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Channel: 阪急沿線文学散歩
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甲山神呪寺から見る初日の出

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 明けましておめでとうございます。 今年は、天気も良さそうなので、初日を楽しみに早朝から甲山登山です。例年雲がかかっていて、山の端から昇る朝日はなかなか見れないのですが、今年は大丈夫でした。しばらくすると、雲がかかりだしましたので、ラッキーでした。ところで、「高山から見るご来光は、お釈迦様が光背を負うて来迎するのになぞらえていったもので、信仰の対象は仏教。初日の出は、豊作の守り神である年神が、初日の出と共に降臨すると信じられていたことから拝むようになったもので、信仰の対象は神道。」という定義があるそうです。 低山ではありますが、そうすると甲山神呪寺から見る日の出はご来光? アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」エンドレスエイトにも登場する甲山太師・神呪寺境内の鐘楼。今日は多くの人が並んで鐘をついていました。  帰りは甲山八十八か所巡りの石仏に新年のご挨拶をしながら、甲陽園目神山を通って帰ってきました。山の向こうに先ほどの神呪寺の鐘楼や多宝塔が見えています。途中大阪湾や、神戸港も見晴らせ、清々しい元旦でした。

初詣は越木岩神社でした

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今年の初詣は越木岩神社。小川洋子さんの『原稿零枚日記』にも泣き相撲で登場する神社です。いつもは比較的静かな山の上の越木岩神社ですが、お正月には、参拝の行列が正面の鳥居の外まで続いていてびっくり。 本殿で参拝の後、は本殿の奥に進み、ご神体の「甑岩」に詣でてきました。  小川洋子さんは、『原稿零枚日記』でこんなふうに説明されています。 <社殿の裏、石段をしばらく登ったあたりには巨大な石が祀られている。近辺の丘陵地帯で多く産出される質のいい花崗岩で、高さは十メートルほどもあるだろうか。いくつかの岩が組み合わさっているようんみも見えるが、説明書きによれば一塊の巨石であるらしい。入り組んだ形状と、天辺の割れ目に根を張り枝を広げている樹木のせいで全体像をつかむのは容易ではなく、周囲を一周するにも足場が悪くて骨が折れる。その樹木がじわじわと岩を割り砕いているようでもあるし、逆に岩が樹木を飲み込んでいるかのようでもある。そんな巨大なものがどういうバランスでそこに留まっているのか、支点となるポイントを見つけようと何度か試みたが上手くいかなかった。>  更に登って、あの話題となった磐座のマンション建設予定地も覗いてみましたが、ここは以前見た時と全く変わっていません。 『原稿零枚日記』が書かれた頃は、まだ夙川女学院があった頃のお話です。 <神社の周囲は案外近くまで宅地開発が進み、新しい住宅が整然と立ち並んでいる。斜面の真下には女子大もあり、木々の隙間からは所々校舎が覗いて見える。しかし森の静けさを侵すものはどこにもない。> と述べられていますが、神社の森はこの先どうなるのでしょう。  参拝から戻り、邸宅が並ぶ名次山や南郷山のあたりを散策していると、エントランスや道路に面した花壇に、冬の寒さに負けないビオラやパンジー、アリッサム、ガーデンシクラメンなどが咲いており、目を楽しませてくれました。静かで気持ちのいい散歩道です。

宇江敏勝『白浜温泉の怪』の舞台巡り、まず番所山公園へ

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昨年末に行った白浜温泉のお話を続けます。今回はJRトクトク切符で申し込んだおかげで、駅レンタカーのアクアが24時間3200円で借りれるお得なセットで、白浜の絶景ドライブを楽しんできました。白浜駅でレンタカーを借りて、まず向かったのが2014年4月にオープンしたという番所山公園。 番所山に登る前の海岸線から見えてきたのは円月島。打ち寄せる波でできた真ん中の海蝕洞が満月のように見えます。 番所山には南方熊楠記念館もあるのですが、残念ながら現在改装工事のため閉館中でした。「名探偵コナン」で随分前に、「南紀白浜ミステリーツアー」が放映されました。そこで登場する南方熊楠記念館。入り口に描かれている大きなヤシの木は今も健在です。この入り口が番所山公園への入り口になっています。当時はまだ番所山公園が開園されていなかったようで、「名探偵コナン」ではトンネルは閉ざされていましたが、今回はこのトンネルを通って、展望台へ。園内には十二支のモニュメントが設置されています。展望台では360度の素晴らしい展望が開け、太平洋の丸い水平線が実感できました。『白浜温泉の怪』に登場するのは、展望台から岩礁のように見えている四双島のお話し。現在は写真のように夜間用に白い小さな灯台が設置されています。<瀬戸の﨑ノ浜の沖には四双島という岩礁がある。手前の円月島ほどには一般に知られていないが、ときおり船が座礁する難所であった。また春には鯛がよく釣れるので、漁師たちにとってはなじみ深い漁場だった。>潮の満ち干で見え隠れするのではないでしょうか。航空写真でははっきりわかります。<その時も四双島のまわりには、鯛の一本釣りの小船が十数艘もならんでいた。空はどんよりとくもって、なんとなく生温かいような風が、かすかに頬を撫でる夜であった。 ふと北西の日ノ岬の方角から、赤い火の玉のようなものがこちらへ向かってくる。幽霊船だ、と漁師たちは恐怖におびえて顔を見あわせた。それまでにも四双島の付近で出会った者がいたのである。> ガイドブックのは四双島については触れられていませんが、昔はこのあたりで座礁する船が多くあり、このような怪談が生まれたのではないでしょうか。

うそつき野坂昭如の自伝的小説を読み返す

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昨年満池谷町自治会副会長のT氏が、野坂昭如の一周忌を機に、疎開先の親戚のその後のお話しを明らかにされたことから、もう一度自伝的小説を読み返してみることにしました。 昨年の4月から、新潮45に野坂暘子氏が「うそつき 野坂昭如との日々泣き笑い」と題したエッセイを連載されています。2016年6月号では、次のようなお話を紹介されています。<野坂の愉快な話です。ぼくは嘘つきである。年中嘘をついて生きてきた。そのため嘘と本当の境目が自分でも危なっかしい。>と嘘つきであることを自認されていた野坂氏、毎晩各誌編集者と打ち合わせと称し飲むうちに、気が大きくなり、あれも書く、これも書きましょうと調子よく約束していたとのこと。<だがそこからが地獄の入口だ。当然のことに締切が生まれている。考えてみれば、小説とは話を大きくする作業だ。どれだけ嘘を大きくふくらませるかにかかっている。実際のぼくは軽佻浮薄そのもの。口から出まかせ、出たとこ勝負でここまで生きてきた。戦後無一文のぼくは、その日その日を運にまかせてきたところがある。嘘をつこうと思ってつくわけじゃないが、気がつけば自分のついた嘘がひとり歩きしている。酒の席でのぼくの口から出まかせが、ひとり歩きして、気づけば作品となってきた。>「嘘と本当の境目が自分でも危なっかしい」と自ら述べている野坂昭如の自伝的小説は、特に男女関係など大きくふくらませていることは間違いなく、どこまでが真実だったのかわかりませんが、満池谷の疎開先を離れてからの戦後の足どりを私小説『行き暮れて雪』を中心に辿ってみようと思います。

