ようやく福島第1原発1号機の原子炉格納容器1階部分をロボットで調査した際の画像が公開されました。しかし1台目のロボットは金網状の床の段差にはまって停止。2台目もロボットを監視するためのカメラが放射線の影響で故障し格納容器内に残すことを決めたとのこと。
鉄腕アトムで育った世代のエンジニアとしては情けなくて、たまりません。
空を超えて ラララ 星の彼方ゆくぞ アトム ジェットの限り心やさし ラララ 科学の子 十万馬力だ 鉄腕アトム
本来日本は産業用ロボットでは世界の出荷台数でダントツのシェア1位で、 「ロボット先進国」であった筈です。
これまでのロボット開発や、ロボコンで蓄積されてきた技術は何なんだったのでしょう。
聞くところによると、高放射線により半導体が直ぐに壊れてしまうことや、高熱、水、など多くの問題があるそうです。しかしながら、放射線の影響を受ける電子部品などは鉛で囲えば容易に保護できますし、ハードデューティに耐えてこそロボットなのです。
お茶の水博士はどこに行ってしまったのでしょう。 プロジェクトXは秘かに進められているのでしょうか。
日本の英知と技術力を結集して、一刻も早く人間に代わって歩行ロボットの大群が、福島原発の廃炉作業に携わるよう願っています。
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福島原発とロボット(老エンジニアの嘆き)
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苦楽園の黒岩重吾邸と大阪市立六甲郊外学園
涼宮ハルヒで一躍有名になった西宮北校と苦楽園中学の間の道を下った突き当たりの右側の角に。かつて大阪市立六甲郊外学園がありました。
大阪春秋N0.157「特集西宮ツーリズムまちたびことはじめ」でも、三島佑一氏が「苦楽園・六甲郊外学園の思い出」と題して詳しく紹介されています。
<戦前苦楽園に、煙の都大阪から虚弱児童を保護するために、全寮制の大阪市立六甲郊外学園があったことをご存知だろうか。>
昔は東洋のマンチェスターと言われた大阪、相当空気が悪かったらしく、肺門リンパ腺を患われて入園されたそうです。<まず空気がピカピカ光って手で触りたいくらい。朝食前夫婦池まで散歩に行く。晴れた日でもどんより曇った大阪の街の上に、大阪城が正三角形の定規のようにくっきり見えた。>
ここで述べられている夫婦池とは、今は西宮北校となっている場所にあったゲンコツホテルの前の二つの池のことです。
<そこには西洋のお城のような円筒形の建物が立っていて、私たちはお化け屋敷と呼んでいた。同じ頃近くに住んでいた湯川秀樹の『旅人』にもこんなことが書いてある。>と当時苦楽園に住まれていた湯川秀樹の『旅人』を引用されています。
黒岩重吾もまた小学生の時、六甲郊外学園で過ごし、昭和50年代にはその跡地近くに新居を構えました。
黒岩重吾全集22『北満病棟記 暗い春の歌』の作品群の最後で、「深い傷」と題して次のように述べています。<私が昨年移転した現在の住居は、兵庫県の西宮市だが、私は大阪市の小学校五年生の時、虚弱児童という理由で、大阪市が運営していた六甲の郊外学園に半年間行かされた。父の意思だったと記憶しているが、行かされた理由は、私がたんに虚弱児童だったからではない。当時の私は両親の手に負えない、腕白少年だったのである。真面目な電気技師だった父と、将来、放蕩無頼な生活を送り、作家になった私が合う筈がない。私は小学生時代から両親に反抗し続けた。>
黒岩重吾にとって郊外学園の思い出は決して楽しいものではなかったようです。<父が私を六甲の郊外学園に入れ、集団生活の中で、性格を叩きなおそうと考えたのも無理はないだろう。つまり私は、小学五年生の時、家を放り出され郊外学園で鍛えられたのである。入園の児童たちは殆んど勉強させず、山を歩かされたり、野菜を作らされたりした。幾ら腕白でも小学校の五年生といえばまだ家が恋しい年齢である。私は就寝の前になると、家に戻ったなら両親にあまりさからうまい、と誓った。 その六甲郊外学園は、今度の新住居の近くにあったのだ。偶然といえば偶然だが、私の人生は、そういう偶然の積み重ねによって成り立っているようなところがある。>
ぶらりわが街苦楽園地域の絵地図を見てみると、黒岩邸は六甲郊外学園の跡地に建てられているように見えますが、この場所ではなく少し離れたところのようです。しかし苦楽園で子供の頃に見た景色に愛着があったからこそ近くに住まれたのではないでしょうか。 絵地図を頼りに歩いてみました。
写真の右手が苦楽園中学と西宮北校の正門につながる道です。六甲郊外学園の跡地には住宅がぎっしり建てられていました。
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うらなり先生の姫路デートスポット
『坊っちゃん』を題材にした小林信彦著『うらなり』からです。
うらなりは姫路に来て、しばらくして居酒屋の娘と懇意になります。明治30年代のお話です。<お勘定の時に愛想笑いを返していたが、そのうち、あながち義理の笑いでないような気がしてきた。私は三十過ぎたばかりで、おそらくは淋しそうに見えたのだろう。私のことだから、充分に警戒した上で、書写山圓教寺を案内してもらえないか、と声をかけた。娘は足を指さして、こんな具合だから、石段を登るのはきつい、と言い、他の寺に案内すると答えた。> 書写山圓教寺は「西の比叡山」とも称され、西国三十三霊場の二十七番札所。
ラストサムライのロケにも使われたお寺です。
圓教寺の階段は足が不自由な人にはつらいでしょうが、ロープウエイのなかった時代にうらなりは女性を誘ってどのようにして圓教寺に登るつもりだったのでしょう。
