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Channel: 阪急沿線文学散歩
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NHK朝ドラ『べっぴんさん』に登場していた旧ジェームズ邸の壁泉

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NHK朝ドラ『べっぴんさん』には、色々な神戸の洋館が登場しますので、楽しみに見ています。  すみれの家のロケに使われたのは、以前『ジェームズ山の李蘭』の散策でも紹介した塩屋の旧ジェームズ邸。http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10874589c.html  しかし、その門には旧ジェームズ邸に特定されるのを嫌ってか、御影の旧乾邸の門が使われていました。 そしてしばしば登場するのが、壁泉です。 旧乾邸にも壁泉がありましたが、旧ジェームズ邸よりは小さめです。 旧ジェームズ邸の写真の右側に壁泉が写っています。  昨日放映された「べっぴんさん」では、焼け野原に残ったすみれの家の壁泉が象徴的でした。 これはセットのようですが。

阪神間シティ・ボーイ平中悠一、夙川カトリック教会から関西学院へ

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 平中悠一『ギンガム・チェック』Avec Nakase-Sanから続けます。 夙川でランチのあと、平中悠一はイラストレーターの仲世朝子さんに大学を見てもらうことにします。<大学正門の前を南北に走る道が東へカーヴする辺り、外人教授用住宅の前あたりに僕は車を停めた。ドアから降りると、クッキー・ホワイトのボンネットに、緑の影が映えていた。嬉しくなるような木漏れ陽に小手をかざして歩き出すと、仲世さんは「こんなとこで暮らしてるなら東京へ出てくることなんかないわよ」とぼそっと言った。>平中が車を停めたあたりには、現在関西学院会館の駐車場がありますので、車を停めるのは楽になりました。外人教授用住宅で、今でも使われているようです。<中央芝生を1週しただけで僕らは車へ引き返した。僕の駐車違反ノイローゼは大学へ通った4年間で、かなり深刻になっているのだ。>たしかに、上ヶ原台地で暮らしているなら東京に出る必要なんかありません。さて平中は、この後芦屋に向かいます。

小川洋子の「ミーナ」が成人してからのモデル栗田明子さんにお話を伺いました

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 『夢の宝石箱』、『海の向こうに本を届ける』の著者、栗田明子さん。東京在住と思っていましたが、3年前に芦屋に帰ってこられたそうで、私の長年の夢が叶って、お会いしてお話を聞くことができました。 栗田さんは昭和9年のお生まれで、甲南女子高校 を卒業後、「女が大学に行ったらお嫁のもらい手がなくなる。」という古風な父親から言われ素直に伊藤忠商事に就職。その後、著作権代理店(株)ユニ・エージェンシーに勤務。そして1981年には日本の出版物を海外に広めるべく自ら著作権代理店栗田板東事務所を設立。ドイツ・ケルンを本拠に欧米出版社に日本の図書を紹介。その事務所は日本著作権輸出センターへと発展し、現在は同社相談役をされています。 その彼女の姿こそ、小川洋子『ミーナの行進』の主人公ミーナが大きくなった時のモデルに違いないと思っていました。『ミーナの行進』からです。<ミーナは中学の卒業式を待たずにヨーロッパへ渡り、スイスの寄宿学校へ進学した。その後、フランクフルト大学で文学を学び、貿易会社で大使館に勤務したあと、三十五歳でケルンに出版エージェンシー会社を設立した。ヨーロッパと日本の文学作品の翻訳出版を、仲立ちする会社だった。>まさに栗田さんのお仕事です。 先日、栗田明子さんにお会いして最初にお尋ねしたのはミーナのモデルになっていますよね」だったのですが、お話を伺うと小川洋子さんは、ミーナが成人してからは国際的に活躍する女性にしたくて、栗田明子さんの了承を得て、ミーナの成人してからのモデルにされたそうです。 『海の向こうに本を届ける』の帯には小川洋子さんが、「日本文学を海外へ導いたのは、海図のない航海へ出た栗田さんの熱意だった」と書かれているのです。 栗田明子さんは10歳まで西宮におられ、河野多恵子さんも通っていた建石小学校に通われていたそうです。是非とも、西宮文学案内」などでご講演いただきたいと願っています。

阪神間シティボーイ平中悠一のデートコース芦屋(Avec Nakase-San)

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平中悠一『ギンガム・チエック』Avec Nakase-Sanから続けます。夙川から関西学院と回った平中悠一と仲世朝子さんは、次に芦屋に向かいます。<とりあえずお茶でも飲もうか、ってことになり、芦屋川べりの喫茶店へ僕らは行った。シェード越しの窓からは明るい陽射しが溢れていた。「なんだかリゾートに来たみたい」仲世さんはいった。>この芦屋川べりの喫茶店とは、芦屋カトリック教会より北側にあるレストランべリーニかもしれません。「なんだかリゾートに来たみたい」というのは、小川洋子さんも芦屋川沿いを走って「まるで南仏のようだ」と述べておられ、同じ印象だったようです。<ここからだってすぐ海だよ、と僕はいって、芦屋カトリック教会、平田町からテニス・コートの辺りを超えて、芝生の綺麗な川沿いの道を、芦屋浜まで降りていった。>平中悠一と仲世朝子さんは車でデートのようですが、平中悠一原作の映画「シーズレイン」の芦屋川沿いを自転車で走るシーンを想い出します。 このお話は1990年ごろですので、もう昔の芦屋浜は埋め立てられていた時代。その頃の光景をを村上春樹は『羊をめぐる冒険』では五十メートルの海岸線として次のように描いています。<川は小さな入り江のような、あるいは半分埋め立てられた運河のような海に注いでいた。それは幅五十メートルばかりに切り取られた昔の海岸線の名残りだった。砂浜は昔ながらの砂浜だった。小さな波があり、丸くなった木片が打ち上げられていた。海の匂いがした。コンクリートの防波堤には釘やスプレイ・ペンキで書かれた昔ながらの落書きが残されていた。五十メートル分だけ残されたなつかしい海岸線だった。しかしそれは高さ十メートルもある高いコンクリートの壁にしっかりとはさみ込まれていた。そして壁はその狭い海をはさんだまま何キロも彼方にまでまっすぐに伸びていた。そしてそこには高層住宅の群れが建ち並んでいた。海は五十メートルぶんだけを残して、完全に抹殺されていた。>『ギンガム・チェック』に戻りましょう。<浜ではいつものように、ささやかな海から、ささやかな波が、ささやかなビーチへ打ち寄せていた。しばらくその景色を堤防の上から眺めると、もっと海らしい海が見たくなったでしょう、と僕は訊いた。>平中悠一も「ささやかなビーチ」には満足できなかったらしく、塩屋へ車を走らせます。

