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Channel: 阪急沿線文学散歩
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夙川の須賀邸の書棚に遺されていた漱石全集

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須賀敦子さんは『遠い朝の本たち』の中の「父の鴎外」で漱石全集について書かれています。<父の蔵書では子供の時から漱石全集が夙川の家の私達姉妹の寝ていた部屋の本箱に並んでいて、私はその中の一冊に「それから」と「門」が入っているのを、ながいこと「それから門」という小説があると信じこんでいて叔父たちに笑われたりしたくらいだったから、漱石には、なんとなく面識のあるような印象を持っていたが、………> 先日夙川の須賀邸に伺って案内していただいた書棚に、やはり岩波書店の漱石全集がありました。 第四巻には「三四郎 それから 門」と書かれており、これが須賀さんの「それから門」になったのでしょう。 小宮豊隆氏のブログ「漱石初期岩波全集――編集の現場」によると、<第一次漱石全集は、漱石がなくなった翌年の大正6年12月9日から刊行され始めたが、完結は予定より遅れて、大正8年11月25日となった> その第五回配本が4巻『三四郎』『それから』『門』となっています。第一次全集完結直後の大正8年12月に第2次全集を予約募集、1年で完結。その後、大正13年版(第三次)全集、昭和3年版、昭和10年版と続けて刊行されています。http://blog.livedoor.jp/sousekitokomiya-shokiiwanami/archives/29844271.html 須賀さんが子供の時寝ていた部屋に並んでいた漱石全集は、この頃のものだったと思われます。しかし今回須賀邸の書棚にあった漱石全集は奥付を見ると昭和30年代のものでしたので、その後父親の豊次郎氏か弟の新氏が、購入されたものでしょう。

花森安治の描いた戦後復興の街角

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NHK朝ドラはまだ太平洋戦争勃発前ですが、ようやく花森安治らしき人物が登場しました。 昭和23年に花森安治と大橋鎭子により創刊された『美しい暮らしの手帖』。花森安治が手掛けた表紙。 昭和24年1月に出版された第2号の表紙。外国の街角のようにも見えますが、果物屋さんの瓦屋根など、よく見ると日本の街角。 昭和24年というとドッジ・ラインによりトヨタでさえ人員整理を余儀なくされた年。大変苦しい時代だったはずです。その戦後復興の苦しい中で、コーヒーショップ、果物屋、花屋、衣料品店を描いた花森安治、こんな街の姿にという願いを描いたのではないでしょうか。 暮らしの手帖300号記念特別号を読んでいると、当時の記事が再録されていました。昭和24年10月第5号の東久邇成子「やりくりの記」を読むと、当時の御苦労がしのばれます。 昭和25年7月8号の田中千代「暮らしのデザイン」では復興が進む御影の街角の様子が書かれています。<私の住んでいる六甲の麓には郊外電車が走っている。家から近い御影の駅の横には近頃小さな花屋が出来た。春を告げる様に桜草パンディーそして今ではデージーが並べられている。大阪や神戸での忙しい仕事を終えて此の駅に下り家迄の帰り道に花屋を眺める事は一つの慰めになった。私ばかりでなく沢山の人が此の小さな花屋をキット愛しているだろう。簡素だった此の駅には先ず肉屋がそして八百屋、魚屋が次々に出来て、人通りの必要なものは買えるようになった。そして花屋迄出来てヤット潤いのある駅になったようだ。> やはり花屋は街の文化度を表すとうのは正しいようです。ちなみに谷崎潤一郎の『細雪』の洋裁学院の玉置女史のモデルが田中千代さん。芦屋の大原町の大きな棕櫚の木の下に、「田中千代学園発祥の地」と刻まれた石碑があります。

石野伸子さんの「夙川ゆかりのヒロインたち2 」

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 夙川公民館活動推進員講座として、6月24日産経新聞編集委員石野伸子さんの「夙川ゆかりのヒロインたち2 ~河野多恵子から須賀敦子まで~」と題した講演会が開催されました。 石野さんはラジオ大阪News Tonight いいおとなのコメンテーターや2015年産経新聞の夕刊に、明治を代表する女性実業家広岡浅子に関するノンフィクション『九転十起の女――広岡浅子伝』を連載された方。著書には『女50歳からの東京ぐらし』も。 2012年11月から連載されている「浪花女を読み直す」は現在も続いています。以前、西宮文学案内で講演された「夙川ゆかりのヒロインたちその1」では、山崎豊子「女の勲章」、谷崎潤一郎「細雪」、阪田寛夫「土の器」など紹介いただきましたが、今回は深入りしたい作家として河野多恵子、須賀敦子のお二人が紹介されました。 また夙川つながりとして、朝ドラ「あさが来た」のヒロイン広岡浅子、原案本「小説土佐堀川」(古川智恵子著)のお話と、すぐ近くの雲井町にも第四代大同生命社長となった広岡松三郎のお屋敷が残っていることが紹介されていました。上は大同生命特別展の写真で、広岡恵三の後ろに立つ右端の少年が、その広岡松三郎氏です。 講演後に質問された方が、広岡信五郎氏の孫で、松三郎氏の次男にあたると自己紹介されたのにはみんなビックリポンで、驚きの声があがっていました。さすが夙川公民館自治会の活動、古くから夙川にお住まいの方々が多く参加されておりました。

