下村海南は大正10年に台湾総督府を退官すると朝日新聞社に入社、大正11年に欧米視察から帰国し、しばらく武庫郡御影字柳の里に住みます。
阪神電車で御影から大阪朝日新聞本社まで通ったのでしょう。その当時の阪神電車からの車窓を短歌に詠んでいます。
『新聞に入りて』の「阪神電車」からです。<御影石の粉末となった白砂のゆるい傾斜、萌黄に紺に藍に緑に濃く淡く彩られた六甲武庫の山並、住むこと半歳に満たず。居るところ僅か百坪に足らざりしも、塵と泥と灰色の空に包まれた東京から居を移した者には、青き空白き砂、眼に見ゆるもの皆我心を和ましめる。> 関東の風景と比較して、白い砂は印象深かったようで、谷崎潤一郎、森田たま、遠藤周作らもエッセイや小説で、その印象を述べていました。また山並迫る風景は、先日の池澤夏樹、小池昌代さんのトークイベントでも触れられ、東京では見られない美しい風景として、古典は関西の景色から始まっていると述べられていました。
下村海南の詠んだ歌です。
五月晴れ朝の光に六甲の 山なみはにほふわが庭の軒に
武庫の里苺畑にパラソルの もつれてゆくも白きと青きと
阪神鳴尾駅あたりの景色を詠んだものと思われます。『西宮あれこれ』によると<兵庫県のイチゴの発祥地は鳴尾と考えられている。………鳴尾では明治37年ころから綿作は皆無となり、その代作として、武庫川河口の砂地に適するイチゴが栽培され始めた。>とのことで、昭和7年の最盛期には約480町歩(約48万m2)栽培されたそうです。
佐藤愛子『女優万里子』でも甲子園に新築した佐藤紅緑邸の南側に苺畑が広がっていたそうです。<家の南は苺畑が連なり、その広がりの向うに武庫川の堤が真横に緑の筋を引いていた。庭には三つの築山があり、中庭は苔と竹林でなり立っている。夏は武庫川の堤から苺畑を渡って来る南風が前庭から中庭へと吹き通るその十二畳の大座敷が父の書斎で、………>
松並樹中を一すじ真白にぞ 水なき川はくれのこりたる
この川は芦屋川だと直ぐに想像がつきます。阪神芦屋駅からの眺めを詠んだのでしょう。周りの景色は大きく変わりましたが、川の流れは今も変わりません。
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大正11年阪神沿線風景(下村海南)
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BAR THE TIMEの夜桜見物(成田一徹『カウンターの中から』)
阪急苦楽園口駅前のBAR THE TIMEに夜桜見物に立ち寄りました。
ザ・タイムについては成田一徹さんが『カウンターの中から』で紹介されています。
<阪神・淡路大震災の後、三宮から移転してしばらくは、知る人ぞ知る隠れ家的存在の『ザ・タイム』であったが、今や全国にその名をとどろかす名バーとなった。春には桜を間近に花見を楽しめるバーとして人気、今年も4月初旬の数日、花見の宴で盛り上がった。>
18時に開店されるバーです。 私も夜桜にあわせて、成田さんが味あわれたカクテル「花見月」をオーダー。
<ポーランド産のズブロッカと桜のリキュールを使ったフローズンスタイルのカクテルだ。口中が一瞬凍えて、やがて舌先に春の気配が残る。ふと15年前の主の不安な心持ちと重ねてみる。廃墟の三宮を後に、この地に活路を求めた春まだ浅い頃。しかし桜とのえにしはこのとき始まったのだ。>
店の奥の壁には、成田さんが開店して間もない頃訪れて、作られたアイスペールに桜の花びらが浮かぶ切り絵の原画が掲げられていました。その絵については、ご自身が次のように説明されています。<12年前、窓一面に広がる見事なソメイヨシノを絵の中に入れたくて腐心したのを思い出す。バーの風景と外の桜を一つの画面に入れるのは無理と悟り、苦肉の策でアイスペールの中に花びらを浮かべたのだ。>
19時になると奥様が店の中から電源を入れられ、ソメイヨシノがライトアップされました。
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苦楽園口の大正庵でお花見
夙川の桜、満開で昨日は天気にも恵まれ、すごい人出でした。
苦楽園口橋から見える桜は北側も南側も素晴らしい眺めです。
前の日の夜にバー・ザ・タイムを出て、あそこからの眺めも良さそうだと気になっていたのが大正庵。外から見ると、夙川に面した窓辺がカウンターになっており、お昼に少し順番待ちして入りました。
カウンターからの夙川の桜の眺めは想像通り。
天ザルと生ビールでゆっくりさせていただき、再び夙川の桜見物です。
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夙川舞桜
夙川を花見しながら歩いていますと、羽衣橋付近で、ピンクと白の花が混じった桜が綺麗でした。
突然変異か、品種がちがうのかと眺めていると、すぐ下に看板があり、西宮市オリジナルの桜として、笹部博士ゆかりの「西宮権現桜」とともに「夙川舞桜」の説明がありました。
北山緑化植物園内の植物生産研究センターで、増殖されたものだそうです。花色は、咲きはじめは淡い紅色で、のちに白色に変わるとのこと。