今年も車谷長吉『灘の男』のけんか祭りへ

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 姫路出身で 『赤目四十八瀧心中未遂』で直木賞を受賞した車谷長吉著『灘の男』は、腕っ節の強い男たちが命をかけて闘う一大行事「灘のけんか祭り」の本拠地にいた二人の伝説の人物の物語。 塩を牛車で運ぶ仕事から、浜田運送という百台余りのトラックを有する会社を成した「濱長」こと濱田長蔵と、船の錨鎖などの部品を扱う製造会社を興した濱中重太郎。幼き頃は喧嘩相手だった二人は成人後、村の顔役としてお互いを尊敬するようになるという二人の豪快な男の人生が、車谷長吉の丹念な取材により描かれています。 その主人公濱田長蔵の長男の長伸さんは今も宇佐崎村の総代。縁ある人に、その桟敷席に呼ばれて、15日「灘のけんか祭り」の昼宮にでかけてきました。写真は昨年のけんか祭りの宵宮で撮った宇佐崎の総代、長伸はん。『灘の男』ではけんか祭りは次のように紹介されています。<灘七村には、世に「灘の喧嘩祭り」と呼ばれる祭りがある。毎年十月十四日十五日の吉日。松原八幡宮の秋の例大祭である。十四日が宵宮、十五日が昼宮。七村の各村には、絢爛豪華な屋台があり、宵宮には八幡さんの境内で七台の屋台の練り合わせをする。> 昨年は十四日の宵宮を観覧させていただきましたが、今年は十五日の昼宮へ。<昼宮には毎年、順番に「練り番」というものが決まっており、その練り番の村の者が、三台の神輿の練り合わせをする。練り合わせ、と言うより、大きな神輿のぶつけ合いである。そのぶつけ合いが余りに烈しいので、「灘の喧嘩祭り」などと言われるのである。無論、練り番ではない村の。六台の屋台の練り合わせもする。> お昼頃、山陽電鉄の特急で、祭りの日だけ臨時停車する「白浜の宮」駅で下車、練り場の矢倉畑に到着しました。まだ神輿は到着していませんが、奥に見える山が御旅山で、段々畑には大勢の観客が待っていました。<妻鹿村と松原村の地境に、御旅山、海山という二つの山が向かい合っており、山は段々畑になっていて、恰も羅馬のコロセウムのような形をしている。段々畑の底は丸い矢倉畑である。>この地形が一役かって灘祭りを盛大にしたようです。<灘祭りがなんでかくも盛大になったか、言うたら、御旅山と海山に挟まれて、自然の桟敷が出来とうでしょう。あの桟敷に十五萬人も坐れるわな。あのロケーションのよさが、盛大になった最大の理由ですわ、次に灘には経済力があったこと。>いよいよ屋台が到着し、練り合わせが始まりました。左側が御旅山、右側が海山です。<昼宮には八幡さんで練り合わせをしたあと、松原村の露払いのテンテン突きを先頭に、三台の神輿、六台の屋台が、その矢倉畑へ渡御をする。段々畑は桟敷席になっており、約十五萬人の人が見つめる中、そこでも神輿のぶつけ合い、屋台の練り合わせをする。大太鼓を打ち鳴らし、「よいやさァ、よいやさァ」「よいやせェ、よいやせェの掛け声がこだまする。その時、練り子は全員が荒法師である。修羅である。>よやく宇佐崎の屋台がやってきました。宇佐崎の桟敷から大きな拍手と声援が上がります。<灘の男はこの祭りを己の生き甲斐にし、誇りにし、精神の脊髄ともしている。大阪方面へ働きに出ている者でも、祭りの日には、特別休暇を取って帰って来、神輿や屋台の練り合わせをする。神輿のぶつけ合いは壮烈で、神輿が壊れれば壊れるほど、神意に叶うのである。勢い、ぶつけ合いは苛烈になり、毎年、怪我人が出る。時には死者が出る。血が流れる。血を見れば、さらに、人の血は滾る。この祭りの神髄はそこにある。>帰りに広場に出ると、3台の救急車が待機していました。そういえば、祭りの途中でも救急車が何台か来ていたようです。<この祭りが、この土地に独特の精神風土を作っている。粋で、いなせで、権太くれ。>桟敷席でお酒と祭りのごっつおに舌鼓を打ち、見ているだけで興奮した一日でした。