<私たちは他の寺に行った。お夏清十郎の比翼塚があったような気がするが、この記憶はあてにならない。>
井原西鶴、近松門左衛門の小説や戯曲などで有名な『お夏清十郎』は播州姫路で実際に起きた駆落ち事件を題材にした作品です。 二人の霊を慰める比翼塚が、姫路城の北東にある慶雲寺にあります。うらなりの記憶はきっとこのお寺でしょう。
毎年8月9日、10日に、昭和の時代にはじまったお夏・清十郎まつりが開催されており、今年は67回目になります。
うらなりは次の週も女性を誘って別の寺に行きます。<次の週、また別の寺に行った。遊園地は混んでいるし、浜には集団水練の中学生がいるしで、男女がさんぽできる場所はそうはない。>
お寺や神社は明治時代のうらなり先生にとっては絶好のデートスポットだったようです。
<姫路城の修理がもうすぐ完成するとか、十二所神社の藤棚は季節には見事だ、といった他愛ない話ばかりだった。私は幸せだったが、彼女がどう感じていたかはわからない。> 十二所神社は、姫路城の近くにある神社で医薬の神様。
その境内に播州皿屋敷の主人公お菊を祀ったお菊神社があります。
お菊が十二所神社に参詣していたという伝承から祀られたそうですが、十二所神社から藤棚を歩くとお菊神社となります。
五月になれば見事な藤の棚になります。
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御影公会堂から回生病院へ(野坂昭如『早すぎた夏』)
『早すぎた夏』から続けます。
野坂昭如は実際に神戸大空襲で大火傷を負った義母を人力車を頼んで回生病院に運びましたが、小説では主人公俊夫は神戸大空襲で大火傷を負った母親を、大八車に乗せ、御影公会堂から回生病院まで運びます。
<さて母を運ぶとなって、とても歩けないから大八車を借り、炎天の下を引き出して、たのむ木陰も庇も、喉うるおす水もない、焼け跡に埋めた火鉢の中の、梅干やら米はたすかったから、その梅の種までしゃぶりつつ、夕刻、ようやく夙川に着き、海に向かうと、おそらくチッキで、田舎へ送るのだろう布団袋や行李を積んで、リヤカー、トラックと行きあい、俊夫はもう精魂つきはてた母の、ぼろくずのような姿を、妙に恥ずかしく感じる。>
野坂昭如の実体験として、満池谷町の親戚の家から大八車を引いて、中郷町の焼け跡に埋めた食料をとりに行っています。
ようやくたどりついた回生病院ですが、俊夫は深谷池(ニテコ池)のそばの親戚の家に泊めてもらいに行きます。
<三食すらこの病院は自炊をゆるざず、初日二日目は婦長がなんとかとりはからってくれたが、そうたよるわけにもいかぬ。「俊ちゃん、深谷池のそばの小母さん知ってるやろ」神戸に親戚はあったが、同じように焼け出されているし、父の死後、後家のふんばりの度が過ぎて、母は親しくつきあっていない。深谷池は、夙川の上流にあって、水道用水の水源地、そのそばに母方の遠い血縁が住み、二、三年前までは、蝉取り昆虫採集に、近くの広田神社へ来た時、かえりに寄って水など飲ませてもらった。>いよいよ満地谷の親戚の家へ向かいます。
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坊っちゃんのうらなり先生も見た大正時代に始まった姫路城の電飾
マドンナとは縁がなかったうらなり先生ですが、小林信彦『うらなり』では姫路に移って、校長の勧める見合い話から美人の女性と大正元年に結婚します。
うらなりの母と妻の間はかならずしもうまく行かなかったようですが、人生の区切りとしてその頃の姫路城の様子が描かれています。<大正天皇が即位の儀式を挙げられたのは大正四年十一月十日で、街は慶祝一色に染めらた。姫路城の天守閣には電飾が点され、夜空に浮かび上がった。官民合同の奉祝会がおこなわれ、仮装行列や提灯行列がつづいた。母が急性心筋梗塞で逝ったのはその年の暮れである。>
市制百周年記念誌「姫路百年」には、大正天皇の即位の礼が行われた大正4年11月10日を中心に姫路城の大天守に電飾が施されたと記され、写真も掲載されていました。
『うらなり』からです。<妻は二人の子供を産んだ。女一人と男一人で、一人目は大正二年の生まれである。天守閣の電飾を見に行った時、妻は赤ん坊を連れていたことになる。電飾が点ったのはもう一度、市制施行三十年記念の大正七年だった。この辺りはまだ記憶に残っている。> 特別な大行事に合わせて天守閣の電飾がなされたようです。インターネットで調べていると、「大正天皇御大典記念のイルミネーション」と題した気になる記事がありました。 2011年11月16日の神戸新聞からです。
<「天下の白鷺城を永久の不夜城に」‐。姫路城を終夜イルミネーションで飾る計画について報じた1920(大正9)年1月13日の神戸新聞が、上郡町の民家から見つかった。大正天皇の即位を記念して電飾を施した姫路城の写真は姫路市史などに掲載されているが、時期は1915(同4)年と異なる。姫路城のイルミネーションは、大正期から度々実施されてきたようだ。>
果たして大正天皇の即位の礼が行われた大正4年に電飾はなされていたのでしょうか。 新聞記事には「5層の天守閣に常夜的イルミネーションを点ずべく計画し、目下姫路水力電気会社で設計中」「天守閣の輪郭一円に、経費約2千円の予定で灯数50個ないし100個」と紹介されています。
先日の夜桜見物で見た姫路城のライトアップです。大正時代とはライトアップの方法はかなり変わりました。
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文芸部部長長門有希ちゃんのモデルは実在していた
