毎日が日曜となった今年、初めて神戸ルミナリエへ行って来ました。 神戸ルミナリエは、言うまでもなく阪神・淡路大震災犠牲者の鎮魂の意を込め、被災した人々の夢と希望を託した一大ページェントです。 軽々しく評することはできませんが、元町から東遊園地までルミナリエを見ながら、ヰタマキニカリス〈1〉―稲垣足穂コレクションに収められている短編『星を造る人』を想い出して歩いていました。メイン会場までぐるぐると歩かされますが、神戸の街の夜景であきることはありません。 神戸ルミナリエはWikipediaでは、基本的にはイタリア人のヴァレリオ・フェスティ(Valerio Festi)と神戸市在住の今岡寛和の共同作品とされていますが、稲垣足穂の「星を造る人」では、そのままスターメーカーと呼ばれていました。<スターメーカー!人々は、その紳士をこう呼んでいました。本当はシクハード氏と云うのですが、本名よりはいまのように呼ぶ方が、遥かにふさわしかったからです。>足穂は大正11年の神戸の美しい街を次のように描きました。<北に紫色の山々がつらなり、そこから碧い海の方へ一帯に広がっている斜面にある都市、それはあなたがよく承知の、あなたのお兄様がいらっしゃる神戸市です。そういえばあなたはいつか汽車で通った時、山ノ手の高い所に並んでいる赤やみどりや白の家々を車窓から眺めて、まるでおもちゃの街のようだ、と云ったことがありましたね。それから、あの港から旅行に出かけた折、汽船の甲板から見るその都会の夜景が、全体きらきらとまなばたく燈火にイルミネートされて、それがどんなにきれいであったかについても、あなたはかつて語りました。>今より美しい街だったのかも知れません。 そして、この美しい街に噂が広がります。<近来毎夜の如く午後七時より八時の刻限において不可思議な一外国紳士が東遊園地界隈に出没し、現代科学と人智をもって測るべからざる奇怪事を演ずるとの風説が専らである。> ルミナリエを大正時代に持っていったら、とんでもない騒ぎになることでしょう。<やがて、海岸区の高い建物の側面を桃色に染めていた夕日の影もうすれ、街じゅうが一様に青いぼやけた景色に変わってきた時、わたしは友達をさそって、いっしょに遊園地の方へ出向いてみました。そしてチカチカと涼しいガス燈がならんでいる明石町から、オリエンタルホテル前の芝生あたりまで、元居留地の一帯にわたって、二時間近くもうろつき廻ったのです。>このうろつきまわったあたりが、ルミナリエに行くまでの歩行経路に似ているのです。<南京街の入り口にあるビアホールに飛び込んで、紅いランターンの下に腰をおろした時、わたしたっちは、むしろこの夜の人出におどろいていました。遊園地はさておいて、ふだんなら日が暮れるとひっそりして、ぎらぎら目玉の自動車が行き交うばかりで、碇泊船の汽笛が響き渡る、がらんとした、石造館が立ちならんだ街区一帯に、歩くにもじゃまなくらい人々が集まっているのです。> ルミナリエ、平日でも大変な人出でしたが、警備やスタッフの方々の努力で混乱もなくスムーズに歩くことができました。 ルミナリエは、12月11日までですが、お出かけの前に稲垣足穂の大正11年のファンタジー『星を造る人』を読んで行かれることをお勧めします。
↧
神戸ルミナリエと大正11年稲垣足穂のファンタジー『星を造る人』
↧
神戸ルミナリエの後は、平中悠一お勧めの神戸の古い洋食屋さんへ
『シーズレイン』の作者平中悠一は自身で洋食屋オタクというほどの、神戸の洋食屋好き。平中悠一『シンプルな真実/What’s going on 90’s』の第6章は「神戸の古い洋食屋」です。<旅先のお楽しみ、といえば夕食だ。神戸での御馳走、といってあなたの頭にまず浮かぶのは中華料理かもしれない。しかし、南京町、所謂、中華街なら横浜にもあるし、規模もそちらの方が大きいだろう。ならばどこからも異論なく一番とお薦めできるのは……例の、神戸肉という奴だ。ここで、ツーリストの方はついステーキ・ハウス的な所に足を運びがちかもしれないが、僕としては断然、所謂、洋食屋へ行くことをお薦めしたい。実は僕は洋食屋が大好きなのだ。> その神戸の洋食屋の「お薦めの店」として挙がっているのが、以前ご紹介したカツレツがとてもおいしいお店「もん」http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11496547c.html次が「神戸キチン」谷崎潤一郎が命名したという「ハイウエイ」は残念ながら2010年末に閉店していました。 今回、平中悠一推薦のお店の中で、私が選んだのは「十字屋」です。<また、女性には感激されないと書いた洋食屋だが、ちゃんと例外もある。市役所の裏手の南北の筋、海に向かって左手にある「十字屋」だ。>神戸旧外国人居留地にて1933年(昭和8年)創業という歴史のあるお店です。<ここは店の雰囲気も、料理の感じもなかなかロマンティック。女性を伴っても、まぁ、感激とまでは及ばずとも、お誕生日とかちょっとしたアニヴァーサリィ関係にだって十分使える。ここならちっとも手を抜いた印象にはならないだろう。>店内に入ると半地下になっていて階段を下ると、そこはクラシックな内観で、まさに昭和の雰囲気の落ち着いた店内です。2011年の映画「マイ・バック・ページ」で沢田(妻夫木聡さん)が、モデルの倉田眞子(忽那汐里さん)とデートしたレストランの撮影にも使われたそうです。<店は適当に古い感じで落ち着いており、天井が高い。料理はハイシライスなど有名だが、他もちゃんとおいしく、ぱっと見たお皿の印象も品がいい。ただし値段はやや割高となる。>オレンジと白のチェックのテーブルクロスも洋食屋さんの落ち着いた雰囲気を演出しています。オーダーしたのはシチュービーフセット。「神戸の古い洋食屋」の章は次のように終わります。<さて。何も今年の秋とはいわない。もしいつか、神戸に遊びに来るチャンスがあったなら、一度、洋食屋へ足を運んでみようか......。この文章を読んで、もしもあなたがそう思ってくれたなら。それだけで僕はとても嬉しい。>単行本『シンプルな真実』が刊行されたのは阪神淡路大震災の2か月後の1995年3月。平中悠一は次のような文を追加しています。<この項に僕が描いた洋食屋へは、もうあなたは訪れることはないだろう。少なくとも、ここにある通りには。ご承知の通り、あの神戸・北摂を襲った地震のせいである。外観を僕の素人の目で見て、1月23日現在、まず確実に営業を再開できるだろう、と自信をもって思える店は、1軒も、ない。1軒も、である。>平中さん、復興した神戸の老舗の洋食屋さんの味を充分堪能してまいりましたよ。今年で22回を迎えるルミナリエが神戸の力を物語っていました。
↧
↧
12月の街角風景