阪田寛夫が入隊前に彷徨した岡本の街、そして当時からあった洋館へ

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昭和19年初秋、大阪の街なかに住んでいた阪田寛夫は『わが小林一三』で、中部二十三連隊に入営する前に、梅田から阪急電車に乗って岡本の街を歩いたことを回想しています。<宝塚は既に三月で閉鎖され、海軍飛行予科練習生の兵舎に使われている。西宮北口で各駅停車に乗り換え、ひとりでに岡本駅に降り立っていた。>当時はまだ岡本に特急は止まりませんでした。岡本駅で降りた阪田寛夫はこの新梅林踏切を渡って、坂道を上って行ったのでしょう。<住宅街の坂道を一番はずれの丘までゆっくり登って、家々を見下ろせる赤松林で弁当を食べ、日が傾くまで松風の匂いや、白い塀や、煙突の出た赤屋根の勾配やらを、この世の名残に何一つ見落とさず身につけて戦地へ行こうと、歩きまわったものであった。>岡本は阪田寛夫にとって阪急沿線の街並みとして心に焼き付けたかった風景でした。 その岡本に現在も残っている洋館が風前の灯となっており、住宅遺産トラスト関西が継承者を探して内覧会を開催されています。 大正11年に建築された旧稲畑次郎邸、設計は木子七郎。内覧会では大阪市立大学准教授で建築史家の倉方俊輔氏にガイドいただきましたが、専門家のわかりやすい説明で、興味深く聴くことができました。 木子七郎と言えば、わが西宮の登録有形文化財松山大学温山記念会館(旧新田邸)の設計者。その優れた和洋折衷のデザインについてわかりやすく解説いただきました。洋館の格式を示すベランダ。内部からはわからない左右対称の設計。格調高い応接室の照明。和室に壁紙や暖炉を配して調和した和洋折衷の和室。この和洋折衷様式は、先日ご紹介した上の写真の聖心女子大のクニハウスにも見られるとの解説にも頷きました。2階ベランダから望む岡本の街並みと大阪湾。阪田寛夫が彷徨した昭和19年ごろはもっと落ち着いた風景が広がっていたことでしょう。

箕面電鉄を設立した小林一三が池田室町に引き続き開発した桜井経営地

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小林一三は明治43年(1910年)に箕面電鉄を設立し、梅田、宝塚間、梅田、箕面間を開業。そこに新たな住宅地開発を目指しました。上は当時の路線図「住宅地御案内」では、 <美しき水の都は昔の夢と消えて、空暗き煙の都に住む不幸なる我が大阪市民諸君よ! 出産率十人に対し死亡率十一人強に当る、大阪市民の衛生状態に注意する諸君は、慄然として都会生活の心細きを感じ給ふべし、同時に田園趣味に高める楽しき郊外生活を懐ふの念や切なるべし。>と東洋のマンチェスターと呼ばれた煙モクモクの大阪を離れ、郊外生活を勧めています。 その最初の経営地が池田室町分譲地住宅で買収は明治42年(1909年)、その二年後に桜井経営地を開発します。  阪田寛夫『わが小林一三』に、小林一三が書いた桜井経営地の広告文(新宅物語)が紹介されています。<「『美しいお宅ですことね、羨ましいわ』と十八九のういういしい丸髷の細君は二階の欄にもたれ、箕面の翠山を渡り来る涼風に髪の乱るるを厭わぬのである。『昼日中もそれはそれは涼しいのよ、水がよくつて蚊も少ないし』と此の家の主婦は水密桃を進めながら、『この桃も宅の庭で出来たのよ、召上がって頂戴な』と言いながら青簾を捲き上げる。『間取りもいいし、何もかも便利に、よくこんなに建ったものですわ』と感心しながら、丸髷の細君『甚だ失礼ですが、家賃は如何ほどですか』『家賃ではないのよ、大阪にいて借りる家賃よりも安い月賦で買いましたの』『アラ、そう、月賦ってどいう風にするの』……『そう、わたし、旦那様にお願いしてこちらへ移りましょう、大阪で家賃を出すなぞ馬鹿らしいわ』と新宅の二階座敷で仲好し同志の物語」>駅の近くに、明治の末に開発されたと思われるお屋敷街の風情が残っていました。 桜井といえば、艸園帖に赤松進が描いていた「桜井風景」の洋館街。阪急桜井駅から田村橋通りを北に1kmほど歩いた桜ケ丘2丁目にあります。大正11年の大正住宅改造博覧会での住宅がいくつか残っており、洋館通りと呼ばれる風情ある街並みが今も保たれています。「小さいおうち」にでてきそうな住宅。緩いカーブの通りに沿って建つ洋館群、今も残っているのが奇跡的です。