須賀敦子と芦屋・西宮

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10月22日の芦屋文学サロン「須賀敦子と芦屋・西宮」は予想を超える出席者数で、須賀敦子ファンの多さを物語っていました。また、以前から色々コメントをいただき、栗田明子さんの『ゆめの宝石箱』なども教えていただいた東京在住の方からも、今回のイベントのご支援をいただいていたことを知り、深く感謝しております。 当日の様子を簡単にご紹介するため、プログラムの一部を写真にしてアップいたしました。クリックして拡大してご覧ください。やはり一番会場を沸かせたのは、稲畑汀子様と北村良子様の映像とお話でした。

平中悠一と仲世朝子さんは芦屋浜から舞子のウェザーリポート神戸へ

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 平中悠一『ギンガム・チエック』Avec Nakase-San から続けます。芦屋浜でささやかなビーチを見た平中悠一と仲世朝子さんは、もっと海らしい海を見ようと、43号線から2号線を西に、車を走らせます。<塩屋にあるカフェ・レストランへ僕らは入った。ここは僕も2年ぶりくらいだった。南仏風に作ったらしい店は海に向けてテラスを持っている。窓一面に広がる瀬戸内の海は、午後の陽射しを受けて穏やかに凪いでいた。> このお話は1980年代後半のこと。このカフェ・レストランは、垂水海岸にあったシーサイドレストラン「ウェザーリポート」でしょう。「市民のグラフこうべ」No.202(平成1年8月)に掲載されていた写真です。平中悠一原作の映画『シーズレイン』にもレストラン「ウェザーリポート」が登場していました。ユーイチとレイコのデートシーン。これが、『ギンガム・チェック』では平中悠一と仲世朝子さんに変わるのです。 <仲世さんは真剣に海を眺めてくれたので、僕はちょっと感動した。僕の知ってる女の子なんて誰も海なんか見ないから。まぁ、彼女たちにしてみればそれはあって当然のもんだからだろうけど。>2号線沿いの景色は80年代当時とはかなり変わりました。「ウェザ一リポート」があったのは神戸市垂水区舞子海岸通8番地。このあたりだったでしょうか。

「近大マグロの奇跡」を食しにグランフロント大阪『近畿大学水産研究所』へ

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 3年前のグランフロント大阪に開店した養殖魚専門店「近畿大学水産研究所」。 オープン当初は、すごい人出で、とても並ぶ気にはなりませんでしたが、そろそろ下火になっているのではと、ランチに出かけることにしました。 世界人口の増加にともない、海洋資源もどんどん枯渇、高騰しており、養殖は有効な手段でしょうが、マグロの完全養殖というのは奇跡と呼ばれるほど難しかったことが林宗樹『近代マグロの奇跡 完全養殖成功への32年』を読んで、よくわかりました。 それによるとマグロにはえらを動かす能力がなく、口をあけて泳ぎ続けることでしか酸素を取り込むことができないので、生まれてから死ぬまで泳ぎ続けなければならない宿命があるのです。 戦後間もない昭和23年に水産研究所が白浜に開設されたのは、近大初代総長の世耕弘一が、戦後の食糧不足の中にあって「日本人全員の食糧を確保するには、陸上の作物だけでは不十分である。土地と同じように海を耕し、海産物を豊かにしよう」という理念からだったそうです。 近畿大学水産研究所で国家プロジェクトとしてクロマグロの養殖実験が本格的に始まったのは昭和45年のこと、その後の実験は挫折の連続だったようですが、熊井英水氏(名誉教授)が、平成五年に研究所のトップとして近畿大学二代目総長の世耕政隆のもとを訪ね、「このままクロマグロの研究を続けていいものだろうか?」と相談したときに、「生き物というのは、そういうものですよ。簡単にいくはずがない。気を長くもって、長い目でやってください」と言われ、やってやろうという気力が湧いてきたと述べられています。<そして、熊井は初代総長の世耕弘一の言葉を思い出していた。「不可能を可能にするのが研究だろう」>感動的な『近大マグロの奇跡』なのですが、これは何をおいても食べなくてはという気持ちになります。 この不可能を可能にした研究の成果を実際に楽しもうと、梅田のグランフロント6Fにある「近畿大学水産研究所」というレストランに行ってきました。平日でしたが、12時過ぎに行くと、30分待ちでしたが、並んではいりました。頼んだのはランチメニューの海鮮丼。中トロと赤身、鯛、ヨコワ、シマアジの5種類。赤だしは自由でした。 中トロの味はさすがでしたが、その味をコラムニストの勝谷誠彦が『近大マグロの奇跡』の解説で、これ以上には書けないくらい書いていました。<醤油につけるとぱあっと脂が皿の中に広がる。一方で醤油をはじく身の表面を見て、私はもう味を確信していた。付着の分布が均一なのだ。脂が表面で自己主張することなく、赤身の細胞の間に宿っている感触がある。口にして、それは確信にかわった。繻子のような舌触り。いかなる夾雑物もない。きわめて均質な、完成度の高い味だ。赤身の持つあのヘモグロビンの香りと、大トロの猥雑といっていい脂肪ののたくり具合の双方を兼ね備えている。たまたたまだが、中トロに当たったというのは、近大マグロというものを識る上で幸運であったかも知れない。> 随分長い説明ですが、この通りの味か、確かめに一度でかけるのもいいかと。