少しずつ色が変化するようで、いい見ごろでした。
私は「夙川舞桜」とは、成田屋さんの最中の名前とばかり思っておりましたので、今年も、ちょうど近くにあった成田屋さんに寄って買って帰りました。
そうかオリジナルは「夙川舞桜」という西宮生まれの桜の名前だったのだと、今頃気づきました。
夙川で採れた桜蜂蜜を使ったという桜あんの最中、美味しゅういただきました。
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越水城跡の五本松(下村海南『春の海南荘』)
下村海南が春の苦楽園海南荘で句会を催した時の写真ではないでしょうか。
『春の海南荘』と題して、何句か読んだ中の一つに越水城跡を詠んだ句がありました。
越水の城のあとなる五本松 桃さき岡の上に霞めり
越水城は1516年に瓦林正頼によって築かれた城で、堀、壁、土居、矢倉を備え、外城を持ち城下町も作ったとされています。また最近、『大阪春秋』No157.に天野忠幸氏が「西宮と越水城」と題して寄稿され、越水城の築城について次のように説明されていました。
<『瓦林政頼記』によると、西宮より八丁北にある小山の越水に、毎日50人から100人の人夫が堀を掘ったり、壁を塗ったり、土塁をつくって矢倉を建てたりして、鍛冶・番匠・壁塗・大鋸引も忙しく働いていたという。>
<越水城は現在の阪急神戸線の夙川駅の北東に位置し、六甲山地の甲山から伸びる台地の突端で、現在「城山町」と呼ばれている周辺が本丸と考えられている。>
現在は大社小学校の横に越水城跡の石碑と説明文が建てられていますが、そのような風情はまったく残されていません。私も小学校の時、近くに越水城があったという話は聞いても、想像すらできませんでした。 海南の句を読んで、昭和11年の吉田初三郎の鳥瞰図を見てみました。
越水城跡と書かれているところは、土塁で少し高くなっており、そこに海南の句に描かれているように五本かそれ以上の松の木が描かれていました。せめて史跡として、この土塁のあったt場所だけ残していただきたかったのですが。
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冒頭はゲンコツホテル跡地・西宮北校のシーンから
いよいよ『長門有希ちゃんの消失』がサンテレビで始まりました。
冒頭のシーンは期待通り、旧大谷家別邸跡地にできた西宮北校です。
グーグルアースの鳥瞰写真からもわかりますが、描かれているのは、西宮北校、苦楽園中学校、苦楽園小学校です。
西宮北校のグラウンドは高い木で囲われており、大谷家別邸跡地の雰囲気を今も残しています。
ここにゲンコツホテルと呼ばれた洋館があり、湯川秀樹もよく散歩し、ここからの景色を楽しんでいました。
光陽園駅(甲陽園駅)も登場。
『涼宮ハルヒの消失』でも描かれていた長門有希が一人で住んでいる豪華マンションのシーンも登場します。
エンドロールではスペシャルサンクスとして
兵庫県立西宮北校等学校、珈琲屋ドリーム、西宮市観光振興課、西宮流などのテロップが流れました。
次回は日曜深夜1時から。お見逃しなく!とのこと。
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姫路城夜桜会と円地文子『千姫春秋記』
姫路城の5年間にわたる平成の大修理がようやく終わり、先月末グランドーオープン。先日、二の丸まで無料開放されている夜桜見物に行ってまいりました。
昭和時代には何度も修理が繰り返されており、一般に昭和の大修理とは昭和31年から8年間にわたる第二次修理のことだそうです。 その昭和の大修理が完成に近づいている昭和38年4月9日に「婦人公論」の講演会のため姫路城を訪れた円地文子は、姫路城を初めて見たときの感激を文学に託した作品が『千姫春秋記』です。
「桜のシーンから始めよう」 -円地文子は大手門をくぐった瞬間、そう思ったそうです。『千姫春秋記』は次のように始まります。
<元和四年の春三月中旬のある朝、播州姫路城の前に立っている二人の女があった。女といっても一人は頭を鼠色の頭巾に包んだ中年の尼僧で、今一人は十五、六歳かと思われる垂れ下げ髪の少女である。>
夜桜会では千姫も迎えてくれました。(人形ではありません)
<尼はつつしんだ風に、眼を伏せていたが、娘の方は折から爛漫と咲きほこる桜の花の雲に彩られた曲輪曲輪の白壁の塀や櫓のおびただしい瓦の層の上に更に青空に高く聳え立っている天守閣の優美な威容に自然に目が向いて行くらしく、幾度もその方をふり仰いでいた。>
昭和38年の春、円地文子さんには夜桜も見ていただけたでしょうか。
さすがにプロの美しいライトアップで、昼間の桜とは趣を異にします。
夜桜会は14日までです。
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戦後間もない甲陽園を訪ねる旅、そして親切だった街の人々
大正から昭和の阪神間・西宮の風景に思いを馳せる記事が多い私のブログに、時々存じあげない方からコメントをいただくことがあり、いつも興味深く読ませていただいています。