分銅町の雑草園に住んだ薄田泣菫の広岡浅子評

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先日の石野伸子さんの「夙川ゆかりのヒロインたち2 」で、全く知らなかったことを教えていただきました。 広岡邸(第4代大同生命社長邸)が夙川にあり、薄田泣菫も近くの分銅町に住んでいたことから、「夙川つながり」ということで紹介いただいた薄田泣菫の広岡浅子評。写真は分銅町の薄田泣菫の雑草園跡。 薄田泣菫はあの『茶話』で広岡浅子について五回取り上げており、いずれも批判的であるとのこと。『茶話』とは薄田泣菫が大正5年春から大阪毎日新聞に連載を始め、大人気を博したコラムで、新古今東西のさまざまな人物の逸話やゴシップをアイロニカルに披露したもの。私が西宮市立図書館で借りた創元社の「茶話全集」上巻、下巻では広岡浅子の記事を見つけることができなかったのですが、石野信子さんは「完本茶話」(冨山房百科全書・全3巻)を参考にして、みつけられたようです。 Wikipediaで『茶話』を検索すると、全811話の表題を見ることができ、206話、広岡浅子 591話、亡広岡浅子夫人 という表題をみつけることができました。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E8%A9%B1さらに「青空文庫」で探すと、「丸髷嫌い」も広岡浅子のお話でした。以下に、その冒頭部分のみ紹介します。広岡浅子 先日ある婦人会で大阪府知事の夫人栄子氏と広岡浅子氏とが一緒になつた。この婦人会は大阪市の有力な夫人が集まつて、姉さんごつこのやうな事をして遊ぶ為に持へてあるのだが、広岡のお婆さんが、何ぞといふと我鳴り立てるので、近頃出席者がぽつぽつ減り出した。亡広岡浅子夫人広岡浅子刀自が亡くなつた。年中洋服を着て、古くから日本にあるものは、凡すべてやくざ物だとばかり思ひ込んでゐた面白い婆さんだつたのに惜しい事をした。生れつき激しい気性だつたが、晩年に基督教に入つてからは幾らか温和おとなしくなつてゐた。丸髷嫌い江戸堀の支部で開かれた愛国婦人会の新年会に、多くの夫人達は白襟紋服で出たが、そのなかに、たつた一人広岡浅子女史のみは洋装で済ましてゐた。 浅子女子は洋服が好きだ。生れ落ちる時洋服を着てゐなかつたのが残念に思はれる程洋服が好きだ。だが、それ程まで洋服が好きなのは、深い理由わけのある事なので、その理由わけを聞いたなら、どんな人でも成程と合点がてんをせずには置かない。どうも時代を超えた広岡浅子の存在は薄田泣菫の理解を超えていたようです。  ちなみに、私から夙川つながりで紹介しますと、夙川に住む石野伸子さんが産経新聞に連載した記事が『九転び十起き! 広岡浅子の生涯』に収録されています。

昭和11年須賀敦子の父豊次郎を世界一周視察団に参加させた須賀商会

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 昭和11年7月須賀敦子の父豊次郎は、日本貿易振興協会が主催する「世界一周実業使節団」に参加します。途中ベルリンオリンピックも見物しながら、ヨーロッパ各国、ロンドン、アメリカを経由して翌年5月に帰国する大旅行。オリエント急行で旅した思い出は『ヴェネツィアの宿』の最終章「オリエント・エクスプレス」で印象的に描かれています。 そのような贅沢な大旅行を可能にした須賀商会とはどのような会社だったのでしょう。その業績が客観的に述べられているのが、前田裕子著『水洗トイレの産業史』で、衛生工事、衛生設備設計のパイオニアであったことが紹介されています。http://www.suga-kogyo.co.jp/etc/news20080527.pdf そこには<1905年、著名なジョサイア・コンドルの知遇を得てのち、コンドル設計による建築の衛生工事を任されるようになり、ここで次々と新式の輸入衛生器具を扱い、業界で頭角を現していった。>と述べられており、旧岩崎邸の水洗トイレなども施工したようです。 更に「須賀工業90年史」が発刊されているのを知り、大阪府立中之島図書館に調べに行きました。中之島図書館の建物は住友家の寄贈によるもので、国の重要文化財に指定されています。nそこの社史コーナーでみつけた「須賀工業90年史」。読んでいると、戦前までの有名建築の水道関係の工事はほとんど請け負っていたというように思われてきます。 その年譜を見ますと、須賀敦子さんの祖父にあたる初代須賀豊次郎氏も大正8年11月から翌年3月まで渡米しているのです。 須賀敦子さんの父の豊次郎氏の世界一周視察団の記録もありました。そこには、昭和11年7月中島彦六常務・須賀豊治郎取締役、日本貿易振興協会主催の世界一周実業視察団体旅行に参加(12.12帰国)と書かれており、5か月で帰国したことになっており、須賀敦子全集第8巻の須賀敦子年譜に記されている10か月に及ぶ世界旅行とくいちがっています。 そのあたりは、おいおい調べていくつもりですが、いずれにしても須賀工業はパイオニア的存在で、収益も良かったようです。