宇江敏勝『白浜温泉の怪』から京都大学白浜水族館の怪とその後

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 番所山公園、南方熊楠記念館、京都大学瀬戸臨海実験場(水族館)などがあるあたりを臨海と呼ぶそうですが、そこにまつわる怪談がありました。番所山の歴史もよくわかります。<番所山というのは海岸から一段あがった丘陵地帯で、藩政時代には紀州徳川家の別邸と番所があった。番所は狼煙台もそなえて外国船を見張ったのである。また沖では鯨を獲ったが、紀州藩としては捕鯨にかこつけて水軍の調練もしたといわれている。湯治のためとした殿様の別邸は幕府の眼をくらます擬態だったのかも知れない。> 瀬戸内海に入ろうとする外国船を見つけた時は、この番所山の見張り台から狼煙を上げて和歌山城まで知らせたのでしょう。<だがあたりには民家はなく、岩山のあいだに荒地とわずかな畑があるだけであった。岩山のあいだに荒地とわずかな畑があるだけだった。そこに京都大学瀬戸臨海実験所の設置が決まったのは、大正十年二月のことである。>大正時代まで遡る施設だったとは知りませんでした。 その土木工事が始まったときに、地下に多くの人骨が見つかります。<年寄りたちに見てもらうと、古くは安政元年の大地震による津波で流れ寄った死体もあるはずだが、七十年余りも前のことはよくわからない、と言う。明治二十二年の大水害のときの死体は、たしかに自分たちの手で葬ったが、船の遭難による犠牲者もいるはずで、とにかくこのあたりは潮の加減でいろんなものが漂着する場所なのだと、と話した。> 建設工事中色々な事故が続き、大正十一年六月に予定していた竣工式も延ばさざるをえなくなり、学問の府である京都大学の関係者もさすがに驚いて、供養しようということになり、無縁仏施餓鬼法要を丁重に行ったそうです。<開所式が盛大に挙行されたのは一か月後の大正十一年七月末のことである。水族館の無料公開、相撲大会、餅まきなどがあり、おおぜいの人々で一日じゅう賑わった。それからは何事もおこることはなく、過去のいまわしい出来事はさっぱりと忘れられた。>現在も結構人気のある水族館です。

野坂昭如が満池谷を離れてから新潟県副知事の実父野坂相如に引き取られるまで

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 野坂昭如が一歳の妹を連れて食糧事情が酷くなった西宮の満池谷を離れて福井県春江町に疎開したのは昭和二十年七月三十一日のことでした。 養子先の張満谷家の祖母ことは、神戸の空襲が激しくなる前に、大阪府守口町に住む養父善三の弟夫婦(南川家)を頼って、家の隣の元飯場へ疎開していました。そして六月五日の神戸大空襲で大火傷を負い、西宮の回生病院に入院していた養母愛子も、七月半ばには、このまま病院にいても、先行きの見込みがないと考え、その後守口に移っています。 しかし、養母、祖母と汚い元飯場で二人の確執を見ながら一緒に暮らすのを嫌った野坂昭如は、小学校三年まで家の斜め向かいに住んでいて福井県春江町へ疎開していた同年の男の子に窮状を訴え、昭和二十年七月三十一日に一歳の妹を連れて満池谷からそちらへ移ることにします。『わが桎梏の碑』からです。<遠距離の移動は禁止、だが罹災証明書があれば、許される。夙川駅近くの市出張所で移動証明書、外食券三日分、父の洋服類、食器、古本など特配の毛布二枚にくるみ、チッキで送った。切符はない、すべて罹災、正確には戦災証明書で、決戦の足手まとい、穀つぶしである女子供老人の、都市から落ちのびる分には、どこまでも行けた。北陸本線大阪発は午後九時、五時、伶子を背負い、壕を出た。手には糠を蒸した団子と焙った大豆、妹のために固く煮た雑炊の弁当箱、春陽堂刊明治大正文学全集の「里見弴」、岩波文庫『墨汁一滴』『仰臥漫録』。>まだ十四歳の野坂が一歳の妹の面倒を見ながら、戦火のなかでひもじい思いもしながらも、里見弴、正岡子規の作品を携えていたのは唯々驚きです。<一年三カ月の赤ん坊を、十四歳のぼくに託すのは無茶だが、養母はまだ歩くのがやっと、そして西宮の食糧事情は極端に悪化、ぼくがもう少し世慣れていれば、現金はある、闇で買えたのだろうが、まだ、甘ったれだった。(「ひとでなし」)>と、赤ん坊を背負って春江市の友人の家に着いた野坂は200m離れた機屋の工場に住ませてもらいます。 しかし配給米も八月八日に底をつき、一歳四か月となっていた妹は八月二十一日に餓死します。 野坂は翌二十二日に水田の中、一段高くしつられた焼き場で妹を荼毘に付し、遺骨をサクマ式ドロップスの缶ではなく胃腸薬「アイフ」の缶に入れて持ち帰ります。 福井市春江町では冬には雪が二メートルも積もると聞き、八月三十一日、祖母と養母が疎開していた養父善三の弟夫婦(南川家)の住む守口町へ戻ったのです。 そして昭和二十二年春には中学四年で終了し、三高を受験していますが、不合格となり、働きだしています。 約二年過ごした守口で、もはや養母、祖母(昭和二十二年春に亡くなる)の許にいても食えないと、見切りをつけた野坂は昭和二十二年九月末、元飯場に住む養母を棄てて家出し、東京目黒に住む養母の生家松尾家(「かね」と三女久子の住い)を訪ねます。しかしそこでまた盗みを働き、捕まって留置所から多摩少年院東京出張所へ送致され、昭和二十二年十二月二十四日に新潟県副知事の実父野坂相如が保証人となり釈放され、実父の許に戻ったのです。<焼け跡の浮浪児から、ある日突然、新潟県副知事の息子に…。激変する時代と境遇のもとですごした青春の日々。猥雑と叙情の混在する無頼の青春を刻む、自伝的長編。>とされている『行き暮れて雪』から、その後の野坂の足跡を追ってみます。