その中で、お母様が戦争中に甲陽園の割烹旅館から学校に通われていたという瑤さんから先日いただいた心暖まるコメントを、ご了承を得てそのまま貼り付けさせていただき、ご紹介いたします。
<昨日夕方、甲陽園を訪れました。甲陽園西山町2丁目の急な坂道をのぼりながら、いろんなことを考えていました。 戦中戦後の甲陽園のことは、やっぱりほじくり返さない方がいいのかな…とまで思ったりして、だんだん悲しい気持ちになり、もう帰ろうと思い帰りかけました。 そんな中でも、今回も素敵な方々と出会いがありました。甲陽マンションの辺りでウォーキング中のご婦人を呼び止めて、寒い中、10分近くお話を伺いいたしました。 関西の方であるはずなのに、東京の山の手の奥様のような歯切れのいい口調で、私にとっては心地よく、ずっと話していたい気持ちになっていました。パワーをチャージ! もう大丈夫です! 楽しい会話のあと、一人で歩いているうちにすっかり体が冷えてしまったので、ツマガリの上にあるカブトヤマというカフェにお邪魔をし、ウィンナコーヒーをいただきました。
そこでも大変親切な出会いがありました。お客様の中に、結婚後甲陽園に来られたご婦人がいらっしゃって、甲陽園西山町がまだ住宅街になる前のことをご存知でした。 その方がわざわざ自宅に戻られ、重い資料を持ってきてくださり、初対面の私にお貸しくださいました。 今回出会った方々にはお話や情報とともに、ご提案などもいただきました。「播半のお嬢さまがあの近くに住んでいらっしゃるから、訪ねてお話を伺ったらいい」「地主の○○のお嬢様は○○歳でお元気だから、聴いてみるといい」・・・ こういう時にこそ、肩書きの必要性を痛感しました。いくら何でも無名の人間が、肩書きも、証拠資料もなしに、個人宅へ訪問できません(笑) 夕方からの短い滞在時間でも、心が温まる時を過ごせました。 播半の近くのマンションに住んでいるというご婦人、美容スルガの先生、カフェカブトヤマの店員のお二人、帰りに駅前派出所で親切にしてくださった若い警察官の方、皆さん本当にお世話になりました。
お借りした大切な資料をお手元にお返しするために、5月の上旬の緑が美しい頃に、時間を作ってまた甲陽園を訪れるつもりです。 苦楽園口は今、桜の絨毯が見ごろです。イヤミじゃなく、本当に美しい桜の絨毯でした。桜もまだ残っていますが、今は阪急電車から見た「桜の絨毯」がオススメです。>
瑤さんが甲陽園の坂道を登りお母様の面影を求めた旅、そしてそこで出会われたご婦人やカフェカブトヤマの店員の方々、心和む風景が目に浮かびます。瑤さんが探されている中村某という甲陽園の割烹旅館について、以前いただいたコメントからもう少し紹介させていただきたいと思います。
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Hinomaru Bento
西宮ブログでも時々、ブロガーの皆様が作られたお弁当の写真が掲載され、美味しそうなので毎回感心しております。いつからでしょうか、BentoはLunch Boxとは異なる日本文化として世界に認知されているようです。
外国人観光客向けに編集された家庭画報Japan Editionに京都のSpring Festivalとともに、Bentoの写真とレシピが掲載されていました。
その中で気になったのがHinomaru bento
典型的なご飯と梅干だけの日の丸弁当ではありませんが、英文でその意味も説明されていました。
最近では英文のBento Cookbookなども種々出版されているようです。Bentoブームの火付け役は、すでに世界的に広まっているアニメやマンガで、登場人物がおいしそうに弁当やおにぎりを食べるシーンといわれているそうですが、本当でしょうか。
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甲陽園つる家の近所にあった割烹旅館は?そして戦争中の甲陽園のお話
瑤さんが探されている中村某という割烹旅館をご存知の方はいらっしゃらないでしょうか。
瑤さんからいただいたコメントです。<つる家の近所に戦後まであった中村○(失念)という割烹旅館があったことを覚えている方がいらっしゃるでしょうか? 九州の福岡の士族の出身の女性が経営していました。 母は戦争中、今でいう中学生時代を叔母が経営するこの中村○から学校に通っていて、当時の話をよくしていました。戦争中は陸軍が、戦後は進駐軍が滞在していたそうです。
近くに地下壕があったこと、軍人さんがいるので食糧難の時代でも砂糖やパンがあったこと、敗戦間際に陸軍が庭で書類を焼いてたこと…など語っていました。焼却場所に叔母のこの旅館が選ばれたのは、中年過ぎても独身の叔母と母だけ、あとは料理人や使用人だけで秘密が漏れにくいと考えたからでは、と言っていました。 その母も阪神大震災の翌年に亡くなり、どうして貴重な証言として聴いておかなかったんだろうと後悔しています。 つる家では「中村のお嬢ちゃん」と可愛がっていただいたらしく自慢が入ったり、空襲の話では必ず涙したり。当時はそれが鬱陶しく感じたのです。当時そのあたりに住んでいた方がまだご存命ならかなりのご高齢。私が懐かしい話を書き込むことで新しい証言が次々と出てきたら…と思い投稿しました。>
