昭和23年、七万円の大金を懐に、新潟の野坂家から家出した野坂昭如は、東京、京都、大阪を経て、石屋川に向かいます。自伝的小説『行き暮れて雪』からです。<悠二は、駅前の空地を渡り、阪神ビル地下へもぐった。阪神映画が、「三百六十五夜」を上映している。十五円で石屋川までの切符を買った、ベルが鳴る、ほぼ満員の電車に駆け込んだ。>阪神映画って、何處にあったのでしょう。野坂は大阪で阪神電車に乗り換えたようです。阪神の駅名が続きます。<「福島」「野田」「杭瀬」馴染み深い駅名がつづく。新聞ホルダー、写真画報の売り込みに歩いた地域。神崎川の鉄橋を過ぎる、工場の廃墟がつづく。>大阪大空襲で、手塚治虫はこのあたりの工場で監視塔に立っていたと述べています。昭和23年には、工場群はまだ廃墟のままの姿で残っていたようです。<直角三角形の、鋭角を並べたような、中はがらん堂の建物、墜落したツェッペリン号の、骨組風にこんがらがった鉄骨、整理されて、白々しいコンクリートの床、六甲山塊の東のはずれが、暮れなずむ空を背にして、黒く浮かぶ、甲山、香櫨園。>そして阪神石屋川駅に、六時四十分に着きます。<川に沿って歩く、阪神国道へ出た、石屋川公会堂の他、何もない、既に暮れていて、しかと判らぬが、町らしい灯の色は、かつて悠二が住んでいたあたりにうかがえぬ、公会堂も暗い。建てられた当時、さぞモダンだったろう、全体に丸味を帯びた褐色の三階建て。石屋川に沿い、公会堂を過ぎようとして、「グリル・石屋川」の、灯の入った看板が眼に入った。>昭和8年に建設された御影公会堂は今年の3月31日まで、改修工事で休館しています。食堂は今も地下にあります。<建物の外の、地下への階段を降り、中へ入ると、空のショウケースが通路なりに、いくつも置かれている、右の奥に灯の色が洩れる、裏口から入りこんだ感じで、しかし、食堂にいっさい覚えがない、衝立で、二つに仕切られ、手前だけで営業するらしい。>以前名物のオムハヤシライスを食べに行った時の写真です。野坂は食事の後、近くに宿屋がないか尋ね、その日は「六甲花壇」という宿に泊まります。昭和二十三年野坂が石屋川を歩いたときは、後年ここに自分が書いた小説の碑が建てられるとは思いもしなかったことでしょう。
↧
昭和23年新潟の実家を家出した野坂昭如は御影公会堂へ
↧
遠藤周作の原作『沈黙』を忠実に描き切ったマーティン・スコセッシ監督
火曜日に待望のスコセッシ監督の『沈黙―サイレンス』を見に行ってきました。 BS1スペシャル「巨匠スコセッシ“沈黙”に挑む~よみがえる遠藤周作の世界~」でも紹介されていたように、遠藤周作の原作が忠実に映像化され、日本人の遠藤が訴えようとしたものがアメリカ人の監督の手により見事に伝わってきました。 スコセッシ監督は、「沈黙は私が読んだ本の中で最もよく信仰の葛藤を描いていた」と述べているように、遠藤周作が表現したかった、おのれの弱さや裏切りに対する苦悩という遠藤文学の本質を日本人以上に理解し、映像化に取り組んだのです。1988年に監督はたまたまShusaku Endo “Silence”を読み、大きな衝撃を受け、「原作に忠実に作りたかったのはこの本と旅をしてきたからです」と繰り返し読み込んできたことを語っています。 更に英語版には誤訳と感じるところがあると、「その度に日本語の原作に戻り訂正しました」と語っているのです。原作に忠実に映像化するために、下の写真のように撮影シーンと原作を容易に対比できるようにして、撮影を進めたそうです。 映画化に当たって調査した資料の蓄積も、半端でなく、日本二十六聖人記念館にある「雪のサンタマリア」や「穴吊り」などもその例です。 2009年に監督は長崎入りし、作品のイメージを膨らませたそうで、構想から実に28年もの歳月を経て完成したというのも頷けます。 エンドロールを見ながら、遠藤周作ファンにとっては、キチジローの狡さ、狡猾さなどの描き方が弱く感じたものの、よくぞここまで映像化してくれたという感慨に浸っておりました。 もし遠藤周作が生きていたなら、どんな感想をもらしたことでしょう。
↧
↧
昭和23年の阪急梅田ターミナル(野坂昭如『行き暮れて雪』)
昭和23年7月、新潟から家出して、御影の「六甲花壇」に一泊した野坂昭如は、翌日小学校時代に住んでいた中郷町の焼跡を見て回った後、阪急に乗って梅田に向かいます。<宿賃は三百二十円だった。悠二は阪急六甲から神戸とは逆の梅田へ向かった、夙川を過ぎ、車窓から甲山がのぞめる、焼けて後、身を寄せていた家の、二つ上の娘は、神戸女学院を出てすぐ、裕福な男と結婚した。>夙川を過ぎ、車窓から見える甲山。(若江町付近)当時は写真のように高架にはなっていませんでした。この道は野坂がよく歩いた道でもあります。 阪急の梅田駅は昔は、阪急百貨店の所にまで伸びていました。<梅田駅を降り、改札を出て、つまり阪急デパートの一階に入ったとたん、ゴミと屎尿の臭いが鼻をさす、人でごった返していた。太い柱に宝塚劇場、映画「オーバーランダーズ」「毒薬と令嬢」、朝日ホールで上演の「ロミオとジュリエット」のポスター、まだ昼前だが学生服と、リュック担いだ連中の姿が目立つ。札束にも少しなれた、昨日、やみくもにびくついたことがおかしく思える。六階の食堂で、カレーライスを始めたと、貼紙がある、昔から阪急のカレーは名物なのだ。>阪急の名物カレーが復活していました。<食堂の前に、外食券売りがいた、一枚十円、二十枚綴りを買い、カレーの値段は五十円、他にどじょう鍋、トンカツ定食、大阪鮨、きつねうどん、モツ煮込み、刺身、目玉焼、もやし炒め、コーンスープなど、ほぼ満員だった。カレーにソースをまぶして三皿食べ、気がつくと前に、母子四人連れがいて、きつねうどんいっぱいをおかずに素飯をとり分けて食べる。悠二あわてて立ち上がった、いずれも乞食に近い身なり、カレーの皿をかくしたくなる。> 野坂は札束を懐に、家出してきましたが、まだまだ貧しい時代でした。ここから守口行きの市電に乗ります。