KOBECCO 2017年1月号

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KOBECCOと言えば、西宮ブログの皆様は、今村欣二さんが長く連載されている「喫茶店の書斎から」でご存知の方が多いのではないでしょうか。  新年号に掲載されたエッセイは「木守り柿」と題し、<お恥ずかしいが漢字の読み間違いをよくする。>という文章で始まります。例として挙げられているのが、「間髪を入れず」「茨城県」「柳田國男」「用海町」。私も最近まで全て、今村さんと同様に読み違えておりました。さて「木守り柿」とはどう読むのか、それは本誌をお読みください。インターネットでも全文読めます。https://kobecco.hpg.co.jp/7726/ ところで、その編集長の高橋直人氏から突然のお誘いがあり、昨年12月に高橋氏とライターの小柴貴郎氏、カメラマンの方とご一緒にニテコ池の周りを案内させていただき、「ぶらりニテコ池」と題した記事が早速1月号に掲載されました。 地元にまつわる知っている限りの、とりとめのないお話をしてしまったのですが、さすがプロのライター小柴氏がうまく纏めてくださっていますので、ご興味のある方はご覧ください。https://kobecco.hpg.co.jp/7621/ 今回は、紙面には書かれなかったお話や、最近新たに知ったお話を少し紹介させていただきます。 まず、ニテコ池を散策するにあたり絶対外せない松下幸之助邸にまつわるお話。 高橋誠之助著『神様の女房』にも次のように述べられており、松下家の執事を務められた高橋誠之助氏への取材を編集長に進言いたしました。<晩年の松下幸之助、むめの夫妻が愛したのは、二人で家の近くを散歩することだった。ちょっとした時間ができると、近くのニテコ池と呼ばれる、森に囲まれた周囲三キロほどの人工池を訪れた。あたたかな陽射しが降り注ぐ春になると、二人の姿がたびたび見られた> ところが、プレジデント社に連絡を取っていただいたところ、既にお亡くなりになったとのこと。1940年生まれの方でしたから、まだお若かったのにお会いできなかったのは残念でなりませんが、You tubeのベストセラーズチャンネルで高橋誠之助氏の生前のお話しを聴くことができました。https://www.youtube.com/watch?v=vPl0zCq6hxk上の写真は夫妻が晩年住まれた名次庵の桜です。 次にアニメ『火垂るの墓』で、山本二三が描いた二つの横穴壕の位置についてです。(野坂昭如が実際に逃げ込んだ横穴壕ではありません) この横穴壕は私の記憶では、ニテコ池の一番南側の下の池と呼ばれる池の西側にありました。ところが最近、近くにお住いの方とお話ししたところ、池の東側にあったと言われて、私の記憶違いかと疑心暗鬼になっておりました。(アニメをよく見ると、東側に設定されています) しかし、私も子供の頃よく遊んだ土手から下ノ池に降りる道の映像などを見て、昔の記憶がよみがえり、「あの二つの横穴はひょっとして夙川の方までつながっているのではないか」と考えたことを思い出し、やはり西側にあったと確信いたしました。 更に、よく考えると5歳下の弟も覚えているはずだと、問い合わせたところ、彼の記憶も私と同じでした。上の写真の位置に山本二三が描いた木枠の二つの横穴があったのです。次に、満池谷の夙川カトリック教会の墓地のお話。 田辺聖子さんの『窓をあけますか?』に登場する満池谷のキリスト教墓地。 これまで、ブスケ神父やメルシェ神父のお話は何度も記事にさせていただいていたのですが、ブスケ神父の墓石はあるのですが、遠藤周作が最もお世話になったメルシェ神父のお墓が見当たりません。 カトリック教会に問い合わせたところ、メルシェ神父は修法ケ原の神戸外国人墓地に眠られているとのこと。事前に申し込んで伺ってみようと思っています。最後にゴードン・スミスの『日本仰天日記』に登場する'A tall stone column'のお話し。KOBECCOでは、『日本仰天日記』からビスマルク・ヒルのお話が紹介されています。 ご案内した時に、これは記事にできないでしょうねと言いながら、ゴードン・スミスが西宮の住民タダマツから聞いたニテコ池の怪談と明治22年に建立された'A tall stone column'のお話を紹介させていただきました。 この来歴、最近詳しい方からお話を聞くと、辰馬家にとって恵方にあたる(恵方は毎年変わると思うのですが、建立の年の恵方でしょうか)この地に、繁栄を祈って石碑を建てられたそうで、怪談話はその後、面白おかしく結び付けられたもののようです。今回取材を受けて、私も新しい発見があり楽しむことができました。

宇江敏勝『白浜温泉の怪』から三段壁

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年末の白浜ドライブで雄大な水平線と景色を楽しむことができました。特に印象に残ったのは千畳敷、三段壁の風景。宇江敏勝『白浜温泉の怪』でも、次のように登場します。<湯崎からなだらかな坂道を登ったところの千畳敷や三段壁は観光客には見逃すことのできない名所である。>早速行った千畳敷、パノラマ写真でもわかるように、太平洋の水平線が丸く見えます。<千畳敷は海に突き出した岩場が畳千畳も敷くほどの広さがあるとの形容で、ところどころ人の背丈より低い木や茅が生えている。岩場は南へと続いて、ひときわ高く断崖絶壁になっているのが三段壁である。><見わたすと複雑な形状の巨石と、そこに突きあたって散る波のしぶき、さらに南西に広がる熊野灘の雄大さと、四季により日々による変化は人々を飽きさせない。>述べられている通りの光景。展望台から下を見ると足がすくみます。晴れた翌日にもう一度行ってみました。 ガイドブックにも書かれておらず、何の説明もない「口紅の碑」という看板がありました。<口紅の碑、といわれるものは三段壁の上にかぶさった平たい岩場にある。断崖の先端に近く、灌木の繁みの中に人の背丈ほどの岩が海に向かってななめに立っている。そこには次のように刻んだ文字を読むことができる。「白浜の海は今日も荒れている。1950.6.10 定一貞子」すなわち昭和二十五年、若い男女が投身自殺する直前に口紅でもって書きつけたもので、死を哀れんだ者がそのまま彫刻にしたのだといわれている。><二人は堺市で家族とともに暮らしていた。二十二歳の定一は父親の実子、十八の貞子は後妻の連れ子であった。その血のつながらない兄妹が恋におち、しかも定一は胸を病んで明日もしれない命、というのが心中を決意させた理由と言われている。> しかし、『白浜温泉の怪』「三段壁」で紹介される話はこれとは関係ないと断って、次の話に移ります。<口紅の碑から四、五十メートル山手には生ぬるい湯がわずかに湧き出ていて、灯明の湯と呼ばれている。いまではホテルや土産物屋が立ち並び観光客が散策しているが、これも昭和になってからの風景である。かつてはすぐ背後まで森がせまり、人影もほとんどなかった。ただ海のよく見える岩場に沖合の船をみちびく灯明台と粗末な小屋だけが建っていた、というのは幕末のころまでのはなしである。> 灯明の湯というのがあったのは、昭和の頃のようですが、現在行ってますと足湯ができていました。次のように「灯明台温泉」という掲示がありました。源泉名 灯明台温泉泉  温 54.0 度泉  質 ナトリウム ー 塩化物温泉知  覚 微弱黄色燈明にて無臭、弱塩味を有するpH 値  7.2湧出量 202  L / 分 そこで灯明番を務めていた南常楠が天狗につれてこられたように、林に倒れていたサキと知り合います。<秋の夕暮れどき、常楠とサキは三段壁の岩のはなにならんで座り、海を眺めていた。波はおだやかで、潮の紺碧の色にも濃淡があり、岩には白い波がたっている。沖合には五、六艘の帆掛け船がまるでじっと停まっているかのように見える。やがて瀬戸の沖は夕陽を浴びて茜色に染まってきた。波はこまやかに輝きながらいっそう色濃くなっていった。まわりの草のかげでは虫たちがざわめいている。二人は黙ったまま、どちらからともなく手を重ね合わせていた。>灯明台は慶応三年になくなり、常楠とサキの夫婦は子宝にもめぐまれ仲睦まじく暮らし、昭和のはじめまで生きていたという、「白浜温泉の怪」の中では唯一心温まるお話でした。

石野伸子さんの『浪花女を読み直す』で野坂昭如の連載が始まりました

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『九転び十起き!広岡浅子の生涯』などを執筆されている石野伸子さん。彼女が産経新聞に連載されている『浪花女を読み直す』は11月に「須賀敦子の終わらない旅」が終了し、12月からは「野坂昭如のウソとマコト」と題したシリーズが始まりました。<野坂は終戦後の文字通りの焼跡闇市時代、大阪の守口で過ごしている。昭和20(1945)年夏から22年末までの2年余り。しかし、長くこの時期については「実録風に語るのは辛い」と口をつぐんでいた。なぜなのか。野坂昭如のウソとマコトが交錯する大阪時代を切り口に、異才の世界をたどっていこう。> と野坂昭如の守口時代に焦点をあてて解説されるようです。  西宮市満池谷を去った野坂は1歳の妹を連れて、福井県の春江町に疎開。そこで終戦を迎え、直後に妹を亡くし、嫌っていた養母と祖母が暮らす守口市寺方の汚い元飯場に戻ったのです。  そこで、京阪守口駅から京都へ向かって五つ目の光善寺駅の前にあるイチリツ(旧制大阪市立中学校、現;大阪市立高等学校)に編入。イチリツでは1番の成績だったそうですが、三高を目指すも夢かなわず、昭和22年3月には中学4年で退き、働き始めます。しかし先行きに見切りをつけた野坂は10月には、また家出をしてしまいます。そのあたり、ウソとマコトの人生とはどのようなものだったのでしょう。 先だって、石野さんに連載のお話を伺い、守口時代の生活を背景にした野坂昭如の短編『浣腸とマリア』を是非読むようにと勧められました。きっとそのお話もでてくるのでしょう。次回が楽しみです。 次回の掲載は1月11日(水)の産経新聞夕刊です。 12月14日(水)の初回の掲載内容はインターネットでも公開されています。 http://www.sankei.com/west/news/170104/wst1701040001-n1.html  