長門有希ちゃんの消失第二話はクリスマスでしたが、第三話では年が明けて初詣。
でかけたのは広田神社のようです。
ところで主人公長門有希ちゃんは北高に通う1年生で廃部寸前の文芸部の部長。
作者の谷川流氏も実際に、西宮北校の文芸部員だったそうです。
スニーカー文庫編集部編『涼宮ハルヒの観測』第五章座談雑談からです。<谷川:あ、でも確かに部活はまあ楽しかったということでいいかも。僕が一番青春していた時期です。いとう:おおー。編集1:甘酸っぱいですねえ。谷川:高校の文芸部は途中から行かなくなりましたけどね。何かのあとがきで書いたんですが、最初文芸部を覗きに行ったら部長一人だけだったんですよ。文芸部ができた経緯というのが、うちの高校の演劇部の脚本部門が独立して文芸部になったような形だったらしいんですけど、僕は美術部がメインだったんで週一くらいしか顔を出さなかったんですが、二人で会誌を作ったりしましたね。一年がかりで。編集2:青春だなあ。谷川:まあ部長は上級生だから先に引退してしまって、入れ替りに新入部員はいっぱいはいってきたんですけど、そうしたらもういいやと思っていかなくなってしまった。> その谷川氏の一年先輩の文芸部の部長とは、長門有希ちゃんのモデルではないですか。ご本人はご存知でしょうか?今はどうされているのでしょう。
さらに調べていると西宮流に、西宮流文芸部長門有希ちゃんの消失Tributeというサイトが立ち上がっていました。
http://nishinomiya-style.jp/yukichan/2015/04/08/kickoff/
長門有希ちゃん、これkら西宮でメジャーな存在になるのではないでしょうか。
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『坊っちゃん』のうらなり先生が神戸トア・ホテルでマドンナと再会
小林信彦の『うらなり』ではマドンナは結局、大阪船場の木綿問屋に嫁ぎますが、夫が遊び人で随分苦労しているとか。
あの騒ぎから二十年経過して、ひょんなことから姫路に住んでいるうらなりと電話で話します。<- 姫路に行きましょうか。姫路城を案内してくださらない?― 私の生徒に目撃されます。少しは考えてくださいよ。 私は受話器を置きたくなった。声をひそめるのも奇妙なものである。― それじゃ、神戸はどうかしら。神戸の山の手に古いホテルがあるでしょう。
広東ホテルっていうの、ご存知ないかしら?>
と広東ホテルでの再開を約束してしまいます。この広東ホテルは次のように描かれており、明治41年に開業した神戸北野町のトア・ホテルをモデルにしたことは間違いありません。
<広東ホテルの開業は明治の末年で、ドイツ系の企業が経営し、社長もドイツ人だった。ホテル名もドイツ風だったはずである。第一次世界大戦で、ドイツは日本の敵国となり、ホテルの経営者たちは追放された。代って経営者になったのがイギリス人であり、ホテルの経営はイギリス風になった。>
トア・ホテルは元々ドイツ資本の会社で、初代はドイツ人の社長、大正3年イギリス人の社長となり、昭和16年の太平洋戦争の勃発から再びドイツ系ホテルに戻ります。その後湯浅恭三氏が社長となり昭和19年には川崎重工業に身売りし廃業してしまったそうです。小説ではうらなりは神戸駅からトアロードを上っていったようです。
<山の手への坂道を上がると、左側に地上三階の白塗りの建物がある。回転ドアを押して入った瞬間の印象は暗い。昼間でもシャンデリアを灯し、ステンドグラスを透す陽光はさほど強くない。 ロビーのは本革張りの椅子。ソファがあり、奥の少し高い所はコーヒーハウスと称しているものの、銀製のティーポットで紅茶が供される。これは香港の某ホテルを模したものだ、と友人に説明された。つまりは、大英帝国の植民地風なのだろう。ロビーには数名の外国人がいた。これは神戸在住外国人の社交場になっていると聞いている。>
絵葉書に見るトア・ホテルのダイニング・ルームです。
現在のトア・ホテル跡地は神戸外国倶楽部となっています。
航空写真からはプールが見えています。
トア・ホテルの建物は戦後GHQに接収され、その管理下にありましが、残念ながら昭和25年に原因不明の火災により焼失しました。
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芦屋川のむら玄へ
先週の土曜日、天気も良く、ドライブを兼ねて芦有道路入口にあるむら玄に行ってきました。
2011年の「ミシュランガイド、京都・大阪・神戸2011」で、1つ星の評価を受けたそうで、当時はかなり混雑して大変だったようです。食べログでもTOP5000に入っているお店です。 到着したのは丁度12時過ぎでしたが、駐車場(約8台)は満車で、道路沿いに2台目に駐車して待ちました。
お店の直ぐ下を芦屋川が流れています。
駐車場からも山は新緑におおわれ、見ているだけで心が安らぎます。土曜日のせいかもしれませんが、かなり長く待って店内に。
芦屋川のせせらぎが聞こえる外のテラス席もこの時期、良さそうです。店内は空きテーブルも有り、空いているのですが、オーダーしてからも結構待ちました。 しかし、新緑が美しく、店内からの景色も良く、静かにゆったりとした時間を過ごすことができました。
私がオーダーしたのは玉子焼きと盛り蕎麦。
車を運転していてお酒を飲めなかったのが残念です。お値段も普通のお蕎麦屋さんと変わりません。ゆっくり新緑を楽しみたい方にはお勧めで、秋には紅葉が楽しめそうです。
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『33年後のなんとなくクリスタル』に登場していた村上開新堂のクッキー
