若い息吹を感じる、大学のキャンパスを歩くことが大好きなのですが、今回はハイデルベルグを訪れるチャンスを得ました。写真は大学広場と旧大学校舎マークトゥエイン『ヨーロッパ旅行記』第4章には1878年のハイデルベルグの羨ましいキャンパスライフが描かれています。<常に多くの学生が町にあふれているので、彼らはいつ勉強するのだろうかと不思議に思う。学生の中には、勉強するものもいれば、しない者もいる。する、しないは自分で選べる。ドイツの大学は自由で、特に拘束はないようである。学生たちは大学の寮には住まず、自分の気に入った地区に部屋を借りて住み、好きな時に、好きな所で、食事をとるのである。眠くなったらベッドに入り、起きたいと思わなければ決して起きることはない。> 日本でいえば明治時代の大学生活ですが、ああ、なんと恵まれた生活でしょう。マークトゥエインも羨むぐらいです。上の写真は新校舎と14世紀には市壁の塔だった魔女の塔。 しかしトゥエインの説明では、彼らは9年間のギムナジウムで、奴隷のようにひたすら教師の言いなりになって学び、完璧な教育を受けて卒業した結果のことであり、<したがって、このようなドイツ人学生は、学びたい講義分野にしか出席せず、一日の残り時間を、ビールを飲んだり、犬を連れて歩いたりして、楽しんでいるのだ。ドイツ人学生は長い間厳しく拘束されてきたので、大学生活の寛大な自由こそは、まさに彼らが必要とし、好み、全面的に支持しているものである。ただし、この自由は長続きはしないから、続く間は最大限に利用し、再び拘束されて、公的な職や専門職の奴隷になる日に備えて、十分な休息をとっているのである。>とのこと。日本の受験勉強と大学生活も同様かもしれませんが、何處か違っているような気もします。上の写真は大学図書館。当時は大学の治外法権が認められていたようで、マークトゥエインは学生牢について次のように説明しています。200年間実際に使われていた学生牢。<学生は公法をたくさん犯しても警察に出頭しなくてもよいようだ。彼の事件はきっと大学が裁き、罰するに違いない。警察が不法行為をしている者を見つけ、逮捕しようとすると、違反者は自分は学生だと言い、おそらく警官に入学許可証を見せる。すると警官は彼の住所を尋ねて去り、署に事件を報告する。その犯罪に対して市に裁判権がない場合には、警察は正式に大学にその事件を報告し、それ以上はタッチしない。大学の法廷がその学生を召喚し、証言を聴き、判決を下す。たいてい、科せられる罰は大学の牢獄への投獄だ。><壁に牢獄の決まりが書かれてある厚紙の板がかかっていた。私はこれらのひとつかふたつをメモした。たとえば、囚人は入獄するという「特権」のためにわが国の二十セントに相当する額を、刑期を務めて出所するという「特権」に二十セントを、牢獄で一日過ごすごとに十二セントを、暖房と電気代として一日十二セントを払わなければならない。門衛が少額でコーヒーと朝食を持ってきてくれる。囚人が望めば、外にディナーや夕食を注文することができる。彼はそれらの代金を払うことも許される。>ここは旧兵器庫と厩舎ですが、現在は大学食堂になっています。ああもう一度どこでもいいから大学で暮らしてみたい。
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1878年マークトゥエインが見たハイデルベルグのキャンパスライフ
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麗しい初夏の午後、西宮の浜辺で聴く曲は?(平中悠一『ギンガム・チェック』)
平中悠一『ギンガム・チェック』に、次のように始まるエッセイがあります。<街でリゾート小説を読む。海辺で都会小説を読む。これはひとつの正解だろう。音楽もまた然り。じゃ僕らみたいな郊外生活者は普段なにを聴けばいいんだろう?> 平中悠一はこの作品を書いていた頃は、夙川あたりに住んでいたのではないでしょうか。(上の写真にはカトリック芦屋教会の尖塔が写っていますが)したがって「郊外生活」とは夙川あたりで暮らしたことを言っているのでしょう。ベッドタウンなどとは呼ばず、阪神間モダニズムの時代に使われ始めた「郊外生活」です。さて平中悠一の郊外生活の説明が始まります。<僕なんか神戸や大阪に出るのは月に1、2回きりだから、人混みは大嫌いな物のリストの1位に近い。用事ないから。都会的生活は近所で充分まかなえる。感じいいバーやビストロも点在しているし、ハイ・ファッションも書籍も手に入る。とはいえ僕の通った学校から、とりあえずのビーチまでは17、8分。マウンテン・サイドへの砂金の夜景を見にいくにはざっと20分、ってとこか。>僕の通った学校とは関西学院のこと。 当時の夙川・苦楽園の映像が、昭和62年にNHKで放映された「きんき紀行 清流に映すモダンの影~西宮市夙川~」に残っていました。『ギンガム・チェック』からです。<明るい陽射しの川辺りの店でお茶してたりすると、殆どリゾート気分になったりできて、簡単に日常生活がピクニック化してしまう。たとえば麗しい初夏の午後。うわぁ、こんな日に海っぱたへ行くと気持ちいいよね、なんていったが最後、じゃ行こうか、時間あるし、みたく、すぐになってしまう。こないだもそうやって西宮港の埋立て地へ行ってしまった。>このあたり、映画『She’s Rain』のシーンを思い起こさせます。<波の寄せるコンクリートの突端に車を停めて、エンジンを切る。春の景色は仄かに霞み、穏やかな海の彩りの中には幾つか貨物船の影。ちょっと仕事しよう、と僕が抱えてたゲラに赤を入れだすと、暇になったGFはバック・シートに抛ってあったブルース・ウェバーの写真集を引っ張り出した。いっぱいに下ろした窓からは涼しい海風が流れ込む。さて、スピーカーから流れるべき音楽は……。 ボサ・ノヴァ。これが僕の正解である。>平中悠一が西宮の浜辺に車を停めて聴いたのはボサ・ノヴァ。しかし、彼が厳密にいうと好きなのはジョアン・ジルベルトだけだとか。 同じく関学出身の作家原田マハも小説『おいしい水』で、阪急電車に乗って、ジルベルトの歌声を聴いていました。<芦屋川を通過する瞬間、反対側のドアを振り返る。なだらかな街が海に向かって広がり、ずっと向こうの短い水平線が日射しに輝いて見える。柔らかい吐息のようなジルベルトの歌声と、眠たくなるほど心地よいギターの響きが、ほんの一瞬、遠くの海と交差する。>彼女のジルベルトは、夫人だったアストラッド・ジルベルトでした。いずれにしても、阪神間の風景にマッチするのはボサ・ノヴァ。