阪急芦屋川駅を降りてしばらく芦屋川沿いに下っていくと、巨大なリボンが。月若町のリストランテ・ベリーニでした、苦楽園口駅を降りて、西側に進むと、苦楽園口通りの銀杏並木が綺麗です。しばらく歩くと、メロンパン屋さんが出現し、行列ができていました。 プレオープンとのことでしたが、行列を作る秘訣は対面販売にありそうです。一人で対応して一組5分程度かっかていましたから、どうしても行列になってしまいます。私も思わず並んで、買ってしまいました。 苦楽園口通りは、ついその先に「リョウイチヤマウチ」「ラ バゲット ド パリ ヨシカワ」が並ぶ、パン屋さんの激戦区。この先が楽しみです。
↧
野坂昭如「満池谷の遠い親戚の家」の真実
野坂昭如は1977年に「火垂の墓」発表後、自伝的小説、エッセイとして1979年「行き暮れて雪」1980年「アドリブ自叙伝」1987年「かくやくたる逆光」1992年「わが桎梏の碑」1996年「ひとでなし」を次々発表しています。いずれにも満池谷の疎開生活が述べられ、野坂の足跡、舞台をめぐることは比較的容易なのですが、毎回事実や名前が少しずつ変わっています。「ぼくは嘘つきである。年中嘘をついて生きてきた。そのため嘘と本当の境目が自分でも危っかしい。」と語る野坂ですから、どこまでが本当なのか確かめるのは困難でした。 しかし、先日、大阪民衆史研究会例会で満池谷町自治会副会長のT氏から、親戚の家の人々のことを詳しく調べられた結果をお聞きすることができましたので、前述の本に述べられていることと比較することができました。まず、『わが桎梏の碑』の「親戚の家」からです。<甲山の麓に、西宮市の水源池が三つ、その一番南側の、堤の下に、丘の上の豪邸とは別の、ほぼこれまでの僕の住まいと同じ家が、一筋六軒、三筋建つ。この一軒に遠い親戚がいた。祖母の妹の長男の嫁の生家。石屋川堤防、松の下に集まり、とりあえず、この家へ避難、さらに守口へ移る手はずだったのだ。>ここで、「祖母の妹の長男の嫁の生家」と書かれているのは、事実だったようです。 自伝的小説『ひとでなし』には、人物関係図が掲載されており、この関係図とT氏のヒアリング結果は一致していたそうです。 小説『火垂るの墓』でも、「もともと父の従弟の嫁の実家」としており、これも同じ関係を述べていました。 野坂昭如の養子先が張満谷家、その祖母「こと」の妹の長男がSと書かれており、その嫁が満池谷の家の長女だったのです。『ひとでなし』の人物関係図では高瀬家長女、とされていますが、実際の姓はIでした。上の写真は、満池谷の疎開先I家があった場所で、現在は空き地になっています。http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11514562c.html『わが桎梏の碑』に戻ります。<この家の主人は八年前に亡くなり、五十近い未亡人と、次女長男三女四女。長女は嫁ぎ、次女長男三女は動員で工場の寮にいる。ぼくより二つ上の三女と住み、僕と妹のたずねた時、未亡人は外出中。赤と白格子縞のスカート、白いブラウスの、三女に迎えられた。>ここに述べられている家族構成はほぼ事実だったようです。 T氏によると、I家の未亡人はAさんという名前で、長女は既に述べたように張満谷家の祖母の妹の長男に嫁ぎ、大正9年生まれの人でした。 次女Tさんは大正12年生まれで勤労動員で、普段家におらず、昭和1年生まれの長男も神戸商船学校に寄宿、昭和4年生まれの四女も勤労動員で、昭和3年生まれの三女Kさんだけが母親と家にいたのです。『アドリブ自叙伝』では、次のように長男の存在は抜かして書かれていました。<女主人には、娘が四人あり、上二人と下の妹は工場へ動員され、電休日にしか帰らなかったが、体をこわしたと称し、ズル休みしている三女がぼくと妹の世話をしてくれ、> また『行き暮れて雪』でも、娘ばかり四人の家族とし、動員先も書かれていました。<焼けて三日後、かねて頼んでいた西宮の、遠い親戚の家にころげこみ、そこは昭和十年に中島飛行機に泊まり込み、悠二と同年の四女は、通年動員を受けて、明石の測量機製作所の寮に住む、女学校五年の三女と、女主人だけが家を守り、中学三年生といえば、銃後の中核だから、はじめはむしろ歓迎された。>T氏によると、次女も三女も既にお亡くなりになったそうですが、そのご家族から『火垂るの墓』にまつわる貴重なお話を聞かれていますので、それは次回に。
↧
西宮文学案内「映画に描いた阪神間の風景」白羽監督が登場!
映画『She’s Rain』、『神戸在住』の白羽監督が、西宮文学案内で講演されました。 白羽監督が平中悠一の文藝賞受賞作『シーズ・レイン』に出会い、阪神間に長らく住んでいた者として、行間にある風景が読めたことから、プロデビューの映画一作目として選んだのが1986年、22歳の頃だったそうです。 映画製作の企画書をもって動こうとしていた時、映画『風の歌を聴け』の大森一樹監督から、平中悠一氏を紹介しようと言われて、会ったのが24歳の頃。平中氏に映画化したいと話を持ち掛けたところ、「やってください。白羽さんも阪急沿線でしょう。阪急沿線で育った人だったら大丈夫だから。」と即答されたそうです。 しかし、色々なところから企画を断られ、ようやくクランクインできたののは1992年のこと。 そして、『She’s Rain』の撮影場所リストに従って、それぞれのロケハンにまつわるエピソードが紹介されました。まず1992年8月17日ロケした主人公の友人タカノブの家探しです。 友人が告白してふられて、プールに飛び込むシーンの撮影のため、プール付きの豪邸を探す必要でしたが、松竹製作部スタッフは、やはりその道のプロで、水利は全て把握しているという消防署へ行って、プール付きの家の場所がわかる航空写真を貰ってきて選定したそうです。 現在ですと、グーグルアースで航空写真は容易に見ることができますが、それでもなかなか識別は難しく、消防の情報には助けられたことでしょう。甲陽園の目神山町近辺には当時5つのプールがあったそうで、その中から一つ、空き家になっていいた豪邸を選ばれたそうです。現在もその豪邸は空き家として残っていました。もう少し、『She’s Rain』のロケハンの場所を訪ねてみましょう。
↧
↧
聖心女子大学第1回卒業式(松山巌『須賀敦子の方へ』より)