ようやく図書館から借り出すことができた田中康夫『33年後のなんとなくクリスタル』は、<少し早めに夕ご飯を食べ終えたロッタを抱き上げ、僕は散歩に出掛けた。>と愛犬ロッタの世話をする僕のシーンから始まり、総選挙で敗退した主人公僕の名は「ヤスオ」。どうも田中康夫本人のようです。
ひょんなきっかけから「ヤスオ」自身が旧作の主人公・由利や友人の女性たちと対面することになります。相も変わらず料理にワインなど、スノビッシュな蘊蓄を傾け、政治、経済、世界情勢にまで話題が広がり、まだまだ政治家を続ける意欲がみなぎっています。
主人公ヤスオが女子会に誘われて持っていったおみやげとして登場するのが村上開新堂のクッキー。3年前私がこのブログで、東京のお土産としてお勧めを尋ねた時、教えていただいたクッキーが登場していました。
<やんわりとかわすと僕は、玄関先で靴を脱ぐ前に、手にしていた薄紅色の紙袋を沙緒里に差し出した。「あら開新堂の手提げだわ。クッキーかしら。ねっ、沙緒里さんもご存知でしょ?」沙緒里は知らなかったらしく、小首を傾げる。>
お店は地下鉄半蔵門駅から歩いてすぐのところ、英国大使館の裏手です。
<「英国大使館の裏手に昔からある料理店のクッキーをお持ちしました」明治維新後に宮内省大膳職から横浜の外国人居留地へ派遣ざれ、洋菓子の技術を学んだ料理番が創業した村上開新堂は、プティフールという単語が人口に膾炙する遥か前から、一口サイズの端麗な生菓子と薄紅色の缶に詰められたクッキーの美味しさで知られる。鹿鳴館で供された洋菓子も担当していたと、四代目にあたる女主人が存命だった頃に聞いたのを僕は想い出す。「いいなあ、ヤスオさん、顔なじみなんだ。今度、私にもお裾分けしてね。これって、なかなか手に入らないのよ、沙緒里さん」 レストランとしての営業も行う村上開新堂は料理も菓子も、古くからの顧客に紹介されて初めて味わうことができるのだった。> 村上開新堂のホームぺージで「購入をご希望の方へ」を見ると、確かに「当店は創業以来手作りを続けておりますため、一日に出来ます量が非常に限られております。そのため、当店の商品は全てご予約にてご用意させていただいております。初めてご注文されるお客様は、当店をご利用いただいております方からご紹介をいただき、お名前をご登録いただいた後にご予約を承っております。皆様には大変ご不便をおかけいたしますが、何卒ご理解とご協力の程、お願い申し上げます。」と書かれています。 平成の時代に、ここまで格式高い菓子店は関西では見たことがありません。
しかし、その抜け道の買い方を、以前コメントいただいておりました。「麹町村上開新堂のクッキー。ご紹介か、一度食事をするとメンバーになれます。いちげんさんには売らないそうです。政財界では有名なお土産です。しかし、抜け道があり、お隣に開新堂のお嬢さん(と言ってもお孫さんあり)「山本道子の店」があり、同じピンクの缶で1000円位からあります。多分予約無しで買えます。とても美しいクッキーです。」
「山本道子の店」は村上開新堂と同じ建物の一角にありました。
おそるおそる店内に入りましたが、さすが上品な対応で、焼き菓子とクッキーを予約なしで購入することができました。
ピンクの缶に入ったマーブルクッキー、美味しゅういただきました。
田中康夫が1ページを割いて説明している村上開新堂、やはりすごい店なのでしょう。
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小林信彦『うらなり』の最後のシーンは東京ステーションホテル
小林信彦『うらなり』の最後は、東京ステーションホテルでブレックファーストを食べながら、『坊っちゃん』在任当時の最後の事件とその後の顛末を堀田(山嵐)が古賀(うらなり)に話す場面です。
<東京鉄道ホテル二階のメイン・ダイニング・ルームの入口で、私は立ち止まった。天井が高く、広い空間の三面に窓が開かれた、白亜の殿堂といってもいいダイニング・ルームである。窓と窓の間にある壁飾りは、葡萄や海老が描かれた装飾皿であった。シャンデリアは点ってはいるが、朝なのであまり目立たない。和服にエプロン姿の女性が「堀田様はいらっしゃっております」と私に言い、左側の窓際の席に案内した。>
開業当時の写真を良く見ると、一階フロントの前にエレベーターがあり、その前に和服にエプロン姿の女性が立っていました。
現在のフロントの様子です。
<前に、ここのバーに連れてこられたことがあったのですが、たしか東京ステーションホテルといったような気がするのです」「その記憶は正しい。事情があって、去年の十二月から東京鉄道ホテルと改名したのです。私など、人と落ち合う時、つい、ステーションホテルと言ってしまいます。」> 東京駅開業の翌年、1915年に東京ステーションホテルは客室数58室、宴会場を備えたヨーロッパスタイルのホテルとして開業し昭和8年に鉄道省直営の東京鉄道ホテルに改称していますから、このお話は昭和9年のこととなります。
東京鉄道ホテル当時の玄関の写真がありました。
現在の玄関です。
<支払いは朝食が二人で二円、あとはビール代である。「すまんですな」堀田が小声で言った。「これでも鉄道省の直営になってから、値下げしたのです。以前は朝食が一円五十銭もしました。代議士、役人、軍人といった連中以外は入れませんでしたな」「つまり大衆化ということでしょか」「今でも大衆が入れる値段ではありませんが、そいう心つもりなのでしょう」彼はプラットホームまで送ると言い、入場券を買った。「九時に発って、神戸に着くのがいつごろですか」「宵の口です」「早くなったものですな、鉄道も」堀田は感心した。>