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マーク・トウェイン『ヨーロッパ放浪記』ルツェルンのライオン像へ
マーク・トウェイン『ヨーロッパ放浪記』にはスイスのルツェルンを訪れたことが述べられています。 私たちも、ユングフラウ滞在を終え、12世紀創建のベネディクト派修道院のあるエンゲルベルクに立ち寄った後、ルツェルンに向かいました。 ルツェルンにはフランス革命の1792年8月10日にスイス傭兵がチュイルリー宮に押し寄せる革命派を阻止しようとして殉死したことを後世に伝える記念碑として造られた有名なライオン像があります。<本物のライオン像は低い崖の垂直の壁に鎮座していた -崖の岩をそのまま彫って造ったものだからである。大きさは巨大と言っていいくらいで、姿は堂々たるものである。><頭を少し垂れ、折れた槍が肩に刺さり、前に踏み出した足はフランス王家の紋章である百合の花の上にのっている。蔦が崖を這い、風に揺れていた。水の澄んだ渓流が上から流れ落ち、下の池に注いでいた。池の水面には睡蓮が浮かび、その中にライオンの姿が映っていた。>私が訪れたときは、蔦や睡蓮はありませんでしたが、瀕死の苦しげなライオン像がはっきり見えました。<周囲には、緑の木々や草が繁っている。この場所は森に囲まれた人目につかない所で、世間の喧騒からは隔離されていた。やはり、ルツェルンのライオンが見る者に感銘を与えるのは、この場所以外にはないのである。> 木々に囲まれた格好の場所ですが、既に多くの観光客が来て写真を撮っていました。旧市庁舎で昼食をとった後、街の中を散策。マークトウェインも渡ったカペル橋へ。<われわれは湖から勢いよく流れ出ているロイス川にかかる、屋根のついた二本の長い木製の橋を見に行った。このうねるような、湾曲したトンネル形の橋は人を引き付けるものがあって、滔々と流れる川の上に小屋のような外観を呈していた。内部にはスイスの昔の画家たちの奇妙な古い絵が二、三百描かれていた -彼らはデカダンス芸術以前に流行った看板書きである。>この橋は何度か焼け落ちたようで、橋の内部に掛けてある絵も復元したもののようです。 市街地を守っていたムーゼック城壁からルツェルン湖と市街地が見晴らせました。マークトウェインたちは、数日間、青いルツェルンの湖や雪をいただいた周囲の山々を眺めて心ゆくまで楽しんだ後、蒸気船に乗ってリギ山の麓まで行って登ることにします。ここからリギ山まで14km。私たちは遊覧船で眺めて戻ってきました。
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平中悠一『ギンガム・チェック』に描かれた芦屋川の風景
平中悠一『ギンガム・チェック』「ライムギ畑からの眺め」は次のように始まります。<ある水曜日、午後から晴れてきたので、僕は川べりへ散歩に出かけた。水量の少ない、川は、いつものように流れが速く涼しげで、芝生の緑は鮮やかだった。><カトリックの教会が向こう岸の正面にくる辺りの、バンクの上の柵にすわると、僕は煙草に火をつけた。空は青く、ところどころに絹雲がうっすらとかかっていた。その空を教会の尖塔がてっぺんのクルスまで、くっきりと切り取っている。>ここまで読むと、川は夙川ではなく、芦屋川。「カトリックの教会」はカトリック芦屋教会だと気付きます。<そんな景色を眺めていると、川上の方からひとりの女のコが歩いてくるのが見えた。土手の下の、芝生の上を。彼女は山手にあるきちんとした女子高の制服を着ていたけれど、まだ、ほんの子供だった。中学に上がったばかりくらいか。用なしになった傘をぐるぐる振りまわしながら歩いてくる、彼女はとつぜん芝の上にしゃがみ込んだ。そうして熱心に足下を見ている。何をしているんだろう、と思っていると、ついに彼女はぺたんとすわり込んでしまった。やがて彼女は立ち上がり、また傘をぐるぐるやりながら歩き出す。そしてまたしゃがみ込む。> そして平中悠一は彼女が四葉のクローバーを捜しているのだと気付き、サリンジャーの”The Catcher in the Rye”で子供たちにやさしい目を向ける主人公になったような気持になります。 このエッセイの最後も、やさしい気持ちにさせる名文です。<彼女はシロツメグサのかんむりを差し出すと、僕にいう。「ねぇ、あっちで一緒に遊ぼうよ。番してることなんかないわ。誰も崖から落ちたりあいないもの」うん、それはそうなんだけどさ、と僕は応える。その言葉は本心からのものだった。けれども、僕は今日もこうしてライ麦畑のただ中に、独りすわり続けている。―「いいや、僕はただ、お前を見てるよ。僕はただ、見てようと思うんだ」- Fin > 読み終えて、思い出したのは庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』でしたが、それより久しぶりにサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を読み返してみようかと思いました。いずれも随分昔、多感な時代に読んだ本です。
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原田マハ『おいしい水』に描かれた阪急電車
倉敷の大原美術館とスイスのバーゼル市立美術館が登場することから読み始めた『楽園のカンヴァス』の作者原田マハさん。原田マハ公式サイト「Naked Maha」のプロフィールを読むと、自伝が詳しく書かれています。http://haradamaha.com/profile/ 以下は多公式サイトから、彼女の多彩さの謎が解ける自伝からの引用ですが、関学に在学し、西宮に住まれていたようです。<1981関西学院大学文学部入学。当初、ドイツ文学科に所属したが、あまりにもドイツ語ができなくて日本文学科に転科。おかげで、明治―現代の代表的な小説をほぼ読破。就職活動の足しになればと、4年生のときにグラフィックデザインの専門学校に通う。のちに、阪神大震災で崩壊する運命となる西宮のアパートで、友人と共同生活を送る。このころ、その友人と共著で、少女マンガ「ロマンチック・フランソワ」を「りぼんまんが大賞」に投稿、最終選考に残るもあえなく選外に。実家は大学1年のときに、岡山から東京へ移住。1985関西学院大学卒業。卒論は「谷崎潤一郎:痴人の愛」。就職先がみつからなかったので、そのまま西宮に居残り、バイトをしながら専門学校を卒業。