高橋誠之助著『神様の女房』を読みながら、今や松下家がほとんど買い占めたと思われる、古には名次神社の境内地であった名次山のあたりを散策しておりました。
ここには24時間公道にガードマンが立ち、アメリカ領事館邸並みの警備がなされています。下の写真の右手が光雲荘の白壁、左手は松下正治邸でした。
婿養子だった正治氏については、『神様の女房』で次のように述べられています。<婿養子正冶は、日本画家である伯爵、平田栄二の次男として、大正元年に生まれ、東京帝国大学法学部卒業とともに、三井銀行に入った華族出のエリート銀行員だった。>
戦前の華族と平民の結婚は大変だったようで、対応に西宮市役所もてんてこ舞いだったようです。<結婚にあたっては、むめのには心外なことがたくさんあった。宮内省は松下家の家族、親族、財産にいたるまで、詳細な調査を行った。西宮市役所を訪れた宮内省の役人は、市役所始まって以来と言われるほど、徹底的な調査を行った。> ようやく、婚約は成立し、当初は正治、幸子の新居は光雲荘の二階部分にあつらえられたそうです。
NHK土曜ドラマスペシャルで放映された光雲荘の応接間でのシーン。写真背中が常盤貴子演じるむめの夫人、左が中西美穂演じる娘の松下幸子、そして右が渡辺大演じる娘婿松下正治氏です。
上から二番目の写真の私の記憶で松下正治邸だったところ、表札を見ると今は亡き正治氏に替わって、長男松下正幸氏の表札になっていました。Wikipediaによると命名は正治が家長であった幸之助に名づけを依頼した際、「正治の“正”と幸之助の“幸”から一字ずつ取ったらええがな」という幸之助の言葉からだそうです。
光雲荘跡と松下正幸邸との間に大きな一本松が聳えています。
その根元には「古跡 名次神社」と刻まれた石碑がありました。
明治末期までこの名次山は名次神社の境内地であり、明治41年に神社はその北端に移されたそうです。
ところで私は名次山の一本松と思っていたのですが、先日西宮市役所東館8階情報公開課 歴史資料チームで開催されていた歴史資料写真展で見せていただいた写真。二本松でした。現在は北側の一本が消えています。
随分古いTV番組で、ロミ山田さんが出演された「淳二のスターふるさと自慢」の映像でも、既に一本松になっていました。
名次山の二本松が一本松になってしまったのはいつからのことでしょう。
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名勝名次山の一本松と光雲荘、旧松下正治邸
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「夙川ミッシェルバッハのクッキーローゼ」が小説に登場
以前ご紹介したことのある夙川ミッシェルバッハのクッキーローゼが、遂に清水博子さんの小説『カギ』に登場しました。
私がクッキーローゼを知ったのは、ロミ山田さんの『誰かと行きたいとっておきのお店ガイド』PHP研究所(1997年初版)。「兵庫県夙川・ドイツ菓子」という表題で掲載されていました。
<クッキーがどうも苦手。なぜといってあのパサパサしたドライさが厭なのだ。喉にひっかかりそうになり、おいしくも何ともない。そのクッキー嫌いの私が、日本中で一番おいしいと思うクッキーが、’’夙川のローゼ’’なのだ。それを売っているのがミッシェルバッハ。ドイツにある村の名前を、そのままお店の名にしているこのクッキーとケーキの店は、阪急沿線、夙川にある。>
さてそのクッキーローゼが『カギ』に網代の穴子寿司とともに登場したのです。<四月二十五日木 架空日記承前。きのうは散り桜の夙川公園で脱力し、芦屋のホテル竹園に泊まる。父の勤務先が所有していた苦楽園の社宅で暮した一九八〇年代、夙川は夙川だった。いまは着飾った犬ばかりがめだち、街なみはすすけている。社宅跡には怖くてちかよれない。京都のともだちへおみやげとしてミッシェルバッハの夙川クッキーロゼと網代の穴子寿司を買う。>
1980年代夙川は夙川だったという清水博子さんの夙川のイメージとはどのようなものだったのでしょう。『vanity』で登場していた住吉の網代の穴子が『カギ』にも登場していました。
クッキーローゼは8月17日の日記にも登場していました。<八月十七日土 A子からこんどはミッシェルバッハの夙川クッキーローゼが届く、これで甘味もそろい、いよいよ外に出なくてすむ。>
夙川のローゼは私は以前予約してから入手できるまで二週間かかりました。
一昨日も午前十時ごろ夙川ミシェルバッハの前を通ると、平日にもかかわらず、こんなに長い行列が。昔の堂島ロール並みです。
何年経っても行列が絶えず、人気が衰えない秘訣は何なんでしょう。
因みに、ミッシェルバッハの約100m南には、清水博子さんが傾倒した谷崎潤一郎が執筆の場所に使い、『細雪』で妙子が借りた松濤アパートのモデルにもなった甲南荘がありました。
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『決戦・日本シリーズ』阪神・阪急対決は昭和49年?