↧
映画『沈黙』を見る前に読みたい「遠藤周作とShusaku Endo」
スコセッシ監督の映画『沈黙』を見るにあたって、どのくらい遠藤周作の原作を反映した作品になっているのかが一番興味のあることころでした。 特に遠藤周作が『沈黙』の最後の章の「切支丹屋敷役人日記」について非常に大事な部分にもかかわらず、文語体で書かれているので、日本の多くの読者は、そこまで読んでやめてしまう(私もその一人でした)と述べている部分ですが、その非常に大事な部分も、映画『沈黙』では織り込んだロドリゴの最後の姿が描かれていましたので、スコセッシ監督の理解度に感心しました。 キリスト教徒でない私が、遠藤周作の作品をどれだけ理解できているのか不安なところではありますが、キリスト教文化で育った欧米人がどのように遠藤の『沈黙』を受け止めるのかというのは、私の関心事だったのですが、それが書かれている本、『「遠藤周作」とShusaku Endo アメリカ「沈黙と声」遠藤文学研究学会報告』がありました。 1991年に米オハイオ州にあるイエズス会系のジョン・キャロル大学で、「沈黙と声―遠藤周作の著作」と題した学会が開催され、その内容を中心にまとめられたものです。 遠藤も「まえがき」で<外国人と日本人とでは私の作品の読み方が違うのが、私にとっては非常に面白い。読者の方にも面白がっていただけると有難いと思う。>と述べており、映画『沈黙』を見る前に、あるいは見た後でも、読んでみると『沈黙』をよく理解できます。 この本の中に、マーチン・スコセッシ監督により『沈黙』の映画化が進行中と書かれていましたから、1991年には映画化を考えていたのは間違いありません。 「学会記念講演」の後の質疑応答で、<Q;遠藤先生にお聞きしたのですが講演者の方々三人とも。『沈黙』に出てくるキチジローが先生の作品を理解する上で大切な登場人物であると、おっしゃいました。これに対して先生は、賛成なさいますか?>に対し、<遠藤 ;あのキチジローは私です。あのキチジローのもっている弱さは私がもっている弱さです。私はキチジローを愛しながらあの人物を書きました。>と答えています。 その他にも「踏絵とソニーの国 ジョン・アップダイク」や「破られた沈黙 ウイリアム・C・マクファデン」など興味深い遠藤周作論が収められています。
↧
昭和23年、家出した野坂昭如は守口で友人たちと遊んだ後、西宮へ
野坂昭如は、戦後守口で二年間過ごしましたが、昭和23年に新潟から家出して、守口時代に通った市立中学の友人たちに会いに出かけます。その後飛田遊郭で一夜を過ごした野坂は、阪急で夙川駅に向かいます。『行き暮れて雪』からです。<市電で大阪駅へもどり、阪急に乗った、何も考えず夙川駅で降り、海へ向かう、川沿いの公園風遊歩道は何もかわっていない、焼け出された後、二か月身を寄せていた家の三女、園子に会いたかった。>お目当ては、疎開していた満池谷の親戚の家の三女でした。野坂より二歳年上で神戸女学院に通っていた園子(実名は郷子さんでした)は野坂にとって永遠のマドンナだったようです。<阪神国道へ出ると東へ進み、一本目の道を甲山へ、今来た道をとってかえすように歩いた、このまままっすぐ突き当れば、園子の実家のそばに出る。> 野坂はなんとも不思議な経路で、阪急夙川駅から満池谷町に向かいます。一旦夙川駅から海へ向かって、阪神国道まで歩いたのは、回生病院へ行くつもりだったのが、途中で心変わりしたのでしょうか。<手紙で、当時の当時の礼を述べたいと申し出て、何か不都合なことがあるだろうか、礼をいいたい気特に偽りはない、阪急の踏切を過ぎてしばらくすると、視界が開け、正面に椀を伏せたような甲山が見える、左は夙川の堤防と松並木、右は高台、いずれも奥まるにつれて接近し、果ては家並み七軒の幅まで狭まり、家並みの向こうは西宮市貯水池。>野坂は県道82号線を真っすぐ北に向かったようです。当時踏切だった所は、現在は上の写真のように高架になっています。そして高架を過ぎると、正面にお椀を伏せたような甲山が見えます。 途中どこかで右に折れて、ニテコ池の南側にある満池谷の親戚の家に向かったのでしょう。親戚の家があった場所は現在は空き地となっています。小説『行き暮れて雪』では、主人公悠二(野坂)は三女園子(郷子)と家の手前で出会うのです。
↧
↧
昭和23年家出した野坂昭如は満池谷で、親戚の三女に出会う
昭和23年、新潟から家出してきた野坂昭如の最終目的地は満池谷で、神戸を焼け出されて世話になった親戚の家の三女郷子(『行き暮れて雪』では園子)に会うことでした。『行き暮れて雪』では悠二という名で登場する野坂は、阪急夙川駅前の果物屋で手土産に林檎を買い、更に外食券食堂でブドー酒を飲んで、ふらつきながら満池谷に向かいます。上の地図は「夙川地区100年のあゆみ」からですが、確かに夙川駅前の夙川書店の隣が果物屋でした。<しびれ薬でも飲まされたように体がだるい、左右は畑、道の右側に貯水池から流れる溝がある、「いやあ、優ちゃんやないの」声がして、見ると、悠二と同年の四女真紀子と、園子が一本の日傘に身を寄せ合い、声をかけたのは妹の方だった。>野坂が姉妹に出会ったのは、満池谷の親戚の家の少し手前。山本二三の絵に描かれている場所です。ニテコ池からの水が流れる道の右側の小川は、現在は上の写真のように側溝になっています。 野坂が満池谷の親戚の家に疎開していた当時は、四女は学徒動員で寄宿していたため、ほとんど家にはいませんでした。姉妹の後ろにいた二十五、六の男は、真紀子のフィアンセでした。<「真紀ちゃんのフィアンセの人で、川崎製鉄所にお勤めしてはんねん」強くもない陽射しを、園子、日傘にさけてつぶやいた、悠二はただぼんやりして、まさか会えるとは思わなかったのだ。