> その頃の経験を背景に、神戸を舞台とした19歳のほろ苦い恋のお話『おいしい水』を書かれています。 その冒頭は、土曜日の朝、西宮北口から阪急電車で三宮に行くシーン。<あずき色の電車がゆっくりとホームに入ってくる。車内の黄緑色のシートが、あっというまに着ぶくれた人々で埋まる。はしゃぐ子供たちは、王子公園で降りて動物園に行くのか、それとも三宮からポートピアランドに遊びにいくのだろうか。車両の真ん中あたり、北側のドアの前が私の定位置だ。窓に寄り添って立つと、反対側のドアが閉まる。>まるでラッピング電車の景色を語っているようです。<あずき色の電車は、大阪・梅田から、私の住む西宮北口という駅を通って、神戸・三宮、新開地まで走っていた。特急ならば、西宮北口から三宮まで十分ちょっと。物足りなくて、私はしばしば普通電車に乗った。車窓から眺める風景が、何より好きだったのだ。山側は北。海側は南。方向音痴の私でも、神戸では方角を間違えようがない。そんな大らかな地図のような街が、大好きだった。> 景色を楽しむため、西宮北口駅に入ってきた特急ではなく、この普通電車に乗ったようです。 原田マハさんは岡山の山陽女子高から関西学院に入学し、西宮にやってきます。関西学院大学のホームページを見ると、次のような学生時代の楽しいお話が掲載されていました。<―入学してどうでしたか? 夢のようでした。上ケ原の小さな下宿に住んでいたのですが、それもいい経験でした。そのときに仲良くなった友達とはいまだに仲良くしています。限られた仕送りやアルバイト代の中で生活していましたし、どちらかといえば苦学生でしたが、自分が憧れていた場、舞台にいるという思いが強かったので、苦労を苦労と思いませんでした。関学にいるということ、それだけで嬉しかった。単純な18歳だったかもしれませんね。今思えば一体何を勉強していたんでしょう?(笑)>上ケ原の下宿から西宮北口の近くに引越しをして、岡山時代の友人とルームシェアをしていたことも述べられています。http://www.kwansei.ac.jp/pr/pr_005190.html『おいしい水』に戻りましょう。<高校生の時、大学の下見で初めてここにやってきて、この電車に乗った。電車といえばオレンンジ色や水色の明るく目立つ色、というのが子供の頃からの概念だった。あずき色の電車を一目見て、なんて野暮ったいん、と思った。 でも、毎週末乗るようになってから、この電車をデザインした人を尊敬するようになった。なぜなら、明るい緑の六甲山を背景に、夙川や芦屋の川辺の桜並木を抜けるとき、あずき色は完全に風景に溶け込んでいるからだ。冬の枯れ木立のあいだにも、この色はしっくりくる。三宮のデパートのネオンですら、この電車によく映えていた。>写真は甲陽線ですが、桜並木に阪急電車が映えます。 関西学院に入学し西宮にやってきて、バイトをしながらグラフィックデザインの専門学校にも通っていた原田マハさん。その間に、すっかり阪急電車ファンになられたようです。
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小川洋子さんのエッセイに登場する愛犬ラブの写真も展示中
芦屋市民センター展示場で、10月3日まで「芦屋のペット大集合」と題して、ペットの写真展が開催されています。そこに『犬のしっぽを撫でながら』や『とにかく散歩いたしましょう』などに登場する小川洋子さんの愛犬ラブの写真を提供いただき、展示させていただきました。「いつも犬や猫といっしょだった作家たち」というコーナーに写真と著作を展示しています。『犬のしっぽを撫でながら』には、子犬のころのラブのお話が。<三十数年前の人生で初めて、犬を飼ってみようか、という気になったのは、優雅にして思索的な散歩にあこがれてのことであった。小説を書いているとどうしても運動不足になる。散歩が手っ取り早くていいのは確かだが。倉敷の田舎では道を歩いている人はほとんど見かけない。ランドセルを背負った小学生か。農作業へ出るお年寄り以外、皆車で移動するので、手ぶらでふらふら歩いていると異様に目立ってしまう。 そこで登場するのが犬である。しかも大きくてどっしりとした賢い犬。それを従えていれば、誰に遠慮することもなく、心行くまで散歩を楽しめるだろうし、机の前に座っている時には思いもつかなかった斬新な小説のアイデアが、浮かぶかもしれない。 以上のような夢をのせて我が家へやって来たのが、ラブラドールの子犬ラブだった。>『とにかく散歩いたしましょう』で登場するお利口さんのラブです。<疲れきって家に帰ると、ラブがお利口に待っていた。ご飯ももらえず、散歩にも行けないままずっと放り出されていたのに、文句も言わず、待ちくたびれた様子も見せず、それどころか「何かあったんですか。大丈夫ですか」という目で私を見上げ、尻尾を振ってくれた。 散歩に出ると、普段と違う暗闇に怖れる怖おともなく、いつも以上に元気に歩いた。その時々の不安を私が打ち明けると、じっと耳を傾け、「ひとまず心配事は脇に置いて、とにかく散歩いたしましょう。散歩が一番です」とでも言うかのように、魅力的な匂いの隠れた次の茂みを目指してグイとリードを引っ張った。> 展示コーナーには有栖川有栖さんから提供いただいた愛猫‘イク’‘タマ’の写真も展示しており、その他野坂昭如、幸田文、谷崎潤一郎、村松友視、大佛次郎らの作品や写真も並んでいます。
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神戸でべべが一番好きな場所(原田マハ『おいしい水』)
原田マハ『おいしい水』の主人公安西(私)は、原田マハと同じく、実家は岡山、父は普通のサラリーマン。通っている大学のモデルも多分、原田マハの出身大学関西学院。<私が通っていた大学は関西でも有数の名門校で、同級生は育ちが良くてわがままなお嬢さんばかりだった。友人たちが好んで訪れるしゃれたブティックやカフェは、いつも私を孤独にした。二年生になる頃、私はもう誰とも出かけなくなっていた。> 小説と事実を混同してはいけませんが、ついつい原田マハの関西学院での暮らしぶりを思い描いてしまいます。 さて、私(安西)は元町駅近くのコーヒーショップ「エビアン」でべべと知り合ってデートを重ねます。べべが私を連れて行ってくれた一番好きな場所とは。<いちばん好きな風景、見せたろか。そう言って、べべは私をその場所へ連れてきてくれた。トアロードから北へ、山の方角へずっと上がっていく。異人館が立ち並ぶ北野町界隈に出る。異人館通りを通って、東へ。緑色のよろい戸の異人館の脇を、急勾配の坂を上がる。