ハヤカワ文庫かんべむさし『決戦・日本シリーズ』の筒井康隆氏による解説では次のように述べられています。
<昭和48年、かんべむさしは早川書房がSF刊行十五周年記念として募集したSF三大コンテストの小説部門に「決戦・日本シリーズ」で応募した。予選に手間どり、選考委員会が最終候補作十篇を前にして開かれたのが翌49年の中ごろであった。>と述べています。
この日本シリーズは阪神・阪急戦なのですが、普通に考えれば作品応募の昭和48年の想定だと思われるのですが、登場する監督、選手の名前からしてどう考えても昭和49年のメンバーなのです。
スポーツイッポン社(スポーツニッポン?)25周年記念行事として、日本シリーズの企画を立てたシーズン、セ・リーグでは阪神タイガースが、パ・リーグでは阪急ブレーブスがそれぞれ絶好調で首位を走り、球団監督がインタビューに登場します。<机の上にひろげたスポイチでも、紙上インタビューという囲み記事で、阪神タイガースの銭田監督は言っている。「ペナントにむかって、このまま突撃です。おおい、Z旗揚げろ、無電を打て。トラ・トラ・トラ…」阪急の田植監督はこう言っている。「ペナントは、いわば男性憧れの美女です。そして、ドライデンも述べたように、勇者のみよく、勇者のみよく、勇者のみよく美女に値す…なのです」>
阪急田植監督とは上田監督に違いないのですが、昭和48年は西本監督最後の年、上田監督は昭和49年のペナントレースからです。
因みに阪神、銭田監督は最初吉田監督と思ったのですが、吉田監督は昭和50年からで、昭和47年シーズン途中に村山監督から引継ぎ、昭和49年まで監督を務めた金田正泰氏に違いありません。
このシーズン予想通り阪神と阪急が優勝し、決戦・日本シリーズ。3勝3敗1引き分けで西宮球場に舞台が移って、最後の決戦。十万人の大観衆(本当に入るのか?)を迎えて九回裏最後のシーンです。
<そして、遂に最後の瞬間がやってきた。三対二、阪神リードで迎えた九回裏阪急の攻撃。ワンアウトの後、9番ピッチャー邪魔田にかわって、ピンチヒッター渋柿ヒットで出塁。トップに戻って、河豚本三塁側のセーフティ・バンドでランナー一・二塁。2番白熊、送りバントでツーアウト二・三塁。大観衆死人のごとく硬直し、田植監督タイムをかけてトイレへ走り込む。3番果糖に対して阪神は敬遠策。九回裏二死満塁、得点差ただ一点。「4番、ライト、長寿(ながいき)」うぐいす穣の声澄んで、ウォーンとひろがる大観衆の緊張のため息。>
このメンバー、実名にすると、上田監督、9番ピッチャー山田、ピンチヒッター正垣、トップ福本、二番大熊、三番加藤、四番長池となるのですが、これは正に昭和49年の上田監督の布陣なのです。
最後のシーンは昭和48年金田監督のもとで25勝をあげた江夏の投球シーンです。阪神は昭和49年も金田監督、江夏投手という布陣でした。
<難波のアナウンサーが、かすれた声で喋りだした。「さあ、大変な状況です。最後の一球、真夏ふりかぶった。ランナーいっせいにスタートを切った!」ウワーッという大歓声が巻き起こった。> 決戦を制したのはどちらのチームか。ハヤカワ文庫の『決戦・日本シリーズ』は絶版となりましたが、4月6日にちくま文庫から刊行予定の『70年代日本SFベスト集成4 1974年度版』 筒井康隆編に収録されているそうです
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ワセジョ清水博子が著した関東人の芦屋感覚「神戸はややこしい」
清水博子さんの『カギ』を読んでいると、西宮在住の者にとって、そんなアホなことあるかいなというお話が沢山でてきます。スノッブのアホさかげんを揶揄するため、かなりデフォルメされてはいるのですが、関東からは阪神間の土地柄がそのように見えるのかと思ってしまいます。 9歳から18歳まで苦楽園に住み、阪神間の名門私立女子中・高に通った妹の日記からです。<10/1 神戸で夫はわたしが十代のとき住んでいた阪急甲陽線のあたりへ行きたがりました。「芦屋へ行こう」夫はそう言うのですが、わたしが住んでいたところは正確には芦屋市ではなく、西宮市です。東京では田園調布は田園調布駅に、目白は目白駅にあります。けれども兵庫県では芦屋という名がつく駅だけでも阪急芦屋川駅とJR芦屋駅と阪神芦屋駅の三つがあり、……>どうも妹の夫は、夙川は芦屋と思っているようです。
(写真は阪急夙川駅、夙川の松並だけが今も残されている緑地帯です)更に妹は夙川から御影あたりまでを「芦屋」と呼んでいます。
阪急芦屋川駅と阪神芦屋駅は、いずれも芦屋川沿いにあります。
<10/2 きのう書いた芦屋の話をもうすこし。阪急の夙川駅、苦楽園口駅、甲陽園駅、芦屋川駅、岡本駅、御影駅のあたりは「芦屋」と称してさしつかえありません。 でも夙川駅と苦楽園口と甲陽園駅は西宮市、岡本駅と御影駅は神戸市なのです。西宮北口はたんなる交通の要衝、武庫之荘は高級住宅地ですが、「芦屋」ではありません。阪神でも香櫨園は別格であるとか、JR芦屋駅にはショッピングモールがあるので付近のひとが集まりやすいとか、いろいろです。芦屋市といっても、小道一本はさむと地価がぐんとちがいます。芦屋市最高の高級住宅地は六麓荘ですが、車を持っていないわたしたちはあんな山のなかまで行けません。神戸はややこしいのです。> 2002年の日記ですから、まだ西宮北口には阪急西宮ガーデンズもなく、使われなくなった阪急西宮スタジアムの建物がまだ残っていた時代です。当時西宮に住まれていたと推定される清水さんにとって西宮北口はたんなる交通の要衝だったようです。
上の写真は芦屋川、公光橋の風景。
芦屋市六麓荘町の景観、見晴らしは素晴らしいですが、大型外車が保有できる人でなければ住めません。
姉の日記です。<十月二日火 妹の日記に「神戸はややこしい」とあった。たしかにそうだ。京都のひとが一生ややこしいとすれば、神戸のひとは東京にでるとややこしくなる場合が多い。だいたい、「神戸はややこしい」と書く妹からして神戸市ではなく西宮市育ちなのだ。あんたは神戸の子やなくてヒョウゴの子やん。>西宮市育ちには宮っ子という言葉がありますが、清水博子さんはご存知なかったようです。