宇江敏勝『白浜温泉の怪』から「白良浜」

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 大正時代までは白浜温泉という名はなかったそうです。湯﨑が由緒ある温泉だったのですが、大正時代には白良浜土地建物株式会社の温泉の掘削が始まり、昭和4年の昭和天皇の行幸により白浜温泉の名は確固たるものになったそうです。 今回私が宿泊したのは「ラフォーレ南紀白浜」でしたが、その部屋から見える白良浜の景色はアニメヤマノススメセカンドシーズン第19話「宿題が終わらないよぉ」でひなたが白浜に旅行した宿泊先の窓からの景色とそっくりでした。 最上階の浴場からの眺めも素晴らしく、180度に広がる熊野灘の眺めが楽しめます。 宇江敏勝『白浜温泉の怪』では、白良浜の伝説がいくつか紹介されています。<河童の伝説も残っている。ほかにも似たようなはなしがあるかも知れないので、端折って紹介しよう。むかし白良浜にはゴウラ法師(河童)がいて、湯﨑温泉へ行く客に悪さをして困らせた。そこで彦左という力の強い男が相撲をとったのである。彦左はゴウラの首をよこにねじ曲げて、皿の水をこぼしたので勝つことができた。ゴウラは、どうかかんべんしてください、こいからはぜったいに悪さはしやせんさかい、と命乞いをした。そこで彦左は、今後はけっして浜へはあがらないと約束をさせ、万が一、白良浜の砂が黒くなり、沖の四双島に松の木が生えることがあったら、そのときは浜へあがってもよい、と言って放してやった。><ゴウラ法師はなんとか浜へあがりたいと考えて、白良浜の砂にたびたび炭をぬろうとしたが、すぐに波に洗われて白くなってしまう。また四双島に松を植えてもみたが、たちまち波に流されるので、いまも砂浜にはあがれないでいる、というのである。>確かに写真矢印の四双島に松の木が生えるとは思えません。<白良浜はいまでは浅い平坦な砂地だが、かつては砂丘のように大きくもりあがっていたという。その微粒の雪白珪砂がガラスの原料として売れるようになったのは明治二十三年である。帆船に積んで大阪や尼崎の工場まで運ぶようになり、以後そこからの収入により村の経費のほとんどがまかなわれた。>今も真っ白な砂浜が広がる白良浜です。冬は海水浴客もおらず、ゆっくり美しい白良浜の散策を楽しむことができました。

戦後、新潟の実家を家出して、満池谷の親戚の三女に会いに行った野坂昭如

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昭和二十二年十二月二十四日、少年院から新潟県副知事の実父野坂相如に引き取られた野坂昭如は、それまでの生活と様変わり。 旧制新潟高校にも合格し、何の不自由もなく暮らしていたはずですが、昭和二十三年秋、家の大金をくすねて家出し、新潟から東京、関西に向かいます。その理由を『ひとでなし』では次のように述べています。<二十三年の秋、ぼくは家出をした。自らの所業を悔いてではない、「おかあさん」との秘密は、罪悪感と結びつかない。ただ、父不在中の寝所の殿居を兄もぼくも止め、ぼくは酒びたり、新潟にうんざりする気持ちと、さらに具体的な動機は、高校を廃止され、二年生はそのままだが、一年は来年、新制大学への移行、また受験しなければならないと判ったこと。> 新潟の実家から七万円を持って出て、まず横須賀で友人に会い、その後夕刻京都駅で降り、一泊します。翌日、生八つ橋を土産に、野坂のマドンナだった満池谷の親戚の家の三女に会いに出かけるのですが、留守で、三女が春に結婚したことを教えられます。『ひとでなし』では、満池谷のI家は、高瀬家、三女のK子さんは、律子という名で登場します。<翌日午後、生八つ橋を土産に高瀬家を訪れると留守。顔だけは知っている近くの子供に律子のことを聞くと、「お嫁さんいかはった」「お嫁さんて、いつ?」「今年の春」。>この満池谷町の十字路あたりで話したのでしょう。その後、写真の急な階段を上ります。<生八つ橋をよくしゃべる女に渡し、礼を背中で聞きながら、西側の崖の横穴壕へ向かった、まだ残っていて、中に入られぬよう粗末な柵が入り口を防ぐ。><急な階段を上がると、ジープが三台。水源池いちばん手前の池の端と向き合う屋敷は、進駐軍に接収され、庭に立てられたポールに星条旗がひるがえる。三年前の夏、恵子と過ごした鍵屋の庭にも、堅牢な壕がそのまま。>ジープが並んでいたのは赤矢印のあたり。星条旗が翻る屋敷は緑の矢印のあたりと思われますが、ここは空き地になっています。鍵屋の庭にあった堅牢な壕は上の写真のガレージのあたりにあったそうです。 結局、わずか数日間の家出の後、野坂昭如は新潟に戻り、父も義母も怒らず、それまでと同じ日々が続いたとしています。ところが、同じ自伝的小説に分類される、『行き暮れて雪』では、家出して満池谷を訪ねた野坂は結婚した三女と出会うのです。 きっと、こちらは野坂のウソ、即ち創作だと思うのですが、面白いので、次回読んでみましょう。

「かんさい熱視線」で放映されたアドベンチャーワールドのパンダ子育て

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年末に訪れた白浜温泉、二日目はアドベンチャーワールドへ。2016年9月18日に生まれたパンダの赤ちゃん「結浜(ゆいひん)」が公開されていました。「結浜」という名前には「大切なものを結びつけ未来を創る」という願いが込められているそうです。そして、1月6日(金)のTV番組「かんさい熱視線-NHK」で「パンダ子育て 密着100日“主役は母と子” 白浜方式」が放映され、見て来たばかりの結浜の誕生物語を知ることができました。ジャイアントパンダの赤ちゃんの結浜と、母親の良浜。今、世界にいるジャイアントパンダの数はおよそ2000頭で、各地で繁殖に向けた取り組みが行われ、その中で、和歌山・白浜町のアドベンチャーワールドが高い実績を出しているそうです。 母親の愛情をたっぷり受けた子は、自分も上手に子育てができると考え、できるだけ多くの時間を母子で一緒に過ごさせ、お互いの絆を深めていく白浜方式で成長したジャイアントパンダの赤ちゃん。生後12日まではパンダ模様もありません。 首都圏では上野動物園のパンダばかりが注目されていますが、和歌山のアドベンチャーワールドと兵庫の王子動物園でもパンダは飼育されていて、特にアドベンチャーワールドでは、10頭前後のパンダが住まう状態が維持されています。今回のかんさい熱視線は首都圏でも放映してもらいたい充実したお話でした。年末に訪れたときの写真です。もうひとつ感動的だったのはマリンワールドでのイルカショー。イルカの演技も大したものですが、イルカと一緒に泳ぐ飼育員たちの姿は、あれほど人間とイルカが一体になれるのかと驚かされます。 アドベンチャーワールドはもともと1978年のオープン当初は「南紀白浜ワールドサファリ」という名称で、現在も広大なサファリゾーンでは、1周約1500m(約25分)の列車型牽引バス「ケニア号」で周遊させてくれます。 多くのテーマパークが苦戦している中で、アドベンチャーワールドは一流のノウハウを持って善戦していると感じました。

