデルにした『貧血と花と爆弾』には、見原清子というヴァイオリニストの辻久子さんをモデルとしたと思われる人物も登場します。<木谷はその日大阪の生んだ天才少女と言われているヴァイオリニスト三原清子父娘が始終出入りしていて、半ば彼女の事務所ででもあるような印象を人に与えている梅田の小さい喫茶店の扉を押した。> 天才少女と言われた辻久子さんは西宮の甲子園に住まれていたこともあり、その自宅を売り払って、ストラディバリウス(3500万円)を購入したという逸話もある名バイオリニストです。 父親辻吉之助をモデルに、事実に近い形で描かれた部分もありました。『貧血と花と爆弾』からです。<木谷は夕刊新聞時代から今日まで終始一貫して三原清子を影になり陽向になり後援して来ていた。それも三原清子の天分に対する愛情というより、父周平の魅力も彼に対する愛情ともつかぬものが大きく木谷に働いていた。> 実際にも、小谷正一は昭和十三年、大阪毎日新聞入社二年目で十三歳のバイオリニスト辻久子と、自分がバイオリンで果たせなかった夢を娘に託した父親辻吉之助に出会います。そんな辻吉之助に魅せられた小谷は辻久子のリサイタルを、周囲を説得し事業部主催で敢行し、成功させたのです。写真は大阪毎日新聞本社(日本古写真データベースより)小谷正一伝説『無理難題プロデュースします』からです。<小谷が企画した初のリサイタルは中之島公会堂いっぱいの聴衆を前に、山田耕作の「大阪で生まれた天才を育て上げるために、皆様のお力添えを頂きたい」という挨拶で始められた。楽屋には思いがけずソプラノ歌手の三浦環が姿を現して久子を励ました。リサイタルは大成功を収めた。小谷は事業部長と相談し、入場量から諸経費を差し引いた八〇〇円を「出演料」として辻親子に渡した。> その後、小谷と辻親娘のつきあいは戦後まで長く続いたようです。 小谷正一が開設当時事業部長として着任した新日本放送は最初、阪急ビルに仮住まいしていました。<新しく誕生するA新聞社系の民間放送会社の名をS日本放送と命名することに決まったのは、一月十日であった。>A新聞社とは毎日新聞、S日本放送とは新日本放送です。<その日事業部員を集めて転勤の挨拶をすると、木谷は四時頃、S日本放送会社の社屋が建つ筈になっている梅田のH電鉄ビルの六階に、エレベーターで上がっていった。><木谷は、設立事務所と準備委員会を置く部屋の見当をつけると、そこの階段を昇り屋上へと出て行った。ここに七階八階の二層の建築物が建設され、そこに、スタジオが、ミキサー・ルームが、モニター・ルームが、放送部、技術部、総務部、営業部の各室が設けられる筈であった。> 新日本放送設立には、阪急の総帥小林一三も、「べっぴんさん」で登場した大急百貨店社長・大島保(伊武雅刀)のモデルとなった阪急百貨店社長・清水雅も絡んでいました。昭和26年の阪急ビルの写真がありました。ビルの屋上に新日本放送の二層の建物が増設されているのがわかります。『貧血と花と爆弾』は戦後の復興期の実話にもとづいた物語で、当時の出来事を知ると、登場人物を推定しながら興味深く読める小説でした。
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井上靖『黒い蝶』は小谷正一をモデルとしたもう一つの物語
