玉岡かおる著『ヴォーリズ満喜子の種まく日々 負けんとき』では、廣岡浅子は日本女子大創立のお話から登場します。
<日本の女子教育会は、大きな成長の時を迎えていた。梅子の女子英学塾が開かれた翌年、やはり満喜子の人生を大きく変える一人の女性が尽力した学校が目白台に開校する。成瀬仁蔵が創立した日本女子大学校である。この学校の立ち上げについて惜しみなく経済援助をしたその人は、廣岡浅子問いった。胸にフリルのあるブラウスに裾を引くスカート。活動的な浅子の洋装は、モダンな西洋建築が建ち並ぶ大阪中之島の界隈にはこれ以上ないほどよく溶け込んだ。>
学習院から目白通りを歩いて行くと、明治39年に建設された成瀬記念講堂がありました。(反対側にはあの目白御殿があります)
関東大震災で大きな被害を受けたそうですが、再建・修築され、現在も当時の面影を残しています。『負けん時』では一柳満喜子は後に、神戸女学院音楽科卒業後、理事を務めていた廣岡浅子の推薦により、この日本女子大の教壇に立つ姿が描かれています。
<のちにその門をくぐることにもなる満喜子だが、そうとは知らず、当の立役者浅子に会った日のことは、やはり長く忘れえぬ記憶となった。なにしろ父末徳が、めずらしく女たち全員を連れ、能楽堂に行くことにした日のことだったからだ。> どこの能楽堂かと読んでいると、「東京に新しく造られた屋内施設の能楽堂のこけらおとしが催される。」と書かれており、明治34年落成の「観世能楽堂」らしいのです。当時どこにあったのか調べても解りませんでしたが、現在は高級住宅街・渋谷区松濤に建てられています。しかし、2016年秋には銀座・松坂屋跡地の複合ビルに移転するそうです。
<すだれの内にすわってみると、正面が一柳家、目付け柱の前に当たる中正面が廣岡家の一族だと教えられた。……. すだれを透かして隣を見れば、座った中央、夫と並んで堂々と舞台を見上げているのが夫人の浅子であろう。そしてその隣には、あでやかな皐月色の振袖を着た娘が並んでいる。 女中心のその着席は、一柳家が末徳以下息子達を一列目に座らせ、後ろに女たちを控えさせるという男性優位になっているのとは対照的だ。女が前面に出ている分、廣岡家では女たちの着物の豪華さが目立ち、そこだけ花が咲いたように華やかだった。>この席は一柳恵三と廣岡かめ子の見合いの場でした。<結婚前に本人同士が顔を合わせるなどこの時代にはほとんどないが、娘のためならそういうまれなことでも難なくやってしまえるのが浅子であった。そしてどうやら娘は一目見ただけの恵三を夫として受け入れたらしい。>大同生命大阪本社メモリアルホールで開かれている、「大坂屈指の豪商『加島屋』からの400年の歩み〜大同生命の源流とその発展の歴史をたどる」で展示されていた夫妻の写真です。
(廣岡恵三後列右端、かめ子前列左端、ヴォーリズ後列左端、満喜子前列右端)
<翌明治三十五年の春は、一柳家は外側から射す陽光によって開かれるように、明るい慶事に包まれる。豪商廣岡家の一人娘と恵三の結婚がまとまったのであった。式は、後々の語りぐさになるほど盛大なものだった。>
廣岡恵三氏の写真と、満喜子さんの写真を見比べていると、やはり兄妹、そっくりです。
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