盲ろうの障害を背負いながらも、世界各地を歴訪し、身体障害者の教育・福祉に尽くしたヘレン・ケラー女史は、わが国には昭和12年、昭和23年、昭和30年の3回来訪しています。とくに昭和23年の際は、敗戦で打ちひしがれた日本国民の熱狂的歓迎を受け、全国各地で講演して回ったそうです。
昭和12年の来日時は、富士屋ホテルの出来て間もない花御殿に宿泊されており、尾長鶏と遊ぶ様子などの写真が史料展示室にありました。
当時富士屋ホテルで飼われていた尾長鶏は土佐原産で、秘書のポーリー・タムソンとともに膝の上に乗せています。
その尾長鶏はフロントの柱に彫刻として残っています。
曽野綾子が富士屋ホテルでアルバイトしていた昭和23年にも、ヘレン・ケラーが来訪されたようで、小説『遠来の客たち』には次のように当時の様子が描かれています。<飯田信夫作曲でヘレン・ケラー・キャンペインが準備した「ヘレン・ケラーのおば様の歌」というのを。順ちゃんの指揮で私たち従業員は二十七日の晩、あかあかと灯をいれた朱塗りの提灯で囲んだホテルのバルコニーに女史を招ンデ、その前で歌うことになっていましたが、じゃ、彼はその晴れの晩のためにわざわざ新しい指揮棒を買うのかしら、と私はぼんやり考えました。>
「ヘレン・ケラーの歌 幸福の青い鳥」は、昭和23年の来日時、皇居の二重橋前広場で開かれた「ヘレン・ケラー女史歓迎国民大会」で歌われた合唱歌だそうで、当時の小学校でも歌っていたそうです。
幸福の青い鳥 青い小鳥がとんできた 遠い国からはるばると 日本の空へこのまどへ 海をわたってとんできた ヘレン・ケラーのおばさまは いつも小鳥といっしょです <案内所に帰ってみると坂口主任さんが、黒塗りのお盆の上に何か地味な錦で表装されたものを大切そうに持ってうろうろしていましたが、それは丁度今から十年前の一九三八年に、ヘレン・ケラー女史が日本に来て、やはり箱根のこのホテルに泊まった時に、社長が女史の手形を紙の上に押して貰ったもので、それを午後から案内所において、お客様に公開するのだというのでした。>
その1937年5月3日のヘレンケラー女史の手形が富士屋ホテルで展示されていました。<私はちょっと覗いてみましたが、意外にも聖女の手という神々しさではなく、何十年も生きつづけた人間の老醜に似たものしか感じられないのです。それは右手の手形で、指が最早真直ぐにのびなくなっているらしく、空白な掌の部分の周囲に、指の指紋だけが、ぱらりと不規則にひろがっていました。殊に人差し指は墨をつけすぎたのか、女史が指を離す瞬間にふるえたのか、こすれて輪郭もはっきりしません。>曽野綾子さんは、なかなか厳しい見方ですが、私が驚いたのはそこに添えられた直筆のメッセージでした。目が見えない女史は、定規をあてて書かれたのでしょうか。
次のように書かれており、最後にサインもありました。<つつじと桜の花とそしてあなたの温かいホスピタリティに彩られたこの日は、いつまでも私の思い出の中に残るでしょう。……>「おもてなし」の心は、島国に生まれた美しい日本の心として大切にしたい財産です。
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