須賀工業歴代社長の名前とTSマーク

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須賀家のご親族の方から伺ったのですが、須賀商会のマークは創業者須賀豊治郎の頭文字ををとって、TSマークとしたそうです。「須賀工業90年史」に掲載されている須賀商会の写真を見ますとTとSを重ねた須賀商会のマークが掲げられていました。また須賀商会のカタログや広告にもTSマークが記されています。 興味深いのは初代須賀豊治郎氏(須賀敦子さんの祖父)に続く、須賀一族の歴代社長の名前です。 初代須賀豊次郎氏の後が、実弟の須賀藤五郎氏。この藤五郎氏は須賀敦子さんの『コスモスの海』に出てくる、大叔父のことで、北野町の宏壮な異人館に住まれていたそうです。<そのころ大叔父は、それまで住んでいた三宮駅に近い町屋から山手の宏壮な異人館に移ったので、ケンさんは庭仕事をまかされて、奥さんといっしょに母屋の裏の小さな家に住むことになった。庭仕事といっても、邸が古いので、始終あちこち修繕しなければならなかったし、家のうしろの山すそにかけていちめんにひろがる花畑の世話もした。> その場所も広瀬毅彦著『風見鶏謎解きの旅』から明確になりました。<風見鶏の西隣にあった異人館は、須賀さんが住んでおられたところだが、それはそれは華麗なお屋敷だったという。今では、数戸の住宅の敷地に分割されてしまっていて、往時の面影は全く見られない。しかし、渥美さんの写真には、この北野小径の両側がすべて異人館であった時代の佇まいがそのまま残されている。 この写真が撮られてからほどなく、須賀さんの家は取り払われ、風見鶏の南側にあった異人館も壊されてラブホテルになってしまった。>風見鶏の西隣が須賀藤五郎氏のお屋敷でした。 話はそれましたが、偶然でしょうか、藤五郎氏により須賀商会のTSマークは守られました。 そしてその次の社長が、須賀敦子さんの父、二代目豊治郎氏で、どうも須賀商会のTSマークを継続するために、生まれた時の名前を変え、二代目豊次郎の名を襲名されたようです。その次の社長も須賀孝氏、その次の社長が須賀敦子さんの実弟の須賀新氏でした。新氏は何故か三代目豊次郎を襲名されませんでしたが、TSマークは続いていました。しかし長く続いた須賀工業のTSマークは創業75周年を機に、新しいマークにされたようです。ところで、昔のTSマークがついた設備がつい最近まで、あのヴォーリズの心斎橋大丸にあったそうで、あわてて行ってみましたが、既に建物全体が覆われ、改築工事入っており、あの設備はおそらくもう廃棄されてしまったでしょう。このお話は次回に。

大阪レトロビルで発見!須賀工業のTSマーク

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 須賀敦子さんの父須賀豊治郎氏が社長を務めた須賀工業のTSマーク。新社長は3代目豊治郎を襲名されなかったのですが、ご子息にはイニシャルがT.S.となるよう名付けられたそうです。 そのTSマークは現在も大阪のレトロな建物に残されていました。 それは大阪農林会館。オフィシャルサイトには、「1930年イギリスの建築家ジョサイア・コンドル氏の建築思想を受け継いで設計された」とあり、歴史には<三菱商事大阪支店として三菱地所が設計し、建築される。三菱地所に籍をおいて活躍した建築家ジョサイア・コンドル氏はじめ、曽根達蔵、真水英夫、保岡勝也、桜井小太郎、など多くの有名建築家を育て上げた作品のひとつである。>と記されています。http://www.osaka-norin.com/ 大阪農林会館は地下鉄心斎橋駅から徒歩で約5分。早速行ってみました。一歩中に入ると、そこはレトロな異空間。今も種々のテナントが入っており、落ち着いた雰囲気です。 TSマークはこの建物のEUROCASAの玄関のすぐ左手にある送水口についているのです。送水口の真ん中にはっきりTSマークが読み取れます。 ところで同様な須賀工業製の送水口はヴォーリズの心斎橋大丸にあったそうですが、時すでに遅し、行ってみると改築中でした。改装が終わった時には、隣の新館にみられるような最新の送水口に変わっていることでしょう。

池田町の洋風住宅街(秋月達郎『伝道師の形見』より)

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 近江八幡のウォーターハウス記念館を訪ねました。 池田町の洋風住宅街について、秋月達郎『伝道師の形見』では、次のように由来が述べられています。<両親をつれたヴォーリズが近江八幡に戻ったのは、大正三年三月二十九日のこと。すでに池田町にはヴォーリズと悦蔵の新居となる西洋館が二棟、竣工していた。> 土地の広さは一千坪、支援者であるツッカー女史より贈られた寄付金をもとにしたそうです。<もっとも、池田町は神の国というよりは神の国のモデル地区とでもいうべきところで、敷地内にはヴォーリズ邸と吉田邸にくわえてウォーターハウス邸も建てられた。> 建設当時の近江ミッション住宅の写真がありました。右側北よりヴォーリズ邸、ウォーターハウス邸、吉田邸の3棟が並んでいますが、現在はヴォーリズ邸はありません。現在の旧ウォーターハウス邸、左奥に旧吉田邸が見えます。現在の旧吉田邸。<周囲には赤い煉瓦の壁を建てたが、決して高くはせず、ひょいと覗きこめる程度のものにした。近江に住むひとびとに理想的な暮らしを見てほしいという希望からだった。また、おのおの屋敷の正面には庭園を整備し、テニスコートも設けた。町のひとびとは仰天した。 黒々とした和風家屋しかなかった片田舎に、突如として「アメリカ」が出現したのだから驚かない方がおかしい。だが、ふしぎなもので、しばらくするとこの緑繁る池田町の住宅は近江の景観に融けこみ、町のひとびとも奇異にはおもわぬようになった。>突如池田町に現れたアメリカです。 ウォーターハウス記念館に模型が展示されていました。反射して見えにくいですが、一番奥にダブルハウスと呼ばれた建物が見えます。 そのダブルハウスについて、『伝道師の形見』では次のように紹介されています。<ちなみにヴォーリズの両親ジョンとジュリアはしばらくヴォーリズ邸に住んでいたが、ほどなくヴォーリズの結婚が決まったことで、そうもいかなくなった。そこで大正九年には二家族用の洋式長屋(テラスハウス)ともいうべき「ダブルハウス」が計画され、翌年十月の竣工とともにそちらへ移り住んでいる。 ダブルハウスはその後もさまざまな入居者を得た。ヴォーリズの両親だけでなく、アメリカ人の教師らも住み、昭和十三年には「近江セールズ」の佐藤安太郎と諸川稔が入った。そして現在に至っている。>現在もダブルハウスはしっかり残っており、住居として使われていました。