松山巌『須賀敦子の方へ』に、聖心女子大学の第1回卒業式の様子が述べられていました。<因みに卒業式そのものは一九五一年三月十五日に行われた。卒業生は全員、西欧の伝統通りキャップ・アンド・ガウンをまとい、式に臨み、来賓として吉田茂総理大臣、田中耕太郎最高裁長官らの挨拶があり、卒業生を代表して中村貞子が英語で、渡辺和子が日本語で謝辞を述べた。> 第1回卒業生の記念写真、第一列目の右端が須賀敦子さんと分かりますが、緒方貞子さん、渡辺和子さんはどこにおられるのでしょう。<祝辞が総理と最高裁長官であったことを考えただけで、当時のマザー・ブリットの社会的地位の高さがわかるが、謝辞を述べた学生二人の方が現在では意味をもつだろう。中村貞子とは緒方貞子さんのことで、国連公使、国連人権委員会日本政府代表、国連難民高等弁務官などを務め、その後JICA理事長になったが、つい先頃退任されている。また渡辺和子さんは後に三十六歳の若さで岡山のノートルダム清心女子大学の学長を務め、以後、長年教壇に立ち、多くの学生を指導し、著書も多く、現在は『置かれた場所で咲きなさい』話題である。日本のカトリック界を先導してきた方だ。> 卒業式で謝辞を述べた中村(緒方)貞子さんは、野林健・納家政嗣編『聞き書 緒方貞子回顧録』では「聖心女子大学時代」について、次のように述べられています。<聖心女子大が発足するにあたって、戦争でアメリカに帰国されていたエリザベス・ブリットが呼び戻され、初代学長につきました。彼女は学術的な能力にくわえ、たいへんリーダーシップのある方でした。これから女性がどうあるべきか、そのためにどんな教育をすべきかについて明確なヴィジョンをお持ちで、私も大きな影響を受けました。>マザー・ブリットからリーダーシップを学んだという緒方貞子さん。 そして、須賀敦子さんもマザー・ブリットについて『遠い朝の本たち』の「しげちゃんの昇天」で次のように説明しています。<あと一年で専門学校を卒業というころ、女子大ができるらしいという噂が学生のあいだにひろまった。戦前、帰国子女や日本在住の外国人の教育にあたっていた有能なアメリカ人の修道女が、その大学を創立するため戻ってくると聞いて、私は勉強をつづけたいと思った。それまでヨーロッパの厳格な寄宿学校の伝統に従って、廊下や洗面所に鏡というものがなかった学校に、それでは若い娘たちがちゃんと育たないといって鏡をつけさせたり、空襲で焼けてしまったけれど、窓の広い明るい自習室を建てさせたりしたこの修道女の名は、まるで神話じみて生徒たちの間で語り継がれていたからだ。大きなバラの花束がとどくのを待つように、私たちはその修道女の帰国を待ちわびた。> その修道女が初代学長のマザー・ブリットだったのです。 緒方貞子さんは回顧録で須賀さんについて次のように述べられていました。<同級生には須賀敦子さんがいました。みんなから「がすちゃん」と呼ばれていましたが、たいへんなインテリでした。その後、ヨーロッパに渡って、イタリアの方と結婚されて、味わいのある文章をたくさん残されました。早くに亡くなられたのは残念なことでした。須賀さんに限らず、当時はアメリカやヨーロッパで勉強を続けようという女性が私の周りにはたくさんいたのです。それでも、マザー・ブリットをはじめとする聖心の先生たちの影響が大きかったのです。>錚々たる卒業生を育てた聖心女子大学初代学長、マザー・ブリットの偉大さがよくわかりました。
↧
芳川泰久『坊ちゃんのそれから』と小林信彦『うらなり』
12月の朝日新聞に「明治の現場が迫る名作の続編」と題した、芳川泰久著『坊ちゃんのそれから』の書評が掲載されました。<超大型新人の登場である。文芸批評家にしてフランス文学研究者、翻訳家、大学教授の立場で現代文学を作ってきた芳川泰久が、本格的に小説家デビューした。その最初の作品は、夏目漱石の名作『坊っちゃん』の続編である。 愛媛の中学教師を辞めた坊っちゃんは東京に戻り、不動産会社、印刷工、街鉄(今の都電)の運転手を経て、保安関係の刑事になる。一方、山嵐は群馬の牧場勤めから富岡製糸場の寮の監督になるが、ストライキに関わったとしてクビになると、東京に出てスリで生計を立てつつ、片山潜や幸徳秋水と出会い、社会主義に惹かれていく。追う者、追われる者という対立関係の中で、二人は大逆事件に巻き込まれ、意想外な形で支え合うことになる>との書評を読んで、早速読んでみました。 そこには坊ちゃんが東京へ帰った明治28年(1895)から、大正時代の、関東大震災が発生したあたりまでの時代背景が解説付きで、描写されています。明治後期の富岡製紙工場の様子、日露戦争、日比谷公会堂焼き討ち事件、大逆事件などを、うまく登場人物にからめた物語となって、一体どうなるのかとハラハラしながら読ませていただきました。 ただ『坊ちゃんのそれから』と題した割には、『坊ちゃん』の登場人物にはどう考えてもそぐわない末路をたどります。夏目漱石『坊ちゃん』の最後は、<その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎はいえんに罹かかって死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋うめて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。>で終わり、坊ちゃんは街鉄の技手になります。『坊ちゃんのそれから』では街鉄の技手になるまでは、原作を踏襲しているのですが、最後には坊ちゃんは刑事に転じ、山嵐などはスリに成り下がってしまうのですから、いけません。マドンナも女郎になるなんて、夏目漱石の『坊ちゃん』が台無しです。 激動期の明治の政治・経済・社会問題をたっぷりと詰め込んだ小説ですが、著者の芳川泰久氏の実力を考えれば、やはり登場人物を自ら設定して、違和感のない小説にしてもらいたかったと思います。 同時代を描いた作品として、日露戦争を背景に、開戦論者と幸徳秋水たち非戦論者の闘いを実在の人物をモデルに創り上げられた一大ロマンス、辻原登『許されざる者』と読み比べると、後者に軍配が上がるでしょう。http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10797359c.html 『坊ちゃん』の続編としては、小林信彦の『うらなり』がありますが、こちらの方は人物描写も原作との連続性があり、すんなり面白く読めました。http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11191259c.html 漱石は愛媛県尋常中学校で1895年(明治28年)から教鞭をとり、1896年(明治29年)に熊本の第五高等学校へ赴任していますが、東京市街鉄道の開業は1904年(明治36年)です。 『うらなり』では坊ちゃんが生卵事件の共謀者である山嵐と松山を去った年を明治36年頃とし、所用で上京した元英語教師の古賀(うらなり)は、銀座四丁目で、かつての同僚・数学教師の堀田(山嵐)と約30年ぶりに会います。古賀は姫路に住んで隠居生活、堀田は執筆した参考書が版を重ねて、生活には困らないという近況。 小林信彦は、うらなりの半生を、派手さこそないものの、明治・大正・昭和を生きた一人の知識人の落ち着いた人生として描いています。大阪の金満家に嫁いだマドンナ・望月多恵子には神戸の広東ホテルで再会する場面もあり、時代考証もしっかりしたお薦めの作品です。 1916年12月9日に夏目漱石が亡くなってから,今月でちょうど100年です。漱石に関する番組の放送や記念展が次々と開催されています。上の写真は神奈川近代文学館特別展「100年目に出会う 夏目漱石」のポスター。夏目漱石の墓所は雑司ヶ谷霊園にあり、特に目を惹くお墓です。100年目に訪れて、傍に坐って出会われた方はいたのでしょうか。
↧
野坂昭如『火垂るの墓』満池谷の親戚の家の娘のモデルは?
