学習研究社『現代日本の文学 第五十巻』に掲載されている河野多恵子年譜によると、「昭和8年大阪市立日吉小学校に入学、昭和11年の夏休み、阪神香櫨園の居宅に移る。」と書かれています。
日吉小学校は調べてみると、明治7年創立、今年140周年を迎えた、由緒ある小学校でした。
『みち潮』で、少女は日吉小学校が夏休みに入り、秋になっても、もうこの学校には来ないのだと感傷に浸っています。<一方では、少女の心は今度住むことになった郊外へ飛んでもいた。少女は以前に、そこへ二、三度家族と遊びに行ったことがある。海に臨み、山も近く、双方を繋ぐ洲の多い川の両側には、美しい松並木の芝生の土手が続いていた。>
描かれているのは美しい夙川の風景です。
<川上の山裾には、日本一高いすべり台で有名な遊園地があった。少女は帰りを強いる親たちに、「もういっぺんだけ」と言い置くなり、春の西日を受けて聳え立つ、そのすべり台へ駆け寄った。少女はその時の激しい未練が蘇るような気がした。少女はまた、夏、松並木の土手を行くにつれて潮の香を知り波音が次第に近くなるときの心のときめきを、潮に濡れたゴムの海水帽の匂いと一緒に思い出した。> 川上の山裾にある日本一高いすべり台とは、一瞬香櫨園遊園地にあったウォーターシュートかと思ったのですが、その頃は既に無くなっていたはずです。
よく考えると、甲陽遊園地の大すべり台のことでした。
回想図では大つり橋の下側にあります。
甲陽園は大正7年、「甲陽土地」が甲陽地区を買収し、レジャー施設を建設したのが始まりです。「東洋一の大公園」と銘打ち、遊園地、温泉、劇場、そして映画スタジオまで内包する施設でした。
しかし、昭和大恐慌を機に遊園地は衰退し、昭和12年には撮影所も閉鎖され「甲陽遊園地」の歴史は幕を閉じたそうです。
(写真の右側に甲陽遊園地は広がっていました。)
したがって河野多恵子は大すべり台を楽しんだのは閉園寸前のことだったようです。
甲陽遊園地が登場する文学作品をみつけたのは、この作品が初めてです。
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