もちろん全国的に知られている言葉でもありません。
<10/3 東京で出身を問われたときは「神戸」または「兵庫県」とこたえることにしています。するとかならず、「芦屋とか?」と反応されます。「芦屋というか、西宮市なんですけど」と謙遜する。「ふーん芦屋じゃないんだ」と言われておしまいです。>西宮市の名前は最近はメジャーになったのでしょうか。私も学生時代の旅行先では、大阪と神戸の間と説明しておりました。
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松下幸之助夫妻の散歩道、ニテコ池の桜
高橋誠之助氏は『神様の女房』のエピローグで次のように述べています。<関西有数の桜の名所、夙川は松下幸之助、むめの夫妻がこよなく愛した場所でした。春になると、私の足はついつい夙川の街に足が向きます。忘れがたい思い出が次々に浮かんでくるからです。>
夙川の桜は去年も綺麗に咲き誇っていました。
幸之助氏はさくらが好きだったそうで、松下電器本社の周囲には八重桜が植えられていたそうです。晩年の姿は次のように描かれていました。<病院に戻る途中、もう一度、松下電器本社の前を通った。八重桜はいっそう咲き誇っている。(まるで幸之助さんを見送っているようやな) むめのは思った。幸之助とむめのは、桜が大好きだった。毎年、春になると自宅近くの夙川の桜並木に必ず繰り出した。>
門真市の旧本社跡地は2006年4月に総面積16,200平方メートル、ソメイヨシノ190本を配したさくら公園として、開園されています。
<晩年の松下幸之助、むめの夫妻が愛したのは、二人で家の近くを散歩することだった。ちょっとした時間ができると、近くのニテコ池と呼ばれる、森に囲まれた周囲三キロほどの人工池を訪れた。あたたかな陽射しが降り注ぐ春になると、二人の姿がたびたび見られた。>
1990年前後のことでしょうか。昔はニテコ池の周りの桜も立派でしたが、震災で倒れてしまったからでしょうか、かなり少なくなりました。
ニテコ池の周りで一番立派に見えるのは、名次庵の桜です。
4月にはこのあたりの案内をさせていただく予定で、今年の名次庵の桜も楽しみです。
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清水博子『カギ』姉妹の出身校は?
清水博子『カギ』では、妹の娘ルウの進学問題で、東京の有名私立学校の話題がでてきますが、姉妹が通った阪神間の私立女子高の話題も豊富です。妹の日記からです。
<3/20 あんたの先輩がテレビに出てるよ」と姉が言うのでテレビをみました。ひさしぶりにM野Y子さんを拝顔しました。わたしはM野Y子さんが出た中学校に通っていました。そのことを東京で言うとたいそう驚かれるのですが、わたしが中学校に入ったときM野Y子さんは高校に進んでいるので、接点はありません。>M野Y子さんとは南野陽子さんと容易にわかります。
そうすると中学校は小磯良平の絵でも有名な松蔭中学に通ったことになります。
<3/23 きのうのつづきです。F原N香さんはわたしが通った女子高の一学年下です。M野Y子さんの件とおなじく、そのことを東京でいうと驚かれますが、一学年に四百人もいる女子高の後輩なんて記憶にありません。>F原N香さんも容易に想像がつきます。
妹はわけあって、高校は松蔭から親和に転校したことになっています。
次は姉の日記です。<三月二十九日金 妹が詰めていたのでパソコンがおもうように使えなかった。テレビで松蔭女子学院出身のタレントを観て、プライドばかり高い関西の学校村社会を思い出した。妹が帰ってから、いかりと灘生協(現コープこうべ)のウェブサイトを熟視。> ここでは関西の学校村社会が強調されていますが、小説では東京の学校村社会についても色々述べられていました。<6/23 誕生日でした。ひとりきりで歳をひとつ重ねました。ちなみにきょうは伊丹出身のM野Y子さんの誕生日でもあります。姉の誕生日は五日後、こちらも兵庫出身のF原N香さんとおなじです。> 南野陽子さんの誕生日は1967年6月23日、藤原紀香さんの誕生日は1971年6月28日。因みに作者の清水博子さんは1968年6月2日生まれ、日記が書かれている2002年は34歳の誕生日をむかえ、姉の年齢設定と同い年です。
『カギ』で姉は神戸女学院卒(大学は東京)となっておりますが、東京には似たような名前の高校、「女子学院」や「東京女子学園中学校・高等学校(東京高騰女学校の前身)」があるそうで、妹の日記ではこんな話がでてきます。<3/13 夫と姉は学生時代からのしりあいです。大学は別です。わたしたちの結婚が決まり、夫と姉がひさしぶりに再会したときのことです。夫は照れ隠しなのか、「おねえさんのほうはたしかコウジョでしたよね」と質問しました。すると姉は、「コウジョちゃう、ジョガクインいいますねん」とふだんまったく使わない関西弁ですごみました。>しかし姉の日記では、ジョガクインのトモの話はでてきますが、ほとんど神戸女学院については触れられていませんでした。
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関西学院大学全学封鎖の思い出の物語『黙せし君よ』
かんべむさし著『黙せし君よ』は、大学紛争の時代に大学に在籍していた団塊世代の主人公が、40歳過ぎてから当時を振り返る物語。
『上ヶ原爆笑大学』とは正反対のシリアスな物語でした。
『黙せし君よ』に登場する大学は次のように説明される協和文科大学。<神戸大、甲南大、神戸女子薬大、甲南女子大、そして芦屋大、神戸女学院大、聖和大、関西学院大…… これらとともに、六甲の山並みを背に、東神戸から芦屋西宮に至るベルト状の大学地帯を構成している、協和文科大学。>と、協文大は関学大とは明らかに別の大学として書かれていますが、描かれた風景、場所は関学そのものでした。