<また、母が疎開していたその割烹旅館は政治家や大学教授などが来ていたと言っていましたから、もっと大きな料理旅館なら著名人が利用していたと思われ、もともと口が固い土地柄商売柄だったことも、証言が集まりにくい要因なのでしょう。 さて、地下壕と直接関係ないのですが、母は中村○の自分の部屋の前の庭にジョンという犬を飼っていて、母がお友達と遊びに行くと後を追いかけてついて来たそうです。 こんなたわいもないエピソードでも、甲陽園の生き証人が何かを思い出すきっかけになればいいのですが…終戦の時に13歳だった母が生きていれば80歳。12、3歳の少女でも甲陽園で起きていたことは鮮明に記憶していました。中村○は進駐軍の宿泊施設になったというから、アメリカには記録があるのでしょう。 でも戦勝国の調査・資料ではなく、やはり甲陽園の日本人が戦時中に何を見たかを記録に残していく作業が急務だと思います。>
<陸軍と書いてしまいましたが、戦中中村○にいたのが陸軍だったか海軍だったか…。 母は海軍の兵隊さんの話もしてましたがそれこそ悲話で、証拠を焼却したイメージと結びつかなくて、私の頭の中で悪いことは陸軍の制服を着た人と決めつけてしまって…。 生き証人から直接聞いた私がこのような記述をしてしまい、本当に申し訳ありませんでした。美化しないように注意せねばと思っていたら、悪い人間は××に決まっていると思い込みが働き、一番大事な事実を歪めるところでした。>
<その割烹旅館は泥棒に入られ(大事な布団等がごっそり持ち去られる)たことで気の強かった母の叔母も結婚をし、しばらくは商売を続けていたようですが、大阪市に移転しました。私の両親は昭和30年代半ばに結婚したのですが、父によるとその時はもう大阪にいたとのことです。 ここからまた戦争中の話を。母はお友達と二人で学校からの帰り道、急に空襲に遭い、自分は助かったものの隣にいたお友達が死亡。母はすぐにその子の家へ行きその子のお母さんを現場まで連れて行ったそうです。駅の近くの現場に戻るともうロープが張られていて人も集まっていて、でも自分が連れて行かなければならないとロープの中に入って行ったそうです。 ロープの外からは「ユキちゃん、行ったらいかん!」と狂ったように何度も叫ぶ声がし、見ると気位が高く並外れた気の強さで決して取り乱すことのなかった母の叔母だったとのことでした。>
<空襲という言葉が誤解を招いているかもしれません。 母は「バリバリバリバリ」という表現をしていましたので飛行機から撃ってきたのではないでしょうか。 火垂るの墓などで観たヒューっと落ちてくる焼夷弾のような爆弾ではないと思われます。爆弾なら母は逃げきれなかったはずです。 また、甲陽園で商売を営んでいる叔母さんが現場に駆けつけて来るぐらいですから、甲陽園の界隈で起きたと考えるのが合理的なのではないでしょうか。>
瑤さんから初めてコメントをいただいたのは小田実が残そうとしていた甲陽園地下工場跡地が埋められてしまうという記事からでした。
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38年前にお母様と訪ねられた甲陽園西山町
瑤さんから昨年の4月4日にいただいたコメントです。
<きょう甲陽園に行ってきました。つるや旅館周辺を歩き、昭和20年前後の甲陽園を知る方を探す訪問でした。↑の写真にある側溝のようになった川もありました。
母親と同世代の本庄町のご婦人、郵便局のみなさん、TSUMAGARIの2Fの女性従業員の方、駅前の写真屋さんのご夫婦・・・ありがとうございました。
また、郵便局近くの小さな公園で出会った紳士の方には、いろいろな話を伺いました。感謝の気持ちでいっぱいです。甲陽園での母親の足跡を見つけることはできませんでしたが、甲陽園に行ったことは無駄ではありませんでした。>
そして今年の4月1日に一年ぶりにコメントをいただきました。お母様の面影を求めて甲陽園を散策されたようですが、中村某という割烹旅館の跡地はわからなかったようです。
<時々こちらのブログに来ては、皆さんのお話を楽しく拝見させていただいております。 甲陽園の町を訪れて早一年になりました。実は38年ほど前に一度母のお友達を探しに、父の運転する車で甲陽園に行ったことがあるのです。 甲陽園駅からつるや旅館に向かう道の途中で左折し、少しした場所で母が車をとめるように言いました。母だけが車を降り、細い坂道をのぼり姿が見えなくなりました。
西山町2丁目辺りなんでしょうか。ただそこが昔のお友達の家の近所なのか、母が戦時中に預けられていた中村なんとかという割烹旅館のあった場所の近くだったのかはわかりません。「つるやさんの近く」という言葉から、去年私は子孫周辺の本庄町を中心に歩いたのですが、ほんの少しズレていたようです。 もう少しちゃんとしたものがあれば、資料探しもでき一気に調査もできるのでしょうけれども、なにせ何もかも曖昧で(´-`)この一年間ほとんど何も進展せず。甲山に向かって道の左側で急な上り坂があったことを思い出したのと、甲陽園に引っ越そうかとマンションを検索していたせいか、ネットをやるとやたらマンション広告が表示されるようになったことぐらいです(◎_◎;)あっ、それから…母は甲陽園線で通学していたようですが、その母から一度も夙川の桜並木の話やお花見の話は不思議に聞きませんでした。戦後タカラヅカを観に行った話やタカラヅカの狸御殿の話はしていましたが。はて昭和20年前後の夙川の桜やお花見事情はどうだったのでしょうね。