井上靖と小谷正一は同じ年に大阪毎日新聞に入社し、お互いを認め合う間柄で、井上靖は、小谷正一をモデルにして、いくつかの小説をかいています。 『黒い蝶』は事業に失敗して破産した主人公・三田村伸作が、あるきっかけからソ連の天才ヴァイオリニスト「ムラビヨフ」の招聘に取り組んでいく姿を描いたものです。 この小説は戦後間もない時代背景をもとに、多くの特徴のある人物が登場し、読みだすと思わず引き込まれる物語になっていますが、小谷正一のソ連からのオイストラフ招聘の活動を知ると、更に面白く読めます。 小谷正一がソ連のオイストラフを招聘した様子は、馬場康夫著『「エンタメ」の夜明け』に書かれていました。 それは小谷が昭和28年に毎日新聞から独立し、ラジオ・テレヴィ・センターを設立、「東京ヴィデオ・ホール」を開設してからのことです。まだソ連とも国交が開かれていない時代に、鉄のカーテンの向こうから凄腕のヴァイオリニストを呼ぼうとしたのです。<調べると、それはソ連のバイオリニスト、ダビッド・オイストラフのことであった。目をかけていたバイオリニストの辻久子に、「そいつはメニューインより上手いか?」と訊ねると、辻は「オイストラフが現れて以降、他の演奏家は太陽の前の星と化した」というトスカニーニの言葉を教えた。>とあります。またソ連との関係については、<後日小谷は、外務省の高官に会って、もしもソ連政府がオイストラフの来日を承諾した場合、日本政府はそれを許可してくれるか、と訊ねた。高官は呆れてこう言った。「国交のない国との交流なんて、何をたわごとを言っとるのかね」政府筋の情報を総合すると、対ソ強硬主義の吉田内閣がつづく間はまず不可能、とのことだった。>と述べられています。 しかし、昭和24年に吉田内閣が総辞職に追い込まれ、三木武吉の運動によって反吉田派が結集した日本民主党の鳩山一郎を総裁とする日本民主党が結成され、第一次鳩山一郎内閣が誕生します。このあたりのことは、井上靖の小説『黒い蝶』でも触れられています。<吉田内閣から鳩山内閣へ変わって最も目立つことは対中ソ政策の転換であった。中共行きの一般旅券を政府が初めてペニシリン協会へ交付したというニュースがその最初の現れであった。続いてソ連外相が対日関係の正常化を意図し、そえに対する用意があるということを声明したというニュースが各紙の一面のトップ記事として登場した。> 時代の流れも後押しし、小説ではムラビヨフがストックホルム経由羽田空港に到着するのですが、三田村が出迎えに行く場面で終わります。この様子は、馬場康夫『「エンタメ」の夜明け』では、次のように述べられています。<1954年2月19日の真夜中。オイストラフを乗せたスカンジナビア航空機が1時間遅れで羽田空港に着陸した。小谷が大阪ミナミのバーで、仲間に「今いちばん不可能な仕事は鉄のカーテンの向こうから誰かを呼ぶことや」と言われ、オイストラフの招聘を決意してから、3年の月日が経っていた。> オイストラフを出迎えるために羽田に向かうバスには、小谷正一と井上靖が同乗していました。『黒い蝶』は小説としての面白さ、ドキュメンタリーっぽい面白さが両方楽しめる作品でした。
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雨に煙る夙川公園の桜並木
昨日は朝から小雨が止まず、昼間も雨もよいの空のままでした。しかし、夙川公園の桜は満開。このタイミングを逃してはと早朝から散歩。甲陽線鉄橋から夙川公園を下ってみました。天候のおかげで、人影はまばら、ゆっくり花見をさせてもらいました。静かな夙川公園です。今朝はそろそろ陽射しもでてきましたので、多くの花見客で賑わうことでしょう。
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阪急西宮球場を舞台とした井上靖『闘牛』は小谷正一の実話がモデル
