須賀さんが都立中央図書館で読まれた「人間のしるし」をついに発見
「クレールという女」からです。<戦争が済んで、大学を終えたとき、私だけが家族を離れて、公園に近い崖の上の家に戻った。父にたのんで、彼が仕事に使っていた建物の一部屋をもらい、そこから歩いて三十分ほどの距離にある私大の大学院に通っていた。>とあります。 須賀さんは昭和27年聖心女子大卒業後、学生寮から麻布の家に戻り、入学した三田の慶応義塾まで、仙台坂を下り、ニ之橋を渡って通っていたそうです。...
View Article都立中央図書館から光林寺坂へ 須賀敦子「クレールという女」
「クレールという女」から続けます。<ひろびろとした図書館のガラスの窓から見える夕空に、うすいピンクの雲が西から東に走っていった。,,,,,,,,,暮れきらないうちに、昔仲間たちが集まった家のあたりまで、歩いてみよう。そう決めると、いそいで本を司書係にもどし、外に出た。> 今の建物にも大きなガラス窓がありますが、私も本をお返しして、外に出ます。 南部坂上の門に続く公園内の道です。...
View Article須賀敦子「父の鴎外」と森鴎外記念館「150年目の鴎外」
須賀さんの父上、豊治郎が日本文学の作家の中で、最も高く評価していたのは森鴎外でなかったでしょうか。「父の鴎外」は次のように始まります。<このごろの若い人は本を読まないといって私たちは悲しんだり目を三角にしたりするけれど、よく考えてみると、いまもし亡くなった父が現れて、たとえば今月読んだ本について訊ねられるようなことがあったら、きっと彼はあきれ顔で溜息をついて言うだろう。情けないなあ。そんなものしか読...
View Article須賀さんの「赤い表紙のBIRTHDAY BOOK」
いよいよ「しげちゃんの昇天」で始まった「遠い朝の本たち」の最後のエッセイとなる「赤い表紙の小さな本」のご紹介です。 須賀さんは仕事の準備がてら本棚の整理をしていて、そんなところに入れたはずのない赤い小さな本を見つけます。<はがきよりひとまわり小型のサイズで、マーガレットもどきの小花を茶色い髪いちめんに挿した色白で目の大きい女の子の絵が片隅に貼ってあって、………BIRTHDAY BOOKとある。>...
View Article親友しいべの思い出 須賀敦子「赤い表紙の小さな本」から
須賀さんは昭和18年、東京空襲があるという情報のため、西宮市殿山町の実家に家族とともに戻り、妹の良子さんと共に小林聖心女子学院に、弟の新さんは夙川小学校にそれぞれ編入されます。そこで、小学部二年まで同級だった高木重子さんに再会したのです。...
View Article大正時代は札幌より人口の多かった小樽の歴史的建造物探訪
須賀さんの「遠い朝の本たち」を読んで、小樽の海を見に行きたいとずっと思っていたのですが、札幌に用があり、観光シーズン最後の10月末に少し足を伸ばし小樽まで行って参りました。...
View Article「遠い朝の本たち」の散策を終えて
ようやく須賀敦子「遠い朝の本たち」の散策を終えました。 このエッセイ集は「しげちゃんんの昇天」に始まり、「赤い表紙の小さな本」で終りますが、底辺に流れているのは、須賀さんと小林聖心女子学院高等部時代から対等に本の話をできた親友で修道女になられた高木重子さんの思い出でした。...
View Article「日本橋魚河岸と文化学院の思い出」
遠藤周作の年譜で、講師をしていたことから知った西村伊作の文化学院、いつか訪ねようと思っていましたが、須賀さんの菅野昭正氏との対談に文化学院のお話がでてきました。...
View Articleこんな人物が本当にいたのか「西村伊作」
どうも失礼な表題で私の無知を表すものですが、ご容赦下さい。 学校で習うことなどなかった文化学院の創立者西村伊作は、大正、昭和を代表する、建築家、画家、陶芸家、詩人、生活文化研究家と多彩な才能を持った人物です。どうしてこのような人が明治時代の日本に生まれ育てられたのか不思議でした。...
View Article西村伊作の「楽しき住家」と倉敷教会
自由主義教育で有名な文化学院の創設者として知られる西村伊作は今までにない発想をもつ設計者として、大正から昭和にかけて自由闊達に、鮮烈に生きた人物でした。 その自由な考え方は暮らしそのものにも及び、文化的に住まうライフスタイルを伝えようとしました。...