野坂昭如『火垂るの墓』に登場する満池谷の親戚の家のモデルとなった一家は実在していました。 満池谷町自治会のT氏のお話によると、親戚の家はI家。I家の主人は昭和10年に死亡し、未亡人はAさんという名前。長女は既に述べたように張満谷家の祖母の妹の長男に嫁ぎ、大正9年生まれの人でした。 次女T子さんは大正12年生まれで勤労動員で、普段は家におらず、電休日にだけ満池谷に帰っていました。昭和1年生まれの長男も神戸商船学校に寄宿、昭和4年生まれの四女も勤労動員で、昭和3年生まれの三女K子さんだけが母親とずっと家にいたのです。 『火垂るの墓』では、モデルとなった未亡人のことが、あれだけ悪く書かれたのですから、野坂昭如とI家の親交などなかったろうと推測していましたが、驚いたことに、野坂昭如は三女の葬儀に参列し、「おばさんのことを悪く書きすぎてしまった」と詫びたそうなのです。http://www.asahi.com/articles/ASJCZ6TSVJCZPLZU007.html 野坂の自伝的小説を読むと、『火垂るの墓』に登場する娘のモデルは、三女であることがはっきりしているのですが、T氏によると、大正12年生まれの二女のT子さんが自分がモデルだったと勘違いされて、ずっと知り合いにそのように話されていたとのこと。 何故そのような勘違いが起こったのか、『火垂るの墓』を再読してみました。親戚の家の娘が登場する部分を引用します。<節子は西宮の、遠い親戚にとりあええず預け、ここはお互いに焼けたら身を寄せあう約束の家で、未亡人と商船学校在学中の息子と娘、それに神戸税関へ務める下宿人。>と、満池谷の家に住む家族構成が書かれています。神戸税関へ務める下宿人は実際には同居しておらず、近所に神戸税関に勤めておられた方が住んでいたそうです。その後、娘の年が推定できる部分があります。<断水が続いていたから清太の男手は、三百米はなれた井戸の水汲みにもありがたいはず、しばらくは女学校四年で中島飛行機へ動員の娘も休んで節子をあやす。> この年、I家の次女T子さんは、既に20歳、三女のK子さんは17歳ですから、年齢を考えると三女がモデルのように思われます。 しかし、中島飛行機に動員されていたのは、二女でしたから、二女がモデルと考えてもおかしくなかったのです。更に、次のように書かれたことが、二女の誤解を呼んだようです。<清太節子にはすいとつまみ菜ばかりの汁を茶碗にもり、時に気がとがめるのか「こいさんお国のための勤労動員やもん、ようけ食べて力つけてもらわんと」>および、<「こいさんも兄さんも、御国のために働いているんでっさかい、せめてあんた泣かせんようにしたらどないやの、うるそうて寝られへん」> このように「こいさん」と呼ばれたことと、勤労動員されていることが、I家の二女T子さんに、モデルは自分だと思わせたのではないでしょうか。 二人姉妹の場合、上の娘がいとさん、下の娘がこいさんですから、二女は三女が生まれるまではこいさんと呼ばれていたはずです。 実際にはI家は四人姉妹だったので、長女がいとさん、二女がなかいとさん、三女がこいさん、四女がこいこいさん、が正しい呼び方のようで、「こいさん」は三女を意味したようなのですが。 また、三女は体が悪いことにして、勤労動員には行っておらず、二女は中島飛行機に勤労動員されていましたから、二女がモデルだったと考えてもおかしくなかったのです。 しかし、長らく自分が『火垂るの墓』に登場する娘のモデルと信じていた二女T子さんも、三女K子さんがモデルであったことを知って、野坂昭如に大層立腹していたそうです。 自分がモデルでなかったことにご立腹だったのか、自伝的小説に書かれた野坂と三女の関係を知ってのことかは、判然といたしません。野坂昭如は戦後何度も夙川を訪れていますが、自伝的小説に書かれているように、神戸女学院卒業後すぐに結婚した三女とも会っていたのでしょうか。
↧
関西学院大学プロジェクションマッピング、大学紛争時はそこにゲバラの肖像が
12月17日(土)に関西学院時計台のプロジェクションマッピングを見に行って来ました。関学のプロジェクションマッピングは2014年に始まり、今年で3回目とのこと。 適切な規模の催しで、観衆は800人くらいはいたのかもしれませんが、芝生広場が解放され、適当な間隔をあけ、ゆっくり鑑賞できました。今年のテーマは~映像と音楽で祝う幻想的なクリスマス~10分前からカウントダウンが始まりました。時計台にデジタル表示。美しいプロジェクションマッピングの写真をしばらくご覧ください。時計からクリスマスプレゼントがこぼれ落ちてきました。蔦が絡みついた時計台青く色どらえた時計台カラフルな時計台40分間、美しい映像と音楽の世界を充分楽しませていただき、あっという間でした。最後に、ふと思い出しました。この平和な時計台にも苦難の時期があったのを覚えておられますか。1969年、私はすぐ近くにある高校3年でしたが、時計台にあるエンブレムーMastery for Serviceに替わって革命家ゲバラの肖像が掲げられていたのです。壁には「造反有理」の落書きも。 当時在学していた、かんべむさしは小説『黙せし君よ』に、機動隊突入の様子を描いていました。<図書館の正面玄関前一帯には、切り離したポプラやヒマラヤ杉の巨木で、頑丈強大なバリケードが構築されている。それを隊員たちがエンジン・カッターで切断し、装甲車が押しのけて破壊し、撤去していく。二階三階の窓から頻繁に投げ落とされる火炎瓶やブロックを避け、ガス弾と放水で制圧しながら、玄関への突入路を開いていく。つづけさまに炎があがり、噴射される銀線がそれを圧して水煙を立てる。発射音と切断音が断続し、スピーカーを通した警告や命令の声が反響して、さらにその全体に上空で旋回するヘリの音がかぶさってくる。> 幻想的なプロジェクションマッピング終了後も、様変わりの時計台を感慨深くしばらく眺めていました。
↧
↧
「沈黙は金」(松山巌『須賀敦子の方へ』)
松山巌『須賀敦子の方へ』で小学校時代からお付き合いのあった景山さんのお話が書かれています。<景山さんが須賀に最初に会ったのは白金の東京聖心の小学校のときで、以来、付き合いは長く、上智大学では教師仲間であったから、須賀の思い出は多数にわたるはずである。それでも景山さんはまず、「ガスちゃんはともかく面白い楽しい人だった。大学生になっても関西のなまりはあったけど話好きで。学長にもきちんと自分の意見を主張して」と語られた。マザー・ブリットはなに事であれ、学生たちと話し合うことを重要視したというから、当時の日本人には珍しく自分にも意見をいう須賀を頼もしく思い、期待をかけていたに違いない。> ここで述べられている「ガスちゃんはともかく面白い楽しい人だった」という印象とまったく同じお話を今年の夏に、妹の北村良子さんと、小林聖心女子学院ご出身の稲畑汀子さんの対談でもお聞きしました。 稲畑さんによると、「須賀姉妹はともかく楽しい人だった。」そして「おしゃべりだった。」とも。東京に移られたときは、北村良子さんは「あら関西弁なのね」と言われて、学校ではしばらく黙っていて、苦しかったそうです。 稲畑汀子さんはまた、「卒業してからはみんなおしゃべりよ。でも『沈黙は金』だから、在校中はよく叱られました。」と笑って話されていました。聖心の教育方針の「ファーストステージで培いたい力」として、「沈黙、集中力 学年に応じた時間沈黙し、集中して考えられること。」とありますが、幼い女生徒たちにとって、沈黙とおしゃべりの時間のT.P.O.をわきまえることは大変だったようです。
↧