杉原千畝「命のビザ」と神戸

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昨年12 月に封切られた映画『杉原千畝 スギハラチウネ』がもうDVDレンタルされていました。 リトアニアの首都カナウスの旧日本総領事館でのロケなどにより、素晴らしい作品に仕上がっています。昭和14年のカウナスの風景。日本総領事館。領事館の前でビザの発給を求めて立つ人々。カウナスには実際に杉原千畝がビザ発給を行っていた日本総領事館が杉原記念館として保存されていて、ビザを書き続けた机などが展示されています。 映画では敦賀上陸以降のシーンは出てきませんが、ユダヤ人難民たちは、上陸後日本で唯一のユダヤ人組織「神戸ユダヤ人協会」のある神戸を目指しました。そして、しばらく神戸で過ごした後、それぞれ神戸や横浜から安住の地を目指して船出したのです。 その中の一人、当時8歳だったユダヤ人で、現在はシカゴマーカンタイルのメラメド名誉会長の話が、手嶋隆一氏が『スギハラダラー』を表すきっかけとなったのです。http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061501/p11215843c.html「朝日新聞の秘蔵写真が語る戦争」では、次のように説明されています。<神戸では、戦前からロシア系や中東系のユダヤ人数百人のコミュニティーがあり、ナチスに追われて日本にたどりついたユダヤ難民を受け入れた。40年夏からは在リトアニア日本領事館の杉原千畝から日本の通過ビザを受けた数千人のポーランド系ユダヤ難民が、ソ連・ウラジオストクから福井県・敦賀を経て、神戸に押し寄せた。41年12月の太平洋戦争開戦までに、神戸に滞在したユダヤ難民は計約4600人に上る。今は「異人館通り」で知られる北野・山本通に拠点を構えていた神戸ユダヤ協会が、同胞たちに宿舎や滞在費を提供した。> またメラメド名誉会長は当時の神戸の人々が親切だったことや、パンがおいしかったことを述べられており、手塚治虫の『アドルフに告ぐ』に描かれたシーンにもつながります。野坂昭如の『火垂るの墓』にも昭和15年ごろのユダヤ人難民のことが書かれていました。<最後までケーキを出していたのは三宮のユーハイム、半年前にこれで店閉まいだからと、デコレーションケーキをつくり、母がひとつ買って来た、あすこの主人はユダヤ人で、ユダヤ人といえば昭和十五年頃、清太が算術なろうとった篠原の近くの赤屋敷に、ようけユダヤの難民が来て、みな若いのに鬚を生やし、午後四時になると風呂屋へ行列つくって行く、夏やというのに厚いオーバー着て、靴かて両方左のんをはいて、びっこひいとんのがおった、あれどないしてんやろ、>杉原千畝の命のビザが、野坂昭如の『火垂るの墓』にまでつながるとは思いもよりませんでした。

近江八幡の市民が甦らせた八幡掘(秋月達郎『伝道師の形見』より)

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『伝道師の形見』では、市役所の市民課に勤める沢美智代が主人公竹之内潤一郎を案内してヴォーリズの設計した建物をまわります。 途中、二人は八幡掘りのすぐ脇にある「茶房・浜ぐら」という喫茶店に立ち寄った後、八幡掘に沿って歩きます。<そうそう、このお堀のこと、お話しなくちゃいけません。ここ、いまはこんなに綺麗ですけど、むかしはものすごく汚くて、荒れ果ててたんですよ。こんなに立派になっちゃってからは想像もできないことなんですけどね、草が茫々に生えてて、ヘドロの異臭もして、どうしようもなくて、完全に見捨てられてたんです。死せる八幡掘、とかいわれて……。それが、ここまで綺麗に甦ったんですよ。」>そんなにひどいお堀になっていたとは現在の風景からは想像もできません。<「八幡掘を守る会っていう環境ボランティアのひとたちが頑張ったんです。そもそも琵琶湖の水位が低下したことで水の還流しない運河になってたんですね。それで、昭和四十年代には埋め立ての計画まで具体化されてきたんだそうです。あたしの生まれる前の話ですから詳しくは知らないんですけど、でも、それじゃいけないって声をあげたひとたちがいて......」「住民運動が始まったんですか……?」>この堀を埋め立てる計画まであったなんて。<結局、二十年くらい前から本格的に整備と浄化が始められたんですよ。三百人のボランティアのひとたちが汗水ながして頑張ったんです。四百年前に秀次が造ったものを、いまの近江八幡の市民が自分たちのちからで甦らせたなんて、凄いことだって正直、おもいます。>八幡掘りを守る会は現在も活動を継続されているそうです。http://hachianbori.shiga-saku.net/その御かげで、今も近江商人の町、ヴォーリズの町を訪れる人は絶えません。

