河野多恵子は大正15年大阪市生まれ、女性初の芥川賞選考委員となった小説家。西道頓堀の椎茸問屋の娘でしたが、昭和11年に夙川沿い、香櫨園海水浴場の近くに転居します。
昭和39年「文学界」に発表された河野多恵子『みち潮』からです。<一家は商家で。これまで都会のその問屋街に住み続けてきたが、今度郊外に別に居宅をもつことになったのだった。店と住居を別にしたい、空気のよい郊外に住もうという話は、前々から出ていた。それが、いよいよ、実現することになったのである。少女が、数えどし十一歳の夏のことだった。>
(大正3年創刊 阪神電鉄が発行した『郊外生活』)
既に阪神電鉄は、明治41年に健康面における郊外生活の有効性を強調した『市外居住のすすめ』を刊行し、また阪急電鉄は、明治42年に住宅案内パンフレット『住宅御案内 如何なる土地を選ぶべきか・如何なる家屋に住むべきか』を発行、この冒頭で、「美しき水の都は夢と消えて、空暗き煙の都に住む不幸なる我が大阪市民諸君よ!」と呼びかけ。公害によって生活環境が悪化した大阪を離れ、田園での優雅で健康的な生活ができる郊外居住をアピールしています。
湯川秀樹一家が義父の健康問題から東洋のマンチェスターと呼ばれた煙モクモクの大阪を離れ、苦楽園に引っ越したのも昭和9年のことでした。
湯川秀樹『旅人』で当時の大坂の様子を次のように述べています。<しかし大阪の空気は、良いとはいえなかった。数多い工場の煙突から出る煤煙が、内淡路町の家へも、どんどん飛んできた。ガラス戸に少しでもすき間があると、縁側は煤煙でざらざらになる。綺麗好きの養母は、足袋の裏がすぐ真黒になるのをきらった。女中は縁側のふき掃除に忙しかった。>
さて『みち潮』に戻ります。河野多恵子が昭和11年に大阪から移り住んだ家はどうやら香櫨園浜に近い家だったようです。<少女は、今度の居宅はまだ知らなかった。「どういうお家?」と親たちに訊かずにはいられなかった。これまで暮らしてきた家のように古く暗くはないらしかった。そして、海寄りだということだった。「家から水着とケープで行ける」と父は行った。「本当!」少女は目を瞠った。>
その居宅は葭原町近辺かと想像するのですが、当時このあたりの住宅開発は電鉄会社によるものではなかったようです。
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