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Channel: 阪急沿線文学散歩
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良き昭和の匂いがする素敵な喫茶店「カーサ・ラ・パボーニ」

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 表題は「味の手帖」11月号に「ソムリエの呟き」として渋谷康弘氏が寄稿された記事からです。<やっと見つけた!その店を探し当て、心が躍った。大阪の北新地をしばらく歩き、ブルーの入り口の扉を開けそっと中に入った。店内のカウンター席に腰掛け、ハイボールを注文。ゆっくり店内を見回してみると、そこには良き昭和の匂いがした。ここに来た理由は、ある日、新聞のコラムを読み掲載されていた喫茶店「ルージュ・ラ・パボーニ」を知ったのがきっかけである。>このように始まるソムリエの呟き。 きっかけとなったコラムとは、以前にもご紹介しましたが、2016/3/23付日経新聞夕刊の「あすへの話題」の多摩美術大学学長・建畠晢氏による「一人で行く喫茶店」。http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11482055c.html<日に三回は喫茶店に通っているし、昔話をすれば、阪神間の夙川に、地上に存在していることが奇跡ともいうべき美しい喫茶店があって、そこに行くだけのために東京から新幹線で日帰りしていたくらいなのである。> その記事からあれこれ調べて、移転先を知り訪ねられたとのこと。ダンディな渋谷氏がブルーの入り口の扉を開けて入って来られた時、偶然私も店におり、お話を伺うことができました。 その時、ワイン・イン・スタイル(株)社長となられるまでの華麗なる経歴もお聞きしたのですが、彼の人生そのものが物語になりそうです。 そう思って検索すると、著作も多くあり、『料理の仕事がしたい』 (岩波ジュニア新書)では、レストラン経営されていた時のお話でしょうか、「東京で一番のレストランを作りたい 」 というエッセイを書かれています。  2001年には、「今、人気上昇中の若手ソムリエが描く、食卓に集う人々の人生とワインをめぐるハートウォーミングな掌編小説集」として『男と女のワインの15の物語』が小学館より出版されていました。ダンディでお話も上手な渋谷氏でしたが、文筆家だとは存じ上げませんでした。これから読ませていただきます。

小川洋子『ミーナの行進』の成人したミーナのモデルとなった栗田明子さん

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小川洋子『ミーナの行進』の主人公ミーナが成人してからのモデルは実在していました。 著作権輸出センターの創業者で、相談役となられて現在は芦屋に戻られている栗田明子さんです。『ミーナの行進』では次のように描かれています。<次の年の夏、ローザおばあさんが静かに米田さんの後を追って旅立つと、ミーナは中学の卒業式を待たずにヨーロッパへ渡り、スイスの寄宿学校へ進学した。その後、フランクフルト大学で文学を学び、貿易会社で大使館に勤務したあと、三十五歳でケルンに出版エージェンシー会社を設立した。ヨーロッパと日本の文学作品の翻訳出版を、仲立ちする会社だった。> 栗田さんは甲南女子高校を卒業後、伊藤忠商事に就職。1981年には日本の出版物を海外に広めるべく自ら著作権代理店栗田板東事務所を設立し、ドイツ・ケルンを本拠に欧米出版社に日本の図書を紹介する事業を展開されるのです。 ケルンのミーナから朋子への手紙です。<朋子様 ケルンは一年中で一番美しい季節を迎えています。そちら、岡山はいかがですか。叔母様もお変わりなくお元気でしょうか。おかげさまで私は、なかなか儲かれへんわ、と愚痴をこぼしながら楽しく仕事に励んでおります。翻訳出版のエージェントなんて、誰が褒めてくれるわけでもない地味な仕事ですが、それでもたまには、ささやかな、かけがえのない喜びをもたらしてくれます。今日、町の本屋さんで、私の手がけた絵本を買っている女の子に出会いました。大事そうに本を抱え、お母さんと手をつないで家へ帰っていくその子の後姿をずっと見えなくなるまで見送りました。> 栗田さんは実際に、1975年のボローニャ国際児童図書展に初参加して以来、ブームとなりつつあった児童書、特に絵本の日本語版権利の交渉にあたっておられたのです。「なかなか儲からへんわ。」というお話も事実だったようですが、日本著作権輸出センターを創業後、ヨースタイン・ゴルデル著『ソフィーの世界』の日本での出版を手掛け、黒字化に成功されたようです。 栗田明子さんは『海の向こうに本を届ける』で、『ソフィーの世界』について次のように述べられています。<やがて、ソフトカバーでも出版され、二〇〇万部に近いという、信じられないような部数が、九歳から九十六歳までの読者に売れました。JFCにとっては、「天からの贈りもの」でした。そして、発足時には恐らく期待されていなかった株主たちに、はじめて配当を出すことができました。その黒字の由って来るものが、本当の会社の設立のも目的である「著作権輸出」によるものではなかったことを、残念に思いました。> それにしても創業された会社が利益を上げるようになり、喜びもひとしおだったと思います。 もし『ミーナの行進』の続編を書くとすれば、その後世界を駆けまわって活躍したミーナは事業を成功させ、芦屋に戻ってくるというお話になるのでしょう。 先日、栗田明子さんにお会いする機会に恵まれ、お話を伺うことができました。栗田さんは、小川洋子さんの作品の海外出版企画を通じてお知り合いになられ、小川洋子さんからミーナが成人してからのモデルを海外で活躍する栗田さんにさせていただきたいと言われたそうです。 次回は栗田さんのケルン時代に出会われた絵本『トミーが三歳になった日』についてご紹介したいと思います。

2017年のパボーニ・カレンダー

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 2017年のカーサ・ラ・のカレンダーができあがり、見せていただきました。http://www.sutv.zaq.ne.jp/pavoni/1月の絵は、村上征生さんの「バスストップの子供たち」。  雪が降る中、赤い校舎の前で、バスを待つ子供たち。冬の寒さを忘れる温かさが伝わってきます。  村上征生さんは『パスタの日記』など絵本も書かれています。  絵本と言えば、9月のひぐちともこさんも、『あの子』という絵本を書かれています。9月の絵の題は「来来世世(らいらいせせ)」。難解な題ですが、楽しい絵です。10月の絵は、安田泰幸さんの「大丸百貨店 大阪心斎橋店」。大阪大空襲にさらされながらも、焼け残っていたヴォーリズのビルです。現在リニューアル工事中ですが、いったいどのような姿に変貌するのでしょう。安田さんは、神戸の魅力を絵と文で余すことなく描いたという『神戸・街ものがたり』を著されていて、私の神戸の街歩きの参考図書となっています。 私のいちばんのお気に入りは3月の三木衛さんの「爛漫の夙川」。少しデフォルメされていますが、阪急甲陽線の夙川鉄橋の風景です。原画を譲ってもらうことにしました。 最後に、「大石輝一と三田アート・ガーデン」と題した拙文を掲載していただきました。大石輝一は、こんなアート・ガーデンを三田に創っていたのです。