稲畑邸の応接間が芦屋教会の始まり

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 先日河内厚郎氏と稲畑邸に伺い、応接間でお話を伺う機会に恵まれました。  立派な洋館ですから、当然のごとく占領軍に接収されたようで、稲畑家はカトリック教徒であったため、教会として使われていたそうです。 占領軍接収地図(神戸市文書館所蔵)を見ますと、芦屋川下流では三つのお屋敷が接収されており、その一邸が稲畑邸だったのでしょう。 応接間の暖炉の上に祭壇が置かれ、日曜日にはミサが行われていたとのこと。 その後、芦屋教会が1945年に設立され、翌年には献堂式が行われて、カトリックの教会として正式に発足したそうです。 そういえば、聖心女子大でも戦後の創立当初は、クニハウスの建物を靴で出入りできるように床にリノリュームを張り、謁見の間は聖堂として使用されていたそうです。 おそらく稲畑邸と同様に、暖炉の上に祭壇が置かれていたのでしょう。 高浜虚子のお孫さんで、現在も「ホトトギス」名誉主宰を務められる稲畑汀子さんは、その頃、まだ小林聖心の寄宿舎にいて、偶然、聖歌隊として稲畑邸を訪問されたそうで、当時はまさかお嫁に来るなんて夢にも思っていなかったと話されていました。  

「ブスケ神父像」と「阪神間文学に見る 大戦下の街と暮らし」の展示

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7月16日(土)~8月15日(月)まで、芦屋市民センター 3階展示場で「阪神間文学に見る 大戦下の街と暮らし」をテーマとした展示を行います。 軍需工場が立ち並んでいた阪神間は太平洋戦争末期の空襲で大きな被害を受け、終戦の年を阪神間で過ごした野坂昭如、小松左京、須賀敦子、遠藤周作たちは、当時の体験を作品の中に残しています。 また手塚治虫は『アドルフに告ぐ』で、戦時下の神戸の街並みや、野坂昭之の出征シーンを描いています。 このように多くの作家が描いた戦時下の阪神間の街と暮らしを作品から抜粋し、現地の写真とともに紹介します。 野坂昭如は、戦時中も開いていた夙川の喫茶店パボーニの大石輝一画伯から、カトリック夙川教会のブスケ神父は戦後生還したと聞いていましたが、事実は、昭和18年憲兵に連行され帰らぬ人となっていたのです。 この悲劇は教会関係者の間でも長年、内密にされ、神父の死から18年後のある日、画伯は神父の悲劇を知り、その年のクリスマスに、神父の肖像画を描いて同教会に寄贈、約35年ぶりに約束を果たしたのです。今回は、その肖像画も展示いたします。(入場無料)その肖像画の裏書です。「神父シルベン・ブスケ氏の霊に捧ぐ 昭和元年一月十日の夜 貴君の部屋でペチカを囲んで御約束した神父さんの肖像画が 立派ではありませんが描けました 御笑納下さい 昭和三十六年十二月Xマスの日」7月29日(金)13時~14時 展示品の解説を会場にて行います更にギャラリーレクチャーとして、8月6日(土)午後2時~午後3時、芦屋市民センター203室で「ブスケ神父と大石輝一画伯の友情」と題して、ブスケ神父の肖像画を保管されている五島真理為様に講演いただきます。(入場無料 定員60名 先着順に受付)

三田アートガーデンに今なお残るブスケ神父の記念像

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 夙川パボー二の大石画伯は、晩年三田にアートガーデンの創設に打ちこみました。 アートガーデンは三田市の公園施設「淡路風車の丘」のすぐ近くにあり、現在は三田ユニヴァーサルヴィレッジとなっているようです。https://sandauniversalvillage.wordpress.com/about/ 建築家毛綱モン太氏が雑誌「建築」1973年5月号「奇館異感」に、異形の建築として三田アートガーデンを次のように紹介しています。<大石画伯なる人物、世に迎合することなく、画壇におもねることもなく、古希いくばくか過ぎるに、「アート・ガーデン」なるものを建造せり、画伯建設途上にて冥界の人となりしため口惜しき事態なり。五尺ほどのちいさきめの体格、老いに勝てぬ皺と白髪。質素な作業服姿で、レンガ・ブロック、小割の丹波石持ち運び添喰などぬりながらの社会への苦言、芸術界教育界を叱咤する容、ゴッホこよなく敬愛せし和製炎の人の風情あり。> 大石輝一は1965年夙川カトリック教会の殉教の神父を偲び「シルベン・ブスケ師の記念像」を製作・建立しました。現在も残されているブスケ神父像。ブスケ神父の像の除幕式が盛大に行われた時の写真も残されていました。 先日、夙川カトリック教会の信徒でもある五島真理為さんから伺った話では、現在もパリミッション会から日本に就く神父さんはアートガーデンを訪ねるよう勧められ、来られているそうです。しかし、年月と共に少しづつ朽ちており、修復して、夙川カトリック教会に移設していただければと願っております。8月6日(土)午後2時~3時「ブスケ神父と大石輝一画伯の友情」と題した五島真理為さんの講演が開催されます。場所;芦屋市民センター203室 参加費無料 定員60名です。問い合わせ先 芦屋市民センター公民館 TEL 0797-35-0700