オフィス家具や機器の販売会社マナべスに勤務する主人公柏木喬が久し振りに大学を訪れる場面です。<各駅停車だけがとまる、阪急の小さな駅。その改札口を出ると、そこに短い商店街がのびていた。書店があり、喫茶店があり、銀行の支店があって、医院がある。そのいくつかは建て替えられて立派になっていたが、ほとんどは当時のままの姿で並んでいる。 そして柏木のすぐ右手には、まったく昔と同じ狭いバス乗り場があった。協文大前行きと、そこを経由する山手循環の車輌が並んで、それぞれ発車時刻を待っているのだった。>阪急今津線は各駅停車しか走っていませんが、この小さな駅とは甲東園駅のことです。
昔は駅前の書店の向かいに小さな広場があり、バス停になっていましたが、そこにはビルが建ち、現在のバス停は道路上になっています。学校帰りによく立ち寄った駅前の書店もなくなっていました。
<歩くとすれば、曲がりくねった坂道をのぼるか、急な石段を息をはずませてあがるかして、まず高台に到着しなければならない。大学の正面までは、そこからさらに五百メーターほどの距離があるからなのである。>
阪急甲東園駅から上ヶ原台地に上るこの道は、私が関学の手前にある高校に通った道でした。ルートは3つくらいありますが、小説に書かれているように坂の途中から階段を上るのはきつく、帰りのみ階段ルートでした。
行きはバスの通るクネクネ道を上りますが、歩いていると高校時代、夏季補習で蝉が鳴く坂を汗をかきながら登ったことや、冬に雪が積った時は、滑って転びそうになったことなど懐かしく思い出していました。
途中はバス道から外れて細い道をショートカットします。
小説で柏木は、バスを選択して大学まで上って行きます。
高台に到着して見える協和文科大学とは、まさしくかんべむさしが在学中には一度も試験を受けることなく卒業した関西学院大学のことでした。
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「夙川界隈がもっとも輝いていた八〇年代」の映像
清水博子さんが苦楽園に住んだのは大学卒業後の1990年代と推定していますが、小説『カギ』では、姉も妹も日記に夙川界隈は80年代が最も輝いていたと書いています。 姉の四月二十五日木の日記には<父の勤務先が所有していた苦楽園の社宅で暮した一九八〇年代、夙川は夙川だった。いまは着飾った犬ばかりがめだち、街並みはすすけている。>と書かれています。 また妹の9/12の日記には<東京の大学に入ってから十年以上関西に足をふみいれていません。理由はいくつかあります。ひとつは大学を卒業した翌々年に阪神淡路大震災があったこと。わたしは九歳から十八歳まで苦楽園で過ごしました。俗に「芦屋」とよばれる夙川界隈がもっとも輝いていた八〇年代でした。記憶の街の美しさをぬりかえたくなかったのです。> たしかに1986年から1991年までがバブル景気真っ盛りの時代であり、輝いて見えていたのでしょう。
その時代の夙川・苦楽園口界隈の映像がありました。
昭和62年10月にNHKで放映された「きんき紀行 清流に映すモダンの影~西宮市夙川~」です。アナログ放送のビデオの複写ですから映像は相当粗くなっています。
案内役は若き日の文芸誌編集長河内厚郎さん。
当時の夙川カトリック教会。
阪急夙川駅付近から望む甲山。
夙川河岸の散歩道。
バブル華やかなりし頃の苦楽園口駅界隈。
確かにバブリーに輝いていた80年代でしたが、最近はどうでしょう。
大阪名物串カツのお店まで進出してくる時代になりました。
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桂米朝師匠を敬愛していたかんべむさし氏の作品『幻夢の邂逅』
去る3月19日に人間国宝の落語家・桂米朝さんが肺炎で亡くなられ、大きく報道されています。先日大手前大学さくら夙川キャンパスで開催されたかんべむさし氏文芸講演会後の茶話会で、上方落語に造詣が深いかんべ氏から、桂米朝さんのお話や、桂米朝と三島由紀夫の邂逅を題材にした作品『幻夢の邂逅』についてお聞きしたばかりでした。
桂米朝(本名、中川 清)さんは1925年旧関東州大連市生まれ、兵庫県姫路市出身の上方噺家。1945年2月に応召し、姫路の山間部に急造兵舎があった歩兵部隊に入隊しますが、急性腎臓炎に倒れて、3月には地元の病院に入院、病院で終戦を迎えました。 『幻夢の邂逅』では次のように述べられています。<本籍地は古くからの城下町であり、明治以降は師団司令部が置かれ、各兵科の連隊が駐屯する軍都になっていた。距離としては短い移動であるが、自分は山間の舞台からそこの陸軍病院にまわされ、入院生活を送ることにになった。>
一方、三島 由紀夫(本名、平岡 公威)も同い年の1925年生まれ、本籍地は兵庫県印南郡志方村.。1944年、兵庫県加古川市の加古川公会堂で徴兵検査を受け、第2乙種合格となります。
『仮面の告白』によれば、本籍地の加古川で徴兵検査を受けたのは、「田舎の隊で検査を受けた方がひよわさが目立つて採られないですむかもしれないといふ父の入れ知恵」でしたが結果は合格してしまいます。そして桂米朝さんと同時期の1945年2月には応召され、父・梓と一緒に兵庫県富合村へ出立し、入隊検査を受けますが、折からかかっていた気管支炎を軍医が肺浸潤と誤診し、即日帰郷となります。
青野ヶ原には現在も自衛隊演習場が残されています。
それらの事実からかんべむさし氏が桂米朝と三島由紀夫の邂逅を物語にしたのが『幻夢の邂逅』(初出;小松左京マガジン十月号)でした。
桂米朝は夢の中で、入院していた姫路の陸軍病院で三島由紀夫と出会うのです。桂米朝の寝ている寝台が空いており、そこに若い新顔が連れてこられます。<その彼が、看護婦に手を添えられ、おぼつかない足取りでとなりの寝台にやってきたで、自分は異様な衝撃を受け、彼が入院に至った背後には、複雑な経緯があるはずだと直感していた。(この男は、壊れかけている!)とっさにそう思ったのは、肉体面のみならず精神面においてもであって、これを逆から言えば、双方を「壊され」かけて、極度に消耗している人間だと感じたのだ。なぜなら、眉だけは妙に濃いのだけれど、坊主頭で頬のこけた逆三角形の顔は異常に青白く、両肩は肉が落ちて下がり、胸も薄くて大きめの患者衣が重たげに見えてた。>