栗田明子さんから教えていただいた絵本、『トミーが三歳になった日』

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 幼い坊やがお尻を丸だしのまま、トランクの上に乗っかって、小さな窓から外を眺めている表紙の絵本。ぼうやのいるところは自由のない収容所でした。 栗田さんが1981年、『ひろしまのピカ』を売り込みに、オランダのコック社を訪ねた時、逆に編集者から見せられ、すっかり魅せられてしまったという本です。 栗田さんの著書『海の向こうに本を届ける』では次のように紹介されています。<1944年の1月22日、トミーは3歳の誕生日を、チェコのテレジンシュタットという街の、ユダヤ人収容所で迎えることになりました。画家の父親は、何一つプレゼントをするものがないので、息子に、収容所の外の世界を描いて贈ってやろうと思いつきます。 まーるいお月さま、色とりどりの花畑、ひろーい海、南や北のにこにこ顔の子供たち、街から村へと走る汽車など、トミーの喜びそうな絵を、毎日少しずつ描きためました。>トミーの未来を気遣った父親の愛情がほのぼのと伝わってくる絵です。<やがて、秘密の絵本作りがドイツ兵にみつかり、トミーの父フリッタ氏はアウシュビッツのガス室に送られてしまいます。しかし、フリッタ氏は、友人の画家、レオ・ハース氏に、トミーのことととともに、壁に塗り込んだ数々の絵のことも託しました。> その数々の絵は、戦後養父の手で、アウシュビッツの壁のなかから取り出され、オランダの作家ミース・バウハウス女史によって絵本になったのです。 その後、栗田さんはマンハイムに住むトミーに会いに行かれたそうで、やさしそうなひげもじゃのおじさんになったトミーは図書館の司書になっていたとのことでした。 日本語版は『トミーが三歳になった日』(横山和子訳)としてほるぷ社より出版されており、西宮図書館で借りて読むことができました。絵本の裏表紙には次のように説明されていました。<収容所のたかい壁の外には、すばらしい世界があります。でも、おさないトミーは、そんなことを、まるで知りません。絵かきだったお父さんのペジュリフは、そこで、息子のために、この世のありとあらゆるものを、絵にかいてやろうと思います。収容所のなかの仕事場で、ドイツ兵の目をぬすんでえがきつづけた絵を、お父さんは、けっして見つからないようにと、壁のなかのひみつの場所に、かくしておきました。 やがて、お父さんは、アウシュビッツへ送られて、死んでしまいます。けれども、トミーのためのスケッチブックは、戦争をくぐりぬけて生きのこり、いっしょにくらしていたおじさんの手で、ぶじみつけだされました。>死を覚悟していた父親が、我が子の将来を思い、愛情をこめて描いた絵をひとつひとつ見ていると、胸が熱くなってしまいました。

平中悠一“Early Autumn”の舞台、レイコの家は芦屋?

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“Early Autumn”は1986年に河出書房新社より刊行された平中悠一の小説で、映画「シーズ・レイン」は“Early Autumn”と”She’s Rain”と『それでも君を好きになる』の3作品を原作にしているようです。「レイコと僕の、16歳のボーイ・ミーツ・ガール。ポップ、かつシックな『純文学』。初期の代表作!」という“Early Autumn”。<レイコは僕のガール・フレンドの中でも、いっとう素敵な女の子だ。とっても清楚なかんじで、脚だって長い、とても綺麗な顔立ちをしてて、鼻が低いからかな?表情は、なんだかすごく淡い。髪の色も、あわい。上唇はふっくらしてて女の子らしい。いにしえのバービーめいたスレンダーな体形で、なんだかいつもふあふあしてて。誰とでも、ぽん、とはじけて仲良くなれる、やたら明るいのりしてて ―要約すれば、とびきりチャーミングな女のコ、ってことになる。>映画でレイコを演じたのは小松千春です。 16歳ですから、二人ともまだ高校生という設定ですが、同じ高校に通う二人の学校がある場所は、関西学院のある上ヶ原を意識したのではないでしょうか。<僕たちの学校は、落ち着いた住宅街の中にあった。丘、という表現は必ずしも正しくはない。学校の裏手の土地は、そのまま緩やかに傾斜を続け、北側にある山とつながっていたからだ。いってみれば、大きな尾根みたいな形だ。僕たちの家はその山手にあった。丘の下にある駅から何駅か電車に乗り、そして坂道をのぼっていく。それが僕たちの帰り道だった。>それとも、阪急六甲駅の北側あたりを意識したのでしょうか。 僕とレイコの家は、二人とも芦屋川上流にあったようです。<電車から降り、橋をわたり、川沿いの道を僕たちは歩いていった。この辺では、川は、天井川になっていない。川底は、コンクリートで固められていた。水量は、かなり少ない。川というよりも、大きい、清潔な用水路のようだった。>阪急芦屋川駅を降りたところでは、芦屋川の川底がコンクリートで固められているのがよくわかります。芦屋川を用水路と表現したのは、平中悠一だけでしょう。 たしかに映画「シーズレイン」の冒頭では、マンションから出てきたレイコが道を下っていくシーンは芦屋川上流でした。

西宮文学案内「阪神間モダニズム 文学作品に見えるゴルフ場」

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11月20日に西宮文学案内「阪神間モダニズム 文学作品に見えるゴルフ場」が開催されました。講師は高木應光氏。 阪神間モダニズムと関西のゴルフ場発祥と文学作品を関連付けた貴重な講演でした、 芳賀徹編『小出楢重随筆集』、北尾鐐之助『阪神風景慢歩』による阪神間モダニズムの時代背景の紹介。 白洲次郎の軽井沢ゴルフ場での作家たちとの交際。 大岡昇平『酸素』、多島斗志之『黒百合』による日本初の六甲山のゴルフ場の紹介。ヴォーリズの設計したクラブハウスの紹介。 谷崎潤一郎『細雪』、『猫と庄造と二人の女』などから全国二番目のゴルフ場、横屋ゴルフ場とその変遷。 城山三郎『零からの栄光』から川西航空機、鳴尾ゴルフ倶楽部の変遷。須賀敦子『しげちゃんの昇天』、遠藤周作『仁川村のこと』から宝塚ゴルフ倶楽部。 そして最後は阪神間モダニズムの継承として、村上春樹『風の歌を聴け』から芦屋カンツリー倶楽部の紹介と、ほとんどすべてを網羅し、貴重な昔の写真とともに、興味深い解説でした。次回は12月10日。いよいよ、白羽弥人監督による、「映画で描いた阪神間の風景」です。