>『火垂るの墓』で意地悪く描かれていた親戚の家の母親は、癌の手術をして、市民病院に入院中でした。<「ほな、園子さんいかんならんちゃうの」「それは大丈夫、悠ちゃん、三年ぶり以上なるね、えらい男らしくなって、学校どこ?」「新潟の高校やけど」「ナンバースクール?」「いや、ちゃいます」本来なら、第九高校と言いたかったが、ひかえる、闇討ちの突然の酔いは去っていた、「前途洋々やないの」「いや、そんなことないけど」園子の結婚については言い出せぬ。>ようやく憧れの神戸女学院出身の三女に会えた野坂ですが、彼女は神戸女学院卒業後すぐに結婚していました。実在した三女の郷子さんは、本当に美しい方だったそうで、野坂は彼女の葬儀にも出席したそうですから、戦後も連絡を取り合っていたのでしょう。
↧
須賀敦子さんが遠藤周作の作品に言及されていました
須賀敦子さんが小林聖心女子学院に入学された頃、遠藤周作は同じ夙川に住み、灘中学に通い、母郁さんは小林聖心で音楽教師をされていました。お二人ともフランスへの国費留学を経験し、同じカトリック信者でありながら、著書では、不思議なことに、お互いについてまったく言及されていません。 ひょっとすると宗教観の違いにより、仲が悪かったのかと想像したこともありますが、須賀さんがイタリアから帰国されてから、しばしば遠藤周作の自宅を訪ねて歓談されていたことを、須賀さんのご親族からお聞きし安心しておりました。 先日、季刊誌『考える人』2009年冬号の特集「書かれなかった須賀敦子の本」を再読していますと、新潮社の鈴木力氏が「アルザスの曲がりくねった道」の原稿のやりとりで、須賀さんが残された言葉として、次のように遠藤周作の『白い人』に言及されていたことを紹介されていました。<またこんなことも、はっきりとした言い方でおっしゃったことがありました ー遠藤周作さんが「白い人」で書いた世界の、その後を私は書かねばならないー。個として対していくだけではすまない宗教の世界を、そして簡単に超えることはできない「白い人」の世界というものの重さ、大きさを誰よりもよく知っていた須賀さんが、自分自身に向けて発した言葉だったのだと思います。> ヨーロッパ人そのものの思考をされていた須賀さんと、日本人としての悩みを持つ遠藤周作の宗教観は全く違っていたのではないでしょうか。例えば、鈴木力氏は次のような須賀さんのお話を紹介されています。<カトリックの儀式をめぐっての話に印象的な反応がありました。ひとつは、ある日本人が受洗しようかどうかと迷っていたときに、受洗をすすめる日本人の神父が、神棚と十字架を一緒にお祀りしてもいいんですよ、と言ったという話を聞いたことがあって、それを須賀さんにお話ししたら、「だから日本はだめなのよ」とはっきり言われたこと。>このお話を読んで、『沈黙』の遠藤周作ならどんな反応を示しただろうかと、考えてしまいました。遠藤周作の『白い人』は、第二次大戦、ドイツ占領下のリヨンを舞台とした短編小説で、ビューリタニズムの薫陶を受けた少年が、残虐行為の味を覚え無神論者へと転向、フランス人でありながらナチの通訳となり拷問の場に同席するようになります。そこへ旧友のカトリック神学生が連行され、主人公は旧友を鞭打ちながら、己の醜態に酔いしれ、信仰心への嫉妬と憧憬を掻き立てていくという、難解な物語です。もし須賀さんが生きておられたら、どのような「白い人」のその後を書かれたのだろうかと、未信徒の私でも興味がつきません。
↧
昭和23年、親戚の三女と出会った野坂昭如はあの急な階段を上ります
満池谷の家の近くで、あこがれのI家の三女に出会った野坂は昭和20年7月に、ここで三女と過ごした日々を思い出します。自伝的小説『行き暮れて雪』では園子という名になっています。<三年前の夏、上空を米艦載機が、わがもの顔にとびまわり、気まぐれな機銃掃射行う中を、二人で、いやどちらかが、妹を背負って、夙川のほとりを歩いた。長女は結婚して上海に住む、次女、四女は軍需工場に勤め、また動員され、園子だけが病気をいい立てて家にいた。甲山、淡路島の方角、大阪湾の、それぞれ上空にキラキラ光る点が乱舞し、そのいくつかが、日本の戦闘機とはまるでちがう獰猛な機体を、たいていは傾かせつつ、殺到してくる。>現在はこの平和な夙川公園の上を、戦時中はグラマンが飛び交っていたのです。 野坂は、わずか1歳の妹をおぶって、三女と戦時下の夙川をしばしば香櫨園の浜まで歩いたのです。<「私、結婚したんよ」「はぁ、あの去年、ききました」「男の人うらやましいわ」悠二、だまっていた、「自分で、生きていけるもん」園子の父は、昭和十年に亡くなっている、その遺産で、母と娘四人が暮らしてきたわけで、インフレを考えれば、早く嫁がねばならない事情の推察もつく。> 三女は神戸女学院を卒業して、すぐに羽振りのいい闇屋と結婚していました。<園子、左を示して、「こっちいこ」そちらは急な階段で、堤防からの道に通じる、「家に主人いてるねん、会う?会うてもしょうがないでしょ」つぶやきつつ、先に昇った。>この急な階段を昇ったのです。<上に立つと、谷あいすべてを見渡せる、七軒の家並みが三列、農婦が畑にしゃがみこみ、大八車に材木を積んで、老人がひく、「今、どこに住んではるんですか」「甲子園、高汐町、球場のすぐそば」何か訊いてくれれば、自分の転変ぶりをしゃべれるのだが、園子だまって、谷あいのながめに見入る。>急な階段からの上からの眺めです。この筋に親戚の家はありました。三女が住んでいると言った甲子園高潮町は汐の字が違いますが、実在する住所なので、本当だったのかもしれません。
↧
野坂昭如の満池谷疎開生活の記憶