野坂昭如が守口時代にパインクレストで働いたのは満池谷が近いから

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 1月11日(水)の産経新聞に掲載された石野伸子さんのコラム『浪花女を読み直す ―野坂昭如のウソとマコト』の2回目では野坂昭如の守口時代の2年間の生活について解説されています。もうしばらくすればインターネットでも読めると思います。 ところでこの頃、野坂昭如は三高の受験がうまくいかず、通っていた旧制大阪市立中学を4年で退き、夙川にあったホテルパインクレスで一時働いています。『ひとでなし』からです。<二十二年五月、大阪の中学をなし崩しに退き、いちおう働くつもり。どこで知ったのか、夙川駅の裏山にあるホテルパインクレストが、進駐軍婦人士官の宿舎となっていて、ハウスボーイを募集、応募した。あっさり採用され、つまり部屋の掃除係。>元パインクレストがあった場所にいくと、一部の石垣だけが残っていました。<二年近く経てば、ぼくも、エクスキューズミィのサンキュウのになれたが、進駐軍兵士には突っ張っていた。入口をかためるGIにバカにされやめた。パインクレストを選んだのは、満池谷が近いからだ。だが高瀬家には近づけなかった。> 野坂の心をずっと捕らえていたのは、満池谷に住む親戚の三女でした。 昭和二十年九月四日に福井から守口に戻ってすぐ、野坂は荷物がまだ少し残っていた満池谷の高瀬家を訪れていますが、その時は思いを寄せる三女の律子は不在でした。現在その家のあった場所は空き地になっています。 昭和二十二年、再び野坂は満池谷に向かい、三女の姿を見かけます。<この後、親の衣類を金にかえ、少し服装を整えて、横流しのチョコレート持参、夏のさなかだったが、満池谷へ向かった。途中、日傘をさし、男と歩く律子を遠くから発見、あわてて姿を隠した。ぼくはそのまま夙川沿いに海へ向かい、香櫨園の浜には、すでに浜茶屋が並んでいた。>大石輝一が描いた戦後の香櫨園浜の風景です。 この夏、野坂は旧制大阪市立中学の五年に進んだ連中を香櫨園浜に誘い連日泳ぎます。<二年前、浜にはおばあさんの水死体だけ、誰もいなかった海は賑わっていて、進駐軍と一緒の女は、後のビキニではないが、セパレーツの水着。連れてきた同年の者は、女学生と気楽にしゃべる、ぼくはまったくダメ。浜辺の松林がかすんで見える沖合で、ただ浮かんでいた。>戦後賑わいを見せていた香櫨園の浜です。海水汚染で海水浴場は閉鎖されましたが、下水道整備により海水はかなり良くなっているように見えます。

映画『沈黙』と遠藤周作『母なるもの』に描かれた聖母マリアの絵

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1月21日からマーティン・スコセッシ監督の『沈黙-サイレンス-』が公開されます。 それに先立ちNHK BSで「巨匠スコセッシ“沈黙”に挑む~よみがえる遠藤周作の世界~」が放映されました。  彼が28年の歳月をかけ構想しつづけてきた、渾身の一作ということですが、アメリカ人であるスコセッシが日本人の遠藤の作品『沈黙』の本質を理解していると感じたのは、隠れキリシタンが古い聖画に祈りをささげるシーンに「雪のサンタマリア」を登場させているのを知ったからです。 番組の中でセッシオは、「隠れキリシタンの十字架やシンボルには興味深いものがたくさんありました。一つだけ選ぶとしたら雪のサンタマリアです」と語っているのです。 厳しい禁教下で、厳重に秘匿され伝えられた「雪のサンタマリア」は、現在日本二十六聖人記念館に保管されています。 長崎の伝説に、<むかし、むかし、ルソンちゅう国の貧乏な大工の子で、丸屋(まるや)ちゅう娘のおったゲナたい。>と始まる「雪の三タ丸屋」というキリシタン民話があるそうで、宣教師たちが残して行った聖母マリアの話の数々の断片は、長崎のキリシタンによって丹念に綴り合わされ、日本の風土に溶け込み、珠玉の民話となったと解説されています。http://sawarabi.a.la9.jp/rozarionomaria/7yuki.htm 西洋のキリスト教世界の思想風土と日本の伝統文化のはざまで苦悩した遠藤周作は『私と基督教』で、次のように述べています。<この基督教と、日本人との矛盾は私に一つのことを教えてくれました。それは日本人はやはり日本人としての基督教の伝統も歴史も遺産も感覚もないこの日本の風土を背おって基督教を摂取していくことです。そうした試みがさまざまの抵抗や不安や苦痛を日本人の基督教信者に与えるとしても、それに眼をつぶらないこと。なぜならば、神は日本人に、日本人としての十字架をあたえられたに違いないですから。>」 そして小説『沈黙』では、フェレイラに次のように語らせているのです。<デウスと大日と混同した日本人はその時から我々の神を彼等流に屈折させ変化させ、そして別のものを作りあげはじめたのだ。言葉の混乱がなくなったあとも、この屈折と変化とはひそかに続けられ、お前がさっき口に出した布教がもっとも華やかな時でさえも日本人たちは基督教の神ではなく、彼らが屈折させたものを信じていたのだ>日本人でありカトリックであることは可能かと遠藤は問い続けているのです。 かくれ切支丹が秘匿していた聖母マリアの絵は、遠藤周作は『母なるもの』でも「納戸神」として登場します。『母なるもの』は小説家である「私」が「かくれ切支丹」の住んでいた長崎のある島へ取材に行き、そこで見聞きしたことを描いた小説です。「かくれ切支丹」の子孫は島民から隔絶したところに住んでおり、町のカトリック信者たちともあまり交流がなく、「私」は助役にかくれの部落に連れていってもらい、納戸神を見せてもらえないかと頼みます。それは黄土色の掛軸の絵でした。<キリストをだいた聖母の絵―。いや、それは乳吞み児をだいた農夫の絵だった。子どもの着物は薄藍で、農婦の着物は黄土色で塗られ、稚拙な採色と絵柄から見ても、それはこのかくれの誰かがずっと昔描いたことがよくわかる。農婦は胸をはだけ、乳房をだしている。> ここに描かれた聖母の絵は「雪のサンタマリア」のような立派な絵ではありませんが、しばし眼を離せなくなります。<彼らはこの母の絵にむかって、節くれだった手を合わせて、許しのオラショを祈ったのだ。彼等もまた、この私と同じ思いだったのかという感慨が胸にこみあげてきた。昔、宣教師たちは父なる神の教えをもって波濤万里、この国にやって来たが、その父なる神の教えも、宣教師たちが追い払われ、教会が毀されたあと、長い歳月の間に日本のかくれたちのなかでいつか身につかぬすべてのものを棄てさりもっとも日本の宗教の本質的なものである、母への思慕に変わってしまったのだ。> この聖母の絵こそ日本人のキリスト教信仰を母なる世界へのあこがれであると指摘した遠藤文学を象徴するものではないでしょうか。1971年の篠田正浩監督作品より原作にはるかに忠実に作られ、遠藤文学の本質をとらえているマーティン・スコセッシ監督の『沈黙-サイレンス-』に期待しています。Martin Scorsese's Silence: He has been faithful to Shusaku Endo's text and to the deep questions within itScorsese's latest film 'Silence' is admirably faithful to the original 1966 Japanese novel unlike Masahiro Shinoda’s earlier movie version in 1971http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/films/features/martin-scorsese-silence-film-end-sh-saku-novel-adaptation-a7518086.html