うろこ模様の壁の異人館が見えてくる。息切れするくらいの坂道を上りきったところで、「振り向いてみ」とべべが言った。> おらんだ坂を登って行ったところのようで、宮本輝『花の降る午後』の舞台となった北野町のフランス料理店アヴィニョンのあたりでしょう。下の写真はうろこの家からの眺望ですが、坂道を登りきって振り返っただけでは、次のような見晴らしは残念ながら広がりません。< わあ、と私は自然に声を上げた。両腕をいっぱいに広げたように、街並みがなだらかに広がる。その向こうに、灰色の海が見える。ちょこんと突き出ている赤い突起はポートタワーだ。空中をあちこち指差して、私はひとりではしゃいだ。「あそこがメリケン波止場やね。あ、あの先っぽの建物、ポートアイランドホテルやん。> きっと更に上にあがった、港見晴らし台(地図の赤矢印の位置)からの景色でしょう。神戸の街を見晴らすデートコースといえば、一般的には金星台からヴィーナスブリッジ、諏訪山展望台だと思うのですが、原田マハさんはちょっと渋めのデートコースを選ばれていました。
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須賀敦子と生きた、少女時代の思い出
10月22日(土)芦屋市ルナ・ホールで第7回芦屋文学サロン「須賀敦子と芦屋・西宮」が開催されます。そのプログラムの一つとして、須賀敦子さんの実妹の北村良子様、小林聖心女子学院ご出身の稲畑汀子様に「須賀敦子と生きた、少女時代の思い出」をお話いただいたビデオを上映いたします。司会は文化プロデュ―サー河内厚郎氏。 収録は芦屋市の洋館として「ひょうごの近代住宅100選」にも選ばれているホトトギス社名誉主宰 稲畑 汀子様のお邸の応接室。 戦前、戦中のお話や、小林聖心での遠藤周作の母、郁様のお話など興味深いお話ばかりでした。 一昨年神奈川近代文学館で開催された「須賀敦子の世界展」には関東地方の多くの須賀敦子ファンが訪れました。残念ながら、これまで須賀敦子さんの生まれ育ったこの地でイベントが開催されませんでしたが、今回、小林聖心女子学院や北村良子様のご協力をいただき、初めて芦屋市ルナ・ホールで開催する運びとなりました。 ルナ・ホールの定員は650名程度ですので、前売りチケットがお勧めです。 奇しくも、最近産経新聞夕刊で「石野伸子の読み直し浪花女 須賀敦子の終わらない旅」の連載が始まり、記事はネットでも読めます。http://www.sankei.com/west/news/160829/wst1608290027-n1.html須賀敦子さんの生誕の地、芦屋・西宮でも益々ファンが増えることと思います。「夙川のこと、書かなきゃね、わたし、死んでる場合じゃないわよね」 須賀敦子(『須賀敦子ふたたび』「編集者からみた須賀敦子の素顔」木村由美子)
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「暮らしの手帖」に掲載されていた西宮市の記事
連続テレビ小説「とと姉ちゃん」ももうすぐ最終回。西宮市立中央図書館でも、29日まで「暮らしの手帖展」が開催されています。創刊号から最新号まで全383冊を所蔵しているそうで、立派なコレクションになっています。 展示ケースを見ると、まず目についたのが、昭和55年発刊の64号。西宮市教育委員会の「ランドセル廃止」の記事が掲載されているではないですか。当時の市教育の取り組みが評価され、記事になったようです。私の小学校時代はまだランドセルでしたが、4年生くらいになって使わなくなったような記憶。娘たちは倉敷の小学校で育ち、6年間使ったランドセルの革を使ってミニチュアのランドセルを作ってもらい、残しています。西宮市ではその後、ランドセルが復活したようですが、一時期でも斬新的な取り組みをされたことは、それなりに評価できると思います。また西宮市消防局の救急車の写真があり、「医師同乗という価値ある試み」という表題がついています。あの時代、西宮市の行政にも活力があったのでしょう。
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原田マハは『おいしい水』で美しい神戸の風景を描きたかった
関西学院大学に在学中は西宮に住んでいた原田マハさんの小説『おいしい水』の終章では、世界中の春をいっぺんに集めたような暖かな日、べべと私は神戸港の遊覧船に乗りこみます。まるでワタセセイゾウさんのラッピング電車の絵のシーンのようです。<汽笛がひとつ、悠々と鳴り響いて、船がゆっくりと水上へ出ていく。海の向こうに、はるかな街並みが浮かび上がる。常緑の六甲山が舞台背景のように街を包み込む。山麓に密集する住宅地。うろこ模様の異人館が見える。あの近くの坂道のいちばん上がべべのいちばん好きな場所だ。>べべのいちばん好きな場所は、港見晴らし台でした。遊覧船に乗って神戸港から見た神戸の街の風景が描かれています。更に阪急電車も登場。<「あ。阪急電車」あずき色の電車が、ずっと遠く、ビルのあいだを縫うように走っていくのが見えた。おもちゃの電車がジオラマの風景の中で動いているようだ。>しかし、実際には遊覧船からは阪急電車は見えないような気がします。<船は神戸大橋の下をくぐった。ポートアイランド沿いに走りながら、次第に沖へ出る。神戸の街が、少しずつ遠ざかる。水蒸気に霞んだ街を背景に立つ、紺色のまっすぐな背中。その背中が、ふいに屈みこんだ。> この遊覧船の最後となるデートで、べべは秘密を打ち明けて、去ってしまうのです。 大学の新学期が始まる頃、ナツコさんから電話がかかってきて、三宮のコーヒーショップ「エビアン」で待ち合わせ、べべから預かったケースを渡されます。<何百枚ものスライド。私は震える指先で、その中の一枚を取り出した。海の向こうに広がる、美しい街の風景。あの日、船の上で撮った写真だ。一枚一枚、取り出して見る。海岸通りの夕焼け、フラワーロードの並木、パン屋の店先。ああ、「エビアン」の緑色の椅子もある。ポストカードの並ぶ窓辺も。> きっと原田マハさんは、美しい神戸の街をロマンチックに描きたくて、『おいしい水』という作品を書き上げたのでしょう。 やはり、神戸にはラブロマンスが似合う街でした。
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安田夏菜『レイさんといた夏』は甲山が見える街が舞台①