井上靖『闘牛』は、社運を賭けた闘牛大会の実現に奔走する新聞編集局長津上と、その行動の裏側に潜む孤独な心情を、敗戦直後の混乱した世相の中に描き出した芥川賞受賞作。 戦後を代表するイベントプロモーター・小谷正一が西宮球場で仕掛けた闘牛大会をモデルとしています。なお井上と小谷は元々大阪毎日新聞の同期入社で親しい関係でした。 井上靖『闘牛』は次のように始まります。<来春一月二十日から三日間阪神球場で闘牛大会を開催するという社告が、大阪新夕刊紙上にでかでかと発表されたのは二十一年十二月中旬だった。その日編集局長の津上は社告の載った仮刷りが刷上がると、それを一枚ポケットに入れて、…> 主人公津上が小谷正一をモデルとした人物で、大阪新夕刊紙とは、昭和21年に毎日新聞の系列紙として創刊された「夕刊新大阪」のことで、当時毎日新聞事業部副部長だった小谷正一は、夕刊新大阪の報道部長兼企画部長として出向したのです。夕刊新大阪については足立巻一著『夕刊流星号』で創刊から滅亡までが詳しく描かれています。 小谷正一は同社の創刊1周年記念事業として四国の宇和島から大阪に22頭の牛を運び、西宮球場で闘牛大会を行いました。戦後の殺伐として楽しみの少ない時に大阪の大衆が熱狂する催しを提供しようという企ては度重なる困難を乗り切って実現しましたが、無情な雨のため興行は大失敗に終わり、資本金19万5千円を上回る20万円の赤字が残ったそうです。小説に登場する「阪神球場」とは阪急西宮ガーデンズのところにあった阪急西宮球場のことですが、その風景が次のように描かれていました。<さき子は阪神球場に津上を訪ねて行った。今に雪でも舞い落ちて来そうな、薄ら陽の、寒い日の午後だった。西宮北口で電車を降りた。いつも電車からは見ているが、その巨大な円形のスタジアムの近代的な建物の中に入って行くのはさき子はこの日が初めてであった。人気のないがらんとした建物の空洞を突当って左手に折れると、建物の大きさにはひどく不似合いな船室のようなちいさな事務所があった。>当時としては大変立派なスタジアムでした。 雨に祟られて採算面では大失敗に終わる闘牛大会でしたが、大会前には大手薬品会社が入場券のすべてを買い取りたいと申し出たのを、小谷は薬品会社の宣伝にだけ使われるのではメリットがないと、手堅い方法を断ってしまったのです。 このあたりの迫真に迫る交渉について、小説でも「東洋製薬の青年社長三浦吉之輔」と主人公津川の交渉場面が描かれています。申し出を断られた三浦は津川に次のように語ります。<三浦は、なお暫く考え込んでいたが、思い切ったように立ち上がった。そうしてもう一度真直ぐに津上の方に顔を向けると、「気象台ではここ数日中に雨になると言っていますがー」と言った。津上は無礼極まる青年の言葉を途中で遮った。「知っています。新聞社としても、もともとこの仕事は賭博です」「なるほど」三浦は帽子を取りながら、初めて交渉はこれで終わったといった素直な微笑を浮かべた。> この製薬会社とはどこのことだったのでしょう。ひょっとして大塚製薬? 当時の大塚製薬の社長は若干31歳の大塚正士氏でしたから、小説の三浦社長にぴったりなのですが。 結局、闘牛大会の第一日目、第二日目を完全に雨が降りこめ、二日目の夕方から上がったそうです。 順延になった闘牛大会の西宮球場のスタンドに、小谷と親しい当時毎日新聞大阪本社の学芸部副部長をしていた井上靖も来ていたのです。井上は新聞社から一週間の休暇をとり、小説『闘牛』に没頭したそうです。 因みに、闘牛大会の四か月後、小谷は倉敷の大原美術館のコレクションを借り出し、阪急百貨店を会場として「欧州名作絵画展」を企画、開催し、予想以上の人の入りで、純益二十万円をあげ、闘牛の損失を一気に取り戻したそうです。 ところで以前、阪急西宮ギャラリーに行ったとき、西宮球場で開催された闘牛の様子が映像で紹介されていました。しかしそれは昭和36年の映像でしたので、小谷正一が企画した闘牛大会はその後も引き継がれ開催されていたようです。 その後阪急西宮ギャラリーが縮小されてしまったのは残念なことです。
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森見登美彦の人気小説『有頂天家族二代目の帰朝』アニメ版の放映開始