野坂昭如が婦人公論連載途中、突然満池谷の親戚の姓を変えた真相
野坂昭如は「婦人公論」1996年9月号~12月号に『行き暮れる母』と題して、それまでの自伝的作品『行き暮れて雪』、『アドリブ自叙伝』、『わが桎梏の碑』で触れていなかったことにも言及しています。(1997年『ひとでなし』と改題し単行本化) そこで初めて、複雑な「人間関係図」が明らかにされ、養家との関係や養母・祖母と一緒に身を寄せた大阪守口の家も明らかにされ、空襲罹災後妹と身を寄せた満池谷の家も「I家」と記されていました。(I家と、ここでは記しましたが、婦人公論には実名が書かれていました) そして連載第一回では、灘区役所に養父の死亡届を出しに行って、満池谷町の(I家)を連絡場所としたと述べられています。<「戦災で亡くなりはったん」「行方不明です」「まだ見つかりはらへんの」「はぁ」「えらいこっちゃったねぇ」くらいのやりとりはあったかもしれないが、覚えていない。(I家)の住所を、連絡場所として記した。半月後、戦災による死者弔慰金七十円が交付される旨、通知が届き、罹災証明書を持参して出かけた。> しかし、この(I家)は連載第二回からは、なぜか「加藤家」に変更されたのです。 更に『ひとでなし』と改題して単行本化されたときには、「高瀬家」に変更されています。 どうして、婦人公論連載中に突然「I家」の姓を加藤家に変えたのか、疑問でしたが、先般の満池谷自治会副会長T氏の調査により、親戚の家の姓がI家と判明したことから、その謎が解けたのです。 当時、I家の主人は昭和10年に死亡し、長女は張満谷家の祖母の妹の長男に嫁いでいましたから、満池谷の家族の構成は、未亡人Aさんと、大正12年生まれの次女T子さん、昭和1年生まれの長男、昭和3年生まれの三女K子、昭和5年生まれの四女でした。 1967年度下半期の直木賞を受賞した『火垂るの墓』ですが、世間で広く知られるようになったのは高畑勲監督のアニメ映画『火垂るの墓』が1988年に公開されてからでしょう。 その頃、I家の次女T子さんは、そこに登場する親戚の娘が自分と思い込み、周辺の人にもそのように洩らしていたとのことです。http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11520545c.html しかし、その後の野坂昭如の自伝的小説に三女がモデルであったことや、野坂と三女K子さんとの情交が描かれ、自分がモデルでなかったことを知って、野坂に対して大変憤慨されていたと伝えられています。 そのような状況下で、「婦人公論」1996年9月号に『行き暮れる母』と題した野坂昭如の自伝的小説の連載が始まり、実際の姓でI家の名前が登場したのですから、さぞ驚かれたことと思います。 きっと出版社、あるいは野坂昭如自身に、次女T子さんからかI家の関係者から抗議があり、野坂昭如も連載途中にもかかわらず、2回目から加藤家という名前に変更したのが真相と考えるのが妥当ではないでしょうか。
↧
白羽弥仁監督『She’s Rain』ロケ地、甲南女子大学と女子高制服製作物語
白羽弥仁監督の1993年に公開された映画『She’s Rain』について、Wikipediaでは、次のように紹介されていました。<興行的には成功したとはいえなかったものの、公開後の1995年にこの地域が阪神・淡路大震災で壊滅的被害を受けたことで、本作は別の価値を持つこととなった。ほぼ全編が神戸や阪急沿線でのロケで構成されているため、結果として震災前の貴重な建物や町並みが映像に留められたからである。> 白羽監督も、公開当時は、それほどヒットしなかったものの、毎年どこかで再上映され、今でもロケ地になったお店を訪ねる人がいるなど、根強い人気があることを話されていました。 貴重な映像的価値を持ちあわせていることから、最近になってMOCALから、ブルーレイで販売されています。http://www.mocal.com/she-s-rain/ 先日の西宮文学案内で、白羽監督が話された阪神間のロケ地のエピソードを順に紹介しましょう。まず舞台となった「甲蔭高等学校」から。1992年7月30日に撮影されたもので、ロケ地は甲南女子大学。 現在も同じ光景が広がっていますが、「甲蔭高等学校」と大きく書かれたプレートは、やはり撮影用に設置したもののようです。教室はその333号室で行われたそうです。 さて面白かったのが、その制服の調達方法。映像を見ただけで阪神間に住まれている方はS女子学院の夏の制服がモデルになっていることはお分かりと思います。 最初そのまま使わせてもらおうと考えたが、やはり許可してもらえず、偽物を作ることになります。日活撮影所の衣装部から制服の写真を撮ってきてもらいたいと頼まれ、監督自ら元町で、怪しいものではないからと女子高生に頼んで、写真を撮らせてもらったとのこと。 更ににその写真を衣装部に送ったところ、前からの写真だけではダメで、後ろからの写真も送ってもらいたいと頼まれ、仕方なくもう一度、後ろから写真を撮らせてもらいに元町に行ったそうです。 その制服はエキストラ用を含めて60着製作したそうですが、後日談があり、随分たってから別の日活の映画で使われていたそうです。(どんな映画だったのでしょう)
↧
昭和15年、東京の麻布でも大接近していた須賀敦子さんと野坂昭如
昭和4年1月生まれの須賀敦子さんと、昭和5年10月生まれの野坂昭如は、昭和20年どちらも西宮に居て、夙川で大接近していたことを以前記事にしました。http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11211744c.html 須賀敦子さんは戦争が激しくなった昭和18年、麻布本村町から西宮市殿山町の実家に疎開されます。須賀敦子全集第8巻の松山巌さんによる年譜では、<昭和20年16歳;四月から東京聖心女子学院高等専門学校に入学予定も、東京聖心女子学院が焼け落ちたために自宅待機となる。家から近いカトリック夙川教会の地下室は、海軍療品廠となり、そこで妹と薬の整理に従事。>とされています。 一方、神戸大空襲で罹災した野坂昭如は昭和20年の6月に満池谷町の親戚の家に疎開し、昭和3年生まれの神戸女学院中学4年の三女と、しばしば回生病院まで出歩きます。その途中で立ち寄ったのが、夙川の喫茶パボーニやカトリック夙川教会でした。野坂昭如の自伝的小説『ひとでなし』からです。<夙川教会のフランス人神父のブスケは、十九年冬スパイ容疑で曽根崎署に拘置され、二十年七月、敗戦を察知した警察の判断で戻されたという。すっかり健康を害して、教会で静養していたらしいが、荒れ果てた教会、その尖塔が爆撃の目標になると、周辺が取りこわしを要求していた教会にも律子と入った。祭壇も椅子もなく、キリスト像だけ。> その時、野坂が教会の地下まで覗いて、須賀敦子さんとの出会いなどを書いてくれていれば、大傑作になっていたのですが。(因みに初代主任司祭であったブスケ神父は逮捕され、帰らぬ人となりました)上の写真はカトリック夙川教会の地下室 このように昭和20年にカトリック夙川教会で大接近していた須賀敦子さんと野坂昭如ですが、昭和12年に夙川の殿山町から麻布本村町(現;港区南麻布)に引っ越されえていた須賀さんと、昭和15年にも有栖川宮記念公園で大接近していました。『ひとでなし』の人物関係図に記されている、野坂昭如の養母の張満谷愛子の祖母にあたる松尾かねとその三女久子は<空襲までは、有栖川恩賜公園の近くの小体ながら造りの良い家にいた。>のです。そして野坂は昭和15年まで、夏休みに一年おきに上京していました。<昭和九、十一、十三、十五年の夏、養母と上京している。十五年には、後から来た祖母こと、養父を含め、常に外出。ぼくはかねの住いに泊まれば、有栖川恩賜公園内の図書館、祖母の妹の家なら、近くの子供と遊び、一晩だけだったが、養父の常宿、神田の岩田屋旅館へ泊った。>祖母松尾かねの家は東京麻布にあったそうですが、このあたりの経緯は、『赫奕たる逆光』に詳しく述べられており、それは次回に。