小林信彦も書いていた「夙川事件」

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「夙川事件」とは昭和5年2月のJR大師踏切での渡辺温の轢死事件のことですが、あとがきで小林信彦は副題にあるように「昭和の初めに日本の探偵小説作家がいかに谷崎潤一郎を敬愛していたかを描きたかった」と述べています。 文学界2009年7月号に発表された『夙川事件 ―谷崎潤一郎余聞―』(単行本『四重奏カルテット』に収録)は小説に分類されていますが、登場人物はすべて実名で書かれ、小林信彦の宝石社勤務時代を回顧しながら、「新青年」、推理小説雑誌「宝石」などの解説を交え、夙川事件について語り、最後には落ちまで付いていました。 小林信彦が子供の頃、夢中になっていた「怪人二十面相」、その著者江戸川乱歩は昭和32年から推理小説雑誌「宝石」の編集に乗り出していました。 宝石社と呼ばれた小さな建物の三階の編集部の机で、アメリカの推理小説雑誌の日本版の編集をしていたのが26歳の小林信彦です。 彼は、編集部の隅で働く老人が、大正の終わりから昭和にかけて博文館でならした編集者真野律太と知ります。そこから博文館の「新青年」の話に入っていきます。<幸い、「新青年」は良い時期のものが経理部の本棚にそろっていた。良い時期というのは、昭和初年から日中戦争に深入りするまでの、十年に満たない期間のものである。ゲラ刷りがくるのを待つ時間、私はそこで「新青年」を隅から隅まで読んでいた。>写真は大正9年の「新青年」創刊号。<戦前の名編集長の名をあげると、森下雨村、横溝正史、延原謙、水谷準の四人であるが、横溝正史の代から都会趣味、モダン路線が強くなり、モダニズム嫌いの江戸川乱歩と軋轢を生じたりした。>松野一夫が初めて表紙絵を担当したのは大正10年5月号です。<いま手元にある昭和九年夏の号を例にとろう。松野一夫描くアール・デコ風の表紙をめくると、ヴィニー香水や南米リンス社製のパナマ帽の広告があり、目次には徳川夢声のユーモアエッセイ、獅子文六の第一作「金色青春譜」の第一回と小栗虫太郎の「黒死館殺人事件」の第四回が並んでいる。><「横溝さんが編集のあたりからユーモアの味がはっきりしてきてますね」私は老人に意見を述べたことがある。老人は突き出した唇の前で右掌を振って、「まあ、世間では『新青年』のカラーを作ったのは、二代目の横溝正史(よこせい)ってことに」なっているが、私たちは助手だった温ちゃん -本名・渡辺温の力が大きかったと見ている。ショートショートの元祖、渡辺啓助さんの弟だ。変わった男だったが、大変な才人だったと思うよ。博文館としても、温ちゃんはホープだったんだ。あんたがやろうとしているのは、温ちゃんの線だと私は見ているよ」><老人の目から見ると。そういうことになるか、と思った。「温ちゃんを知らないかね」「お名前を耳にしたことはあります。事故で亡くなった方でしょう」「そう。谷崎潤一郎の原稿をとりにいく途中でね」「電車にぶつかったとか……」「原稿はとれていなかったんだ。しつこく依頼に通ってね。たしか夙川といったと思うが、そこの踏切で阪神電車にぶつかった」「そういえば……」私は思い出した。>ぶつかったのは阪神電車の踏切ではなく、JRの大師踏切でした。次回は事故に至るまでの経緯をもう少し詳しく。

小説『母なるもの』に描かれた遠藤周作の母親像

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 遠藤周作の小説『母なるもの』では、小説家である「私」が「かくれ切支丹」の住んでいた長崎のある島へ取材に行くのですが、その途中途中に遠藤周作の母郁をモデルにした母親の姿が描かれています。 この作品に描かれた母親の姿を追ってみましょう。<小学生時代の母のイメージ。それは私の心には夫から棄てられた女としての母である。大連の薄暗い夕暮れの部屋で彼女はソファに腰をおろしたまま石像のように動かない。> そして昭和8年遠藤周作10歳のとき、父母の離婚により、夏休みに母に連れられて兄ともに帰国。神戸市六甲の伯母(母の姉)の関川家で一夏同居後、西宮市夙川のカトリック教会近くに転居しています。 そして母郁は小林聖心女子学院で音楽を教えることになりますが、当時の生徒に須賀敦子・良子姉妹、稲畑汀子さんらがいました。中学時代の母の思い出を遠藤は次のように述べています。<冬の朝、まだ凍るような夜明け、私はしばしば、母の部屋に灯がついているのをみた。彼女がその部屋の中で何をしているのかのを私は知っていた。ロザリオを指でくりながら祈ったのである。それからやがて母は私をつれて、最初の阪急電車に乗り、ミサに出かけていく。誰もいない電車の中で私はだらしなく舟をこいでいた。だが時々、眼をあけると、母の指が、ロザリオを動かしているのが見えた。> 昭和14年遠藤周作14歳中学四年の時、宝塚市仁川の月見ヶ丘に転居しており、その頃阪急の一番電車に乗って、夙川か小林のミサに出かけていたのでしょう。 中学時代の遠藤は「母に嘘をつくことをおぼえた。」と述べているように、友人と母に隠れて遊びます。<級友で田村という生徒がいた。西宮の遊郭の息子である。いつも首によごれた繃帯をまいて、よく学校を休んだが、おそらくあの頃から結核だったのかもしれない。優等生から軽蔑されて友達も少ない彼に私が近づいていった気持ちには、たしかにきびしい母にたいする仕返しがあった。> 吉田初三郎の昭和11年西宮市鳥瞰図には遊郭と遠藤がよく行った映画館「敷島劇場」が描かれています。<学校の帰りに映画に行くことも田村から習った。西宮の阪神駅にちかい二番館に田村のあとから、かくれるように真暗な館内に入った。便所の臭気がどこからか漂ってくる。子どもの泣き声や、老人の咳払いの中に、映写機の回転する音が単調にきこえる。私は今頃、母は何をしているかと考えてばかりいた。> ある土曜日、誘惑に勝てず登校の途中で下車し、数日前母親の財布からとった一円札を手にした遠藤は、盛り場に出て夕暮れまで映画を見て、何くわぬ顔で家に戻ります。<玄関をあけると、思いがけず、母がそこに、立っていた。物も言わず、私をみつめている。やがてその顔がゆっくりと歪み、歪んだ頬に、ゆっくりと涙がこぼれた。学校からの電話で一切がばれたのを私は知った。その夜、おそくまで、隣室で母はすすり泣いていた。> このように、少年時代はいつも母親を悲しませていた遠藤ですが、母の死後、夢の中や遠藤の頭の中をよぎる母親の姿を次のように述べています。<そんな時の母は、昔、一つの音を追い求めてヴァイオリンを弾き続けていたあの懸命な姿でもない。車掌のほかは誰もいない、阪急の一番電車の片隅でロザリオをじっと、まさぐっていた彼女でもない。両手を前に合わせて、私を背後から少し哀し気げな眼をして見ている母なのである。>その母親の姿を、遠藤は聖母像と重ね合わせます。<それがどうして生まれたのか、今では、わかっている。そのイメージは、母が昔、持っていた「哀しみの聖母(マーテル・ドロロサ)」像の顔を重ね合わせているのだ。> 更に、かくれキリシタンの部落で「キリストをだいた聖母の絵―。いや、それは乳吞み児をだいた農夫の絵だった」という聖母像を見て、次のように述べるのです。<彼らはこの母の絵にむかって、節くれだった手を合わせて、許しのオラショを祈ったのだ。彼等もまた、この私と同じ思いだったのかという感慨が胸にこみあげてきた。>これは『沈黙』の聖母像にもつながっているのです。小説『母なるもの』は「裁き罰する父なる神に対して、優しく許す“母なるもの”を宗教の中に求める日本人の精神の志向を、自身の母性への憧憬、信仰の軌跡と重ねあわせた作品」と言われています。