西宮甲陽園郵便局の局長のお父様がお元気なうちに、また甲陽園に遊びに行きたいです。>
お捜しの割烹旅館は、250畳の大広間のあった甲陽館やカルバス温泉のあったあたりなのでしょうか。ご存知の方が見つかるといいのですが。
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徒然草で知った仁和寺に満開の御室桜を見に
仁和寺の御室桜が満開との情報を得て、嵐電で桜のトンネルを通って花見に。
仁和寺といえば、古文で習った日本の三大随筆の一つ、吉田兼好の『徒然草』。
兼好が仁和寺がある双が丘に居を構えたためか、仁和寺に関する説話が多くあります。 思い出すのは教科書にあった第五十二段
<仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩より詣でけり。……> 第五十三段も
<これも仁和寺の法師、童の法師にならんとする名残とて、おのおのあそぶ事ありけるに、酔ひて興に入る余り、傍なる足鼎を取りて、頭に被きたれば、詰るやうにするを、鼻をおし平めて顔をさし入れて、舞ひ出でたるに、満座興に入る事限りなし。……>と酒に酔った法師が三本足の鼎を頭から被って踊る様子が描かれています。 第五十四段も
<御室にいみじき児のありけるを、いかで誘ひ出して遊ばんと企む法師どもありて、能あるあそび法師どもなどかたらひて、……>としつこく仁和寺の僧が登場しますが、およそ仏に仕える身とも思えぬ滑稽な所業の数々が描かれており、逆に人間的な親しみが持てます。
その仁和寺では中門内の西側一帯に「御室桜」と呼ばれる遅咲きで有名な桜の林があり今が盛りになっています。
花見の盛んな様子は江戸時代の儒学者・貝原益軒が書いた『京城勝覧』という案内書にも次の様に紹介されています。
<春はこの境内の奥に八重桜多し、洛中洛外にて第一とす、吉野の山桜に対すべし、…花見る人多くして日々群衆せり…>
と記され、吉野の桜に比べて優るとも劣らないと絶賛されており、花見客が多いのは今に始まったことではないようです。
御室桜の観覧道はこの人出でなかなか進みませんでした。
枝垂桜ツツジも見ごろで、貝原益軒が絶賛した景色を堪能してまいりました。
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絵や文学の舞台になっている春の嵐山でお花見
桜はかなり散りましたが、桜と新緑の嵐山見物にでかけました。
安野光雅著『洛中洛外』にも京都を代表する風景として嵐山が描かれています。
「嵐山・法輪寺」と題して次のように述べられています。<春の嵐山はさわやかだった。狭い住宅地を抜けて車が桂川左岸へと出たとたん、青い山並みと桜、銀色の川面が目の前に広がっていた。「ここから描こう」と椅子をとりだしたのは、有名な渡月橋からずいぶん下流の変哲もない土手の上である。目の前に、嵐山中腹に建つ法輪寺の屋根が見えた。>
渡月橋から見える法輪寺です。
早速、花よりだんごと、渡月橋の北端にある琴きき茶屋で名物無添加桜もちをいただきました。こし餡を使わず真っ白な道明寺もちを塩漬けにした2枚の桜の葉ではさんだものと、道明寺もちをこし餡で包み嵐山を型どった二種類の桜もちです。桜の葉と一緒に食べると、桜の香りが口いっぱいに広がりました。
嵐山で一泊しましたが、旅館の窓からはカラフルなトロッコ列車が、桜と新緑のトンネルを走っているのが見えます。
下に目を移すと、保津川下りの船に水上売店船がぴったり横付けして、いか焼やビール等を販売しています。こちらにまでいい臭いが漂ってきそうです。
保津川下りの様子は夏目漱石著『虞美人草』にも詳しく描かれています。
<河はようやく京に近くなった。「その鼻を廻ると嵐山どす」と長い棹を舷のうちへ挿し込んだ船頭が云う。鳴る櫂に送られて、深い淵を滑るように抜け出すと、左右の岩が自から開いて、舟は大悲閣の下に着いた。 二人は松と桜と京人形の群がるなかに這い上がる。幕と連なる袖の下を掻い潜ぐって、松の間を渡月橋に出た時、宗近君はまた甲野さんの袖をぐいと引いた。>
今回泊まった宿は、小説にも出てきた角倉了以の大悲閣千光寺の真下にありましたので、船から皆さんこちらを眺めています。 夕食は、お祝いを兼ねておりましたので、椀物と一緒に、鯛の形の陶器に入れたお赤飯をサービスしていただきました。
黒漆のお椀はアンティークに近いもののようです。
散り際の桜を愛でながら、大満足で嵐山をあとにしました。
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かんべむさし・堀晃共著『時空いちびり百景』の夙川編は落語?