六甲山森林植物園へ紅葉狩りに

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 昨日は温かく好天に恵まれたので、紅葉狩りに六甲山をドライブして、森林植物園まで行って来ました。 昨年の秋に行ったときは、もうシーズンを過ぎていましたが、昨日はまだ見頃と言えるほどの美しい紅葉を楽しむことができました。駐車場のすぐそばにあるメタセコイア並木。夜はライトアップして、金色に輝くようです。管理事務所前の広場では、もうサンタとソリの展示の準備が始まっていました。長谷池に向かう途中も紅葉が見られます。園内で最も美しかった紅葉です。黄色に染まる木も。ドウダンツツジの紅葉も見事でした。今回は「国際親善の森・香りの森散策コース」を約1時間で回ってきましたが、充分紅葉を楽しむことができました。 ところで柳原白蓮、江木欣々とともに大正三美人と称された九条武子は『六甲山上の夏』で、明治・大正の六甲山上の風景を次のように述べています。<ゴルフリンクから遊びつかれた人たちが帰ってくる。大かた異国の人ばかりであった。ゴルフもこの頃は日本人の遊びの一つになったけれども、今から七八年も前のその頃は、ゴルフの楽しみも異国の人のほかは、ほんの一部の人の享有するところであったらしい。異国の人はあらゆる運動を生活の中に取入れて、明るい、豊かな生活を創造しようとする。残念であるけれども日本の人、ことに老いた婦人たちは、運動などは子供の世界のことのように思って、歩くことさえ大義がる。> もし現在の様子を九条武子が見たら何と言ったことでしょう。現代は、多くの老いた(?)婦人たちのハイカーが連れ添って、にぎやかに六甲山上を歩いています。明治時代の女性とは様変わりです。

平中悠一『ポケットの中のハピネス』舞台は夙川?それとも芦屋?

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平中悠一『ポケットの中のハピネス』は例によって、僕と素敵な彼女の物語。<窓から見える公園は、川に沿ってずっと海まで続いていた。この街で育った僕にとって、ここは思い出に満ちた場所だった。―そう、あれはまだローティーンだった頃。> さてこの川が、”Early Autumn”に登場する芦屋川か、「8年ぶりのピクニック」に登場する夙川かなかなか判別は難しいところです。「8年ぶりのピクニック」で登場する川は、河口の景色が次のように描写されており、夙川と分かりました。<「ここも変わったわね」 -うん、まあね。曖昧に僕は応えた。右手には、埋め立てられた海の上にそびえる、、巨大で不気味としかいいようのない高層アパートメントの群れが、大きく視野を遮っていた。そして左手は、浜っ側にヨット・ハーバーの設けられた大きな埋め立て地。>しかし、”Early Autumn”に登場する川は、<この辺では、川は、天井川になっていない。川底は、コンクリートで固められていた。水量は、かなり少ない。川というよりも、大きい、清潔な用水路のようだった。>と表現されており、芦屋川に違いありません。『ポケットの中のハピネス』に戻りましょう。<ある晴れた5月の日曜、彼女と僕はピクニックにでかけた。ピクニックといってもそれは、この川沿いの公園を、ずっと海まで下りようってだけのことだったけれど。ラタンの籠のついた、父の上等な自転車を、内緒でこっそり持ち出した僕は、緑の木漏れ陽の中を抜け、びゅんびゅん風をきり走っていった。5月の午前中の風は、嬉しくなるほど心地よかった。> びゅんびゅん風を切って自転車が走る光景は、やはり夙川オアシスロードではなく芦屋川沿いの道を思い描いてしまいます。(上の写真は映画『シーズ・レイン』より)<浜に着くと、彼女が持って来たバスケットを開けて、僕たちはお昼にした。海はいつもどおり凪いでいた。砂の上で遊び疲れた2人は、堤防の上に並んで座った。彼女が左で僕が右。彼女の話を聴いていると、ファミリアの服を着た彼女の髪が、とてもいい匂いなのに僕は気づいた。でもそのやさしい匂いは、確かめようとする度に潮の香りと溶け合って、ふっと逃げていってしまう。> しかし、これは1980年前後のお話。芦屋浜の埋立ては1969年に着工し、1975年に完成していますから、この場面はやはり香櫨園の浜になります。 平中悠一の、一連の小説を読んでいると、芦屋川と夙川の風景が混ぜこぜになって描かれているように思われてきました。これは白羽弥人監督の映画『シーズ・レイン』の撮影にも影響を及ぼしたのではないでしょうか。

修法ケ原の紅葉と外国人墓地(司馬遼太郎『街道をゆく』神戸散歩)

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六甲山森林植物園で紅葉狩りを終えて、三宮方面に向かって下りる途中、再度山公園に立ち寄りました。中学生の頃はよく遠足で三宮から登ってた懐かしい公園です。 ここの紅葉も素晴らしく、しばらく修法ケ原池のベンチに腰掛け、池に映る紅葉を眺めていました。 この少し奥に外国人墓地があるのですが、司馬遼太郎『街道をゆく』神戸散歩に、「西洋佳人の墓」と題して、このあたりのことが述べられています。<小さな池があって、修法ケ原池という。そのまわりは修法ケ原と呼ばれるが、ふつう再度山公園で通っていて、同名のバス停もある。沿道ことごことく樹林である。そのバス停から八〇〇メートルほど奥へ入ると、もう一つのバス停がある。外国人墓地前である。>修法ケ原池から沿道を歩いて、外国人墓地に向かいました。この道も素晴らしい紅葉が続きます。<墓地の道は、自動車道路から枝道になって入っていて、沿道の樹林は真夏でも涼しいにちがいない。やがて、ゆきどまりは黒い鉄柵になっている。> 神戸外国人墓地は事前に予約しないと中に入ることができませんが、門の左手にある、第一次世界大戦で戦死した阪神間在住のイギリス人・フランス人19名の慰霊のために建設された勇士の慰霊塔にまで登ると、約14ヘクタールという広大な敷地の外国人墓地全体を見晴らすことができます。  宗教別に区画された墓地には、日本人の生活・文化に影響を与えた著名人を含む世界61カ国約2600柱が埋葬されています。司馬遼太郎は事前申し込みをして、墓地の中を案内してもらいます。<そのあと、墓域をめぐってさまざまな碑の前に立った。関西学院の創始者の墓、日本で最初に靴をつくった人の墓、米国の初代長崎領事だった人の墓、日本の洋菓子の基礎を築いたモロゾフさんやフロインドリーブさんの墓、明治元年のいわゆる堺事件で死んだフランス水兵十一人の墓。いまでもフランス軍艦が神戸に入港するとかならずこの墓に詣でるという。>一度予約して墓マイラーをしてみたいと思います。最後に諏訪山公園にも立ち寄って、神戸港の景色も堪能して帰ってきました。