現在の東京ステーションホテルの一階ラウンジのモーニングプレートが2000円、昭和9年の物価の2000倍ということになります。
東京ステーションホテルには、多くの作家が宿泊し、執筆したことから209号室が松本清張の部屋、207号室が森瑤子の部屋、216号室と218号室が江戸川乱歩の部屋、317号室が川端康成の部屋、322号室が内田百閒の部屋と呼ばれ、その他夏樹静子なだ多くの作家に縁のあるホテルでもありました。(種村直樹『東京ステーションホテル物語』)
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※人情味と正義感に溢れる関西の下町(『33年後のなんとなく、クリスタル』)
『なんとなく、クリスタル』で文壇デビューした田中康夫氏、2009年には衆議院総選挙兵庫8区の尼崎市から「尼崎のために。日本のために。」と新党日本代表として立候補して当選しています。
どうして尼崎から立候補したのか、よく分かりませんが、今も尼崎市には敬意を払っているようです。
『33年後のなんとなくクリスタル』でも前作同様438に及ぶ※註が面白くおかしく、読み物として構成されています。
その「P119※人情味と正義感に溢れる関西の下町」の脚注が尼崎市なのです。<※人情味と正義感に溢れる関西の下町:人口45万人の尼崎市は大阪市西淀川区、豊中市と隣接する兵庫県東端の自治体。市内全域が大阪市と同じ[06]。明治23年の東京、横浜市内と両市間を結ぶ電話サービスから3年後の明治26年に大阪、神戸市内でもサービスが開始された際、現在も尼崎市を登記上の本店所在地とするユニチカ前身にあたる有限責任尼崎紡績会社が自費を投じて敷設を実現。昭和29年に市外局番が導入された際には尼崎市が、大阪市内と同一料金を維持すべく電話交換機等の工事費の一部を負担した経緯で、自治体全域が他府県の市外局番という唯一の事例を今日も保つ。旭硝子の創業地でもある尼崎市には富国強兵・殖産興業の時代に奄美大島、沖縄列島から移住した末裔も多い。下町版“やってみなはれ”の自主自律の気概に充ちた、人間としての体温の高さを実感する街。>と大層お褒めでした。
調べると「田中康夫兵庫8区出馬の陰に勝谷誠彦氏」という2009年のブログがありました。http://blog.livedoor.jp/tuigeki/archives/52406493.html<前長野県知事の田中康夫参議院議員が、なぜ兵庫8区から出馬するのかナゾだったが、その理由がわかった。田中氏のお友だちでテレビコメンテーターの勝谷誠彦氏が関係しているようだ。勝谷氏は田中県政下でも陰に陽に、さまざまな動きをしていた。尼崎在住の人の話によると、田中氏は以前から白井文尼崎市長と交友があり、尼崎市にもときどき来ていたという。……>
白井文元尼崎市長も華麗なる経歴の持ち主でした。
田中氏については論客としての才能はあるものの、政治家としての資質となると、コメントを差控えます。
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武庫之荘駅を利用する住民意識に揶揄的な註(『33年後のなんクリ』)
「註※人情味と正義感に溢れる関西の下町」の続きです。尼崎を「人間としての体温の高さを実感する街」と評価していますが、最後に武庫之荘の話がでてきます。<が、阪急沿線在住者、取り分け武庫之荘駅を利用する市民の中には、他の関西地域の友人・知人に対し、住まいは武庫之荘とのみ語る傾向が強い。大正12年開業の田園調布駅と同じ駅前ロータリーを昭和12年開業当初から設け、阪急電鉄地所課が「阪神間モダニズム」敵住宅分譲を行った名残、と語る向きも。>
武庫之荘駅前のロータリーが田園調布駅に端を発するとは知りませんでした。確かに、小林一三は名前を出さず、報酬も受け取らず、日曜日のみ、という約束で田園都市株式会社の経営を引き受け、玉川、調布方面の宅地開発と鉄道事業を進めたといわれています。
淡交社『阪神間モダニズム』にも坂本勝比古氏が「郊外住宅地の形成」の中で、阪急電鉄による住宅地経営として武庫之荘について触れられています。
<そのうち武庫之荘の例をみると、駅前にロータリーが設けられ、この駅前から放射状に北西に延びる幅員11メートルの道路とこれに交差する15メートルの道路を軸線として、要所に小公園あるいはポケットパークをつくり、約100坪前後の敷地をもつ10~12区画のブロックを設け、ユニークな住宅地計画を示した。またそこに建つ住宅も、和洋のモデル住宅がいくつか建てられた>
武庫之荘住宅地案内図を見ると、説明どおりロータリーから北西に延びる道があります。
当時の写真を見ると、なるほど田園調布を思い起こさせる景色です。
現在の武庫之荘駅前ロータリー。
現在の航空写真。
<この住宅の分譲価格は、当時の資料で、土地、建物、付帯工事共で、一万四千九百五十円、十五年月賦で百十八円八十九銭という、駅前の一等地としては、今では信じられないほど安価であった。>
昭和12年、武庫之荘駅前148坪の土地付きで14,950円。先日読んだ小林信彦『うらなり』では、昭和9年の東京ステーションホテルの朝食代金が1円。現在は2,000円ですから、物価は2000倍になったとすると、現在価格で2,990万円となり、広い土地付き一戸建て文化住宅としては比較的安価で、当時の中流の暮しの人々にも手が届く価格だったのではないでしょうか。
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涼宮ハルヒは夙川に河童伝説を作れるか?