かんべむさし・堀晃共著『時空いちびり百景』は「SFいちびり眼鏡」のタイトルで毎日新聞に連載されたショートショートをまとめたものだそうです。
あとがきには最近亡くなられた桂米朝師匠のお話も載せられていました。
<二人がともにファンである桂米朝師匠が毎週読んで下さっており、独演会の楽屋でお目にかかったとき、つぎのようなお言葉をいただき感激したことがあります。「だんだん落語になってきましたナ」この感想はかんべにとっては大変な「ほめ言葉」であったのです。>
もともと関西の各地を素材にしたSFショートショート連載という構想だったようですが、夙川編「礼は酒にて」はかんべ氏が米朝師匠の言に力を得たのか、SF作品ではなくむしろ落語です。
<ある年の春、ちょうど花見に最適という週末の夜に、六甲山から突然の大風がふきおろしてまいりました。これが甲子園に向かえば、虎が元気百倍で暴れて結構なのでございますが、このときには悪いことに夙川一帯を襲い、阪急夙川から上は苦楽園、下は香櫨園、川沿いの桜を端から端まで散らしてしもた。さあ一夜明けました日曜日、夙川駅前商店街の親爺さん連中が困りましてな。>と始まります。
夙川駅前商店街という名は多分実在しなかったのではないかと思うのですが、駅前の写真が、先日の市役所の歴史資料写真展に展示されていました。(昭和45年というのは少し疑問ですが)
そこに登場するのが愛犬ポチを従えた花咲か爺さん。木という木に花を咲かせてしまいます。(これがSFといえばSF)
街の親爺さん連中が御礼はいかがいたしましょうと尋ねます。<「いや、酒を一杯飲ませてもらえば、それで結構で」「酒を一杯。あの、サカヅキにでございますか。それともドンブリ鉢か何かで?」そしたら横からポチが、「椀。椀椀!」>これでショートショートは終わりですが、どしても「おあとがよろしいようで」と付け加えたくなります。
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協文大に機動隊導入(かんべむさし『黙せし君よ』)
昭和44年、協文大では全学集会で革新評議会から緊急動議が出されます。
<「議論は尽くされた。ここにおいてわが革新評議会は、経営学部における闘争の一時休戦と入試期間中の封鎖解除を提案し、出席者諸君による議決を要請する。この提案に賛成の学生諸君は、拍手を願いたい」瞬間、すべてのざわめきが消えて満員の大教室に緊迫した静寂が生まれ、そのあと、前方左側のあたりから音が生まれていた。> 強行採決され、緊急動議は賛成多数で可決されたことになります。更に、学部長命令による自治会の解散命令と学生の校舎内への立ち入り禁止措置。
そして遂に機動隊が導入されます。
<一週間ほど前、入試の接近に業を煮やした大学側が遂に警察力の導入を決定し、一般学生のおらぬ早朝を選んで出動を要請した。公的実力によって全学部の封鎖が解除され、占拠し泊まり込んでいた全共闘のメンバー達は、強制退去させられたのである。>
図書館の壁にペインティングされた造反有理。
小説ではこんなふうに。<しかもそこに、さらなる大躍進を目指して国中が熱狂しているらしき中国から、ひとつの言葉が聞こえてきていた。造反有理。謀反には道理がある-反抗し反乱して打倒しようとするとき、真理はその者の側にあるというのだ。>あの頃の学生は紅衛兵と同じだったのかと思ってしまいます。
当時の阪急甲東園駅付近の様子は次のように描かれています。<現場では衝突を見、機動隊員の暴行を目撃して全身の血を逆流させる。騒然とした雰囲気に、まさにいまは動乱の時代だと思う。日本革命など夢想であると判定しているが、国内の各種状況がこのまま進んで拡大すれば、瞬間的には、内乱状態にまで達するのではないかと思ったりもする。ところが、そのあとそうやって頭を興奮させながら帰りかけると、正門から二百メートルも離れればそこはいつも通りの静かな住宅街なのだ。そして高台かが起こっていようが、まったく関係のない様子で日常が進行している。つまり協文大の紛争は丘の上の紛争さのである>
当時関西学院正門前の道路に機動隊の護送車が数台停まっていたのを覚えていますが、甲東園駅付近は描かれているとおち、まったく平和な世界でした。
最後の図書館陥落のシーンが描かれています。
<図書館の正面玄関前一帯には、切り離したポプラやヒマラヤ杉の巨木で、頑丈強大なバリケードが構築されている。それを隊員たちがエンジン・カッターで切断し、装甲車が押しのけて破壊し、撤去していく。二階三階の窓から頻繁に投げ落とされる火炎瓶やブロックを避け、ガス弾と放水で制圧しながら、玄関への突入路を開いていく。つづけさまに炎があがり、噴射される銀線がそれを圧して水煙を立てる。発射音と切断音が断続し、スピーカーを通した警告や命令の声が反響して、さらにその全体に上空で旋回するヘリの音がかぶさってくる。>
時計台にあるスクールモットーMastery for Serviceの土台の上に飾られたエンブレムに替わって革命家ゲバラの肖像が掲げられていたようです。
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宮本輝も小説の舞台にしていた芦屋浜の埋立て
芦屋浜が埋め立てられ、高層住宅建築により劇的な景観の変化をもたらしたことから、昔の景色を知る遠藤周作、村上春樹らがその変化を小説に描いています。
『羊をめぐる冒険』の道路拡張のため移転した三代目ジェイズ・バーからの眺めです。
<新しいジェイズ・バーの西側と南側には大きな窓があって、そこから山なみと、かって海であった場所が見渡せた。海は何年か前にすっかり埋め立てられ、そのあとには墓石のような高層ビルがぎっしりと建ち並んでいた。僕はしばらく窓際に立って夜景を眺めてから、カウンターに戻った。「昔なら海が見えたね」と僕は言った。「そうだね」とジェイは言った。「よくあそこで泳いだよ」>