View Article「おとぎの城」と謳われた西村伊作の保育園
20世紀初頭,繊維産業の急速な発展が倉敷にも及び,女性労働者の急増とともに育児環境や子供の発達への影響が悪化し始めます。「女工哀史」に著されたような社会問題を解決するために、大原孫三郎は理想主義的社会の実現を目指して、私財を投じて事業を展開します。その一環でしょうが、大正14年に孫三郎は敷地を寄付し、倉敷紡績からも施設無償貸与という形で「若竹の園」保育園がつくられました。場所は美観地区の倉敷川から通...
View Article紅葉の日本民家園へ
西村伊作は徹底した西欧様式の生活を実践し、建築様式も西欧様式でしたが、民家を発想の原点とし、西洋のものに留まらず、旅行をするときは必ず写真機を持って行き、日本各地の古い民家を撮って研究したそうです。...
View Article中井久夫「阪神間の文化と須賀敦子}
私が初めて表題のエッセイを読んだのは、中井久夫氏のエッセイ集「時のしずく」でしたが、オリジナルは「須賀敦子全集第4巻」の最後に書かれた解説でした。...
View Article鋭いご指摘をいただきました南郷山の解釈について
中井久夫「阪神間の文化と須賀敦子」の記事について、ふくさまより大変厳しいご指摘をいただきました。コメント欄だけでは回答が難しく、新たな記事として、私の解釈を回答させていただきます。ふくさまのご指摘は「現南郷町はニテコ池の谷の西側部分だけですので、西側の尾根が南郷山というのかと思っておりました。南郷山公園がありますが、その延長線上のつきあたりあたりに、南郷山の石碑があります。西田町の山は谷の東側ですが...
View Article夙川の街の風景「阪神間の文化と須賀敦子」より
中井久夫「阪神間の文化と須賀敦子」から続けます。<夙川は昭和初期の計画都市である。かつては、松林をできるだけ屋敷内に残すという条件で土地が売られたのであろう、高い松の木がほとんどどの家からも聳えていた。植木職人が剪定を重ねて横に伸びる枝が切られ自然な樹形を失ってひょろ長い松の木たちだったが、街をうっすらと松林がおおっていた。>...
View Article中井久夫氏がこの街の宝石と紹介した夙川の小さなカトリック教会
「阪神間の文化と須賀敦子」から更に続けます。<もし、夙川で下車せず、そのまま神戸に向かうならば、電車は切り通しをなおまっすぐ西に向かう。草の繁る切り通しの上、線路の両側の道は桜並木であり、時に松の老樹を交える。その両側が夙川の街である。両側を結ぶ跨線橋「雲井橋」の南側に金色の十字架とそれを支える金色の尖塔が一瞬見えるだろう。この尖塔の近くに、須賀さんが精道村(芦屋市)から六歳の時に引っ越して来られた...
View Article須賀さんの阪神間のテリトリーとは
夙川から阪急神戸線で更に西にむかいます。<電車は丘を一つ越し、細い宮川の谷を渡るころには、右手に六甲山の南東尾根がぐっと近づいてくる。今は整備された住宅地になっている宮川の谷に沿う道は、当時から六麓荘に登る舗装道路だった。芦屋の住宅街はその右岸から始まっていた。>須賀さんが6歳で殿山町に引っ越すまで、すぐ近くの芦屋市精道村(現在の翠ヶ丘)に住まれていました。...
View Article西宮市出身だった松本清張「黒い福音」のスチュワーデス生田世津子さん
「黒い福音」という小説があることを、ふくさまに紹介いただき、早速読んでみました。とても面白かったのですが、大変な問題を題材にしており、とても記事にできないと思っていました。 このお話、もちろん小説ですから事実とは異なります。そこで、もとになったBOACスチュワーデス殺人事件を調べると、インターネットでは多くの記事が書かれており、Wikipediaにもありました。...
View Article松本清張「黒い福音」を歩く(その1)
小説と事実が混乱してしまいますが。個人名はあえて小説中の名前を使わせていただきます。 被害者生田さんは西宮市に住まれ、某女子学院を卒業後上京します。新宿区の聖母病院看護養成所を昭和28年卒業、いったん帰って病院で看護士をしていましたが、ふたたび上京し、中野区鷺宮の乳児院オデリヤホームに勤めていました。この聖オディリアホームは社会福祉法人として今も存続しています。...
View Article松本清張「黒い福音」を歩く(その2)
事件は昭和33年3月10日朝、杉並区大宮町の善福寺川にBOACスチュワーデス生田さんの遺体の発見から始まります。小説の地図では玄伯寺川とされていますが、善福寺川のことです。 事件現場の近くに地図では八幡社と書かれている、大宮八幡宮があります。 昔の大宮八幡宮の参道に、「鞍掛けの松」という松の木がありました。...
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