野坂昭如の自伝的小説『行き暮れて雪』では、昭和23年に新潟から家出して満池谷を訪れた野坂(悠二)は親戚の三女郷子(小説では園子)と出会いますが、そこで戦時中の思い出が述べられています。<三年前、数え年十六と十八、はじめ年上を意識したものの、それはすぐ薄れて、なんといっても戦時中、男手は頼りにされた。断水がしばしばで、ベアリング会社社長宅の井戸まで水汲み、裏山で薪拾い、壕の整備、>野坂が郷子(園子)さんと水汲みに行ったベアリング会社社長宅は、西側の階段を昇った少し先にありました。 野坂は回生病院に入院していた義母を見舞いに行き、香櫨園浜で一歳の妹を海水につけてやったり、一升瓶に塩水を汲んだりしていました。<塩を補うため、一升瓶二本かかえ、浜へ汐汲みにも出かけた、さらに野荒しの獲物を園子に捧げ、銀行から下した金で、映画に誘い、喫茶店「パヴォーニ」の、寒天をおごった、けっこう悠二の方が引きまわす感じだった。>園子と行った映画館とは敷島劇場だったのでしょうか。喫茶店「パヴォーニ」は戦時中も一日も休まず開いていました。<谷あいと、高台の一帯は無傷のままで、しかし家族すべて疎開した家が多く、日中出歩いても、まず人に会わない、園子は常にブラウス、スカート姿、焼跡ならともかく、本土決戦に備える大和撫子として、いささか不謹慎に思えたが、いっさい気にしない。>この思い出が、高畑勲監督のアニメ『火垂るの墓』に出てくる若い女性のスカート姿につながったのではないでしょうか。
↧
↧
谷崎潤一郎が住む夙川の根津家別荘別棟に「武秀公秘話」原稿依頼訪問
谷崎潤一郎が根津清太郎夫人松子(23歳)と知り合ったのは大正15年のことですが、昭和5年の佐藤春夫への「妻譲渡事件」までの夫人は千代でした。 その後、昭和6年1月には吉川丁末子と婚約し、4月に丁末子と結婚式を挙げています。 9月には高野山龍泉院から根津家の善根寺、稲荷山の別荘に移りますが、11月からは兵庫県武庫郡大社村森具字北蓮毛847根津別荘別棟に滞在していました。 夙川の大師踏切で渡辺温が亡くなった後、「新青年」の編集を引継いだ乾信一郎が昭和6年に『武秀公秘話』の原稿をもらいに行ったのは、谷崎が丁未子夫人と住む夙川の根津別荘別邸でした。 乾信一郎『新青年の頃』からです。<谷崎さんのお宅は、阪急電車の夙川駅から近い所だった。迷わず、すぐそれとわかった。平屋建てのあまり大きくはない構えの立派な家だった。その母屋の手前、ちょっと離れた前庭の中に、小さな洋風の建物があったから、その入口の呼鈴を押した。> 吉田初三郎の昭和11年西宮市鳥瞰図に、根津別荘(赤矢印)と『細雪』の舞台にも登場する三階建て洋館アパート「甲南荘」(緑矢印)が描き込まれていました。 この頃、根津家は窮迫して大阪靭の本邸を売り払ったため、根津夫婦、祖母コノ、重子と信子が住んでいました。市居義彬著『谷崎潤一郎の阪神時代』に夙川の根津別荘の間取り図が記されていました。 乾信一郎の記憶違いと思いますが、母屋も別棟も平屋ではなく二階建てでした。<しばらくして、その離れみたいな小さな建物からではなく、その後ろの母屋の方から、きれいな和服の若い美しい女の人が出てきたのが意外だったが、とにかく名刺を出して、来意を告げると、こちらでちょっとお待ち下さい、といって洋風の小さな建物の中へ私たちを案内してくれた。> さて母屋の方から出て来て乾氏を迎えたのは、本当に丁未子夫人だったのでしょうか?ひょっとして、その頃既に谷崎と情を通じていた松子さんだったのではないでしょうか。<当時、新聞などで騒がれた事件だが、谷崎さんは奥さんと親友の佐藤春夫さんに譲って、ご自身は「文藝春秋」の記者だった、若い美しい人と暮らしているという、その人が先ほど取次に出てきた人だとはすぐに見当がついた。後年戦時中に、軍部当局から、時局に反する小説という理由で連載を遠慮させられた、谷崎さんの「細雪」の中の三姉妹の一人を思わせるような、きれいな人だった。>「細雪の中の三姉妹の一人を思わせるような」と書かれると、ついつい松子さんを想像してしまいます。 根津別荘別邸で書かれた『武州公秘話』では、武州公夫人に松雪院の名を与えており、当時母屋に住む根津夫人の松子さんを思い起こさせますが、武州公の異常さについて行けなくなる姿は、まるで丁未子夫人のようで、谷崎の心の中で絡み合う松子さんと丁未子夫人の姿がこの猟奇的小説を書かせたように思われてきます。
↧
「ニュースで英会話」に「沈黙」のマーク・スコセッシ監督登場
NHK教育テレビの「ニュースで英会話」のインタビューに映画『沈黙』のマーク。スコセッシ監督が登場していました。 どのようにして、アメリカ人の監督が日本の文化を詳細に理解できたかという質問に対し、何年もかけて、その時代のサイレント映画を見たり、ドナルドキーンや漱石、太宰、谷崎などの作品を読んで日本の文化に没頭したと話されていました。さすがスコセッシ監督です。映画『沈黙』で、遠藤の描こうとした日本人の心を理解し、忠実に原作を映像化できた理由がわかりました。 ところで私が「ニュースで英会話」を見始めたのは、数年前、鳥飼玖美子先生が出演されているのを見たことがきっかけでした。 鳥飼玖美子さんが華々しく登場したのは、もう五十年近く前のアポロ11号月面着陸の頃。 私の世代の人しかご存知ないと思いますが、「サユリスト」の向こうを張って「クミコスト」というファンができたくらいの人気でした。 高校時代、先生の反対にもめげず、あこがれのアメリカに留学。大学生で同時通訳者になり、アポロ中継などで活躍され、英語教育・通訳界で幅広い活動を続けられてきた方。アメリカが憧れだったのは我が世代だけでしょうか。 私より年齢は五歳くらい上のはずですが、今も若々しく立派にご活躍の姿を久しぶりに拝見して、五十年ぶりの同窓会であこがれの人にお会いしたような気分になりました。
↧
香櫨園浜海水浴場が初めて文学作品に登場したのは?