森見登美彦のベストセラー作品『有頂天家族 二代目の帰朝』は、千年の都・京都で古来より、人に化けて人間に紛れて暮らしていた糺ノ森に住む狸の名門下鴨家の物語。小説は次のような紹介から始まります。<面白く生きるほかに何もすべきことはない。まずはそう決めつけてみれば如何であろうか。私は現代京都に生きる狸であるが、一介の狸であることを潔しとせず、天狗に遠く憧れて、人間を真似るのも大好きである。この厄介な性癖は遠い御先祖様達から脈々と受け継がれてきたものに相違いなく、今は亡き父はそれを「阿呆の血」と呼んだ。> 前作にも劣らない感動物語になっていますが、そのアニメ版がKBS京都で放映開始されました。第一話は小説の第一章と同じく「二代目の帰朝」。 小説は五月の出来事から始まりますが、この時期賀茂川堤の桜は外せず、アニメでは桜満開の映像です。<その洋風天狗は外国人めいた風貌の白皙の美男子であり、時代錯誤な新帰朝者ぶりがとてつもなく目立っていた。艶々と輝くシルクハット、ぴったりと身体に合った三つ揃いの黒の背広、石膏のごとく白いワイシャツと黒い蝶ネクタイ、革の手袋に包んだ細い手にはステッキを持っている。そもそも天狗は年齢不詳の存在だが、人間でいえば三十代後半ぐらいの年恰好に見えた。水も滴るいい天狗である。>格好良く登場する二代目ですが、アニメでは三つ揃いの黒い背広は白いフロックコートに変わっていました。 赤玉先生と二代目は百年前の大正時代に、ある事情で大喧嘩したのです。その事情とは、<そこに現れたのがひとりの女性である。当時、時計台をもつ西洋風のホテルが烏丸通りに忽然と出現した。彼女はその「廿世紀ホテル」の持ち主である戦争成金の箱入り娘であった。二代目は一目見るなり熱烈な恋に落ちたのだが、そこに赤玉先生が「魔道を踏み外した弟子を懲らしめる」と言ってちょっかいをだしたのである。> ここに登場する西洋風のホテル「廿世紀ホテル」のモデルとなったのはどこのホテルだったのでしょう。 その頃は京都ホテルと都ホテルくらしかなかったのですが、場所は河原町御池にあった京都ホテルの方が近そうです。 建物は、時計台はありませんがレストラン菊水をモデルにしたのではないでしょうか。 レストラン菊水は、大正5年瓦せんべい屋を手広くやっていた“ハイカラで新しもん好き”の初代・奥村小次郎社長が、ハイカラな西洋館でおいしい西洋料理を食べてもらい、「お客様に喜んでもらって、感動させたい」という強い思いで菊水館の創業を決意し、建物は大正15年に完成しました。平成8年に国登録文化財に指定されています。<燦然と輝く夜のホテルを舞台に繰り広げられた恋の駆け引きはもつれにもつれ、少年時代から膨らみ続けてきた二代目の癇癪玉はついに爆発炎上した。父と子、東山三十六峰を震撼させる大喧嘩は三日三晩続いたという。><しかし亀の甲より年の劫、赤玉先生は荒ぶる獅子のごとく、二代目を南座の大屋根から四条通へ蹴落として、勝利の雄叫びを上げた。敗北した二代目は雨に打たれつつ、暗い街を抜けて姿を消した。以来百年。大英帝国から帰朝して故国の土を踏んだ如意ヶ嶽薬師坊二代目は、河原町御池の京都ホテルオークラへ威風堂々と入場した。> 河原町通りにある京都ホテルオークラが二代目の宿泊先となっていることから、やはり「廿世紀ホテル」は京都ホテルをモデルにしたのかもしれません。京都の馴染みある風景が舞台となっている、『有頂天家族』です。「有頂天家族」のキャラクターたちが「京都特別親善大使」に就任したのを機に、スタンプラリーも開催されています。
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森見登美彦『有頂天家族二代目の帰朝』に登場する廿世紀ホテルとは?