昭和45年11月25日、桂米朝は尼崎の自宅二階でようやく四時過ぎに寝床につき、四回目の夢を見て、眠りから覚めかけたのが午前十一時半過ぎ。そのとき、階下で内弟子が騒ぐ声を耳にします。<「何や、何を騒いどるんや!」大声で問うと、一人が会談を駆け上がってきて、興奮の口調で報告したのだ。「師匠、えらいことです。テレビのニュース速報で言うてますけど、三島由紀が自衛隊に立てこもって、総監か誰かを人質にとってるそうですわ」>
最後の夢を見た日が、三島事件の日に設定され、桂米朝も入院せずそのまま軍隊にいたならという、IFの重なった、兵庫県人にとっては考えさせられる面白い構成の物語でした。
この作品の最後に、かんべ氏は[作者付記]として、<この作品の執筆に際しましては、桂米朝師匠より御許可を頂戴し、戦中戦後のエピソードなどもお聞かせいただきました、心より、篤く御礼申し上げます。 なお、申すまでもなく、この作品は青野ヶ原「すれ違い」の事実をもとに、虚実を融合させて構成したフィクションです。したがって、一切の文責は当方に帰します。>
小野市と加西市にまたがる青野原台地には元大阪第二陸軍病院が、戦後厚生省に移管され国立病院機構兵庫青野原病院として存続しています。桂米朝さんのご冥福をお祈りいたします。
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花粉症にココアの効果は抜群!鼻炎薬から解放
20年来の花粉症に悩んでいました。最初はスギ・ヒノキ花粉の時期だけでしたが、最近は真冬以外ほとんど一年中鼻がムズムズしています。特にこの時期は酷くなり鼻水とクシャミが頻発、ティッシュが離せませんでした。(私の場合目については問題ありません) ところが、苦楽園太郎さんが2月24日の記事で、【 簡単! 花粉症予防ドリンク 】と題して、ココアときな粉を混ぜたプロテインパウダーの作り方の紹介をされ、朝一杯ミルクと混ぜて飲むことにより花粉症から解放されたと述べられていました。http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061409/p11169047c.html
早速真似をしてと思いましたが、いつも飲んでるブラックコーヒーを、単純に純ココアに変えて翌日からトライを始めました。今日でほぼ一ヶ月継続していますが、飲み始めた日から効果がわかり、この数日四月中旬並みの気温上昇で、花粉飛散が酷くなっているにもかかわらず、マスクなしで外を歩いても、一日2~3杯の純ココアでほとんど鼻水が出なくなりました。
まだ体質が変わったとは思えませんが、ココアを飲んで暫くすると、明らかに鼻づまりが解消し半日程度は効果が継続します。まるで抗ヒスタミン剤の鼻炎薬を飲んだようです。 ココアの宣伝をするわけではありませんが、調べてみると、ココアに含まれるポリフェノールには、様々な病気予防や効能があるそうです。脳梗塞や動脈硬化の予防、活性酸素の抑制、高血圧の予防、肝機能の向上、ホルモン促進、殺菌効果、糖尿病の改善、細胞の老化防止、がん予防など。 ただ、ポリフェノールは効果時間が短く、摂取してからの持続効果は通常3~4時間といわれているそうです。 またカカオポリフェノールが花粉症に効く理由について、次のような解説もありました。<花粉症に代表されるアレルギー疾患は、体内に入ってくる異物から身を守ろうとする「免疫」システムの過剰反応によって起こります。 こうした過剰反応にも活性酸素が関わっています。カカオポリフェノールには、この活性酸素が作り出されるのを抑えたり、アレルギー症状を引き起こす「抗体」という物質を作りにくくしたり、炎症を起こす物質が出てこないようにする働きがあります。>
http://spotlight-media.jp/article/112024741029167538
とりあえず私の一ヶ月の人体実験の結果、カカオポリフェノールがアレルギー性鼻炎に効果があることは明らかなのですが、医学的なレポートが公開されていないのが不思議です。製薬会社の陰謀でしょうか。これまでマスクが鬱陶しいので、鼻炎薬を飲んでいましたが、現在は不要になりました。
純ココアの苦味が嫌いでない方にはお勧めです。因みに一般的に流通している純ココアは2社あるようですが、砂糖なしで濃い目の純ココアを飲むとその違いがよくわかり、少し高めのほうが、パウダーの粒度も細かく、味もチョコレートっぽく感じました。 これから益々花粉飛散が多くなりますが、あと一ヶ月継続して、その効果についてまたレポートします。
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かんべむさし『黙せし君よ』に描かれた協和文科大学のキャンパス風景
柏木喬はバスで大学の正門前に到着します。
<その低い石塀と正門の、構内の建物と統一した淡いベージュの色調が視野に大きく広がったとき、バスは停止していたのだった。>
それでは柏木とともに協文大のキャンパスに入ってみましょう。
<彼は上着を持ちかえ、口元を強く結んで正門を通過し、構内に入った。少し歩けば、正面にラグビー場ほどもある芝生の広場があり、そのむこうに時計台と急斜面の屋根が目立つ三階建ての図書館、さらにその彼方に山が見えている。>小説では関西学院とは別の大学としていますので、甲山という名前は出てこず、単に山と書かれています。<広場の右手が法学部の校舎になっており、左は商学部のそれであって、どちらも以前のまま優雅な二階建ての姿を保っている。>
関西学院の実際の配置は、中央芝生の正面の時計台を挟んで、左手が経済学部、右手が文学部の建物になっており、小説では変えたようです。<図書館に隠れて見えないが、経営学部の校舎はその裏手右にあり隣接する全学部共用の別館ともども、当時から鉄筋校舎だった。また商学部の裏には大講堂を隔てて経済学部があり、図書館の左奥にあたる位置には文学部の校舎が建っている。学生会館や生協施設などは、いま彼が立っている位置からいえば、これまた左斜めの奥にある。>