夙川を舞台にした文学作品をまとめているところで、やはり河口の香櫨園浜を外すわけに行きません。香櫨園浜に海水浴場ができたのは明治40年のことですが、初めて香櫨園の浜を登場させた小説は何だろうと調べていました。 香櫨園の松原として初めて小説に登場したのは、プロレタリア文学、細井和喜蔵の『奴隷』のようです。細井和喜蔵は1925年に亡くなっていますから、大正末期のお話です。 舞台は、西宮砲台の北側にあった内外綿紡績工場。<株主を同じゅうする浪華紡績西ノ宮工場は有馬山脈口を背景に兜山を背負って香櫨園の松原続きに在って、二百五十尺の円型五煉瓦煙突と百二十尺のタンクと塵突が辺りに一本の煙突も無い透徹した青空に向かって魔のように聳え、白砂青松の自然美を征服した王者の如く泰然と構えている。そして八万錘の紡績と一千台の織機が昼夜囂然と轟き、タンクの脇の塵突から間断なく綿粕の塵埃を強烈な風車で送り揚げて四方へ吹き飛ばすので、浜の老松はすっかり葉を鎖されて了い汚れた灰色の雪が積もったように見える。そうしてそのために枯死した木さえ数みられた。> 浜の老松を灰色の塵埃で覆ったという記述があり、当時の香櫨園浜はどんなになっていたのでしょう。 次に、香櫨園の海水浴場としての賑わいが初めて描かれたのは、昭和3年3月から「改造」に連載された谷崎潤一郎の『卍』のようです。『卍』は香櫨園在住の柿内園子と、芦屋に住む船場の羅紗問屋のお嬢様、徳光光子との同性愛を中心に、彼女たちの回りにいた二人の男との関係を描いた作品です。『卍』の、園子が光子を自宅に招いた場面からです。<宅は海岸の波打ち際にありますのんで、二階はたいへん見晴らしがええのんです。東の方と、南の方と、両方がガラス窓になってまして、それはとても明うて朝やらおそうまでは寝てられしません。お天気のええ日イは松原の向こうに、海越えて遠く紀州あたりの山や、金剛山などが見えます。 はぁ?―はぁ、海水浴も出来るのんです。あそこらの辺の海はちょっと行きますと、じきにどかんと深うなってますので、あぶないのんですけど、香櫨園だけは海水浴場出来まして、夏はほんまに賑やかのんです。ちょうどその時分は五月のなかば頃でしたから、「早う夏になったらええのんになあ、毎日でも泳ぎに来るのに」と、部屋の中見廻しながら、「うちも結婚したら、こんな寝室持ちたいわ」などと云うたりしました。> 園子の家は外壁が白壁の洋館。昭和11年の吉田初三郎の西宮市鳥瞰図にモデルになった家があるのではないかと探してみなしたが、残念ながら見つけることはできませんでした。 戦前の文学作品に、もう一つ香櫨園の海岸が登場する小説がありました。織田作之助が昭和15年に書き、戦後の昭和21年に発表された『六白金星』です。<中学校へはいつた年の夏、兄の修一がなに思つたのか楢雄を家の近くの香櫨園の海岸へ連れ出して、お前ももう中学生だから教へてやるがと、ジロリと楢雄の顔を覗き込みながら、いきなり、「俺たちは妾めかけの子やぞ。」と、言つた。ふと声がかすれ、しかしそのためかへつて凄んで聴えた筈だがと、修一は思つたが、楢雄はぼそんとして、「妾て何やねん?」 効果をねらつて、わざと黄昏刻たそがれどきの海岸を選んだ修一は、すつかり拍子抜けしてしまつた。> 夙川河口近くに妾宅を設定し、主人公の楢雄が中学校に入った年に、香櫨園の海岸で兄から「俺たちは妾の子やぞ」と教えられるのです。 この時代の香櫨園には高級住宅地として、多くのお屋敷がありましたが、時代を反映して、その中には妾宅もあったのが事実のようです。
↧
香櫨園浜から無くなった海
野坂昭如が夙川河口の堤防から大海原を眺めていたのは昭和20年のこと。 その後賑わった海水浴場も海水汚染が進み、昭和40年に香櫨園海水浴場は甲子園海水浴場とともに閉鎖されました。更に西宮浜の埋立が昭和46年から行われ、平成元年に完工しています。私の少年時代は、夙川河口まで行けば大海原を見ることができましたが、今は閉ざされた入り江のようになってしましました。(矢印が現在の夙川河口)村上春樹は、『辺境・近境』の「神戸から歩く」で次のように述べています。<堤防を上がると、かってはすぐ目の前に海が広がっていた。なにも遮るものもなく。でも今は、そうそこには海はない。堤防の向こう側、かって香櫨園の海水浴場があったあたりは、まわりを埋め立てられて、こじんまりとした入り江(あるいは池)のようになっている。 そこでは一群のウィンドサーファーたちが風をつかまえようと努力している。そのすぐ西側に見えるかつての芦屋の浜には、高層アパートがモノリスの群れのようにのっぺりと建ち並んでいる。> まったく同じ印象が書かれているのが平中悠一の『八年ぶりのピクニック』です。(下の写真は白羽弥仁監督の映画『She's Rain』)<その間に挟まれた、海はもはや海と呼べるものではなくて、ほとんど大きな水溜り、といった方が適切だった。貨物船の浮かぶ海はその水溜りの外にあった。 あの日のこの浜が、僕の脳裏をちらりとかすめた。もっと海らしい海と、やさしい波。砂浜ではしゃいだ子供の僕ら。 ―でも、まあ、すてたもんじゃないさ> 私も西宮に戻って、夙川の河口に立った時、海が無くなったように感じました。 でも、平中悠一の言っているように、「まあ、すてたもっじゃないさ」と思うしかないでしょう。