森見登美彦の小説の舞台は、ほとんどが実在の場所や建物なので探訪するのは比較的容易です。しかし『有頂天家族二代目の帰朝』に登場する、百年前に赤玉先生と二代目の大喧嘩の原因となった戦争成金の箱入り娘の父親が所有する、烏丸通りの西洋風ホテル「廿世紀ホテル」のモデルは実在したのでしょうか。
大正時代に京都に実在した大きな洋風ホテルは二つありました。
一つは東山・蹴上の麓に開かれた「吉水園」の園内に設けられた、都ホテル。
もう一つは河原町通二条下る旧勧業場跡(旧長州藩邸跡)にあった京都ホテルです。
現在は京都ホテルオークラとなっています。
京都ホテルの写真を見ると、小説に書かれているような時計塔もありませんし、烏丸通にはないのですが、都ホテルよりは、こちらがモデルに近いかと考えていました。
それに二代目が帰朝して宿泊したのは、現在の京都ホテルオークラでしたから。
しかし、更に調べていると、『小説TRIPPER』が創刊「20」周年を記念し、2015年6月に発売した記念号に森見登美彦が「廿世紀ホテル」と題した短編を執筆していました。
どうも『有頂天家族』に登場させた廿世紀ホテルの物語を更に発展させたようです、
<これは大正時代のお話である。廿世紀も早十五年を過ぎて、新世紀到来の興奮もすっかり冷めた頃合いである。>と始まります。
<さて、その夏、四条烏丸にある「廿世紀ホテル」で妙な出来事が相次いでいた。「廿世紀ホテル」は煉瓦造りの西洋風ホテルである。欧州大戦による軍需景気でしこたま儲けた成金が建設したもので、屋根に聳える時計台、最新式のセントラル・ヒーティング、全館を宝石箱のごとく輝かす電灯、深紅の絨毯を音もなく行き交う従業員たちと、まさにハイカラ中のハイカラだったが、そんなホテルで怪異が続発するというのだから妙だった。>
京都で時計台といえば、思いつくのは京都大学ですが、四条通にあった時計塔の写真がありました。しかしこの建物はホテルには見えません。
<廿世紀ホテルは自慢の電灯を盛んに輝かせて、砂埃の舞う夕暮れの烏丸通を明るくしていた。>
かなり詳しいホテルの描写で、モデルがあるに違いないと思うのですが、どこだったのでしょう。
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原田マハさんの思い出の桜が満開
原田マハさんは1981年に山陽女子学園から関西学院大学に入学し、岡山から阪神間に出てきた時のことを次のように話されていました。「憧れの神戸に来て、西宮と神戸の間の忘れられない風景があります。阪急電車で芦屋川を通った時に、桜がバーっと咲いていてるのが見えて、その車窓の風景に歓迎されているようで、自分の中では忘れられない青春の一枚の写真となって記憶に残っています。」上の写真は阪急芦屋川駅のプラットホームから見える桜。ようやく満開になりました。 その桜満開の風景がもとになったのでしょうか、原田マハさんと関西学院時代からの友人をモデルとした、ハグ(波口喜美)とナガラ(長良妙子)の旅物語の『笑う家』で芦屋川沿いの桜並み木が描かれていました。<もう一度は、私が芦屋へ行って、春爛漫の芦屋川沿いをそろぞ歩き、はらはらと風に舞い散る桜を全身に浴びた。お互いの住む町を訪ねる、こういう旅のかたちもあったのかと、不思議に新鮮だった。 芦屋を訪ねたのは、この春のことで、実に三十年ぶりだった。最後に訪問したのは、ナガラがアパートに入居してすぐ、引っ越し祝いとお互いの就職祝いを兼ねて、フレンチレストランで祝杯を挙げたときのこと。>ハグとナガラが祝杯を挙げたフレンチレストランとは、芦屋川沿いのベリーニをモデルにしたのかもしれません。イタリアンですが。この時期、ベニバナトキワマンサクが見事な赤紅色の花を咲かせていました。