『長門有希ちゃんの消失』第四話はバレンタインデイのお話です。
涼宮ハルヒとキョンが夕暮れの北夙川橋付近で河童捜しをするシーンがでてきました。
この橋は宮本輝『にぎやかな天地』で聖司の祖母が甲陽園の実家から苦楽園口のトーストまで、エメンタールチーズを買いに歩いて通った道の途中の橋でもあります。
昔は北夙川橋はなく、少し北側の越木岩橋しかありませんでした。
昔の地図を見ると越木岩橋から登っていく道が、越木岩神社へのメイン・ロードであったことがわかります。
そして地図には今も夙川に湧き出しているという越木岩温泉も書き込まれています。
残念ながら西宮市には北夙川の自然を守る気概も責任感もないとしか思えません。越木岩神社の森はマンション建設のためどんどん破壊されていく事態になってしまいました。
http://iwakura.main.jp/news/20150419_news/newst_20150419.html
涼宮ハルヒは神社の森を守り、新たな伝説を作ってくれるのでしょうか。
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『33年後のなんとなくクリスタル』ヤスオの告解
『33年後のなんとなく、クリスタル』でヤスオは国際文化会館のカフェテラスで『なんクリ』の主人公由利と待ち合わせ、阪神淡路大震災のときの話におよびます。
<「震災の時には、由利にお世話になったからね」今から十八年余り前、寒風吹き荒ぶ被災地を50CCバイクにまたがり、テント村や避難所を駆け回っていた僕に、由利が勤務していた欧州ブランドの複合企業体は口紅や化粧水を大量に提供してくれる。その仲立ちをしてくれたのだった。 芦屋や夙川、御影を始めとして阪神間の幾つもの場所を短編小説の舞台に登場させていた僕は、傍観者で過ごすわけにはいかなかった。もう少し正直に、“告解”すれば、由利や江美子も含めて少なからぬ人数の交接相手は関西の出身で、その過去への“恩返し(つみほろぼし)”だと一人でひそかに粋がっていた。社会貢献の風上にも置けない困った存在。> 『なんクリ』の主人公由利は昭和34年生まれ、神戸の女子高出身で、当時は青山学院大学英文科の学生でした。
阪神間の幾つもの場所を登場させた短編小説とは『昔みたい』のことでしょうか。「今まで付き合ってきた相手も関西の女性が多い」と告白する田中康夫の『神戸震災日記』を読むと、他にも夙川出身の女性をモデルにした小説もあることがわかってきました。
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田中康夫の「※阪神間」とは
『33年後のなんとなく、クリスタル』には438の※註がついていて、脚注だけでも面白い読み物になっています。「阪神間」については、<※阪神間: 大阪・神戸間の地域。浜っ側から山っ側に向けて、国道43号線・阪神電車・国道2号線・JR神戸線・山手幹線・阪急電鉄の道路や鉄路を越えるにつれて街並みが変化する……。無論、例外も存在し、谷崎潤一郎が愛した芦屋川沿いの平田町は今もなお、屋敷町の面影を留める。>
短編集『昔みたい』にも宝塚市にあるミッション系の女子高を卒業した女性を主人公にした「芦屋市平田町」が登場。
平田町は芦屋川下流西側にあり、稲畑汀子さんもお住まいの屋敷町です。
しかし、最近はランドマーク的存在だった洋館も取り壊され、マンションが建設されています。
屋敷町の面影はいつまで保たれるのでしょうか。
阪神間の註の最後には次のような解説が。<西宮市夙川から芦屋市を経て神戸市東灘区御影の間は「標準語」に極めて近い口調。>あまりそのような認識はありませんが、私の通っていた公立の学校でも転勤族の子弟たちは関西弁ではありませんでした。
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椿山荘のホタルと村上春樹の和敬塾
この休みに学習院大学史料館で開催中のボンボニエール展に行き、椿山荘で食事してまいりました。
椿山荘では例年5月末頃からほたるの夕べが開催されており、成虫が放たれているのだろうと思っていましたが、調べてみると努力を重ね、毎年幼虫が放たれ、自生するまでになっているそうです。<ホタルは清らかな水辺にしか生息できず、都会で育つのはなかなか難しいといわれるが、椿山荘は秩父山系からの地下水が湧き出る緑豊かな好環境。それにくわえて、ゲンジボタルが自生・生息できるよう、庭園内を流れるせせらぎの水質・水量の改善や湧水の整備などの環境づくりに取り組んできた結果、最近では自生するホタルも増えているという。また、2002年には湧水を利用した本格的な飼育施設を設置。幼虫までの飼育もおこなっている。>
実際にはまだ見たことがありませんが、ほたる沢の説明書きがありました。
このあたりで乱舞するのでしょう。
ところで、このホタルの話が、村上春樹著『蛍』、『ノルウェイの森』に登場します。
村上春樹は早稲田大学に入学し、父上が探してきた和敬塾という学生寮に入れられます。
短編集『めくらやなぎと眠る女』に収められた『蛍』からです。<寮は見晴らしの良い文京区の高台にあった。敷地は広く、まわりを高いコンクリートの塀に囲まれていた。門をくぐると正面には巨大なけやきの木がそびえ立っている。樹齢は百五十年、あるいはもっと経っているかもしれない。>