映画「シーズレイン」に登場したカフェレストラン「フィエスタ」

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垂水海岸にあった平中悠一のお気に入りのレストランウェザーリポート神戸について記事にしましたところ、懐かしいというコメントをツィッターでもいただきました。 平中悠一原作、白羽弥仁監督の映画『シーズレイン』にはもう一軒、ウェザーリポートよりさらに国道2号線を西側に下った所にある海辺のカフェレストラン「フィエスタ」が登場します。ユーイチたちが友人とワーゲンを駆って、フィエスタの駐車場に入るシーンです。2号線の右側を走っているのは山陽電鉄とJRです。「フィエスタ」は今でも経営を続けていると聞き、早速ランチに出かけました。JR朝霧駅から東へ約400mの所にあり、外壁の色はグリーンからピンクに変わっていました。エントランスは雰囲気のある螺旋階段になっていました。入って見ると、思ったより広く、外装との違いにビックリ。雰囲気のある内装にはオーナーの特別なこだわりがあるようです。ランチはピザとパスタをそれぞれ注文してシェアー。ここで働く小粋な女性に「シーズレイン」について尋ねると、撮影した時もいて、その時は友人がウエイトレスとして、ご本人はお客として出演したそうです。当時と変わっているのは、上の場面の海側のオープンテラスだったところが、屋根と壁で囲われ、下の写真のように室内になっただけだそうです。当時はまだ明石海峡大橋もありませんでした。陽射しが眩しく、内側のカウンター席に座りましたが、ここからも十分瀬戸内海の風景が楽しめます。瀬戸内海の向こうは淡路島。店の外に出ると堤防に階段があり、すぐ下の砂浜まで降りることができました。ここからは明石海峡大橋がまるまる見晴らせました。現在の舞子の景色と、25年前の『シーズレイン』の景色に思いを馳せる一日となりました。12月の西宮文学案内では白羽弥仁監督にお会いするので、フィエスタの思い出を尋ねてみようと思います。

ファミリア神戸元町本店では「ファミリアの軌跡展」が開催中でした。

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久しぶり三宮センター街から元町商店街をぶらりぶらりと歩いていると、ファミリア神戸元町本店で、「ファミリアの軌跡展」が開催中でした。入り口のウインドウに貼られていたポスター。 開催期間は来年の4月3日までですが、テーマが順次変わるようです。2016年11月17日(木)までは、「ファミリアが一番大切にしている“あかちゃんへの愛情”」2016年11月18日(金)~2017年1月11日(水)「ひと針ひと針に込めた愛情“手刺繍”ドレス」2017年1月12日(木)~2017年2月15日(水)「“ファミリアチェック”のあゆみ」2017年2月16日(木)~2017年4月3日(月)「こだわりがつまった“デニムバッグ”」となっていました。入り口を入ると、「坂野惇子historyファミリア遠隔」のコーナーでは映像と年譜での説明があります。歴史を物語る写真と実際の商品の展示が各所にありました。創業当時のくまのぬいぐるみ。1952年の商品。1960年代~1980年代の商品が飾られています。ベビーナース大ヶ瀬久子さんのパネル。モトヤ靴店の店主・元田蓮のパネルも。「いけません。これはお嬢様の為につくった靴です」は実話でした。パネルを読むと「べっぴんさん」の誰のモデルになっているかよくわかります。あの靴屋さんがファミリアの初代社長ですか。家内が孫への贈り物を捜している間、展示をゆっくり見せてもらいました。

三宮センター街でも「べっぴんさん展」が開催されていました。

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 元町のファミリア本店からセンター街に戻ってくると、旧メディテラス跡地で開催中の「神戸別品博覧会」の中で、「べっぴんさん」展も開催されていました。 行きに前を通った時には気づかなかったのですが、もう二十年以上前のことでしょうか、ここは確かファミリアがあって、娘たちに何か買っていた記憶があります。外から見ただけでは気づかなかったのです、中に「べっぴんさん」展のポスターがありました。 期間は来年の5月7日までで、「本展は、物語の舞台である神戸で開催。ヒロインらが一歩踏み出す後押しをしてもらった大切な場所である靴店「あさや」のセットの一部をご覧いただくとともに、番組で実際に使用した小道具や衣装を始め、写真撮影をしていただけるコーナーや番組紹介の写真パネルなどでドラマの世界をご紹介します。(一部を展示替え予定)」とのこと。坂野さんがファミリアの前身であるベビーショップ・モトヤの独立した店舗を初めて出したのが、三宮センター街の山側店舗でトアロードから3件目ということですから、このあたりがファミリア発祥の地だったのでしょう。べっぴんさん展は3階でした。ドラマに出てきたすみれの刺繍。四つ葉のクローバーの刺繍。子供の時のすみれが着ていた服も。「あさや」のセット。ここに座って写真撮影できます。すみれがばらばらにしてしまったお父さんの靴。すみれお嬢様の嫁入り支度のために作った靴。 しかし朝日新聞でも酷評されていましたが、これまでの朝ドラが大人気を博していただけに、「べっぴんさん」の先行きが心配です。作者の渡辺千穂さんに頑張ってもらわねば。 考えてみると、多くのスポンサーが参画している神戸別品博覧会。ファミリアの「べっぴんさん展」だけが目立っては困るので、外に目立った表示がなかったのでしょう。神戸ブランドのユーハイムや風月堂。鈴木薄荷の薄荷珈琲も展示されていました。最後に神戸ワインを買って帰りました。