↧
↧
須賀敦子さんの最後の旅はコルマール
昨年の夏、ストラスブールからコルマール、バーゼルへとアルザスを旅しましたが、そこは1996年9月に須賀敦子さんが最後に取材旅行された地でした。 須賀敦子さんの未定稿「アルザスの曲がりくねった道」は須賀さんがかつて出会ったフランス人修道女、オディールについて書かれています。<オディール修道女の故郷がアルザス地方の小さな村だと聞いたのは、わたしが友人たちと、車でアルザス地方を旅したことがあると彼女に話したときのことだった。> 日本に帰ろうと決めたすぐあと、ヨーロッパを見おさめておきたいと、ミラノから車でアルザスに行くのです。<そこからミュールズを抜けて、コルマールからワインの道をストラスブールまで一直線。そこまでいうと、オディールの目がぱっとかがやいて、わたしをさえぎった。あっ、コルマールに行ったの。いつもは控え目な彼女が叫ぶようにそういうと、まぶたを半分とじるようにして、つぶやいた。ああ、コルマール。なつかしい、コルマール。戦争の前は、あの辺りのぶどう畑がぜんぶ、わたしたちの家のものだったのよ。>1996年リトルベニスと呼ばれるコルマールの旧市街に立つ須賀さんの写真。 それから20年後の2016年の写真です。須賀さんはこの歩道に立っておられました。旧税関の前の広場のバルトルディの噴水の前に立つ須賀さん。20年後も変わりません。 コルマールは2004年に公開された宮崎駿監督の『ハウルの動く城』の制作にあたってロケハンされた美しい街でした。
↧
堀江珠喜さんの講演「華麗なる芦屋マダムの世界」
先日芦屋市立公民館で、堀江珠喜さんの「華麗なる芦屋マダム」と題した魅惑的な講演会が開催されました。堀江さんは夙川で生まれ、中学から大学院修士課程まで神戸女学院という華麗なるお嬢様で、現在は芦屋市在住という、芦屋マダムを語るに十分な資格をお持ちのかたでした。しかし、お嬢様らしからぬ、歯に衣着せぬ楽しいお話で、思わず引き込まれてしまった90分でした。 講演では、昭和のはじめに作られた「なのりそ会」という芦屋の名流夫人たちの社交クラブの紹介にはじまり、日本で初めてのファッション月刊雑誌『ファッション』が柴山燁子によって芦屋から刊行されたことや、そのファッションクラブの会員の面々のお話など、芦屋マダムの源流に遡って紹介いただきました。 講演内容は、堀江さんの著書『人妻の研究』の第3章「ファッション誌の花形夫人 -芦屋マダム」にも詳しく述べられていますので、ご参照ください。 そこには講演では触れられなかった面白いお話も書かれていましたので、少し引用させていただきます。 マスコミが作った芦屋のイメージとして『週刊朝日』(1988年6月17日号)の記事からです。<まるで一流ホテルのロビーで、ディナーショーの開演を待つ奥様、お嬢様のような雰囲気だ。その人たちが、みんなゆっくりと買い物カートを押している。ここは「日本で最もハイグレード」といわれているスーパーマーケットである。場所は、日本のビバリーヒルズ、兵庫県芦屋。一般のスーパーマーケットと変わらない趣なのは、この買い物カートだけだった。>このスーパマーケットとは白羽弥仁監督の映画『She’s Rain』にも登場したイカリスーパーに違いありません。そして堀江さんは次のように解説されます。<さて、芦屋マダム自身は、それほどオシャレをしている自覚はないと思うが、それでもこの女性記者を驚かすファッションだったのは、「使用人」ではないことを無意識のうちに示すためかもしれない。そもそも先代の芦屋マダムなら、このような買い物は、お手伝いさんか御用聞きまかせだったはずだ。しかし今はそうもゆかず、奥様みずから、夕飯の材料、もしくはおかずそのものを買いに行かねばならない時代になった。とはいえ、依然として使用人をおつかいに行かせる裕福な家だってある。というわけで、奥様方は、しかるべく身なりを整えて、スーパーマーケットに行き、他家のお手伝いさんとの差別化をはからなければならないのだ。> この章は雑誌『VERY』で2000年から使われた新語「アシヤレーヌ」のお話で終わりますが、清水博子著『カギ』にもアシヤレーヌ談義がありました。<1/11 「アシヤレーヌなんて言葉聞いたことがない」と姉が言うので、参考資料を持って池田山へ行きました。わたしたち姉妹はむかしアシヤレーヌの圏内に住んでいました。姉は今シロガネーゼの圏内に住んでいます。なのに姉はそういうことにちっとも興味がないみたいで残念です。シェルガーデンで買い物をしてきました。> 参考資料とは雑誌「VERY」。芦屋マダム談義はなかなか奥深いものがあります。