西野宮子さんが紹介されていた西宮を舞台とした児童文学、安田夏菜さんの『レイさんといた夏』を読み終えました。 著者の安田夏菜さんのプロフィールはあまり明らかにはされていませんが、西宮市生まれ。大阪教育大学卒業。Twitterの自己紹介には、「児童文学界の片隅にひっそり生息しています。『あしたも、さんかく 毎日が落語日和』『ケロニャンヌ』『あの日とおなじ空』など。新刊『レイさんといた夏』もよろしくお願いします!」と書かれています。https://twitter.com/kanakana623『レイさんといた夏』は、人付き合いが苦手で、引きこもりがちな莉緒が主人公。東京の中学校で1学期だけを過ごし、西宮市に転校した夏休み、自分の部屋で莉緒だけに見える幽霊レイさんに出会います。自分が何者かわからないから成仏できないと言うレイさんに、夏休みの間、強引に身元探しを手伝わされることになるのですが、阪神淡路大震災が大きな鍵を握っていました。そして私も大好きな甲山の景色がしばしば登場し、莉緒の母親とレイさんの中学時代の記憶に繋がっていくのです。 西宮に転向してきた莉緒が見る甲山が次のように登場します。<「これ終わったら、次はスケッチするの。今、あの山描いてるし」窓の外に見える、緑の山を指さす。お椀を伏せたような、ポコッとした形の小さな山。関西に越してきて、唯一気に入っている光景だ。愛用の色鉛筆で山の絵を描いていると、なぜだか心が落ち着いてくる。> そうです、西宮に戻ってくると、なんとなくホッとする甲山の景色です。 莉緒の母親は西宮育ちで、「ああ、あの山。甲山っていうのよ。懐かしい。子どもの頃によく登った……」と莉緒に話します。莉緒の母親が子どもの頃登った時は、頂上からの見晴らしはどうだったのでしょう。(写真は今年1月の甲山頂上) 私の子供の頃登った甲山は、ビスマルク・ヒル。素晴らしい展望が開けていました。 安田夏菜さんの『レイさんといた夏』は対象が小学上級からとされていますが、甲山が見て暮らす住民にとっては、興味深く読める小説です。皆さん、新人作家を応援しましょう!『レイさんといた夏』の甲山のお話、もう少し続けます。
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安田夏菜『レイさんといた夏』は甲山が見える街が舞台②
安田夏菜『レイさんといた夏』に登場する甲山の紹介を続けます。主人公の莉緒と莉緒にしか見えない幽霊レイさんとの会話からです。<得意そうにレイさんは鼻をひくひくさせたけど、また窓の外を見た。「あの山、なんて名前か知ってる?」いつも私がスケッチしている、お椀を伏せたような山を指さす。夜の暗がりの中、黒い影になった山の輪郭だけが見える。「えっと、なんだっけ。この前ママが名前を言ってたけど……。あ、甲山だよ!」「そっか、甲山か……。なーんか妙に懐かしいような、心がザワザワするような気分やわ」>夜の甲山。写真は『長門有希ちゃんの消失』第12話にでてきた甲陽園若江町の長門のマンションから見える甲陽園の夜景と甲山です。『レイさんといた夏』に出てくる甲山は仁川から見た甲山。莉緒の母親とレイさんは共に西宮市立仁川第二中学校に通っていたのです。もちろん実在の中学校ではありませんが、宝塚第一中学校か、宝塚市立仁川小学校がモデルなのかもしれません。 小説では「お椀を伏せたような山」と表現されていますが、村上春樹の『海辺のカフカ』でも甲山がモデルとなったお椀山が登場します。<それは私たちがよく遠足にでかける山でした。お椀を伏せたような丸い形をしておりまして、私たちはそれを普通お椀山と呼んでいました。それほど険しい山ではありませんし、誰でも簡単に登れます。> さらに上の文章はアメリカ国防省の極秘文書に書かれていたという設定ですので、OWAN-YAMA Rice Bowl Hillという英語の注釈までついていました。『レイさんといた夏』に戻ります。最後は、やはりレイさんとの別れが待っています。夏休みの最後の日となる8月31日の朝のことです。<レイさんは、あの空の向こうに行ったのだろうか?床に投げ出したままのスケッチブックを手に取った。開いてぺージをめくる。甲山の絵が何枚か描かれていた。そして次のページには、レイさんを描いた絵が残っていた。真っ茶色の髪。背中まであるロングヘア。耳元には銀色のピアス。斜めにすくい上げるような目つきで、睨むように見つけている女の子の絵。>甲山を知る人にとっては、心がなごむ小説。児童書に分類されていますが、大人でも十分楽しめます。
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地上に存在していることが奇跡ともいうべき美しい喫茶店
先日パボーニに行くと、しばらくして一人の紳士が入ってきました。 お話を伺うと、東京のワイン輸入会社の社長で、日経新聞のコラムを読まれて感銘し、その記事から調べて、夙川のパボーニが堂島のカーサ・ラ・パボーニに引き継がれていることを知り来られたそうです。 その記事とは、以前にもご紹介しましたが、2016/3/23付日経新聞夕刊のコラム「あすへの話題」の多摩美術大学学長・建畠晢氏による「一人で行く喫茶店」。<日に三回は喫茶店に通っているし、昔話をすれば、阪神間の夙川に、地上に存在していることが奇跡ともいうべき美しい喫茶店があって、そこに行くだけのために東京から新幹線で日帰りしていたくらいなのである。> 3月23日の日経新聞記事は評判となり、建畠晢氏は続いて3月30日付の「あすへの話題」で、再び「孔雀の口紅」と題して夙川にあった喫茶店ラ・パボーニについて詳しく述べられていました。 http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11374472c.htm ところで、多摩美術大学学長・建畠晢氏の略歴を調べると、「多摩美術大学芸術学科教授、国立国際美術館長、京都市立芸術大学学長などを経て、2015年より多摩美術大学学長。2011年〜埼玉県立近代美術館長。専門は近現代美術。」とのこと。著書には、詩集『余白のランナー』(1991年、思潮社)詩集『零度の犬』2004年、書肆山田エッセイ集『ダブリンの緑』(2005年、五柳書院)詩集『死語のレッスン』(2013年、思潮社)など、美術評論だけではなく、多くの詩集を著されており、詩人でもありました。その感性が、あのような名文を記させたのでしょう。 更に調べていると、今年の日経新聞のコラムに先立つこと4年、建畠晢氏がまだ京都市立芸術大学学長の時代、2012年2月1日の京都新聞に「一人で過ごす喫茶店」と題して、やはり奇跡の喫茶店として夙川のパボーニの紹介をされていました。<西宮の夙川にあったルージュ・ラ・パボーニもその一つで、東京にいた頃は、この店に行くためだけに年に何度かは新幹線で日帰りしたものでした。戦前、夙川に住んでいた母が、パボーニの経営者の画家夫妻に可愛がられて入りびたりになっていたと聞かされたのがきっかけですが、軍国主義が支配する中での反戦自由主義者の溜まり場でもあったという伝説的な店は、残念ながら阪神大震災の後に取り壊されてしまいまいした。あのようにも美しい喫茶店が現実に存在していたということ自体、いま思い返せば奇跡のようですらあります。> 野坂昭如が、戦時中、唯一開いていた喫茶店と述べていたことも真実だったのでしょう。それにしても、建畠晢氏の文章は、東京からでも探して訪れたくなるほどの魅力ある文書でした。