平中悠一ご推奨の神戸のカツレツがとてもおいしいお店に行って来ました。

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平中悠一『ギンガム・チェック』「神戸でデイト」でイラストレーターの仲世朝子さんを最初に連れて行ったレストランは生田筋のカツレツがとてもおいしいお店。(残念ながらそこは閉まっていたのですが) 平中悠一によると神戸でおいしいのはカツレツ。ご存知でしたか?<とにかく僕は彼女にカツレツを食べさせたかった。神戸でおいしいのは先ず洋食。それもカツレツだから。そんなわけで僕らはカツレツを食べた。仲世さんは僕がカツレツ、カツレツと騒ぐのを納得したふうだった。彼女はいっけん大人しくて、あまり喋らないひとだけど、自分の意思をはっきり出せるひとである。> 神戸にそんなにおいしいカツレツがあるなると、生田筋のお店を探して、行ってきました。調べると、どうもそのお店は「欧風料理もん」のようです。昭和11年創業の老舗洋食屋さん。看板の「美婦貞奇」読めますか、ビフテキ。田辺聖子さんも「オール読物」で紹介されていました。中に入ると期待通り昭和モダンのレトロな雰囲気。メニューの表紙は「神戸百景」の川西 英の作品。メニューを見て、「名物とんかつ」にも食指が動いたのですが、ここは折角神戸まで出てきたのですから、ビーフカツレツとヘレビーフ銀串焼、そして黒ビールをオーダー。ビーフカツの肉は神戸牛のヒレ肉。二週間ほど煮込んだデミグラスソースがかけられています。 ヘレビーフ銀串焼も、ミディアム仕上げのやわらかな牛肉にデミグラスソースがたっぷりかけられ、おいしいものを食べた満足感に浸れました。 神戸の洋食屋さんのビフカツ、平中悠一が大切な人にご馳走した理由がよくわかりました。

谷崎潤一郎も通ったという三宮のバー・アカデミーが消えていた

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 谷崎潤一郎も通ったというバー「アカデミー」に一度行ってみたいと思っていました。その頃は上筒井通りにあって、戦後、布引町に移ってきたそうです。 思い立って加納町に向かったのですが、その前に途中で立ち寄ったのが、東門街のはずれにあるBARふくろう。バーテンダーが一代で続ける店としては三宮で最も古いバーで、来年は50周年を迎えるそうです。店内にはあちこちにふくろうが。マスターの福田さんにアカデミーのことをお話すると、もう閉店されたとのこと。その日はあきらめて、後日その跡地に行ってみました。 私の好きな作家のひとり辻原登も短編小説『夏の帽子』の舞台に「アカデミー」を登場させています。 谷崎賞を受賞した主人公誠一郎は芦屋だがルナホールでの受賞記念講演の後、新神戸オリエンタルホテルに戻り、十六、七年前に昔の彼女に紹介されて行った「アカデミー」に向かいます。<三宮から県道30号、通称税関通りを新神戸駅のほうへ向かって歩いて、中山手通りと交差する加納町三丁目の北東角に「アカデミー」というバーがあった。住所は布引二丁目。私は、かつてこに三、四回行ったことがある。忘れていたのだが、いまもまだやっているだろうか。> ここを以前昼間に通った時、その外観だけは写真に撮っていました。<だが、それはあった。同じ場所に、昔と全く変わらないしもたやふうのたたずまいで。車がひっきりなしに行き交う中山手通りから、いきなりマカダム舗装の細道がツゲやツデイの植込みの中へ十数メートルのびて、壁に蔦を絡ませた二階家に通じている。> イスズベーカリーのお隣にあったバーアカデミー。 現在はこのように更地になってしまいまい、もはや店内に入ることはかないませんが、その様子が『夏の帽子』に詳しく描かれています。<「いらっしゃい」高くしわがれたマスターの声。私は会釈を返して、店内を見回す。少しも変わっていない山小屋ふうのつくり。左側の壁に、畳一枚くらいの漆喰のボードが嵌め込まれている。仄明るい白熱球のもとに、セピア色のボートから美しい少年の横顔やカトレアの花、鳥籠とその中のカナリア、切り取られた鎧窓、コウモリ傘、獅子舞の頭、瓶首を握った手、パイプ、水パイプ、三人の子供の裸像、神戸の街並みなどの油絵が浮かび上がる。それぞれの絵のわきにはサインがある。R.KOISO, K.TAMURA, S.OKA……。小磯良平、田村孝之助、岡鹿之介、伊藤慶之助、坂本益夫、詩人竹中郁の名前もある。戦後日本を代表する神戸画壇の雄たちが、ここで酒を飲み、画論をたたかわせ、戯れに描いた絵。>このアカデミーにあった壁画は解体時に取り外されて、六甲アイランド「ゆかりの美術館」に保存されたそうで、公開される日を楽しみにしています。

カトリック夙川教会聖堂での日本テレマン協会 定期演奏会「メサイア」へ

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 11月3日は天気も良く、夙川を散歩しながらカトリック夙川教会へ。お目当てはカトリック夙川教会ゆかりの延原武春氏の指揮による定期演奏会「メサイア」です。ソプラノ/浅野純加,渡辺有香 アルト/薬谷佳苗,塩見典子 テノール/新井俊稀 バス/篠部信宏 管弦楽/テレマン室内オーケストラ 合唱/テレマン室内合唱団によるもの。 演奏会が始まるのを待つ間も、久しぶりに聖堂の荘厳な雰囲気に浸ることができました。全編聴くのは初めてでしたが、聖堂で聴くメサイアはやはり格別なもの。投影された歌詞の和訳の助けもあり、2時間45分におよぶ大作をじっくり楽しむことができました。延原武春氏も益々お元気そうです。40年近く前、夙川教会で練習するテレマン室内管弦楽団