学生会館や生協施設は関西学院の配置のまま使ったようですが、各学部の建物の位置は変えて説明されています。
<広大な敷地に、緑を豊に残し、池や小川のせせらぎまで配して、建物を点在させている。自然環境という点では、ここはまことに恵まれたキャンパスだと言えるのだった。>全体のキャンパス風景は関西学院そのものです。
(写真は関西学院大学博物館のジオラマ)
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苦楽園が苦楽園であったころ、下村海南の苦楽園逗留
苦楽園が保養地として賑わいをみせていた頃、大正11年から昭和11年まで、千五百坪の海南荘に住み、佐佐木信綱や川田順、九条武子、中村憲吉など多くの歌人や文化人を招いて歌会や各種集会を催していたのが、下村海南(本名;下村宏)です。
下村海南は華麗な経歴の持ち主で、東京帝国大学卒業後、逓信省に入省、その後台湾総督府民政長官も務め、大正10年に大阪朝日新聞社入社、昭和5年副社長となっています。昭和12年には貴族院議員、18年日本放送協会会長、20年鈴木貫太郎内閣で国務大臣兼情報局総裁など歴任した人物で、ポツダム宣言受諾の実現に尽力したことでも知られています。
彼が苦楽園に住むきっかけが、下村宏『新聞に入りて』(大正14年発行)に述べられていました。「日本へかへる」からです。<四月七日神戸に着く、懐かしいと云うも今更に古い、嬉しいというも恋しいと云うも事愚かなり。世界中で尤も特色ある地位に在り歴史を有する大和民族の一人として、日本人が日本へ帰って来たのである。> 時代でしょうが、このように述べらる人物が朝日新聞の副社長までされていたとは驚きです。
<諏訪山の常盤で知己故旧と昼餐を済ませる、旧友六甲苦楽園の中村喜イヤンは是非今夕は御馴染みの南枝庵の一室でと云う、家族一同石井睡蓮君夫婦外三四と苦楽園に登る。喜イヤンは苦楽園を以て本人自らまだ見ぬ瑞西(スイス)ロザンヌの絶景に比つべしと力んで居る。少なく共差引ラヂウム泉だけヲマケですと威張ってる、ロザンヌに勝るや否やは見る人の心のまにまにであるが、我等は暖かい友人の情に浸りて、八ヶ月振りに親友家族と、心ゆくばかり身も心もなごみて、一夜を松青く水清き南枝庵に明かした。>
ここで中村喜イヤンとは、苦楽園の開発者中村伊三郎氏の長男・喜一郎氏のことで、当時大阪中之島の朝日会館館長をされていたそうです。また「南枝庵」とは苦楽園にあった大谷光瑞の別荘でした。
しかし中村喜一郎氏もレマン湖の畔のローザンヌの絶景に比つべしとは大きくでたものです。それほど当時の苦楽園にも賑わいがあったのでしょう。
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マッサンの三級ウヰスキーの末裔?ポケット壜ブラックニッカクリア
私は決してグルメではありませんが、食べること、飲むことは大好き。この歳になるまで、色んなお酒を飲んで、ウイスキーならばバーボンでした。というのも学生時代にニッカの安価ウイスキー(何だったか覚えていませんが)を飲まされて悪酔いし、特にニッカからは遠ざかっていました。
しかしマッサンブームで日本製スコッチに回帰し、まずはマッサンの竹鶴ピュアモルト、竹鶴21年まで飲ませていただき認識を改めていました。値段が高くなればなるほど、まろやかで口当たりが良くなるのは確かですが、先週のマッサンでは、ドウカウヰスキーの三級ウヰスキー「余市の唄」が販売され、大成功を収めた話が放映され、安価ウイスキーにも興味がわきだしました。
このモデルとなったニッカの三級ウイスキーとは、昭和25年発売された「ニッカポケット壜ウヰスキー」(昭和25年)、続く「ニッカ角壜ウヰスキー(新角)」(昭和26年)で、当時の価格は寿屋の「トリスウヰスキー」の二割高という値段設定でした。
ドラマでの開発経緯や試飲会で皆その味と香りに感心していたシーンから、その三級ウイスキーを飲んでみたくなりましたが、現在は販売されていないようです。 しかしコンビ二に立ち寄ると、そのクラスと思われるサントリーとニッカのポケット壜が並んでいました。
ブラックニッカクリアは消費税込みで300円程度、対抗品と思われるトリスやレッドのポケット壜よりも更に安価な価格設定です。早速購入して、東京からの帰りに新幹線の中で飲み出しましたが、あっという間に車中で空にして、いい気分になってしまいました。 ブラックニッカクリアはハイボールなどにして飲まれるようで、味が良いという人は少ないようですが、私にとっては口当たりの良いウイスキーです。
そのように感じるのは、私が苦手とするスモーキーフレーバーが無いからのようで、ラベルを読むと、ピートを使用せずに乾燥させた大麦麦芽を使用しているからだそうです。トリスやレッドに比べても安価に押さえられているのはアルコール度数が37%と少し低くしているせいでしょうか。 新幹線に乗っている時間で、気分よく酔っ払える、コストパフォーマンスの素晴らしいウイスキーでした。
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苦楽園の「海南荘」のあった場所は今
下村海南は大正11年の冬に苦楽園に海南荘を建て、移り住んだ喜びを『新聞に入りて』の中で「冬の海南荘」と題して次のように述べ、句をしたためています。
<十一月二十一日六甲苦楽園内望が丘のほとりに海南荘を相して移る、まなかいに生駒、金剛、葛城の連峰海を越えて淡路に走り、眼の下に西の宮、尼が崎、大坂、堺、濱寺の市邑、茅渟の海を囲みて点綴せらる。六甲の峯を背にして冬暖かに夏涼しく、満山松つつじ萩に彩られ、ラヂュームを含める清泉流れて点々紺碧の池を湛ゆ。生来茲に四十有八年、初めて得たる我土にして正に我余生を終わるべき地である。あめつちの広きがなかに踏む足の初めて軽し我土を得て わが家は武庫の川すそまばらなる>
海南荘はその後、一時大阪市交通局保険組合苦楽山荘として使われていたことがあり、南野武衛著「西宮文学風土記」にその位置が記されていました。
