Quantcast
Channel: 阪急沿線文学散歩
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2518

阪神大水害の時、神戸のドイツ人学校は何処にあったか?

$
0
0
谷崎潤一郎『細雪』で、昭和13年7月5日の阪神大水害の日に、お隣に住むドイツ人一家の子供たちもドイツ人学校へ行っていて心配する場面があります。<「わたしの旦那さん、ペータァとルミーを迎えに神戸へ行きました。大変心配です」シュトルツ氏の三人の子供たちのうち、フリッツはまだ幼いので学校へ行っていなかったが、ペータァとローゼマリーは神戸の山手にある独逸人倶楽部付属の独逸小学校へ通っていた。> これはほぼ実際に起こった出来事を、谷崎潤一郎が小説に著わしたもので、倚松庵の隣に住むシュトルツ家の実名はシュルンボム家で、妻の名はフリーデル・シュルンボム、子供たちの名は本名が使われています。写真は『細雪』のシュトルツ家のモデルとなった母フリーデル、長男ペータア、長女ローゼマリー、次男フリッツ(就学前)の4人です。この二人が独逸人倶楽部付属の独逸小学校へ通っていたのです。 手塚治虫『アドルフに告ぐ』でも阪神大水害が描かれており、アドルフ・カウフマンが学校に出かける場面があります。 ところがアドルフが通っていた小学校は神戸キリスト教学校となっているのです。 おそらく、この学校は北野町にあり1893年に日本で最初に創立されたインターナショナルスクールの一校であるイングリッシュ・ミッションスクールのことでしょう。場所は元・神戸市立北野小学校を利用した「北野工房のまち」の南隣にありましたが、現在は聖ミカエルインターナショナルスクールとして存続しています。 しかし、ドイツ大使館員の息子であったアドルフが通うのは本来ならドイツ人学校で、手塚治虫はその存在を知らなかったのかもしれません。 阪神大水害が発生した昭和13年に、ドイツ人学校はどこにあったのか知りたくなり、調べてみると、ドイツ人学校についての小冊子を見つけました。 ドイツ居留民の増加に対応して、1909年山本通2丁目97に最初のドイツ人学校が設立されます。その後、何故か転々と場所を変えており、1912-1920 山本通2丁目77b1920-1921 ドイツ領事館内1922-1927 北野町2丁目561928 山本通2丁目30これはドイツ人倶楽部のクラブ・コンコルディア内に作られました。ケーゲル場(ボーリングに似た競技)の上のクラブハウスが教室にあてられたそうで、ようやく自前の教室を持てたそうです。 小冊子のドイツ人学校の紹介はここで終わていましたので、昭和13年もクラブコンコルディア内にあったと思っていたのですが、最近NEKONQUISTAさんから頂いたオットー・レファート原著『神戸のドイツ人 -旧き神戸への回想―』を読んでいると、その後も場所を移っていることがわかりました。<1927年に「クラブ・コンコルディア」の新しい建物が建設された時、その一翼に学校も建てることをクラブと合意していたので、やっと自前の教室を持つに至った。しかし、間もなくここも手狭になると予想して、1936年北野町3丁目に土地を取得し、立派な近代的校舎を建てた。-1945年6月5日学校は爆撃で破壊された。>地図の赤く丸で囲んだあたりが、北野町3丁目です。阪神大水害時に、ドイツ人学校はこのあたりにあったのです。そのドイツ人学校も神戸大空襲で破壊されてしまいました。現在は六甲アイランドに移り、神戸ドイツ学院ヨーロピアンスクールとして存続しています。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 2518

Latest Images

Trending Articles



Latest Images