遠藤周作が仁川の秘密の場所で聞き入った法華閣の鐘の写真がありました

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 遠藤周作はエッセイ「仁川の村のこと」に、彼の散歩道の途中にある法華閣でよく遊んだことを述べています。<少年の頃、ぼくはこの径の一角にある法華閣という寺が大好きだった。寺は山の中にあってその山には谿川がだれも訪うものもなくかすかな音をたてているのである。今だから白状するが、その頃、ぼくはこの谿川に一人で毎日、しのびこんだものだった。夏草と名もしれぬ草花のおいしげる山と山との間に聞こえるのは川のせせらぎだけである。川の中に素足をひたすと、それは氷のように冷たい。そして小さな魚が岩や石の間を素早く走るのである。>法華閣の所在地は仁川うぐいす台3-20、航空写真で見るとその北側には宝塚ゴルフ場と小林聖心女子学院の校舎が見えます。 現在の法華閣は山の中にあるという印象はなく、周りは開発され住宅地の中となっていますが、驚いたことに、航空写真の住宅地とゴルフ場の間にわずかに残された林の中に、遠藤周作が一人しのびこんだ谿川が残されているのです。http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10761542c.html<夕暮れになると法華寺の鐘がなる。と、それを合図のように。むこうの丘・聖心女子学院の白い建物から夕の祈りの鐘がこれに応ずるのである。少年ながらも、ぼくはこの二つの異なった宗教、東洋の鐘と西欧の鐘のひびきの違いを、なにか不思議なもののように思いながら聞いたものだった。>阪神淡路大震災で昔の法華閣の建物は上の写真のようになっており、遠藤周作が谿川で聞いた、鐘は残っていません。 しかし、先日の西宮文学案内の高木應光氏のご講演にその写真が登場しましたので、送って頂きました。上の写真が、当時は山の中だった法華閣の入り口。そして、遠藤周作がアンジェラスの鐘と同時に聞いた、お寺の鐘です。 小林聖心の聖堂も建て替えられていますので、異なると思いますが、現在の写真を掲載しておきます。 この経験を、遠藤周作は小説『砂の城』で、秘密の場所として登場させています。<「ここが勝之さんの秘密の場所?」「もっと奥」渓流の中を二人で上に登りました。すみれの花が岩と岩との間に咲いて、山鶯はあちらとこちらとで交互に鳴きかわし、時々、風が吹くと樹々の新芽が銀色の葉裏をみせて光りました。「勝之さんは時々ここに来るんですか」「ああ、ここに来て半時間も一時間もじっと石に腰掛けていることがある」>遠藤周作はここで鐘の音を聞いて、思索に耽ったようです。

大手前大学特別講演会 坂田信弘氏「ゴルフが教えてくれたもの」に出席

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 大手前大学 さくら夙川キャンパスで開催された「第5回 行列のできる特別講演会」の最終回、坂田信弘氏「ゴルフが教えてくれたもの」に出席いたしました。 希望者数が多かったらしく、会場はメディアライブラリーCELL フォーラムから大教室に変更されていました。 大手前大学にゴルフ部が創部され、その総監督に坂田弘信氏が就任されていたとは知りませんでしたが、なんと全国ゴルフ対抗戦では、あの東北福祉大学を破って優勝するほどの実力になっているのです。 今年6月の第53回全国大学ゴルフ対抗戦および、第39回全国女子大学ゴルフ対抗戦では、昨年秋の全国大会優勝に続く全国連覇を成し遂げたとのこと。順位は1位 大手前 2位 近畿 3位 東北福祉 4位 早稲田 5位 中央学院でした。  これも坂田総監督の寄与が大きかったのでしょうが、どのような指導をされているのでしょう。 坂田氏の経歴をWikipediaで調べると、熊本県出身と聞いておりましたが、1966年 - 兵庫県立尼崎北高等学校卒業。1967年 - 京都大学文学部東洋史学科中退。1975年 - 28歳でプロテスト合格。となっており、関西にも馴染みのある方なのかもしれません。 講演では、あの朴訥な話しぶりで、古閑美保や笠りつ子を育てた坂田ジュニアゴルフ塾で塾生に教えてきたこと、礼儀など、ゴルフのテクニックよりむしろ精神論をユーモアを交えて語られ、感動ものでした。そのエピソードで、中心となったのは、本多弥麗さんのお話。 帰って調べると著書の「山あり、谷あり、ゴルフあり」でも紹介されているお話のようです。<北の大地が雪に覆われる季節となった。この時季になると、一人の塾生を思い出す。札幌のジュニア塾生だった本多弥麗である。……> 母一人子一人の家庭で、ゴルフの才能のない選手が苦労に、苦労を重ねプロゴルファーに成長する物語ですが、ネットで調べると、「大地の子みやり」というコミックが出版されていました。  次のように、内容紹介されており、姓は本田から鈴木に変わっています。<坂田塾一の落ちこぼれ少女の大逆転が始まる 坂田ジュニアゴルフジュク始まって以来、一番の落ちこぼれ塾生・鈴木みやり。身体能力がずば抜けているわけでもない。ゴルフセンスがあるわけでもない。みやりは、ただ球を打ち続けるしかなかった。風の日も。雨の日も。雪の日も。高熱があっても骨折をしても練習場に通い続けた。しかし、どれだけ努力をしても努力と結果の繋がらない子だった。それでも、みやりは目を輝かせ、笑顔を絶やさずに「ゴルフは私の宝です!!目標はプロゴルファーになることです!!」と大きな声で答えるのだ。一途さだけでは生きていけないゴルフの途に少女みやりは人生の総てを捧げる。> ハラハラ、ドキドキ、涙をこらえながら講演を聞いておりましたが、本田弥麗さんは最後にはプロゴルファーテストにぎりぎり合格。現在もプロゴルファーを続けていることが紹介され、後で調べるとオフィシャルブログがありました。http://ameblo.jp/miyari-honda/ 実際にはお兄様もおられて、「大地の子みやり」は相当盛られた話になっているのではと思いましたが、それでも感動ものでした。 もう少し調べていると、2010年のゴルフダイジェストに、「古閑、上田らトッププロを育てた坂田塾が閉塾に。塾長、語る。」という記事が掲載されていました。<古閑美保、上田桃子など、数多くのトッププロを輩出してきた坂田信弘プロ主宰の坂田塾(現在全5校)が神戸校を除き、6年後には閉鎖されることになった。>https://www.golfdigest.co.jp/digest/column/back9/2010/20100727e.asp本当なら残念なことです。