有栖川有栖『幻坂』から浪花百景に描かれた真言坂を歩く

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 有栖川有栖『幻坂』の「真言坂」からです。<坂の下には真言坂の碑。こんなに短くて何でもない坂に碑を建てるとは大袈裟な、と思う人がいそうです。> 天王寺七坂の中では、ほかの六つの坂が東西方向なのに、真言坂だけは南北方向。 マンションの灰色の壁に囲まれ、ごく短くて、七坂のひとつと数えるのは分不相応な感がありますが、主人公と結婚するはずだったフリーランスのライター「あなた」が携えていた資料を見せます。<一つは『浪花百景』、もう一つは『摂津名所図会大成』から抜き出した二葉の古い図版でした。前者のそれの中央には、幅が五十メートルもあろうかという大路から石垣を備えた高台に伸びる石段が描かれています。道の両側には商家があり、高台の上には枝ぶりのいい松と大きな石灯籠、そして寺社らしきものが見える。後者はそれを斜め上方から鳥瞰した図で、やはり描かれている石段は巨大なままでした。―江戸時代の真言坂や。誇張がしてあって、今とはだいぶ地形も違うみたいやけどまぎれもなくここ。立派な坂としか言いようがないやろ。 失われ、見られなくなったことを惜しまずにはいられない風景でした。>現在は真言坂を上ると、鳥居の前に少しだけ石段があります。昔はこの石段が下まで続いていたのでしょうか。誇張されているとはいえ、江戸時代にはあんな風景があったなんて。

有栖川有栖『幻坂』から生國魂神社を歩く

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 有栖川有栖『幻坂』の「真言坂」からです。<知らずに迷い込んだのなら、一瞬、緑に包まれた閑静な公園かと思うことでしょう。芝生の中に石畳の道が延びて、その片側に十ばかりベンチがほとんど隙間なく並んでいます。木立の中には遊歩道が。しかし、南側の生國魂神社本殿に続く鳥居や背の高い石灯籠が目に留まり、ここが神域であることが判ります。> 北門の鳥居をくぐって中に入ると、確かに公園と見まがうような緑に包まれた境内です。 ゆかりのオダサクの像の向こうに石畳の道と隙間なく並んだベンチが見えています。<ここから見て一番奥、右端にあるのが浄瑠璃神社、そこから左へ順に家造祖(やづくりおおみや)神社、鞴(ふいご)神社、城方向八幡宮(きたむきはちまんぐう)。あなたは資料も見ずに言いました。>正面が鞴神社です。<―ここはお気に入りの場所なんで、何べんも来てるうちに覚えたんや。なかなか面白い眺めやろ。まるでラーメン横丁か古書店街みたいに神さんが並んでいる。しかも、どの佇まいも美しい。さすがは難波大社と呼ばれる生玉さんだけある。> たしかにこんなに沢山神社が並んでいると、どこにお参りしようか、神社参りのはしごをしようかと迷ってしまいます。<いつもどこか一社を選んでお参りするので、今日は奥の浄瑠璃神社で手を合わせました。近松門左衛門を始めとする文楽関係の御霊をお祀りした神社で、芸能上達の神様なのでわたしには関係がないのですけれども。>一番奥の文楽関係の御霊をお祀りしている浄瑠璃神社です。<それからきた道を戻り、中ほどのベンチに腰を降ろしてハンカチを取り出し、額にわずかに滲んだ汗を拭きます。>主人公が休んだのは、このベンチのことでしょう。目の前には精鎮社と、左手に積み上げられた滝組の間からせせらぎが流れ落ちています。境内には織田作之助の銅像や、井原西鶴の座像などがあり、文芸の話題にはことかかない、珍しい神社でした。

西宮文学案内第3回は「岩谷時子・生誕百年 西宮が生んだ大作詞家」

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 7月17日(日)西宮市勤労会館で今年第3回目の西宮文学案内が開催されました。テーマは「岩谷時子・生誕百年 西宮が生んだ大作詞家」。 司会進行はラジオパーソナリティとしてご活躍の増井孝子さん、講師は文化プロデューサーの河内厚郎氏です。 岩谷時子は1916年京城府生まれ、5歳で西宮に移住し、水抜小学校、安井小学校、市立西宮高等女学校、神戸女学院大学卒業後、宝塚歌劇団出版部に入社、その後長く越路吹雪のマネージャーを務めます。岩谷時子が通った市立西宮高等女学校は昭和11年の吉田初三郎の西宮市鳥瞰図にはっきり描かれています。 増井孝子さんの司会進行により、岩谷時子の作詞による曲をはさみながら、河内厚郎氏の岩谷時子と彼女につながる人々について楽しい話が繰り広げられました。会場に流れた曲は「ふりむかないで」(ザ・ピーナッツ)「夜明けのうた」(岸洋子)「逢いたくて逢いたくて」(園まり)「ほんきかしら」(島倉千代子)「夢見るシャンソン人形」(弘田三枝子)いずれも懐かしく、いい曲ばかり。さすが大作詞家です。 グラフ西宮1968年には「思い出の町よ」と題して寄稿され、そこで<まだ夙川を蛍が飛び交い、川の流れにめだかが泳いでいた、美しい抒情的な西宮の風物が、幼かった私のこころに根をおろし、後年、作詞家となる運命に、みちびいたのではなかろうかと、今でも思うことがある。>と述べられています。 それほど西宮を愛した大作曲家岩谷時子さんなのに、彼女を顕彰すようなものが何も西宮にないのが残念です。