小林信彦『夙川事件 -谷崎潤一郎余聞―』横溝正史が谷崎に会いに

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 さていよいよ昭和5年2月におこった夙川事件の様子に入ります。谷崎は当時、兵庫県武庫郡本山村梅ノ谷1055に住んでいました。渡辺温は谷崎に「何か百枚ぐらいの創作を」と注文していましたが、谷崎は2月7日、渡辺温に、あと一月待ってくれと電報を打ちます。8日、渡辺は、楢原茂二に、夜行で催促に行くと伝え、楢原は谷崎を訪ねますが終日不在。9日、渡辺は大阪につき、夙川の楢原の下宿に行き、寝坊の谷崎の起きるころを見計らって、12時過ぎに二人で谷崎を訪ねます。谷崎は明日の夕方までに何か書くと約束。渡辺は今夜は楢原の下宿する夙川に泊まると言って帰ります。10日、谷崎は一行も書けずにいましたが、午前1時45分、タクシーが貨物列車と衝突し、楢原負傷、渡辺死す。朝6時半、谷崎報せを受けます。谷崎潤一郎『春寒』からです。<そのガレージは兵庫の尻池にあって、今朝の午前一時ごろ、そこの車が客を拾いに神戸の町へ出ていると、二人が栄町一丁目からそれに乗った。そして阪神国道を東へ走って、恰も神戸と大阪の真ん中辺西宮市の手前から左へ折れ、阪急線の夙川へ出ようとして汽車の踏切を越える途端に貨物列車と衝突した。列車は上りであったから、北へ向って進む自動車の左側―しかもちょうど客席の横腹を打ち、そのまま1丁半ばかり引き摺って停車した。>写真の右側から上り列車は来ます。こちら側から上りの貨物列車が向かってきたのです。 <助手と渡辺君は左側に、運転手と楢原君は右側に乗っていた。そして最初の一撃に運転台の右のドアーが開いて運転手は跳ね飛ばされ、暫くしてから助手が跳ね飛ばされ、客席の二人は最後まで車内に残った。負傷の最も軽いのは右の前方にいた運転手、次が楢原君、次が助手、渡辺君は殆ど身を以って汽車にぶつかった訳で、額と、頤と、頸部を破られ、その場で意識を失って、病院に担ぎ込まれると間もなく死亡した。それが午前五時何十分。僕に電報を打ったのは、楢原君が会いたがってもいたのだが、警察が立ち合って欲しいと云って僕の来るのを待ちかねているのであった。>担ぎ込まれた病院は回生病院でした。 小林信彦『夙川事件 -谷崎潤一郎余聞―』に戻りましょう。博文館に谷崎から「オンチャンシス スグコイ」という電報が届きます。使いの人がそれを編集長だった横溝正史の家に届け、横溝と水谷準が遺体を引き取りに西に向かいます。<横溝、水谷の二人とも、作家で編集長という特殊な立場にあったが、この時代にはそう珍しいことではない。それよりも、二人の作家が作家(渡辺温も作家である)の遺体を引き取りに行って、大家の谷崎潤一郎に挨拶をする光景の方が私には不思議に見える。その時は「あがっちまって汗ばかりかいてンだよ」と正史は回想していた。>遺体は回生病院にありましたから、横溝正史と谷崎潤一郎はそこで会ったのでしょうか。谷崎は『春寒』で大師踏切について次のようにも述べています。<夙川の踏み切りは間違いの多いところで、今まで何人殺されているか知れないのである。北から南へ越すときはそうでもないが、南から北へ越すときは、両側に大きな松の枝があり、踏み切り番の小屋があって、見通しが利かない。>現在の南から見た大師踏切です。<僕も夙川や西宮にはついでがあり、しばしばあの辺の鉄道線路を横切ることがあるけれども、少し廻り道をして堤防の東のガードを越すか、そうでなければ踏み切りの前でエンジンのうなりを止め、助手を線路へだしてみてから渡るようにしていた。>谷崎が少し回り道をして通った夙川堤防の東のガードです。踏切の近くに地蔵尊がまつられ、以後は事故もおさまったとか。小林信彦『夙川事件 -谷崎潤一郎余聞―』では最後に、小林信彦が嫌っていた年老いた気障な翻訳家長谷川の話が登場します。<「だいたい、夙川の踏切でさかさまになっちまえばよかったんだよ。温ちゃんだけ死んで、あいつは生きのびた。そう思わないか」私は二の句が継げなかった。しばらくして、ようやく、「楢原って、あの人だったんですか」と言った。「知らなかったのかい。長谷川ってのはペンネームさ。戦前の『新青年』のファッション案内のページでならしたと自称している……」>これには小林信彦も驚いたことでしょう。

「夙川事件」で渡辺温が亡くなった後を継いだ乾信一郎(「新青年」の頃)

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昭和五年二月の夙川JR大師踏切での渡辺温の事故死については、谷崎潤一郎『春寒』に最も詳しく書かれ、戦後江戸川乱歩が編集に乗り出した推理小説雑誌「宝石」の編集に携わった小林信彦も『夙川事件―谷崎潤一郎余聞―』でも、その事故を題材とした小説を書いています。  さらに調べていると、昭和12年から『新青年』の編集長を務めた乾信一郎も著書「新青年の頃」でも触れていました。 乾信一郎氏はWikipediaによると、<米国シアトル生まれ。1912年、母とともに父母の郷里熊本県に戻りそこで育つ。青山学院高等部卒。同商科在学中の1928年、翻訳が『新青年』に採用される。1930年卒業後、博文館に勤務し、『新青年』に探偵小説を書く。1935年『講談雑誌』編集長、1937年『新青年』編集長。1938年フリーとなり、文筆に専念。>という人物です。 渡辺温が亡くなった二か月後の昭和五年四月に青山学院をどんじり一番で卒業した乾信一郎は、四月のある日から採用通知もないまま「新青年」の編集部に椅子とデスクがあてがわれます。<先輩の水谷さんと荒木猛さんとが向かい合いの机についているそのわきに、もう一組の椅子とデスクが空席になっていた。そこが私の席ときめられたが、そこはまた。事故でなくなった渡辺温氏の机だった、とも水谷さんに教えられ、何か厳粛な気持ちに襲われた。新進作家として将来を期待されながら交通事故で惜しくもなくなった人であることは新聞などで承知していた。その人が使っていた椅子やデスクとなると、何かただの椅子やデスクでない気がして、そこへ座ることになったとは、これは大変なことだぞ、と尻ごみしたくなるような気持ちだった。> 引き出しの中には、渡辺温の書きかけの原稿が二、三枚残っていて、横幅のひろいような独特の文字が印象に残っていると述べています。乾信一郎が編集にも携わったと思われる「新青年」八月号。横溝正史の探偵小説もあります。 それにしても、乾信一郎は「新青年」の編集部の空席を満たせる人間と判断されたのは、自分自身今となってもわからないとしていますが、どこか見どころがあったのでしょう。後に編集長になるのですから。<その人は、その頃関西に住んでいた谷崎潤一郎氏に原稿依頼に行った帰途、乗ったタクシーが踏切りで列車と衝突しての死であったと聞いていた。後年その谷崎さんのお宅へ原稿取りに私が出かけた話は、いずれまた後で記したい。>この話は、「武州公秘話」の秘話として紹介されます。渡辺温に代わった乾信一郎が谷崎から原稿をもらうのは相当苦労したようですが、その話は次回に。

