「芦屋のひまわり」は二度目の展覧会のあと、「白樺」も白樺美術館構想も立ち消えになり、山本顧弥太は将来その構想が復活するまで絵を預かっておくことにして、芦屋市打出小槌町の自宅に預かり、応接室のソファーの上に掛けられていたそうです。
1945年8月5日夜から6日未明にかけての神戸大空襲で、芦屋の山本家も全焼、「ひまわり」は家とともに焼けてしまいます。
昭和20年6月5日の神戸大空襲で焼け出されたのは、『火垂るの墓』の野坂昭如、『少年H』の妹尾河童でした。
その後8月6日には 御影町・魚崎町・住吉村・本山村・本庄村(現神戸市東灘区)から、芦屋市を経て西宮市・鳴尾村(現西宮市)にいたる阪神地域が爆撃され、この空襲で「芦屋のひまわり」が焼失したのです。
西宮神社も境内に小型爆弾2発、焼夷弾300発以上が落下し、国宝建造物指定の三連春日造り本殿が全焼し、貴重な文化財を失っています。
(写真は西宮市ホームページ「市のあゆみ」より)
朽木ゆり子さんは『ゴッホのひまわり 全点謎解きの旅』で山本顧弥太の娘の房子さんからのお話を聞き、次のように記しています。
<「あの‘ひまわり’は関東大震災、経済恐慌、そして第二次世界大戦に翻弄された絵です。震災がなければ、白樺美術館が建っていて、家にあの絵はなかったはずなのです。父は武者小路さんたちの情熱に賛同して、あの絵を買いました。倒産して自宅を手放した時も、あの絵は売らなかったのです。それは、‘ひまわり’は自分のものではなく、預かりものだと思っていたからなんです。」 ゴッホが憧れた日本でこの絵が焼失したのは、やはり残念なことだった。幸いなことに、武者小路実篤と山本顧弥太の友情は、山本が亡くなる一九六三年までつづいた。>
最後に1911年白樺に掲載され武者小路実篤の詩をご紹介します。
バン、ゴッホ 武者小路實篤バン、ゴッホよ燃えるが如き意力もつ汝よ汝を想ふ毎に我に力わく高きにのぼらんとする力わく、ゆきつくす處までゆく力わく、あゝ、ゆきつくす處までゆく力わく。
ゴッホに心酔していた夙川パボー二の大石輝一は武者小路実篤とも交流があり、昭和41年(1966)年には武者小路実篤より贈られた詩を「ゴッホを想う詩碑」として三田アートガーデンに建立しました。
三田アートガーデン跡地を訪ねると、ゴッホの碑とともに詩碑は現在も残されています。
↧