平中悠一と仲世さんは舞子の移情閣へ

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 平中悠一『ギンガム・チェック』の「神戸でデイト」からです。平中悠一とイラストレータ―の仲世朝子さんがカフェ・レストラン「ウェザーリポート」に立ち寄った後、向かったのは移情閣でした。<それから舞子の方まで行って、移情閣の横手のパーキング・ロットに、僕は車をパークした。とにかく塩屋からこの辺は僕のお話には欠かせなかった。『ペニィ・ローファー』なんてもろそうだし、『まぬけな僕ら』や、『レイン』にだって既に使っていた。>彼らがデートしたのは、1980年代後半のことですから、明石海峡大橋の建設のため現在の場所に移転する前のことで、現在の位置より西へ約200メートルのところにありました。 上に書かれているように、映画「シーズ・レイン」でも、移情閣のシーンがでてきますし、『ペニィ・ローファー』では次のような情景が登場します。<「あー、やだよ、アヴェックばっか」海に向けてしつらえられたベンチや堤防がふたりづれの人影で占められていることを確認すると、彼女は僕を引っ張って、ぐんぐん歩きだした。>「市民のグラフこうべ」の平成1年8月号に、当時の移情閣と「海に向けてしつらえたベンチ」の写真がありました。 更に『ペニィ・ローファー』から続けます。<「あんなのみんなクズよ」きっぱりそう云うと、ここ、と僕の腕をつかんだまま、彼女は移情閣の横の階段を、堤防の下へと降りだした。テトラポットで崩れる波音が辺りを包んでいた。>この写真は昭和54年8月号の「市民のグラフこうべ」。舞子公園に立つ移情閣と階段、堤防の下のテトラポットがわかります。『ギンガム・チェック』に戻りましょう。<堤防の下へ降り、ポラで記念写真を幾葉か撮った。構図がヘン、と仲世さんは笑った。確かにヘンだった。それから堤防の上の公園の、海に向けてしつらえたベンチのひとつに僕らはすわった。僕が左で、彼女が右。>今も海に向かったコンクリートのベンチがありますが、当時はなかった明石海峡大橋が目の前にあります。

野阪昭如も愛おしんだニテコ池の風景がどんどん変わっていく

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 野阪昭如は戦後になってからも度々、ニテコ池を訪れています。『アドリブ自叙伝』では、ニテコ池を愛おしむ気持ちを次のように述べています。<故郷があまりにかわらない姿のままで在れば、恥ずかしい記憶、辛い思い出ばかりを、そこに持つものはいたたまれない気持ちになる。ニテコの池は、今、上水道の水源池としては使用されていないらしい。埋め立てるという話を聞いたけれど、一面において、この三十四年間ほとんど変わらない風景を、ぶちこわしてくれと、思いながら、また、冗談じゃないと、できることならあたり一帯買いとって、永久に保存したい気持もあるのだ。> ニテコ池は貯水池としての使命が終わった今でも、幸いにして埋立てられず、甲山を背に美しい光景を保っていますが、その周りの光景は徐々に変化しています。 小説『火垂るの墓』に登場する「満池谷見下ろす丘」とは、一般には現在の大社中学校あたりと考えられていますが、その丘からの光景は<夕空には星、そして見下ろせば、二日前から燈火管制のとけた谷あいの家並み、ちらほらなつかしい明かりがみえて、四年前、父の従弟の結婚について、候補者の身もと調べるためにこのあたりを母と歩き、遠くあの未亡人の家をながめた記憶と、いささかもかわるところはない。>とも述べられており、私はニテコ池の東側の小高い山がモデルではないかと考えていました。 昭和23年の米軍の航空写真からもわかるように、こんもりとした森になっているところです(赤矢印)。 その後、この丘にも、切通し道が造られ、それまでニテコ池の淵を回っていた阪神バスは、その切通し道を通るようになります。 切通し道の北側が宅地開発されたとき、そこには軍司令部を置こうとしていたのか、巨大な防空壕跡がでてきたのを覚えています。 その西側に残されていた林も切り崩され、集合住宅の建設が始まりました。取り囲んでいる白い壁の中を覗くと、このような光景になっていました。少し木々は残されるようですが、この跡地に巨大なコンクリートの塊が出現するのでしょうか。下は開発前の写真と、航空写真です。ニテコ池の東側を見晴らすと、光雲荘や名次庵などの松下家と日銀大阪支店長公舎などが連なり、なんとか緑を保っていますが、アメリカ領事館邸跡地は、既に集合住宅に変わっています。いつまで緑に囲まれたニテコ池の風景は保たれるのでしょう。

原田マハさんが「よみうり読書 芦屋サロン」に登場

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 11月4日芦屋ルナホールで、原田マハさんを迎え、「よみうり読書 芦屋サロン」が開催されました。さすが読売新聞主催です。読書サロンが終わった会場の出口では、もう「原田マハさん自作を語る」と題して、写真入りの特別号外が配られていました。詳細は17日の読売新聞に掲載されるとのこと。 原田マハさんが登壇されると、早速芦屋への思いを述べられました。マハさんは1981年に山陽女子学園から関西学院大学に入学し、岡山からあこがれの阪神間に出てきた時のことを次のように紹介されていました。「憧れの神戸に来て、西宮と神戸の間の忘れられない風景があります。阪急電車で芦屋川を通った時に、桜がバーっと咲いていてるのが見えて、その車窓の風景に歓迎されているようで、自分の中では忘れられない青春の一枚の写真となって記憶に残っています。」何故夙川の桜ではないのかとも思うのですが、ここは芦屋ですから我慢しましょう。 マハさんは1985年3月に芦屋ルナホールで開催された劇団夢の遊眠社の「白夜の女騎士」の観劇に来られたそうです。「野田秀樹の夢の遊眠社の第一回関西公演がこの芦屋ルナホールであり、見に来ました。芦屋川沿いのモダンな建物、おしゃれな街。まさか30年後に私がそのルナホールのステージに立てるとは。」 芦屋ルナホールだったらやりたいと、よみうり読書サロンを引き受けられたそうです。10月16日の読売新聞に掲載され、今回のメインテーマとなった原田マハさんの掌小説『笑う家』については次回に。