↧
↧
旧帝国ホテルのライト設計の椅子と自由学園明日館の遠藤新による椅子
NHKスペシャル - ドラマ 東京裁判は見ごたえのある力作でした。その中で目を惹いたのが、判事たちの宿舎となった帝国ホテルのシーン。 明治村で撮影したようですが、当時の帝国ホテルの様子が再現され、興味深く見ておりました。 須賀敦子さんも、東京裁判が終わって2,3年後だと思いますが、『ヴェネツィアの宿』で父上から帝国ホテルの夕食に招かれた時のことを、次のように述べていました。<ホテルという日常からかけはなれた空間を父が愛するようになったのには、あのヨーロッパ旅行での経験が大きく影響していたのだろう。私が女子大の寮にいたころ、父は関西から出てくると、うれしそうに電話をかけてきて、彼が定宿にしていた帝国ホテルの夕食に呼んでくれた。もちろんまだライトの建築だったころで、天井の低い、迷路のような廊下を通って彼の部屋を訪ねていくのが、私にとっても、家にいるときの気むずかしい父とは別人に会いに行くようで、愉しかった。> 目についたのが判事たちが語らっているバーや食堂の椅子のデザインです。 現在の内幸町にある帝国ホテル東京の2階にあるオールドインペリアルバーもフランク・ロイド・ライトの設計を踏襲したような背を持つ椅子が使われています。 そこで思い出したのが、ライトと遠藤新の共同設計による自由学園明日館の椅子でした。上の写真は明日館の暖炉のある部屋ですが、帝国ホテルのような部屋です。 上は明日館のシンボルともいえる大きな明かり窓ですが、この場所も旧帝国ホテルの婦人用ラウンジに感じが似ています。 明日館の小食堂に置かれている古いテーブルと椅子について、遠藤新が「卓と椅子とに因む」と題したエッセイがありました。<自由学園の卓と椅子を頼まれてやった。試みに普通の考えにして見積もったら予算の二倍にもなった。これはいけないと思った。すぐ方針を換えなくてはならぬと感づいた。> そこで知恵を絞って、目的のデザインを達成するのです。このような学園で学び、食事ができた児童たちはなんて幸せだったのでしょう。
↧
なんという偶然!『She's Rain』でも菊池麻衣子の幼少期を演じた三倉茉奈
なんという偶然でしょう。 覚えておられますか、1996年下半期のNHKの朝ドラ 『ふたりっ子』。双子の姉の野田麗子役は菊池麻衣子、その少女期を演じたのは三倉茉奈でした。 その4年前に撮影された白羽弥仁監督の映画『She’s Rain』で、主人公ユーイチの幼馴染でヒロインレイコの恋敵となるユウコを演じたのが菊池麻衣子で、その幼少期を演じたのが三倉茉奈だったのです。エンドロールで三倉茉奈の名前が出て来たので驚きました。 三倉茉奈は、その4年後にNHKのオーディションで選ばれ、再び菊池麻衣子の少女期を演じたのです。 白羽監督は1992年8月3日に、大手前大学さくら夙川キャンパスの前にある西宮聖ペテロ教会で撮影されています。映画に登場する震災前の聖ペテロ教会です。左が菊池麻衣子。そしてユーイチとユウコの回想シーンになります。 子供の時に、派遣されてきた新任の牧師の結婚式の練習に二人がかり出されたという回想シーン。右側がわずか6歳の三倉茉奈です。この撮影に使われた聖堂は1949年に建設されましたが、1995年の阪神淡路大震災で、聖堂・会館牧師館および幼稚園すべて全壊し、聖堂は1997年に復興再建されています。映画では上のシーンの後、聖堂で二人がピアノを弾くシーンがでてくるのですが、現在の内部の写真をホームページで拝見すると、大きなパイプオルガンができていました。 再建されたこの聖堂は「小さいながらも信徒たちが手作りで作った緑の木々の庭と地域に開かれている教会」という推薦で2005年に「西宮市都市景観賞」を受賞されたそうです。
↧
マイケル・ブース『限りなく完璧に近い人々』は北欧の暮らしを評した傑作
マイケル。ブースの『限りなく完璧に近い人々』なぜ北欧の暮らしは世界一幸せなのか?が好評です。 マイケル・ブースと言えば、『英国一家、日本を食べる』が日本でもベストセラーとなって、NHKでもアニメになって放映されており、以前にも記事にさせていただきました。http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11157872c.html 日本通の著者が今度はどんな北欧論を繰り広げるのか楽しみに読ませていただきました。 英国人作家マイケル・ブースは現在デンマークに住んでいるそうですが、その訳は、<妻が「自分の国に帰りたい」と言ったのだ。だから体中の細胞が「マイケル!あの国に住むのがどういうことか、覚えていないのか?」と叫んでいるにもかかわらず、私は決心した。なぜなら長年にわたる過去の手痛い経験から学んでいたのだ ―長期的に見れば、妻に従うのが最良の道なのだと。>これは私も同感、いい選択をされたことと思います。 そして著者は北欧5ヶ国を旅して、その社会システムや国民性について「実際のところ、北欧ってしあわせの国なのか?」と英国的ユーモアをもって膨大なインタビューとリサーチを繰り広げます。<北欧五カ国(デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、アイスランド)を合わせれば、世界最強の教育システムを持つ国(フィンランド)、健全な政教分離が保たれ、多文化であり、近代的に工業化された、社会の鏡と呼べる国(スウェーデン)、石油による膨大な富を愚かしい超高層ビルやロンドンのパーク通りに立つコールガールにつぎ込んだりせず、分別と倫理観をもって長期的な事業に投資してる国(ノルウェー)、世界で一番、男女平等な社会を実現し、男性の寿命が最も長く、モンツキダラの漁獲量が高い国(アイスランド)、挑戦的な環境政策を持ち、国が社会保障制度を支える潤沢な基金を持っている国(五カ国すべて)が揃う。> しかし日本人はどうしてそのような国家を目指せないのかというのも私の関心事でした。 ご存知のように社会民主主義国家の税負担は非常に大きく、デンマークの納税者負担は58%から72%に達していますが、それが可能なのは、経済的な平等が社会全体にとって価値のあるものだということを、なぜか本能的に理解していたのだろうと述べています。 そして、このような社会を築けたのは長い歴史の中で培われた国民性に依るところが大きいようです。<デンマーク人はつねに人を信用する国民であったし、そういった信頼関係と社会的団結が福祉国家へと歩む道の下地を整えたのであって、その逆ではないと主張する。「富を再配分しようとする時には、信頼関係が強い社会のほうがやりやすいのでしょう。再配分されるものが、受け取るべき人たちのもとへ、適切に渡っていると皆が信じることができるのですから。私たちデンマーク人には、つねに信頼関係がありました。そしてこの信頼が、福祉国家を築く土台となったのです」> マイケル・ブース氏はインタビューで、「北欧と日本には共通するものがある」とし、「北欧と日本には共通項がある。伝統的に集団社会であること。