↧
佐藤愛子が甲南女学校時代に見た冬の香櫨園浜の風景
昭和のはじめの少女時代に鳴尾に住まれ、鳴尾小学校(赤矢印)、甲南女学校に通われた佐藤愛子さん。 もう93歳になられたそうで、『それでもこの世は悪くなかった』 (文春新書)とう新書が1月に出版されています。 彼女が甲南女学校3年の昭和12年の冬に、友人と阪神香櫨園駅から香櫨園の浜まで歩いた様子が、『愛子』に描かれていました。<それは冬休みが始まった日の、午後のことだった。わたしたち -わたしと山川よし子は、夙川に沿って歩いていた。夙川は水が涸れ、川底の石は白かった。山川よし子は学校の、きまりの紺のオーバーを着、紺の毛糸の手袋をしていた。わたしは制服の上に、レンガ色のセーターを着て、スカートのポケットに、手を入れて歩いていた。わたしの心は真面目で静かだった。真面目になると私は感傷的になる。わたしは十二月の、雪もよいの空を見上げながら、低い声で呟くようにいった。「海が鳴ってるね」>上の図は昭和11年の吉田初三郎による西宮市鳥瞰図ですが、佐藤愛子が歩いた昭和12年12月には既に夙川公園も竣工しており、遊歩道が整備されていました。海鳴りが聞こえるほど川口に近づいたようです。<川は海へつながるところへきても、白く涸れたままだった。波はいつも同じ、壊れたボートがひっくり返っているところまで、静かに流れ入ってきて、不思議なほど正確にそこで止まった。わたしたちは、涸れた川口にかかっている、たよりない渡し板を撓ませながら渡った。そして戸を閉した貸しボート屋の、戸袋のかげに倒れている絵看板の上に坐った。 山川よし子はわたしのために、そこにいつものように用意している風呂敷を敷いてくれた。わたしがしゃべっている間、彼女は黙っていた。それが癖の、軽く下唇を噛み、水平線の方を見ていた。>上の絵は大石輝一による昭和7年の夏の香櫨園浜の様子です。 次にこの浜辺から見える光景が描かれていました。<わたしたちの前には、いつもわたしたちが見慣れた、同じ光景があった。水平線の右よりに、雨雲のように低く淡路島が横たわっていた。海の色は暗く、砂浜は白茶けていた。そして更に遠く、海岸線の外れに見える製鉄工場の四本の大煙突から、今日も真直ぐに太い黒い煙が立ち上がっていた。わたしは黙ったまま、それらを見た。わたしたちが黙ると、急に思い出したように、海の底から重々しい力強い響きが甦ってくるようだった。>昔は夙川の川口まで来ると水平線と淡路島が見えたのです。海岸線の外れに見える製鉄所の四本煙突とは、小松益喜が描いている葺合に在った川崎製鉄の平炉工場の五本煙突のことでしょう。私の生まれる前の景色ですが、不思議に懐かしく感じます。昭和20年の夏、野坂昭如は夙川の川口で同じ水平線を眺めていたのです。
↧
野坂昭如と谷川流が描いた夙川公園でのデート
昭和23年、新潟県副知事の野坂家から家出してきた野坂昭如は、満池谷の親戚の三女郷子(『行き暮れて雪』では園子)と出会い夙川公園を歩きます。自伝的小説『行き暮れて雪』からです。<「この道、よう歩いたねぇ」遊歩道に出ていた、阪急のガードをくぐり抜け、川に面した古い木のベンチにすわり、園子、日傘をとじた。「林檎いただきましょうか」園子が包みを丁寧に開き、その指が、妙に荒れた感じで、古町の振袖さんの水仕事を想い出し、園子の暮し向き、そんなに裕福ではないんじゃないか。服装、バッグは決してみすぼらしくない、夫が羅紗を扱っているなら、これは金まわりいいはず、しかし、溌溂としたところがない。さっき、フジヤマの出来ごとを聞いて、いかにもおかしそうに笑い、笑われて悠二、救われたのだが、ややもすればだまりがち。高汐町の名前は知らないが、果たしてどんな住いなのか、甲子園へは何度も通ったけれど、周辺の家の記憶はまったくない。>現在も川べりには、木のベンチが所々に置かれています。園子は結婚して、満池谷から西宮の甲子園高潮町に移っていました。 恋慕する女性への心理をしっとりと描いている野坂昭如に対し、谷川流れが描く、高校生の主人公きょんと朝比奈みくるのデートシーンは明るく描かれています。 谷川流「涼宮ハルヒの憂鬱」からです。舞台は平成16年頃の夙川公園です。<俺たちは近くを流れている川の河川敷を意味もなく北上しながら歩いていた。一ヶ月前ならまだ花も残っていただろう桜並み木は、今はただしょぼくれた川縁でしかない。散策にうってつけの川沿いなので、家族連れやカップルとところどころですれ違う。> 女性の描き方の差は、文才だけではなく、小学校の4年から男女の教室が別になったという野坂昭如の世代と、男女共学、女性の社会進出があたりまえになった谷川流の世代の差を象徴するかのようです。
↧
↧
NHK朝ドラ「べっぴんさん」はどのように終えるのでしょう?