谷崎潤一郎が一時滞在した万象閣跡地から堀江オルゴール館に登る道の途中にありますが、現在は新築された住宅で埋まっています。
その住宅街の中に、小さな苦楽園四番町公園があり、そこに海南自 筆の歌碑が残されていました。
大正11年のこのあたりからの眺めは、海南が述べているように大阪湾全体を見晴らす絶景だったようです。
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学園紛争が始まったのは昭和42年?(かんべむさし『黙せし君よ』)
かんべむさし『黙せし君よ』は、オフィス家具販売店マナベスに勤める主人公・柏木喬が梅田の地下街コンコースから阪神梅田駅に向かう帰宅シーンから始まります。
<さまざまな人間が、交差する複数の川を作りつつ、おのおのの目指す方向へと最短距離を取って歩いていく。地下鉄御堂筋線・谷町線・JR、それに阪急と阪神の両私鉄……テナントもすでにシャッターを下ろしたこの時期、ここはそれらターミナル駅への、通りぬけ広場となっているのだった。そんななかのひとつ、曽根崎方向から阪神電車梅田駅へと流れてきた川のなかに、サラリーマンの二人連れが含まれていた。>
柏木の自宅は芦屋のようです。
<甲子園を出れば、特急はしにさき五分ほどで西宮、さらに五分ほどで、柏木の下車駅である芦屋に停車することになっている。>
柏木は学生時代の記憶を呼び戻すために、日記帖代わりに使っていたノートを数冊持って芦屋市立図書館に向かいます。
<「ちょっと、出かけてくるよ」幸い歩いて五分ほどの距離、芦屋浜シーサイドタウンの手前に図書館があるので、昼食後、そこへ隠れることにしたのである。>
<読むことによって記憶層を刺激された顔が、過去の光景や感情を、現在ただいま、リアルに再生し始めるからなのだ。「なるほどなあ」いまも彼は、1967年、昭和42年秋のある記述から当時のシーンをありありと想起し、思っていたところである。>
著者かんべむさし(本名;阪上順)氏は昭和41年の春、関西学院に入学。
昭和41年4月15日の学生新聞入学者名簿に府立桜塚高校の欄の最後(県西の前)に確かに阪上順氏の名前が掲載されていました。
早稲田大学で学費値上げ反対の紛争が始まったのが昭和41年、関西学院では父兄会費値上げ問題などで紛争が始まっていましたが、本格的になりだしたのは昭和42年の11月に学費値上げが発表されてからだったようです。
<そして記憶を探ってみれば、協文大における紛争の序曲は、ちょうどこの頃に奏でられ始めていたのだということもわかった。学費値上げ反対・カリキュラム改悪阻止・裏六甲第二キャンパス構想を白紙撤回せよ。各学部の自治会がそれらの要求を掲げ、座り込みをし、携帯スピーカーの声を張り上げて、大学側に交渉を迫っていた。>
昭和42年11月の関西学院の学生集会です。<正門前や学部の玄関前に立てられた巨大な立て看板には、それらとともに、こういうスローガンも朱色の文字で踊っていた。エンプラ寄港反対・佐藤訪ベト実力阻止・安保条約廃棄・反帝反スタ・産学協同体制を粉砕せよ……まだ執行部やセクトに属する活動家のみの動きであり、構内はおおむね平静だったのだが、ときにはデモも行われていたのである。>
12月には遂に全学ストライキに入ります。
正門の様子です。私はまだ高校生でした。
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西宮プレラホールで池澤夏樹さんと小池昌代さんのトークイベント
西宮プレラホールで池澤夏樹さんと小池昌代さんによる「日本文学全集の作り方」というトークイベントがあると、373さんに教えていただき、出席させていただきました。河出書房新社主催の「池澤夏樹=個人編集日本文学全集」刊行記念トークイベントとして開催されたものです。
文明や日本についての考察を基調にした小説や随筆を書かれている池澤夏樹氏と、詩人で作家の小池昌代氏とのトークイベント。お二人の語り口も良く、西宮でもこのようなお話を聞きけるのかと感心して聞いておりました。
1980年代までの教養の時代からその後の消費の時代になり途絶えていたと自ら解説される文学全集、池澤氏は2011年の東日本大震災をきっかけに、日本の風土や自然や、気候について考えるようになり、長い文学史と言語史を持つ日本文学から日本について多くのこと学ぶことができると考え、一旦断わっていた河出書房新社の依頼を引き受けられたそうです。
古典から現代文学まで網羅した池澤氏個人編集の新しい日本文学全集、日本最初の文学作品『古事記』は池澤氏自ら現代語訳されています。
また第2巻『口訳万葉集 百人一首 新々百人一首』で「百人一首」の新訳と鑑賞にあたられた詩人で小説家の小池昌代氏のお話。現代自由詩人からみた百人一首の魅力が語られました。
お二人の古事記、百人一首の新訳のお話を中心にした文学へのいざない、文学者らしいレベルの高いお話で、お二人の聡明さに感心いたしました。なかなかチャンスの無い作家のお話を聞くことができ、古典に親しむきっかけになりました。
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志賀重昂『日本風景論』と夙川の松と桜
いよいよ夙川の桜も咲きだしました。日本人が最も愛している花といわれる桜ですが、日本は桜国か松国かという話題が有岡利幸著『桜』で紹介されています。
そこで「松国」の主張として取り上げられているのが世界的な地理学者志賀重昂による『日本風景論』。
志賀は、世間では桜をもって日本国民の気象を涵養するに足ると考える人がいるが、自分はその説には反対である。日本中の至るところに存在する松のほうがずっと国民を感化する力を持っていると主張します。 しかし桜の美しさ否定するものではなく、「嵐峡の桜雲、微月を掠め、夜色朦朧」と、京都嵐山の桜の美しさを掲げ、それとともに日本風景の美しいところとして、この嵐山を含む九ヶ所をあげ、美の精は日本の春であるとしています。 その挿絵として、「理想上の国土、美なるかな国土」との説明で、遠景に富士山を、近景に松の老木とからみあった満開の山桜を描いたものを載せているのです。