経済的な公平性、貧富の差がそれほどないということ。信頼社会であること。」と述べており、日本にも世界一幸せな国になる素地が整っているのかもしれませんが、集団社会、経済的公平性、信頼社会など、いずれも失われつつあるようにも感じています。(上のグラフのように平等度を表すジニ係数は日本は上昇を続けています) 以前「視点・論点」で国際医療福祉大学大学院教授 渡邉芳樹氏が「現代スウェーデンからの教訓」と題して、<スウェーデン人は夫婦の間でもむやみに依存し合うことなく純粋な愛と自立と平等を大切にします。離婚時にも慰謝料はありません。また働いて税金を納めてこそ居場所がある社会です。良いサービスは受けるものの、それに頼り過ぎず我慢してでも自立した生き方を貫きます。こうしたことが個々人の能力を最大限に発揮し、国際経済の荒波を生き延びる力となってきたと確信しています。「自分で食べられなくなったら自然体の最期を迎える。日常生活の中での独立死を厭わない。」というのがスウェーデン人の生き様です。人生を律する強い「覚悟」があります。>と国民の覚悟ついてお話されていましたが、そのような意識が醸成されることも重要なことでしょう。 資源の乏しい国に住む1億人が豊かな生活をしていくためには、グローバル化が急速に進む市場主義経済の競争社会を生き抜いていかねばならないという宿命にあるのかもしれませんが、もっと人口が減った将来、一人ひとりが賢くなり、お金のかからない余暇を過ごす方法を見出せば、日本も北欧並みの幸福な生活が送れるようになるのかもしれません。 北欧5カ国の制度も盤石ではなく、多くの問題をかかえているのも事実なのですが、読みながら、人生観にかかわる問題を含めて、色々考えさせられました。
↧
須賀敦子さんの「赤い靴」とモイラ・シアラーの映画
先日BSプレミアムでモイラ・シアラー主演の1948年に制作された『赤い靴』が放送され、須賀敦子さんのエッセイを想い出して、見せていただきましたが、さすが名作でした。 須賀敦子さんの「赤い靴」のお話は、『ユルスナールの靴』のプロローグで登場します。 須賀さんは冬休みに、母上と神戸の街を歩いていたとき、ショーウインドウにきれいな赤いサンダルを見つけます。<真紅といっていい赤で、そんな色の革をそれまで見たことがなかった。吸い込まれるように立ち止まった私を見て、母がせきたてた。なに見てるのよ、はやく行きましょう。あの赤い靴。私がいった。おねがい、あの靴の値段、たずねてもいい?あきれ顔で母がこたえた。あんな赤い靴なんて、いったい、なに考えてるの?どんどん先に行ってしまう母の後から、私は歩き出したが、それでもあの靴が欲しかった。ママ。もういちど私は声をかけた。見るだけだから、待って。いいながら、私は赤い靴が飾られたウインドウに戻った。> これは須賀さんが小学生の頃の話ではなく、戦後になって、聖心女子大に在学中の頃のお話です。よほど赤い靴に惹かれたのでしょう。<しばらくのあいだ、私は母といっしょに街で見た赤い靴が忘れられなかった。昼間は気がまぎれているのだけれど、夜、寝床に入ると、ウインドウの赤い靴が目に浮かんだ。考えてみると私は母に、あれを買って、となにかをねだったことがほとんどなかった。そのうえ、ほんとうをいうと、紅い靴をはいた自分なんてそれ以前には想像したこともなかった。ただ、むしょうに、それをじぶんのものにしたかっただけだ。もしかしたら、モイラ・シアラーが主演した「赤い靴」をそのころにみたのだったろうか。それとも波止場から遠い国に行ってしまった女の子のことを、もう考えはじめていたのだろうか。> これは、『ユルスナールの靴』のプロローグですから、相当力を入れて書かれた文章なのでしょう。赤い靴が大学生だったころの須賀さんの心を掴んで離さなかった様子が見事に描かれています。 それだけにモイラ・シアラーが主演した「赤い靴」とはどんな映画だったのかと、楽しみに見てしまいました。 映画のストーリーは、バレエ団の団長が、一人のバレリーナを発掘し彼女を新作バレエ『赤い靴』のプリマに抜擢するところから始まります。 このバレエ『赤い靴』はアンデルセン童話を題材にしたもので、童話では赤い靴を履いて舞踏会に出かけた主人公の少女カーレンは、死ぬまで踊り続けるという呪いをかけられ、足は勝手に踊り続け、靴を脱ぐことも出来なくなるのです。 映画の「赤い靴」の劇中バレエでもそれが踏襲され「その赤い靴を履いた者は、名バレリーナになる代わりに死ぬまで踊り続けねばならない宿命を背負う。」と言われた主人公は、悲恋の末、現実の生活でも、プリマとして赤い靴をはいたまま、最後をとげるのです。1948年制作という古い映画ですが、テクニカラー方式で撮影された「赤い靴」の映像美は、今見ても強烈な印象でした。きっとこの映像が須賀さんの心を掴んでいたのでしょう。
↧
↧
西村京太郎の『振り子電車殺人事件』を読みながら南紀白浜へ
年末に英気を養おうと思い立って、白浜温泉に一泊旅行に行ってきました。いつも通り数冊の小説を抱えていきましたが、新大阪午前9:03発の「くろしお3号」に乗って読みだしたのが、西村京太郎『十津川警部捜査行 古都に殺意の風が吹く』に収めれた「振り子電車殺人事件(南紀白浜)」。 2006年に刊行された本ですが、そこには特急「くろしお」について次のような説明が為されています。<「国鉄の特急列車」という本によれば、L特急「くろしお」は、やはり、黒潮のことで、曲線の多い紀勢本線で、スピードアップをはかるために、昭和五十三年十月から、381系振り子電車が投入され、地方幹線としては類を見ない表定速度八十キロを達成したと書かれてあった。「くろしお」の写真ものっている。クリーム色の車体に、赤い横の帯が入っていて、波頭の図案のところに「くろしお」という字の入ったヘッドマークをつけた特急電車である。> 特急「やくも」で揺れを経験している振り子電車ですが、今回の「くろしお」は乗っている感覚は、それほど揺れず快適でした。それもそのはず、調べてみると2015年10月から特急「くろしお」に、新型車両の「289系」を導入し、約40年前から運用してきた振り子式電車の「381系」の運転を終了したそうです。 381系は、車体と台車の間に「コロ」と呼ばれるローラーが組み込まれているのが特徴で、カーブ区間では振り子のように車体が傾くことにより高速で走行することができます。http://www.toretabi.jp/train/vol08/01.html 小説の中では最初、<(一度、乗ってみたいものだ)と思う反面、振り子電車だろうが、殺人には関係ないなとも思った。振り子電車だからといって、殺人がやり易いということはないだろう。>と書かれているのですが、被害者は初めて振り子電車に乗って気分が悪くなったことが、犯人につけいる隙を与えていました。 ストーリー展開は、いつもの西村京太郎の時刻表ミステリー。被害者のダイイング・メッセージ「下りの -グリーン車の男」がポイントなるのですが、ここで面白いことを知ったのが、紀勢線の「のぼり」と「くだり」の呼び方。天王寺駅から和歌山に向かう阪和線は「下り」ですが、紀勢線を通る「くろしお」は「上り」が正しい呼び方になっているのです。<紀勢線を走る「くろしお」というように思っていたが、正確には、阪和線と、紀勢本線の二つの線区を走るのである。その阪和線のページを見ると、天王寺から和歌山へ向かう電車の列車番号が、すべて、奇数になっている。国鉄では、下りを奇数、上りを偶数で表しているから、これは、明らかに、下りの列車なのだ。同じく天王寺から、白浜、新宮に向かう「くろしお8号」は、偶数だから、これは明らかに、上りであることを示している。>と小説では述べられていました。 現在の時刻表を確かめてみると、更に面白いことがわかりました。現在の「くろしお」は京都または新大阪が始発駅となっており、東海道線・環状線・阪和線・紀勢本線を通ります。 西村京太郎が述べているように、京都・新大阪から白浜・新宮に向かう「くろしお」は「上り」となっています。しかし、列車番号は、奇数が充てられており、「下り」を示す列車番号になっているのです。「振り子電車殺人事件(南紀白浜)」が発刊された当時は、天王寺始発の「くろしお」の列車番号は偶数だったようですが、現在は奇数に変わっています。これは、「くろしお」の始発駅が天王寺から京都・新大阪に変わった頃に変わったのかもしれません。 これを見ると、現在の「くろしお」は「上り」と「下り」の特性を持った、特異な列車となっているようです。上の写真は紀勢線を走る「くろしお」の車窓から撮影した熊野灘。新大阪から約2時間半、もうすぐ白浜に到着です。