白羽弥仁監督の映画「She’s Rain」に登場した豪邸が実在していた

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 白羽弥仁監督の1993年に公開された映画「She's Rain」は、平中悠一の同名小説(1985年度文藝賞受賞作)の映画化作品。震災前の芦屋・夙川の風景が残された貴重な映像的価値もあります。 主人公ユ-イチの友人のタカノブがユウコに一目惚れをし、自宅豪邸でのパーティーで告白するのですが、そのびっくりするような豪邸の場所を探していました。 まるで華麗なるギャツビーにでも出てきそうな、プールのある豪邸、実在するのでしょうか。 するとZ探偵団さんからコメントいただき、甲陽園の山の上にあるとのこと。早速訪ねてみました。甲陽園駅を降り、アンネのバラの教会から更に登っていきます。このライオン像が目印。相当上ったところで、見つけたライオン像。ロケのためのセットではなく、実在していました。でも今は空き家のようにみえましたが。他にも多くの懐かしいシーンがでてきます.芦屋のイカリスーパー。いかりや壁の色は変わっていますが、現在もこの風景は変わりません。でもこの陸橋は消えてしまったようです。 色々懐かしいシーンの出てくる「She’s Rain」ラッキーなことに白羽弥仁監督に秋季西宮文学案内で映像と共に講演いただくことになりました。楽しみにしています。

メルシェ神父の獄中記―1945年逮捕拘留から釈放まで-が公開

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 夙川カトリック教会のメルシェ神父は1937年から1952年まで第3代主任司祭を務められました。 遠藤周作の小説『影法師』に登場する阪神の小さな教会とは夙川カトリック教会を、フランス人の司祭とはメルシェ神父をモデルにしたようです。<この河を時折ふりかえる時、どうしても、僕が洗礼を受けさせられたあの阪神の小さな教会が心に浮かぶ。今でもそのままに残っている小さな小さなカトリック教会。贋ゴシックの尖塔と金色の十字架と夾竹桃の木のある庭。あれはあなたもご存知のように僕の母がその烈しい性格のため父と別れて僕をつれて満州大連から帰国し、彼女の姉をたよって阪神に住んだ頃です。その姉が熱心な信者でしたし、母は孤独な心を姉の奨めるままに信仰で癒しはじめていました。そして僕も必然的に伯母や母につれられて、その教会に出かけたのでした。フランス人の司祭が一人、その教会をあずかっていました。やがて戦争が烈しくなるとこのピレネー生まれの司祭はある日、踏みこんできた二人の憲兵に連れていかれました。スパイの嫌疑を受けたのです。> 遠藤周作は『落第坊主の履歴書』で、メルシェ神父は拘留中のことは生涯、口にださなかったと述べています。<あまり悪い子なので私は教会の主任司祭、メルシェ神父から大目玉をくった。メルシェ神父はフランス人で実に立派な人だった。戦争中、彼は何もしないのにスパイの嫌疑をかけられて憲兵隊に連れて行かれた。.........戦争が終わって神父さんは痩せこけ、足を引きずりながら戻ってきた。教会における私の幼なじみたちの話によると、彼は、「日本人のことを私は恨んでいません」と最初のミサでひとこと言ったきり、生涯、このいやな過去のことを二度と口にださなかった。彼が亡くなる一年前、幼友達が私を夙川のレストランに招いてくれたが、老いたメルシェさんも顔を出してくれた。顔色がよくなく、辛そうだった。抑留中に体をすっかり痛めたのであろう。> またエッセイ「昭和―思い出のひとつ」でも、<私が洗礼を受けた阪神夙川の教会にメルシェという仏蘭西人の神父がいた。彼はいかにも仏蘭西の田舎出の司祭という純朴さを持ち合わせていたが、確実な根拠もないのにスパイだといわれ、憲兵隊に引張られた。 終戦まで彼が受けた拷問はすさまじいものだったらしく、戦争が終わって教会に戻ってきた時は骸骨のようにやせ、体中、皮膚炎になっていた。しかし彼は戻ってきて最初の日曜のミサの時、集まった信者たちに、「わたくしは日本人を恨んでいませんから」とひとこと言ったきり、この二年前に死ぬまで四十年のあいだ一言も当時の思い出を口に出さなかった。>と繰り返し述べています。 拷問を受けかなり体を痛めらたメルシェ神父ですが、当時夙川カトリック教会に通っていた稲畑汀子様、北村良子様からも、拘留中のことは一切口にされなかったと、先日の鼎談でお聞きしました。 しかし、メルシェ神父は終戦の翌年、パリミッション会総長の命を受けて部外秘とすることを条件に作成した獄中記が存在していました。その獄中記が、神父の帰天から30年以上たって、もはや秘密扱いする必要はなくなったとして、2012年12月に発行された「夙川 建堂80周年記念誌」で公開されていたのです。 戦時中、フランス国籍であったためスパイ容疑で憲兵隊に監視され、ついに1945年5月逮捕、拘留され、終戦までの100日間厳しい取り調べと拷問を受けます。8月16日に解放されたときは、皮膚がただれて歩行もできない状態で、教会近くの信徒宅に引き取られ40日間の養生の後、教会に復帰します。 そして獄中で受けた虐待や拷問については亡くなるまで口外しなかったのです。 獄中記は深い感動を呼ぶ記録となっています。最後の部分を少し紹介させていただきます。<日本人がこのように残虐なことをできるということが信じられませんでした。しかしこれは一つの例外でしょう。私の収監に関して、「長期にわたり繰り返された拷問」という観点からのみ語る人々がいます。確かに私は拷問を受けました。しかし苦しみには良い面もあるのです。私はこの100日間に起きたすべてのことの中で、これだけ多くの人たちが私に心配と共感を寄せてくれたということの方が、軍国主義精神によって心のバランスを崩した野卑な伍長の残虐さよりも、思い出として残っています。>メルシェ神父はなんと立派な神父様だったのでしょう。
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