また遠藤周作の『口笛を吹く時』では、
<小津はコンクリートの堤防の上に登り、あっと声を出した。 ずっと遠くまで砂漠のように埋立てられているのだ。その砂漠のような埋立地にミキサー車が二台、地面を走っているだけであとは何もない。あの日平目が波にもまれながら愛子たちを追いかけたのは、どのあたりだったろう。愛子たちが笑いながら走った浜もどのあたりだろう。今、海は消えた。白い浜もなくなった。>と埋め立て中の芦屋浜が描かれています。
宮本輝も芦屋浜の埋立て工事を小説に登場させていました。短編集『五千回の生死』に収められた『バケツの底』です。
<ぼくは一度、子供のときに、そこへ行ったことがある。松林が、六甲山から伝い流れてくる芦屋川の終着点付近を包んでいて、茶色い粗い砂が海の堤防へとつづいていた。小学校三年生のぼくは、近所の中学生に連れられて行ったのだが、海水にひたった記憶はない。舟虫の這い回る堤防の上を走ったり、近くの小商いの店で、かき氷を食べたのを覚えている。海水浴をするつもりだったのだが、堤防の向こうは汚染し始めた深い海で、結局、水着にも着換えないまま、夕暮れまで堤防の上で遊んでいたのだろう。>
上の写真は、埋め立て前の芦屋川河口と芦屋浜、現在残されている堤防跡です。
昭和22年生まれの宮本輝が主人公を同年代にしたとすれば、昭和32年ごろのお話で、当時は確かに海は汚れ、泳ぐ人はいませんでした。
ここで登場するかき氷を食べた店とは「ひまわり」でしょうか。<けれども、いまそこには海がない。芦屋川の横の枯れた疎水路を渡ると、広大な原っぱが、晴れた日は砂塵でかすみ、雨の日は粘りつく泥濘に弾けるしぶきで幕を張られ、あたかも果てしない荒地みたいにひろがっている。芦屋浜団地建設共同企業体の立て札を掲げたにわか造りの受付には、警備会社の初老のガードマンが、出入り業者の車をチェックしている。海を埋め立て、そこに巨大な団地と街を作るために、建設会社と電機メーカー、それに空調メーカーの三社が、共同企業体を設立し、第一期工事が始まっていたのである。>
芦屋浜の埋め立てが始まったのは、昭和44年のことで、宮本輝も遠藤周作もこの時期に埋め立てされている様子を見たのでしょう。 宮本輝『バケツの底』では一流会社をやめて小さな建築金物店に採用された主人公の埋立地の工事を通じての悲哀が描かれています。
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須賀敦子さんの海
松山巌著『須賀敦子の方へ』の最終章「海の彼方へ」からです。
松山さんは、<私は海を見たかった。須賀敦子が子供の頃から海を眺め、海の彼方を見つめていた、少女の須賀の姿を改めて想像したかった。>と須賀さんが子供時代眺めた海を求めて西宮を訪れたようです。
須賀さんが夙川に移る前、幼年時代を過ごした『芦屋のころ』からです。<翠ヶ丘の家の二階からは海が見えた。あるとき、母の学校時代の友達が小さい男の子をつれて、遊びにきた。その子が丸刈りの頭をずうっと伸ばすようにして、二階の客間の廊下の手すりから海を見ていたのを、はっきりおぼえている。>須賀さんが初めて見た海は、芦屋浜だったのかもしれません。
翠ヶ丘からの現在の風景です。
須賀さんは『ユルスナールの靴』の「フランドルの海」の最後は、子供の頃の海を懐かしみ、次のように結びます。<子供のころ、岩場をつたって、日がないちにち、歓声をあげて遊びほうけた白い砂の浜辺が、小さい足をサイダーみたいにやさしく洗ってくれた波が、ふとなつかしかった。>
きっと『火垂るの墓』にも登場する香櫨園浜をイメージして描かれたのでしょう。
松山さんも香櫨園浜を歩かれます。
<私は須賀が初めて泳いだという香櫨園近くの海岸も歩いてみた。良子さんは、子供の頃、香櫨園は動物園もある小さな遊園地だったというが、既に戦前に消えている。良子さんとともに堤防から海辺に降りたが、カモメが群れをなしているばかりで、周囲は埋め立てられ巨大な施設群に囲まれ、水平線はまったく見ることはできなかった。>
戦前香櫨園浜に動物園があったとは知りませんでしたが、調べてみると、「御前浜・香櫨園浜の歴史:こぼれ話」というサイトに次のような説明が。<一大レジャー拠点 香櫨園浜海水浴場浜には香櫨園遊園地から移築された演芸場(「阪神館」と呼ばれる)、 音楽堂やローラースケート場に加え無料休憩場、有料休憩場、売店などで大いに賑わいました。>
http://www.omaehama.org/archive/history/titbit.htm
この頃、動物園まであったのではないでしょうか。
大石輝一の描いた、戦後の香櫨園浜の風景。
あんな時代もあったのだと夙川河口に立っていました。
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『坊っちゃん』の「うらなり」先生は姫路に移り住んでいた
夏目漱石の『坊っちゃん』が発表されたのは明治39年。
マドンナと縁談のあった英語教師うらなりは、教頭の赤シャツにマドンナを奪われたうえ、延岡に左遷されてしまいます。
『坊っちゃん』を読んだ小林信彦は、
<ぼくの考えでは、坊っちゃんの行動は、うらなりから見たら、まるで理解できないのじゃないかと思うのですよ。不条理劇みたいでね。その、うらなりの視点から見た「坊っちゃん」を書いてみたいのですよ>と語り、『うらなり』という作品を2006年に発表しています。
『うらなり』からです。<二年後、仲介する人があって、姫路市の商業学校の教師になった。すぐに役立つ商業人の養成をめざす学校で、算術、簿記とならんで英語も重点的な科目だった。 都会に憧れているくせに、大阪はあまりにも刺激的でこわく、バタ臭い神戸も眩しい気がした。姫路城は修理中であったが、市は交通の要衝でもあり、軍都でもあった。>