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岡山弁の傑作小説・原田マハ『でーれーガールズ』
関西学院大学時代は西宮北口に住んでいた原田マハ。『おいしい水』では80年代の神戸を舞台にしたラブ・ストーリーを著しています。そして第25回山本周五郎賞受賞作『楽園のカンヴァス』では、最初に倉敷の大原美術館で、岡山白鷺女子高校に通う主人公の娘が登場します。その岡山弁が見事だったので、驚いて原田マハ公式サイトの自伝的プロフィールなるものを読ませていただくと、<年東京都小平市に生まれる。小学6年生のとき、百科事典や美術書などのセールスマンをやっていた父の仕事の転勤によって、岡山へ。岡山市下井福に住む。岡山市立三門小学校、市立石井中学校を経て、私立山陽女子高校入学。フォークバンドを結成し、自作イラストつき恋愛小説、少女マンガを書くなど、かなり進歩的な10代を過ごす。>http://haradamaha.com/profile/と書かれており、岡山弁のうまさには納得しました。『楽園のカンヴァス』で登場した岡山白鷺女子高校のモデルは、原田マハが卒業した山陽女子高校に違ないと思っていたのですが、その女子高生たちのラブ・ストーリー『でーれーガールズ』が2011年に刊行されていました。 読んでみると、当然岡山弁がガンガン出てきて、ストーリー展開もTVドラマ向きだと思っていたら、昨年映画化されていました。 主人公鮎子は、岡山白鷺女子高校の卒業生の中でも白眉の出世をとげた人気漫画家。 創立百二十周年の記念講演に招かれますが、原田マハも高校時代は漫画なども描いていたそうで、主人公のイメージと重なってしまいます。撮影は現在は取り壊された山陽女子高校の旧校舎のものだそうです。私も長い間、倉敷で暮らしましたので、小説の中にも、映画にも懐かしい風景が広がります。倉敷の美観地区。懐かしい大手饅頭。岡山駅の北側にある地味な奉還町商店街。原田マハさんもよく行った商店街だそうです。小説でしばしば登場するのが、旭川にかかる鶴見橋。<「城下」という駅で降り、三分も歩けば旭川に到着する。そこに架かる「鶴見橋」。おおげさかもしれないが、死ぬまでにもう一度訪れておきたかった場所だ。橋の真ん中に、佇んでみる。大きく伸びをして、胸いっぱいに深呼吸する。なつかしい水のにおい。青空の向こうに岡山城がぽつんと頭をのぞかせている。 自転車に乗った高校生らしき女の子たちが、ミニスカートの裾を風になびかせて、しきりに笑い合いながら、橋の上を駆け抜けていく。 私は橋の欄干にもたれて、頭を巡らした。二十何年の時を超えて、いま、自分がこの場所に立っていることが不思議でならない。>特に岡山を知る者にとって、小説も面白く、映画も懐かしいシーンばかりで楽しめました。岡山の観光ガイドにもなりそうです。しかし、関西ではあまりヒットした様子がなかったのが残念です。
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神戸女学院特別講演会「石戸コレクション」でふりかえる神戸女学院へ
10月1日(土)神戸女学院で石戸信也氏による講演会、「石戸コレクションでふりかえる神戸女学院」が開催され出席させていただきました。
校門を入っていくと、案内図には、「重要文化財神戸女学院」と明記されていました。
ヴォーリズ建築をそのままの姿で守られてきたことが認められた結果だと思います。
会場はいつもの講堂です。
最初、学院長 森孝一氏から挨拶があり、今回の講演が開催された理由を披露されました。
院長は無類の温泉好きで、時々有馬温泉に一人で出かけられるそうで、温泉からの湯上りで置いてあった石戸信也氏の著作『むかしの六甲・有馬 絵葉書で巡る天井のリゾート』を読まれたそうです。
そこには院長も知らなかった、神戸の山本通りに開校した神戸女学院の建物が富士ホテルとして使われていたというエピソードと絵葉書が掲載されており、石戸氏を招いて講演していただくことになったとのことでした。
石戸信也氏は、神戸や阪神間の戦前の絵葉書・古写真など約5000点にのぼる蒐集をされ、研究されており、著書には前述のほか、『神戸レトロコレクションの旅』『神戸のハイカラ建築』など多数あります。また氏が、私の母校でもある県立西宮高校の出身で、現在も歴史を教えられていると知り、驚いてしまいました。
講演では、石戸コレクションをもとに、神戸外国人居留地・神戸のハイカラ文化・神戸女学院のあゆみなど興味深いお話をされました。
講演後は図書館で石戸コレクションの展示を見せていただくことができました。
その中にはお話いただいた富士ホテルのパンフレットも展示されていました。
昭和8年の岡田山への移転後残され建物は、移転してきた神港中学に講堂などは売却されたそうですが、理化学館は富士ホテルとして生き残ったそうです。
しかし戦時中は日本海軍の宿泊所となり、敗戦で将校宿舎用に接収され、昭和21年にはオリエンタル・ホテルが経営を請け負ったそうですが、残念ながら現存していません。
神戸女学院の跡地は現在神港学園となっていますが、金網越しに「神戸女学院創設の地」と刻まれた石碑が残っています。
最後に重要文化財に指定されたキャンパスを見学してまいりました。
陽射しが美しいソール・チャペル。
美しく続く回廊。
いつも有意義な講演を企画される神戸女学院のイベント情報は見逃せません。また紅葉の時期に美しいキャンパスを見せていただきたいと願っています。
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平中悠一『ギンガム・チェック』は当時の阪神間シティボーイのテキスト?
