岩谷時子さんは『愛と哀しみのルフラン』で「好きな季節」と題して、<冬と春との、ちょうど間にあたる、三月に生まれた私は、四季のうちでは春、それも春の初めが、いちばん好きな季節である。>と述べられています。
さらに春の西宮について、自然に溢れた風景が描かれていました。<幼年時代から少女時代にかけて住んでいた西宮は、まだ鉄道の土手にのぼれば、つくしや、たんぽぽ、すみれが咲いていて、春の畠は、れんげの花ざかりであった。> 鉄道とは現在のJRのことだと思いますが、私の幼い時もまだJR(省線)の土手に登っていくことができました。
現在はまったく姿が変わったさくら夙川駅から東の土手の風景です。
もう少し西に行くと、土手らしき名残がありますが、斜面はカバーされ露出している部分はなくなり、つくしも生えそうにありません。岩谷時子さんはこのあたりに住まれていたのでしょうか。
その土手の下を谷崎潤一郎「細雪」で有名になったマンボウが通っています。
<西宮といっても、夙川、甲子園、今津などを転々としていたので、これは、どこに住んでいたときのことか、定かではないが、今も忘れられない一つの思い出の風景がある。私が十歳のぐらいの春の初めで、なぜか私は、たった一人で外にいて、はるかな武庫川の堤を眺めていた。>このお話は今津あたりにお住まいだった頃のことでしょうか。
<当時、西宮の私の家の前には、小さな石の橋をかけた、水の美しい小川が流れていて、眼をこらすと、いつも、めだかがチョロチョロと、はかなげに泳ぎ、ながれの岸には春ごとに、すみれがつつましく咲いた。 紫のすみれは、女なら誰でも、生涯に一度は好きになる花であろう。作家の森田たま先生を、お訪ねしたとき、先生は羽織の下に、黒字の帯をしめておられたが、その帯にひと筆、手描きで小さく、すみれの花が描かれていて、それが大変に美しかった。もう七十歳にお近かった先生の、胸のあたりの、すみれ一つが、そこはかとない、おんななお香りをただよわせ、先生のまわりにだけ、明るい春が、ともっているようだったのを覚えている。>
森田たまは、昭和5年10月に西宮に来て、最初千歳町に住み、その後昭和6年の秋か昭和7年の春、常磐町へ引っ越されました。
常磐町の住まいは、当時はまだ鉄道の土手まで見晴らせる、写真の常磐町一本松の近くでした。
ベストセラーとなった「もめん随筆」には当時の西宮の風景が描かれています。http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p10758664c.html七十歳にお近かった先生と書かれているので、お二人が会われたのは既に西宮を離れられた後のことでしょう。
さすがタカラヅカの岩谷さん、紫のすみれがお好きだったようです。
これを読んで、松田 瓊子さんの作品集「すみれノオト」を思い出していました。
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