現在の姫路城は平成の大修理がようやく終わり、3月末から天守閣にも登れるようになりました。明治時代は陸軍の駐屯地となり荒れ果てて無残な姿をさらしていたそうで、明治43年から44年まで明治の大修理が行われました。したがって小林信彦が描いたうらなりは明治41年に延岡に左遷され、明治43年ごろ姫路に移り住んだことになります。
明治43年から行われた明治の大修理では大天守の東側から全長150メートルの桟橋を掛け、トロッコで木材を運び入れたそうです。
<初めは移転に反対していた母も、やがて家屋敷を人に貸して、姫路にきた。あの校長や教頭が支配する中学に私が戻れないし、戻る気もないことがようやくわかったのだろう。 広峯神社をはじめ神社仏閣が多いのが、母を和ませた。しばらくしてから母は、遠山の娘が大阪の富豪に嫁いでいると、私に告げた。あの母親の知恵だろうと私はぼんやり考えた。>(遠山の娘がマドンナです)
ここで登場する広峯神社は、姫路駅から北に7kmほどのところにある広峰山にあり、黒田官兵衛の祖父が仕官先を探しながら社家たちと交わり、黒田家秘伝の目薬を神社のお札と一緒に売ってもらい財をなし、黒田家発展の基礎を築いたという縁のお寺です。
しばらく『うらなり』から明治時代の姫路の風景を追ってみます。
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西宮北校ゲンコツ広場から始まった『長門有希ちゃんの消失』第2話
『長門有希ちゃんの消失』第2話もろびとこぞりての冒頭シーンは北校ゲンコツ広場から始まります。
このゲンコツ広場は大谷家別邸にあった円柱形の建物ゲンコツホテルに由来し、そのモニュメントとして昭和62年の西宮北校卒業生が寄贈したものです。
<かつてこの地、大谷家の別邸に石造りの円柱形の建物があった。かの湯川秀樹博士(ノーベル物理学賞受賞者)のその著「旅人」にも記されているこの建物は「ゲンコツホテル」の異名で土地の人に親しまれたという。昭和46年本稿の誕生により「ゲンコツホテル」は姿を消した。いま、その名をこの広場にとどめ、‘ゲンコツ広場‘と命名し、母校に贈る。昭和62年2月24日第14回卒業生一同。>
馴染みのあるキャラクターがサンタのコスプレで登場します。
左から二番目が鶴屋さん。「涼宮ハルヒの陰謀」で甲山は鶴屋家の私有山「鶴屋山」として登場し、そこのお嬢様が北校の二年生の鶴屋さん。
当然かつての甲陽園の鶴屋旅館に由来するものと信じていたのですが、作者谷川流が語ることによると、残念ながら大阪に本社があるゴルフのつるやから採った名前だそうです。
スニーカー文庫編集部編『涼宮ハルヒの観測』の第五章座談雑談からです。<谷川:かなり暇な店で長い間いられたんですけどね。その時点の二階でノートをつけてて、ふと外を見たら「つるやゴルフ」って看板があって、「あ、じゃあ今書いているこのキャラクタは鶴屋さんにしよう」と。編集Ⅰ:え、そうだたんですか?僕つるやゴルフで買い物したりするのに、全然知らなかった。>
コスプレ一番左端で恥ずかしそうにしているのが、朝比奈みくる。
この名は甲山森林公園、みくるま池からとったようです。
第二話でようやく涼宮ハルヒも登場しました。
長門有希の住むマンションの近くにある公園です。
西宮北校の風景がいっぱいの第二話でした。
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野坂昭如のもうひとつの火垂るの墓『はやすぎた夏』
野坂昭如は『私の小説から』で、次のように述べています。<ぼくの小説火垂るの墓は、だから舞台をかりただけで、もし、ぼくのいつわりない満池谷を書くなら、少年と少女の、それなりにロマンティックな色どり濃いものとなるだろう。しかし、ぼくには書けない。ぼくはせめて、小説火垂るの墓にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死にざまを、くやむ気持ちが強く、小説中の清太に、その思いを託したのだ。ぼくはあんなにやさしくはなかった。>
しかし、書けないと言っていた『火垂るの墓』のロマンチックバージョンとして『はやすぎた夏』を1968年に発表しているのです。
ストーリーは『火垂るの墓』と全く同じく、中郷町での神戸大空襲被災に始まり、満池谷での疎開生活まで。
空襲による火事の中を逃げていた主人公俊夫は、御影公会堂に収容されていた母と出会います。
<母の傷は破片を大腿部に受けたので、そのまま、公会堂地下の怪我人収容室に運ばれ、俊夫が教えられて、おそるおそるのぞくと、母は片方のもんぺを切り取られ……>御影公会堂の地下には食堂があるのですが、戦時中はどうなっていたのでしょう。
<「夙川の浜に、上野病院があったやろ、あすこに婦長さんで知ってる人おるねん、お母ちゃん入院しよう思うねんけど、たずねてくれへんか」母が言い出し、地下の収容所では六月のうん気こもるし、まわりの重傷者はつぎつぎ息引き取って、家族の号泣が重なり合う。俊夫は阪神国道伝って病院をたずね、婦長は不在だったが、病室は空いていて、このあたりはまだ焼かれてないから、待合室のたたずまいも、廊下を歩く看護婦の白いユニフォーム、玄関にかざられた各種結石の標本やら、水薬の瓶やら、別世界の印象。>上野病院とは今もある回生病院。
玄関は今も昔の面影を残しています。
玄関から入った待合室には今や標本等は置かれていませんが、当時は小説に描かれた様子が広がっていたのでしょう。
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