この寮で同居していたのは、地理学を専攻し、いつも白いシャツに黒いズボンという清潔好きの学生でした。<その月の終わりに、僕の同居人がインスタント・コーヒーの瓶に入れた蛍をくれた。瓶の中には蛍が一匹と草の葉と水が少し入っていた。ふたには細かい空気穴が幾つか開いていた。あたりはまだ明るかったので、それはただの水辺の黒い虫にしか見えなかった。しかしよく見ると、たしかにそれは蛍だった。蛍はつるつるとしたガラスの壁をよじのぼろうとしてはそのたびに下に滑り落ちていた。そんなに間近に蛍をみたのは久し振りだった。「庭にいたんだよ。近くのホテルが客寄せに放したのがこちらに紛れ込んできたんだね」と彼はボストン・バッグに衣類やノートを詰め込みながら言った。>
航空写真右下が椿山荘で左上が和敬塾。すぐ隣です。
短編の最後は、この蛍を逃がすシーンです。<蛍がとびたったのはずっとあとのことだった。蛍は何かを思いついたようにふと羽を拡げ、その次の瞬間に手すりを越えて淡い闇の中に浮かんでいた。> 時期的には平家ボタルのようです。
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阪神間大好き人間の田中康夫(『神戸震災日記』より)
田中康夫氏が長野県知事に当選したのは2000年のことですから、政治家への道を歩ませたのは、阪神淡路大震災でボランティア活動の経験が契機となったのかもしれません。 被災された方々にとっては、この類の記録など読みたくもないと思われる方が多いのではと思います。また、その活動を雑誌の記事にすることも目的であったでしょうし、方法に是非論があるかもしれませんが、東京から神戸に通って独力でボランティアを続けられた氏の行動力に、当時倉敷に住んでいて何もできなかった私は頭が下がりました。
「プロローグ ボランティアへ」では、思い立った理由を次のように述べています。<幾つかの理由がある。八分の一イタリアン・ブラッドの僕の体躯には、関西ブラッドも四分の一流れている。のみならず、京都・大阪・神戸に代表される各都市の風土が其れ其れに好きなのだった。取り分け、西宮の夙川から神戸の御影にかけては、実際にそこで暮らすことを一時期真剣に考えたこともある地域だ。> 関西ブラッドの四分の一にあたる田中氏の母方の祖母は、船場の商家に生まれ、女学校時代は阪急電車に乗って神戸の三宮までスカートを買い求めに出掛ける“元祖クリスタル”な少女だったそうです。 また八分の一のイタリアン・ブラッドが華麗なる女性遍歴を生んだのかも知れません。
<今迄に付き合って来た相手も関西の女性が多い。長期間に亘って、それも親密な相手だった女性となると、関西出身もしくは在住者が圧倒的なのだ。小説の舞台やエッセイの題材としても度々、扱ってきている。「25ans」に連載した短編集「昔みたい」はその半分近くに関西が登場する。「週間朝日」で連載した長編「オン・ハッピネス」は夙川生まれで小・中・高を宝塚の小林にある女子高で過ごした少女が主人公だった。>
しかし、田中氏は何故、真剣に暮らそうと考えたほど阪神間が好きだったのでしょう。
紹介された小説を読みながら、氏を魅了した理由を探っていきます。
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ついに涼宮ハルヒが大社中学校に登場(「長門有希ちゃんの消失」第5話)
「長門有希ちゃんの消失」は登場人物は全て地球人で、単なる学園恋愛物語かと思っていましたが、遂に涼宮ハルヒが「あんた、宇宙人って、いると思う?」と叫びます。
第五話は第四話のバレンタインデイの続きで、第5話はほとんど北校が舞台になっていましたが、涼宮ハルヒが「あんた、宇宙人って、いると思う?」と夜空を見上げて叫んだのは、見覚えのある大社中学校グラウンド正面のコンクリート製の階段スタンドの上からでした。
現在このグラウンドに続く裏門は閉鎖されていました。
交通量から考えると安全と考えられる神原市営住宅側の門を閉鎖したのは、よほどの事情があったのでしょうか。
そして現在の甲陽線側の道に出る裏門?(どのように呼んでいるのか知りませんが)のシーンです。校庭側からのシーンは初めて見ました。
アニメにはカーブミラーまで描き込まれていました。
アニメには枕木を使った柵が描かれており、実際に現地に確かめに行くと、描かれている通り、道路側の柵は金網ですが、線路の北側には枕木の柵が残っていました。
しかしこのアンティークな柵が見られるのは、門の正面の20~30mの区間だけでした。 裏門が開いていたので、少し中まで入ってみると、突然50年前の記憶が甦りました。
私が中学生の頃は、このグラウンドを上段のグラウンドと呼び、最初のグラウンドを下段のグラウンドと呼び、体育の授業の時は集合グラウンドを指定されていました。今はどうなっているのでしょう。 某インスタントラーメンの社長夫人が父兄懇談会にこられた時、キャデラックだったか黒塗りを停めておられたのも上段のグラウンドでした。ここに立って懐かしく思い出しておりました。
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田中康夫が原稿の執筆に利用した六本木の国際文化会館