有岡利幸著『桜』からです。<志賀は、わが国には多種多様の色彩や濃淡をもつ花が鮮やかに麗しく咲き乱れるが。松樹がそこにあることにより、いよいよますますその花々の鮮やかさ、麗しさが増してくるとする。特に桜花がそうである。松のもつ特性と、桜花のもつ特性を、調合し、塩梅したものをもって、生来の日本人の特性とすべきでないかと提案している。 満開の桜花と、松の緑とは、実によく調和する。江戸時代に八大将軍吉宗が、江戸の飛鳥山に桜樹をたくさん植えさせた時も松樹もともに植えさせたことも、このことをよく理解していたのである。>
松と桜の美しさといえば、やはりこの時期の夙川河岸の風景でしょう。
もうしばらくすれば、桜も満開。甲山と桜と松の風景は、日本風景論の挿絵の富士と桜と松の風景にも比肩できるものでしょう。志賀重昂にも見に来ていただきたかった。
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大正11年の鳴尾野球戦(下村海南『新聞に入りて』より)
甲子園球場の春の選抜高校野球もいよいよ明日は福井代表と北海道代表の決勝戦でワクワクします。第一回の全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)は大正4年(1915年)に大阪府豊中村の豊中グラウンドで開催されましたが、大正6年から大正13年(甲子年)に甲子園大運動場ができるまで、鳴尾球場で開催されることになります。 下村海南は『新聞に入りて』で「鳴尾野球戦」と題して、次のような短歌を読んでいます。<社主催の年中行事第八回全国中等学校選手野球大会は、八月十三日より十八日に亘り鳴尾のグランドに開催さる。第五日松山商業神戸商業と戦い一対二にて惜敗し選手皆泣き観衆又泣く。第六日和歌山中学再び月桂冠を得て井口投手以下勝戦に嗚咽し衆又泣く。
万人の歓呼のうちに勝ちし群れは 旗を先にし静かにぞすすむ
刀折れ矢つきても猶雄たけびの こゑなりやまず三津が濱邊に
戦のいやはての勝得し人の おもわに光る涙を見ずや >
今も変わらぬ、感涙のシーンです。
さてこの鳴尾球場とは、当時すでにあった鳴尾競馬場のトラックの内部に二面設けられていたそうです。
昭和11年の吉田初三郎の西宮市鳥瞰図では、既に撤去された後で、その姿は描かれていませんでした。
鳴尾競馬場は相当広かったらしく、見取り図を見ると、競馬トラックの内側に観覧席、陸上トラック、野球場、テニスコートなどがあったようです。
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昭和43年協文大、遂に無期限ストに突入(かんべむさし『黙せし君よ』)
かんべむさし『黙せし君よ』では昭和43年の世界の出来事とともに、関西学院大学がモデルとなっている協文大の学内の様子が描かれています。
<十月、一連の問題について全共闘が大衆団交を要求し、大学側がこれを拒否したため、各学部ごとのストライキに入ろうとした。 そして伊吹の属する商学部では、スト権確立投票のための学生大会が予定されていた。ところがその機先を制するつもりか、突然教授会が執行部役員に校舎からの退去命令を出し、排除しようとした。そのためにまたしても、体育会系学生の「力」が使われた。これで一般学生が怒り、数日後の学生大会で無期限ストを可決したため、学部のバリケード封鎖が開始されることになった。>
関西学院の商学部のバリケード封鎖は実際には昭和42年に既に始まっていました。
昭和43年3月の卒業式の図書館前での記念撮影の目の前で、全共闘派学生によるデモがあったようです。
この年はどんな年だったのでしょう。記憶が薄れていますが、友人伊吹がビデオ・ライブラリーに入って映像を見ています。<「俺もビデオで、東大の安田講堂封鎖解除から万国博の開会式まで見てしまった。検索リストを見ると、その万博開催と同じ頃に新日鉄が発足してたんだな。それに自動車業界が好況で、外貨獲得のスターだなんてニュースもあった。紛争の時代は1969年で終わり、進歩と調和の70年が来たわけだな」もっとも彼らの乗った車が走っている新御堂筋、大阪の梅田と千里丘陵を結ぶその高速道路も、万国博開催時に開通したものだった。>
安田講堂封鎖解除は昭和44年1月のこと、それだけは映像が鮮明に記憶に残っています。しかし、よく考えてみると、現在のこの平和なキャンパスで学んでいる学生はあの事件のずっと後に生まれているのです。
結局昭和44年の東大入試は中止となりましたが、昭和45年には大阪万博が開催され、学園紛争も下火になりました。
小説に書かれていたように、新御堂筋線もこの時できたのかと振り返っていました。
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涼宮ハルヒシリーズの公式パロディ『長門有希ちゃんの消失』放映開始!
谷川流原作のテレビアニメ『長門有希ちゃんの消失』が4月5日深夜、サンテレビで放映開始されるそうです。
原作者谷川流のみならず、メジャーリーガー田口壮も卒業した西宮北校が舞台。『涼宮ハルヒの消失』から何年たったことでしょう。待ってました。
Wikipediaによると<主人公長門有希は北高に通う1年生(物語途中より2年生)で文芸部部長。市立図書館での出来事がきっかけで、同じく北高に通う男子生徒「キョン」に惚れてしまい、ゾッコンな面を持っている。涼宮ハルヒは光陽園学院に通う1年生(物語途中より2年生)。『涼宮ハルヒちゃんの憂鬱』の時より髪が長く、性格は原作より穏やか。>
舞台としては西宮北校や、西宮市立中央図書館、夙川女学院(光陽園学院)などが再び登場するのではないでしょうか。
自ら高齢者と呼ぶには忍びない熟年男たちも期待しています。この情報は涼宮ハルヒも卒業した大社中出身の60歳の友人から教えてもらいました。
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