NHK朝ドラ、今回は脚本が不評のようですが、一体最後はどうなるのでしょう。 すみれの夫、紀夫のモデルとなった坂野通夫が亡くなったのは76歳、1992年のこと。有馬、六甲山を家族でドライブし小林一三が建てた六甲山ホテルでステーキを楽しんだあと、病院に帰り、2日後に昏睡状態となり、亡くなられたそうです。 家族葬は灘カトリック教会で、社葬は遠藤周作も受洗した夙川カトリック教会で行われました。 娘の坂野光子さんは小林聖心女子学院出身であり、カトリック信者であったことから、ご両親も晩年、洗礼を受けたそうです。このあたり、須賀敦子さんとご両親の受洗に似ています。 一方「べっぴんさん」では坂東さくらの入学した学校のロケは神戸女学院で行われたようです。 坂野惇子は2005年に亡くなりましたが、エイス社長岩佐栄輔のモデルとなった石津謙介も2005年に亡くなっています。「ベビーショップ・モトヤ」の南隣にあったのがレナウン・サービス・ステーション(佐々木営業部が開いた営業部門)で、石津謙介はスタッフを務めていました。石津は1951年に独立して「VAN」ブランドの石津商店を設立しています。そのレナウン・サービス・ステーションの跡地に建てられたのがファミリア1号店です。現在は神戸メディテラスとなっています。 坂野惇子、べっぴんさんの関連本は数多く出版され、そこには実在したレナウングループ、高島屋グループ、阪急東宝グループ、皇后陛下など華麗なる人脈が紹介されドラマ以上に興味深いものがありますが、ドラマではそれらのエピソードを土台にした感動的なお話が創れていないのが残念です。
↧
西宮が舞台となったアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』がNHK-BSで再放送
谷川流原作の人気アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」が、NHK・BSプレミアムで4月から放送されることがTwitterで話題になっていました。「涼宮ハルヒの憂鬱」は、西宮北高出身の谷川流のライトノベルが原作で、宇宙人や未来人、超能力者、超常現象が大好きな女子高生・涼宮ハルヒと平凡な男子高生のキョンの物語。NHK・BSプレミアムで4月7日から毎週金曜午後11時45分、2006年、09年に2期にわたって放送された全28話が放送されるそうです。『涼宮ハルヒの憂鬱』は日本政府観光局発行の「JAPAN ANIME MAP」でも紹介されており、The Melancholy of Haruhi Suzumiyaと翻訳され、世界に発信されています。The Melancholy of Haruhi Suzumiya is a manga and anime adaptation of a “light novel” (an easy-to-read style of Japanese novel primarily targeting young adults, often with anime-style illustration). It enjoys great popularity in Japan and many other countries. The story is set around Nishinomiya City, Hyogo Prefecture. Many fans at home and abroad are visiting the city, especially after the summer of 2006 when the anime was aired. The cosplayers (costume players) of The Melancholy of Haruhi Suzumiya characters have become a very familiar scene of Nishinomiya City.Pilgrimage to Scared Places(聖地巡礼)の兵庫県のページを見ると、アニメのシーンが地図付きで紹介されています。西宮北口駅前広場The SOS Brigade’s meeting point is located at around Hankyu Nishinomiya Kita-guchi Station (Kobe Main Line, Imazu Line).阪急甲陽園駅In the story, Koyoen Station was written “光陽園駅” whereas the actual one is 甲陽園駅. 西宮北高The characters are “Kita High School” (Kita-Kou) students and the high school in real life is Hyogo Prefectural Nishinomiya Kita High School.夙川公園Shukugawa Park (Shukugawa-koen) is located at near Shukugawa Station (Koyo Line, Kobe Main Line) next to Kurakuen-guchi Station. Many spots appeared in the anime such as a row of cherry trees and the stream are found everywhere in this park.西宮中央図書館The appearance and the inside of the library in the anime looks exactly like those of the Nishinomiya Central City Library which is about a 7-minute walk south of Shukugawa Station.甲山森林公園The outdoor stage in Kabutoyama Forest Park (Kabutoyama Shinrin-koen) where Yuki Nagato and Mikuru Asahina, two SOS Brigade members, battled for the first time is well-known among the fans. 尼崎中央商店街The featured shopping street where SOS Brigade members shot their amateur movie was modeled after Amagasaki Chuo Shopping Street and Sanwa Hondori Shopping Street at the north side of Hanshin Amagasaki Station (Hanshin Main Line, Hanshin Namba Line) in Amagasaki City,阪神百貨店There are also several settings for the story near the Umeda Head Store of Hanshin Department Store in front of Umeda Station (Hanshin Main Line, Hankyu Kobe Main Line, Hankyu Kyoto Main Line etc.) in central Osaka. The “closed space” with buildings lined up was modeled after this area. The “阪神電車” (Hanshin Electric Railway) sign at Umeda Station was changed to “東阪電車” (Tohan Electric Railway) in the anime.などアニメに登場する舞台が詳しく紹介されていました。
↧
昭和23年新潟から家出して五泊目、香櫨園浜に向かった野坂昭如
昭和23年、新潟県副知事の野坂相如邸から家出して五泊目、満池谷にやってきた野坂昭如は、親戚の三女と出会い、翌日阪急六甲駅前で午後一時に、もう一度会う約束をして別れると、香櫨園の浜に向かいます。自伝的小説『行き暮れて雪』からです。<園子と別れると、悠二は香櫨園の浜へ向かった。足が地につかない感じで、うろ覚えのシャンソン「巴里祭」や「巴里の屋根の下」など、判らない部分は出たらめに口ずさみ、やがて海べりに建つ回生病院の、尖った屋根を眼にして走り出した。>戦事中、一歳の妹をおぶって、親戚の三女とよく歩いた道です。<浜へ出ると、向こうに、紀州の山並みが浮かぶ、~佐渡ヶ島山たそがれて、悠二は寮歌を歌った、誰もいない、かなり風は強かった。>香櫨園の浜に出ると、水平線と紀州の山並みが見えていました。懐かしい風景です。現在は、かろうじて残っていた回生病院の旧玄関の建物もなくなり、まったく異なる光景になりました。
↧