かんべむさしと平中悠一のキャンパスライフの較差は何だ

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かんべむさしが関西学院大学に入学したのは1966年、翌年には全学ストライキという大学紛争華やかなりし頃。そのキャンパスライフを題材にして、『上ヶ原爆笑大学』、『黙せし君よ』を書いており、世代の近い私にも、よく理解できるキャンパスライフです。    一方、平中悠一は1965年生まれですから、関学に入学したのは1983年頃でしょう。バブル世代の彼が描いたキャンパスライフは、かんべむさしとは打って変わって、プレッピーたちが集うキャンパスに様変わりしています。 平中悠一『ギンガム・チェック』からです。ある晴れたウィーク・デイ。2限目のキリスト教学をパスして、中央芝生へ。<カリヨンの音に誘われるように、クラス・メイトと連れだって、中央芝生に出ていくと、芝生に溢れる眩しい陽射しが、パスして、正解!って教えてくれる。><小手をかざして目をほそめ、向こうの方まで見わたすと、何組か、テニス・ラケットやフリスビーで、遊んでるコ達の姿が見える。Tシャツ脱いで、寝転んで、いちばん早く灼けるのは誰か競争しているボーイや、4,5人集まって座り込み、きゃっきゃっいってる女のコ。>今でもフリスビーをやってます。<パーム・ツリーの木蔭には、寄り添いじゃれあう恋人たち。みんな好き勝手やっている。そんな中に、僕らもまじって腰を下ろす。芝生を斜めに横切るためのぺイヴメントを歩いていく、女の子の品定めでもやりながら、Tシャツの袖を肩までめくる。ねえ5月は一年中でいちばん灼ける時期だって、君も知っているだろう?僕たちの学校は、こっちにしてはめずらしく、ワンレングスのコが少なくて。トラッドな、みんなの着こなしを眺めていると、なんだか別世界めいてくる。>パーム・ツリーと斜めに横切るペイヴメントです。。<空は広く、雲もなく、一面の青空を眺めていると、なんだか距離感も麻痺してく。のんびりと、どうしようもなくのんびりと、心地いい、初夏の風に包まれて、ゆっく手足をのばしてみると、なんだかとってもいい気持ち。心の底が、ほんのり、わくわく。今日も楽しく過ごせそう。>ああこんなに楽しそうなキャンパスライフ、おくりたかった!

ひぐちともこさんの絵本『4こうねんのぼく』

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 2017年のパボーニ・カレンダーの9月は絵本作家ひぐちともこさんの「来来世世」。バスタブは海を意味しているそうです。 彼女の執筆した絵本の一冊に『4こうねんのぼく』があります。今年の7月にNHK「てれび絵本」でも清水圭さんの語りで紹介された作品です。 小学校低学年の男の子とその弟、そしてお父さんの話で、「せんせいあのな、ぼく ちゃんとしゅくだいやったんやで」という書き出しで始まります。 星の観察が宿題に出されていたた主人公は、おとうさんの給料日の晩、家族で星を見に行きます。 その日、先生から星の光が届くまでに実は、何年も時間がかかるのだと教えてもらった男の子は、そこでタイムマシーンのような発想がわくのです。4光年離れた星に瞬間移動すれば、その星から地球を見ると4年前の地球が見えるというわけです。 最後まで読んでいくと、底抜けに明るく見えるこの家族は、実は数年前にお母さんを失っているのだということがわかり、つぎのフレーズを読んでいると胸が熱くなります。<ちきゅうの にっぽんの ぼくのいえをみたらな、そしたらな、きっとおかあちゃんがみえるな。おかあちゃんが、せんたくほしてるのが みえるんやな。おかあちゃんが、ごはんつくってるのが、みえるんやな> 作者のひぐちともこさんにお話を伺うことができました。この絵本は、ひぐちさんのお子さんが小学生の時、お母さんを亡くした友達がいて、どんな話をしてあげたらいいかと考えて書いた作品とのこと。そして、どうしても関西弁でしか伝えられなかったと、お話しされていました。それにしても、面白い着想です。父親が涙する絵本にランキングされているそうです。

須賀敦子さんが寄宿していた頃の聖心女子大学1号館の写真

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須賀敦子『遠い朝の本たち』に収められた「しげちゃんの昇天」からです。<卒業も間近なある日、しげちゃんが、新しい校舎の四階まで私に会いに来てくれた。私の個室のドアが半びらきで、私はそれによりかかっていて、目のまえに私よりちょっと背のひくいしげちゃんがいた。どうして、そんなに反抗ばかりするのかな、と彼女は言った。私もわからない、でも、なにもかもいやだ、そう答えると、しげちゃんは言った。でも、だいじょうぶよ。私はあなたを信頼してる。ちょっと、ふらふらしてて心配だけど、いずれはきっとうまくいくよ、なにもかも。彼女の真剣な表情と、あかるい彼女の声と、ちょっとキザなあの言葉を、一年後によその大学の大学院へ行ってからも、フランスに留学してからも、イタリアで結婚してからも、なんども思い出した。>須賀さんが寄宿されていたのは、聖心女子大学1号館。昭和23年のの貴重な写真が、TVで放映されていました。また1号館については、聖心女子大学のホームページにも詳しく述べられています。http://www.u-sacred-heart.ac.jp/about/campus-1.html「大学の記念碑的校舎、1号館。竹腰健造氏の設計で、1950(昭和25)年に竣工。当初は3階建て、延べ6,148m2でしたが、その後、北棟、4階部分の増築を経て、1952(昭和27)年に現在の形となった地上4階建ての校舎です。」 写真をよく見ると、確かにまだ3階建てのコの字型校舎となっており、まだ米軍払い下げのクォンセット・ハット(カマボコ型校舎)が残っています。現在のキャンパスマップと見比べると、クォンセット・ハットがあったのはマリアンホールのあたりでしょうか。「現在の1号館は、中央が中庭で「ロ」の字形に教室や研究室が配置されており、開学当時の面影をとどめている歴史ある建物ですが、完成当初は北棟がなく「コ」の字形の3階建てでした。また、当時は3階部分が寄宿になっていましたが、その後、寄宿生の人数が増え、4階部分を増築しました(中庭側から南棟をよく見ると、3階と4階の間の部分に継ぎ目があるのが分かります)。」図書館側から撮影した、1号館です。書かれているように、こちら側からも3階、4階の継ぎ目がわかります。 昭和25年の須賀敦子さん卒業の年、須賀さんはこの1号館の3階に寄宿されていたのです。

朝日新聞社会面「火垂るの墓」の大きな記事にビックリ!

