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Channel: 阪急沿線文学散歩
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私より「阪急沿線」フリークだった阪田寛夫(その2)

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 阪田寛夫は大阪生まれで、小学校は手塚山学院に通っていましたが、大の阪急電鉄ファンで、宝塚ファンでした。  阪田寛夫『わが小林一三』の「幕間」には小学生時代の思い出話も述べられています。<昭和十年を前後する時代に、私の通っていた大阪市内の南海電車沿線の小学校でも、阪急電車は速力と、海老茶一色に統一された鋼鉄製車体と、野暮な装飾など一切ない機能的で重厚な内装によって、私鉄電車品定めにおける人気は抜群だった。「一回乗っても南海電車」「全身乗っても阪神電車」「特急に乗っても阪急電車」こんなことを言い合いながら互いにひいきをこきおろすのだが、…> とても小学生が考えたとは思えない、なかなか面白い言い回しです。 あの有名なガラアキ電車の広告にも言及しています。 <大正九年夏、神戸線開通の頃、明らかに阪急電車を意識して一三が作った有名な新聞広告文案に「綺麗で早うて、ガラアキ、眺めの素敵によい涼しい電車」というのがある。>  そして19歳で召集された阪田が入営する前日、阪急電車に乗って最後の見納めにと彷徨したのが岡本でした。 <昭和十九年初秋、中部二十三部隊に入営する前の日に、別れを惜しむ恋人もいないまま阪急電車に乗ってしまった。宝塚は既に三月で閉鎖され、海軍飛行予科練習生の兵舎に使われている。西宮北口で各駅停車に乗り換え、一人で岡本駅に降り立っていた。住宅街の坂道を一番外れの丘までゆっくり登って、家々を見下ろせる赤松林で弁当を食べ、日が傾くまで松風の匂いや、白い塀や、煙突の出た赤屋根の勾配やらを、この世の名残に何一つ見落とさず見につけて戦地へ行こうと、歩きまわったものであった。だがそれは、いくら触れようとしてももはや実体の無い蜃気楼のように見えた。 今から考えると、いかにも稚い思い込みだが、しかし「阪急沿線」というものがもし無かったとしたら、もとより希薄な自分の過去が、全く彩り薄いものになったと思われる。>須賀敦子さんの親友「しいべ」が住んでいた岡本。 阪田もこの新梅林踏切を渡って坂道を登っていったのでしょう。一番外れの丘とは、現在梅林公園となっているあたりでしょうか。 それにしてもこの世の名残に、阪急沿線の美しい景色を見に来たとは、私はとても足元にもおよびません。

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