須賀敦子さんにとって「ケティ―物語」が離れられない宝物になったわけ

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 須賀敦子『遠い朝の本たち』の「まがり角の本」からです。<「ケティー物語」という青い表紙のずっしりと思い本が、私と妹にとって離れられない宝物になったのは、いくつぐらいのときだったのか。夏休みがはじまったばかりのある日、銀座のデパートの書籍売り場で、いいわ、ふたりで一冊だけよ、とうしろで待っている母を背中できにしながら、迷いに迷って選んだ本だった。著者はアメリカ人、スザンナ・クーリッジという女性の作品で、ケティーという名の少女が主人公だった。> 須賀さんは「ある夏の午後ウサギの穴に落ちこんだアリスのように、いきなり、ケティ―の世界に吸い込まれてしまった」と述べられていますが、それほどまで須賀さんを魅了したのは、ケティ―の家にはてしなく広い庭があることでした。<ケティ―は私とおなじ、長女で総領だった。そのことにも親近感をおぼえたのだが、なによりも私をひきつけたのは、ケティ―たちの家には、はてしなく広い、庭があることだった。庭、といっても、ちょっとやそっとの広さではなく、子供たちが土曜日の午後、探検にでかけるぐらい、森があったり、めずらしい野の花の群生地があったりするほど広大なものだ。おそらく英語では、パーク、とよばれる自然のまま土地なのである。> 須賀さんが6歳まで住んでいた兵庫県武庫郡精道村の家の庭は広かったのに、9歳の時、関西から東京に越して、住んでいた麻布の家はかなりな建坪のわりに庭がせせこましく、つらい思いをしていたと述べられています。 その広い庭のあった精道村の家の場所は特定でき、以前ご紹介しました。赤く囲んでいる場所が、阪田寛夫のご両親も設立に関係していた「お山の幼稚園」で、その南側の赤矢印の家が須賀邸でした。(「精道村明細図」昭和7年版)http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11465228c.html その後、新たに須賀邸のまわりの光景を映した16mmフィルムが現存することがわかり、その映像の写真を入手しました。 松の木の後ろに見える建物が「お山の幼稚園」で、須賀邸の庭はひろかったのみならず、その周りには家などなく、野原と畑だったようですから、このあたり全体が須賀さんにとっての庭だったのでしょう。  そしてTVドラマになった「ケティー物語」の映像を見ると、ケティ―の家の庭と精道村の家の周りの光景がなんと似ているのかと驚き、「ケティ―物語」が須賀さんを魅了した理由もよくわかったのです。 因みに、精道村の自宅前で撮影された須賀姉妹の写真がありましたが、右手に須賀邸の石垣が写っています。その場所(現在の翠ヶ丘)に行ってみますと、辺りは住宅で埋め尽くされ、昔の光景はほとんど残っていませんんが、その石垣だけは今も残っていました。

芦屋の思い出が詰まった原田マハさんの掌小説『笑う家』

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 ルナホールで開かれた「よみうり読書 芦屋サロン」の、いわば課題小説は『笑う家』。  原田マハさんと関西学院時代からの友人をモデルとした、ハグ(波口喜美)とナガラ(長良妙子)の旅物語です。 原田さんのお話によると、ナガラのモデルは、関学の同期生で、学生長屋に一緒に住んでいた友人。彼女は卒業後大阪の証券会社に就職し、原田さんは東京に行き離れ離れになっていたそうですが、原田さんが40歳で独立するタイミングに突然、旅に出ようと連絡してきたことから、その後も女二人旅が続いているそうです。 ハグとナガラが登場する短編は、1回目が短編集『さいはての彼女』に収められた「旅をあきらめた友と、その母への手紙」。 修善寺の温泉へ一人で訪れたハグ。本当は、友達のナガラと訪れるはずだったが、急にナガラの都合が悪くなり、一人で来ることになり、ナガラのお母さんに手紙を書くという設定。 2回目は『星がひとつほしいとの祈り』に収められた「寄り道」。友人と行った白神山地をそのままプロットした物語。ハグとナガラは超晴れ女で、青森のねぶたと秋田の竿灯を見に男鹿半島へ来て、白神山地行きのツアーに参加したところ、黒いミニスカのスーツとハイヒール姿のミステリアスな女性に出会います。 3回目は『あなたは、誰かの大切な人』に収められた「波打ち際のふたり」。 学生時代の友人ナガラと年に4回ほどの旅行をしていたハグ。40を越えて多忙な毎日を過ごしていた二人が久しぶりに旅した先はナガラさんの故郷にほど近い赤穂でした。 そして、今回登場するのが4回目の『笑う家』。ナガラは、勤続三十年の証券会社で辞令が出て、梅田支店から八尾支店へと転勤となり、ハグは、認知症の母の介護のため、一人暮らしをしていた東京から郷里の姫路へと戻り、自宅でフリーの広告ディレクターを続けていたという設定です。 この短編で、芦屋は次のように描かれています。<もう一度は、私が芦屋へ行って、春爛漫の芦屋川沿いをそろぞ歩き、はらはらと風に舞い散る桜を全身に浴びた。お互いの住む町を訪ねる、こういう旅のかたちもあったのかと、不思議に新鮮だった。 芦屋を訪ねたのは、この春のことで、実に三十年ぶりだった。最後に訪問したのは、ナガラがアパートに入居してすぐ、引っ越し祝いとお互いの就職祝いを兼ねて、フレンチレストランで祝杯を挙げたときんこと。>原田さんの芦屋の思い出は、やはり関学入学時に見た、芦屋川の満開の桜だったようです。  そしてこの短編の最後を飾るのは、私もよく訪ねた大原美術館。ハグとナガラが学生時代に最後に行ったふたり旅のことです。 ナガラが大原美術館工芸館で見つけた作品は、蓋つきの小さな陶器の入れ物。青い家の絵が描いてあって、どうしても笑う家に見えたと、ハグに説明するのです。<笑う家。ぴんときた。大正時代にイギリスから日本へやってきて、この国で陶芸家になったバーナード・リーチの作品だ。私もあの一点のほのぼのとしたあたたかさに心惹かれて、ポストカードを駆って帰ったのだ。だから、はっきり覚えている。> 原田マハさんが「笑う家」と名付けた作品の正式名称は「鉄絵染付長屋門文筥」でした。 最後は「女ふたり旅 またしよな」と互いに思いやるメールのやり取りで終わりますが、次の目的地は大原美術館になりそうだとも。最近出版された『リーチ先生』も気になります。