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今朝の朝日新聞を開くと、社会面で一番大きく取り上げられていた「火垂るの墓 ここが原点」と題した今更ながらの記事にはビックリしました。 野坂昭如は1977年に「火垂の墓」発表後、自伝小説、エッセイとして1979年「行き暮れて雪」1980年「アドリブ自叙伝」1987年「かくやくたる逆光」1992年「わが桎梏の碑」1996年「ひとでなし」を次々発表しています。 いずれにも満池谷の疎開生活が述べられ、野坂の足跡、舞台をめぐることは比較的容易なのです。 したがって、今回掲載された内容は、野坂昭如ファンにとっては公知の事実ですが、やはり知らなかったことや、新聞記事ではわからないことがありました。 まず、野坂昭如が空襲のたびに逃げ込んだ横穴壕と、妹と移り住んだ横穴壕についてです。 2011/11/09 の西宮ブログで「横穴壕」と題して詳しく述べていますが、再録します。http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10754205c.html アドリブ自叙伝では<一度空襲を受けたら、とても防空戦士など気取ってはいられない。警報発令と同時に、安全度の高い横穴式防空壕に、恵子ひっかえてとびこみ、臆病者とそしられたが、あのゴーッとうなりをあげておちかかる恐ろしさには勝てない。>「ひとでなし」では<大地に宏壮な邸宅が並ぶ。高瀬家の西も東も崖であり、ここに横穴壕がいくつも穿たれていた。>と書かれています。 今回朝日新聞に掲載された東側の土壁の壕というのが、野坂が1歳半の妹を抱えて空襲のたびに飛び込んだ横穴壕でしょう。 さらに「ひとでなし」には<西側の崖に、神戸市の古い金庫メーカーの住まいがあり、コンクリートで固めた横穴壕を造り、そのまま家族は疎開、空いていた。ぼくと妹はここへ移り、律子が座布団、薄べりを持ってきてくれた。>とあり、満池谷町の西側の崖の横穴式防空壕が小説「火垂の墓」の舞台であったことが特定できました。昨年は以下の記事で、その場所の現在の航空写真を掲載いたしました。http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11249910c.html今回の朝日新聞の記事では、「神戸市の古い金庫メーカーの住まい」ではなく、「金属加工会社長宅」と書かれており、地元の方の言葉が正しいのかもしれません。次に、アニメ版「火垂るの墓」の横穴豪です。山本二三美術監督が描いた、このニテコ池の木枠で縁取られた二つの横穴。これは私が大社小学校に通っていたとき、ニテコ池の西側に実在していたのをはっきり覚えています。ただその二つの壕には近寄れなかったので、防空壕だったのか、何のためのものだったのかはわかりません。 今回の朝日新聞に山本二三監督のコメントが掲載されていますが、現地ロケハンの時に、この二つの横穴が実在したことについては述べられておらず、不思議でなりません。(アニメでは山本二三美術監督がニテコ池の東側の岸辺に決めましたと述べられていますが、実在した二つの横穴は西側の岸辺でした。)どなたか昭和30年代に、このあたりに住まれていた方で、ご記憶の方はおられないでしょうか。 次に、朝日新聞の写真説明で、「野坂昭如さんが体や食器を洗ったニテコ池の取水口付近」という説明。 このコメントはアニメを見て想像して書かれたのでしょうか。実際に野坂が暮らした横穴豪はニテコ池の中ではなかったので、ここで食器を洗うようなことはなかったのではないでしょうか。当時は水が断水した時は、近くのベアリング会社社長宅の井戸に水汲みに行っていたようです。またニテコ池には、田螺を撮りに行ったことが書かれています。小説「火垂の墓」にはニテコ池のたにしをつくだ煮にして妹と食べたと記され、「アドリブ自叙伝」では<食用蛙はとても獲れなかったが、立ち入り厳禁とある、低い柵を越え、水際に降りれば、小石のようにならぶ田螺はいくらも手づかみにでき、海からくんだ海水で茹でて、姉娘と舌鼓をうつ>「わが桎梏の碑」でも、疎開先遠い親戚の神戸女学院5年生の響子のために、<ぼくはタコ草を摘み、牛蛙すなわち食用蛙だから、つかまえられないかと、池をながめ、田螺を見つけた、小説の主人公は、四歳の妹のため、田螺を煮る。実際の妹、一年二ヶ月では、この固い巻貝の身は食べられない。すべて響子への捧げものだった。>と書かれています。 現在は池の周りは金網で囲われていて、中に入れませんが、昭和30年代には野坂が書いているように低い柵を乗り越えて水際まで下りることができ、釣り人がみられました。 最後に朝日新聞では、「野坂さん兄妹が身を寄せた親類宅が谷間に並んだ6軒のうち1軒だったことも分かった。」と書かれているのですが、その家の位置は『アドリブ自叙伝』に詳しく記されています。<池の堤防の、直ぐ下に七軒、三列の、多分貸家だったろうと思うが、周囲の、石垣積み上げた豪壮な邸宅とは、まったく趣のことなる住宅があった。そこから南は、阪急電車の線路まで、田畑が続いていて、もし戦争がなければ、膨張する西宮にのみこまれ、おそらく周辺は、サラリーマン向きの小住宅でうずめつくされたのだろう、奥深い堤防のそばに、まず建てられたところで、物資不足の時代にぶつかり、計画をとりやめにしたような、いかにもとってつけた感じで、ひっそりと二十一軒の、あたらしい家はならんでいた。昭和二十年六月、空襲で家を焼かれ、家族を失ったぼくは、とりあえずここに身を寄せた。 三列にならぶ家なみの、いちばん池に近い側、その西から三軒目に、ぼくはいたのだが、この一列が一番古くて、多分、建て直すためであろう、二軒が空き家になっている。ぼくの身を寄せていた家は、代が変って次女の一家が住むらしい、女主人は十六年前になくなった。>昭和36年ごろの地図です。図中の満池谷町と書かれている「満」の字のあたりにその家はありました。  さて実は明日、71年目の野坂昭如「火垂るの墓を」を訪ねて(2)という大阪民衆史研究会の例会があり、地元での説明会と現地フィールドワークが開催されるとお聞きし、出席する予定です。新たな情報がありましたら、またご報告いたします。

大急百貨店(阪急百貨店?)のCGがうまくできていました

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このところ、朝ドラ「べっぴんさん」では、すみれたちのキアリスと大急百貨店との話題になって、昭和20年代後半と思われる大急百貨店のCG映像がでるようになりました。 ドラマのモデルとなったファミリアが阪急百貨店に出店したいきさつについては、「大河歴史好きブログ」に詳しく説明されていました。http://rekishi.sseikatsu.net/fami-hankyu/ ファミリアが大阪・梅田の阪急百貨店うめだ本店に初の直営店をオープンしたのは昭和26年のこと。当時の阪急百貨店の写真が絵葉書として残っていました。これと大急百貨店のCG見比べると、うまく当時の様子が再現されていることがわかります。 その頃、梅田の阪急百貨店で出版記念サイン会をしていたのが幸田文さん。幸田文さんが抱いている猫の名は「阪急」なのですが、そのように名付けられた経緯が『幸田文どうぶつ帖』のあとがきに、孫で随筆家の青木奈緒さんが書かれています。<この猫は、猫好きの祖母を見こんで家の玄関前に置かれていた捨て猫だった。その日、大阪の阪急百貨店で出版記念サイン会を開くことになっていた祖母は、仕事に追われて飛行機で大阪へ飛ぶ予定になっていた。支度をして家を出ようとし、母が送りに出した玄関で、捨てられた仔猫と対面したのである。今のように空の旅があたりまえではなかった昭和32年のこと。祖母は仔猫を邪険に扱うことに気あたりがして、留守番に残った母にミルクをやるように頼んで出かけた。祖母は大阪から無事に帰り、猫はサイン会のあった場所にちなんで阪急という名で家族の一員となった。> その頃が、戦後日本の高度経済成長のはじまりで、貧富の格差は大きかったのかもしれませんが、夢を追える時代でした。ところで、キアリスはこれからどうなっていくのでしょう。