平中悠一の『ギンガム・チェック』(1990年刊)を読むと、当時の阪神間シティボーイの教科書的存在ではなかったかと思われてきます。 当時の「シティボーイ」必読の書といえば、1976年に、「Magazine for City Boys」というサブタイトルで創刊された「ポパイ」でしょう。アメリカ西海岸などの生活様式を日本に紹介し、若者文化をリードした雑誌でした。平中悠一は典型的な「ポパイ少年」だったのでしょう。 ところで、シティボーイがあるなら、シティガールもあるはず。「Magazine for City Girls」といえばマガジンハウスより、男性向け雑誌『ポパイ』の姉妹誌という位置づけで1982年に創刊された。『オリーブ』。『のんちゃんジャーナル (Oliveの本)』は、雑誌オリーブの仲世朝子さんのイラストの連載をまとめられた本です。『ギンガム・チェック』のイラストを担当したのが、その仲世朝子さん。『ギンガム・チェック』の「おまけ③」 は神戸でデイト(Avec Nakase-San)。80年代後半、阪神間シティボーイが東京から来たシティガールを誘ったデイトコースを確かめてみましょう。
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篠綾子『白蓮の阿修羅』に惹かれ興福寺へ
10月10日まで、興福寺の国宝に指定されている五重塔・三重塔が初めて同時開扉され、初層に安置される四方仏、弁才天像が拝観できると聞き、行ってまいりました。西宮から奈良へは阪神西宮から奈良行きの快速急行に乗れば、乗り換えなしで行け、大変便利になりました。興福寺五重塔はやはり猿沢の池からの光景が一番です。 五重塔、三重塔の拝観の後は、楽しみにしていた阿修羅像の拝観に、国宝館へ。楽しみにしていたと申しますのは、昨年末に出版された篠綾子『白蓮の阿修羅』を読んだのがきっかけです。『白蓮の阿修羅』には天平時代を代表する光明皇后、光明皇后の異母姉妹である藤原長娥子、そして、長娥子が長屋親王との間に儲けた教勝という女性が登場し、篠綾子さんは「あとがき」で<光明皇后が強く抱いてきた「家」への思い ーそこから、教勝はどうやって解き放たれたのだろう。それが、本書執筆の一番の動機だ>とし、最後に、<三人の女性たちの三様の生き様を、美しく魅惑的な興福寺阿修羅像を生み出した奈良時代の息遣いと共に味わっていただければ、これに勝る喜びはありません。>と結ばれており、素直に感動して興福寺に行ってみたくなったのです。 Amazonでは、次のように紹介されています。<天平6年、正月11日、興福寺西金堂の落慶供養が行われた。安置された30体近くの仏像群の中で、ひときわ目を引いたのが、後に「日本人にもっとも愛された仏像」と言われる、あの阿修羅像だった。「神というより、人のようではないか」――若き仏師がそこに込めた思いとは。苛烈な権力争いを繰り広げる男たちと付き従う女たちの葛藤、ひたむきな愛をドラマチックに描き上げた、日本人の魂の琴線に触れる感動の物語。> それでは興福寺西金堂の落慶供養に始まる序章からです<天平六(七三四)年、正月十一日、興福寺西金堂の落慶供養が行われた。春日山の麓にある興福寺の参道を、輿から降りた皇后光明子は、ゆったりとした足取りで進んでゆく。ふと足を止めて西の方を見やれば、ここよりずっと下方に、皇后周辺の建物群の屋根が小さく見えた。皇宮の南を守る朱雀門から、朱雀大路がまっすぐ南に延びており、都城の最南端は羅城門によって守られている。>現在、平城京跡には朱雀門が復元されています。興福寺の案内図でわかるように西金堂は再建されず、石碑が残っているのみです。光明子と中に入って見ましょう。<万福が先導して、光明子を西金堂の中へと招き入れた。中はかぐわしい香が薫かれ、美しく荘厳されている。安置された仏像群は、目にまばゆいほどの朱や緑青、黄金で装飾されていた。> 西金堂に納められた像は、全部で三十体近く。丈六の釈迦如来像一体を中心に、脇侍の菩薩像二体、羅漢像十体、梵天および帝釈天像それぞれ一体、四天王像、八部衆像がその脇に安置されていました。 それらの八部衆像に目をやっていた光明子の足取りが、ある一体の像の前で止まります。<「これはいったい……」皇后の背後に付き従っていた仏師万福とその弟子たちも、一様に歩みを止める。「神というより、人のようではないか」光明子の呟きを耳に留めた万福が、前に進み出ようとした時、「いや、人らしいのは顔だけか。三面六臂のお姿は確かに阿修羅像じゃ」光明子は続けて言った。「仰せの通りでござります、皇后さま」万福が恭しく答えた。「それにしても、昔、絵に見た阿修羅像とは何と違っていることか。優しげな若子のようにも見え、頼りなげな乙女子のようにも見える。万福よ、そもそも阿修羅像は戦いの神だったのであろう」> この序章のあと、若い仏師福麻呂が阿修羅像を完成するまでの物語が始まります。<心の内部に吹き荒れる怒りと憎しみゆえに、つり上がった眦―。そんな己自身を見つめる、孤独で悲しみに満ちた内省の眼差し―。そして、最後にたどり着いた、永遠を見つめ、愛する者を見つめる切ないまでに凛とした眼差し―。左面、右面、正面のそれぞれの違いを表現しなければ― 。>と三つの顔の眼差しの違いを表し尽くす苦しみが描かれていました。幸いなことに、創建時の西金堂にあった阿修羅像など八部衆像は国宝館に安置されています。館内は当然撮影禁止となっていますが、絵葉書から拝借した阿修羅像です。
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4年越しの懸案「甲南病院下、住吉聖心のれんが塀は?」ようやく解決!