堀辰雄の浄瑠璃寺を訪ねる

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 京都の和束町に所用があり、帰りに浄瑠璃寺を回ってきました。和束町は奈良平城京と宇治平等院との中間に位置し、京都府内で栽培されるお茶の約4割が生産されているそうで、別名「茶源郷」とも呼ばれています。京都府の景観資産第1号に指定された和束町の茶畑。ここから車で10分程度で浄瑠璃寺です。 堀辰雄夫妻が奈良の浄瑠璃寺を訪ねたのは昭和18年4月のこと。堀辰雄『大和路・信濃路』の「浄瑠璃寺の春」からです。<最初、僕たちはその何の構えもない小さな門を寺の門だとは気づかずに危く其処を通りこしそうになった。その途端、その門の奥のほうの、一本の花ざかりの緋桃の木のうえに、突然なんだかはっとするようなもの、――ふいとそのあたりを翔け去ったこの世ならぬ美しい色をした鳥の翼のようなものが、自分の目にはいって、おやと思って、そこに足を止めた。それが浄瑠璃寺の塔の錆びついた九輪だったのである。>現在は九輪も錆びてはおらず、荘厳なたたずまいです。< その小さな門の中へ、石段を二つ三つ上がって、はいりかけながら、「ああ、こんなところに馬酔木が咲いている。」と僕はその門のかたわらに、丁度その門と殆ど同じくらいの高さに伸びた一本の灌木がいちめんに細かな白い花をふさふさと垂らしているのを認めると、自分のあとからくる妻のほうを向いて、得意そうにそれを指さして見せた。> 浄瑠璃寺の門に向かう小道に、馬酔木が多く植えられており、堀辰雄が訪れたのは、春ですから綺麗に咲いていたようです。<「おい、こっちにいい池があるから、来てごらん。」「まあ、ずいぶん古そうな池ね。」妻はすぐついて来た。「あれはみんな睡蓮ですか?」「そうらしいな。」そう僕はいい加減な返事をしながら、その池の向うに見えている阿弥陀堂を熱心に眺めだしていた。>三重塔から池の向こうに阿弥陀堂が見えます。 浄瑠璃寺には、池を中心とした浄土式庭園と、平安末期の本堂および三重塔が残り、平安朝寺院の雰囲気を残しています。本堂は多数建立された九体阿弥陀堂の中で、唯一の遺構とのこと。<うすぐらい堂のなかにずらりと並んでいる金色こんじきの九体仏を一わたり見てしまうと、こんどは一つ一つ丹念にそれを見はじめている僕をそこに残して、妻はその寺の娘とともに堂のそとに出て、陽あたりのいい縁さきで、裏庭の方かなんぞを眺めながら、こんな会話をしあっている。>九体阿弥陀如来像(浄瑠璃寺パンフレットより)<僕はそんな考えに耽りながら歩き歩き、ひとりだけ先きに石段をあがり、小さな三重塔の下にたどりついて、そこの松林のなかから蓮池をへだてて、さっきの阿弥陀堂のほうをぼんやりと見かえしていた。>上の写真は阿弥陀堂側から見た三重塔です。『浄瑠璃寺の春』は、次のように馬酔木の花から始まり、<この春、僕はまえから一種の憧れをもっていた馬酔木の花を大和路のいたるところで見ることができた。>最後も馬酔木の花で結ばれています。<僕はそのときふいと、ひどく疲れて何もかもが妙にぼおっとしている心のうちに、きょうの昼つかた、浄瑠璃寺の小さな門のそばでしばらく妻と二人でその白い小さな花を手にとりあって見ていた自分たちの旅すがたを、何だかそれがずっと昔の日の自分たちのことででもあるかのような、妙ななつかしさでもって、鮮やかに、蘇らせ出していた。>堀辰雄にとって、馬酔木は特別な思い入れがあったようです。
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