「『火垂るの墓』横穴豪を確定する -野坂昭如氏を偲んで」に参加して

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 12月3日に大阪民衆史研究会主催の「『火垂るの墓』横穴豪を確定する -野坂昭如氏を偲んで」に参加させていただきました。12月2日の朝日新聞記事の取材を受けられていたN氏と満池谷町自治会副会長のT氏による説明と現地フィールドワークです。 私は既に野坂昭如の著作をほとんど読んでおりますので、正直申し上げて、あまり期待せず参加したのですが、T氏の徹底した関係者へのヒアリングは驚くべきものでした。戦時中の満池谷町にあった防空壕の場所や野坂昭如が疎開した親戚の家の場所の特定のみならず、私の最大の関心事であった親戚の家の女主人とその家族まで特定され、証言を得られていたのです。 まず空襲で焼きだされて身を寄せた満池谷町の親戚の家の場所です。野坂自身が『アドリブ自叙伝』で次のように詳しく述べていまので、私もその位置はほぼ推定できていました。<池の堤防の、直ぐ下に七軒、三列の、多分貸家だったろうと思うが、周囲の、石垣積み上げた豪壮な邸宅とは、まったく趣のことなる住宅があった。そこから南は、阪急電車の線路まで、田畑が続いていて、もし戦争がなければ、膨張する西宮にのみこまれ、おそらく周辺は、サラリーマン向きの小住宅でうずめつくされたのだろう、奥深い堤防のそばに、まず建てられたところで、物資不足の時代にぶつかり、計画をとりやめにしたような、いかにもとってつけた感じで、ひっそりと二十一軒の、あたらしい家はならんでいた。昭和二十年六月、空襲で家を焼かれ、家族を失ったぼくは、とりあえずここに身を寄せた。 三列にならぶ家なみの、いちばん池に近い側、その西から三軒目に、ぼくはいたのだが、この一列が一番古くて、多分、建て直すためであろう、二軒が空き家になっている。ぼくの身を寄せていた家は、代が変って次女の一家が住むらしい、女主人は十六年前になくなった。> この親戚の家があった場所については、T氏らは徹底した調査により、地権者も明確にし、住所まで西宮市満池谷町6-4とピンポイントで明らかにされていました。今回の研究会でいただいた資料に記載されていた地図で、緑色に着色された場所です。 この場所は上の写真の左手の空き地になっている所で、T氏らはアニメ「火垂るの墓」の山本二三氏らの原画や関連する品々を集めて、「火垂るの墓」の記念館建設を画策されていると熱く語られていました。次回はT氏らが、当時満池谷町に住んでいた古老からの証言や、付近の住民からのヒアリングにより解明された横穴壕の位置について紹介いたします。

野坂昭如『火垂るの墓』の満池谷横穴壕のモデルはどこにあったのか?

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野坂昭如の直木賞受賞作『火垂るの墓』で横穴壕は次のように登場します。<白い骨は清太の妹、節子、八月二十二日西宮満池谷横穴防空壕の中で死に、死病の名は急性腸炎とされたが、実は四歳にして足腰立たぬまま、眠るようにみまかったので、兄と同じ栄養失調症による衰弱死。> これを原作とした高畑勲監督の不朽の名作アニメ『火垂るの墓』に描かれた横穴壕。私が大社小学校に通っていた昭和30年代に木枠の横穴が二つニテコ池のほとりにあったことをはっきり記憶しており、アニメ版ではそこをスケッチして使ったものと推定しています。 この存在について、先日大阪民衆史研究会12月例会「野坂昭如『火垂るの墓』横穴壕跡地を確定する」に参加し、満池谷町自治会副会長T氏に尋ねましたところ、T氏が満池谷町に移って来られた昭和46年頃、木枠が崩れかけていたものの、存在していたことを記憶されていました。しかし、私は西側のほとりだったと記憶しているのですが、T氏は東側と記憶されており、他の証人が出てくることを期待しております。 野坂昭如は『わが桎梏の碑』などで、小説の素材となった1歳数か月の義妹を連れて満池谷に逃れたときの経験を述べていますが、実際に逃げ込んだ横穴壕はニテコ池のほとりではありませんでした。 自伝的小説『ひとでなし』では、親戚の未亡人から回生病院に移るように言われた野坂は、神戸女学院の五年生だった親戚の律子と離ればなれになりたくなくて、一歳の妹を連れて、近くにあった横穴壕で暮したと述べています。<西側の崖に、神戸市の古い金庫メーカーの住まいがあり、コンクリートで固めた横穴壕を造り、そのまま家族は疎開、空いていた。ぼくと妹はここへ移り、律子が座布団、薄べりを持ってきてくれた。配給は高瀬家へとりに行く、野草まじりの雑炊を妹に食べさせ、主食代わりの酒黒松白鹿も空、後は畠の野菜を盗むしかない。よく外出する未亡人の留守、律子が兄の下着や靴を持ってきてくれた、戦争がどうなっているのかまったく判らない。>この壕がどこにあったのかについても、自治会副会長のT氏が、付近の住民に個別ヒアリングして明らかにされました。今回の研究会でいただいた資料に記載されていた地図で、西側のピンクに着色された場所です。 野坂が古い金庫メーカーと述べているのは、実は金物商として創業、発展した会社で、上の写真の場所にありました。大きな石垣の途切れた位置に横穴の防空壕があったそうです。私は、ニテコ筋の東側の斜面に横穴壕があったと推定していましたが、実際にはニテコ筋の西側の某会社社長宅の石垣のあった処に造られた防空壕でした。 又、この付近には横穴壕がいくつか掘られていました。『アドリブ自叙伝』では<一度空襲を受けたら、とても防空戦士など気取ってはいられない。警報発令と同時に、安全度の高い横穴式防空壕に、恵子ひっかえてとびこみ、臆病者とそしられたが、あのゴーッとうなりをあげておちかかる恐ろしさには勝てない。>と述べ、『ひとでなし』では<大地に宏壮な邸宅が並ぶ。高瀬家の西も東も崖であり、ここに横穴壕がいくつも穿たれていた。>と書かれています。T氏の調査結果では、古老からのヒアリング結果、研究会の地図の東側にピンクで着色されたところに二つの横穴壕が並んでおり、そこにいたとのことですが、実話ではないアニメのシーンと似たような話がありましたので、逃げ込んだことはあるのでしょうが、やはり私は西側の横穴壕説が有力と思います。次回はいよいよT氏が明らかにされた満池谷の親戚の一家のことについて紹介させていただきます。