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原田マハさんの『おいしい水』に登場する夙川・芦屋川の桜並木
夙川の桜も散り始めました。 原田マハさんは関西学院に通っていたことからでしょう、学生時代の思い出をモデルにした小説に『おいしい水』があります。 そこに阪急電車と夙川・芦屋川の桜並木の様子が描かれていました。<あずき色の電車は、大阪・梅田から、私の住む西宮北口という駅を通って、神戸・三宮、新開地まで走っていた。特急ならば、西宮北口から三宮まで十分ちょっと。物足りなくて、私はしばしば普通電車に乗った。車窓から眺める風景が、何より好きだったのだ。山側は北。海側は南。方向音痴の私でも、神戸では方角を間違えようがない。毎週末乗るようになってから、この電車をデザインした人を尊敬するようになった。なぜなら、明るい緑の六甲山を背景に、夙川や芦屋の川辺の桜並木を抜けるとき、あずき色は風景に完全に溶けこんでいるからだ。>夙川をまたぐ阪急夙川駅のプラットホームです。夙川駅の一番近くにある桜は見事です。夙川駅のプラットホームから見た夙川の桜。わたせせいぞうさんのラッピング電車のイラストの夙川の桜も印象的ですが、原田マハさんならどんな感想を述べてくれるのでしょう。
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森見登美彦『有頂天家族二代目の帰朝』決闘場面に登場する登録有形文化財
森見登美彦『有頂天家族 二代目の帰朝』第一章「二代目の帰朝」の決闘場面からです。決闘場所は百年前の決闘場所と同じ、京都四条大橋のたもとにある南座の大屋根の上です。<決闘当日の夜、赤玉先生は南座の大屋根によちよちと這い上がっていった。鉢巻と襷掛けからは闘志満々であることがよく分かるが、四つん這いになってぶるぶるしているその姿には天狗らしさのかけらもない。百年前に我が子を蹴落とした南座の大屋根を決闘の場所に指定したのは明らかに無謀なことだであった。しかし先生は不屈の闘志で屋根を這い、なんとかてっぺんに辿りついた。>レストラン菊水のビアガーデンは鞍馬天狗たちが貸し切りで見物です。写真は昨年夏に訪れた時の、屋上ビアガーデンの様子。<四条通を挟んで向かいにある「レストラン菊水」の屋上から、ジウジウと肉を焼く美味そうな匂いが夜風にのって流れてきた。提灯の輝くビアガーデンは今宵鞍馬天狗たちによって貸し切られ、今まさに「薬師坊をテッテイして馬鹿にする會」が開催されようとしていた。>ヴォーリズ建築の登録有形文化座「東華菜館」も登場します。<また、鴨川の対岸で灯篭のように輝く「東華菜館」の屋上では、岩屋山金光坊がひとり老酒を傾けて旧友の決闘が終わるのを待っていた。>今年の夏はこちらにも行ってみましょう。<やがて暗い夜空から万年筆のインクが滴るようにして、黒ずくめの二代目が舞い降りてきた。>小説では黒ずくめの二代目ですが、アニメでは白ずくめでした。赤玉先生は懐から風神雷神の扇を取り出し、大風を起こそうと振り上げようとするのですが、手からすっぽぬけて宙を飛びます。南座の大屋根で繰り広げられた決闘の結果はあっけない幕切れでした。
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