遠藤周作『私のもの』に描かれた夙川カトリック教会での洗礼

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遠藤周作の体験を背景に書かれた小説『私のもの』の主人公は他の小説でも度々登場する勝呂、子供時代のあだ名はカラス。 遠藤は昭和38年から42年まで町田市玉川学園に住んでいましたが、当時の風景が次のように描かれています。<窓のむこう、雨に閉じこめられた風景に眼をやりながら彼は首をかしげた。まだ出来たばかりの住宅地。東京から四十分もかかる丘陵を整地した場所で、赤土のむきだした場所に建売りの小住宅が散らばり、栗や漆などの雑木林が残っている。>今や住宅がぎっしり並んでします。遠藤周作が通っていた町田カトリック教会です。この時代に『沈黙』も書かれています。小説には三浦朱門をモデルとした三田という作家も登場します。<「俺、来月、洗礼を受けようと思って」そう言って三田は下着をぬいで医者の前にたった青年のように、顔をあからめ、ジュースの残ったコップに眼を落した。三田も勝呂もそれぞれ四十歳に手の届く小説家だった。>実際に遠藤は、昭和38年40歳のとき、三浦朱門の受洗に際して代父となっています。 小説では三田の細君は既に昔から信者だったとも書かれており、これは曽野綾子さんがモデルのようです。現在は曽野綾子さんンが三浦朱門氏を自宅介護されているようです。 勝呂は子供時代、色が黒く、、首を前に突きだして変な声をだしてしゃべるのでカラスと呼ばれていました。大連で父母が離婚し、カラス兄妹は神戸の叔父のところに戻ります。<丸窓のむこう、風の吹く黒い海をみながらカラスは大連に残した父のことと黒い満州犬のことを考えた。母と父とが決定的に別れたと言うことは誰にきかされなくてもカラスにははっきりわかっている。> 彼等は、六甲に住む母の妹の嫁ぎ先に厄介になります。<いつまでもこの家に厄介になるわけにはいかなかった。叔母は友だちや知人に伝手をもとめて母の就職口をみつけようとしていた。母がこの際、できる技能といえばピアノだけだった。> 事実は、母郁はヴァイオリンが専門で、小林聖心女子学院で音楽の教師をし、その年に夙川の借家に移っています。小説ではカラス(勝呂)は六甲時代にカトリック夙川教会で受洗します。<二人は叔母と一緒に黙って先に歩く叔父のうしろに従った。阪急の電車に乗せられ夙川という駅で降りる。カトリックの教会は神戸以外はここにしかないのだった。初めて見るミサは彼には退屈で屈辱的なものだった。まわりの人々は突然たちあがったり跪いたりする。カラスは叔母の命令で、児童の席に腰掛けさせられたのだが、小猿のように自分より年下の子供たちのまねをしんあければならなかった。><洗礼の日はまもなくやってきた。花輪を頭にかざり白い服をきせられた女の子や水兵服をきた男の子と一緒に彼は聖堂の、一番前の席にたたされる。洗礼の式の前に形式的な制約があるのだ。「あなたは、唯一の主を信じますか」老神父は前日、学芸会の舞台稽古でもするように子供たちに教えておいた問答を信者たちの前でくりかえす。「信じます」と妹は大きな声でいった。「「あなたは」老神父は老眼鏡の下からカラスの方をむきながら「唯一の主を信じますか」「信じます」と彼は答えた> 実際にカトリック夙川教会で洗礼を受けたときから、遠藤の苦しみが始まります。<私の信仰生活で私をくるしめたことのひとつは今、申し上げたような日本人としての感覚と基督教との矛盾ということでした。>(「私と基督教」) そして、くるしみの原因であるヨーロッパのキリスト教世界の思想風土と、日本のそれとの対立が遠藤の文学の主題となったのです。

夙川の根津別荘別棟で『武州公秘話』を執筆した谷崎潤一郎

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昭和5年、夙川の大師踏切の事故で轢死した渡辺温の、「新青年」の編集担当を引き継いだのが乾信一郎でした。彼の著作『新青年の頃』に「『武州公秘話』の秘話」と題して、昭和6年に「武州公秘話」の原稿をもらいに谷崎の住む夙川を訪れた様子が述べられています。  引越し魔で、奥さんも次々と変えた谷崎ですから、その頃どうなっていたか、整理しておきましよう。 谷崎潤一郎が根津清太郎夫人松子(23歳)と識り合ったのは大正15年のことですが、昭和5年の佐藤春夫への「妻譲渡事件」までの夫人は千代でした。そして昭和3年秋には 兵庫県武庫郡本山村梅ノ谷に転居しています。昭和5年に千代夫人と正式に離婚。昭和6年1月には吉川丁末子と婚約し、4月に丁末子と結婚式を挙げています。9月には根津家の善根寺、稲荷山の別荘に移りますが、その後11月からは兵庫県武庫郡大社村森具字北蓮毛847根津別荘別棟に滞在していました。昭和7年に兵庫県武庫郡魚崎町横屋川井に転居、3月 魚崎町横屋字川井(西田)431-3に転居し12月には丁末子夫人と別居、本山村北畑字天王通り547-2に転居しています。したがって、乾信一郎が昭和6年に『武秀公秘話』の原稿をもらいに行ったのは、夙川の根津別荘別邸だったのです。その時の様子が次のように書かれています。<谷崎さんのお宅は、夙川という阪急だか阪神だかの電鉄沿線の高級住宅地とはわかっていたのだが、どっちの沿線なのか見当もつかない。とにかく初めての関西である。>乾は学生時代の親友に案内してもらいます。<谷崎さんのお宅は、阪急電車の夙川駅から近い所だった。迷わず、すぐそれとわかった。平屋建てのあまり大きくはない構えの立派な家だった。その母屋の手前、ちょっと離れた前庭の中に、小さな洋風の建物があったから、その入口の呼鈴を押した。 しばらくして、その離れみたいな小さな建物からではなく、その後ろの母屋の方から、きれいな和服の若い美しい女の人が出てきたのが意外だったが、とにかく名刺を出して、来意を告げると、こちらでちょっとお待ち下さい、といって洋風の小さな建物の中へ私たちを案内してくれた。>現在の現在の西宮市相生町12番地付近の根津家別荘跡地の様子です。<当時、新聞などで騒がれた事件だが、谷崎さんは奥さんと親友の佐藤春夫さんに譲って、ご自身は「文藝春秋」の記者だった、若い美しい人と暮らしているという、その人が先ほど取次に出てきた人だとはすぐに見当がついた。後年戦時中に、軍部当局から、時局に反する小説という理由で連載を遠慮させられた、谷崎さんの「細雪」の中の三姉妹の一人を思わせるような、きれいな人だった。> しかし、待てど暮らせど谷崎は出てこず、母屋の茶の間に通され、昼食まで出してもらって、その後ようやく谷崎が登場したので、原稿を依頼します。 翌日再度、訪問し谷崎から手渡された封筒を開けてみると、和紙の大型原稿紙に筆で、「朝までかかったが、一枚も書けない」と達筆で書かれていたそうです。 その後、毎朝十時半ごろに夙川の谷崎邸に通った乾は、四日目か五日目で、ようやく原稿紙三枚ほどの「武州公秘話」の書き出しの部分をもらったのです。 谷崎に原稿を書いてもらうのに、相当苦労したようですが、根津家の別荘で出て来た和服の美しい女性とは、本当に谷崎夫人の吉川丁未子だったのでしょうか。
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