『シズコズ・ドータ―』の著者キョウコ・モリは西宮に住んでいた

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 キョウコ・モリは、神戸女学院在学中に、嫌いな家族から逃れるために、二十歳で日本を離れイリノイ州の大学に入学します。その後、ほとんど帰国しなかったキョウコの目は、アメリカ人の感覚で日本を見るようになっていました。 日本を捨てたキョウコは、真実を率直に話さない日本人の、礼儀正しいとされる表現や慣習に違和感を覚え、それらを『悲しい嘘』と題したノンフィクションの12のストーリーで語ります。原著はもちろん英語で書かれ、“Polite Lies” On Being a Woman Caught Between Cultures『礼儀正しい嘘』(二つの文化のはざまで生きる女性として)という副題がついています。翻訳は、もはや日本語で表現できなくなったキョウコ・モリではなく、部谷真奈美さん。 キョウコが最も嫌った父親は当時神戸に本社を置いていた某鉄鋼メーカーのエンジニアでしたが、第二章家族には本名で登場し、次のように描かれています。<そして母が死ぬまでは、まるで母子家庭のように肩寄せ合って暮らしていた。週末や夏休みになってもっと大きな家族のところに仲間入りすることはあっても、毎日の生活のなかに父の影を見ることはほとんどなかった。父のヒロシはいつも私たちの起きだす前に仕事に出かけ、眠ったあとに帰ってきたから。出張で戻らない日もしょっちゅうだった。たしかに父くらいの年齢なら、こんな仕事ぶりも普通のことだったと思う。ただ彼の場合は、週末も家に寄りつかず、たいてい大学時代の友人とラグビーやゴルフをしに出かけてしまっていた。> 父親のヒロシ・モリ氏は京大ラグビー部でした。これはおそらく高度成長真っ只中の昭和45年頃のお話で、私もその二十年後には同じような生活をしていたことを考えると、我が娘たちはどのように映っていたのだろうと、今更ながら心配になってきます。 キョウコは生まれてからずっと芦屋育ちと思っていました。たとえば、従妹のカズミとの中華料理店での会話では、<芦屋で育った令嬢は、夕食の席で死とか病気についていつまでも話したりはしない。わたしたちは、死、病気、不幸といった縁起の悪い言葉は、どんな席でも口にするのを避けるよう教えられていた。>と述べています。 しかし、日米の住所表記の差について述べる中で、西宮に住んでいたという文章がありました。<日本の住所というのは、単純で理にかなっているように見えるけれど、実はそうでない。わたしは昔、西宮市松ヶ丘町十二丁目十七番地という住所にっ住んでいたことがある。これは、西宮という市にある、松ヶ丘と呼ばれる町の、十二番目の丁の、十七戸目に建っている家という意味だった。けれど、町内を走っている細くて曲がりくねった道々には名前がないせいで、どこからが十二丁目なのか人には説明できなかった。>西宮では丁はないですし、番地の呼び方は何度か変わっていますので、正しいかどうかわかりませんが、西宮市松ヶ丘町12-17を調べると、苦楽園口の生協のすぐ近くにありました。彼女はいったい何歳の頃、松ヶ丘町に住んでいたのでしょう。『悲しい嘘』では、<ふたつの文化をまたいで生きていくには、難しいことがたくさんある。なかでも、何か違うと感じることがあったときにそれをどう判断するかは一番難しい。「違っているけれど、それなりに意味のあるもの」は受け入れなくてはいけない。>と述べ、日米の異なる文化を生きるキョウコ・モリの苦しみが素直に書かれていますが、最後は「過去ばかり見つめていても問題は解決できない。」とアメリカでの暮らしの中で力強く生きていこうとします。日米の比較文化論的な面もある、読み応えのあるノンフィクションでした。

『火垂るの墓』疎開先の三女の葬儀に参列していた野坂昭如

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12月2日の朝日新聞に掲載された「火垂るの墓、原点の地 野坂昭如さん過ごした防空壕確認」で私が最も驚いたのは、野坂昭如が満池谷の疎開先の親戚の家の三女の葬儀に参列したという事実でした。アニメ映画『火垂るの墓』であれだけ悪しざまに描かれた女主人のいた親戚の家ですから、その後、あの一家は野坂昭如とは親交を断絶したのではないかと思っていました。 野坂昭如は1969年の『私の小説から』で、次のように三女とのロマンチックな物語があったことを述べています。<ぼくの小説火垂るの墓は、だから舞台をかりただけで、もし、ぼくのいつわりない満池谷を書くなら、少年と少女の、それなりにロマンチィックな色どり濃いものとなるだろう。しかし、ぼくには書けない。ぼくはせめて、小説火垂るの墓にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死にざまを、くやむ気持ちが強く、小説中の清太に、その思いを託したのだ。ぼくはあんなにやさしくはなかった。> ぼくには書けないと言っていながら、神戸女学院5年生の三女との交情を描いた、火垂るの墓ロマンチックバージョン「はやすぎた夏」を、既に前年の1968年に発表しています。 興味ある満池谷の親戚の人々のその後ですが、最近満池谷町自治会副会長のT氏が、徹底した調査により、その存在を確認し、関係者から聞き取りをされていました。 その家族構成は私小説『ひとでなし』に書かれている通りだったのです。野坂昭如の疎開先のI家(小説では高瀬家)との初めての出会いは、昭和18年の神戸オリエンタルホテルでの結婚披露宴でした。<律子を初めて見たのは、十八年二月、高瀬家長女とSの、神戸オリエンタルホテルで開かれた結婚披露宴、県一高女五年の次女、女学院二年の律子、ぼくと同い歳の四女、短剣がないだけで海兵そっくりの制服を着た長男。その母親と親戚が向き合うテーブルに並んで、四女はセーラー服、他は着物。十八年二月、ガダルカナル島「転進」が発表され、物資統制の一段と厳しくなった御時勢にあって、発祥は居留地時代のこのホテルは、フルコースのディナーを供し、土産は上に寿の文字を浮き出させた寒天で飾ったパウンドケーキだった。>ここに書かれている長女と結婚したSが張満谷家の親戚だったのです。 T氏の調査によると、I家(高瀬家)の主は昭和16年に既に死亡しており、女主人(Aさん)、新婦の長女(大正9年生まれ)、大正12年生まれの次女、昭和1年生まれの長男、昭和3年生まれのK子(律子)、昭和4年生まれの4女、という家族構成でした。 ただ『わが桎梏の碑』では次のように、野坂はお多福風邪で寝込んで、結婚披露宴に出席していなかったと述べています。<三女は響子といった。祖母の甥と長女の結婚披露宴は、昭和十八年二月、神戸オリエンタルホテルで行われ、仲人は両親、当然、宴に連なるはずだったが、お多福風邪でぼくは寝込み、新婦の妹たちとそれまで会っていない。>どちらが真実だったのでしょう。 三女と野坂は戦後も連絡を取り合っていたのが事実なのですが、次回は満池谷の家に疎開していた当時の様子を、私小説とT氏が明らかにした事実とを比較してみましょう。
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