朽木ゆり子さんは『ゴッホのひまわり 全点謎解きの旅』で「芦屋のひまわり」について、旅のはじまりとなった白樺派の紹介をはじめます。<そしてここから、この絵の芦屋への旅がはじまる。その旅を促したのは、大正時代の日本の好況を背景にした理想主義の文学者とそれを支えたひとりの実業家との友情だった。>
<日本では、明治維新以降、ヨーロッパへ絵の勉強に行った画家たちから、西洋絵画や画家に関する情報は入ってきたが、話題の絵や彫刻を生で見られるチャンスはまったくない時代が長く続いた。そういった状態に一石を投じたのが同人誌「白樺」を発行した文学者・芸術家グループだった。>
白樺派については、以前学習院大学キャンパスツアーをしたとき、史料館常設展「学習院と文学 -白樺派の生まれたところ…」で詳しく紹介されており、ゴッホの生涯と作品について熱心にとりあげたのが武者小路実篤でした。
(調布市の旧武者小路実篤邸の像)
朽木さんは次のように紹介されています。<一九一〇(明治四三)年秋、武者小路は「白樺」でロダン特集を組む。その折、ロダンとの間に書簡による直接ルートがひらけ、やがて展覧会にロダンの作品を展示する話が進行し、一九一一年にロダンから、小さなブロンズ作品三点が送られてきた。>
写真は『白樺』第一巻第8号ロダン号です。
このような体験が、やがて白樺美術館構想に発展します。そして白樺美術館の寄付金が六七千円となり、相馬政之助夫婦に巴里で白樺美術館のための画をさがしてもらいます。<その内にゴッホの画が二つあり、両方とも二万円位だった。白樺ではとても買えないものだが、どうかして日本にもって来たい画だったので、その自分新しき村に毎月百円づつ寄付してくれていた山本君に買うことをすすめたのだ> この「山本君」が芦屋打出小槌町に住む実業家、山本顧彌太でした。山本顧彌太は明治19年大阪生まれ、綿布貿易を営む実力のある実業家で、業界のリーダーとしても活躍し、昭和9年英文毎日主催の座談会に出席した記事が大阪毎日新聞に掲載されていました。
(写真前列の左端の人物)
山本は文化人でもあり、句集も出版されているそうです。
彼は武者小路実篤の著書に感銘を受け、33歳の時に、武者小路実篤の作った「新しき村」を訪問して数日間生活をともにしたそうです。
<彼は新しき村を何度か訪ね、また白樺派の会合にも出席した。そして武者小路実篤も回想しているように、新しき村の支援者となって金銭的援助をするようになり、それが白樺美術館のための絵の購入につながっていく。この二人の友情は、戦後も、絵の焼失後にもかかわらずすっとつづいた。>企業のメセナ活動は厳しい経済環境の中で、なかなか定着しませんが、戦前には、このような芸術にも理解のあるパトロンがいたようです。
↧