『33年後のなんとなく、クリスタル』でヤスオは『なんクリ』の主人公由利と国際文化会館で待ち合わせます。
<六本木交差点から東京タワー方向へ向かい、二つ目の信号を右手に折れると、佇まいは繁華街から一転する。いずれも明治初期に創立されたプロテスタントの教会と女学校が続く。>
女学校とは、「花子とアン」の「ごきげんよう」の挨拶で有名になった東洋英和女学院。
旧校舎はヴォーリズ設計によるもので、新校舎も一粒社ヴォーリズ設計事務所によるもののようです。
この道の先が、鳥居坂で、ゴールデンウィーク中でしたが、小学部のお嬢ちゃま達が下校するところでした。<その先の、急な勾配の鳥居坂へ差し掛かる直前の右側、こんもりと樹木の生い茂った一廓が国際文化会館だった。約一万平方メートルの、六本木では貴重なゆったりした敷地。財閥解体でいったんは国有地となった、旧岩崎小彌太邸の跡地だ。>
国際文化会館の入口です。歴史を感じる石垣が残されていました。
国際文化会館の庭園は、現在旧岩崎邸庭園として港区の指定文化財となっています。<敗戦後、ロックフェラー財団を始めとする内外の諸団体や篤志家が資金提供し、文化交流や知的協力を通じて日本と世界の人々の相互理解を深めようと誕生した施設。僕が生まれる前年の昭和三十年=一九五五年に竣工した建物は、戦後モダニズムの代表作として評価が高い。>会館の敷地として、岩崎小彌太(三菱財閥創始者、岩崎彌太郎の甥)が戦前に所有していた、日本庭園のある3000坪の閑静な都心の敷地の払い下げを受け、建物は第一線の日本人建築家3人(前川国男、坂倉準三、吉村順三)の共同設計で1年余を経て竣工したそうです。
ロビーに入ると、ミニチュアが置かれていました、<「ここの雰囲気、落ち着くわね。訪れるたびに、そう感じる。打ち合わせの合間とかに時々、図書館を使わせて頂いているわ」 インターナショナル・ハウス・オブ・ジャパン、略してIハウスへ僕が足を運ぶようになったのは、二十代半ばに会員となってから。こぢんまりとした図書室は僕も気に入っていて、以前は頻繁に原稿の執筆で利用した。>田中康夫氏が頻繁に利用したという図書室。
会員制のようなので、図書室だけはホームページの写真を借用。
<由利は、化粧品やファッション関係のPRオフィスを立ち上げて十年目。一昨年からは外資系製薬会社の広報も担当している。仕事柄、会議や会食で訪れているのだろう。その彼女はレモングラスの冷たいハーブティーを、僕は温かいコーヒーを頼む。我々の他には、初老の白人男性が一人、新聞を読んでいるだけ。>
ロビーの雰囲気も落ち着いています。
日本庭園に出てみると、外国人の家族が楽しそうに過ごしていました。神戸外国人倶楽部のような雰囲気の国際文化会館でした。<そうなのよね、とちいさく頷きながら、ガラス窓の外を見やる。由利に引き摺られるかたちで、再び僕も視線を移した。「植治」の屋号で知られる庭師を京都から呼び寄せ、昭和初期に手掛けられた、近代日本庭園を代表する空間として知られる。若緑色した開放的な芝生の先に、鳥居坂の地形を巧みに活かして作庭された築山が広がっている。>
撮影でもあるのでしょうか。着物姿の美しい女性が立っておりました。
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須賀敦子さんも小学生の頃利用していた西宮市立中央図書館
須賀敦子さんは慶応大学の大学院生時代、都立中央図書館を利用していたことが『クレールという女』に書かれており、須賀さんがそこで手にとって読まれた『人間のしるし』を発見したことを、以前記事にさせていただきました。
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11199224c.html
最近になって西宮芦屋研究所員さんからお聞きしたのですが、「西宮市立図書館だより」に須賀敦子さんが7歳の時、妹の良子さんと児童室で熱心に本を選んでいたと、書かれていることを教えていただきました。
平成26年12月号の「西宮市立図書館だより」に、『須賀敦子と西宮』と題して、次のように書かれていました。<昭和11年(1936年)冬、開館8年目を迎え西宮市立図書館は、玄関と細長い格子窓に、茂った葡萄や草花のステンドグラスがはめこまれた美しい洋館でした。館内には市民から公募した「図書館は人生の灯なり」の標語が掲げられ、冬の光があふれる図書室に3銭の閲覧料(子どちは2銭)を払った人々が議書や自習に励んでいます。児童室で妹と一緒に熱心に本を選んでいる少女がいます。のちに端正な文章で多くの人々を魅了した作象、須賀敦子7歳の姿です。>
参考文献として、『須賀敦子全集 第八巻』、『西宮市立図書館三十年史』の二つが挙げられており、『西宮市立図書館三十年史』にその姿を写した写真があるのだろうと期待して読みましたが、残念ながら無人の児童室の写真のみでした。
その写真も図書館便りに掲載していただきたかった。
村上春樹も通ったという以前六湛寺町にあったクラシックで趣のある西宮市立中央図書館のミニチュアが展示されています、
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