↧
宇江敏勝の民族伝奇小説集『鹿笛』より「白浜温泉の怪」
宇江敏勝の民族伝奇小説『鹿笛』に収められた「白浜温泉の怪」は、白浜の民族、風ゾクを怪談を交えた物語にしたもので、白浜の歴史を知るうえで、民俗学的な価値さえ感じさせる短編集でした。 白浜のガイドブックだけでは知ることができない歴史を紐解いてくれます。<そもそも大正時代までは白浜温泉という名前はなく、温泉は鉛山(かなやま)村と呼ばれた湯崎にしかなかった。湯﨑といえば千三百余年まえの『日本書紀』に、紀温湯(きのゆ)または牟婁温湯(むろのゆ)として登場する。すなわち西暦六百五十八年十月十五日、斉明天皇は紀温湯に行幸されたのである。>と日本書紀にまで登場する歴史ある温泉だったそうです。(地図中の赤矢印が湯﨑)<湯崎と呼ばれるようになっていた江戸から明治時代にかけては遠来の湯治客で賑わったという。『紀伊続風土記』は、幕末の頃には村中の七十戸ほどはことごとく旅舎を営んでおり、飲食や遊戯や歌舞音曲などの賑わいはまるで都会のようだ、と書いている。> 湯﨑は白良浜の南側に位置しますが、この日本最古の湯﨑の温泉で、今も外湯としてだれでも入れるのが崎の湯です。ホテルから撮影した写真。太平洋にせり出した先端の部分に﨑の湯があります。(赤矢印)そしてその赤矢印のあたりの水平線に夕日が沈んでいくのです。行ってみると、結構次々と車でやってきます。「白浜温泉の怪」には「崎の湯」と題した怪談も収められています。湯﨑に住んでいた豆屋逸八という猟師が、猟で魔性のものを撃つのですが、湯﨑に帰ってから崎の湯へ出かけます。<逸八は﨑ノ湯へ出かけた。あたりは海に突き出た岩場である。そそり立った崖の下から波打際にかけて、でこぼこの荒い岩が重なり、あいだの一ヵ所が大きくくぼんで熱い湯が湧き出ている。ゆたかな温泉の煙は海上を行く船からもよく見えるという。紀温湯と呼ばれて、遠い昔、斎明、持統、文武の天皇たちが沐浴したのもここだといわれていた。 逸八はくたびれた躯を熱い湯に沈めていた。寒くて強い風が吹くせいか、ほかに人影はない。彼方には白良浜の松並木から瀬戸にかけての湾曲した浜が見える。西の方角に広がった大海原もくすんだような色にくれようとしている。そこかしこの岩礁には波がしらが白く散っていた。またひとしきり冷たい風が吹いて、崖の上の立つ松の梢が音をたてた。 逸八がふと気がついてみると、いつのまにか男が一人向こうのほうで湯につかっていた。>崎の湯は岩場にあって、絶景の海景色でした。 最後まで書けませんが、そこからぞっとする話になるのです。宇江敏勝の「白浜の怪」は怪談を楽しみながら白浜の歴史を学ぶことができます。
↧
有栖川宮記念公園で須賀敦子さんと野坂昭如の邂逅はあったのか?
須賀敦子『遠い朝の本たち』に収められた「クレールという女」に、有栖川宮記念公園の都立中央図書館を訪ねられたときの様子が描かれています。<広尾で地下鉄を降り、信号をいくつかわたって「ホタル観賞会」という立て看板のある、池のそばの入口から有栖川公園に入った。ケヤキの暗い木陰に、うすい、これ以上うすくなったら消えてしまいそうな空色のアジサイが、ひょろひょろと伸びた茎の先に水滴のついた花をつけて揺れる小道を、足をすべらせないように気をつけながら上がっていく。子供のときに覚えたものは概してそういうものだけれど、足のほうが、あたまよりよく知っている道だ。山グミの濃い緑の茂みから、数年まえ病気で死んだ弟が、半ズボンをはいた子供のときのかっこうのまま、けらけら笑いながら出て来そうな気がする。びっくりした?と目じりをさげて。小さいころ、私たちはこの公園のすぐ近くに住んでいたので、ひまさえあれば、ここに来て遊んだ。> 戦争が激しくなる前まで、麻布本村町に住まれていた須賀さんは、ひまさえあれば近くにある有栖川宮記念公園で遊ばれていたそうです。 その頃、一歳年下の野坂昭如も有栖川宮記念公園にある図書館に通っていたのですが、その理由には、複雑な家庭の事情がありました。『赫奕たる逆光』にそのことが詳しく述べられています。<戦後知ったのだが、戦争景気で有卦に入った養父は、京都に情婦を囲い、十五年に女の子が生まれた。いつ、養母がこのことを知ったのかわからないが、夏にもめて、養母はぼくを伴い、東京麻布の生母の許へ身を寄せた。> 野坂の養父、身の丈六尺美男子の張満谷善三は、石油製品を扱う貿易商の関西支配人だったそうですが、昭和十五年以降、万事逼迫するにつれ、張満谷家は豊かになっていきます。戦前はそのような才覚のある男は、お妾さんを囲っていたというのが普通のことだったのかもしれませんが、須賀家と同様、野坂の養家である張満谷家でも、昭和15年に一波乱あったようです。 さて、東京麻布の生母というのは、人物関係図に示されている松尾かねのことで、野坂昭如の実の祖母にあたる人物で、船乗りだった主人はスペイン風邪で亡くなり、未亡人となり高利貸しを営んでいました。 松尾かねには、縫子、愛子、久子の三人の娘がいて、縫子が野坂の実母、愛子が養母という関係にあります。三女久子は、著名な弁護士の妾になっていたそうです。<ぼくにとっての祖母かねと養母、弁護士の妾である母の妹の三人は、毎日外出し、もちろんぼくはいっさい事情を知らない。>そして野坂は、<毎日、有栖川宮恩賜公園の中の図書館で過ごし、十日ほど後、神戸の祖母がやってきて、僕をその妹の家へ移した。>と述べています。(当時はまだ都立中央図書館とはなっておらず、港区の図書館だったのかもしれません) 昭和十五年の夏休み、毎日有栖川宮記念公園の図書館に通っていた野坂が、しょっちゅう公園で遊んでいた須賀敦子さんとすれ違っていたとしても不思議ではないのです。更にいうと、野坂の東京麻布の滞在先は須賀家の家のすぐ近くだったかもしれないのです。 さてもう一つの興味は、十歳の野坂昭如は図書館でどのような本を読んでいたのかということです。『エロ事師たち』の野坂ですから、エロ本ばかり読んでいたのではないかと思いしや、とんでもありません。<人並みに本は読んでいた。B29から逃げまわりつつ、里見弴と正岡子規だけは話さなかったのだから、少しませている方だったかもしれない。小学四年で蜀山人の狂歌、五年で落語、六年では近松の道行を訳判らず暗唱していた、日本語の味わいについても、いくらか心得ていたと思う。>十六歳になった昭和21年には、守口市の元飯場に住んで、相良守峯訳「ファウスト」や、三木清の「哲学ノート」など読み、その後同人誌の主宰もしていたそうです。さすが、直木賞作家!
↧