ちょうど4年前、2012年10月10日に「甲南病院下、住吉聖心のれんが塀は?」という記事をUpしました。http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10770910c.html 当時、涼宮ハルヒに登場する甲南病院を訪ねた時のような記憶ですが、坂の途中で上のポスターを見つけ、赤煉瓦塀を捜して、その付近の急坂を何回も登り降りして探したのですが、どうしても見つけることはできませんでした。 小林聖心女子学院の同窓会のホームページに設立までの歴史が詳しく述べられ、昔の写真も公開されています。http://www.interq.or.jp/venus/mikokoro/50nen1.htm 「大正12年4月3日、マザー・マイヤーとマザー・マーヌーリーが来阪し、玉造のヌーヴェル愛徳修道会に数日間滞在した後、同月9日、稲畑喜久子夫人の提供の兵庫県岡本の別荘に仮修院を開設、同時に数人の生徒を集めてプライベート・レッスンを開始した。なお9日、マザー・ウエルマン、マザー・ヘンダーソン、16日にはマザー・イスペック、シスター・ステンダーが岡本に来た。さらに、それからほどなく5月25日には兵庫県武庫郡住吉村鴨子ヶ原184(現在の神戸市東灘区、甲南病院のすぐ南)にドイツ人の別荘を借り受けてここへ移り、住吉聖心女子学院を設立した。」更にその光景が次のように描写されており、「阪急の御影駅を降り、大きな石垣を右に見ながら坂道を登っていく。やがて道は松林の中にはいり、左寄りの小道をなおもたどっていくと、ドイツ風の洋館2棟とバラックの仮校舎が見えてくる。見晴らしのよい丘の上である。建物を取り囲む庭には、ある時は山茶花、またある時は椿と、色とりどりの季節の花が咲き乱れ、ふり返ると、光り輝く神戸の海が眩しく眼下にひろがっている。ときおり、ロザリオを手に松林を散策したり、3-4人で椅子を円型に寄せ合って編物をしたりしているマザーの姿が見られ、公立の学校とはおよそかけ離れた雰囲気をかもしだしていた。」 このような文章を読むと、何としてもその場所を特定したかったのですが、今年の夏に小林聖心女子学院のアーカイブ室を訪れ、地図を見せてもらいようやく、その場所がわかったのです。最近出版された『神戸線沿線まちあるき手帖』にも阪急御影駅にその場所が記されています。 暑い盛りに、あの坂道(九重坂)を登るのはと思っていたのですが、ようやく涼しくなり秋晴れの今日、決断して探しに出かけることにしました。阪急御影駅で降り、筒井康隆『残像に口紅を』に登場する深田池を通って、いよいよ九重坂を上ります。こんな景色が見えるところまで登り切りました。 煉瓦塀は甲南病院のすぐ下、御影ガーデンハイツの北側の境界にありました。(短い赤矢印) 下の写真の現在の東京の聖心女子学院に残されているほどではありませんが、大正時代に造られた煉瓦塀が、戦災にも、大震災にも耐えて残っていたとは。寄付を募って、何とか記念碑として残るようにしていただけないものでしょうか。素晴らし景色を見ながら、懸案解決に満足して戻りました。
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阪神間シティ・ボーイ平中悠一のデイトコース
平中悠一『ギンガム・チエック』で、イラストレーターの仲世朝子さんとのデイトが「神戸でデイト(Avec Nakase-San)」と題して紹介されています。 ‘80年代後半、阪神間シティ・ボーイが、とっておきの人を誘ったデイトコースはどこだったのか、読み進めましょう。 4月も終わりのある日曜。平中悠一は、仲世さんが遊びに来るというので、オリエンタル・ホテルへ向かいます。もちろん当時、旧海岸通りにあったオリエンタル・ホテルでしょう。写真は神戸市立美術館の隣の元の場所に2010年に復活したオリエンタル・ホテル。 まずは、夕食に生田筋にある洋食屋のカツレツを食べに行きます。<とにかく僕は彼女にカツレツを食べさせたかった。神戸でおいしいのは先ず洋食。それもカツレツだから。>と相当カツレツに入れ込んでいますが、お目当ての店が閉まっていたので、比較的きれいで味もまあまあの所へ行きます。 おそらくお目当てのカツレツが美味しい店とは、1936年創業の老舗洋食店「欧風料理もん」だったのでしょう。次に行ったのが珈琲屋。<中山手通りの山っ側を、ずっと西に歩き、僕の好きな珈琲屋でお茶にした。ご飯を食べて、珈琲屋へ行く。これは僕の定番のデイト。>中山手通りの珈琲屋と言えば、にしむら珈琲店本店ですが、西に歩いたと書いてありますから、違うようです。次は神戸の夜景を見に。<先ず神戸のコなら高校の時分かならず男のコに一度は連れていかれる、という摩耶山のトゥール・ドールの展望台へ上がり、所謂「神戸の夜景」を見る。ビーナス・ブリッジから、あれがポート・タワーであれが神戸大橋、あれがポート・アイランドで、ホテルはきっとあの辺り、てな調子のガイドわやった。>「摩耶山のトゥール・ドール」とは、いくら何でも間違いで、諏訪山のトゥール・ドールでしょう。平中悠一は宝塚線育ちだったためかもしれません。次にそのまま車でどーん、と降りて、中突堤の先まで行きます。その後はポート・アイランドのバーへ。登場したスポットは80年代の神戸の典型的なデートコースでしたが、今の若者が選ぶコースと変わらないのでしょうか。
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阪神間シティ・ボーイ平中悠一、翌日のデイトは夙川駅前から
平中悠一『ギンガム・チェック』「神戸でデイト(Avec Nakase-San)」から続けます。 イラストレーターの仲世朝子さんと神戸でデイトの翌日は、夙川駅前で待ち合わせ。<翌日のお昼過ぎ、夙川駅前のロータリーで僕は仲世さんを待っていた。彼女にお昼の神戸線に乗ってもらいたかった。御影の辺りが僕は一番好きなんだ、と伝えておいて。 車は駅前の太い坂道を上がったところ、カソリック教会の前に車を停めておいた。パーキング・メーターなんて無粋なものはまだなかった。>平中は仲世さんにどうしても阪急電車に乗ってほしかったようです。阪急夙川駅の自動改札から現れた仲世さんとカトリック教会の前まで歩き、お昼にします。<夙川は僕には懐かしい街だし、『ピクニック』をはじめとして、幾度も僕がお話の舞台にした街だ。幸せなことに僕は仲世さんに、いつもイラストでヘルプしてもらってるから、僕の描く街の景色を見てほしかった。わざわざ電車に乗ってもらったのもそういうことがあったんだよね。>ここで言及されている『ピクニック』とは、『それでも君を好きになる』に収められた「8年ぶりのピクニック」。そこには’80年代の夙川が次のように描かれていました。<僕たちの育った街には1本の川が流れていて、その川の名前が街の名前になっていた。僕たちはよくその川べりで遊んだ。ジョギングも、犬の散歩も、おしゃべりしたい時も、行くのはいつも川だった。川べりは公園になっていて、そしてその公園は川沿いに細長く続いていた。ずっと、海まで。その公園を自転車で浜まで下っていく。それが僕たちの最後のピクニックだった。> 西宮の街の人口は今も増え続けているそうですが、それと引き換えに多くのものが無くなってしまったような気がします。この夙川の自然が無くなれば西宮の街は西宮でなくなってしまうのでは。
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